2021年 6月 の投稿一覧

織田仏に学ぶ6:己心弥陀・唯心浄土

日蓮が、観心本尊(仏)といい、また、写本のみであるが「浄土と云ひ穢土と云も土に二の隔なし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云も仏と云も亦如此」などという、己心仏・己心浄土の発想は『法華経』にはない。なんと日蓮が忌み嫌った念仏浄土思想に他ならなかった。その前提に『華厳経』も考慮されるか。

なお、心外に仏を指すのは、織田仏では善導の「指方立相」を挙げている。



・織田佛教大辭典(織田仏)から引用

コシンノミダ、ユヰシンノジャウド 己心彌陀唯心淨土 [述語] 萬法唯一なれば、生の外に佛もなく、淨土もなし、彌陀が己が身中の彌陀にして、淨土も我が心内の淨土なるを云ふ。
〔私注〕「己が身中」は“心中”ではないか。

觀無量壽經】に「諸佛如來是法界身。2一切衆生心想中1。是故汝等心佛時。是心即是三十二相八十隨形好。是心作佛是心是佛。」
〔私注〕“遍”の一字は元照)ではない。異本の転載か。

【天台觀經疏】に「諸佛法身與己同體。現佛時。心中現者即是諸佛法身之體2心是佛1。」
〔私注〕觀無量壽經義疏に載る文。赤字は織田仏にはない。

【維摩經佛國品】に「隨2其心淨1則佛土淨。」
〔私注〕觀無量壽經疏元照)に引用がある。

【起心論義記下本】に「衆生眞心即諸佛體。更無2差別1華嚴經云。若人欲3求知2三世一切佛1。應2當如是觀1。心造2如來1。」
〔私注〕「衆生眞心即諸佛體。更無差別。」は「起信疏下云」として釋摩訶衍論勘注にある。

【樂邦分類4】に圓辯法師の淨土唯心説、姑蘇禪師の唯心淨土文を載す。

【雲捿彌陀經疏鈔1】に「心佛衆生一體。中流兩岸居。故謂2自性彌陀唯心淨土」是れ諸法唯心、萬法一如の理性より談ずる法門なり。然るに善導所立の淨土門にはこれを取らず。西方の淨土を指し、心外に佛を仰ぐ。これを指方立相と云ふ。
〔私注〕SATで当たれず。

【觀經疏定善義】に「今此觀門等唯指方立相。住心而取境。總不2無相離念1也。如來懸知ハルカニ2末代罪濁凡夫1。立相住スルニ尚不得。何況離相而求事者。如B似無2術通1人居空立A舍也。」
〔私注〕觀無量壽佛經疏(善導)にあり。

【龍舒淨土文1】に「世有B2參禪1A。云唯心淨土ナリ。豈復更有ンヤ2淨土1。自性彌陀ナリ。不3必更見2彌陀1。此言似而非也。」
〔私注〕樂邦遺稿に「龍舒曰」として引用あり。

【萬善同歸集2】に「唯心淨土〇〇〇〇2遍十方1。何得C2質蓮臺1B形安養A。而興取捨之念1。豈達セン2無生之門1。忻厭情生。何ソセン2平等1。荅。唯心佛土者。了心方平等之門無2生之旨1。雖2即仰教生1信。其セン2力量未充觀淺心浮境強習重1。須C2佛國1B勝縁A。」
〔私注〕樂邦文類にあり。「荅」は「答」の異体字。とした所は「如來不思議境界經云。三世一切諸佛。皆無所有。唯依自心。菩薩若能了知諸佛及一切法皆唯心量。得隨順忍。或入初地。捨身速生極樂佛土。故智識心方生唯心淨土。著境秖墮所縁境中。既明因果無差。乃知心外無法。又」の文がない。

◎(曲、實盛)「ここも己心の彌陀の國」(曲、柏嵜)「己心の彌陀如來」

“利他”の心で人々を結ぶ

6/22
今日の一面

世界の友は今 2021
"利他"の心で人々を結ぶ


善かれと思って行動する事は、
価値観が違う人には、
やめた方がいい。

それが一番の"利他"の心だ。
だろ…。

法華経の功徳は未来世の予言に過ぎない。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて法華経を読むと、法華経の会座の大衆に対して、直ちに成仏するということ原理が全く説かれていません。
それも当たり前のことで、「即身成仏」という教義は空海が作り出した造語です。空海は著作『即身成仏義』で、それを説くのですから、法華経には即身成仏は説かれていないことになります。



その証拠に法華経を丹念に読めばよくわかることですが、法華経を広めたり、守護したりする功徳は、その人の死後、未来において達成されるこたばかりなのです。法華経の功徳は、法華経の原典に説かれる内容に依拠するなら、その場で与えられる功徳ではなく、未来において達成されるという予言に過ぎないのです。



例えば法華経薬王品第23では法華経を如説修行した女性の功徳は、死後に阿弥陀仏の世界に直行することと書かれていますし、提婆達多品第12での龍女成仏は、未来における予言で仏になった姿を神通力で見せられるだけです。しかも龍女自身は成仏の姿を示す時に身体から男性器が生えてきて成仏するという表現がされています。表現を見るならそれは即身成仏とは言えません。



法華経薬王品における臨終往生」



法華経の最初の成仏の予言は、舎利弗や迦葉などの弟子たちになります。冒頭の部分は展開から見ても巧妙に描かれていると個人的には思っています。



【序品第1】
釈迦が瞑想に入り、弥勒菩薩が今から法華経を釈迦が説くだろうと話す。釈迦の眉間から光が放たれ、世界が照らし出される。

【方便品第2】
釈迦がいきなり瞑想から醒め、仏の智慧は測ることもできないという諸法実相を語り出す。舎利弗が仏の方便という巧妙な知恵をたたえ、釈迦に三度にわたって詳しく話してほしいと懇願する。三度目の懇願の時に五千人の大衆が法華経の会座から立ち去る。その後、釈迦は「仏はただ一つの乗り物のために法を説く」と語る。

【譬喩品第3】
歓喜する舎利弗に対し、釈迦は舎利弗が未来世において華光如来という仏になることを予言する。釈迦は「三車火宅」の譬喩を述べて、仏が衆生にただ一つの乗り物を与えることを説く。

【信解品第4】
釈迦の話を聞き、舎利弗が未来世において仏になる予言を聞いた須菩提迦旃延、迦葉、目連らは驚いて喜び、その歓喜を表現するために自らが「貧しい子であった」とする「長者窮子の譬喩」を述べる。

【薬草喩品第5】
須菩提たちの話を聞いた釈迦は、如来が教えの主であり、一つの雨で多くの植物を潤すという譬喩を説く。

【授記品第6】
釈迦は弟子たちに対して、未来世において彼らが仏になることを予言する。



法華経序盤の概要を簡単に書きましたが、舎利弗須菩提迦旃延も迦葉も目連も、全て遠い未来において「仏になるであろう」という予言を授けられただけなのであって、法華経のどこにも即身成仏など説かれていないのです。
つまり法華経を信ずるものの功徳というものは、法華経を信じて臨終に至った後、未来世において達成されることになります。単にそのことが予言されるだけなのです。
ですから法華経を信じて「現世で幸福になる」という考え方は、法華経には全く説かれていない考え方ということになります。

















きょうは夜勤の日(消す記事でつぶやく)

☆転職して1年5ヵ月。来月になれは1年半です。 まるで竜宮城の浦島太郎。時の過ぎ行くスピードの速さだけは 「どうにもとまらない」生活になっています。 「どうにもとまらない」の歌の記事を添付します。 →sokafree.exblog.jp/30575583/ 私が職場で輝ける時間は、きっとそんなに長くありません。 正規職員としての仕事は65歳までと決めているので、 来月になれば「残り3年...

日興遺誡置文の研鑽⑥

一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。
今回はまずこの条項からです。「随力弘通」とは大聖人の◆在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか(松野殿御返事)との御妙判の「随力演説」と同じ意味です。要するに折伏のことです。では広宣流布が終わっていない間はなぜ折伏しないとならないかというと◆今日本国すでに大謗法の国となりて(妙法比丘尼御返事)◆若ししからば日本国当世は国一同に不孝謗法の国なるべし(法門申さるべき様の事)と御書にあるように広宣流布しない間は謗法がはこびっているいるからです。大聖人は涅槃経の◆「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」の経文を何度も御書に引用しています。謗法者を見ていながら折伏をしないということは「仏法の中の怨」になってしまいます。それでは折角この正法に出会えても成仏が叶いません。だから広宣流布が成就しないうちは折伏をすべきであると日興上人は御遺誡されているのです。ここで気をつけないといけないのが「随力弘法」です身命を捨て文字色と日興上人がいわれているだから「随力弘法」とは「全力で」という意味なんですが、「自分の力に従って折伏をすればいいんだ」というところから始まって、「随力弘法だから自分がやれる時に折伏をすればいい」という方向に行きやがて「仕事が忙しいから」「遊びや趣味で忙しいから」「折伏できる下種先が無いから」と自分が折伏をしない言い訳に「随力弘法」を拡大解釈してしまいがちです。自己都合の拡大解釈で自分に自分で言い訳をしなようにと私は心がけています。もちろん、仕事も遊びも必要だし、下種先も無限じゃないから「弘法」したくても出来ない時もあります。そんな時は私は「随力UP」を目指します。折伏ができないのではなくてただ単に現在の自分の力不足。力がUPすれば今まで折伏できなくてもいつか絶対にできると決めて唱題し教学を学んでいく。それが「随力弘法」の本義なのではないかと思います。朝の勤行の四座では【祈念し奉る一天 四海本因妙、広宣流布、大願成就御祈祷の御為に】と大聖人の大願である一天四海広宣流布成就を祈念しています。そうであるなら「随力弘通」をしていかなければ御本仏に対して嘘の祈念をしていることになります。そうならないいよう、そして少しでも御本仏の大願成就のお役に立てるように自身の「信心力」を深め高めていきたいものです。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。
一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。
一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。

この3条項は3つで「ワンセット」になっている条項です。この3つはそれぞれ「信」「行」「学」について言われているいます。【身軽法重の行者】とは「信」。【弘通の法師】とは「行」。【我より智勝れたる者】とは「学」のことです。そして共通しているのは、「信」「行」「学」に優れている人に対してはその人の信心歴やましてや社会的地位や性別・年齢関係なく尊敬し敬い大切にしていくべきこととの御遺誡です。「学」に優れている人は師匠のように思い学んでいく。「折伏」を行じている人は老僧を思うように大切にしていく。そしてなにより「信」の強き人は仏様のように信じ敬っていく。「信行学」は全て大切ですがこうして3条項を比べると、やはり「信」が一番の根本であることがわかります。この3条項は池田創価が宗門を権威主義・差別主義などと誹謗するときにたまに使う創価民がいますが、文証の使い方として全く逆です。古来から宗門では「信行学」に優れる人を年齢・僧俗の立場関係なく大切にするという日興上人の御遺誡を遵守しています。池田大作氏がもしも宗門から軽んじていたと感じていたなら、それは池田氏が「信行学」ともに「下劣のモノ」だったからでしょう。そもそも、創価の方が役職の上下で信心の上下も決めるような権威的差別が存在する組織でしょう。幹部からの指導なんてまさにその典型です。また私事ですが、私は選挙の時に折伏してたら仏敵・師敵対といわれ、御書ばかり読んでいると退転者になるとも言われました。明らかに日興上人の御遺誡と違うのが創価です。また私の体感として創価はその組織運営の方法から折伏等で結果を出す人や教学力がある人を嫉妬し貶める幹部が多い気がします。それはともあれ先ほど書いた自身の信心を深め高めるには「信行学」に優れた方々を尊敬しそのような方々から学ぶ姿勢と心が大切だと思います。


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「一瞬」に「永遠」を込めて

6/21
今日の一面

Stories ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史
第9回 「一瞬」に「永遠」を込めて



これが一面な事に、
ギモンを持たなくなってきた自分が怖い。

織田仏に学ぶ5:五味

・以下、織田佛教大辭典(織田仏)から

ゴミ 五味 [譬喩]佛、涅槃經に於て乳等の五味を説き、醍醐味を以て涅槃經に比す。天台大師これに因て如來諸説の一代聖教の次第に當て、一は以て五時教の次第に生ずるに譬へ、一は以て機の次第に淳熟するに譬ふ。之を約教相生約機濃淡と云ふ。一に乳味丶丶、初て牛より出づるもの。佛を牛に譬へ、佛初て華嚴經を説くは牛の乳に於る如し、此時二乘の機未だ熟せず、至つて淡白なること復牛乳の如し。二に酪味丶丶、生乳より取りしもの。以て佛華嚴の後に阿含經を説くと、阿含經を聞く小乘の機に譬ふ。三には生酥味丶丶丶、更に酪より製せしもの。以て阿含の後に方等經を説くと、小機熟して大乘通教の機となるに譬ふ。熟酥味丶丶丶、更に生酥を精製せしもの。以て方等經の後に般若經を説くと、通教の機熟して大乘別教の機となるに譬ふ。五に醍醐味丶丶丶、更に熟酥を煎熟せしもの。以て般若經の後に法華涅槃の二經を説くと、別教の機熟して大乘圓教の機となるに譬ふ。

涅槃經14】に「善男子。譬如C牛出乳、從酪、從酪、出2生穌1。從2生穌12熟穌1。從2熟穌12醍醐1。醍醐最上。若有服者衆病皆除。所有諸藥悉入B其中A。善男子。佛亦如是。從佛出2生十二部經1。從2十二部經12修多羅1。從2修多羅12方等經1。從2方等經12般若波羅蜜1。從2般若波羅蜜12大涅槃1。猶如2醍醐1。」

而て此の五味の喩に人法の二種あり、人とは涅槃經10に佛言く善男子、聲聞は乳の如く、縁覺は酪の如く、菩薩の人は生熟酥の如く、諸佛世尊は猶醍醐の如し。
〔私注〕涅槃経10の原文は以下。
「佛言善男子。聲聞如乳縁覺如酪。菩薩之人如生熟酥。諸佛世尊猶如醍醐。」


法とは同經14に華嚴阿含方等般若涅槃に配すること上に引く如し。又六波羅蜜經に之を經律論般若總持の五藏に配す。梵語の次第の如く、Kṣīraṁ Dadhi Navanītaṁ Gh olaṁ Sarournabda

㘝 酸、苦、甘、辛、鹹の五