2021年 7月 の投稿一覧

紛争地の若者の更生に挑む

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今日の一面

 

SDGs 行動の10

共に未来をつくる

紛争地の若者の更生に挑む

アフリカ ソマリア

“最も取り残された人”を置き去りにしない

 

自分が幸せになれないのに、

人を幸せにできるのか。 とか、

自分の幸せは顧みず、

人を幸せにする。 とかの次元ではなく、

 

単純に、

1年生の問題が解けないのに、

6年生の問題が解けるのか。っていう話だと思う。

 

ソマリアの方々の話は大切だとは、

思いますが、国内にもいるでしょうが。

取り残された方々が。

 

その方々をほっとくだけならまだしも、

カネとって新聞購読させたり、

しかも3部も4部も。

毎日、ほぼ無給で配達させたり、集金させたり、

色んな活動に駆り出させたり。

 

そういうところからじゃないですかねぇ

日本人の平均寿命が過去最高を更新

☆長寿を支える介護の力. ニュース(厚生労働省発表)によると、去年の日本人女性の平均寿命は 84.74歳で、過去最高だった2019年の87.45歳を更新し、 平均寿命としては世界一の長寿とのことです。 一方、男性の平均寿命は81.64歳で、過去最高だった2019年の 81.41歳を更新し、スイスに次いで2番目の長寿らしい。 私が勤務する介護施設では100歳を超えても尚、車椅子ではあり...

団地社会における創価学会の役割。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、何度かブログ記事にも書きましたが、戦後の創価学会は、すでに歴史的な役割を終えていると、個人的には考えています。



「歴史的に必要のなくなった組織」

「存在意義の終焉」

「教団の延命」



戦後、創価学会が大きく発展した背景には、人々の都市部への移動と共同体感覚の崩壊があったことは、さまざまな研究者、とりわけ多くの社会学者により指摘されています。
戦後、急激な社会移動により、都市部の住宅不足解消のために団地が多く作られます。日本社会は戦後、「長屋社会」から「団地社会」に移行していくのです。


言わば団地は社会移動の受け皿と言ってよく、旧来の長屋社会の論理から取り残され、地域から都市部に移住してきた人々が、失われた共同体感覚を補完する互助組織として、創価学会に多く入会し、その組織を拡大していったのだと思います。
実際、私の両親も地方から都内に仕事で出てきた者たちで、創価学会内部で出会って結婚することになります。当時はそのような例が少なからずあったのです。


多くの創価学会員さんがご存知のように、創価学会には「団地部」という組織があります。
団地内で創価学会の地区単位やブロック単位の座談会が行われることは珍しいことではなく、団地の会員宅の一室に皆が集まり、そこで皆で話をしたりしていました。
実際、私の幼少時も両親は都営住宅に住んでいまして、自宅は座談会や選挙の拠点としても使われていました。


1990〜2000年代前後から、住民の高齢化により、徐々に公営住宅公団住宅団地の自治会役員のなり手が不足してくるようになります。そこで多くの創価学会員が自治会役員に名乗りをあげ、存在感を発揮するようになります。
団地の自治会役員に多く創価学会員がなるという印象を多くの方々が語ることはありますが、実際のデータとして示されることはあまりありませんでした。九州産業大学の小池高史氏はここに着目し、創価学会の九州団地部の収集したデータを2002年、2011年、2014年と集めまして、それを論文の中で公開しています(データ提供は創価学会九州団地部長の田中直人氏によります)。
それによりますと、福岡県ではおよそ750人の創価学会員がなんらかの自治会役員を務めていまして、自治会長が創価学会員である割合が25.1%であることを述べています。実に福岡県の団地自治会長の4人に1人が創価学会員であることをデータが示していることになります。



つまり創価学会は、戦後「団地社会」の成立に伴い、地方から都市部に出てきて共同体感覚を失って孤立していた者たちが多く入会し、団地社会としての新たなコミュニティ形成を果たしてきた人々だったのだということです。



ところで、現在ではどうかと言うと、もはやそのようなコミュニティは求められていません。
そもそもインターネット、SNSがある中で、一人でも孤立感を感じずに過ごせる人たちが増加しました。「村八分」という言葉はもはや死語になり、子どもは地元には戻らないのも普通です。寺の檀家制度ももはや機能などしていません。
つまり創価学会の地域の共同体意識は戦後、昭和の団地社会移行の過程で要求されたものに過ぎず、今となってはそのような互助組織は存在意義を失っているのです。つまり創価学会の組織などなくても誰も困らないのです。そのようなコミュニティを誰も必要としていないのですから。


そのようなコミュニティ意識の終焉により、地域組織の存在意義を既に失っていることを、果たしてどれだけ多くの信濃町創価学会幹部たちが理解していることでしょうか。私はほとんど理解していないと思います。もしくは理解しようとせずに現実から目を背けているのかもしれません。




参考文献
小池高史「創価学会団地部の研究(1)ー団地部の概要と団地自治会との関わりー」『地域共創学会誌』第6号所収、九州産業大学、2021年



















勝利が見えてきた(消す記事)

☆昨日、日本のコロナ感染者数が1万人を超えたという。 オリンピックに注目している間に、どんどん増加していたようだ。 オリンピックは無観客試合、感染者拡大が オリンピックが原因とは言えまい。 なんでも政治のせいにする風潮だが、感染する人たちの油断はないのか。 全部、政府のせいにする人々はオカシイと思う。 さて、オリンピックは本当にすばらしい。 メダリストが次々に生まれて来る。 元気をもら...

身延離山後の日興と波木井実長の関係。




いつもみなさん、ありがとうございます。



今回は日興の身延離山に伴う、日興と波木井実長(南部六郎実長)の関係について考えてみたいと思います。



大石寺系教団の信徒さんなら、多くがご存知のことと思いますが、大石寺開山の日興が身延を離山した原因は波木井実長の仏像造立や神社参拝の謗法行為にあると創価学会大石寺では教えられています。
確かに『原殿御返事』を見れば明らかなように、日興が身延を離山した原因は波木井実長日蓮の意志と異なる信仰になったことによるかと思われます。



ところで、先日の記事で書いたように、日興の『与波木井実長書』によれば、波木井実長の仏像造立に関して、それが釈迦一仏のみの造立だから批判したのであり、四菩薩を伴う久遠釈迦仏の造立に関して、日興は全く否定していないんですね。その意味で日興は仏像造立を決して否定しているわけではないのです。



「日興における久遠実成釈迦如来



ところで、両者の関係に関して、日興が身延を離山して以降の文献を読んでいくと、両者の関係が完全に断絶したとはどうも言いにくいことがわかってきます。
例えば日興の永仁6年(1298年)の著作である『弟子分本尊目録』には次のような一文があります。




「一、甲斐国南部六郎入道者日興第一弟子也。仍所申与如件。」
(日興「弟子分本尊目録」『日興上人全集』124ページ、興風談所)



『弟子分本尊目録』が書かれたのは永仁6年(1298年)であり、すでに日興の身延離山の10年以上も後のことです。
身延離山から遥かに後になって、日興は彼の謗法を責めるというより、ここで南部六郎実長を「日興第一の弟子」とまで呼んでいます。
大石寺系や創価学会の信徒がかつて教えられてきた、謗法の者としての南部実長とは少し印象が違うのではないでしょうか。



加えてもう一つ日興の書状を紹介したいと思います。富士妙蓮寺に現存する『六郎入道殿御返事』です。



「へいけ(平家)のさんもん(山門)[たい]しうにてきたい(敵対)候て御こしに[や](矢)たち候しかは三ねんのうちに[たい]しやうの入道ほろひ候き。[あ]まりにほくゑ(法華)にあた(怨)をなし候てつゐにかかるせうしひきいたし(引き出し)候ぬ。しやくもんにはこれよりこそしんたいすへく候。これらの事もしやう(聖)人のほくゑ(法華)にあまりあた(怨)をなしていやしみ(賎しみ)候つるかなりつるすゑ(末)にて候也。恐々謹言。
正月十三日
       白蓮花押
謹上 六郎入道殿御返事」
(日興「六郎入道殿御返事」同210ページ)

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この書状には前紙が欠損しているようです。『日興上人全集』の注記によれば、平清盛が久安3年(1147年)6月15日、山門の祇園社の神輿を矢で射て、その権威を失墜させたという言い伝えがあるようです。その3年後に大将・平清盛が熱病で倒れたことを指した書状と推察されます。
この書状の末尾には「六郎入道殿」と書かれ、これは最初の『弟子分本尊目録』の記述から南部六郎入道、すなわち波木井実長のことと考えられます。興風談所の注記によるなら、この書状は身延離山の後のものと考えられていまして、もしもこの「六郎入道」が波木井実長だとするならば、日興は身延離山後も波木井実長とその一族に対して教導をしていたことが考えられます。つまり両者の関係は決して断絶していたわけではなかったことになります。