2021年 6月 の投稿一覧

体調が悪い気がする(消す記事)

☆二回目はやっぱり違う. 一昨日、新型コロナウイルスのワクチン接種(2回目)を打ちました。 体調の変化は以下の記事にて公開中です。 →sokamori2.exblog.jp/30545930/ で、きょう異変がありました。夕方、体温が37.2℃まで上がり、 風呂に入ったとき、注射部部位が腫れていたのです。 直径5センチほど。何となく乳頭に違和感があり、 何となく倦怠感があるのです。 ...

等覚一転名字妙覚について(RAMBOさんの質問)

●せっかく六即の【名字即即究竟即です。】まで出たので、【等覚一転名字妙覚】についても教えてくださいな
との質問がRAMBOさんよりありましたのです今日は、【等覚一転名字妙覚】につて書いてみたいと思います。これは以前に未熟さんの【末法は受持の一行】というコメントにも繋がるはなしです。日寛上人は「法華取要抄文段」が中で、
◇若し当流の相伝は「等覚一転・名字妙覚」と習うなり。然れば則ち初め発心より終り補処至るまで、皆久遠名字の妙覚の位に入るが故に、別して更に妙覚の益を挙げざるなり。
とご指南されているように当宗相伝法門のひとつです。「名字妙覚」というのは創価民も良くつかう「名字即即究竟即」の法義で(当宗相伝法門を盗んで使うのはやめなね創価民さん)即身成仏の法門でもあります。まず六即というのは天台が立ててた菩薩の位です。名字即の位とは下から二番目の位で大聖人仏法でいうと南無妙法蓮華経を受持した位ですね。そこから修行を重ねていくと上から2番目の位である「等覚」という位になります。この上が「妙覚」でここ位は既に仏なのでそれに「等しい位」の「等覚」は菩薩の最上階級になります。修行して仏と同等になった菩薩はここで初めて仏の悟りに気が付きます。仏が仏になった因を知るわけですね。仏が成仏した因は何かというと、
◆釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき(三世諸仏総勘文教相廃立)
ということだ等覚の菩薩は知ります。総勘文の上記の御文を会通すると、久遠元初の本仏は我が身を南無妙法蓮華経と即座開悟して即身成仏をしたということです。いいかえれば「南無妙法蓮華経を受持する」ことが成仏することであると等覚の菩薩は悟るわけです。修行して等覚の菩薩に昇ってみれば「南無妙法蓮華経を受持する」という名字即の修行が仏の悟り(成仏の道)であったと知るわけです。そしてその名字即の修行で即身成仏するのですから名字即の位は全く妙覚(仏)の位だというわけです。それが【等覚一転名字妙覚】ということです。つまり「名字即極(妙覚)」なのです。では何故釈迦仏法における菩薩達は修行して昇格する必要があったかというと。釈迦仏法の衆生は一度そのことを五百塵点劫の釈迦から聞いているんですね。要は既に南無妙法蓮華経の下種を受けている衆生ななのです。それを忘れていたので段階的に修行をして徐々に思い出すように仕向けたわけです。そしてそれを思い出す位を「等覚」の位と定めたのが天台大師です。ところが末法の我々は南無妙法蓮華経を過去に聞いたことのない衆生ですから「思い出す」という作業は不要なんですね。南無妙法蓮華経を素直に受持すればそのまま即身成仏するわけです。ですから末法の衆生の修行は「受持の一行」でいいのです。自余の修行というのは「受持の一行」をさせんがためのある意味方便であり釈迦仏法の範疇です。ですから受持をすればその一行に自余の修行も含まれてしまうわけです。日蓮大聖人はそのご自身の久遠元初のご本仏の悟り(因行果徳)を大御本尊として顕し末法万年の我等衆生に残されてのです。宇宙の法則や衆生の心の法を図顕したのではありません。あくまでも「ご本仏の悟り」が戒壇大御本尊であり戒壇大御本尊は御本仏そのものなのです。ですから我等衆生はこの戒壇大御本尊を総体の御本尊とし受持することで「名字即」という凡夫の位のままで「妙覚」という仏の位に昇るわけです。簡単にまとめると菩薩が長い間修行を重ねて最上位になって知ったことは、「御本尊を信じて自行化他の唱題をする」という自分達が一番最初にしていた修行を仏はしていた。わけです。もっと小難しい説明できなくはないのですが、【等覚一転名字妙覚】というのは概ねこのような事をいいます。

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教学メモ87:一月三星は一月三身か(義浄房御書から)

松戸行雄先生からFBで、『義浄房御書』の「一心に仏を見る、心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり」につき、意見を求められ、しばしコメントを交わした。

わたしは「一・心・欲・見・仏から、欲を除いて論を立てる理由はよくわかりませんが、この読み替えは三如是の三転読誦、如是相・相如是・是相如として三身に配立したアイデアを転用し、無作三身に当て嵌めているのだろうとは、想像」と管見を返した。

『義浄房御書』はしかし、無作三身、三大秘法といった真蹟遺文では確認できない用句が見られる。
宮田幸一先生は「天台大師心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云」とありますが、「一月三星」でsat検索をすると、室町時代初期の禅僧春屋妙葩の『智覚普明国師語録』に1箇所ヒットするだけです。「心果清浄」はノーヒットです。つまり出典が天台大師ではないと思われます。『義浄房御書』の初出は、それより遅い1473年の弘教寺日健の写本です。いずれにしても、出典を厳しくする日蓮の著作とは思われません」とコメントされている。

松戸先生は、日蓮遺文につき、真偽より思想の功利性を重視されているとお見受けする。「関心を持っているのはこの義浄房御書の一説に関わる解釈」とコメントもされていた。

本書の真偽は別として「一月三星 心果清浄」が気に掛った。
ネットで検索するばかりではなく『織田佛教大辭典』も捲ってみたが載っていなかった。

さて、日蓮は“月”わどう考えていたか、改めて真蹟遺文”を検索して、読み直してみた。
(“三星”の用例は真偽未決通じて『義浄房御書』の1個所のみ)

天子といった擬神化はもちろんある。「大月天 二十八宿 乗鷲 十二宮(日月之事)という如し。

また、「法華経を月」(兄弟鈔)「月こそ心よ」(事理供養御書)という観点も際立つ。

最晩年の「法華経の一字は大地の如し、万物を出生す。一字は大海の如し、衆流を納む。一字は日月の如し、四天下をてらす。此の一字返じて月となる。月変じて仏となる。稲は変じて苗となる。苗は変じて草となる。草変じて米となる。米変じて人となる。人変じて仏となる。女人変じて妙の一字となる。妙の一字変じて臺上の釈迦仏となるべし」(王日殿御返事)という一節は、日蓮の“月”への思いが集約されていると思えた。

その他、本迹への譬え。
「日蓮云 迹門譬月本門譬日歟」(秀句十勝鈔)

しかし、どうやら「一月三星」に係る用例はない。そう思いながら、今一度『織田佛教大辭典』を捲っていると「一月三身」という用句が目に入った。

「一月三身〔譬喩〕一の月を法報應の三身に譬へしもの。【寶王論】に「法身如月體。報身如月光。應身如月影。」

SATで『寶王論』(念佛三昧寶王論)を検索してみると「夫佛之三身。法報化也。法身者如月之體。報身者如月之光。化佛者如月之影。」とある。
應身如月影と化佛者如月之影の相違はあるが、織田はこの文を引いたのだろう。

日蓮が言った「譬へば月の体は法身、月に光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。」(四条金吾釈迦仏供養事)と同意であるのは興味が惹かれる。三身の根拠を『普賢経』とするが、説明は『寶王論』と異ならないではないこ。

ところで「月の影」とは、現代的に考えると、日蝕を想起しそうだが、これは違う。水に映る月の意味だ。

「不識天月但観池月」()「従本垂迹如月現水 払迹顕本如撥影指天」()と通じるのだろう。

日蓮の「寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮かべ給う」「水中の月に実月」「光り西山に及べども諸人月体を見ざるがごとし」(開目抄)とあった書き様は、情緒的であるけれど、玄の意を確りと踏まえている。更に手繰ると『寶王論』に至るという発見には、心が躍った。もちろん、日蓮が同論を読んでいたかはわからない。しかし、考えは同じである。

今回のテーマは、「一月三星」は「一月三身」ではないか、という大胆な仮定から始めたが、どうも、すとんと落着はしなかった。
それでも“月”につき、調べたことに満足感があった。

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牧口常三郎先生の生誕150周年

6/6
今日の一面

6・6 牧口常三郎先生の生誕150周年
三代の師弟の闘争で創価の哲学は世界へ
生誕の地 新潟・柏崎で教育本部主催記念講演会

去年や、その前の年も、
見出しや写真の配置、同じだった気がします。
記事内容も、同じでは?と感じましたが、
どうでもいいです…。

登竜門コンサートの準備(3)

☆歌6曲で勝負する. 以下に、配布する歌詞用紙(2枚)の写真を添付します。 写真解説「5曲の歌詞をワープロでA4用紙に印刷したもの。かたつむりのイラストあり」 ウクレレもマイクもアンプも揃いました。 でもそれは当たり前のこと。 問題は、歌会をどう企画するか・・ ユニット責任者と話し合い、いろいろ検討した結果、 ハッピーバスデーの歌と歌詞用紙の歌(5曲) 合せて6曲を歌うことを企画しま...

薬王品・宿王華付属の曲解。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会日蓮正宗大石寺は「広宣流布」という語を「全世界に広めていく」こととし、これを教団の目的としています。そして広める時期については「後五百歳中」つまり末法の時代であると解釈されます。
創価学会のホームページにもそう書かれてあります。



仏の覚りである正法を人々に流布し、万人を仏の境涯に導くことこそが、仏法の目標です。

それゆえ、法華経でも『我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ』(法華経601ページ、通解──私〈釈尊〉が入滅した後、末法において、全世界に正法を広宣流布して断絶させず、決して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼などの魔物につけ入らせてはならない)と説かれています。
この経文は、『後の五百歳』、すなわち末法において、妙法を全世界(一閻浮提)に広宣流布していくべきことを述べたものです。」





ところで上記の法華経からの引用では法華経薬王菩薩本事品第23から引用があります。
ところが、この引用は前後の宿王華菩薩への付属の部分がカットされていまして、あたかも地涌の菩薩、上行菩薩らに付属がされたように書かれています。



上記の創価学会ホームページでの引用部は次の通りです。



我滅度後後五百歳中。広宣流布。於閻浮提。無令断絶。悪魔。魔民。諸天。龍。夜叉。鳩槃荼等。得其便也。」



ところが、この引用の前後は次のようになっています。太字にしますので確認頂ければと思います。この部分を創価学会は意図的にかは知りませんが、カットしています。



是故宿王華。以此薬王菩薩本事品。嘱累於汝。我滅度後後五百歳中。広宣流布於閻浮提。無令断絶。悪魔。魔民。諸天。龍。夜叉。鳩槃荼等。得其便也。宿王華。汝当以神通之力。守護是経。



つまり創価学会日蓮法華経曲解である捃拾説に習って、意図的に「宿王華付属の法華経」として説かれる「広宣流布」を、「地涌の菩薩・上行付属の広宣流布」と曲解しているのです。そして経文上の「宿王華付属」の部分については、あえて引用せず、その前後を切り取って結果的に隠していることになります。ちなみにこの薬王品の付属は宿王華のみへの付属であり、どこにも地涌の菩薩など出てきません。



広宣流布は誰に委任されたか。」



広宣流布」という語は、法華経中には薬王菩薩本事品にしか存在しません。つまり文字を厳密に読むのであれば、「後五百歳中」の末法に「広宣流布」を託されたのは「宿王華菩薩」なのであって、上行菩薩等の地涌の菩薩ではありません。しかも鳩摩羅什漢訳の法華経ではその前の嘱累品で一度虚空会の儀式は閉幕しており、会座の会衆は既に散会していることになっています。



こういうところに日蓮の教説の曖昧さがあります。創価学会大石寺はこういったことを捃拾説から説明するとか、そういうことをきちんとやらずに、単に誤魔化すばかりしかしません。
私が創価学会からも大石寺からも離れた理由は、教団のこういう不誠実な部分なんですけどね。