2021年 8月 の投稿一覧

ゲーテ「偉人はなぜ早く世を去るのか」

並外れた人間は、自分の使命をやり遂げることを天職としている。

それをやり遂げると、もはやその姿のままで地上にいる必要はない。

彼らは自分の使命を完璧に果たし、逝くべき時に逝った。

それはこの長く続いていく世界で、ほかの人にもやり遂げるべき仕事を残しておくためなのだ。



ゲーテ





ゲーテは仏法を知りませんでしたが、さすがに三世永遠の生命の本質をつかんでいました。

蓮祖は60歳、戸田先生は58歳で逝去されています。

これは、それだけ速やかに一切の使命を果たされたからなのです。

仏は使命を果たすためにこの世に生まれてくるので、本懐を成就すれば、いつまでも娑婆世界に縛られている必要はありません。

後継の青年を育て上げれば、再び次の国土に旅立つのです。




欧州 伝統の青年夏季研修会

8/31
今日の一面

欧州 伝統の青年夏季研修会
36ヵ国の代表860人が誓い新たに
池田先生がメッセージ
「歴史築く広布の勇者と」
師の初訪問60周年の10月へ

8月も今日で終わり。
コロナの収束も未だ見えず。
ただ、じっと手を見る...。

続・新しいミッションの意味

☆sokafree.exblog.jp/30656018/ ユニット異動が決まり、10月に新しましたが、要するにどうしても 上手くいかないユニットの「てこ入れ」なのです。 「介護施設のウイークポイントを埋めてほしい」 というのが、今回の異動の主旨です。 私は入社して7カ月、最初のユニットで仕事をしながら技術を学びました。 7カ月程度の経験では、まだ能力は50点ほどでしかなかった。 全...

小西輝夫『精神医学からみた日本の高僧』を読む 7親鸞

からつづく ー


親鸞
それがし閉眼せば、加茂河に入れて魚にあたふべし


〇以下、抜き書き

〔精神医学分析〕
・「六角堂の…夢告…見事な性夢であり、そこに青年の悩み―男にとって身勝手な願いーが正直に告白されている…六角堂の参龍の動機には性の問題が大きな比重を占めていたことは間違いなく、親鸞はこの夢告によって、妻帯は許されると判断(実は自問自答)したのであろう。」(P96)
・「親鸞の筆跡は、書簡類のかな書きは別として、漢字は一字一字が宋朝風の楷書で、力をこめて書かれており律儀きわまる書風である。」(P107)
・「ところで親鸞は…その信仰に、浄土教徒が示しがちな死の賛美や情緒的耽溺がまったくみられない」(P017)
・「ユーモアを解し、冗談をいう親鸞は想像しにくい。しかし、…きわめて人間的な情愛をもった人物であった」(P108)
・「親鸞の容貌…肖像画家・専阿弥陀仏のスケッチ風の立像―鏡御影(国宝)…建長7年(1255)に法眼朝円が83歳の親鸞を描いた座像-安城御影…「大きなあたま、ふとく怒ってはねあがった眉、とびだしたほほ骨、うはむいた鼻、やせこけた頬と大きな口、ふといくび、日蓮ともくらぶべき頑丈な体躯」の人物である。これはまさに、筑波風の荒野に立つ農民の風貌そのものといってよい。やさしさと気品を漂わせる象のように小さな眼だけが、唯者でないことをひそかに教えてくれる」(P112)
・「農民的雰囲気を持つ」(P113)
・「親鸞…性格学的…粘着気質と親和性をもつ筋骨逞しい闘士型の体躯…健康な粘着気質者の基本的特徴は、「安静な強靭性」(切替辰哉)である。寡黙で、几帳面で、努力家で、擬り性で、鈍重なほど情緒に変化がなく、愚直で、誠実で、謹厳で、礼儀正しく人情に厚いが、頑固で融通がきかず、独善的なところもある。…怨みは永く忘れない執念さを秘めているのがふつうである。親鸞の場合にも、出家仏教を無視しすぎているという独善性は拭い切れないものがあり、権力者に対する批判的態度を終生持ちつづけたそのうらには、粘着気質者特有の執拗さがあったことも否定できないのではないか―と思う。」(P114)

〔メモ〕
・「行者宿報説女犯 我成玉女身被犯
  一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
(私注:いい気なものだと思う)
・会食…僧たちは袈裟をはずして魚食の饗応を受けた。当時、僧の肉食はふつうのこと…袈裟をはずすことで殺生戒を守るふりをした…ところが親鸞ひとりは、袈裟をかけたまま食べていた。それを見て時氏の次子の開寿丸―のちの5代執権・北条時頼 (1227-1263) が理由を問うた。はじめ親鸞は、はずすのを忘れたのだと答えていたが、開寿丸がママつこく問い糺すので、「末法のいまは無戒の時代であり、持つべき戒も守るべき戒もない。だから私は世俗の人と同じように肉食しているが、せめて仏者のしるしである袈裟つけて食べるなら、かの生類(魚)のために、少しは功徳にもなろうかと思っているだけだ」と答えたという(『口伝鈔』)(P99)
(私注:少なくとも日蓮は魚鳥・肉は食べなかったし、妻帯もしなかった。また、この会食で言うところは、単なる居直りではないか)
・「文暦2年 (1235)、鎌倉幕府は専修念仏禁止令を公布した。《建永の法難》以来30年近くたっているのに、専修念仏は市民権をもつことができないのである。それが契機となったのか、このころ、親鸞は京都に帰る。」(P103)
(私注:日蓮文書には、親鸞の名前は全く出ないのは、日蓮が10代のときに既に親鸞は帰京していたからか。念仏停止も法然に係る記述である)
・「弘長2年(1262)11月12日…親鸞は死期の近いことを悟り、あとに残る末娘覚悟尼とその子らの生活を支えてくれるよう、関東の門弟らに書簡を送った。それは一種の遺言状となり、親鸞の死後、その廟所を守ることになった覚信尼らの生活は保証され、やがて血縁世襲という真宗教団独特の在り方が生れることになる。それは、今日の東本願寺教団における内紛の遠因であることに間違いない。」(P104)
・「同月…28日…90歳の親鸞は、「それがし閉眼せば、加茂河に入れて魚にあたふべし」(『改邪妙』)と遺言してその生涯を閉じた。
(私注:この態度は共感できる。ところで荼毘も否定したのだろうか)
・「日本の名僧のなかで、親鸞ほど高名な人物はないが、また彼ほど、その人柄の掴みにくい人物もないように思う。…(みずからを語ることについては)鈍重なほど寡黙な人であった。…大体、日本人の心性では、饒舌は不実につながり、寡黙は誠実につながる。寡黙な親鸞は、誠実に生きることを執拗なまでに求めつづけた。それはやがて、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮をいだけばなり」(『愚禿紗』)という結論となるが、その過程において、僧としては最大の破戒―肉食妻帯に進んだのは当然の成り行きであったろう。「外に賢善」うんぬんとは、卑俗な言い方をすれば、女が欲しいくせに女に関心のないょうな顔をするな、魚が食いたいくせに食いたいとも思わぬと嘘をつくな―ということであるから…。
 大体、戒律を守るということは、形式としてそれを守ることではなく、その精神に従って生きることであった筈だが、いつのまにか、持戒にょって俗人と一線を画す孤高主義に変質したり、戒律そのものが呪術的禁忌と混同されたり、持戒のみかえりを期待する打算主義に堕落したりするというあやまちがみられるようになった。そのょうな虚偽と偽善を徹底的に拒否したのが親鸞であった。もっとも、形式が内容を規定するということもあるのだが、それは親鸞の容認するところではなかったようである。親鸞にとっての持戒は、真実を求めて試実に生きること以外にはなかったといえる。」(P105)
(私注:この小西の解説は持戒に生きた無数の僧侶を侮辱している。破戒にしてやりたい放題にすることを誠実とは言わない)
・「『自然法爾』法語で、西方浄土の教主である阿弥陀仏(無上仏)を形なきものとし、一種の宇宙的意志として定義している…いわゆる来迎図的な阿弥陀仏を方便としてしかみていなかったことは、当時の時代思潮を考えるとき、おどろくべ発想といわざるを得ない。」(P107)
(私注:己心本尊はしかし、すでに当時は主流となっていた。また、現代的に言えば、色形もないという思念自体、すでに心象における偶像ではないか)
・「『愚禿悲嘆述懐和讃』…
「かなしきかなや道俗の
 良時吉日えらばしめ
 天神地祇をあがめつつ
 卜占梨花つとめとす」
…親鸞の呪術否定が、潔癖なほど明快なものであることがわかる。そして、それは、浄土信仰の一神教的な性格に拠る以上に、親鸞自身の性格に拠るところが大きいといえよう。」(P108)
・妻の恵信の解説(P110)略す

につづく ー

大石寺64世、水谷日昇のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会大石寺から離れ、いわゆる弘安2年「戒壇本尊」(後世偽造説)を受持の対象から外しました。
現在の創価学会が根本としているのは、大石寺64世水谷日昇書写の本尊の模刻です。
これは創価学会の第2代会長、戸田城聖が昭和26年(1951年)5月12日、大石寺の水谷日昇氏に対して「創価学会常住の御本尊下賜」を願い出たことがきっかけで同年5月19日に書写されたものです。
池田大作会長時代、昭和40年代に池田氏の指示によりこの本尊の写真を撮って板に模刻し、昭和50年(1950年)1月1日、池田大作会長の導師で入仏式まで行いました。
このことが大石寺宗門から批判され、複数体の板本尊が本山に没収されますが、水谷日昇が書写した紙の本尊は傷みが激しかったことから、当時の大石寺66世細井日達が特別に許可をし、昭和52年(1977年)11月に日達本人が入仏開眼式を行いました。
このいわくつきの本尊が、現在の創価学会の常住本尊とされていまして、現在は信濃町の「広宣流布大誓堂」に安置されています。以下の画像は、創価学会の機関誌『大白蓮華』81号に掲載されたもので、当時はまだ板に模刻される前の紙の原本になります。

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ところで、この本尊を書写した水谷日昇という人物はどのような人物なのでしょうか。
私の知り得る情報の中で、なるべく主観が入らないように客観的に書いてみたいと思います。



大石寺64世の水谷日昇は、61世水谷日隆の「義弟」とされます。事実、Wikipediaで「日隆」を調べると日昇は日隆の「義弟」となっています。
「義弟」とはどういうことか。つまり水谷日隆と水谷日昇は本来の父親が異なっていまして、それが後に「水谷姓」で認知されたということです。

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水谷日隆(秀道)の父は、水谷慈秀といい、明治初年の頃、宮城県栗原郡宮野村の妙教寺の住職でした。
水谷慈秀は千田ソノという女性と関係を持ち、やがて彼女は妊娠します。ただ千田ソノはすでに別の男性と結婚していたため、二人は宮野村を離れることになります。そして明治7年8月10日に水谷秀道(後の日隆)が生まれます。生まれた場所は定かではありませんが、二人で転々と場所を変える中での出産であったようです。
その後、慈秀は日光に着き、宿屋の帳付けとして働き、妻となったソノは女中として働くこととなります。
ところが、しばらくするうちにソノが再び妊娠し、2番目の子を産むことになるのですが、青い目をしていて「ペルリ」と呼ばれるようになります。日光は外国人観光客が多く、その中でソノは関係を持ち、新たな子どもを授かったと言われています。この「ペルリ」こそ後の「水谷日昇」で、つまり水谷日隆と水谷日昇は実際の父親が異なる義兄弟の関係になります。
ペルリは日本名で「明」と名付けられますが、この子の扱いに関して夫婦間で議論が絶えなかったようです。やがて「水谷」籍に入れざるを得なくなるのですが、その後、水谷慈秀は息子の明を日光の宿屋から寺に小僧に出します。寺では「明」よりも「ペルリ」と呼ばれることが多かったと言われています。


水谷ペルリ明は栃木市下都賀郡豊田村字小薬の浄圓寺に小僧として出され、名を「秀円」と改めます。ちなみにこの栃木の浄圓寺は、現在の創価学会が授与している日寛本尊の原本があるところです。現在は日蓮正宗を脱退し、創価学会系として単立寺院になっています。
大正4年(1915年)12月2日、水谷秀円は正式に浄圓寺の住職になります。
この頃、水谷秀円は結婚していたようで、娘が生まれますが、その後、妻は家を出てしまいます。



この頃の水谷秀円には女性関係の話が絶えません。彼は昭和13年(1938年)に大石寺総監に就任するのですが、この頃、大石寺蓮成坊住職の川田利道の妻に会うために、蓮成坊に足繁く通い詰めるようになります。川田利道と妻との間にはそのため諍いも絶えなかったようです。住職の川田利道氏は急逝しますが、その後も水谷秀円は蓮成坊に通い続けます。当時の日蓮正宗では住職死去後、100日以内に妻子は寺を出る前例があったようですが、3年を過ぎても水谷秀円総監は彼女を囲って出そうとしなかったと言われます。



水谷秀円は義兄の水谷日隆の法主当座(昭和10年、1935年)後、兄の影響もあってか大石寺内で昇進し、総監の後、昭和17年(1942年)に兄の後を継いで東京・常泉寺の住職になります。
その後、大僧正になり、昭和22年(1947年)1月に大石寺第64世法主として水谷日昇は登座することとなります。先述しましたが「創価学会常住本尊」を戸田城聖の願い出から書写したのは、この4年後の昭和26年(1951年)のことになります。



ところが、その翌年の昭和27年(1952年)4月、創価学会の宗門に対する発言力を強める契機となった「狸祭り事件」が勃発します。「狸祭り事件」に関して詳しくは以下の記事を参照ください。



「狸祭り事件」


創価学会青年部から小笠原慈聞氏への示威行為」



この時の日蓮正宗側の法主こそ水谷日昇その人です。「狸祭り事件」での小笠原慈聞氏吊し上げに対し、水谷日昇並びに大石寺宗門は謝罪文提出、戸田城聖法華講大講頭罷免、登山停止という措置に出ます。



狸祭り事件から4年後、昭和31年(1956年)3月29日、水谷日昇は猊座を譲り、隠尊となります。この法主引退の経緯について溝口敦氏は次のように述べています。



「三十一年三月、大石寺では水谷日昇が退座し、堀米日淳が第六十五世法主になった。水谷日昇は池田[大作]の義父・白木薫次が大石寺大奥(大坊。法主が住み、宗務をとる)に勤めさせた女性と情を通じ、子までもうけたという。当時、水谷は夫人を亡くし、高齢ではあったものの『ネコにカツブシ』の状態だったと事情を知る元僧侶は語っている。このことを柏原ヤスが池田に知らせ、池田は『狸祭り事件』で、謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止の罰を戸田に課した水谷日昇に報復するため、この醜聞をもとに日昇に退座を迫ったとされる。
日昇は引退後、生まれた子を正式に認知したというが、創価学会による宗門支配の試みには、早くから謀略の臭いが漂う手法がとられていたことを知るのである。」
(溝口敦『池田大作「権力者」の構造』173ページ、講談社+α文庫、2005年)



水谷日昇は法主退座の翌年、昭和32年(1957年)10月14日に亡くなります。



池田大作の小説『人間革命』第2巻では「水谷日昇猊下の御登座は、戦後の宗門史にとって、重大な一大転機となった」とか、また「その淡麗な容貌と、清楚闊達なお姿は、新生日本の象徴とも言えた」等、歯の浮くような形容で絶賛しています。
しかし実際のところ、水谷日昇の実像はどうだったのかということです。果たして本当に彼は「清楚闊達なお姿」「新生日本の象徴」と言うべき人物であったのかという点をここでは問題提起しておきたいと思います。
現在の創価学会本部、信濃町の「広宣流布大誓堂」には、戸田城聖を登山停止措置とした張本人である大石寺第64世水谷日昇が書いた本尊が安置されています。


参考文献
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年
安永弁哲『板本尊偽作論 日蓮正宗創価学会の実態』多摩書房、1956年