2021年 6月 の投稿一覧

あらら、買った靴が同じ靴でした!

☆でも良い靴なのでOK! 以下に、新しく購入した靴(右)と古い靴の写真を添付します。 写真解説「古いスニーカーと新規購入したスニーカーを比較している写真3枚です」 介護職員は終日立ち仕事をしていて、しゃがんで立つという スクワットや、利用者を抱えて移乗するなど、 足腰に負担がかかる運動を繰り返します。 悪い靴だと疲労や痛みなどが発生してしまいます。 このため、良い靴の収集にはこだわりま...

未来開く主体的な意思を


6/26
今日の一面

文明の曲がり角に立つ今こそ
未来開く主体的な意思を
危機の時代を生きる
■創価学会学術部編■
第12回「生命に備わる力」に思う

文明の曲がり角ねぇ。
いつだって、そうだよ。って思うけどな。

見出しで、暗に、
だから、宗教が大事。
的な結論、印象に持っていこうとするのは、
いかがなものか。

それを、
すんなり受け入れる人達も、
いかがなものか。

そして、
何年も、一面だけは、読んでる
ボクも、いかがなものか…。

賞与と給付金が出た!(消す記事)

☆おはようございます。きょうは公休日なんです。 ちょっと疲れていて、午前中はゆっくりします。 さて、きのう、夏の賞与が出ました。 それと「高齢者継続雇用給付金」も出てます。 加えて、普通の給料が出ることになります。 賞与は25万6200円、給付金(2か月分)6万5020円で、 近く月給が入りますから今月はかなり潤います。 収入は予測通りに推移しています。 その予測記事を以下に示します...

教団に必要とされない言論。




いつもみなさん、ありがとうございます。




さて私が教学に関してブログで書いていることは、実は私が学生時代から青年部時代にかけて気づいていたことが意外と多いです。
ただそのことを活動家時代におおっぴらに語ることに当時は躊躇していました。



当時、多くの人から信頼される青年部幹部がいました。私は「彼なら大丈夫かな」と思い、彼に話をして「どうしても先輩に聞いてもらいたいことがある」と家に来てもらったことがあります。
そして自宅で御書を開いて、その先輩に、このブログで書いているようなことを一部開陳して述べてみました。
正直どんな反応が返ってくるのか不安でした。もちろん当時はまだ私は創価学会の活動家でしたから、教団を批判するようなことは言わないでおきました。



彼は私の話を聞くと一言、こう言いました。



「その知ったことを今度は折伏の成果として池田先生にお応えしていこう!」



私は正直ガッカリしました。
この人は、私の話を本当の意味では何も聴いていなかったのです。
このことをキッカケに、私は創価学会の幹部にそれ以上話すのをやめました。



大石寺法華講信徒と同じく創価学会の幹部もまた、教団擁護的な議論しか聞く耳を持たないことを私はよく理解しました。
そして私のいる場所はここではないのだと理解して孤独を感じるようになりました。
つまり創価学会は、私のような日蓮遺文や法華経の原典検証を何とも思っていないことを知りました。私のような人間は、創価学会にも法華講にも必要とはされていなかったのです。



多様な人材が教団に必要と思ったのは単なる私の幻想であり、教団自体は、単に教勢拡張に利する信徒しか必要とはしていないということをあの時ほど痛感したことはありません。
所詮、創価学会法華講という組織はその程度の組織でしかなかったということです。



その後、私は社会人になり男子部として活動することになりますが、その感覚、私は教団には必要のない人材だと言う感覚を最後まで払拭し得なかったことこそ、私が退会を最終的に決断した理由なのかと思います。








池田先生のキューバ訪問から25周年

6/25
今日の一面

池田先生のキューバ訪問から25周年
ラミレス大使「両国の交流促進に尽力」

最初、
キューバ訪問 が、
キャバ訪問 と、読んだ。

ボクも、目ぇ悪くなったな。

ま、キューバでも、キャバでも、
関係ないけど…。

仏とは使命に目覚めた人



 時折、ブログにも書いていますように、私はかつて学会活動が好きではなく、出ても「つまらない、つまらない」と思い、時にはひどい頭痛を催す有様。自分は組織にはなじめない人間だと思っていました。ほんと言うといつか組織から離れることも覚悟しながらやっていたのです。

 そんな私が結果的に学会から離れなかっただけでなく、今は地域の中心的なメンバーとして同志と呼吸を合わせ、喜々として戦っているのですから、我ながら不思議というほかありません。

 いつしか自分の意思を超えた大きな力によって、学会になじむように導かれ、私自身も変わっていったのです。それが私のもって生まれた「過去の宿縁」だったことを、今さらながらしみじみ感じ、「これが俺の道だったか」と今では観念しています。(笑)


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 そうした私の変化の底流にあったのは、「師弟」であり、「使命」というものでした。御本尊に対し、池田先生に対し、自分はどうあるべきかを考えた時、やはり学会とともに広宣流布に身を投じていくのが正しい・・・その一念が私の生命の奥底にあったことによって私自身は救われました。

 組織嫌いの私が宗門問題にしろ、大御本尊などの問題にしろ、ピリっとも動揺しなかったのは、まさにその一念が確かだったからに違いありません。逆にその時に信念の節を曲げてしまった人は、その一念がなかった人だと思います。その一念こそ「仏の一念」、「地涌の菩薩の一念」なのです。

 池田先生から一番遠い学会員だと思っていた私が、池田先生に随順し不二となって生きていきたいと思う。その生命の変革は私にとって「発迹顕本」と言っていいものとなりました。また広布の陣列から距離を置いていたのが、この地域の広布の中心者として立とうと変わっていったことは、仏法上の使命に自身が目覚めた姿と言えると思います。

 世の中には母親であるとか研究者であるとか、様々な使命があります。自分を犠牲にしても子供を育てる母親の使命、また研究に身を捧げ、世の発展に貢献したいという研究者としての使命・・・それらは世間にあって尊い使命です。

 それと同様に広宣流布に身命を捧げ、貢献しようとする使命は仏法の使命であり、地涌の菩薩の使命です。これこそ人に生まれ出て最高の使命です。「広宣流布こそ私の使命です。」そう腹の底から言える人は仏の生命の人。その使命に生きる権利は万人に平等に与えられている・・・それが仏法の素晴らしいところだと思います。

 使命の力というのは本当に大きいものです。人は使命を知る時に自分を変えることができます。使命を自覚した時、目的も明らかになり、それに向かって真っすぐに行動できます。たとえ行く手に障魔が競うとも、使命に燃えた人の前にはそれさえも跳躍台となることでしょう。

 仏法の使命に目覚めるまで私も時間がかかりましたが、今は迷いなくその使命に生きていく身となりました。私の人生の目的は広宣流布です。その心に迷いがなければ仏です。その心で地域に仏法を弘め、同志を護り、朗らかに前進していけば、最後の勝利を勝ち取ることは大地を的とするようなものです。

 私にも魔は執拗に競っています。しかし、どんな状況にあろうとも、御本尊を抱きしめて、信心に迷いなく、信の利剣で魔性を打ち破りながら今日も力強く前進していきたいと思います。





池田先生「子どもはのびのびと」






青年抄より

我が家にも近所のちっちゃな子が遊びに来ることがある。

家宅侵入をしてくるなり、とっとっと台所の冷蔵庫に直行し、中身の宝物をさらっていく。

本部にも、私の幼い友達はやってくる。彼らは、自由に動き、時には粗相もする。

親は慌てて子を叱ろうとするが、私は、叱る親を止める。

未来からの使者は、のびのびと自由奔放に育てたい。





子育てというと、とかく大人は型にはめようとしたがります。

保育園など、何百個のルールがあるか分かりません。

それを幼児に全て覚えさせて守らせようとする事自体、無理がありますが、それを無理やり守らせようとするから、「ルールを守らせること」が保育士の仕事になってしまいます。

全ての子どもには、本来、自分で学び育つ力があるはずです。

子どもの自然な成長を妨げないことが、真の保育であり教育なのです。


葬儀と墓地問題。

親が年老いてくると信仰関係なく葬儀やお墓はどうする?という話が自然と出てくると思いますが、これが創価が絡むとややこしくなります。先日当ブログの読者の方から親御さんの兄弟が学会葬で葬儀をしないと代々のお墓に入れさせないと言われたと相談を受けました。自分で購入したお墓ならともかく先代が購入した墓を相続しただけなのに「入れさせない」って創価民ならではの発想ですね。これが一切衆生と世界平和を唱える創価民だというのですから驚くばかりです。創価の墓苑は学会葬しないと埋葬できなんですかね?そんな話は聞いたことないですけど子孫が紛争しないためにも創価の墓苑は取得するのはやめた方が良さそうです。またボクの折伏したO君も親御さんの葬儀の時はどうすれば?創価の墓苑に遺骨を埋葬してもいいのか?と色々と考えているそうです。O君には「そんな事悩んでいる暇があったらとっとと親御さんを折伏して正宗に戻せばいいんだよ。それで全て解決だろ」って言ってます(笑)がそれがすぐにできれば苦労はしないということは重々承知しています。お墓に関しては創価の墓苑だろうと他宗の寺だろうと樹木葬だろうとどこに埋葬しようが何の問題もありません。故人や遺族の感情はあるでしょうがお墓(埋葬場所)自体は成仏と無関係ですからね。ただ葬儀はそういうわけにはいきません。お墓は成仏と無関係ですが葬儀は成仏に大いに関係するからです。他宗の僧侶の引導でも成仏は覚束ないのに、大御本尊を捨てた大謗法の何の修行もしていない創価のオッサンが本尊風の掛け軸に適当な読経をして題目を唱える学会葬なんて地獄へ一直線です。故人も遺族も成仏するのが願いなのに学会葬なんてやった日には目も当てられない。
◆人死すれば魂去り其の身に鬼神入り替つて子孫を亡ぼす、餓鬼といふは我をくらふといふ是なり、智者あつて法華経を讃歎して骨の魂となせば死人の身は人身心は法身生身得忍といへる法門是なり(木絵二像開眼之事)
との御妙判にあるように、どんな人でも死に際しては鬼神がその身に入ろうとやって来ます。そして本人ばかりかその子孫まで滅ぼそうとするわけです。しかし法華経を悟られた智者に弔われることによって鬼神が身に入ることを防ぐばかりか法身として成仏できるわけです。智者である大聖人の弟子の正宗のご僧侶の読経・唱題の引導があり成仏に導かれるわけです。大謗法の学会葬は悪鬼・鬼神を呼び寄せるだけですから恐ろしいことです。ですからお墓はともかくとして葬儀は正宗のご僧侶に引導していただくのが一番いいでしょう。とはいえ、それができればモメないんですね。それが出来ないから悩む。様々な理由で残念ながら学会葬になってしまうこともあるでしょう。私だって祖母は学会葬でしたし。そのような時は大御本尊に題目を申しあげ、また塔婆を立てすぐに故人を地獄から連れ戻してあげればいいでしょう。ですから学会葬であっても悲観する必要はありません。ただ私が思うに、だからといって学会葬に反対もしなければ破折もしないのは違うでしょう。学会葬を主張する親戚・兄弟に対してはその間違いを指摘し破折し折伏する。それでも仕方なく学会葬になってしまったのであれば大聖人もその遺族の人の信心を愛でられ故人を地獄に落とすことはないと思います。私はそこが大事だと思います。先日の読者の方も学会葬を阻止すべく親戚・兄弟に学会の謗法をしっかり話し破折して激怒されたそうでが私はその信心であれば仮に親御さんの葬儀が学会葬になったとしても親御さんは成仏できると思います。ともあれ親族間で法華講と創価に分かれている場合は葬儀や墓地について対立するのは大変な苦労ですが、そうした対立した時こそ一族の中の謗法創価を破折・折伏するチャンスでもあります。まぁ本当はそうなる前に決着つけていですけどね。
(追伸)週末は私用で出かけますのでコメントへのお返事が遅くなるかもしれませんのでご了承う下さい。

▼1日1押し期待してます(笑)

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