2020年 11月 の投稿一覧

各国で「11・18」記念の集い――未来開く幸福の連帯

各国で「11・18」記念の集い――未来開く幸福の連帯 学会創立90周年の「11・18」を記念する集いが今月、各国で開催されている。苦難に負けず、朗らかに前進するSGI(創価学会インタナショナル)の友。創立100周年...

今週のことば

2020年11月30日 創立100周年の門を開く 希望のマイ ロマン総会! 「心の財第一なり」 伸びやかな友情の華を。 負けない生命の陽光を。 

今週のことば

2020年11月30日 創立100周年の門を開く 希望のマイ ロマン総会! 「心の財第一なり」 伸びやかな友情の華を。 負けない生命の陽光を。 

運 命

 そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。
我々は人生に問われている立場であり、我々が人生の答えを出さなければならないのです。


 V・E・フランクルの言葉だ。
 つまり、自分が生きる意味ってなんだ? とか、生きる目的ってなんだ? と問うても苦しくなるだけであり、あなたはこの避けがたき「運命」を、どのように受け止めますか、受け入れるんですか? という問いにつねに応えていくのが、本当にあるべき人生であると言っているのだ。

 まったくもって、そのとおりだ。
 とはいえ、人生で大怪我をするくらい躓いたことのない人には、決して理解できない言葉であろう。
 問うた人生の意味や目的にそって、順風満帆に生涯を過ごす人も少なくないだろう。しかしそれは、自分の人生を思いどおりに生きれているという「幸運」に過ぎない。多くの人はそれに気づかず自分が努力したからだと自惚れている。いい気になっているだけだ。

 しかし不運に見舞われた人は知る。避けがたきものがあると。
 そこに、宗教が生まれ信仰が生まれる切っ掛けがある。
 だから祈りの本質は、避けがたきものを忍える力を、覚悟する強い意志がわたしの中にあることを感じさせてくださいというものだ。あれがこうなりますようにといった現世利益を願うことなど、祈りではないのだ。

 そもそも、祈りとはそういうものだから、祈りの内容を他人に言うようなものでもなく、いわんや牧師や司祭を前にして懺悔することでもなく、他人の見ているところで祈るものでもない。ひたぶるに自己と対話することが祈りなのである。

 運に恵まれない者は、そのようにして「運命」を、受け入れる覚悟を持つのである。
 究極的には誰人も決して避け得ない死という「運命」を受け入れる覚悟を持つための手段が、祈りなのである。



 本当に運命というものがあるかどうか疑問なら、旧約聖書にある「ヨブ記」でも読めばいい。
 ヨブが避けがたい過酷な運命に苦しんでいるとき、彼のところにやってきた友人は何をした? 「ヨブ、お前は罪を犯したんだ。だから懺悔すべきだ」「ヨブ、お前はそういうが、多分どっかで罪を犯したんだ、でなければこんな仕打ちにあうはずがない。気持ちはわかるが懺悔したほうがいい」。そういうことをひたすら言うわけだ。運命に苦しめられてるのに、「お前が悪い!!」と責め苛む者を、わたしは友人だとは思わない。実際、最後の最後で神はヨブの友人たちを怒る。「一番悪いのはお前らじゃ! お前らだって何もわかってなかったくせに、わかったつもりになって、ヨブを罪人扱いしたのだからな」と。「生贄を捧げて懺悔すべきは、お前らじゃ!」と。
 現実の世界で、こういうことは日常的に行なわれている。運命に苛酷を強いられている者に向かって「お前が悪い! お前の努力が足りない! 自己責任だ!」そのように偉そうに説教する人が沢山いるのだ。
 罪を持ちだして他人を責めるのは、言うなればニーチェが言ったルサンチマン(弱者の怨み節、復讐心)だ。そしてこの世の中、ルサンチマンに浸食された者たちばかりである。
 旧約聖書の白眉であると聖書にさえ解説されている「ヨブ記」すら読まずにユダヤ・キリスト教を語る人も、ルサンチマンの権化だ。そのような人に「沈黙」の意味がわかるわけがない。
 「ヨブ記」の内容も知らずに、ドストエフスキー作品を読んでなにが解る? ゲーテのファウストを読んで何がわかる? わかるわけがない。そんな読み方は、読んだという事実をもって読書家だと自惚れているにすぎない。

 もともとわたしは、どうにもしようのない激情家だ。生まれもっての性質をいまさら変えることは不可能である。運命だからだ。そんなことは百も承知してるし自覚している。だからこそ、論理的に語ることで、その激情を他人にぶつけないように努力しているのだ。その努力すらわからず、世の中は論理的に語る人を、ロジスティック・ハラスメントする人とか呼びだす風潮さえある。そんじゃ、感情のままに語っていいんだな? 受け止められるんだな? 無理だろ。無理に決まってる。ずっとそうだったのだから。だから、わたしの歩むべき道はその激しい感情を作品づくりに思索に使うという芸術、あるいは学問の道しかないのである。
 さして激しくない感情の持ち主なら、ツイッターで誰かを攻撃したりして鬱憤を晴らせばなんとかなるレベルだろう。あるいはまた、自分と似た趣味の人と共感することで何とかなるだろう。
 しかし、わたしのような激情家はそうはいかないのだ。何かを探求しはじめると極めなければ気がすまないといった完璧主義傾向を手放そうともしてきたが、そういう性質ももはや変えようがないのだ。アドラーの目的論的視点をもてば変えられる? 変えてどうするの? ある意味でいえば、完璧を目指すのも持ち味なのだから、無理に変える必要はない。むしろ持ち味なんだからそれでいいと肯定してしまうほうが、よほど精神衛生上よい。

 ルソーしかり、ゲーテしかり、南方熊楠しかり、幸田露伴しかり、ショーペンハウァーしかり、ニーチェしかり、世に名を残した人はほとんど激情家だ。笑ってしまうくらい激情家だ。そして激情家は必ず鬱性質を伴う。当然のことだ。激しい感情を無理矢理に自制し抑圧しようとすれば鬱になるにきまってる。そして歴史上の人物を見ると、笑ってしまうくらいその指摘は当たっている。ゲーテはベートーヴェンの天才性を知っていた。しかし、ゲーテはベートーヴェンのなかに自分と似た激情性を見た。しかもそれはゲーテの激情をデモーニッシュの方向に引き出しかねないものだった。だから彼はベートーヴェンと関わることを止めたのだ。同じ傾向性をもっていても、共感しあえない苦悩もあるのだ。
 ともあれ、世にたいして事を為す人物は激情家で鬱の人が多い。発明、発見をした人はだいたい鬱傾向をもっている。だからといって、わたしは自分を天才だなど思ってはいない。ちんけなレベルだ。クソみたいなレベルだ。しかし、そういう傾向があることを自覚すると、世間で普通に生きていけないことは理解している。人が何も感じないことを敏感に感じるからだ。それは喜びである反面苦痛でもあるのだ。
 ショーペンハウァーは言っている。
 人生でなにより苦しいときというのは、多くのことを自覚し、例えば悟りに向かって努力したとき、その悟りに到達する一歩手前で、死んでしまいたくなるくらいの苦悩に直面することだ、と。そうだと思う。ブッダでさえそうだったのだから。死にそうになってスジャータが布施した粥をすすって、それで悟りに至ったのだから。イエスにしてもそうだろう。十字架にかけられ、死ぬ寸前に「成し遂げられた」と呟いたのだから。孔子だってそうだ。流浪の生活に疲れ果てたときに出来た弟子が師匠に教わった言葉を孔子にかけたことで、孔子は絶望に打ちひしがれなかったのだ。これこそ「情けは人の為ならず」の見本のようなものだ。ソクラテスだってそうだろう。死を決意したあとも、弟子たちが心配して出来ることをすべてやってくれた。その情愛があったからこそ、彼は毅然として毒をあおって死んでいけたのだろう。人生はそれくらい苛酷なものである。だが、多くの人はそれを知らない。しらないまま死の間際にその苦悩に襲われるというわけだ。

 頭がぼんにゃりんとして、何が言いたいのかわからなくなった(笑)
 自律神経も悲鳴をあげていて、左肘の内側が痛い。軽く頭痛もする。だから瞑想すら出来ない。しばらく続けられていたのに悔しい。ふんだりけったりだ。
 ともあれ、この辺でやめておこう。愚痴っても何も変わらない。
 「お前、それを俺に話して何か変わるのか!?」
 「いいえ、変わりません」
 「だったら止めておけ。無駄なことは言うな」
 20歳代のころ、尊敬する先輩と交わしたあの場面が蘇るのだ。

妙に嬉しい11月の末の出来事

☆まさかの特選を得る. 句会のスマホ情報(画面)の写真を添付します。 写真解説「銃弾のやうに団栗並べ置きの句の横に特選の文字があります」 先日、俳句会に投稿した5つの句を報告いたしました。 →sokafree.exblog.jp/30303829/ コロナの影響で気持ちが萎えて俳句らしくない俳句ばかり。 その中で唯一、俳句らしい句は「季重なり」(笑い) 今月は仕方ないと盛り下がってい...

友人から頂いた体験のメール

何回かにわたって届いたメール 「夏ごろから鬱かな?集中力なくて 辛かった秋に 仕事のミスで昇進が無くなった事が響いてるけど、11.18は色々あって池田先生に報告できた 今が踏ん張りどころ また宿業だと思って題目あげる」 「ちよさんが祈ってくれたからか、運動が効いたのか今はだいぶ落ち着いた 鬱の時にもらった漢方 飲んで寝ます」 「今 思い出した 20年前 社長に池田先生の書籍を送っ...

またかよ! 疑念の芽を摘み取れ! 自分に負けるな!

生きていれば 生きているからこそ

調子のいい時ばかりじゃないし 不安定な時もある

不安定な時間が 日々が 月日が続くことだってある

一瞬 心に触れた不安 そこからバランスを崩してしまう

思うに 過去の失敗に囚われて 心が乗っ取られてしまえば迷走が始まる

自分を信じて祈っていけば バランスを立て直して軌道に乗せることができる

迷走すれば心も体も疲弊してしまう

だから できるだけ早く自分を取りもどし 確信をもって原点に立ち返ることだ

疲弊が深刻化したら それだけ立ち返ることが難しくなる

そうなってしまうと 負から負へ 闇から闇へ

連鎖は止まらない

 

昔 何かで知った“疑念の芽”という言葉

疑念は 一度芽を出すと 次から次と限りなく増える

そして その疑念は たちまちに心を覆いつくす――、と

だから ただちに摘み取っていくしかない

ただちに断ち切っていくしかない

川の流れに逆らうように 岩に爪を立てでも 逆境から強引に這い上がるんだ

ただ一点、御本尊だけを見つめて

 

ふと ある動画が目に映った

頑張っても頑張っても認められることはなく 疑いの目が厳しい 

もっともっとと煽り続ける……

――僕にもある

どうやっても認めてもらえない 信じてもらえない

ガキの頃から もう50だぜ

いつになったら認められるのか ずっと罪人のよう

1ミリでもミスをしたら“ふりだし”からだ 一切を否定されてしまう

チクショウ! 人は誰もが完ぺきではないだろが

 

だけど 僕は自分が信仰する御本尊を信じ切れているのか

信じているつもりではいるけど どこかで疑ってやしないか

なぜ迷う?

なぜ自信が持てない?

口を開けば「信心信心」といいながら

自分自身の可能性さえも信じられない有様だ

僕自身 相手を信じられているのだろうか

自他共の 仏性を信られているのだろうか

この状況はその鏡写しか?……

 

僕から変わる そこからすべては変わり始める

そう教わったはずだが……

またそれ? また僕から? なんか損した気分だな! 不愉快だな!

だけど 信じることから もう一度はじめよう

自分の意見を押し付けるのではなく

他者との考え方や意見の違いを受け入れ 価値観など差異を乗り越えていけるように

もっと広い視野に立って

もっと大きな心で包み込んでいけるように

認めてもらえるのを待つよりも

他人からどう思われようが どう言われようが

先ずは 僕から心を開いて信頼していくことが必要 その勇気が必要

自分が変われるかどうかより 変わるかどうかだ

何かに 誰かに頼るという弱々しい生き方ではなく

自らの行動で掴み取って 納得できる生き方を と思う

自らの“妙みょう”なる生命に宿る“仏性” すなわち “勇気”を信じ奮い起こして

自他共の“善性”を “無限の可能性”を開いていきたい

 

この人生というのは 重要な出来事だ 重大な出来事だ 貴重な出来事だ

この人生の“幸・不幸”だけに止まらず

現在・過去・未来の三世の“幸・不幸”が決定づけられるのが今世の人生だから

無始の過去から未来永劫の“幸・不幸”がこの人生で決定づけられるからだ

時間を垂れ流しにしては 本当はいけなかったんだ 今はそう確信できる

 

少しずつ 本当に少しずつだけど

この しょうもないアタマでも わかってきたような気がする

まあ “気がする”程度だけど

 

題目の集中砲火で 己心に芽吹いた“疑念の芽”を焼き尽くせ 徹底的に焼き尽くせ

 

信心は “難しい顔をして”“険しい顔をして”“頑張る”ものじゃなくて

“v(^-^)v わくわく”して“楽しんで”やるもんじゃないかな と思う

だってそうだろ

ありのままで 自分らしく より良く変われるんだから

自分が思った以上に幸福になれるんだから

どお? 難しい顔にはならないだろ?

v(^-^)v わくわくするだろう

 

 

[和訳]Slow Down - Lights Follow

 

 

 

 

(歌詞和訳) Strong Lyrics Theme from Disney's Cinderella

なるようにしかならないなら・・

☆コロナの飛び火が舞う. きのう28日、新たに2684人の新型コロナウイルス感染者が確認されました。 全国の重症者も、これまでで最も多い440人となりました。 東京都では都内ほぼ全域を対象に、酒類を提供する飲食店など 営業時間を午後10時までに短縮する要請が始まりました。 1日2500人のペースが続けば4日で1万人が感染してしまいます。 1ヵ月で7万5000人の感染ともなれば、さらに事態...

「3」という不思議

 昔から「3」という数には不思議さがあると感じていた。
 それは神話・伝統宗教を学んできたせいもあるのだろうが。ここにきて大和言葉を学びはじめて、また「3」という不思議に気づいた。

 われらが古代の日本語は、案外と三音であるものを指す名詞などが多いのである。
 先に記事にした、数のかぞえかた、これも三文字である。ひとつ。ふたつ、みっつ……とう(そ)……はたち、みそじ……ももち(百)、ふたほ(二百)……ち(千)……よろず(万)と。
 もちろん、完全ではないが。

 で、それ以外の三文字をさがすと、沢山ある。

 で、これらを繋いで意味をなさせるのが、動詞であり、助詞であり、助動詞だったりする。
 そして、古文の場合、現代ではあまり使われない文法にあたる、語尾における助動詞の変化があり、これがかなりの数あって、さらに活用するために、古文は非常にとっつきにくいのである。

 「なり」で活用を言うなら。
 なり(基本形)――
 なら〔未然〕、なり(に)〔連用〕、なり〔終止〕、なる〔連体〕、なれ〔已然(仮定)〕、なれ〔命令〕
 ――となる。

 未然はまだそうなっていない表現。連用は用言のあとに繋げる表現(用言は基本的に変化するもの)。終止は文末に使う。連体は体現のあとに繋げる表現(体現は基本的に変化しないもの)。已然はすでに起こったこ表現。命令は説明するまでもなかろう。

 これを「である」で表記するならこうなる。

 未然「であろう」連用「であるなら」「であるから」終止「である」連体「である」已然「であった」命令「であれ」――となるだろう。
 古文も同じである。

 しかし、このような説明ではピンと来ない。例文が必要だろう。
 「今日は良い天気である」これを例文にしてみよう。

 未然:今日は良い天気であろう。
 連用:今日は良い天気であるから(買い物に行こう)。
 終止:今日は良い天気である。
 連体:今日は終日青空である。青空という語は、体言とはいいがたいが……。普通、体言は固定的なもので、銀行とか図書館とか真実とか疑問とかそういう言葉である。それが本当かは疑問。このように語尾に助動詞をつけなくても使えるのが体言であり、普通、このような用法を体現止めという。
 已然:今日は良い天気であった。
 命令:今日は良い天気であれ。

 古文にある「なり」の用法も基本同じである。ただ、われわれが普段使っていないのと、古文の助動詞は現代文にくらべ、遥かに数がおおいので、使用頻度の低い助動詞が現れると、それがどう活用してるのかがわからないのであろう。

 例えば「る」。
 滴るの活用はこうなる。
 滴る、滴れ、滴れ、滴る、滴るる、滴るれ、滴れよ――と。

 これはまだわかりやすい例だ。かなり詳しく説明された表があるので、それをリンクしておく。

 で、何が言いたいのかというと、つまり、大和言葉というのは、基本的には三文字の語句どうしを動詞、助詞、助動詞などで繋いでいると思えるのである。滴るを例にすればこうなる。

 朝日さし、るる露、御魂かと、うつつに思い、けふの夢
 こんな感じで、三文字の語句を基本として、動詞、助詞、助動詞で繋いでいくと、意外なくらい簡単に歌になるのであろう。

 日本の古文にある、自然な美しさは、三文字言葉を基本とするところから生まれているのだろう。
 で、完全に規則にしたがえるわけではないので、そこで字余り、字足らずが起こり、それが微妙な「ゆらぎ」を起こし、人間の鼓動や脈拍にもある、ゆらぎと一致したとき、えも言われぬ味わいが生まれるのではないだろうか。
 
 とはいえ、これは勝手な推測なので、信じ込まないでほしい。
 興味のある人は、自力で調べることを推奨する。


 どうだろうか? 三文字の語句と助動詞の活用を感じられるであろうか? そこに美しいリズムを感じられるであろうか?


 平家物語は、どちらかと言えば、漢文読み下しの文だといえよう。でも、第二段落以降は少しづつ、三文字言葉は聞こえてくる。






 そして私が一番心地よく感じるリズムは三連符なわけで。この不安定感とゆらぎ感が、生きてる感じを催させるというわけ。だから、クラシックならワルツが一番好きなリズムである。