信心

信心の変革が人間革命の証

 
 
 学会員の皆さま、都議選の大勝利おめでとうございます。
予想通り厳しい戦いでしたが、最後は全員勝利をつかみ取ることができました。創価学会員の「何としても勝利したい」との一念、祈り、行動が諸天を動かしたものと思います。わずかの票差での勝利は次なる戦いに油断せぬようとの教えに違いありません。これに弾みをつけて後半戦の戦いに出発したいと思います。



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 凡夫の生命が仏の生命であるということを、どうすればわかることができるのか・・・ここに信心する者の大きなテーマがあると思います。

 どうせやるなら正しい信心をして真実に近づきたいと思うのは私一人ではないと思います。ただその道を知ろうとすれば相応の難が待ち受け、時には命にまで及ぶことは、御書を拝しましても想像がつくことではないかと思います。

 その上で究極の目的を心得ていけば、それ以下のことに紛動されることはない。「仏になること」、「広宣流布すること」が生まれ来た使命であり目的だとわかれば、それ以下の難はその目的のための試練と見定めることができます。

 その試練がなければ目的に達しえないということもまた真実です。魔の試練にも厳しい宿命にも遭遇せずに目的にたどり着けるほど信心は甘くありませんし、魔王が成仏に向かう人をみすみす見逃すわけがありません。「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(御書1091p)・・・その時こそ「一生成仏」を決する時であります。

 魔はその人を崖っぷちに追い込み、あるいは魔酒をぶら下げ来たって誘惑し、信心を誑(たぶら)かしにかかってくることでしょう。私もこれまでそうした魔の責めに会いながらも落ちることなく、学会に残り戦ってくることができました。何があろうと「いまだ懲りず候」でいきたいと思います。

 池田先生は信心の途上に現れる宿命は魔の働きだと言われています。ならば「願兼於業」とは単に業を願ったというだけでなく、魔と戦うことを願って生まれて来た・・・「私は仏と魔の戦いにおいて、どこまでも仏として魔と戦うことを誓います」そう願ったということだといえないでしょうか。

 信心で魔の試練を乗り越えれば、宿命転換するだけでなく、前よりも数倍心の強い人間になれます。試練は刀を火に入れて焼きを入れて強くするようなものです。その時は熱いですが、そこを通れば強い鋼となります。そして難を乗り越えるたびに、仏界が強まり、広宣流布に向かう力が増していく。その人は必ず広宣流布に一人立つ自分へと変革していくのです。

 もし私が「あなたはどう人間革命されましたか?」と聞かれたら、一番に信心の心が革命したと言います。「自分のことだけを考えていた人間が、本気で広宣流布したい、他者の幸福のために妙法をもって戦っていきたい・・・そんな人間へと生まれ変わりました」と言うでしょう。

 死んでもっていけるのはこの生命の財のみです。お金も地位も夢の中の栄、まぼろしです。自分をどういう生命と為して旅立っていくか・・・「先(まず)臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書1404p)・・・大聖人様はそうご指南されています。この御文をよく思索し、何を求めて生きるべきか、それに基づいていくべきだと思います。


 さあ、我が方面は今日から座談会。今週は3つの地区に入りながら同志の皆さんとともに語らい、共に生命の福運を積んでいく会合にしたいと思います。

 心ある同志の皆さま、後半戦も力強く前進してまいりましょう!








仏とは使命に目覚めた人



 時折、ブログにも書いていますように、私はかつて学会活動が好きではなく、出ても「つまらない、つまらない」と思い、時にはひどい頭痛を催す有様。自分は組織にはなじめない人間だと思っていました。ほんと言うといつか組織から離れることも覚悟しながらやっていたのです。

 そんな私が結果的に学会から離れなかっただけでなく、今は地域の中心的なメンバーとして同志と呼吸を合わせ、喜々として戦っているのですから、我ながら不思議というほかありません。

 いつしか自分の意思を超えた大きな力によって、学会になじむように導かれ、私自身も変わっていったのです。それが私のもって生まれた「過去の宿縁」だったことを、今さらながらしみじみ感じ、「これが俺の道だったか」と今では観念しています。(笑)


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 そうした私の変化の底流にあったのは、「師弟」であり、「使命」というものでした。御本尊に対し、池田先生に対し、自分はどうあるべきかを考えた時、やはり学会とともに広宣流布に身を投じていくのが正しい・・・その一念が私の生命の奥底にあったことによって私自身は救われました。

 組織嫌いの私が宗門問題にしろ、大御本尊などの問題にしろ、ピリっとも動揺しなかったのは、まさにその一念が確かだったからに違いありません。逆にその時に信念の節を曲げてしまった人は、その一念がなかった人だと思います。その一念こそ「仏の一念」、「地涌の菩薩の一念」なのです。

 池田先生から一番遠い学会員だと思っていた私が、池田先生に随順し不二となって生きていきたいと思う。その生命の変革は私にとって「発迹顕本」と言っていいものとなりました。また広布の陣列から距離を置いていたのが、この地域の広布の中心者として立とうと変わっていったことは、仏法上の使命に自身が目覚めた姿と言えると思います。

 世の中には母親であるとか研究者であるとか、様々な使命があります。自分を犠牲にしても子供を育てる母親の使命、また研究に身を捧げ、世の発展に貢献したいという研究者としての使命・・・それらは世間にあって尊い使命です。

 それと同様に広宣流布に身命を捧げ、貢献しようとする使命は仏法の使命であり、地涌の菩薩の使命です。これこそ人に生まれ出て最高の使命です。「広宣流布こそ私の使命です。」そう腹の底から言える人は仏の生命の人。その使命に生きる権利は万人に平等に与えられている・・・それが仏法の素晴らしいところだと思います。

 使命の力というのは本当に大きいものです。人は使命を知る時に自分を変えることができます。使命を自覚した時、目的も明らかになり、それに向かって真っすぐに行動できます。たとえ行く手に障魔が競うとも、使命に燃えた人の前にはそれさえも跳躍台となることでしょう。

 仏法の使命に目覚めるまで私も時間がかかりましたが、今は迷いなくその使命に生きていく身となりました。私の人生の目的は広宣流布です。その心に迷いがなければ仏です。その心で地域に仏法を弘め、同志を護り、朗らかに前進していけば、最後の勝利を勝ち取ることは大地を的とするようなものです。

 私にも魔は執拗に競っています。しかし、どんな状況にあろうとも、御本尊を抱きしめて、信心に迷いなく、信の利剣で魔性を打ち破りながら今日も力強く前進していきたいと思います。