日蓮仏法入門

牧口先生「まず大目的を確立せよ」







女性に贈ることば365日より

1000m競争のついでに100mの競争はできるが、100m競争のついでに1000m競争はできない。

大目的が確立してこそ、中目的、小目的が明確になり、その方法も生まれる





われわれ法華衆の立場からすると、大目的は広宣流布です。

そこから逆算して、組織の活動方針とか、個人の目標が定まっていきます。

仕事を選ぶにしても、

「これが自分の使命なのか? 折伏につながるか?」

それを常に問いかけ続けることです。

今の五輪にしても、過去最悪ペースの感染爆発の中で強行されます。国民は観戦するどころか、都内への移動さえ自粛を求められています。もはや何のためにやるのか、誰も理解できず説明できない状況です。

大目的を忘れた努力は、漂流にすぎないのです。



池田先生「母の最期の言葉」

女性に贈ることば365日より

母の最後の言葉は「私の人生は勝ったよ」だった。




「勝った」と言い切って人生を終えられるのが、成仏の具体的なかたちだと言えるでしょう。

もちろんこの場合の勝利とは、修羅界の低次元な勝ち負けを指しているのではありません。

「魔に勝った」という意味合いで受け止めるべきです。

次々と魔が生じるのは、あなたが仏である、唯一にして最高の証です。

「これは宿命だから仕方がない」と諦めてしまうのは、魔に敗れた姿です。

地涌の菩薩である以上、誰もが最高の成仏の条件を備えて生まれてきたはずです。

それを信じて疑わず、南無妙法蓮華経を貫くことが、そのまま勝利の人生となるのです。

戸田先生「報告を鵜吞みにするな」

師弟の大城より

「報告が戦いだ」

「インチキな報告をしたら許さない」

(情報自体が間違っていることもありますが)「そうだな。しかし『におい』をかぐことができる。それで真実が分かることもある」






いうまでもなく、インチキな報告は将の判断を狂わせてしまいます。

特に、選挙のF数などは、自己申告頼りであり、データとして全く意味を成していません。

とりわけ折伏や新聞啓もうで全く結果を出していないのに、Fだけ山ほど報告する幹部は要注意です。そもそも報告自体ウソの可能性が高いし、そうでなくても票になるFではないでしょう。

大坂の戦いで出た370%は別格として、大勝利と言われる戦いでも、せいぜい内票の300%くらいです。

つまり、バリバリの活動家であっても、取れる外票は1ケタが精いっぱいです。1人で10票20票取れるほど甘いものではないのです。

こうした「ニセ人材」が役職を上がっていけば、組織は破壊されてしまいます。

折伏の成果にしても、粉飾があります。壮婦や先輩の成果を譲ってもらって組織に報告し、実質的に本流ゼロで幹部に上がっているケースが少なからずあります。

こうした情報は、現場にいれば必ず耳に入るはずです。決して、報告の数字のみを鵜呑みにしてはならないのです。





池田先生「最も偉大なのは母」

池田大作の軌跡IIより

一番尊くて、一番偉いのは、庶民のお母さんです。






母がいなければ、広宣流布以前に人類が滅びてしまいます。

仏と言えど、例外なく母から生まれてきます。仏法上も、母は文字通り「仏の生みの親」なのです。

人間だけでなく畜生でも、母は子を産み育てます。母であることは、人間であることよりさらに生命の根本に近いことなのです。

また、子孫の誰か1人でも成仏すれば、その縁により、代々の先祖は必ず成仏します。

あなたが成仏することこそ、母への第一の恩返しとなるのです。






父母の家を出て出家の身となるは必ず父母をすく(救)はんがためなり

開目抄



池田先生「家計を軽んじるなかれ」

こころに響くことばより

国家でも会社でも財政が乱脈であれば、必ず崩壊してしまう。

家計の整理と計画が無いようでは、生活の向上を願っても無駄である。




祈っていれば勝手にビットコインが値上がりし、経済革命できるなどということはありえません笑

仏法は、おまじないではないのです。

収入以上に浪費すれば、お金が貯まらないのが道理です。

一攫千金の祈りは、それ自体が法華経に背いているので、かなうことはありません。

あなたの使命は、ビットコインの売買をすることではないはずです。

ベンジャミン・フランクリンがいうように、節約と勤勉以外、経済革命の道はないのです。

池田先生「悪なくして善なし」

人生の座標より

悪なくして善はなく、善なくして悪なし

悪も、対応のいかんによっては善に転じ得るのだという点では、可変的実在なのである。




蓮祖は日本を侵略してきた蒙古国を「隣国の聖人」「天の御使」と呼ばれています。

もちろん侵略戦争は世法の次元では「大悪」です。しかし、仏法の次元では蓮祖を弾圧する日本国を罰するので、「極善」に転じるのです。

健康な人を間違って手術したら大悪ですが、命を救ったら大善です。

ゆえに、小悪小善にとらわれることなく、常に「法華誹謗」という極悪と戦うことに集中しなければならないのです。







善と悪とは無始より左右の法なり

治病大小権実違目





池田先生「苦難と戦うことが幸福」

人生の座標より

人生の目的は何か。勝利者になること、幸福になることだ。

では幸福とは何か。「充実」です。

充実とは何か。「苦難」と戦うことです。

苦難が無ければ充実はない。充実が無ければ幸福ではない、

何の苦労もない幸福など、どこにもない。





夜になると眠くなる。これは苦難、ストレスです。

眠ると、眠気というストレスが解消され、幸福感を得られます。

もし、眠気を感じなかったら、眠ることは苦痛でしかありません。

お腹がすく。これはストレスです。

食べると、空腹というストレスが解消され、幸福感を得られます。

空腹でもないのに食べるのは、苦痛にしかなりません。

何のストレスもない世界だったら、幸福はありえないのです。








池田先生「芸術が地上を楽土にする」







人生の座標より

文化とか芸術というものは、人間が人間として最高の人生を飾り、エンジョイしていくために必要なことであり、動物にはないことです。

地上に楽園を作ろうという「善」の心を引き出す作業です。

芸術こそが人間を人間らしくするのです。






小乗経には芸術否定の戒律もありますが、我ら末法の衆生には高潔すぎます(笑)

確かに、芸術などなくても生きていかれますが、それを言い出したらお酒もたばこもスイーツもテレビもYoutubeも恋愛も結婚も家族も生きる上で必要ないわけで、ずいぶん不毛な人生になってしまいます。

明らかに、小乗の戒律でがんじがらめの人生では、幸せになることはできません。

成仏と言っても、要はみんなで幸せに生きることです。堅苦しく考える必要はありません。






池田先生「介護は聖業」

人生の座標より

どんな人にも、人間らしい最終章を飾る権利があります。

介護はその人生のフィナーレを演出する貴い仕事です。

介護は「人生の聖業」と言えるでしょう。






高齢者や障碍者の介護が充実していることは、仏国土の絶対条件です。

介護を必要とするのは、一見、社会にとっては「必要ない」「負担にしかならない」人々に見えます。

勤労や納税など、社会人としての義務を果たさず、権利ばかりを行使しているように見えます。

しかし、「社会にとって負担になる人間はいらない」という思想は、全体主義そのものです。

社会に貢献できる健康な人だけが賞賛され、そうでない人が低く見られるのは、暗黒社会なのです。

畜生は決して介護しません。自力で生きられなくなった個体は、実の親であろうと見捨てられ、天敵のエサにされるに任せます。

要介護者の存在こそが、人間を人間足らしめているのです。

人間社会はプロスポーツのチームではないので、役立つ人だけに生きる権利があるわけではありません。

人は誰でも、無条件に生きる権利があります。愛される権利があります。幸せになる権利があります。

社会はそのための手段に過ぎず、決して社会のために人間がいるわけではないのです。

社会への貢献度で人命の軽重を決めることがあってはなりません。



牧口先生も、自ら寝たきりの義母を介護されていました。

介護とは、仏法の体現そのものなのです。




「役に立たない人間」こそが必要







「社会の役に立たない、迷惑をかけるだけの人間は、生きている意味がない」

「社会の役に立つ人間ほど価値が高い」

これは、時代や場所を問わず、人間社会に根強く偏在する価値観です。

しかしこれは「全体のために個人が存在する」という考え方であり、まさに全体主義です。戦前の滅私奉公、さらにはナチズムやファシズムに通じてしまいます。

全体のための個人であれば、全体に貢献しない個人は全員ガス室に送っていいことになってしまいます。

特に今日では、新自由主義によって、生産性の高い人間ほど価値が高く、それ以外の人間を見下す風潮がありますが、彼らは自由主義者のようでいて、結局は全体主義者なのです。

全体に生命が存在するわけではありません。生命はあくまで個人です。

したがって仏法上は、尊厳の主体はあくまで個人であり、全体は手段です。国家はもちろん、宇宙そのものですら手段です。ここを絶対に勘違いしてはいけません。

仮に、全く社会に貢献しない人がいたとしても、彼ひとりの生存権を社会全体で保証することこそが「個人の尊厳」のために必要なのです。

凡夫の目に見えないだけで、実際には、無用な人間など誰もいません。無用だったら最初から生まれてこないし、すでに死んでいるはずです。

自分が社会に貢献しているかどうかなど、結果論であり、本来、全く気にする必要はありません。あなたの存在そのものが無限の尊厳なのです。






本尊とは法華経の行者の一身の当体なり

御義口伝(御書760頁)