教学メモ

教学メモ92:心は赤か白か

たまたま執行海秀の『御義口伝の研究』を開いたら、本論第2章本書の思想的考察、第3節の2遺文に於ける台密思想と観心釈及び配当法門の(A)心性八葉白蓮華説の一項があった。

先に織田仏(織田佛教大辭典)八葉蓮華を覧た。心臓は血に係る臓器だから、その色は赤と連想しがちだ。五大の五処の配分でも 梵字ラ は心臓の位置に当て、その顕色は赤である。ところが執行は白という。八葉蓮華の用例があるは偽書、日蓮に八葉蓮華観はなかったと書いている。

「心性八葉之白蓮華」(一念三千法門)「我心性の八葉の白蓮華」(十如是事)「当体蓮華とは一切衆生の胸の内に八分の肉團あり、白くして清し。」(当体蓮華抄)といった文を挙げる。
けれど、今回は日蓮文書の真偽ではない。密教でいう八葉蓮華の色の話題。

SATで検索すると「八葉白蓮華」(大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪)ほか30用例ほど、「八葉赤蓮華」(要尊法)で1用例のみだった。
概ね密教における八葉蓮華、つまり心臓は、白色に見立てる如くである。

古代における心の見方に、現代の血液ポンプの機能を考えてしまう。すると連想される色は赤。しかし、心臓を蓮華に譬える密教観に現代的な視点を持ち込むと途端に的外れになる。合蓮華は凡夫。開敷八葉蓮華は白。そこには血液循環に係る伏線はない。心臓は八葉白蓮華で落着か。

教学メモ92:心臓は赤か白か

たまたま執行海秀の『御義口伝の研究』を開いたら、本論第2章本書の思想的考察、第3節の2遺文に於ける台密思想と観心釈及び配当法門の(A)心性八葉白蓮華説の一項があった。

先に織田仏(織田佛教大辭典)八葉蓮華を覧た。心臓は血に係る臓器だから、その色は赤と連想しがちだ。五大の五処の配分でも 梵字ラ は心臓の位置に当て、その顕色は赤である。ところが執行は白という。八葉蓮華の用例があるは偽書、日蓮に八葉蓮華観はなかったと書いている。

「心性八葉之白蓮華」(一念三千法門)「我心性の八葉の白蓮華」(十如是事)「当体蓮華とは一切衆生の胸の内に八分の肉團あり、白くして清し。」(当体蓮華抄)といった文を挙げる。
けれど、今回は日蓮文書の真偽ではない。密教でいう八葉蓮華の色の話題。

SATで検索すると「八葉白蓮華」(大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪)ほか30用例ほど、「八葉赤蓮華」(要尊法)で1用例のみだった。
概ね密教における八葉蓮華、つまり心臓は、白色に見立てる如くである。

古代における心の見方に、現代の血液ポンプの機能を考えてしまう。すると連想される色は赤。しかし、心臓を蓮華に譬える密教観に現代的な視点を持ち込むと途端に的外れになる。合蓮華は凡夫。開敷八葉蓮華は白。そこには血液循環に係る伏線はない。心臓は八葉白蓮華で落着か。

教学メモ91-2:『梵字手帖』の五輪五色の配分の相違

塔婆先に五輪五処を図形化を書き終えて、やれやれという気分で、何気に徳山暉純『梵字手帖』を開いた。

載る「五輪法界の分解図説」に板塔婆に寄せて顕色(五色)の配色が示されているが、なんと通説と逆なのだ。
梵‘きゃ’ 梵‘か’ 梵字ラ 梵バ字 梵字‘あ’ を黄黒赤白青としている。
しかし、一行『大毘盧遮那成佛經疏』、またそれを説明する織田佛教大辭典、覚鑁『五輪九字秘釈』でも、青黒赤白黄。
手帖によれば、根拠を善無畏の伝としている。さて、典拠はなんだろうか。
徳山が初歩的な間違いをするわけはないから、必ず根拠があるはずだ。
なんだろうか。

教学メモ91:五輪五処を図形化

先の字輪観五字観を合揉して図形化を試みたい。

織田仏(織田佛教大辭典)と『大日経疏』の説明は、五処(身の位置)に就き、微妙な差がある。また、疏では地輪は金剛輪とされ、五字を、疏では阿嚩囉唅缺とし、『大日経義釈』(大日經供養持誦不同)では、「阿嚩羅賀佉」とする。

以下、「織田」とした縦行は織田仏の説明である。

織田│大日経疏│五輪_│五色│五形│五字
頂上│最上虚空│空輪_│青_│点_│缺
_│咽以上頂│風輪_│黒_│半月│唅
心上│心以上咽│火輪_│赤_│三角│囉
臍輪│臍以上心│水輪_│白_│圓_│嚩
腰下│臍以下_│金剛輪│黄_│正方│阿

この説明を読み、12年前に『五輪九字秘釈』を翻刻した折、図示されていた図(下図左下)、五輪塔の擬人化の意味がようやく理解できた。当時は、蓮長(日蓮)の写しはなんと下手くそなのかと嘲笑を含んだ印象をいだいたばかりであったが、実はこの図が五大を身体五処に当て嵌める、いわば五大即大日、五大即自身ともいうべき重要な密教義を示したものであることをようやく実感できた。嘲笑すべきは、己の浅慮であった。



織田の五処五大の説明と、引用される『大日教疏』に相違があることは、上記の表で示した通り。
さらに図で示せば、以下の相違がある。
さらも覚鑁『五輪九字秘釈』の画を合わせ、五処観の比較してみた。それぞれの相違の根拠は追って考えたい。
10年足らず、疑問であった覚鑁の画の意味がようやく理解できた。









教学メモ90:五大五仏、秘釈と織田仏の相違



先に『五輪九字明秘密釈』(以下、秘釈)の記述に従って、図にしたのは左。教学メモ「我有と申す有は其非真言宗者難知」で載せた。
ところが織田佛教大辭典を捲っていると、「五字観」に五仏図が載っていた(右)。

一見して同じに見えたのだが違っていた。秘釈の記述に従えば、中央は 梵‘きゃ’キャ 空であるが、織田佛教大辭典では 梵字‘あ’ 地となっている。中央が違えば東南西北も違う。

いったい、この相違は何に拠るのか。根拠とした経釈の相違であることは想像できるが、いまは特定できない。

以上、備忘録

【補】織田仏の図は丸、わたしは方(四角)とした。高い山の上から見下ろす地平線は、360度丸く見えるだろう。そのイメージで描けば、織田仏の図の如く。しかし、方角とは方(四角)のすみという意味である。古代は台地は方形であると信じられていた。その四角が方角。だから、わたしは方形で描いている。

教学メモ89:大智度論「唐苦無善報」の読み

少し長い議論になって、発端がぼやけてしまったが、1974年の池田大作(たぶん、代作)『第三の偉大なる蘇生の道を』のなかで九識が取り上げられていた。
その後、創価学会所属の川田という医師がユングを持ち出して九識を自我で説明した。この基は上記の講演であったろう。これが創価学会では定番になっていまに至る。創価学会のトンデモ解釈など捨て置くだけでよいのだが、ケチをつける以上、九識の正しい意味を示して置く責務はある。織田佛教大辭典を手掛かりに探ってきた。詳しくは2021年7月16日以降のブログを参照されたい。

議論の中で、三聚浄戒の促しをいただき、戒禁取見に係る問いかけもあり、有意義な勉強になる議論だった。

興味が惹かれたのは龍樹造・鳩摩羅什訳の『大智度論釋初品中八念義第三十六之餘卷22』に載る「外道戒者。牛戒鹿戒狗戒羅刹鬼戒唖戒聾戒。如是等戒讃。唐苦無2善報1。」
この最後、「唐苦無2善報1。」(レ点は織田)は訓読すれば「唐苦善法無し」といったところだろう。
道元も『正法眼藏』に、この句を引く。SATで覧ると「唐苦ンテ無シ善報」となっている。多分、「唐苦ンテ2善報1」で「唐苦しんで善報無し」だろう。

この“唐”はいったい、どう読み、どんな意味だろうというのが、今回のテーマである。
わからず、曹洞宗の菅原研州師に教示を願うと「むなし」と読むということだった。
そうなると道元は「むなしく苦しんで善報無し」と訓んでいたことになる。

ネットの辞典で引くと
〗広い。むなしい。大うそ。おおげさに言う。
とあった。

唐苦俄に国訳一切経では、どうなっているのか興味が湧いた。ところが当地の、どこの図書館にも置かれていないのだ。致し方なく、神奈川県に出向き、ようやくと該当文を閲覧。
しかし、覧ると“唐”のルビは写真のとおり、一文字目が欠けている。しかし、辛うじて「むな」と読めるか。「むなしく苦しんで善報なし」である。
道元以来の訓読は継承されているのだ。菅原師のご教示の正しさも確認できた。

さて、「唐苦無善報」とは戒禁取見における外道戒の報いを言うのだが、では、善報について『大智度論』の次節にあった。
「復次智所讃者。於2三種1無漏戒ナリ。不2此戒2實智慧1。是聖スルナリ。無漏戒2三種1。如2キタマフ正語正業正命是三業ナリ。義2八聖道クカ1。是21。」

善報を得るには、仏の説く如き、無漏戒たる三業、正語正業正命を行え、まさに八聖道の中に説くように、と。不動の道、八道を歩むことこそ、無漏戒であり、善報となる。まことに清々しい。

“唐”一文字に、何故ここまで拘るのかと思われる節もあるかもしれない。
しかし、わたしのように独り在野で資料も少なく、愚案するというのは、こういうことである。
ひとまず、留飲も降りた。

末尾ながら、菅原研州師に御礼申し上げるものである。

教学メモ88:九識の概念図


今日日、九識は

六根
末那識
阿頼耶識
阿摩羅識


と、自我の心理に、階層的に深まっていくと考えられていないか。
しかし、唯識に係る資料を読む限り、その構造は上図のように思える。
そもそも、九識論に心理学を当て嵌めること自体、間違いのもとである。
九識論は仏教だから、自我は当てはまらないし、心理学、まして深層心理学で考えることは無意味である。

以上、簡略ながら、備忘録。

教学メモ87-2:宝王論「一月三身」と玄籤「三身具足」の月

87で『義浄房御書』に使われている「一月三星」の出所について少々考えたが、いまのところわからないまま、思わず脱線して似たような用句「一月三身」に興味が湧いた。

日蓮は「譬へば月の体は法身、月に光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。」(四条金吾釈迦仏供養事)と書いたが、同一内容の解釈はSATでみると『寶王論』(念佛三昧寶王論)に「夫佛之三身。法報化也。法身者如月之體。報身者如月之光。化佛者如月之影。」にあった。(織田佛教大辭典)

この論の成立は8世紀頃のようで、台家でいえば湛然の時代と被っている。
遡り智顗から探ってみると「月體譬法身」()。また、眞性軌即法身・觀照即報身・資成即應身と挙げたのちに「新金光明云。…佛眞法身猶如虚空。應物現形如水中月。報身即天月」()とある。
法身は月体は、『寶王論』、また日蓮と一致するけれど、月を三身に譬えるとなると配当が異なる。

では、『寶王論』成立と同時代の湛然はといえば、「三身具足」との句を用いて、以下のように釈している。

「三身具足。應身即水月者。諸水非一故。報身爲天月者。自受用報非多故也。」()という。

湛然は智顗説を踏襲している。

つまり、日蓮の月を三身に譬える発想は、ではなく、『寶王論』と同じだ。
もちろん、日蓮が『寶王論』に拠ったと即断はできない。同じような考えを記す文献は他にもあるのかもしれない。しかしならば、何に拠ったのだろうか。
わからない興味が一つ増えた。

さらに、それにしても何故、一月というように、“日”ではなく、“月”なのか。日蓮と自称したくらいだ。“日”で譬えればよいものを、という疑問が生じる。
次にこの点を考えたい。

ー 87-3 につづく ー

教学メモ87:一月三星は一月三身か(義浄房御書から)

松戸行雄先生からFBで、『義浄房御書』の「一心に仏を見る、心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり」につき、意見を求められ、しばしコメントを交わした。

わたしは「一・心・欲・見・仏から、欲を除いて論を立てる理由はよくわかりませんが、この読み替えは三如是の三転読誦、如是相・相如是・是相如として三身に配立したアイデアを転用し、無作三身に当て嵌めているのだろうとは、想像」と管見を返した。

『義浄房御書』はしかし、無作三身、三大秘法といった真蹟遺文では確認できない用句が見られる。
宮田幸一先生は「天台大師心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云」とありますが、「一月三星」でsat検索をすると、室町時代初期の禅僧春屋妙葩の『智覚普明国師語録』に1箇所ヒットするだけです。「心果清浄」はノーヒットです。つまり出典が天台大師ではないと思われます。『義浄房御書』の初出は、それより遅い1473年の弘教寺日健の写本です。いずれにしても、出典を厳しくする日蓮の著作とは思われません」とコメントされている。

松戸先生は、日蓮遺文につき、真偽より思想の功利性を重視されているとお見受けする。「関心を持っているのはこの義浄房御書の一説に関わる解釈」とコメントもされていた。

本書の真偽は別として「一月三星 心果清浄」が気に掛った。
ネットで検索するばかりではなく『織田佛教大辭典』も捲ってみたが載っていなかった。

さて、日蓮は“月”わどう考えていたか、改めて真蹟遺文”を検索して、読み直してみた。
(“三星”の用例は真偽未決通じて『義浄房御書』の1個所のみ)

天子といった擬神化はもちろんある。「大月天 二十八宿 乗鷲 十二宮(日月之事)という如し。

また、「法華経を月」(兄弟鈔)「月こそ心よ」(事理供養御書)という観点も際立つ。

最晩年の「法華経の一字は大地の如し、万物を出生す。一字は大海の如し、衆流を納む。一字は日月の如し、四天下をてらす。此の一字返じて月となる。月変じて仏となる。稲は変じて苗となる。苗は変じて草となる。草変じて米となる。米変じて人となる。人変じて仏となる。女人変じて妙の一字となる。妙の一字変じて臺上の釈迦仏となるべし」(王日殿御返事)という一節は、日蓮の“月”への思いが集約されていると思えた。

その他、本迹への譬え。
「日蓮云 迹門譬月本門譬日歟」(秀句十勝鈔)

しかし、どうやら「一月三星」に係る用例はない。そう思いながら、今一度『織田佛教大辭典』を捲っていると「一月三身」という用句が目に入った。

「一月三身〔譬喩〕一の月を法報應の三身に譬へしもの。【寶王論】に「法身如月體。報身如月光。應身如月影。」

SATで『寶王論』(念佛三昧寶王論)を検索してみると「夫佛之三身。法報化也。法身者如月之體。報身者如月之光。化佛者如月之影。」とある。
應身如月影と化佛者如月之影の相違はあるが、織田はこの文を引いたのだろう。

日蓮が言った「譬へば月の体は法身、月に光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。」(四条金吾釈迦仏供養事)と同意であるのは興味が惹かれる。三身の根拠を『普賢経』とするが、説明は『寶王論』と異ならないではないこ。

ところで「月の影」とは、現代的に考えると、日蝕を想起しそうだが、これは違う。水に映る月の意味だ。

「不識天月但観池月」()「従本垂迹如月現水 払迹顕本如撥影指天」()と通じるのだろう。

日蓮の「寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮かべ給う」「水中の月に実月」「光り西山に及べども諸人月体を見ざるがごとし」(開目抄)とあった書き様は、情緒的であるけれど、玄の意を確りと踏まえている。更に手繰ると『寶王論』に至るという発見には、心が躍った。もちろん、日蓮が同論を読んでいたかはわからない。しかし、考えは同じである。

今回のテーマは、「一月三星」は「一月三身」ではないか、という大胆な仮定から始めたが、どうも、すとんと落着はしなかった。
それでも“月”につき、調べたことに満足感があった。

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教学メモ86:蓮長‐日蓮の漫荼羅観は、具縁品より秘釈に近い、何故か?

法華経における大きなテーマの一つに“塔”がある。実に74の用例がある。
仏が涅槃に入った後(死後)荼毘に付し、その仏舍利の供養のために七宝塔を起てることを繰り返し奨めている。。

例外なのは法師品で「在在處處。若説若讀若誦若書。若經卷所住處。皆應起七寶塔極令高廣嚴飾。不須復安舍利。所以者何。此中已有如來全身」

ここでいう「経巻」とは法華経典を指すのだろう。“巻”、つまり、巻物とする前提は経が紙に書かれていることとなる。しかし、文字化された当初は、貝多羅葉であったろうから巻物であるはずはない。岩本裕は、この部分を、単に「書物」としているのは妥当な訳となるか。梵本から訳した羅什は、何故「経巻」としたのか。奇妙に感じる。

それはともかく、経巻所住の所では舍利は安置しない。何故ならば如来の全身がいますからだという。

岩本訳によれば「そこに如来の遺骨が安置される必要はない…そこには如来の全体の遺骨が安置されているからである」となっている。

安置される必要はない、安置されているからというのは、これまた、奇妙ではないか。まるで謎掛けのような文章である。

この「全身」は宝塔品で7回使用されているが、多宝如来の全身遺骨を指しているのだろう。
「如来の遺骨」とは荼毘で遺った砕骨で、「全身舍利」とはダルマであるというのが後代、定着する答えとなる。
さらに多宝如来は法身を意味するとなっていく。

密教義では法身は大日如来であり、日蓮は顕密習合した法身=多宝=大日の説を『報恩抄』で採用しているのは周知のことだろう。

舍利を安置しない塔は、特に「制底」という。
大毘盧遮那成佛神變加持經「入漫茶羅具緣真言品」に「世人應供養 猶如敬制底」と1カ所。
特筆すべきは『五輪九字明秘釈』18表とある。

「制底備應功徳何況信修是人中芬荼利花是法身舎利…衆生即是无非本尊々々本尊行者本来平䓁我覚本初我是古佛…我心㬅荼羅」

蓮長・日蓮は制底は使わず、単に塔という。
理由はよくわからないが法華経にその用例がないからか。それはともかく
『戒体即身成仏義』の「多寶塔と申は我等が身」
『観心本尊抄』の「多寶佛塔」
『阿仏房御書』の「然者阿佛房さながら寶塔、寶塔さながら阿佛房」
は上掲の秘釈と、大日を釈迦に引き戻し、五大を五字とすれば、趣旨は同義ではないか。

しかし、成仏義に「大日経の入漫荼羅具縁品には慥かに説かれたる也」という。
そもそも秘釈の書写は成仏義より9年も後である。
それにもかかわらず、示される日蓮の漫荼羅は、具縁品より、秘釈に基づいているのは、何故か。

この点は、また追って考えたい。