2021年 6月 の投稿一覧

ブラジル創価学園 創立20周年記念式典

6/23
今日の一面

ブラジル創価学園 創立20周年記念式典
創立者がメッセージ
新たな価値創造の光を放ちゆけ


コロナ禍だからなのか、オンラインだからのか、
イベントできないからなのか、
記事の内容も、うす〜い感じ。

いや、待てよ。
いつものことか…。

正信会の話。

過日、未熟さんのコメントに正信会の事がチラッと書いてあったので今日は正信会について書いてみます。正信会の存在は広宣部になって初めて知り正信会についても色々と勉強しました。といってもリアル正信会信徒と遭遇したのは20年以上前に1度きりだし、ネット界隈でも正信会の信徒なんてほぼ見ません。リアル正信会に会わないのは私の住んでいる地域に正信会の寺院がないからだとしてもネット界隈でも存在が確認されないとなると既に絶滅危惧種といってもいいかもしれません。その正信会ですが同じように正宗から発生したパラサイト異流儀の創価や顕正との大きな違いは、創価・顕正が在家信徒主導による異流儀に対し、正信会は元日蓮正宗僧侶主導の異流儀団体であるとことです。正信会が発生する原因となったのは池田創価の52路線にあります。池田創価による謗法問題により当時多くの学会員が退会し宗門檀徒へと移っていきました。そんな中で日達上人の善導により池田創価はS53年に「教義上の基本問題について」という記事を聖教新聞に掲載しそれまでも我見・邪見を訂正しましたが徹底されませんでした。さらに池田氏による御本尊謹刻事件が発覚したり福島源次郎氏の大牟田発言などがありS54年にそれらの責任を取る形で池田氏が法華講総講頭・創価学会会長を辞任し今後は創価学会は二度と教義上の誤りを犯さないことを宗門に誓い日達上人は池田創価を許され今後は創価学会攻撃や「檀徒作り」を禁止し違反する者は処分も辞さない旨の通達を出しました。日達上人から相承を受けた日顕上人もまた日達上人の示された僧俗和合・協調の基本路線を継承しましたが、一部の僧侶はその通達を守らず創価学会攻撃を続けやがて日顕上人・宗務院批判も始めました。そして昭和55年7月4日に「正信会」を結成し正信覚醒運動と銘打って創価批判を続け同年8月24日に宗務院の制止を無視して「檀徒大会」を強行し宗務院は宗規に則り主催者・参加者等を処分しました。その対抗手段として正信会は日顕上人への相承に疑義を呈しこともあろうか裁判所に提訴。これにより提訴した正信会僧侶を擯斥処分として正信会僧侶は日蓮正宗と無関係となりました。これが正信会の生まれた経緯です。正信会僧侶の言い分としては顕正会・浅井氏同様に法主上人や宗門が池田創価に媚びを売ったように言いますがそうではありません。日有上人の化義抄第7条には、
◇同明門徒中に真俗の人を師範に訴う時、ささえらるる人、起請を以って陳法する時、免許を蒙るなり、然るに支えつる輩は誤りなり、仍って不審を蒙る間、是れも又起請を以て堅く支えらる時は、両方且らく同心なきなり、何れも起請なる故に、仏意計り難し、失に依るべきか云云。
とあります。これは同門内に紛争が有った時はそれぞれ大本尊へ起請を立てた後は仏意をもって判断するとの意味です。日達上人・日顕上人が池田創価を許したのは池田創価が大御本尊に対して二度と謗法は犯さないと起請を立てたからで、一度そのような起請を立てた以上その後の事は仏意に任せるのが日興門流の決まりだからです。それはさて置き。その後正信会は分裂し、現在は宗教法人正信会・日蓮正宗正信会・富士大石寺正信会の3つに分かれています。(富士大石寺正信会は顕正会と同調しましたが参加しているのは1カ寺だけです)いずれにしても正信会は1代目の住職が死亡した時点で寺院を正宗に返還しなければなりません。(元々不法占拠ですから当たり前ですが)正信会が存続するには新しい寺院を建てなければなりませんがそんな供養が集まるとも思えませんし、仮に信心が出来たとして御本尊はどうすんの?って話になりますから、創価・顕正より先に絶滅すると思います。大御本尊・唯授一人血脈を否定した現証でしょうね。僧侶だった分だけ在家の創価や顕正より早く現証が出るのでしょう。もしも、正信会信徒さんでこの記事に行き当たった人がいたら早く大御本尊様の許に戻られることをご忠告申しあげます。それにしても正信会の皆さんも自業自得はいえ池田創価に信心を狂わされて可哀そうですね。そして自門の僧侶を処分してまで池田創価を守ってくれた日顕上人に対する創価の態度といったら「恩知らず」の一言に尽きます。


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また久しぶりに書きます。

前回の更新が4月30日でしたので、7週間ぶりですね。前回も書きましたが、このブログのコメント欄を停止してから、あまり書く気になれませんでした。以前は、毎日送られてくるたくさんの方のコメントを読むだけでも大変でしたが、それでも意欲的に更新していました。このブログを始めてから、常にこのブログのことが頭から離れませんでした。しかし今はそんなことはありません。これも前に書きましたが、私が言いたいことはこの10年間に数えきれないほど書きましたし、これから書くにしてもほぼ同じことしか書かないというか、そうしかできないだろうと思います。つまり「創価学会は宗教ではなく詐欺です。学会員さんはそのことに気づいて、一日も早く創価学会から離れて欲しい。少なくとも創価学会から理不尽に搾取され続けるだけの人生に終止符を打ってほしい」ということです。このことを10年以上も言い続けてきました。そしてそれに賛同してくださる創価経験者の方たちの数え切れないほどの賛同のコメントを発信することができました。もうこれ以上同じことを繰り返すことにどんな意味があるんだろう?と考えるようにもなりました。これだけ言っても創価を信じきっている人たちには一切通じないというのが現実です。

私がこのブログを休止したのは、ブログ内での思わぬゴタゴタがあったことが原因なのはもちろんなのですが、それに加えて創価脳の兄に末期癌が見つかって急死したことも大きかったのです。ブログのゴタゴタだけであれば、おそらく4月ごろには再開していたとお思います。しかしどうも再開する気になれないでいるのは、兄の死があったからだと思います。

これまでも創価脳の兄夫婦については何度となくここでお話してきました。そしてその兄に突然末期癌が見つかり、半年経たないうちにあっさり亡くなりました。兄は親に紹介された女子部との結婚を機に活動家となり、それから夫婦で支部長を何十年もやりながら、毎年ありったけのお金を財務に投じていました。典型的な活動家であり典型的な創価脳でした。なのでいつも生活はつつましく「いったい何が楽しみで生きているんだろう」と思われるくらいでした。これだけ真面目に学会活動に励み、子どももできなかったので、稼いだお金はみんな財務に消えて行きました。そんな兄は仕事中に大変な事故にあい、かろうじて命はとりとめたものの障害者となりました。兄嫁も学会活動に専念するあまり家事はおろそかになり、学会員以外の人間関係を作ることができない人生でした。あげく兄嫁も病気になり障害者となりました。創価では「この信心で実証を示す」と指導されますが、少なくとも兄は創価の信心の実証を示すことができないままあっさり、しかも癌による痛みの中で亡くなってしまいました。夫婦で身も心も学会活動第一に生きてきたのに、最後は癌の進行に気づくことなく、コロナ禍で親しい人にも会うことができないまま、葬式も最少の参列者で済まさざるを得ませんでしたし、私たち兄弟とその数人の子どもたちのみで火葬しました。兄の火葬で創価の数珠を持っていたのは兄嫁ただ一人でした。兄嫁は兄の遺骨を一人で遠方の創価の墓苑に埋葬するのだそうです。いつ埋葬するのか連絡すらありません。おそらく父の時と同じく、兄の墓には納骨の時以降は誰も行くことはないと思います。

一生を創価に捧げてきた人間の最期がこれだということを目の当たりにして、私はやはり「創価は宗教などではないのはもちろん、人間の幸せとは無縁の生涯を送ることになる」と思い知りました。兄がこのような最期になったことで、私がこのブログを続けることの意味をあらためて考える機会となったのです。というか書く気力を無くしたというのが正直な気持ちです。

もちろん、創価を信じきっている人に何を言っても無駄だということはわかっていました。だからせめて自分で考えることができる人のために、創価が何であるのかを考える機会を促すことができるのではないかという気持ちでブログを続けてきたのは間違いありません。しかしここにきて、一番身近な存在である兄の理不尽な死を目の当たりにして、自分の無力さを思い知らされたのだと思います。

このブログを休止したことで、時間ができました。今思えば、自分でもびっくりするほどこのブログ運営に時間を割いていたんだと思います。それでブログを休止してからは創価に関することではなく、宗教や哲学についての本を読む機会が増えました。コメント欄を閉じてから、しばらく一般的な宗教についての話を書いているうちに、これまでよりも一般的な宗教、哲学、科学、芸術の関係について知りたいという気持ちが大きくなったからです。創価についてあれこれ考えるよりも、私自身がこの世界についてまだまだ知らないことばかりだと思います。むしろ創価のことに時間を使うよりも、もっと自分自身が学ぶべきもの、学びたいと思うことが山ほどあると思いました。学ぶだけではなく、もっと創造的なことに自分の人生を使ったほうがいいのではないか。そう思いました。

兄は最期まで創価を信じていたのだろうか。自分の死と否が応でも向き合わなければならなくなったとき、兄は創価を信じ続けてきた自分の人生の最後に何を思ったのだろうか。創価ではない人がいくらでも癌を克服しているいまの時代に、早期発見すれば完治できたはずの癌に気づかなかった自分は、一体何の為にこの信心を貫いてきたのか。なぜ信心の実証を示すことができないまま、親しい人と会うこともできないまま、ホスピスの病室でひとり死ななければならないのか。

私がニーチェに興味があることは時々このブログでも書いたことがありますが、ニーチェ以外にもあらためてドストエフスキーは読んでおくべき作品だと思うようになりました。100年も200年も昔の時代に生きた人なのに、こんなにも現代に通じる切実な問題を提起していることに今更ながら驚かされます。ニーチェの思考が驚くほど仏教的なのは、若い頃から親しい友人に仏教研究者がいたからのようです。ドストエフスキーに関しては、彼の生きていた時代や、ロシアという国のわかりづらさで、最初はあまりピンときませんでしたが、実際のところすこぶる現代的な、いやむしろ普遍的といえる問題の本質を極めてパーソナルな状況設定の中に描き出しているという点で、やはりドストエフスキーは人類史に残る天才と言えるのだと思います。こんなことならもっと若い頃からニーチェやドストエフスキーに挑むべきだったとは思いますが、逆に今だからこそ、今でなければ理解できなかったのではないかとも思います。それに創価脳のままニーチェやドストエフスキーを読んだところで「どうせ仏法を知らない西洋人の書いたレベルの低い書き物」とどこか見下したと思います。たとえ見下さないまでも、「それとこれとは別。真実は日蓮仏法にしか存在しない」と簡単に片付けていたと思います。

創価が単なる詐欺で、創価の示す日蓮仏法も、会員からお金を巻き上げるためのご都合主義のおすがり信仰でしかないことがわかった今だからこそ、人類の残してきた偉大な芸術文化というものに真正面から向き合うことができるようになりました。私も還暦を過ぎた今となっては残された時間は限られていますが、これからは自分が自分の考えで本当に価値があると思えることを学び、自分の手で作り上げる創作活動に励んで行きたいと思っています。

ということで、このブログはこんな感じで無理をせずに、ときどき思いつくことを書けるときに書こうかと思っています。コメント欄を開放すると、また以前のようになる可能性もあると思いますので、少なくとも今はそのままにするつもりです。もしかしたら兄のことの気持ちの整理がついたり気持ちが変わったりして、以前のように創価で悩む方の相談の場になったり、創価が詐欺だと気づけるようなファクトが集まる場にしたいと思うかもしれませんが、それは今ではありません。今は仕事や家庭のことはもちろん、これまで自分自身が学べなかったこと、創ることができなかったことをできるだけやりたいという意欲が強いです。

このブログでお知り合いになれた方が数えきれないほどいらっしゃいます。と言ってもリアルにはほとんど知りません。でも本当に気持ちを通わせていただいた多くの方に、どれだけ感謝しても足りないくらいです。もうすぐコメント欄も再開しますと書いておきながら、それがあるのかどうかすらわからないようになって申し訳ありません。でももうこれからは創価に関して無理をしたりすることはやめて、自分自身や家族のために時間を使おうと思います。

これまでも幾度となく言ってきましたが、創価学会はどのみち崩壊します。創価は会員からお金を巻き上げることが目的の詐欺集団ですから、会員からお金を取れなくなれば解散するでしょう。そう、崩壊というよりも解散という方が正しいかもしれません。私はその解散の時期が10年後に来るのではなかと言ってきました。ずっと10年後では意味がありませんので、具体的に2030年と言い直しました。でも今となってはそれが5年後でも20年後でも大した意味はないなと思います。すでに組織の高齢化と弱体化が進んで、特に日蓮正宗から破門されてからのここ30年間の創価学会は衰退する一方です。誰かが必死にならなくても、今の段階で熱心な会員さんもほとんどが10年後にはいなくなるか、生きていても組織活動などできる身体能力はないでしょう。ましてや今の男女青年部が10年後にどれくらい活動しているのか、今の創価の現実を目の当たりにしている現役の学会員さんがいちばんわかるだろうと思います。創価脳さんがどれだけ「日蓮仏法は絶対に正しい」とか「創価学会だけが世界に誇る宗教だ」などと言ったところで、創価以外の人は誰も相手にしていないのが現実です。つまり、現役の活動家さんがどの時点で自分で「創価は詐欺だ」と気づくかというだけの話になっているんですね。創価崩壊は、あるいは創価解散は、会員が減ってお金が取れなくなった時点だということです。創価脳さんとしては、遅かれ早かれそんな時が来るなんて思いたくないでしょうが、これが創価の現実でしかないのです。創価脳さんだけが創価の現実を見ていない。見ようとしない。まさにそれが創価の現実です。

だから、自分の現実を見ようとしない人にいくら言っても通じません。このブログには、おそらく何百人もの創価経験者が、自分の経験をもとに「創価は詐欺だった」という実体験を語っておられます。これを読んでもなお創価の現実に気づけないのであれば、私の兄夫婦と同じような人生の最期を迎えるしかないのかもしれません。自分の死が目前に押し迫ってきたときに「ああ、あのとき人の話を真面目に聞いておくべきだった」と兄は後悔したのかもしれません。あるいは最後の最後まで「自分は正しかった」と自分をごまかし続けたのかもしれません。それはもう誰にもわかりません。

私たちができることは、最後の最後まで自分の考えで思い切り生きることだと思います。創価はそれさえ奪い取ります。創価脳さんは自分の考えで生きていない自分の現実に気づけないように操作されてしまうんですね。創価が会員から奪い取るのはお金だけではありません。そうやって人生そのものを奪い取ります。私の父も母も兄も創価によって人生を奪い取られました。同じようにこれまで真面目に活動してきた創価学会の会員さんの全ての人生が奪い取られたのです。しかし人生を奪い取られたことにすら気づかないで、多くの学会員さんが死んでいきました。こんな恐ろしいことが現実の日本で起きてきたのです。こうしたことを考えると、どうしても「なんとかしなければ」と思ってしまいますし、実際にそうした思いを原動力にしてこのブログを10年も続けてきたわけです。そしてたどり着いた結論が「自分で気づくしかない」という、言ってみれば身もふたもない結論でした。だから「自分の頭で考えて、自分で気づいてください」と言い続けてはみたものの、冷たく言うなら「自分で気づけないならしょうがないね」ということです。もうこれ以上のことは他人には限界があると思います。

話し始めるとどこまでも際限ないのでやめますね。とりあえず、このブログはこの状態で、ときどき思いつきで書くぐらいの感じになると思います。

一人でも多くの学会員さんが、自分で考えて、創価から奪われた自分の人生を取り戻すことができることを願いつつ、今日はこれで終わりにします。それではまた。

還著於本人のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は法華経に説かれた「還著於本人」(げんじゃくおほんにん)について、書いてみようと思います。
実はこの見慣れない言葉、創価学会員や大石寺系教団の信徒さんはよく使います。



これ、どんな意味で使うかと言いますと、「還(かえ)って本人に著きなん」と読みまして、「法華経の行者に対して呪いや危害を加えようとする者は、かえって自らの身にその害を受けることになる」という意味で使われます。
自分たちを愚弄したものは呪われるという、非常に大石寺系らしい呪詛のような教義として考えられることが多かった記憶があります。



日蓮自身は『撰時抄』や『種種御振舞御書』などで、この「還著於本人」を引用しています。ここでは後鳥羽上皇方が真言の祈祷で承久の乱の勝利を祈った結果、戦いに敗れたことを「還著於本人」で説明しています(創価学会版御書283ページ、921ページ)。



ところで、この「還著於本人」は、法華経のどこに引用されているのでしょう。
実はこの言葉は、法華経観世音菩薩普門品第25、すなわち観音経に説かれています。
前後を引用してみましょう。



「呪詛諸毒薬。所欲害身者。念彼観音力。還著於本人。」
(『法華経』下、岩波文庫版262ページ)



ここでは「念彼観音力」という言葉が執拗に繰り返される偈になっています。意味は、



「呪いと諸々の毒薬に、身を害されようとしている者は、彼の観世音菩薩の力を心に念じれば、逆に呪った本人にかえっていく。」


くらいの意味になります。サンスクリット原典の訳を載せますと、次のようになっています。



「呪文・まじない・薬草・人間に憑く鬼霊・死体に憑く鬼など、人間の身体を滅すものは、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、それを用いた当人に還ってゆこう。」
(同263ページ)



お読みいただいて、わかったかもしれませんが、これ、観音経の中の言葉です。観世音菩薩普門品では「観音力を念ずるならば」と条件付きで「還著於本人」が説かれています。
さて、創価学会日蓮正宗などの大石寺系教団の信徒は、日々の勤行等で観世音菩薩普門品を読誦しているのでしょうか?




例えば曹洞宗法華経のこの観世音菩薩普門品を読誦することで知られていますが、ほとんどの大石寺系信徒は唱えたことなどないのではありませんか? 創価学会員に至っては普門品が観音経と呼ばれていることさえ知らない人がほとんどかと思います。
今後、創価学会等の大石寺系教団がこの「還著於本人」の教義を使うのならば、例えば日々の勤行で観音経の一部を唱えるとか、観音像を拝むとかしないと、教義的には整合性が取れなくなるかと思います。






















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