2021年 6月 の投稿一覧

六巻抄拝読の為の基礎知識⑫(依義判文抄④)

今回は「依義判文抄」の最後の部分で宗教の五綱(五箇・五義)を説明した後にその五義が証文を挙げて結ばれています。
◇問う、宗旨の三箇経文分明なり、宗教の五箇の証文如何。答う、当流の五義は永く諸門に異なる、故に須く先ず五義を暁らめて後に証文を尋ぬべし云云
ここまで10個の御文を挙げ依義判文して三大秘法を明かしてきましたが次に宗教の五義についての証文を求められますが、当宗の五義は他門流と違うので証文を挙げる前に大聖人仏法における五義の説明をします。
◇夫れ宗教の五箇とは所謂教・機・時・国・教法流布の前後なり。
大聖人仏法の五義とは上記の「教・機・時・国・教法流布の前後」えお知る事であり三大秘法はこの五義を良く心得て広宣流布をするようにとのご指南です。
◇第一に教を知るとは、即ち一代諸経の浅深勝劣を知るなり。大師は五時八教を以って一代聖教を判じ、吾祖は三重の秘伝を以って八万法蔵を暁らむ云云
最初に「教を知る」とは大聖人仏法の法体を知るといことです。天台は五時八教を使い一切経を判別しましたが、大聖人は三重秘伝で広めるべき法体を明らかにしています。◇日蓮が法門は第三の法門とは第一の法門が権実相対・第二は本迹相対で第三の法門とは種脱相対の法門であり大聖人仏法は「種(下種)」の法門であるということです。そして下種の法門の法体が戒壇大御本尊である。このことを領解するのが「教を知る」という意味です。
◇第二に機を知るとは、太田抄に云わく、正像二千余年に猶お下種の者あり、今既に末法に入って在世結縁の者漸々に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ、彼の不軽菩薩をして毒鼓を撃たしむるの時なり云云。
これは衆生の機根の違いで、本文では「下種」と「結縁」と書かれていますが、この二つはどちらも「下種」になります。その違いはどこかといえば大聖人仏法は「聞法下種」仏法であり釈迦仏法は「発心下種」仏法です。「結縁」というのは下種された衆生が縁により発心して成仏することです。ですから「結縁」というのは「発心下種」になります。そこで問者は「釈迦在世に聞法下種された衆生もいるのではないか?」との疑義を呈しますが、釈迦在世に成仏した衆生が発心するまでに三千塵点や五百塵点という長い期間を要しているのに釈迦在世に聞法下種された衆生が正像2000年という短期間で発心下種に至るというのは道理に合わないと破折します。いずれにせよ末法の衆生の機根は「聞法下種」の機根であることを領解するのが「機を知る」ということです。
◇第三に時を知るとは、今末法に入り一切の仏法悉く皆滅尽す。故に大集経に後五百歳白法隠没と云うなり。正しく爾の時に当たって三大秘法広宣流布す、故に薬王品に後五百歳広宣流布と説くなり
「時を知る」とは正像末という三時を知るということであり。「後五百歳白法隠没」と説かれているように末法の時には釈迦の教え(白法)は隠没すると釈迦自身が経典に書かれています。よって末法においては広宣流布されるのは釈迦仏法ではなく大聖人仏法であるという事を領解するのが「時を知る」という事です。
◇ 第四に国を知るとは、通じて之れを論ずれば法華有縁の国なり、別して之れを論ずれば本門の三大秘法広宣流布の根本の妙国なり。
「国を知る」というのは日本という国が通じて言えば法華経に有縁の国であり、別して言えば三大秘法広宣流布の根本の国であるということで、日本という名前には1.日本という名前は文底秘沈の大法を顕している。2.日本という国は日蓮大聖人という名前を顕している。3.日本というのは広宣流布の根本であることを顕している。という3義を挙げて説明されています。即ち、日本は日蓮大聖人即戒壇大御本尊のおわします根本の妙国であるといういうことを領解するのが「国を知る」ということです。
◇第五に教法流布の前後を知るとは、(中略)然りと雖も広略を以って本と為し肝要なる能わず、自身之れを存ずと雖も敢えて他伝に及ばず云云。既に像法の中に於いて広略二門を弘通す。故に知んぬ、今末法に於いて応に但要法を弘通すべきなり。此くの如く知るを則ち之れを教法流布の前後を知ると謂うなり。
これは、先に広まっている教えを知って後から弘める法は先に広まっている法よりも高く深い教えでなければならないという事です。正法時代は広の法華経が像法時代は略の法華経が既に広まっていますから、末法は広略の法華経でなく要の法華経。即ち大聖人の南無妙法蓮華経を弘めることを領解するのが「教法流布の前後を知る」という事です。宗教の五義については「教機時国抄」に書かれていますので御書を拝読してください。宗教の五義を説明された後、寿量品と神力品の文をあげ宗教の五義がその文に書かれていることを説明し、依義判文抄は完結します。

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池田先生「変化こそが伝統」

大白蓮華2021/7 31頁より

広宣流布の勝利の伝統というのは、同じことを繰り返しているだけでは、守ることも、創ることもできません。

時代も、社会も、大きく変わっていくからです。

常に創意工夫を重ね、新しい挑戦を続け、勝ち抜いていってこそ、それが伝統になるんです。






10年前に先輩に教わったやり方を、そのまま繰り返すだけだったら、あなたは10年時代遅れということになります

10年前には、LINEもインスタもありませんでした。日常生活そのものが様変わりしています。

特に青年が、変化をリードしていかなくてはいけません。壮婦の支持を待っていてはいけません。

ただし、それは自分の好き勝手にやればいいということではありません。基本はあくまで「師」です。

新しいことを始めようとすると、つい自分が師匠、自分が本尊と勘違いしがちです。

弟子はあくまで師の応用展開なのだから、いかなる戦いであっても、必ず師の教えと照らし合わせることを忘れてはならないのです。




ロシア 自然との対話展

6/28
今日の一面

ロシア 自然との対話展
池田先生がメッセージ
文豪ゴーリキーの生誕地
ニジニーノブゴロド市で

人と じゃなくて、
自然と 対話してて下さい…。

ストレスチェックの結果報告

☆ストレス異常なし. ストレス評価表の写真を以下に示します。 写真解説「私のストレス因子、心身の反応、影響因子(免疫性)に関するグラフ」 職場のストレスチェックのテスト結果がえられました。 「心身の健康面において、特に問題はみられませんでした。 ストレス状態は高くありませんが、仕事の身体的負担が高いようです。 仕事からのストレスを多く受けていることを自覚して、 勤務時間外や休日にはな...

普門品の観音称名も捃拾か。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日の記事では観世音菩薩普門品のことを取り上げたのですが、ここで観音の名号を唱える功徳が述べられているのに、創価学会等の大石寺系教団は全く見ようとしません。
その理由は、日蓮自身が天台の捃拾(くんじゅう)説を無自覚に前提し、薬王品以下を残余として考えているからです。



事実、池田大作の『法華経智慧』でも、「もちろん、文底から見るならば『観音の名を称える」とは、観音の力の根源である久遠の本仏『南無妙法蓮華経』の名前を称えるということです。」と述べていまして、観音の名を唱えることを何の根拠も示さずに「題目を唱えること」にすり替えてしまっています。戸田城聖もまた「薬王品以下は寿量品の残りカス」とまで言い切っています。



これには天台の捃拾説を踏襲しているだけの日蓮自身に原因があります、捃拾とは「落穂拾い」の意味で、寿量品が説かれた後に余った、会衆に説かれた残りの部分を、こぼれ落ちた部分と解釈したのです。『観心本尊抄』に説かれているのはこの意味です。



「次下の嘱累品に云く『爾の時に釈迦牟尼仏・法座より起つて大神力を現じ給う右の手を以て無量の菩薩摩訶薩の頂を摩で乃至今以て汝等に付属す」等云云、地涌の菩薩を以て頭と為して迹化他方乃至・梵釈・四天等に此の経を嘱累し給う・十方より来る諸の分身の仏各本土に還つて故の如くし給う可し等云云、薬王品已下乃至涅槃経等は地涌の菩薩去り了つて迹化の衆他方の菩薩等の為に重ねて之を付属し給う捃拾遺嘱是なり。」
日蓮観心本尊抄創価学会版御書252ページ)



ここで日蓮は天台の五時八教判から、法華経薬王品第25以下から涅槃経までを「捃拾遺嘱」としています。しかしながら現代の文献学や歴史学的判断から見るなら、法華涅槃を五時に配するのは何の根拠もないことですし、そもそも竺法護の『正法華』やサンスクリット原典から見れば、嘱累品第22は本来最後の章節なのでして、鳩摩羅什訳の妙法華は意図的に順番が変えられているのです。



薬王品に明確にある宿王華菩薩への付嘱を一方的に無視して、上行菩薩付嘱と読み替えてしまう原因は、実は天台智顗の『法華文句』の「自法華已後有得道者。如捃拾耳。」の部分からきていまして、だからこそ日蓮は嘱累品の後の薬王品以下を捃拾、つまり功徳の「落穂拾い」として、寿量品の残滓と考えるようになってしまったのです。



薬王品以下の諸品を落穂拾い、単なる残滓として扱うのは、天台智顗の無批判な摂取に過ぎませんし、そもそも法華経そのものを尊重するようでいながら、その実、漢訳法華経薬王品以下をあまりに軽視するものです。
だからこそ池田大作が『法華経智慧』で、「称名観音」を短絡的に「唱題行」とするのは、そういう前提が日蓮の中にあり、そのことを無検証に受け入れているに過ぎないということです。
すなわち日蓮自身が天台智顗の受け売りで法華経を読んでいるに過ぎず、池田大作戸田城聖もそのことを無自覚に信じて受け入れているに過ぎないということなのです。



まあ、日蓮自身が天台智顗の教説に従順であったのは、彼が比叡山の再興を願い、純粋に最澄末法における後継を自覚していたからなのですが、現代においてその誤りに気付いたのならきちんとそれは検証して、何が現代において無効な教義で何が有効なのかを教団として示さなければ不誠実な誹りは免れ得ないでしょう。そのような真摯な学的検証を全く行わず、過去の教義を無自覚に受容し、都合が悪くなれば捨てるというだけなら、創価学会大石寺系教団は教団指導者とともに学問的に不誠実な姿勢を自ら曝け出しているに過ぎないのだと私は思います。



追記
法華経中で、この観世音菩薩普門品では非常に明確な現世利益を主張しています。それほどここには観音の名前を唱える功徳がたくさん列記されているからです。
法華経の成仏は、信仰者の死後の予言であることばかりです。その中でも現実に観音の名を唱えることの功徳をはっきりと説いているこの品は、法華経中でも異彩を放っています。
創価学会日蓮正宗が、今後も現世利益を主張し、病気が治るとか火にも焼けないとか具体的な功徳を信徒に伝えていきたいのなら、他はさておきこの普門品の教義説明は喫緊の課題でしょう。
























池田先生「題目は数ではない」

※通信トラブルで一度記事が消えてしまいました。極めて魔の強いテーマです。




大白蓮華2021/7 104頁より

広布へ勇猛精進する人の題目は、たとえ一遍であっても、何の目的もなく、何の行動もない千遍、万遍の題目よりも、はるかに功徳があり、はるかに力がある。





末法における法華経の修行は、自行化他に渡る題目です。自行のみで、真の功徳はありません。

単に数を誇るのは、「修羅の祈り」です。修羅道修行です。

御書には、「これだけ唱えないと功徳がない」などという教えはありません。

題目は数ではなく、どれだけ真剣に祈っているかなのです。真剣さは必ず行動につながります。