指導集

命の燃え尽きるまで学びに学べ-指導集(25)

 

●新・人間革命 第19巻 「虹の舞」の章から

◎信心の本当の大功徳とは、この「境涯革命」「人間革命」である。自分の境涯が変わるから、依正不二の原理で、環境も変化し、一切の問題が解決できるのである。

 

◎「微笑は大なる勢力なり、春の風の如し、心の堅氷(けんぴょう)を解(と)くの力あり」とは、信念の思想家 内村鑑三の名言である。

 

◎生きるということは、学ぶということだ。先師の牧口常三郎も、恩師の戸田城聖も、命の燃え尽きるまで学びに学んだ。軍部政府の弾圧によって逮捕された牧口は、独房にあっても必死になって読書に励んだ。死去する一カ月余り前の葉書にも、「カントノ哲学ヲ精読シテ居(い)ル」とある。

また、戸田も、生ある限り読書を怠らなかった。病床で大講堂落慶の式典の指揮を執りながら『十八史略』を読み、伸一にも、「今日は何を読んだか」と、厳しく尋ねるのであった。命ある限り、学びに学び、戦いに戦うのだ。そこにこそ、価値創造の人間道がある。

 

 

●珠玉の励まし「生涯、一兵卒として」 19-4-3付創価新報

1976年(昭和51年)8月25日、九州総合研修所に集った男子部、学生部の中核メンバーへの、山本伸一の万感の思いが込められた指導がつづられています。

 

学会も組織である限り、皆が皆、中心者になるわけではない。脚光を浴びる立場から外れる場合も、当然ある。実は、その時に、人間の本性が現れ、真価がわかる。それをきっかけに、組織から遠ざかり、やがて、離反していく者も出るかもしれない。自分に光が当たらなくなると、離反はせずとも、ふてくされたり、勝手な行動をとる者、傍観者を決め込む者も出るでしょう。(中略)

 

生涯、一兵卒となって、広宣流布のため、同志のために、黙々と信心に励んでいくことです。唱題に唱題を重ねながら、会員の激励に、座談会の結集に、機関誌の購読推進に、弘教に、地を這うように、懸命に走り回るんです。それが仏道修行です。それ以外に信心はない。勇ましく号令をかけることが、信心だなどと、勘違いしてはならない。

 

模範の一兵卒たり得てこそ、広布の大リーダーの資格がある。私は、君たちが五十代、六十代、七十代・・・と、どうなっていくか、見ています。人生の最後をどう飾るかだよ。
(「敢闘」の章)

 

 

●忘れ得ぬ瞬間(とき) 創価大学・女子短大2004年4月入学式 19-4-30

正義のため。平和のため。人民の幸福のため――この最も大切な目的に向かって、勇敢に戦い抜き、忍耐強く勝ち抜いていく。これが「青春の英雄」であり、「生命の勝利者」であります。そのためには、心して良書を選び、徹底して読破していくことです。恩師・戸田先生は、厳格に悪書を斥【しりぞ】けました。「良書を読め」と常々言われた。

 

私も若き日、恩師から毎日のように聞かれました。「今、何を読んでいるか」「どんな内容か」。忙しくて読み進んでいないと、たちまち見抜かれた。一緒に旅行した時は、列車に乗っている間じゅう、読んだ本の話をさせられました。東北から東京までの旅の長かったこと――。

 

ともかく先生は読ませました。私を訓練しました。今思えば、幸せなことです。訓練から逃げた人、努力を避けた人は、その時は気楽でいいかもしれないが、後になって苦しむ。あえて苦難の道を、自分を鍛えるために、諸君は頑張り抜いてもらいたい。

 

 

●新・人間革命 第24巻 「灯台」の章から

◎世間への執着を捨てて、仏門に入ることを『出世間』というが、人びとを救うために広宣流布をしていくには、さらに『出世間』を離れ、再び、世間という現実社会の真っただ中で、戦っていかなくてはならない。つまり、『出出世間』だ。実は、そこに、本当の仏道修行があるんだ。だから、“社会に根を張って初めて広布”なんだよ。

 

◎たとえ、立場は新入社員であっても、あるいは、決して、主要なポジションにいるわけではなくとも、“自分が、この会社を守っていこう! 必ず発展させてみせる! 皆を幸福にしていこう!”という自覚を忘れてはならない。それが、仏法者の生き方であり、学会の精神です。

 

腰掛け的な気持ちや、“どうせ自分なんか取るに足らない存在なんだ”という思いがあれば、本当にいい仕事はできません。戸田先生は、よく『ただ月給をもらえばよいというのでは、月給泥棒だ。会社のために、自分はこう貢献したというものがあって、初めて、月給をもらう資格がある』と語っておられた。そして、『“信心は一人前、仕事は三人前”してこそ、本当の学会員だ』と厳しく指導されていた。

 

大聖人が『御みやづか(仕官)いを法華経とをぼしめせ』と仰せのように、自分の仕事を、信心と思い、仏道修行と思って挑戦していくことです。限界の壁を破り、不可能を可能にするという学会の指導や活動の経験も、仕事に生かされなければ意味がありません」

 

伸一は、“皆が職場の第一人者に!”との祈りを込め、魂をぶつける思いで語った。仏法は勝負である。ゆえに、社会で勝利の実証を示してこそ、その正義が証明されるのだ。

 

◎山本伸一は、包み込むように語りかけた。「社会では、さまざまな付き合いや、他宗の儀式の場に参加しなければならない場合もあるでしょう。しかし、窮屈に考え、自分を縛るのではなく、賢明に、広々とした心で、人間の絆を結んでいくことが大事です。日蓮仏法は、人間のための宗教なんです。

 

信心をしているからといって、社会と垣根をつくり、偏狭になってはいけません。また、信心のことで、家庭や職場で争ったりする必要もありません。それでは、あまりにも愚かです。長い目で見て、家族も、職場の人びとも、温かく包み込みながら、皆を幸せにしていくのが、仏法者の生き方です」

 

日蓮教団は、ともすれば、排他的、独善的で、過激な集団ととらえられてきた。事実、日蓮主義を名乗り、テロなどに結びついていった団体もあった。それは、万人に「仏」を見て、万人の幸福を実現せんとした、日蓮大聖人の御精神を踏みにじる暴挙である。そこには、社会を大切にしていくという「仏法即社会」の視座の欠落がある。

 

伸一は、最後に、「常識を大切に」と訴えていった。「非常識な言動で、周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買う人を見ていると、そこには共通項があります。一瞬だけ激しく、華々しく信心に励むが、すぐに投げ出してしまう、いわゆる″火の信心″をしている人が多い。信仰の要諦は、大聖人が『受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり』と仰せのように、持続にあります。職場、地域にあって、忍耐強く、信頼の輪を広げていく漸進的な歩みのなかに、広宣流布はある。いわば、常識ある振る舞いこそが、信心であることを知ってください」

 

●2006年3月本部幹部会から

一流の人は皆、仏法と相通じているんです。アインシュタイン博士は記している。『人間としての真の偉大さに到る道はひとつしかない。それは何度も酷い目にあうという試練の道だ』と。

 

悪世、濁世の末法なんです。正義の人が馬鹿にされ、悪人が英雄扱いされる逆さまの世が末法なんです。私はこの50年、ずーっといじめられてきました。毎日、毎日、毎日、毎日、悪口を言われてきました。今も言われ続けています。悪口を言われない人は私の弟子ではありません。自分だけイイ子になって、そんな人は断じて私の弟子なんかじゃありません。

 

今、いじめられている人。悪口を言われている人。何も心配しなくていいよ。私の弟子はあなたです。あなたこそ私の本物の弟子なんです。悪口を言われている人、顔をあげなさい。胸を張りなさい。

 

 

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人間は楽しむために生まれてきた-方便品・寿量品講義

うち続くコロナ禍に異常気象…考えるところあって、先生の昔の書籍を開いてみました。法華経本門の肝心である寿量品には、次のような経文があります。

 

「没在於苦海」
「大火所焼時」
「我此土安穏」
「衆生所遊楽」

 

これらの法華経経文の講義が、『池田名誉会長の法華経「方便品・寿量品講義」』-寿量品 にあります。

 

 

 

御本尊は常に“我が胸中”にある
(中略)
「衆生見劫尽 大火所焼時」。これは衆生の生命に映った苦悩の世界です。“衆生は世界が滅びる時が来て大火に焼かれていると見ている”というのです。まさに、苦悩と恐怖に満ちた地獄です。

 

ところが、次の「我此土安穏」以下では、様子は一変する。ここには、安穏があり、躍動がある。喜びがあり、輝きがある。にぎやかな音楽があり、豊かな文化があります。これが仏の「大いなる境涯」から見た真実の世界です。

 

この二つの世界は、実は「同じ世界」です。同じ世界が、衆生と仏では、全然違って見えている、違って感じているのです。日蓮大聖人は、衆生が見ている大火とは「煩悩の大火」(御書757㌻)であると仰せです。焼け滅びているのは、世界ではなく、自分の生命です。それに、恐れおののいている。

 

それに対して、仏は“あなたたちは、何を恐れることがあろうか。何を嘆くことがあろうか。真実は、あなたたちが見ているのと、全然違うのだ”と諭(さと)すように、こう語り始めるのです。「私の住むこの国土は、永遠に安穏なのだ」と。この一言で、仏は、衆生の「小さな境涯」を破っているのです。一切の衆生を、全人類を「仏の大境涯」に高めたいとの、大慈悲の言葉なのです。

 

「人間は楽しむために生まれてきた」
(中略)
法華経は「衆生の心」に問いかけます。また、衆生が自ら問い、考えることを促します。「一体、私たちは『何のために』この世に生まれてきたのか」と。人間は苦しむため、悩むために生まれたのか? 否(いな)です。宿命に泣くために生まれたのか? 否(いな)、絶対に否です。

 

戸田先生は、「衆生所遊楽」の経文を通して、いつも言われた。「人間というのは、世の中へ楽しむために生まれてきたのです。苦しむために生まれてきたのではないのです」この世に遊びに来た、楽しみに来たのだと。「衆生所遊楽」──衆生の低い人生観、幸福観をひっくり返す、すばらしい言葉です。

 

もちろん、この「遊楽」とは、享楽的な“うわべの楽しみ”ではありません。それらは、現実の荒波の前では、あまりにも空(むな)しい。しかも、裟婆世界は「堪忍(かんにん)世界」。苦悩と恐怖の充満する、この世を生きることが、“堪え忍ぶ”ことが、どれほど大変か。自身の境涯が低ければ結局、敗北です。

 

しかし、仏の眼で見るならば、また衆生が胸中の「仏の境涯」を開くならば、この裟婆世界が即、「衆生の遊楽する」楽土となる。いわば、この世の舞台で、私たちは「楽しく生き抜く」という人生の劇を演じているのです。

 

自在で楽しい遊楽の人生を開け
日蓮大聖人は仰せです。「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書1143㌻)──深く妙法に則(のっと)っていく時、この世の「苦楽ともに」、楽しみ切っていける醍醐味の人生を生きていけるのです。

 

 

 

この経文と講義を、私たち学会員が体現していく使命があります。世界と地域を照らす「希望の灯台」として立ち、安穏な社会実現のための目前の戦いに勝利していくのです。われわれ学会員こそ、その主体者なのです。

 

 

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汲めども尽きぬ希望の源泉 -指導集(24)

 

 

勝利の経典「御書」に学ぶ 第7巻 曾谷殿御返事(輪陀王御書)より抜粋

 

唱題にあたって大事なことは、「ありのままの心」「素直な心」で祈っていくことです。悩んでいる時もある。苦しい時、悲しい時もある。そんな時は、子どもが母親の胸に飛び込むように、御本尊にそのままの命でぶつかっていけばいいのです。よく戸田先生は、「形式ではない」と言われた。先生は「御本尊への本当の心でぶつかっていくのです」とも語られていました。唱題行は、大聖人の生命をわが身に現していく修行であるとして、「大聖人の御生命のこもった題目を」と指導されたこともあります。

 

たとえ悔やまれることがあっても、二度と繰り返さぬ決意をして、未来へ向かって新しい出発の唱題を、勝負を決する時は、断じて勝つと勇気凛々の力強い唱題を。三障四魔との戦いの時は、魔を断固、打ち破る師子王の如き唱題を。宿命転換の時は、断じて負けないとの不退の唱題を。喜びの時は、深い感謝の題目を――。

 

御書に仰せの通り、「苦楽共に思い合わせて」、ただひたすら、題目を唱え抜いていくことです。わが生命を磨くには、唱題行しかありません。「題目第一」の人は、無明に曇った生命も磨き抜かれ、必ず法性の明鏡の生命となることができます。題目は生命練磨の作業です。ゆえに、「心こそ大切」なのです。

 

したがって、題目の功徳は、何遍唱えたかという数量で決まるものでは絶対にありません。「心ゆくまで唱える」ことこそが大事なのです。御書には、これだけの題目を唱えよなどと、唱えるべき量を定めた仰せはありません。祈りは、「心の固さ」であり、「信心の厚薄」であり、「志ざし」「一念」で決まります。

 

ただし、本人が心から決意して数の目標を定めることも信心の現れです。自分が決意した分だけ唱題する。そして、絶えず決意を深めていく。「日夜朝暮に懈(おこた)らず磨くべし」と仰せのように、たゆまず、唱題行を持続した人が勝利することは間違いありません。

 

自身の生命変革を忘れ、決定した一念のない〝おすがり〟や、逃避や臆病から、現実生活の努力や挑戦を放棄して、〝棚からぼた餅〟を望むような信仰は、仏法の本義から逸脱しています。唱題行は、わが生命を変革しゆく「人間革命」の修行です。どこまでも自身の一念を深め、諸天善神をも動かし、絶対勝利を実現する「誓願の題目」であってこそ、大聖人の仏法の唱題行となります。

 

 

 

「5・3」記念中部の各賞合同授賞式 1986.5.7「広布と人生を語る」第8巻

 

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と仰せである。(中略)釈尊が仏に成るまでの無数の厳しき修行も、仏としての功徳も、すべて「妙法五字」すなわち三大秘法の「南無妙法蓮華経」に具足していると仰せである。

 

ゆえに私どもが御本尊を受持し、題目を唱えゆくとき、釈尊の、菩薩としてのたいへんな仏道修行、難行苦行も、仏にそなわる無量無辺の福徳と歓喜と幸福も、いっさいが自身のものとなり、今世において一生成仏していけるのである。これほど簡潔にしてすばらしき成仏への原理、ありがたき法理はない。

 

「教・弥(いよいよ)実なれば位・弥(いよいよ)下れり」とあるように、受持する法が偉大であればあるほど、横根が低く難行に耐えられない衆生をも広く救っていくことができる。大聖人の三大秘法の大法が無上道の法であるがゆえに、唱題行というもっとも簡単にして肝要の修行によって、一切衆生を成仏させゆく力があるのである。

 

この唱題行が、だれびとにも可能で、あまりにも簡単であるがゆえに、その深さがわからず、大聖人の仏法を軽蔑し、侮辱していく人がいる。また退転していく人がいる。まことにもったいないことであり、大いなる過ちである。どうかいっさいの悩みは、病気であれ、生活苦であれ、人間関係であれ、また苦悩の人々を社会の最前線で救っていく弘教のうえでの悩みであれ、すべてが御本尊への唱題の行によって歓喜の因となっていくことを確信していただきたい。

 

妙法の力用によって、苦しみ悩みを、永遠にわたる歓喜と幸福の原因としていけるのである。ここに信心によって得られた、本有常住の生命の位があり、大我に染めぬかれた実像の幸福があるのである。

 

【ひと言感想】 題目を唱えられる我が身の福運に感謝するとともに、いま一度、初心・原点に帰り、新たな前進を開始していきます。

 

 

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退転・反逆者の本質 -指導集(23)

 

『人間革命 第1巻』から読み直してきて今、『新・人間革命 第16巻』に入ってきました。トータルで12冊+16冊=計28冊目に差し掛かったことになります。

 

当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(御書1339㌻)とある通りです。退転の輩が知ったかぶりの狡賢き小才でいかに学会を貶めようとも、結局は「還著於本人」の原理により、口から出たゴミ(=悪口)は当人の身に厳罰となって返っていくのです。

 

第16巻の「入魂」の章から備忘的意味を込めて特に印象に残った部分を抜粋します。

 

 

伸一は、「最後に皆で御書を研鑽したい」と言って、朗々たる声で、御書を拝読していった。それは「佐渡御書」の一節であった。

 

「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がか(斯)くなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等(びゃくにんら)が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便(こと・ふびん)とも申す計りなし」(御書960㌻)

 

(中略)
烈々たる山本伸一の声が響いた。(中略)「あたかも日蓮大聖人を信じ、どこまでも随順していくかのようでありながら、ひとたび大聖人が大難にあわれると、疑いを起こし、法華経を捨てた臆病な弟子たちがいた。しかも、彼らは、大聖人を悪口し、教訓して、自分たちの方が賢いと思っている。自分の臆病さを正当化し、大難を逃れ、尊大ぶって師を批判する。臆病と慢心とは表裏一体なんです。

 

弟子であった者が、退転し、最終的に広宣流布を破壊していく。釈尊在世の提婆達多も、また、大聖人の時代の三位房らもそうです。これこそ、『師子身中の虫』であり、師匠への最も卑劣な裏切りです。戸田先生が亡くなる少し前に、ある人物が、これからの学会の敵は何かと質問した。その時、先生は、言下に『敵は内部だよ』と答えられた。『師子身中の虫』が仏法を破るのだと、大聖人も結論されている。ゆえに、広宣流布の道は『師子身中の虫』との戦いであるということを、生命に刻んでいただきたい」

 

(中略)
伸一は、さらに力をこめて訴えた。「大聖人は、弟子でありながら退転・違背していった、心の歪んだ”僻人(びゃくにん)”たちは、仏法の法理に照らして、念仏者よりも、長く阿鼻地獄に堕ちて、苦しみ抜くのだと、御断言になっている。そして、そのことを思うと、不憫(ふびん)で、かわいそうでならないと言われているんです。

 

大聖人は、常に弟子たちを厳しく戒められていますが、それは、断じて門下を守り抜こうとする大慈悲からです。惰弱でずる賢い姿勢が見られたり、不正がある者がいたら、見て見ぬふりをするのではなく、厳格に指摘し、諫めていくことが慈悲です。それが相手を救うことになるんです

 

 

伸一は、さらに御書を拝した。(中略)「日蓮御房は師匠にておはせども余にこは(剛)し我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべしと云んは螢火(ほたるび)が日月をわらひ蟻塚(ありづか)が華山(かざん)を下し井江(せいこう)が河海(かかい)をあなづり烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべしわらふなるべし」(御書961㌻)

 

彼は講義を続けた。(中略)「大聖人門下で退転していった者たちは、こう批判した。『日蓮御房は自分たちの師匠ではあるけれど、弘教の方法が、あまりにも強すぎる』つまり、弘教の方法が間違っていたから、大聖人は難にあうのだと言う。これは、とんでもない言いがかりです。

 

末法の弘教は折伏と定められている。当然、強く叫び抜かなければならない。また、難があるのは、経文通りに正しく実践しているからです。しかし、退転者たちは『我等は柔らかに法華経を弘めよう』と言う。彼らの本質は臆病であり、保身です。名聞名利なんです。ところが、いかにも利口げに、自分が正しいかのように詭弁(きべん)を弄(ろう)する。しかも、正義の人に濡れ衣を着せたり、巧みに問題をすり替えたりして、大善の人を大悪人にしていく。そして、人びとを誑(たぶら)かし、退転させていくのが、反逆者の常套手段です」

 

伸一の言葉が、皆の胸に、鋭く突き刺さっていった。誰もが、神経を研ぎ澄ますように、耳を傾けていた。「その退転者の姿や言い分は、はかない螢の光が、太陽や月の明かりを笑い、蟻塚が中国の名山である華山を見下し、井戸や小川が大河や大海を軽蔑し、小さな鵲(かささぎ)が、鳳凰(ほうおう)などの鳥の王者を笑うように、極めて愚かなことである――。大聖人は、そう仰せになっているんです」

 

参加者は皆、山本伸一の講義を全身で受け止めるかのように、身じろぎ一つしなかった。「大切なことは、退転し、反逆していく者の嘘を見破り、その悪を暴き出し、徹底して打ち砕いていくことです。釈尊の弟子である提婆達多が、阿闍世王(あじゃせおう)という政治権力とつながり、釈尊の命をもつけ狙う大怨敵となったように、現代にあっても、反逆者が学会を、広宣流布を破壊する元凶になります。

 

だから、あらゆる力を尽くして、悪の根を断ち切っていくまで、戦って、戦って、戦い抜くことです。私どもがいかに正義であっても、中途半端な戦いであったならば、敗れてしまう。断じて追撃の手を緩めてはならない。これは、大学会の諸君に託す私の遺言です。いいですね!」

 

「はい!」
メンバーの目には、邪悪を許さず、断固として戦い、倒しゆかんとする決意が燃えていた。最後に、伸一は、こう話を結んだ。「創価学会こそ、日蓮大聖人の仰せ通りに、広宣流布という未聞の大思想運動を展開している唯一無二の団体です。それゆえに、仏法の法理に照らして、さまざまな中傷や迫害、困難があるのは当然です。しかし、尊き学会と運命を共にしゆく決意で、一生涯、崇高なるわが使命を果たし抜いていただきたい。そして、”行動の哲学者”として民衆のなかに入り、民衆に尽くし、民衆のために縦横無尽に戦い抜いていただきたい。それが、大学という最高学府に学んだ者の義務であり、使命です。

 

大学会の諸君、二十一世紀を頼むよ。その時こそ、勝負だよ。二十一世紀に学会がどうなっているか。広宣流布の永遠の基盤がつくれるかどうか――それは、すべて諸君の責任です。勝とうよ。勝って、みんなで肩を叩き台い、喜び、讃え合おう。共に立とう! 共に戦おう!」

 

 

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かっこ悪くたっていいじゃないか -指導集(22)

 

●新・人間革命 第26巻「厚田」の章

(1977年(昭和52年))10月2日の午後、山本伸一は、戸田講堂の食堂で行われた、「北海道未来会」第4期の結成式に出席した。中等部、高等部の代表26人からなる人材育成グループである。伸一が姿を現すと、皆の笑顔が弾けた。伸一も、微笑を浮かべた。しかし、話を始めた彼の顔からは、笑みは消えていた。”この一人ひとりが、広宣流布の大事な大事な後継者である。だからこそ、将来のために、厳しい話もしておかなければならない”と思ったのである。

 

「今日は、君たちの人生において、極めて大切なことを、簡潔に語っておきます」
力のこもった語調であった。皆、居住まいを正した。

 

人間にとって大事なことの一つは、”粘り”ということなんです。ある意味で、人生は、絶望との戦いであるといえるかもしれません。テストの結果もよくない。家庭環境も大変である。経済的にも厳しい。理想と自分の現実との間に、大きな隔たりがある――など、悩みの連続が人生であり、特に青春時代です。そして、ともすれば、”自分はダメな人間なんだ” ”なんの力もないんだ”と考え、卑屈になり、絶望的な思いをいだいてしまう。

 

しかし、そうではありません。”みんなが、尊い使命をもって生まれてきている。必ず自分らしく輝くことができる”と教えているのが仏法なんです。では、どうすれば、自分を輝かせていくことができるのか――それは”粘り”です。思うような結果がでない。失敗する。挫折する。時には、生きる気力さえなくなってしまうかもしれない。それでもまた、立ち上がり、自分の目標に向かって進んでいく。その粘り強さこそが大事なんです。

 

”力がなくてもいいじゃないか。かっこ悪くたっていいじゃないか。でも、自分は負けないぞ!”と、心の炎を燃やすことです

 

山本伸一は、未来会のメンバ――人ひとりに、じっと視線を注ぎながら言葉をついだ。
順風満帆に生きて、苦労もせずに、成功を収めた人などいません。失敗も、挫折もなく、人生の勝利者になった人もいません。泣く思いで苦労に耐え、何度も絶望の淵に立ちながら、粘り強く、前へ、前へと進んでいった人が、人生の勝利者になっているんです。

 

たとえ、失敗や敗北はあっても、絶対に腐ってはならない。いじけて、自らを卑しめることこそが敗北なんです。忍耐強い人が、最後に勝つ人なんです。その粘り強さを身につけていくための唱題であり、仏道修行であることを忘れないでください。

 

人生の勝利の栄冠は、信心を根本に、執念に執念を尽くし、粘って粘って粘り抜き、自分の決めた道を歩んでいった人の頭上に輝くことを宣言しておきます」

 

 

【ひと言感想】
一つのことに徹すること、すなわち、この指導で言われている「執念」や「粘り」ということは、信心に限らず万般に通じることだと思う。次元は違うが、自分は自営業をしてもうそれなりに長い。商売や経営においても、何があってもへこたれず、とにかく「続ける」ということは非常に重要である。

 

人様を教訓できるような実績は自分は何ら無いが、仕事や商売においても「執念」「粘り」ということの大切さは痛感している。何よりも、困難を前にして呻吟(しんぎん)し乗り越えた無数の経験が、職業人としても人間としても自分を鍛えてくれ、簡単に他人には真似出来ない技術やノウハウが蓄積されていく。

 

一つの道に徹すれば徹するほど、顧客満足度を高め、競争優位に立てる「強み」が磨かれるのである。(注意:実際の経営においては、事業の継続だけが唯一の選択ではない。特定の事業領域からの撤退障壁を踏まえたうえで、撤退するという選択もあり得る)

 

「経営の神様」と言われた松下幸之助氏は、不況のため赤字経営に陥いり、批判と不満ばかりを訴える、松下系列の販売会社の社長200人を前にこう言ったそうだ。

 

「あなたは血の小便をしたことがあるか。それぐらい熱心にやらないと、そう簡単に成功するものではない」と。

 

松下氏自身、9歳で小学校を中退し丁稚奉公から始め、ゼロから叩き上げ、日本一の電器メーカーを築き上げた、真正の苦労の人であった。何も自ら進んで体を壊す必要はないのは当然だ。例え絶望の淵にあったとしても忍耐強く戦い抜く人が、最後に勝つ人であると肝に銘じて、前進していきたい。

 

 

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命ある限り題目を唱え、広布に向かっていくのだ -指導集(21)

如説修行抄p504

一期を過ぐる事程(こと・ほど)も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、縦(たと)ひ頸(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切り・どう(胴)をばひしほこ(稜鉾)を以て・つつき・足にはほだしを打つてきり(錐)を以てもむとも、

命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死(しぬ)るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山(りょうぜん)へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女(じゅうらせつにょ)は受持の者を擁護(ようご)し諸天善神は天蓋(てんがい)を指し旛(はた)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光の宝刹(ほうせつ)へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。

 

 

「広布と人生を語る」第5巻 1983年12月8日

「いかに強敵重なるとも」と――この決心なくして信心のリーダーとはいえない。「ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」と。とうぜん、正法には難がつきものである。とともに、いかなる権力によって脅し迫害されたとしても、ゆめゆめ退転するな、恐れるな、との厳しき響きを忘れることができない。

また「縦ひ頸をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこを以て・つつき・足にはほだしを打ってきりを以てもむとも」――これほどまでの残虐なことをされたとしても、けっして一歩も退かない信心でなければならない。そして「命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死しぬる」ことが、信心の真髄なのである、と私は徹底して戸田先生より鋭く指導されてきた。この決心が私の信心の骨髄となったがゆえに、私はなにも恐れるものはない。これからもこの決心で、私は皆さま方とともに前進する決意である。

 

戸田第2代会長の指導


広宣流布へ向かっていくのだ

われわれ自身が南無妙法蓮華経である。ゆえに叩かれようが、罵られようが、ひとたび題目を唱えた以上は、水をのみ、草の根をかんでも、命のあるかぎり、南無妙法蓮華経と唱え抜いて、広宣流布へ向かっていくのだ。これが信心だ!

悩みがあるなら真剣に祈りなさい
 真剣に御本尊様に願い切るんだな。この簡単な原理がみんなわからない。これが一番遠いようで確実な早道になっていく――いつもこう指導されて、理屈ではわかっているが、いざ日常生活の中ではさっぱりわかってないようだ(なかなか確信できない)。

 

 

【ひと言感想】

究極の信心の覚悟を打ち込まれた御書です。民主主義であり信教の自由が保障された現代においては、折伏したからといって投獄されたりすることは到底、起こり得ません。何百万世帯以上も折伏した三代の会長以外には、無実による投獄は誰もありませんでした。刑罰あるいは拷問を受けたりするなども聞いたことがありません。その意味では、現代はずいぶんと広宣流布しやすい時代になったと言うことができると思います。

しかし、そうは言っても創価の仏法が最高に正しいがゆえに、広宣流布に障魔や迫害は避けて通れません。信心したことにより、家族や親類に反対をされたり、職場などで苦境に立たされたりは、ありがちなことかもしれません。意外と、最も自分に理解を示し味方だったような人が、豹変して、信心に大反対することがあります。

それは、この信心が正しいからあり、絶対に間違いがないからであり、必ず幸福になれるからこそ、現れてくる障害なのです。信心を捨てさせようとの第六天の魔王の働きと見抜かなければならない。難が起きた時こそ、絶対に負けてはならない、大事な大事な正念場なのです。

如説修行抄で、大聖人がこれほどの残虐な仕打ちを具体的に描写しながら、「迫害を恐れるな! 退転してはならない!」とご指南されているのは、不退転の本物の信心を烈々と打ち込まれているのです。改めて御文を心肝に染めて、勇気ある実践に挑んでまいります。

 

 

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”わが広布の砦”を守り抜く人が真の功労者 -指導集(20)

1989年初夏にフランスの(故)ミッテラン大統領と会見された池田先生が、「青年に勧めたい本」についても尋ねました。その答えとして大統領が挙げた2冊のうちの1冊、小説『タタール人の砂漠』の主人公ドローゴの人生を通して、先生がご指導されます。

 

●1989年「11・18」記念合同幹部会のスピーチから抜粋

ともあれ、人生は、はじめから何もかも思いどおりになるものではない。さまざまな理由から、不本意な場所で、長く過ごさねばならない場合も多々ある。その時にどう生きるか。どう自分らしい「満足」と「勝利」の人生を開いていくか。ここに課題がある。自分の不運を嘆き、環境と他人を恨みながら、一生を終えてしまう。そういう人は世界中に無数にいる。また栄誉栄達と他人の称讃を願い、それのみを人生の目的とするかぎり、そうした不満とあせりは、何らかの形で、永遠に消えないかもしれない。

(中略)
いわゆる世間的に「偉くなりたい」と願う人は多い。しかし、人間として「偉大になろう」と心を定める人は少ない。人の称讃と注目を浴びたいと願う人は多い。しかし、「死」の瞬間にも色あせぬ「三世の幸」を、自分自身の生命に築こうとする人は少ない。「死」――それは人生の総決算の時である。名声も富も地位も学識も、それのみでは何の役にも立たない。虚飾をはぎとって裸になった「生命それ自体」の戦いである。厳粛にして、公正な勝負の時である。この戦いの勝者こそ、真の勝者なのである。御書には、妙法を持ちきった人の臨終について「千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」――千人の仏までが迎えに来て、手をとってくださることを思うと、歓喜の感涙を抑えられない――と。

 

学会においても役職等は、ある意味で仮の姿である。その人の偉さと幸福を決めるのは、当人の生命の「力」であり、広宣流布への「信心」である。何の栄誉も、脚光も求めず、黙々と”わが広布の砦”を守って生きぬいてきた人々が、全国、全世界に、たくさんいらっしゃる。有名でもない、大幹部でもない、華々しい活躍の姿もないかもしれない。ただ法のため、友のため、地域のために、光のあたらぬ場所で、くる日もくる日も、心をくだき、足を運び、”砦”の守り手として生きてきた。愚直なまでの私心なき信心の姿である。そういう人々の力で、今日の世界的な学会がある。大聖人の正法の興隆がある。このことを、だれ人も永遠に忘れてはならない。

 

指導部をはじめとする、こうした方々こそ、真の「功労者」なのである。私は、ある面では、会長、副会長以上に大切に思い、「仏の使い」として尊敬している。ましてや、社会的地位など私は眼中にない。私は仏法者である。仏法者は何より、その人の生命の実相を見る。

 

ドローゴの場合は、長年つとめたあげく、いざ”栄光の時”を迎えたとたん、苦労知らずの連中に放り出されてしまった。わが創価の世界には、そうした不当な、無慈悲の振る舞いは、片鱗だにもあってはならない。私も絶対に許さない。陰の苦労もなく、若くしてトントン拍子で幹部になりながら、そうした真の仏子を下に見るような言動は、学会の精神に反する。道理にも反する。人間としても卑しい。むしろ「苦労してきた人ほど報われ、顕彰される」――わが学会は、そうしたうるわしい世界でなくてはならない。ともあれ、いかなる立場にあろうとも、その”使命の砦”を守りぬきながら、わが生命を鍛え、磨き、社会の勝利者に、そして三世にわたる「凱旋将軍」の自身となっていただきたい。とくに青年諸君に対する、これが私の念願である。

(1989年11月12日。池田大作全集第73巻)

 

 

 

 

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組織を攪乱する者は必ず行き詰まる -役職について(4)

草創期、支部婦人部長の人事に不満を持ち、組織をかく乱した先輩会員が出たことに対する、池田先生のご指導の抜粋を紹介します。全文は、『新・人間革命 第2巻』聖教ワイド文庫の、p181-6行目からp189-2行目までをお読みください。

 

――信心によって病を克服した体験を持つ婦人が、なぜ、周囲をも巻き込み、団結を破壊しようとするのか。名聞名利と慢心に蝕(むしば)まれていることは確かだが、どうして、それに気がつかないのか。その一念の狂いは、何ゆえ生じたのか。日蓮大聖人は「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書383ページ)と仰せである。

 

(中略)
組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。問題は、そこで自分がどうするかだ。批判して終わるのか、助け、補うのかである。中心者を、陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。そして、どこまでも御聖訓に照らして自己を見つめ、昨日の自分より今日の自分を、今日の自分より明日の自分を、一歩でも磨き高めようと、挑戦していくなかに、人間革命の道があるのだ。そこにのみ無量の功徳があり、福運を積みゆくことが出来るのだ。

 

この婦人は、これまで一生懸命に信心に励んでいたように見えても、結論するに、仏法の基本が確立されていなかったのである――。

 

(中略)
彼が最も心配していたのは、支部の婦人部長としてこれから戦わねばならぬ石山照代のことであった。石山にとって支部婦人部長の就任は、予想もしないことだった。彼女は任命を受けたものの、自分が果たしてその責任を全うできるのか不安をいだいていた。その矢先に「幹部としての経験も浅く、たいした信心もないのに、よく婦人部長になったものだ」という批判の声を耳にした。しかも、支部結成大会の準備を呼び掛けても、冷淡な反応を示す人が少なくなかった。彼女は完全に自信を失い、悩み抜いた末に、婦人部長の交代を、山本会長に申し出ようと思っていたのである。

 

 

伸一は、じっと石山に視線を注ぐと、強い語調で語った。「わかっている。全部、わかっています。誰があなたの悪口を言っているかも知っています。しかし、広宣流布の使命に生きようとする人が、そんなだらしないことで、どうするのですか。批判するものには、させておけばよい。私があなたを守っていきます!」

 

石山は、驚いたように、伸一の顔を見つめた。「ひとたび任命されたからには、あなたには、支部婦人部長として皆を幸福にしていく使命がある。決して偶然ではない。信心も、自身の人間革命も、広宣流布の使命を自覚し、戦いを起こすことから始まります。したがって、今はどんなに大変であっても、退くようなことがあっては絶対にならない。

 

仏法は勝負です。常に障魔との戦いです。魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、巧妙に学会の団結を乱そうとします。魔は、戦おうという人の生命力を奪い、やる気をなくさせようとします。時には、今回のように、同志の嫉妬となって現れることもある。あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともある。

 

こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強盛な信心の一念しかありません。あなたも、今こそ唱題で自分の境涯を大きく開き、本当の広布の戦いを開始する時です。そして、真剣な心で困難に挑み、温かく皆を包みながら、すべてを笑い飛ばして、明るく、はつらつと、悠々と突き進んでいくことです。

 

今、学会は大前進を開始した。飛行機でも、飛び立つ時には、揺れもするし、抵抗もある。千葉も、今、新しい出発を遂げようとしている。いろいろと問題があるのは当然です。しかし、あなたが支部の婦人部長として見事な戦いを成し遂げ、多くの人から信頼を勝ち取っていけば、つまらない批判なんか、すぐに消えてなくなります。飛行機も上昇し、安定飛行に入れば、ほとんど揺れなくなるようなものです。そして、あなたを排斥しようとしたり、仏意仏勅の組織を撹乱しようとした人は、必ず行き詰まっていきます。仏法の因果の理法は実に厳しい。深く後悔せざるをえない日がきます。

 

広宣流布のための苦労というのは、すべて自分の輝かしい財産になります。だから学会の組織のなかで、うんと苦労することです。辛いな、苦しいなと感じたら、”これで一つ宿業が転換できた” ”また一つ罪障が消滅できた” と、喜々として進んでいくんです。最も大変な組織を盤石にすることができれば、三世永遠にわたる大福運を積むことができる。来世は何不自由ない、女王のような境涯になるでしょう」

 

石山照代は、心に立ち込めていた霧が、瞬く間に晴れていく思いがした。彼女の頬に、いつの間にか赤みが差していた。この時、組織を撹乱した婦人は、先輩の指導によって、幹部として活動した時期もあったが、後に夫妻で退転、反逆し、自ら学会を去っていった。邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、学会の正義と清らかさの証明がある。

 

 

役職について・アーカイブ

 

 

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同志からの怨嫉として魔が現れる時 -役職について(4)

草創期、支部婦人部長の人事に不満を持ち、組織をかく乱した先輩会員が出たことに対する、池田先生のご指導の抜粋を紹介します。全文は、『新・人間革命 第2巻』聖教ワイド文庫の、p181-6行目からp189-2行目までをお読みください。

 

――信心によって病を克服した体験を持つ婦人が、なぜ、周囲をも巻き込み、団結を破壊しようとするのか。名聞名利と慢心に蝕(むしば)まれていることは確かだが、どうして、それに気がつかないのか。その一念の狂いは、何ゆえ生じたのか。日蓮大聖人は「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書383ページ)と仰せである。

 

(中略)
組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。問題は、そこで自分がどうするかだ。批判して終わるのか、助け、補うのかである。中心者を、陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。そして、どこまでも御聖訓に照らして自己を見つめ、昨日の自分より今日の自分を、今日の自分より明日の自分を、一歩でも磨き高めようと、挑戦していくなかに、人間革命の道があるのだ。そこにのみ無量の功徳があり、福運を積みゆくことが出来るのだ。

 

この婦人は、これまで一生懸命に信心に励んでいたように見えても、結論するに、仏法の基本が確立されていなかったのである――。

 

(中略)
彼が最も心配していたのは、支部の婦人部長としてこれから戦わねばならぬ石山照代のことであった。石山にとって支部婦人部長の就任は、予想もしないことだった。彼女は任命を受けたものの、自分が果たしてその責任を全うできるのか不安をいだいていた。その矢先に「幹部としての経験も浅く、たいした信心もないのに、よく婦人部長になったものだ」という批判の声を耳にした。しかも、支部結成大会の準備を呼び掛けても、冷淡な反応を示す人が少なくなかった。彼女は完全に自信を失い、悩み抜いた末に、婦人部長の交代を、山本会長に申し出ようと思っていたのである。

 

 

伸一は、じっと石山に視線を注ぐと、強い語調で語った。「わかっている。全部、わかっています。誰があなたの悪口を言っているかも知っています。しかし、広宣流布の使命に生きようとする人が、そんなだらしないことで、どうするのですか。批判するものには、させておけばよい。私があなたを守っていきます!」

 

石山は、驚いたように、伸一の顔を見つめた。「ひとたび任命されたからには、あなたには、支部婦人部長として皆を幸福にしていく使命がある。決して偶然ではない。信心も、自身の人間革命も、広宣流布の使命を自覚し、戦いを起こすことから始まります。したがって、今はどんなに大変であっても、退くようなことがあっては絶対にならない。

 

仏法は勝負です。常に障魔との戦いです。魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、巧妙に学会の団結を乱そうとします。魔は、戦おうという人の生命力を奪い、やる気をなくさせようとします。時には、今回のように、同志の嫉妬となって現れることもある。あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともある。

 

こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強盛な信心の一念しかありません。あなたも、今こそ唱題で自分の境涯を大きく開き、本当の広布の戦いを開始する時です。そして、真剣な心で困難に挑み、温かく皆を包みながら、すべてを笑い飛ばして、明るく、はつらつと、悠々と突き進んでいくことです。

 

今、学会は大前進を開始した。飛行機でも、飛び立つ時には、揺れもするし、抵抗もある。千葉も、今、新しい出発を遂げようとしている。いろいろと問題があるのは当然です。しかし、あなたが支部の婦人部長として見事な戦いを成し遂げ、多くの人から信頼を勝ち取っていけば、つまらない批判なんか、すぐに消えてなくなります。飛行機も上昇し、安定飛行に入れば、ほとんど揺れなくなるようなものです。そして、あなたを排斥しようとしたり、仏意仏勅の組織を撹乱しようとした人は、必ず行き詰まっていきます。仏法の因果の理法は実に厳しい。深く後悔せざるをえない日がきます。

 

広宣流布のための苦労というのは、すべて自分の輝かしい財産になります。だから学会の組織のなかで、うんと苦労することです。辛いな、苦しいなと感じたら、”これで一つ宿業が転換できた” ”また一つ罪障が消滅できた” と、喜々として進んでいくんです。最も大変な組織を盤石にすることができれば、三世永遠にわたる大福運を積むことができる。来世は何不自由ない、女王のような境涯になるでしょう」

 

石山照代は、心に立ち込めていた霧が、瞬く間に晴れていく思いがした。彼女の頬に、いつの間にか赤みが差していた。この時、組織を撹乱した婦人は、先輩の指導によって、幹部として活動した時期もあったが、後に夫妻で退転、反逆し、自ら学会を去っていった。邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、学会の正義と清らかさの証明がある。

修行の枝をきられ、曲げられん事疑なかるべし

 

●『御書の世界(上)』(池田大作全集第32巻)

火にたきぎ(薪)を加える時はさかんなり、大風吹けば求羅(ぐら)は倍増するなり、松は万年のよはひ(齢)を持つ故に枝を・まげらる、法華経の行者は火と求羅(ぐら)との如し薪(たきぎ)と風とは大難の如し、法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし、此れより後は此経難持(しきょうなんじ)の四字を暫時(ざんじ)もわすれず案じ給うべし
(四条金吾殿御返事p1136)

 

[通解] 火に薪(たきぎ)を加える時は火は盛んになる。大風が吹けば求羅(ぐら)という虫はますます大きくなる。松は万年の樹齢をもつものであるから、枝を曲げられる。法華経の行者は、火と求羅とのようなものである。薪と風とは、大難のようなものである。法華経の行者は、久遠長寿の如来である。修行の枝を切られたり、曲げられたりすることは、疑いない。これより後は、(宝塔品に説かれる)「此経難持(しきょうなんじ=この経は持ちがたい)」の四字を暫くたりとも忘れず心に留めていきなさい。

 

[池田先生の講義]
池田SGI会長 この手紙をいただいた当時、四条金吾が主君から勘当を受けて苦境に陥っていた。そして、”信心していても現世安穏にはならない”と、つい、グチを漏らしてしまった。そのことを大聖人が伝え聞き、心配して叱咤・激励されたお手紙です。

法華経の実践に難は必然だ。しかし、難に耐え、難を乗り越えていく人は、我が生命本来の「久遠長寿の如来」を現していけるのである。その意味で、難こそ自身を最も深い意味で鍛え磨くための成長の糧である。そう教えられています。困難から逃げ、鍛えを避けるところには、決して向上も成長もない。これは、まさに大聖人の御自身の体験に基づく大確信であり、成仏の修行の永遠の真実です。

私と友情の絆を結ぶ世界の指導者たちの中には、獄中1万日の、南アフリカのマンデラ前大統領はじめ、投獄を経験された方が数多くおられます。その方々は、投獄の体験をむしろ喜びとしておられた。誇りとしておられた。

(中略)
斉藤教学部長(当時) だからこそ、三代にわたる会長が投獄に屈しなかった創価学会を深く強く信頼されていますね。

池田SGI会長 異口同音に「投獄されたことによって、自分自身の信念を鍛え上げることができた」と語られていた。経験していない人間には、想像もできないかもしれないが、私には、よくわかります。例えば、(ノーベル文学賞を受けた)ショインカ氏はこう言っています。「失ったものは『時間』です。得たものは『信念』です。投獄以前よりも、私の信念は強くなりました」

(中略)
エスキベル博士も言われていた。「牢獄で私は学びました。極限状態にあっても生き抜く力、抵抗する力を。その力とは、精神の力であり、魂の力です。牢の中では、体の自由はききません。しかし、心は自由なのです。心は縛られないのです」

 

[ひと言感想]
修行の枝をきられ、曲げられるような、いかなる難や圧迫があろうとも、「難こそ自身を最も深い意味で鍛え磨くための成長の糧である」 「試練を越えてこそ、永遠に崩れぬ仏の大境涯をいよいよ強く築ける」とのご指導の通り、強盛な信心で立ち向かっていきます。創立90周年の11・18まで残り12日間、悔いなく戦いきります!

 

 

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