御書資料集①

◆ 戒体即身成仏義 〔C6・仁治三年〕/ 安房国清澄山住人 蓮長 撰/           一には小乗の戒体/ 分かちて四門と為す 二には権大乗の戒体/           三には法華開会の戒体〈法華・涅槃の戒体に小しく不同有り〉/           四には真言宗の戒体/ 第一に小乗の戒体とは四種有り。五戒は俗男俗女戒、八斎戒は四衆通用、二百五十戒は比丘戒、五百戒は比丘尼戒なり。而るに四種倶に五戒を本と為す。婆沙論に云く「近事律儀は、此の律儀の与(ため)に門と為り依と為り加行と為るを以ての故に」云云。近事律儀とは五戒なり。されば比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒も始めは五戒なり。五戒とは諸の小乗経に云く「一には不殺生戒、二には不偸盗戒、三には不邪淫戒、四には不妄語戒、五には不飲酒戒」〈以上五戒〉。此の五戒と申すは、色心二法の中には色法なり。殺・盗・淫の三は身に犯す戒、不妄語戒・不飲酒戒は口に犯す戒、身口は色法なり。此の戒を持つに、作・無作、表・無表と云ふ事有り。作と表と同じ事なり。無作と無表も同じ事なり。表と申す事は、戒を持たんと思ひて師を請ず。中国は十人、辺国は五人。或は自誓戒もあり。
道場を荘厳し焼香散華して、師は高座にして戒を説けば、今の受くる者左右の十指を合はせて持つと云ふ。是れを表色と云ひ作とも申す。此の身口の表作に依りて、必ず無表無作の戒体は発するなり。世親菩薩云く「欲の無表は表を離れて生ずること無し」文。此の文は必ず表有りて無表色は発すと見えたり。無表色を優婆塞五戒経の説には「譬へば面有り鏡有れば則ち像現有るが如し。是の如く作に因りて便ち無作有り」云云。此の文に鏡は第六心王なり、面は表色合掌の手なり、像は発する所の無表色なり。又倶舎論に云く「無表の大種に依止して転ずる時、影の樹に依り光の珠宝に依るが如し」云云。此の文は、表色は樹の如く珠の如し、無表色は影の如く光の如しと見えたり。此等の文を以て表無表・作無作を知るべし。/ 五戒を受持すれば人の影の身に添ふが如く、身を離れずして有るなり。此の身失すれば未来には其の影の如くなる者は遷るべきなり。色界・無色界の定共戒の無表も同じ事なり。又悪を作るも其の悪の作と表とに依りて、地獄・餓鬼・畜生の無作・無表色を発して悪道に堕つるなり。但し小乗教の意は、此の戒体をば尽形寿一業引一生の戒体と申すなり。
「形寿を尽くして一業に一生を引く」と申すは、此の身に戒を持ちて其の戒力に依りて無表色は発す。此の身と命とを捨て尽くして彼の戒体に遷るなり。一度人間天上に生ずれば、此の戒体を以て二生三生と生まるる事なし。只一生にて其の戒体は失ひぬるなり。譬へば土器を作りて一度使ひて後の用に合はざるがごとし。倶舎論に云く「別解脱の律儀は尽寿と或は昼夜なり」云云。又云く「一業引一生」云云。此の文に尽寿一生等と云へるは、尽形寿と云ふ事なり。天台大師の御釈に「三蔵尽寿」と釈し給へり。然るに此の戒体をば不可見無対色と申して、凡夫の眼には見えず、但天眼を以て之れを見る、定中には心眼を以て之れを見ると云へり。然るに私に此の事を勘へたるに、既に優婆塞五戒経に「面有り鏡有れば則ち像現有り」と云ひて、鏡を我が心に譬へ、面を我が表業に譬へ、像をば無表色に譬ふ。既に我が身に五根有り、左右の十指を合すれば五影を生ず。知んぬべし、実に無表色も五根十指の如くなるべきを。/ 又倶舎論に中有を釈するに「同と浄なる天眼とに見らる。業通ありて疾し。根を具す」云云。此の文分明なり。無表色に五根の形有らばこそ、中有の身には五根を具すとは釈すらめ。
提謂経の文を見るに、人間の五根・五臓・五体は五戒より生ずと見えたり。乃至依報の国土の五方・五行・五味・五星皆五戒より生ずと説けり。止観弘決に委しく引かれたり。されば戒体は微細の青・黄・赤・白・黒・長・短・方・円の形なり。止観弘決の六に云く、提謂経の中の如し「木は東方を主る、東方は肝を主る、肝は眼を主る、眼は春を主る、春は生を主る、生存すれば則ち木安し。故に不殺は以て木を防(いまし)むと云ふ。金は西方を主る、西方は肺を主る、肺は鼻を主る、鼻は秋を主る、秋は収を主る、収蔵すれば則ち金安んず。故に不盗と云ひて以て金を防む。水は北方を主る、北方は腎を主る、腎は耳を主る、耳は冬を主る、淫盛んなれば則ち水増す。故に不淫と云ひて以て水を禁む。土は中央を主る、中央は脾を主る、脾は身を主る、土は四季に王たり。故に提謂経に云く、不妄語は四時の如しと。身は四根に遍し。妄語も亦爾なり。諸根に遍して心に違して説くが故に。火は南方を主る、南方は心を主る、心は舌を主る、舌は夏を主る、酒乱るれば火を増す。故に不飲酒は以て火を防(いまし)む」文。此の文は天台大師提謂経の文を以て釈し給へり。/ されば我等が見る所の山河・大海・大地・草木・国土は、五根・十指の尽形寿の五戒にてまう(儲)けたり。
五戒破るれば此の国土次第に衰へ、又重ねて五戒を持たずして、此の身の上に悪業を作れば、五戒の戒体破失して三途に入るべし。是れ凡夫の戒体なり。声聞・縁覚は、此の表色の身と無表色の戒体を、苦・空・無常・無我と観じて見惑を断ずれば、永く四悪趣を離る。又重ねて此の観を思惟して思惑を断じ、三界の生死を出づ。妙楽の釈に云く「見惑を破するが故に四悪趣を離れ、思惑を破するが故に三界の生を離る」文。此の二乗は法華已前の経には、灰身滅智の者、永不成仏と嫌はれしなり。灰身と申すは、十八界の内十界半の色法を断ずるなり。滅智と申すは、七心界半を滅するなり。此の小乗教の習ひは、三界より外に浄土有りと云はず。故に外に生処無し。小乗の菩薩は未だ見思を断ぜず、故に凡夫の如し。仏も見思の惑を断じ尽くして入滅すと習ふが故に、菩薩・仏は凡夫・二乗の所摂なり。/ 此の教の戒に三つあり。欲界の人天に生まるる戒をば律儀戒と云ふなり。色界・無色界へ生まるる戒をば定共戒と云ふなり。声聞・縁覚の見思断の無漏の智と共に発得する戒をば道共戒と名づく。天台の釈に云く「今戒と言ふは律儀戒・定共戒・道共戒有り。此の名源三蔵より出でたり。
律は是れ遮止、儀は是れ形儀なり。能く形上の諸悪を止む、故に称して戒と為す。定は是れ静摂なり、入定の時自然に調善にして諸悪を防止するなり。道は是れ能通なり。真を発して已後自づから毀犯無し。初果地を耕すに虫四寸を離る、道共の力なり」文。又表業無けれども無表色を発得する事之れ有り。光法師云く「是の如きの十種の別解脱律儀は、必定表業に依りて発するに非ず」云云。此の文は表業無けれども無表色発する事ありと見えたり。/ 第二に権大乗経の戒体とは、諸経に多しと云へども、梵網経・瓔珞経を以て本と為す。梵網経は華厳経の結経、瓔珞経は方等部、浄土の三部経等の結経なり。されば法華已前の戒体をば此の二経を以て知るべし。梵網経の題目に云く「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品」文。此の題目を以て人天二乗を嫌ひ、仏因仏果の戒体を説かずと知るべきなり。されば天台の御釈に云く「所被の人は唯大士の為にして二乗の為にせず」。又云く「既に別に部の外に菩薩戒経と称す」文。又云く「三教の中に於ては即ち是れ頓教なり、仏性常住一乗の妙旨を明かす」文。三教と申すは頓教は華厳経、漸教は阿含・方等・般若、円教は法華・涅槃なり。一乗と申すは未開会の一乗なり。法華の意を以て嫌はん時は、宣説菩薩歴劫修行と下すべきなり。
又梵網経に云く「一切発心の菩薩も亦誦すべし〈十信之れに当たる〉。十発趣〈十住〉、十長養〈十行〉、十金剛〈十向〉」。又云く「十地仏性常住妙果」已上四十一位又は五十二位。此の経と華厳経には四十一位又五十二位の論之れ有り。/ 此の経を権大乗と云ふ事は、十重禁戒・四十八軽戒を、七衆同じく受くる故に小乗経には非ず。又疑ふべき処は、華厳・梵網の二経には別円二教を説く。別教の方は法華に異なるべし、円教の方は同じかるべし。されば華厳経には「初発心の時便ち正覚を成ず」。梵網経には「衆生は仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る。位大覚に同じうし已はらば、真に是れ諸仏の子なり」文。答へて云く、法華已前の円の戒体を受けて、其の上に生身得忍を発得するなり。或は法華已前の円の戒体は別教の摂属なり。法華の戒体は受不受を云はず。開会すれば戒体を発得する事復是の如し。此の経の十重禁戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪淫戒・第四不妄語戒・第五不酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不自讃毀他戒・第八不慳貪戒・第九不瞋恚戒・第十不謗三宝戒なり。/ 又瓔珞経の戒は、題目に菩薩瓔珞本業経と云へり。此の経も梵網経の如く菩薩戒なり。此の経に五十二位を説く。
経に云く「若しは退き若しは進むとは十住以前の一切の凡夫、若しは一劫二劫乃至十劫、十信を修行して十住に入ることを得」云云。又云く「十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚」云云。此の経は一々の位に多劫を歴て仏果を成ず。菩薩は十信の位にして仏果の為に十無尽戒を持つ、二乗と成らん為に非ず。故に住前十信の位にして退すれば悪道に堕つ。又人天に生じて生を尽くせども戒体は失はず、無量劫を歴て仏果に至るまで、壊れずして金剛の如くにて有るなり。此の経に云く「凡聖の戒は尽く心を体となす。是の故に心亦尽くれば戒も亦尽く。菩薩戒は受法のみ有りて而も捨法無く、犯有れども失せず、未来際を尽くす」。又云く「心無尽なる故に戒も亦無尽なり」文。又云く「仏子無尽戒を受け已はれば、其の受くる者四魔を過度し三界の苦を越え、生より生に至るまで此の戒を失はず、常に行人に随ひ乃至成仏す」文。天台大師云く「三蔵は寿を尽くし、菩薩は菩提に至る。爾の時に即ち廃す」文。此の文は小乗戒は凡夫・聖人・二乗の戒共に尽形寿の戒、菩薩戒は凡夫より仏果に至るまで、その中間に無量無辺劫を歴れども、戒体は失せずと云ふ文なり。されば此の戒は持ちて犯すれども、猶二乗外道に勝れたり。故に経に云く「有(たも)ちて犯する者は、無くして犯さざるに勝れたり、有つは犯するも菩薩と名づけ、無きは犯さざるも外道と名づく」文。
此の文の意は、外道は菩薩戒を持たざれば戒を犯さざれども菩薩とは名づけず、菩薩は戒を破犯すれども仏果の種子は破失せざるなり。此の梵網・瓔珞の二経は心を戒体と為す様なれども、実には色処を戒体と為すなり。小乗には身口を本体と為し、大乗には心を本体と為すと申すは一往の事なり、実には身口の表を以て戒体を発す。戒体は色法なり、故に大論に云く「戒は是れ色法なり」文。故に天台の梵網経の疏に「正しく戒体を出だす。第二に体を出だすとは、初めに戒体とは起こらずんば而已ぬ。起これば即ち性無作の仮色なり」文。「不起而已」とは、表なければ戒体発せずと云ふなり。「起即性無作仮色」とは、戒体は色法と云ふ文なり。/ 近来唐土の人師、梵網・法華の戒体の不同を弁へず、雑乱して天台の戒体を談じ失へり。瓔珞経の十無尽戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪淫戒・第四不妄語戒・第五不酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不慳貪戒・第八不瞋恚戒・第九不自讃毀他戒・第十不謗三宝戒なり。梵網・瓔珞の十重禁戒・十無尽戒も初めに五戒を連ねたり。大小乗の戒は五戒を本と為す。故に涅槃経には具足根本業清浄戒とは是れ五戒の名なり。一切の戒を持つとも、五戒無ければ諸戒具足すること無し、五戒を持てば諸戒を持たざれども、諸戒を持つに為りぬ、諸戒を持つとも五戒を持たざれば諸戒も持たれず、故に五戒を具足根本業清浄戒と云ふ。
されば天台の釈に云く「五戒は既に是れ菩薩戒の根本なり」。諸戒の模様を知らんと思はば能く能く之れを習ふべし。/ 第三に法華開会の戒体とは、仏因仏果の戒体なり。唐土の天台宗の末学、戒体を論ずるに、或は理心を戒体と云ひ、或は色法を戒体と論ずれども、未だ梵網・法華の戒体の差別に委しからず。法華経一部八巻二十八品、六万九千三百八十四字、一々の文字、開会の法門実相常住の無作の妙色に非ずといふこと莫し。此の法華経は三乗・五乗・七方便・九法界の衆生を皆毘盧遮那の仏因と開会す。三乗は声聞・縁覚・菩薩、五乗は三乗に人天を加へたり。七方便は蔵通の二乗四人、三蔵教の菩薩、通教の菩薩、別教の菩薩三人、已上七人。九法界は始め地獄より終り菩薩界に至るまで、此等の衆生の身を押へて仏因と開会するなり。其の故は、此等の衆生の身は皆戒体なり。但し疑はしき事は、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四道は戒を破りたる身なり、全く戒体無し。人・天・声聞・縁覚の身は尽形寿の戒に酬いたり。既に一業引一生の戒体、因は是れ善悪、果は是れ無記の身なり。其の因既に去りぬ。何なる善根か有りて法華の戒体と成るべきや。菩薩は又無量劫を歴て成仏すべしと誓願して発得せし戒体なり。「須臾聞之即得究竟」の戒体と成るべからず。此等の大なる疑ひ有るなり。
然るを法華経の意を以て之れを知れば、十界共に五戒なり。其の故は、五戒破れたるを四悪趣と云ふ。五戒失せたるに非ず。譬へば家を造りてこぼち置きぬれば材木と云ふ物なり、数の失せたるに非ず、然れども人の住むべき様無し、還りて家と成れば又人住むべし。されば四悪趣も五戒の形は失せず。魚鳥も頭有り、四支有るなり。魚のひれ四つ有り、即ち四支なり。鳥は羽と足とあり、是れも四支なり。牛馬も四足あり、二つの前の足は即ち手なり。破戒の故に四足と成りてすぐにたたざるなり。足の多くある者も、四足の多く成りたるにて有るなり。蠕蛇(やまかがち)の足無く腹ばひ行くも、四足にて歩むべきことはりなれども、破戒の故に足無くして歩むにて有るなり。畜生道此の如し。餓鬼道は多くは人に似たり。地獄は本の人身なり。苦を重く受けん為に本身を失はずして化生するなり。大覚世尊も五戒を持ちたまへる故に浄飯王宮に生まれたまへり。諸の法身の大士、善財童子・文殊師利・舎利弗・目連も皆天竺の婆羅門の家に生まれて仏の化儀を助けんとて、皆人の形にて御座しましき。梵天・帝釈の天衆たるも、竜神・修羅の悪道の身も、法華経の座にしては皆人身たりき。
此等は十界に亘りて五戒が有りければこそ、人身にては有らめ。諸経の座にては四悪趣の衆生、仏の御前にて人身たりし事は不審なりし事なり。舎利弗を始めとして千二百の阿羅漢・梵王・帝釈・阿闍世王等の諸王、韋提希等の諸の女人、皆「衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲す」と開会せし事は、五戒を以て得たる六根・六境・六識を改めずして、押へて仏因と開会するなり。竜女が即身成仏は畜生蛇道の身を改めずして、三十二相の即身成仏なり。畜生の破戒にて表色なき身も、三十二相の無表色の戒体を発得するは、三悪道の身即ち五戒たる故なり。されば妙楽大師の釈には五戒を十界に亘し給へり「別して論ずれば、然りと雖も通の意知るべし。余色・余塵・余界も亦爾り。是の故に須く仁譲等の五を明かすべし」云云。余色とは九界の身、余塵とは九界の依報の国土、余界とは九界なり。此の文は人間界を本として五常・五戒を余界へ亘すなり。/ 但し持たざる五戒は如何に三悪道には有りけるぞと云ふに、三悪道の衆生も人間に生まれたりし時、五戒を持ちて其の五戒の報を得ずして三途に堕ちたる衆生も有り。此の善根をば未酬の善根と云ふ。又既に人間に生まれたる事もあり、是れをば已酬の善根と云ふ。又無始の色心有り。
此等の善根を押へて正・了・縁の三仏性と開会する時、我が身に善根有りと思はざるに、此の身を押へて「欲令衆生開仏知見使得清浄故」と説かるるは、人天の果報に住する五戒十善も、権乗に趣ける二乗も菩薩も「皆已に仏道を成ず、汝等行ぜし所は是れ菩薩道」と説かれたるなり。されば天台の御釈に云く「昔は方便未だ開せざれば果報に住すと謂へり。今方便の行、即ち是れ縁因仏性と開するに、能く菩提に趣かしむ」云云。妙楽大師は「権乗の道に趣向せし者も、一実の観・一大の弘願を以て之れを体し之れを導く」云云。是の如く意得る時、九界の衆生の身を仏因と習へば、五戒即仏因なり。/ 法華已前の経には此の如き説なき故に、凡夫・聖人の得道は名のみ有りて実無きなり。されば此の経に云く「但虚妄を離るるを名づけて解脱と為す。其の実は未だ一切の解脱を得ず」文。愚かなる学者は、法華已前には二乗計り色心を滅する故に得道を成ぜず、菩薩・凡夫は得道を成ずべしと思へり。爾らざる事なり。十界互具する故に妙法なり。さるにては十界に亘りて二乗・菩薩・凡夫を具足せり。故に二乗を成仏せずと云はば、凡夫・菩薩も成仏せずと云ふ事なり。法華の意は、一界の成仏は十界の成仏なり。
法華已前には仏も実仏に非ず、九界を隔てし仏なる故に。何に況や九界をや。然るに法華の意は、凡夫も実には仏なり、十界具足の凡夫なる故に。何に況や仏界をや。されば天台大師は一代聖教を十五遍御覧有りき。陳・隋二代の国師として造り給ひし文は、天竺・唐土・日本に、玄義・文句・止観の三十巻はもてなされたり。御師は六根清浄の人南岳大師なり。此の人の御釈の意一偏に此に在り。此の人を人師と申してさぐるならば経文分明なり。無量義経に云く「四十余年未だ真実を顕はさず」云云。法華已前は虚妄方便の説なり。法華已前にして一人も成仏し、浄土にも往生してあらば、真実の説にてこそあらめ。又云く「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎて、終に無上菩提を成ずることを得ず」文。法華経には「正直に方便を捨てて但無上道を説く」云云。法華已前の経は不正直の経、方便の経。法華経は正直の経、真実の経なり。/ 法華已前に衆生の得道があらばこそ、行じ易き観経に付きて往生し、大事なる法華経は行じ難ければ行ぜじと云はめ。但釈迦如来の御教の様に意得べし、観経等は此の法華経へ教へ入れん方便の経なり。浄土に往生して成仏を知るべしと説くは、権教の配立、観経の権説なり。真実には此の土にて我が身を仏因と知りて往生すべきなり。
此の道理を知らずして浄土宗の日本の学者、我が色心より外の仏国土を求めさする事は、小乗経にもはづれ大乗にも似ず。師は魔師、弟子は魔民、一切衆生の其の教を信ずるは三途の主なり。法華経は理深解微にして我が機に非ず、毀らばこそ罪にてはあらめと云ふ。是れは毀るよりも法華経を失ふにて、一人も成仏すまじき様にて有るなり。設ひ毀るとも、人に此の経を教へ知らせて、此の経をもてなさば如何(なに)かは苦しかるべき。毀らずして此の経を行ずる事を止めんこそ、弥(いよいよ)怖ろしき事にては候へ。此れを経文に説かれたり。「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して疑惑を懐かん。其の人命終して阿鼻獄に入らん。地獄より出でて当に畜生に堕すべし。若しは狗・野干・或は驢の中に生まれて身常に重きを負ふ。此に於て死し已りて更に蟒身を受けん。常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く、余の悪道に在ること己が舎宅の如くならん」文。此の文を各御覧有るべし。/ 「若人不信」と説くは末代の機に協はずと云ふ者の事なり。「毀謗此経」の毀はやぶると云ふ事なり。法華経の一日経を皆停止して称名の行を成し、法華経の如法経を浄土の三部経に引き違へたる、是れを毀と云ふなり。
権教を以て実教を失ふは、子が親の頸を切りたるが如し。又観経の意にも違ひ、法華経の意にも違ふ。謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ、謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり。「則ち一切世間の仏種を断ず」と説くは、法華経は末代の機に協はずと云ひて、一切衆生の成仏すべき道を閉づるなり。「或復顰蹙」と云へるは、法華経を行ずるを見て、くちびるをすくめて、なにともなき事をする者かな。祖父が大なる足の履、小さき孫の足に協はざるが如くなんど云ふ者なり。「而懐疑惑」とは、末代に法華経なんどを行ずるは実とは覚えず、時に協はざる者をなんど云ふ人なり。此の比(ごろ)の在家の人毎に、未だ聞かざる先に天台・真言は我が機に協はずと云へるは、只天魔の人にそひて生まれて思はするなり。妙楽大師の釈に云く「故に知んぬ、心宝所に赴くこと無くんば、化城の路一歩も成らず」文。法華経の宝所を知らざる者は、同居の浄土・方便土の浄土へも至るまじきなり。又云く「縦ひ宿善有ること恒河沙の如くなるも、終に自ら菩提を成ずるの理なし」文。称名・読経・造像・起塔・五戒・十善・色無色の禅定、無量無辺の善根有りとも、法華開会の菩提心を起こさざらん者は、六道四生をば全く出でまじきなり。
法華経の悟りと申すは易行の中の易行なり。只五戒の身を押へて仏因と云ふ事なり。五戒の我が体は即身成仏とも云はるるなり。小乗の意、権大乗のおきて(約束)は、表にて無表を発す。此の法華経は三世の戒体なり。已酬・未酬倶に仏因と説いて、三悪道の衆生も戒体を発得す。竜女が三十二相の戒体を以て知んぬべし。況や人・天・二乗・菩薩をや。法華経一部に列なれる九界の衆生は、皆即身成仏にてこれ有りしなり。止観に云く「中道の戒は戒として備はらざることなし、是れを具足と名づく。中道戒を持つなり」云云。中道の戒とは法華の戒体なり。無戒不備とは、律儀・定・道の戒なり。此の五戒を十界具足の五戒と知る時、我が身に十界を具足す。我が身に十界を具足すと意得る時「欲令衆生○仏之知見」と説いて、自身に一分の行無くして即身成仏するなり。尽形寿の五戒の身を改めずして仏身となる時は、依報の国土も又押へて寂光土なり。妙楽の釈に云く「豈に伽耶を離れて別に常寂を求めんや。寂光の外に別に娑婆有るに非ず」文。法華已前の経に説ける十方の浄穢土は、只仮説の事に成りぬ。又妙楽大師の釈に云く「国土浄穢の差品を見ず」云云。
又云く「衆生自ら仏の依正の中に於て殊見を生じて苦楽昇沈す。浄穢宛然として成壊斯に在り」文。法華の覚りを得る時、我等が色心生滅の身即不生不滅なり。国土も爾の如し。此の国土の牛馬六畜も皆仏なり。草木日月も皆聖衆なり。経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」文。此の経を意得る者は持戒・破戒・無戒、皆開会の戒体を発得するなり。経に云く「是れを戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」云云。/ 法華経の悟りと申すは、此の国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一つと知るなり。経に云く「三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、これ菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し」文。此の三千大千世界は、皆釈迦如来の菩薩にておはしまし候ひける時の御舎利なり。我等も此の世界の五味をなめて設けたる身なれば、又我等も釈迦菩薩の舎利なり。故に経に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等云云。法華経を知ると申すは、此の文を知るべきなり。「我有」と申す有は、其れ真言宗に非ざれば知り難し。但し天台は真性軌と釈し給へり。舎利と申すは天竺の語、此の土には身と云ふ。我等衆生も則ち釈迦如来の御舎利なり。されば多宝の塔と申すは我等が身、二仏と申すは自身の法身なり。
真実には人天の善根を仏因と申すは、人天の身が釈迦如来の舎利なるが故なり。法華経を是れ体に意得る則んば真言の初門なり。此の国土、我等が身を釈迦菩薩成仏の時、其の菩薩の身を替へずして成仏し給へば、此の国土、我等が身を捨てずして寂光浄土・毘盧遮那仏にて有るなり。十界具足の釈迦如来の御舎利と知るべし。此れをこそ大日経の入漫荼羅具縁品には慥かに説かれたるなり。/ 真言の戒体は人之れを見て師に依らずして相承を失ふべし。故に別に記して一具に載せず。但標章に載する事は人をして顕教より密教の勝るることを知らしめんが為なり。/ 仁治三年〈壬寅〉

◆ 土木殿御返事 〔C0・建長五年一二月九日・富木常忍〕/ よろこびて御との(殿)びと(人)給はりて候。ひる(昼)はみぐるしう候へば、よる(夜)まいり候はんと存じ候。ゆう(夕)さりとり(酉)のとき(刻)ばかりに給はるべく候。又御はた(渡)り候ひて法門をも御だんぎ(談義)あるべく候。/ 十二月九日  日蓮/ とき殿

◆ 不動愛染感見記 〔C0・建長六年六月二五日・新仏〕/ 生身愛染明王拝見/ 正月一日日蝕之時/ 〈ウム・シツ・チ・シャク・ウム〉〈ハム・コク〉/ (愛染明王図)/ 大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承す/ 建長六年六月二十五日/   日蓮新仏に授く/ 生身不動明王拝見/ 十五日より十七日に至る/ 〈ナ・マク・サ・マム・タ・ホ・タ〉〈ナム・カム〉/ (不動明王図)/ 大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承す/ 建長六年六月二十五日/   日蓮新仏に授く
◆ 蓮盛抄 〔C6・建長七年・蓮盛〕/ 禅宗云く、涅槃の時、世尊座に登り拈華して衆に示す。迦葉破顔微笑せり。仏の言く、吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙の法門有り。文字を立てず、教外に別伝し、摩訶迦葉に付属するのみ。問うて云く、何なる経文ぞや。禅宗答へて云く、大梵天王問仏決疑経の文なり。問うて云く、件の経は何れの三蔵の訳ぞや。貞元・開元の録の中に曾て此の経無し 如何。禅宗答へて云く、此の経は秘経なり。故に文計り天竺より之れを渡す云云。問うて云く、何れの聖人、何れの人師の代に渡りしぞや、跡形無きなり。此の文は上古の録に載せず、中頃より之れを載す。此の事禅宗の根源なり、尤も古録に載すべし、知んぬ偽文なり。/ 禅宗の云く、涅槃経二に云く「我今所有の無上の正法、悉く以て摩訶迦葉に付属す」云云。此の文 如何。答へて云く、無上の言は大乗に似たりと雖も、是れ小乗を指すなり。外道の邪法に対すれば小乗をも正法といはん。例せば大法東漸と云へるを、妙楽大師解釈の中に「通指仏教」と云ひて、大小権実をふさね(総)て大法と云ふなり云云。外道に対すれば小乗も大乗と云はれ、下臈なれども分には殿と云はれ、上臈と云はるるがごとし。
涅槃経三に云く「若し法宝を以て阿難及び諸の比丘に付属せば、久住することを得ず。何を以ての故に、一切の声聞及び大迦葉は悉く当に無常なるべし。彼の老人の他の寄物を受くるが如し。是の故に応に無上の仏法を以て諸の菩薩に付属すべし。諸の菩薩は善能問答するを以て、是の如きの法宝は則ち久住することを得、無量千世・増益熾盛にして、衆生を利安せん。彼の壮人の他の寄物を受くるが如し。是の義を以ての故に諸大菩薩乃(すなわ)ち能く問はんのみ」云云。大小の付属其れ別なること分明なり。同経の十に云く「汝等文殊当に四衆の為に広く大法を説くべし。今此の経法を以て汝に付属す。乃至迦葉・阿難等も来たらば、復当に是の如き正法を付属すべし」云云。故に知んぬ、文殊・迦葉に大法を付属すべしと云云。仏より付属する処の法は小乗なり。悟性論に云く「人心をさとる事あれば、菩提の道を得る故に仏と名づく」。菩提に五あり、何れの菩提ぞや。得道又種々なり。何れの道ぞや。余経に明かす所は大菩提にあらず、又無上道にあらず。経に云く「四十余年 未顕真実」云云。/ 問うて云く、法華は貴賤男女何れの菩提の道を得べきや。答へて云く「乃至一偈に於ても皆成仏疑ひ無し」云云。又云く「正直に方便を捨てて但無上道を説く」云云。是に知んぬ、無上菩提なり。
「須臾聞之即得究竟 阿耨菩提」なり。此の菩提を得ん事、須臾も此の法門を聞く功徳なり。問うて云く、須臾とは三十須臾を一日一夜と云ふ。「須臾聞之」の須臾は之れを指すか 如何。答ふ、件の如し。天台止観の二に云く「須臾も廃すること無かれ」云云。弘決に云く「暫くも廃することを許さず、故に須臾と云ふ。故に須臾は刹那なり」。問うて云く、本分の田地にもとづくを禅の規模とす。答ふ、本分の田地とは何者ぞや。又何れの経に出でたるぞや。法華経こそ人天の福田なれば、むね(宗)と人天を教化し給ふ。故に仏を天人師と号す。此の経を信ずる者は己身の仏を見るのみならず、過現未の三世の仏を見る事、浄頗梨に向かふに色像を見るが如し。経に云く「又浄明の鏡に悉く諸の色像を見るが如し」云云。/ 禅宗云く、是心即仏・即身是仏と。答へて云く、経に云く「心は是れ第一の怨なり。此の怨最も悪と為す。此の怨能く人を縛り、送りて閻羅の処に到る。汝独り地獄に焼かれて、悪業の為に養ふ所の妻子兄弟等親属も救ふこと能はじ」云云。涅槃経に云く「願ひて心の師と作るとも、心を師とせざれ」云云。愚痴無懺の心を以て即心即仏と立つ。豈に未得謂得・未証謂証の人に非ずや。
問ふ、法華宗の意 如何。答ふ、経文に「具三十二相、乃是真実滅」云云。或は「速成就仏身」云云。禅宗は理性の仏を尊みて己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ、定めて是れ阿鼻の罪人なり。故に法華経に云く「増上慢の比丘将に大坑に墜つべし」。禅宗云く、毘盧の頂上を踏むと。云く、毘盧とは何者ぞや。若し周遍法界の法身ならば山川大地も皆是れ毘盧の身土なり、是れ理性の毘盧なり。此の身土に於ては狗野干の類も之れを踏む。禅宗の規模に非ず。若し実に仏の頂を踏まんか、梵天も其の頂を見ずと云へり。薄地争でか之れを踏むべきや。夫れ仏は一切衆生に於て主師親の徳有り。若し恩徳広き慈父を踏まんは、不孝逆罪の大愚人・悪人なり。孔子の典籍、尚以て此の輩を捨つ、況や如来の正法をや。豈に此の邪類邪法を讃めて無量の重罪を獲んや云云。在世の迦葉は頭頂礼敬と云ふも、滅後の闇禅は頂上を踏むと云ふ、恐るべし。/ 禅宗云く、教外別伝不立文字と。答へて云く、凡そ世に流布の教に三種を立つ。一には儒教、此れに二十七種あり。二には道教、此れに二十五家あり。三には十二分教、天台宗には四教八教を立つるなり。此等を教外と立つるか。
医師の法には本道の外を外経師と云ふ。人間の言には姓のつづかざるをば外戚と云ふ。仏教には経論にはなれたるをば外道と云ふ。涅槃経に云く「若し仏の所説に順はざる者有らば、当に知るべし、是の人は是れ魔の眷属なり」云云。弘決の九に云く「法華已前は猶是れ外道の弟子なり」云云。禅宗云く、仏祖不伝云云。答へて云く、然れば何ぞ西天の二十八祖・東土の六祖を立つるや。付属摩訶迦葉の立義已に破るるか。自語相違は如何。禅宗云く、向上の一路は先聖も伝へず云云。答ふ、爾らば今の禅宗も向上に於ては解了すべからず。若し解せずんば禅に非ざるか。凡そ向上を歌ひて以て慢に住し、未だ妄心を治せずして見性に奢り、機と法と相乖くこと此の責め尤も親し。旁(かたがた)化儀を妨ぐ、其の失転(うたた)多し。謂く教外と号し剰へ教外を学び、文筆を嗜みながら文字を立てず。言と心と相応せず。豈に天魔の部類・外道の弟子に非ずや。/ 仏は文字に依りて衆生を度し給ふなり。問ふ、其の証拠 如何。答へて云く、涅槃経十五に云く「願はくは諸の衆生悉く是れ出世の文字を受持せよ」。像法決疑経に云く「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」云云。若し文字を離れば何を以てか仏事とせん。禅宗は言語を以て人に示さざらんや。
若し示さずといはば、南天竺の達磨は四巻の楞伽経に依りて五巻の疏を作り、恵可に伝ふる時、我漢地を見るに但此の経のみあて人を度すべし。汝此れに依りて世を度すべし云云。若し爾れば猥りに教外別伝と号せんや。次に不伝の言に至りては「冷煖二途唯自ら覚了す」と云ひて文字に依るか。其の相伝の後の冷煖自知するなり。是れを以て法華に云く「悪知識を捨てて善友に親近せよ」。止観に云く「師に値はざれば、邪恵日に増し生死月に甚だしく、稠林に曲木を曳くが如く、出づる期有ること無し」云云。凡そ世間の沙汰、尚以て他人に談合す。況や出世の深理、寧ろ輙く自己を本分とせんや。故に経に云く「近きを見るべからざること人の睫の如く、遠きを見るべからざること空中の鳥の跡の如し」云云。上根上機の坐禅は且く之れを置く。当世の禅宗は瓮を蒙りて壁に向かふが如し。経に云く「盲冥にして見る所無し、大勢の仏及与(および)断苦の法を求めず。深く諸の邪見に入りて苦を以て苦を捨てんと欲す」云云。弘決に云く「世間の顕語尚識らず、況や中道の遠理をや。常の密教寧ろ当に識るべけんや」云云。当世の禅者皆是れ大邪見の輩なり。就中 三惑未断の凡夫の語録を用ゐて、四智円明の如来の言教を軽んずる、返す返す過ぎたる者かな。
疾の前に薬なし、機の前に教なし。等覚の菩薩尚教を用ゐき。底下の愚人何ぞ経を信ぜざる云云。是れを以て漢土に禅宗興ぜしかば、其の国忽ちに亡びき。本朝の滅すべき瑞相に闇証の禅師充満す。止観に云く「此れ則ち法滅の妖怪、亦是れ時代の妖怪なり」云云。/ 禅宗云く、法華宗は不立文字の義を破す。何故ぞ仏は一字不説と説き給ふや。答ふ、汝楞伽経の文を引くか。本法自法の二義を知らざるか。学ばずんば習ふべし。其の上彼の経に於ては未顕真実と破られ畢んぬ。何ぞ指南と為ん。問うて云く、像法決疑経に云く「如来の一句の法を説きたまふを見ず」云云 如何。答ふ、是れは常施菩薩の言なり。法華経には「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除く、千二百の羅漢悉く亦当に作仏すべし」と云ふ。八万の菩薩も千二百の羅漢も悉く皆列座し聴聞随喜す。常施一人は見ず。何れの説に依るべき。法華の座に挙ぐる菩薩の上首の中に常施の名之れ無し、見ずと申すも道理なり。何に況や次下に「然るに諸の衆生出没有るを見て、法を説いて人を度す」云云。何ぞ不説の一句を留めて可説の妙理を失ふべき。汝が立義一々大僻見なり。執情を改めて法華に帰伏すべし。然らずんば豈に無道心に非ずや。
◆ 諸宗問答抄 〔C5・文永九年〕/ 問うて云く、法華宗の法門は天台・妙楽・伝教等の釈をば御用ゐ候や 如何。答へて云く、最も此の御釈共を明鏡の助証として立て申す法門にて候。問うて云く、何を明鏡として立てられ候ぞや。彼の御釈共には爾前権教を簡び捨てらるる事候はず。随って或は「初後の仏恵、円頓の義斉し」とも、或は「此の妙と彼の妙、妙の義殊なること無し」とも釈せられ、華厳と法華との仏恵は同じ仏恵にて異なること無しと釈せられ候。通教・別教の仏恵も法華と同じと見えて候。何を以て偏に法華勝れたりとは仰せられ候や。意得ず候 如何。/ 答へて云く、天台の御釈を引かれ候は定めて天台宗にて御坐候らん。然れば天台の御釈には、教道・証道とて二筋を以て六十巻を作られ候。教道は即ち教相の法門にて候。証道は即ち内証の悟りの方にて候。只今引かれ候釈の文共は教証の二の中には何れの文と御得意候ひて引かれ候ぞや。若し教門の釈にて候はば、教相には三種の教相を立て候。爾前・法華を釈して勝劣を判ぜられたり。三種の教相には何ぞやと之れを尋ぬべし。若し三種の教相と申すは、一には根性の融不融の相、二には化導の始終不始終の相、三には師弟の遠近不遠近の相なりと答へば、さては只今引かるる御釈は何れの教相にて引かれ候やと尋ぬべきなり。
根性の融不融の下にて釈せらると答へば、又押し返して問ふべし。根性の融不融の下には約教・約部とて二つの法門あり、何れぞと尋ぬべし。若し約教の下と答へば又問ふべし。約教・約部に付きて与奪の二つの釈候。只今の釈は与の釈なるか、奪釈なるかと之れを尋ぬべし。若し約教・約部をも与奪をも弁へずと云はば、さては天台宗の法門は堅固に御無沙汰にて候ひけり。尤も天台法華の法門は教相を以て諸仏の御本意を宣べられたり。若し教相に闇くして法華の法門をいへば「法華経を讃むと雖も還りて法華の心を死す」とて、法華の心を殺すと云ふ事にて候。其の上「若し余経を弘むるには、教相を明かさざれども義に於て傷むこと無し。若し法華を弘むには、教相を明かさざれば文義欠くること有り」と釈せられて、殊更教相を本として天台の法門は建立せられ候。仰せられ候如く、次第も無く偏円をも簡ばず邪正も選ばず、法門申さん物をば信受せざれと天台堅く誡められ候なり。是れ程に知ろし食されず候ひけるに、中々天台の御釈を引かれ候事浅猿き御事なりと責むべきなり。/ 但し天台の教相を三種に立てらるる中に、根性の融不融の相の下にて相待妙・絶待妙とて二妙を立て候。相待妙の下にて又約教・約部の法門を釈して仏教の勝劣を判ぜられて候。
約教の時は一代教を蔵通別円の四教に分けて、之れに付きて勝劣を判じける時は「前の三を麁と為し、後の一を妙と為す」とは判ぜられて、蔵通別の三教をば麁教と簡び、後の一をば妙法と選び取られ候へども、此の時もなほ爾前権教の当分の得道を許し、且く華厳等の仏恵と法華の仏恵とを等からしめて、只今の「初後仏恵 円頓義斉」等の与の釈を作られ候なり。然りと雖も約部の時は一代の教を五時に分かちて五味に当て、華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部と立てられ「前の四味を麁と為し後の一を妙と為す」と判じて、奪の釈を作られ候なり。然れば奪の釈に云く「細人・麁人二倶に過を犯し、過の辺に従ひて説いて倶に麁人と名づく」と立て了んぬ。此の釈の意は華厳部にも別円二教を説いて候間、円の方は仏恵と云はるるなり。方等部にも蔵通別円の四教を説き候間、円の方は又仏恵なり。般若部にも通別円の後三教を説いて候間、其れも円の方は仏恵なり。然りと雖も華厳は別教と申す悪(えせ)物を連れて説かれ候間、悪物に連れたる仏恵なりとて簡ばるるなり。方等の円も前三教の悪物を連れたる仏恵なり。般若の円も前二味のゑせものを連れたる仏恵なり。然る間仏恵の名は同じと雖も、過の辺に従ひて麁と云はれて、わるき円教の仏恵と下され候なり。
之れに依りて四教にても真実の勝劣を判ずる時は「一往は三蔵を名づけて小乗と為し、再往は三教を名づけて小乗と為す」と釈して、一往の時は二百五十戒等の阿含・三蔵教の法門を総じて小乗の法と簡び捨てらるれども、再往の釈の時は三蔵教と、大乗と云ひつる通教と、別教との三教皆小乗の法と、本朝の智証大師も法華論の記と申す文を作りて判釈せられて候なり。/ 次に絶待妙と申すは開会の法門にて候なり。此の時は爾前権教とて嫌ひ捨てらるる所の教を皆法華の大海に収め入るるなり。随って法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて嫌はるる者無きなり。皆法華の大海の不可思議の徳として、南無妙法蓮華経と云ふ一味にたたきなしつる間、念仏・戒・真言・禅とて別の名言を呼び出だすべき道理かつて無きなり。随って釈に云く「諸水海に入れば同一鹹味なり。諸智如実智に入れば本の名字を失ふ」等と釈して、本の名字を一言も呼び顕はすべからずと釈せられて候なり。世間の天台宗は開会の後は相待妙の時斥ひ捨てられし所の前四味の諸経の名言を唱ふるも、又諸仏諸菩薩の名言を唱ふるも、皆是れ法華の妙体にて有るなり。大海に入らざる程こそ各別の思ひなりけれ。大海に入りて後に見れば日来悪し善しと斥ひ用ゐけるは大僻見にて有りけり。
斥はるる諸流も、用ゐらるる冷水も、源はただ大海より出でたる一水にて有りけり。然れば何れの水と呼びたりとても、ただ大海の一水に於て別々の名言をよびたるにてこそあれ、各別各別の物と思ひてこそ過はあれ只大海の一水と思ひて何れをも心に任せて有縁に随ひて唱へ持つに苦しかるべからずとて、念仏をも真言をも何れをも心に任せて持ち唱ふるなり。/ 今云ふ、此の義は与へて云ふ時はさも有るべきかと覚ゆれども、奪って云ふ時は随分の堕地獄の義なり。其の故は縦ひ一人此の如く意得、何れをも持ち唱ふるとても、此の心ねを得ざる時は、只例の偏見・偏情にて持ち唱ふれば、一人成仏するとも万人は皆地獄に堕つべき邪見の悪義なり。爾前に立つる所の法門の名言と其の法門の内に談ずる所の道理の所詮とは、皆是れ偏見・偏情によりて「邪見の稠林、若しは有若しは無等に入り」の権教なり。然れば此等の名言を以て持ち唱へ、此等の所詮の理を観ずれば偏に心得たるも心得ざるもみな地獄に堕つべし。心得たりとて唱へ持つ者は、牛蹄に大海を収むるもの、是の如きは僻見の者なり。何ぞ三悪道を免れん。又心得ざる者の唱へ持つは本より迷惑の者なれば、邪見権教の執心に依りて無間大城に入らんこと疑ひ無き者なり。開会の後も麁教とて斥ひ捨つるなり。
悪法をば名言をも所詮の極理をも唱へ持つべからず。弘決二の釈に云く「相待・絶待倶に須く悪を離るべし。円に著する尚悪なり。況や復余をや」云云。此の文の心は、相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をば離るべし。円に著する尚悪なり。況や復余をやと云ふ文なり。円とは満足の義なり。余とは欠減の義なり。円教の十界平等に成仏する法をすら著したる方を悪ぞと斥ふ。況や復十界平等に成仏せざるの悪法の欠けたるを以て執著をなして、朝夕受持・読・誦・解説・書写せんをや。仮令(たとい)爾前の円を今の法華に開会し入るるとも、爾前の円は法華と一味となる事無し。法華の体内に開会し入れられても、体内の権と云はれて実とは云はざるなり。体内の権を体外に取り出だして、且く「於一仏乗 分別説三」とする時、権に於て円の名を付けて三乗の中の円教と云はれたるなり。/ 之れに依りて古へも金杖の譬へを以て三乗にあてて沙汰する事あり。譬へば金の杖を三つに打ち折りて一つづつ三乗の機根に与へて、何れも皆金なり、然れば何ぞ同じ金に於て差別の思ひをなして勝劣を判ぜんやと談合したり。此れはうち聞く所はさもやと覚えたれども、悪しく学ぶ者の心得なり。
今云ふ、此の義は譬へば法華の体内の権の金杖を、仏三根に宛てて体外に三度打ち振り給へる其の影を、機根が見付けずして、皆真実の思ひを成して、己が見に任せたるなり。其れ真実には金杖を打ち折りて三つになしたる事が有らばこそ、今の譬へは合譬とは成れ。仏は権の金杖を折らずして三度ふり給へるを、機根ありて三つに成りたりと執著し心得たるは、返す返す不得心の大邪見なり、大邪見なり。三度振りたるも法華の体内の権の功徳を、体外の三根に宛てて三度振りたるにてこそ有れ。全く妙体不思議の円実を振りたる事無きなり。然れば体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会し入るれば、本の体内の権と云はれて、全く体内の円とは成らざるなり。此の心を以て体内体外の権実の法門をば意得弁ふべき者なり。/ 次に禅宗の法門は、或は教外別伝・不立文字と云ひ、或は仏祖不伝と云ひ、修多羅の教は月をさす指の如しとも云ひ、或は即身即仏とも云ひて文字をも立てず、仏祖にも依らず、教法をも修学せず、画像木像をも信用せずと云ふなり。反詰して云く、仏祖不伝と候こそ月氏の二十八祖・東土の六祖とて相伝はせられ候や。其の上迦葉尊者は何ぞ一枝の花房を釈尊より授けられ、微笑して心の一法を霊山にして伝へたりとは自称するや。
又祖師無用ならば、何ぞ達磨大師を本尊とするや。修多羅の法無用ならば、何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみて、首楞厳経・金剛経・円覚経等を読誦するや。又仏菩薩を信用せずんば、何ぞ南無三宝と行住坐臥に唱ふるやと責むべきなり。次に聞き知らざる言を以て種々申し狂はば云ふべし。凡そ機には上中下の三根あり。随って法門も三根に与へて説く事なり。禅宗の法門にも理致・機関・向上とて三根に宛てて法門を示され候なり。御辺は某が機をば三根の中には何れと知り分けて、聞知せざる法門を仰せられ候ぞや。又理致の分か、機関の分か、向上の分に候かと責むべきなり。理致と云ふは下根に道理を云ひきかせて、禅の法門を知らする名目なり。機関とは中根の者には何なるか本来の面目と問へば、庭前の柏樹子なんど答へたることばづかひをして、禅法を示す様なり。向上と云ふは上根の者の事なり。此の機は祖師よりも伝へず、仏よりも伝へず、我として禅の法門を悟る機なり。迦葉霊山微笑の花に依りて心の一法を得たりと云ふ時に、是れなほ中根の機なり。所詮の法門と云ふ事は、迦葉一枝の花房を得たりしより以来出来せる法門なり。抑 伝へし時の花房は木の花か、草の花か。五色の中には何様なる色の花ぞや。又花の葉は何重の葉ぞや。委細に之れを尋ぬべきなり。
此の花をありのままに云ひ出だしたる禅宗有らば、実に心の一法をも一分得たる者と知るべきなり。たとひ得たりとは存知すとも真実の仏意には叶ふべからず。如何となれば法華経を信ぜざる故なり。此の心は法華経方便品の終りの長行に委しく見えたり。委しくは引きて拝見し奉るべきなり。/ 次に禅の法門は何としても物に著する所を離れよと教へたる法門にて有るなり。さと云へば其れは情なり、かうと云ふも其れも情なり。あなたこなたへすべり、止まらざる法門にて候なり。夫れを責むべき様は、他人の情に著したらん計りをば沙汰して、己が情量に著し封ぜらる所をば知らざるなり。云ふべき様は、御辺は人の情計りをば責むれども、御辺の人情ぞと執したる情をなど離れずと反詰すべきなり。凡そ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無きなり。汝仏祖不伝と云ひて仏祖よりも伝へずとなのらば、さては禅法は天魔の伝へたる所の法門なり 如何。然る間、汝断常の二見を出でず、無間地獄に堕せん事疑ひ無しと云ひて、何度もかれが云ふ言にて、ややもすれば己がつまる語なり。されども非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり。都て理におれざるなり。譬へば行く水にかずかく(書)が如し。
次に即身即仏とは、即身即仏なる道理を立てよと責むべし。其の道理を立てずして、無理に唯即身即仏と云はば例の天魔の義なりと責むべし。但し即身即仏と云ふ名目を聞くに、天台法華宗の即身成仏の名目づかひを盗み取りて、禅宗の家につかふと覚えたり。然れば法華に立つる様なる即身即仏なるか如何とせめよ。若し其の義無く押して名目をつかはば、つかはるる語は無障碍の法なり。譬へば民の身として国王と名乗らん者の如くなり。如何に国王と云ふとも、言には障り無し。己が舌の和らかなるままに云ふとも、其の身は即ち土民の卑しく嫌はれたる身なり。又瓦礫を玉と云ふ者の如し。石瓦を玉と云ひたりとも、曾て石は玉にならず。汝が云ふ所の即身即仏の名目も此の如く有名無実なり、不便なり不便なり。/ 次に不立文字と云ふ。所詮 文字と云ふ事は、何なるものと心得、此の如く立てられ候や。文字は是れ一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知りて相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是れ一切衆生の色心不二の質なり。汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つべからず。汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責むべきなり。
さてと云ふも、かうと云ふも、有と無との二見をば離れず。無と云はば無の見なりとせめよ。有と云はば有の見なりとせめよ。何れも何れも叶はざる事なり。次に修多羅の教は月をさす指の如しと云ふは、月を見て後は徒者と云ふ義なるか。若し其の義にて候はば、御辺の親も徒者と云ふ義か。又師匠は弟子の為に徒者か、又大地は徒者か、又天は徒者か。如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ、御辺を出生して後はなにかせん。人の師は物を習ひ取るまでこそ用なれ、習ひ取りて後は無用なり。夫れ天は雨露を下すまでこそあれ、雨ふりて後は天無用なり。大地は草木を出生せんが為なり、草木を出生して後は大地無用なりと云はん者の如し。是れを世俗の者の譬へに、喉過ぎぬればあつさわすれ、病愈えぬれば医師をわすると云ふらん。譬へに少しも違はず相似たり。所詮 修多羅と云ふも文字なり。文字は是れ三世諸仏の気命(いのち)なりと天台釈し給へり。天台は震旦の禅宗の祖師の中に入りたり。何ぞ祖師の言を嫌はん。其の上御辺の色心なり。凡そ一切衆生の三世不断の色心なり。何ぞ汝本来の面目を捨て不立文字と云ふや。是れ昔移宅(わたまし)しけるに、我が妻を忘れたる者の如し。真実の禅法をば何としてか知るべき。哀れなる禅の法門かなと責むべし。
次に華厳・法相・三論・倶舎・成実・律宗等の六宗の法門いかに花をさかせても、申しやすく返事すべき方は、能く能くいはせて後、南都の帰伏状を唯よみきかすべきなり。既に六宗の祖師が帰伏の状をかきて桓武天皇に奏し奉る。仍って彼の帰伏状を山門に納められぬ。其の外内裏にも記されたり。諸道の家々にも記し留めて今にあり。其れより已来、華厳宗等の六宗の法門、末法の今に至るまで一度も頭をさし出ださず。何ぞ唯今事新しく、捨てられたる所の権教無得道の法にをいて真実の思ひをなし、此の如く仰せられ候ぞや。心得られずとせむべし。/ 次に真言宗の法門は、先づ真言三部経は大日如来の説か、釈迦如来の説かと尋ね定めて、釈迦の説と云はば、釈尊五十年の説教にをいて已今当の三説を分別せられたり、其の中に大日経等の三部は何れの分にをさまり候ぞと之れを尋ぬべし。三説の中にはいづくにこそおさまりたりと云はば、例の法門にてたやすかるべき問答なり。若し法華と同時の説なり、義理も法華と同じと云はば、法華は是れ純円一実の教にて曾て方便を交へて説く事なし。大日経等は四教を含用したる経なり、何ぞ時も同じ義理も同じと云はんや、謬りなりとせめよ。
次に大日如来の説法と云はば、大日如来の父母と、生ぜし所と、死せし所を委しく沙汰し問ふべし。一句一偈も大日の父母なし、説所なし、生死の所なし、有名無実の大日如来なり。然る間殊に法門せめやすかるべきなり。若し法門の所詮の理を云はば、教主の有無を定めて、説教の得・不得をば極むべき事なり。設ひ至極の理密・事密を沙汰すとも、訳者に虚妄有り。法華の極理を盗み取りて事密真言とか立てられてあるやらん不審なり。之れに依りて法の所談は教主の有無に随ひて沙汰有るべきなりと責むべきなり。次に大日如来は法身と云はば、法華よりは未顕真実と嫌ひ捨てられたる爾前権教にも法身如来と説かれたり。何ぞ不思議なるべきやと云ふべきなり。若し無始無終の由を云ひていみじき由を立て申さば、必ず大日如来に限らず、我等一切衆生螻蟻蚊虻等に至るまで、みな無始無終の色心なり。衆生に於て有始有終と思ふは外道の僻見なり。汝外道に同ず、如何と云ふべきなり。/ 次に念仏は是れ浄土宗所用の義なり。此れ又権教の中の権教なり。譬へば夢の中の夢の如し。有名無実にして其の実無きなり。一切衆生願ひて所詮なし。然れば云ふ所の仏も有為無常の阿弥陀仏なり。何ぞ常住不滅の道理にしかんや。
されば本朝の根本大師の御釈に云く「有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏」と釈して、阿弥陀仏等の有為無常の仏をば大いにいましめ、捨てをかれ候なり。既に憑む所の阿弥陀仏有名無実にして、名のみ有りて其の体なからんには、往生すべき道理をば委しく須弥山の如く高く立て、大海の如くに深く云ふとも、何の所詮有るべきや。又経論に正しき明文ども有りと云はば、明文ありとも未顕真実の文なり。浄土の三部経に限らず、華厳経等より初めて何れの経教論釈にか成仏の明文無からんや。然れども権教の明文なる時は、汝等が所執の拙きにてこそあれ、経論に無き僻事なり。何れも法門の道理を宣べ厳り、依経を立てたりとも夢中の権果にて無用の義に成るべきなり。返す返す。
◆ 念仏無間地獄抄 〔C6・文永八年頃〕/ 念仏は無間地獄の業因なり。法華経は成仏得道の直路なり。早く浄土宗を捨て法華経を持ち、生死を離れ菩提を得べき事。法華経の第二譬喩品に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更(また)生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」云云。此の文の如くんば方便の念仏を信じて、真実の法華を信ぜざる者は無間地獄に堕つべきなり。念仏者云く、我等が機は法華経に及ばざる間信ぜざる計りなり。毀謗する事はなし。何の科に地獄に堕つべきや。法華宗云く、信ぜざる条は承伏なるか。次に毀謗と云ふは即ち不信なり。信は道の源、功徳の母と云へり。菩薩の五十二位は十信を本と為し、十信の位には信心を始めと為し、諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云。然れば譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり。今の念仏門は不信と云ひ誹謗と云ひ争でか入阿鼻獄の句を遁れんや。/ 其の上浄土宗には現在の父たる教主釈尊を捨て、他人たる阿弥陀仏を信ずる故に、五逆罪の咎に依りて、必ず無間大城に堕つべきなり。経に「今此三界 皆是我有」と説き給ふは主君の義なり。「其中衆生 悉是吾子」と云ふは父子の義なり。「而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」と説き給ふは師匠の義なり。
而して釈尊付属の文に、此の法華経をば「付属有在」云云。何れの機か漏るべき。誰人か信ぜざらんや。而るに浄土宗は主師親たる教主釈尊の付属に背き、他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む。故に主に背けり。八逆罪の凶徒なり。違勅の咎遁れ難し、即ち朝敵なり。争でか咎無からんや。次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり。豈に無間地獄に堕ちざるべけんや。次に師匠の釈尊に背く故に七逆罪の人なり。争でか悪道に堕ちざらんや。此の如く教主釈尊は娑婆世界の衆生には主師親の三徳を備へて大恩の仏にて御坐します。此の仏を捨て他方の仏を信じ、弥陀・薬師・大日等を憑み奉る人は、二十逆罪の咎に依りて悪道に堕つべきなり。/ 浄土の三部経は、釈尊一代五時の説教の内、第三方等部の内より出でたり。此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず、三世諸仏出世の本懐にも非ず、唯暫く衆生誘引の方便なり。譬へば塔をくむに足代をゆふ(結)が如し。念仏は足代なり、法華は宝塔なり。法華を説き給ふまでの方便なり。法華の塔を説き給ひて後は、念仏の足代をば切り捨つべきなり。然るに法華経を説き給ひて後、念仏に執著するは、塔をくみ立てて後、足代に著して塔を用ゐざる人の如し。豈に違背の咎無からんや。
然れば法華の序分無量義経には「四十余年未だ真実を顕はさず」と説き給ひて念仏の法門を打ち破り給ふ。正宗法華経には「正直に方便を捨てて但無上道を説く」と宣べ給ひて念仏三昧を捨て給ふ。之れに依りて、阿弥陀経の対告衆長老舎利弗尊者、阿弥陀経を打ち捨て、法華経に帰伏して、華光如来と成り畢んぬ。四十八願付属の阿難尊者も浄土の三部経を抛ちて、法華経を受持して、山海恵自在通王仏と成り畢んぬ。阿弥陀経の長老舎利弗は、千二百の羅漢の中に智恵第一の上首の大声聞、閻浮提第一の大智者なり。肩を並ぶる人なし。阿難尊者は多聞第一の極聖、釈尊一代の説法を空に誦せし広学の智人なり。かかる極位の大阿羅漢すら尚往生成仏の望みを遂げず。仏在世の祖師此の如し。祖師の跡を踏むべくば、三部経を抛ちて法華経を信じ無上菩提を成ずべき者なり。/ 仏の滅後に於ては祖師先徳多しと雖も、大唐楊州の善導和尚にまさる人なし、唐土第一の高祖なり云云。始めは楊州の明勝と云へる聖人を師と為して法華経を習ひたりしが、道綽禅師に値ひて浄土宗に移り、法華経を捨て念仏者と成り、一代聖教に於て聖道・浄土の二門を立てたり。
法華経等の諸大乗経をば聖道門と名づけ自力の行と嫌へり。聖道門を修行して成仏を願はん人は、百人にまれに一人二人、千人にまれに三人五人得道する者や有らんずらん、乃至千人に一人も得道なき事も有るべし。観経等の三部経を浄土門と名づけ、此の浄土門を修行して他力本願を憑みて往生を願はん者は、十即十生百即百生とて十人は十人、百人は百人、決定往生すべしとすすめたり。観無量寿経を所依と為して四巻の疏を作る。玄義分・序分義・定善義・散善義是れなり。其の外、法事讃上下・般舟讃・往生礼讃・観念法門経、此等を九帖の疏と名づけたり。善導念仏し給へば口より仏の出で給ふと云ひて、称名念仏一遍を作すに三体づつ口より出で給ひけりと伝へたり。毎日の所作には阿弥陀経六十巻、念仏十万遍、是れを欠く事なし。諸の戒品を持ちて一戒も破らず、三衣は身の皮の如く脱ぐ事なく、鉢は両眼の如く身を離さず精進潔斎す。女人を見ずして一期生、不眠三十年なりと自歎す。凡そ善導の行儀法則を云へば、酒肉五辛を制止して口に齧まず手に取らず。未来の諸の比丘も是の如く行ずべしと定めたり。一度酒を飲み、肉を食らひ、五辛等を食ひ、念仏申さん者は三百万劫が間地獄に堕つべしと禁しめたり。
善導が行儀法則は本律の制に過ぎたり。法然房が起請文にも書き載せたり。一天四海善導和尚を以て善知識と仰ぎ、貴賤上下皆悉く念仏者と成れり。/ 但し一代聖教の大王、三世諸仏の本懐たる法華の文には「若有聞法者 無一不成仏」と説き給へり。善導は法華経を行ぜん者は、千人に一人も得道の者有るべからずと定む。何れの説に付くべきや。無量義経には、念仏をば「未顕真実」とて実に非ずと言ふ。法華経には「正直捨方便 但説無上道」とて、正直に念仏の観経を捨て無上道の法華経を持つべしと言ふ。此の両説水火なり、何れの辺に付くべきや。善導が言を信じて法華経を捨つべきか。法華経を信じて善導の義を捨つべきか 如何。夫れ一切衆生皆成仏道の法華経、一聞法華経決定成菩提の妙典、善導が一言に破れて千中無一虚妄の法と成り、無得道教と云はれ、平等大恵の巨益は虚妄と成り、多宝如来の皆是真実の証明の御言妄語と成るや。十方諸仏の上至梵天の広長舌も破られ給ひぬ。三世諸仏の大怨敵と為り、十方如来成仏の種子を失ふ、大謗法の科甚だ重し。大罪報の至り、無間大城の業因なり。之れに依りて忽ちに物狂ひにや成りけん、所居の寺の前の柳の木に登りて、自ら頸をくくりて身を投げて死し畢んぬ。邪法のたたり踵を回らさず、冥罰爰に見(あらは)れたり。
最後臨終の言に云く、此の身厭ふべし諸苦に責められ暫くも休息(くそく)無しと。即ち所居の寺の前の柳の木に登り、西に向かひ願ひて曰く、仏の威神以て我を取り、観音勢至来たりて又我を扶けたまへと。唱へ畢りて青柳の上より身を投げて自絶す云云。三月十七日くびをくくりて飛びたりける程に、くくり縄や切れけん、柳の枝や折れけん、大旱魃の堅土の上に落ちて腰骨を打ち折(くじ)きて、二十四日に至るまで七日七夜の間、悶絶躄地しておめきさけびて死し畢んぬ。さればにや是れ程の高祖をば往生の人の内には入れざるらんと覚ゆ。此の事全く余宗の誹謗に非ず、法華宗の妄語にも非ず、善導和尚自筆の類聚伝の文なり云云。而も流れを酌む者は其の源を忘れず、法を行ずる者は其の師の跡を踏むべし云云。浄土門に入りて師の跡を踏むべくば、臨終の時善導が如く自害有るべきか。念仏者として頸をくくらずんば、師に背く咎有るべきか 如何。/ 日本国には法然上人、浄土宗の高祖なり。十七歳にして一切経を習ひ極め、天台六十巻に渡り、八宗を兼学して、一代聖教の大意を得たりとののしり、天下無双の智者、山門第一の学匠なり云云。然るに天魔や其の身に入りにけん、広学多聞の智恵も空しく、諸宗の頂上たる天台宗を打ち捨て、八宗の外なる念仏者の法師と成りにけり。大臣公卿の身を捨て民百姓と成るが如し。
選択集と申す文を作りて、一代五時の聖教を難破し、念仏往生の一門を立てたり。仏説法滅尽経に云く「五濁悪世には魔道興盛し、魔沙門と作りて我が道を壊乱し、悪人転(うたた)多くして海中の沙の如く、善人甚だ少なくして若しは一人若しは二人ならん」云云。即ち法然房是れなりと山門の状に書かれたり。我が浄土宗の専修の一行をば五種の正行と定め、権実顕密の諸大乗をば五種の雑行と簡(きら)ひて、浄土門の正行をば善導の如く決定往生と勧めたり。観経等の浄土の三部経の外、一代顕密の諸大乗経、大般若経を始めと為して終り法常住経に至るまで、貞元録に載す所の六百三十七部、二千八百八十三巻は皆是れ千中無一の徒ら物なり、永く得道有るべからず。難行聖道門をば門を閉じ、之れを抛ち、之れを閣き、之れを捨て浄土門に入るべしと勧めたり。一天の貴賤首を傾け、四海の道俗掌を合はせ、或は勢至の化身と号し、或は善導の再誕なりと仰ぎ、一天四海になびかぬ木草なし。智恵は日月の如く世間を照らして肩を並ぶる人なし。名徳は一天に充ちて善導に超え、曇鸞・道綽にも勝れたり。貴賤上下皆選択集を以て仏法の明鏡なりと思ひ、道俗男女悉く法然房を以て生身の弥陀と仰ぐ。/ 然りと雖も恭敬供養する者は愚痴迷惑の在俗の人、帰依渇仰する人は無智放逸の邪見の輩なり。権者に於ては之れを用ゐず、賢哲又之れに随ふこと無し。
然る間斗賀尾(とがのお)の明恵房は天下無双の智人、広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造りて選択の邪義を破し、三井寺の長吏実胤大僧正は希代の学者、名誉の才人なり、浄土決疑集三巻を作りて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶仏頂房隆真法橋は天下無双の学匠、山門探題の棟梁なり、弾選択上下を造りて法然房が邪義を責む。加之(しかのみならず)南都・山門・三井より度々奏聞を経て、法然が選択の邪義、亡国の基たるの旨訴へ申すに依りて、人王八十三代土御門院の御宇、承元元年二月上旬に、専修念仏の張本たる安楽・住蓮等を捕縛(めしとら)へ、忽ちに頭を刎ねられ畢んぬ。法然房源空は遠流の重科に沈み畢んぬ。其の時摂政左大臣家実と申すは近衛殿の御事なり、此の事は皇代記に見えたり、誰か之れを疑はん。/ 加之(しかのみならず)法然房死去の後も又重ねて山門より訴へ申すに依りて、人王八十五代後堀河院の御宇嘉禄三年、京都六箇所の本所より法然房が選択集並びに印版を責め出だして、大講堂の庭に取り上げて、三千の大衆会合し、三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ、法然房が墓所をば犬神人(いぬじにん)に仰せ付けて之れを掘り出だして鴨河に流され畢んぬ。
宣旨・院宣・関白殿下の御教書を五畿七道に成し下されて、六十六箇国に念仏の行者一日片時も之れを置くべからず、対馬の島に追ひ遺るべきの旨、諸国の国司に仰せ付けられ畢んぬ。此等の次第、両六波羅の注進状、関東相模守の請文(うけぶみ)等明鏡なる者なり。/ 嘉禄三年七月五日に山門に下されし宣旨に云く、専修念仏の行は諸宗衰微の基なり。茲に因りて代々の御門頻りに厳旨を降され、殊に禁遏を加ふる所なり。而るを頃年又興行を構へて、山門訴へ申さしむるの間、先符に任せて仰せ下さるること先に畢んぬ。其の上且つは仏法の陵夷を禁ぜんが為、且つは衆徒の欝訴を優らぐるに依りて、其の根本と謂ふを以て、隆寛・成覚・空阿弥陀仏等、其の身を遠流に処せしむべきの由、不日に宣下せらるる所なり。余党に於ては其の在所を尋捜して帝土を追却すべきなり。此の上は早く愁訴を慰(やすん)じて蜂起を停止すべきの旨、時刻を回らさず御下知有るべく候。者(ていれば)綸言此の如し。頼隆誠恐頓首謹言。/ 七月五日酉刻 右中弁頼隆〈奉る〉進上天台座主大僧正御房〈政所〉/ 同七月十三日山門に下さるる宣旨に云く、専修念仏興行の輩停止すべきの由、五畿七道に宣下せられ畢んぬ。且つは御存知有るべく候。綸言此の如く。之れを悉にす。頼隆誠恐頓首謹言。
七月十三日 右中弁頼隆〈奉る〉進上天台座主大僧正御房〈政所〉/ 殿下御教書。専修念仏の事。五畿七道に仰せて永く停止せらるべきの由、先日宣下せられ候ひ畢んぬ。而るを諸国尚其の聞こえ有り云云。宣旨の状を守りて沙汰致すべきの由、地頭守護所等に仰せ付けらるべきの旨、山門訴へ申し候。御存知有るべく候。此の旨を以て沙汰申さしめ給ふべき由、殿下の御気色候所なり。仍って執達件の如し。嘉禄三年十月十日 参議範輔〈在判〉/ 武蔵守殿/ 永尊竪者の状に云く、此の十一日に大衆僉議して云く、法然房所造の選択は謗法の書なり。天下之れを止め置くべからず。仍って在々所々に持する所並びに其の印板を大講堂に取り上げて、三世の仏恩を報ぜんが為、之れを焼失せしめ畢んぬ。又云く、法然上人の墓所をば感神院の犬神人(いぬじにん)に仰せ付けて破却せしめ畢んぬ。/ 嘉禄三年十月十五日、隆真法橋申して云く、専修念仏は亡国の本たるべき旨文理之れ有りと。/ 山門より雲居寺に送る状に云く、邪師源空、存生の間には永く罪条に沈み、滅後の今は且つ死骨を刎ねられ、其の邪類住蓮・安楽は死を原野に賜ひ、成覚・薩生は刑を遠流に蒙る。殆ど此の現罰を以て其の後報を察すべし云云。
嗚呼(ああ)世法の方を云へば、違勅の者と成り、帝王の勅勘を蒙り、今に御赦免の天気之れ無し。心有る臣下万民誰人か彼の宗に於て布施供養を展ぶべきや。仏法の方を云はば、正法誹謗の罪人たり、無間地獄の業類なり。何れの輩か念仏門に於て恭敬礼拝を致すべきや。庶幾はくは末代今の浄土宗、仏在世の祖師舎利弗・阿難等の如く浄土宗を抛ちて法華経を持ち、菩提の素懐を遂ぐべき者か。/ 日蓮花押
◆ 一生成仏抄 〔C6・不明 (システム上は定本に依る)〕/ 夫れ無始の生死を留めて、此の度決定して無上菩提を証せんと思はば、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是れなり。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。文理真正の経王なれば文字即実相なり、実相即妙法なり。唯所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく。故に此の経を諸仏の智恵とは云ふなり。一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。但し妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず、麁法なり。麁法は今経にあらず、今経にあらざれば方便なり、権門なり、方便権門の教ならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫の修行を経て成仏すべきか。故に一生成仏叶ひがたし。/ 故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我が一念を指して、妙法蓮華経と名づくるぞと、深く信心を発すべきなり。
都て一代八万の聖教、三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず。然れば仏教を習ふといへども、心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり。若し心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬へば貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し。然れば天台の釈の中には「若し心を観ぜざれば重罪滅せず」とて、若し心を観ぜざれば、無量の苦行となると判ぜり。故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥ずかしめられたり。爰を以て止観には「仏教を学すと雖も還りて外見に同ず」と釈せり。然る間仏の名を唱へ、経巻をよみ、華をちらし、香をひねるまでも、皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり。/ 之れに依りて浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば、衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明かせり。又衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此の如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是れを磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。
深く信心を発して、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是れをみがくとは云ふなり。/ 抑 妙とは何と云ふ心ぞや。只我が一念の心不思議なる処を妙とは云ふなり。不思議とは心も及ばず語も及ばずと云ふ事なり。然ればすなはち起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば色も質もなし。又無しと云はんとすれば様々に心起こる。有と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして、而も有無に遍して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり。此の妙なる心を名づけて法とも云ふなり。此の法門の不思議をあらはすに、譬へを事法にかたどりて蓮華と名づく。一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云ふなり。然ればすなはち、善悪に付きて起こり起こる処の念心の当体を指して、是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば、成仏の直道とは云ふなり。此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑ひあるべからず。故に経文には「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」とのべたり。
努々(ゆめゆめ)不審をなすべからず。穴賢穴賢。一生成仏の信心。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。/ 日蓮花押
◆ 主師親御書 〔C6・不明 (文永二・三年頃か)〕/ 釈迦仏は我等が為には主なり、師なり、親なり。一人してすくひ護ると説き給へり。阿弥陀仏は我等が為には主ならず、親ならず、師ならず。然れば天台大師是れを釈して曰く「西方は仏別にして縁異なり、仏別なるが故に隠顕の義成ぜず、縁異なるが故に子父の義成ぜず。又此の経の首末に全く此の旨無し。眼を閉じて穿鑿す」。実なるかな、釈迦仏は中天竺の浄飯大王の太子として、十九の御年家を出で給ひて檀特山と申す山に籠らせ給ひ、高峰に登りては妻木をとり、深谷に下りては水を結び、難行苦行して御年三十と申せしに仏にならせ給ひて、一代聖教を説き給ひしに、上(うわべ)には華厳・阿含・方等・般若等の種々の経々を説かせ給へども、内心には法華経を説かばやとおぼしめされしかども、衆生の機根まちまちにして一種ならざる間、仏の御心をば説き給はで、人の心に随ひ万の経を説き給へり。此の如く四十二年が程は心苦しく思し食ししかども、今法華経に至りて「我が願ひ既に満足しぬ。我が如くに衆生を仏になさん」と説き給へり。久遠より已来、或は鹿となり、或は熊となり、或時は鬼神の為に食はれ給へり。此の如き功徳をば法華経を信じたらん衆生は是真仏子とて、是れ実の我が子なり、此の功徳を此の人に与へんと説き給へり。
是れ程に思し食したる親の釈迦仏をば、ないがしろに思ひなして「唯以一大事」と説き給へる法華経を信ぜざらん人は、争でか仏になるべきや。能く能く心を留めて案ずべし。/ 二の巻に云く「若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種 乃至 不受余経一偈」。文の心は、仏にならん為には唯法華経を受持せん事を願ひて、余経の一偈一句をも受けざれと。三の巻に云く「如従飢国来 忽遇大王膳」。文の心は、飢ゑたる国より来たりて忽ちに大王の膳にあへり。心は犬野干の心を致すとも、迦葉・目連等の小乗の心をば起こさざれ、破れたる石は合ふとも、枯れ木に花はさくとも、二乗は仏になるべからずと仰せられしかば、須菩提は茫然として手の一鉢をなげ、迦葉は涕泣の声大千界を響かすと申して歎き悲しみしが、今法華経に至りて迦葉尊者は光明如来の記別を授かりしかば、目連・須菩提・摩訶迦旃延等は是れを見て、我等も定めて仏になるべし、飢ゑたる国より来たりて忽ちに大王の膳にあへるが如しと喜びし文なり。我等衆生無始曠劫より已来、妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども、無明の酒にたぼらかされて、衣の裏にかけたりとしらずして、少なきを得て足りぬと思ひぬ。
南無妙法蓮華経とだに唱へ奉りたらましかば、速やかに仏に成るべかりし衆生どもの、五戒十善等のわずかなる戒を以て、或は天に生まれて大梵天・帝釈の身と成りていみじき事と思ひ、或時は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて是れ程のたのしみなしと思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是れを仏は夢の中のさかへまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべしと説き給へり。/ 又四の巻に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」云云。釈迦仏は師子頬王の孫、浄飯王には嫡子なり。十善の位をすて、五天竺第一なりし美女耶輸多羅女をふりすてて、十九の御年出家して勤め行ひ給ひしかば、三十の御年成道し御坐しまして三十二相八十種好の御形(おんすがた)にて、御幸なる時は大梵天王・帝釈左右に立ち、多聞・持国等の四天王先後囲繞せり。法を説き給ふ御時は四弁八音の説法は祇園精舎に満ち、三智五眼の徳は四海にしけり。然れば何れの人か仏を悪むべき。なれども尚怨嫉するもの多し。まして滅度の後一毫の煩悩をも断ぜず、少しの罪をも弁へざらん法華経の行者を、悪み嫉む者多からん事は、雲霞の如くならんと見えたり。
然れば則ち末代悪世に此の経を有りのままに説く人には敵多からんと説かれて候に、世間の人々我も持ちたり、我も読み奉り行じ候に、敵なきは仏の虚言か、法華経の実ならざるか。又実の御経ならば当世の人々経をよみまいらせ候は虚よみか、実の行者にてはなきか 如何。能く能く心得べき事なり。明らむべき物なり。/ 四の巻の多宝如来は、釈迦牟尼仏御年三十にして仏に成り給ふに、初めには華厳経と申す経を十方華王のみぎりにして別円頓大の法輪、法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の四菩薩に対して三七日の間説き給ひしにも来たり給はず。其の二乗の機根叶はざりしかば、瓔珞細軟の衣をぬぎすて、麁弊垢膩の衣を著、波羅奈国鹿野苑に趣きて、十二年の間生滅四諦の法門を説き給ひしに、阿若倶隣等の五人証果し、八万の諸天は無生忍を得たり。次に欲・色二界の中間大宝坊の儀式、浄名の御室には三万二千の牀を立て、般若白鷺池の辺十六会の儀式、染浄虚融の旨をのべ給ひしにも来たり給はず。法華経にも一の巻乃至四の巻人記品までも来たり給はず、宝塔品に至りて初めて来たり給へり。釈迦仏先四十余年の経を我と虚事と仰せられしかば人用ゐる事なく、法華経を真実なりと説かせ給へども、仏は無虚妄の人とて永く虚言し給はずと聞きしに、
一日ならず二日ならず、一月ならず二月ならず、一年二年ならず、四十余年の程虚言したり仰せらるれば、又此の経を真実なりと説き給ふも虚言にやあらんずらんと不審をなししかば、此の不審、釈迦仏一人しては舎利弗を始め、事はれがたかりしに、此の多宝仏、宝浄世界よりはるばると来たらせ給ひて、法華経は皆是れ真実なりと証明し給ひしに、先の四十余年の経々を虚言と仰せらるる事、実の虚言に定まれり。/ 又法華経より外の一切経を空に浮かべて、文々句々阿難尊者の如く覚え富楼那の弁舌の如くに説くとも其れを難事とせず。又須弥山と申す山は十六万八千由旬の金山にて候を、他方世界へつぶて(礫)になぐる者ありとも難事には候はじ。仏の滅度の後、当世末代悪世に法華経を有りのままに能く説かん、是れを難しとすと説き給へり。五天竺第一の大力なりし提婆達多も、長三丈五尺広一丈二尺の石をこそ仏になげかけて候ひしか。又漢土第一の大力、楚の項羽と申せし人も、九石入りの釜に水満ち候ひしをこそひさげ(提)候ひしか。其れに是れは須弥山をばなぐる者は有りとも、此の経を説の如く読み奉らん人は有りがたしと説かれて候に、人ごとに此の経をよみ書き説き候。
経文を虚言に成して当世の人々を皆法華経の行者と思ふべきか。能く能く御心得有るべき事なり。/ 五の巻提婆品に云く「若し善男子善女人有りて、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」。此の品には二つの大事あり。一には提婆達多と申すは阿難尊者には兄、斛飯王には嫡子、師子頬王には孫、仏にはいとこにて有りしが、仏は一閻浮提第一の道心者にてましまししに怨をなして、我は又閻浮提第一の邪見放逸の者とならんと誓ひて、万の悪人を語らひて仏に怨をなして三逆罪を作りて現身に大地破れて無間大城に堕ちて候ひしを、天王如来と申す記別を授けらるる品にて候。然れば善男子と申すは、男此の経を信じまひらせて聴聞するならば、提婆達多程の悪人だにも仏になる。まして末代の人はたとひ重罪なりとも多分は十悪をすぎず。まして深く持ち奉る人、仏にならざるべきや。/ 二には娑竭羅竜王のむすめ竜女と申す八歳のくちなは仏に成りたる品にて候。此の事めづらしく貴き事にて候。其の故は華厳経には「女人は地獄の使ひなり、能く仏の種子を断ず。外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」。
文の心は女人は地獄の使ひよく仏の種をたつ。外面は菩薩に似たれども内心は夜叉の如しと云へり。又云く「一度女人を見る者はよく眼の功徳を失ふ。設ひ大蛇をば見るとも女人を見るべからず」と云ひ、又有る経に云く「所有三千界の男子の諸の煩悩を合はせ集めて一人の女人の業障と為す」。三千大千世界にあらゆる男子の諸の煩悩を取り集めて女人一人の罪とすと云へり。或経には三世の諸仏の眼は脱けて大地に堕つとも、女人は仏に成るべからずと説き給へり。然るに此の品の意は畜生たる竜女だにも仏に成れり。まして我等は形のごとく人間の果報なり。彼れが果報にはまされり。争でか仏にならざるべきやと思し食すべきなり。中にも三悪道におちずと説かれて候。/ 其の地獄と申すは八寒八熱乃至八大地獄の中に、初め浅き等活地獄を尋ぬれば此の一閻浮提の下一千由旬なり。其の中の罪人は互ひに常に害心をいだけり。もしたまたま相見れば猟師が鹿(かせぎ)にあへるが如し。各々鉄の爪を以て互ひにつかみさく。血肉皆尽きて唯残りて骨のみあり。或は獄卒、棒を以て頭よりあなうら(足裏)に至るまで皆打ちくだく。身も破れくだけて猶沙の如し。焦熱なんど申す地獄は譬へんかたなき苦なり。鉄城四方に回りて門を閉ぢたれば力士も開きがたく、猛火高くのぼって金翅のつばさもかけるべからず。
餓鬼道と申すは其の住処に二あり。一には地の下五百由旬の閻魔王宮にあり。二には人天の中にもまじって其の相種々なり。或は腹は大海の如く、のんどは鍼の如くなれば、明けても暮れても食すともあくべからず。まして五百生七百生なんど飲食の名をだにもきかず。或は己れが頭をくだきて脳を食するもあり。或は一夜に五人の子を生みて夜の内に食するもあり。万の菓林に結べり。取らんとすれば悉く剣の林となり、万水海に入る、飲まんとすれば猛火となる。如何にしてか此の苦をまぬかるべき。次に畜生道と申すは其の住所に二あり。根本は大海に住す。枝末は人天に雑はれり。短き物は長き物にのまれ、小さき物は大いなる物に食はれ、互ひに相食んでしばらくもやすむ事なし。或は鳥獣と生まれ、或は牛馬と成りて重き物をおほせられ、西へ行かんと思へば東へやられ、東へ行かんとすれば西へやらる。山野に多くある水草をのみ思ひて、余は知るところなし。/ 然るに善男子善女人此の法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、此の三罪を脱るべしと説き給へり。何事か是れにしかん、たのもしきかな、たのもしきかな。又五の巻に云く「我大乗の教を闡(ひら)きて苦の衆生を度脱せん」。心は、われ大乗の教をひらいてとは法華経を申す。苦の衆生とは地獄の衆生にもあらず、餓鬼道の衆生にもあらず、只女人を指して苦の衆生と名づけたり。
五障三従と申して、三つしたがふ事有りて、五つの障りあり。竜女は、我と女人の身を受けて女人の苦をつみしれり。然れば余をば知るべからず。女人を導かんと誓へり。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。/ 日蓮花押
◆ 回向功徳抄 〔C6・不明 (システム上は定本に依る)・侍従殿〕/ 涅槃経に云く「死人に閻魔王勘へて四十九の釘をうつ。先づ目に二つ、耳に二つ、舌に六つ、胸に十八、腹に六つ、足に十五打つなり。各々長さ一尺なり」取意。而るに娑婆に孝子有りて、彼の追善の為に僧を請ぜんとて人をはしらしむる時、閻魔王宮に此の事知れて、先づ足に打ちたる十五の釘をぬく。其の故は、仏事の為に僧を請ずるは功徳の初めなる間、足の釘を抜く。爰に聖霊の足自在なり。さて僧来たりて仏を造り、御経を書く時、腹の六の釘を抜くなり。次に仏を作り開眼の時、胸の十八の釘をば抜く。さて仏を造り奉り、三身の功徳を読み上げ奉りて、生身の仏になし奉り、冥途の聖霊の為に説法し給へと読み上げ候時、聖霊の耳に打ちて候ひし二つの釘を抜くなり。此の仏を見上げまいらせておがむ時に、眼に二つ打ちたる釘を抜き候なり。娑婆にて聖霊の為に題目を声をあげて唱へ候時、我志す聖霊も唱ふる間、舌に六つ打ちて候ひし釘を抜き候なり。而るに加様に孝子有りて迹を訪へば、閻浮提に仏事をなすを閻魔法王も本より権者の化現なれば、是れを知りて罪人に打ちたる釘を抜き免じて候なり。後生を訪ふ孝子なくば何れの世に誰か抜きえさせ候べきぞ。
其の上わづかのをどろ(茨棘)のとげのたちて候だに忍び難く候べし。況や一尺の釘一つに候とも悲しかるべし。まして四十九まで五尺の身にたてては何とうごき候べきぞ。聞くにきもをけし、見るに悲しかるべし。其れを我も人も此の道理を知らず。父母兄弟の死して候時、初七日と云ふ事をも知らず、まして四十九日、百箇日と云ふ事をも、一周忌と云ふ事をも、第三年と云ふ事をも知らず。訪はざらん志の程浅猿かるべし。聖霊の苦患をたすけずんば不孝の罪深し。悪霊と成りてさまたげを成し候なり。/ 良郭・阿用子二人同じく死し候ひて閻魔の庁に参りたり。同業なれば黒縄地獄へ堕すべしと沙汰ある。爾の時に小疾鬼娑婆へ行きて追善の様を見て参れと仰せければ、刹那の程に冥途より来て見るに、良郭は孝子ありて作善をいとなみ、僧を請じ、仏を造り、経を書き、大乗妙典を読誦して訪ふ事念比なり。故に閻魔法王に申す。浄頗梨の鏡を取り出だし御覧あれば申すに違はず。一生涯の間造る処の罪業を、皆此の功徳に懸け合はせて見れば、罪業は軽し善根のふだ(札)は重し。真善妙有の功力なるが故に、衆罪は霜露の如く忽ちに罪障消滅して、利天上の果報を得て、威徳の天人と成りて行かすべしと下知せられたり。
阿用子我が身の事はいかにとむねに当て思ふ処に、閻魔法王仰せらるる様は、阿用子の孝子はなにと有るぞと御尋あれば、されば候。娑婆に訪ふべき孝子一人もこれ無く候。縦ひ候と申すとも善根をなす事も候はず。まして僧を請じ、仏を造り、経を書き、大乗妙典を讃歎する事候はず。一分の善根も無き由申しければ、汝があやまりにやとて、頗梨鏡召し寄せて彼れが罪障を浮かべて披見し給へば、げに訪ふ事もなし。縦ひ兄弟あれども作善もなし。初七日とも知らず四十九日までも仏事なし。閻魔法王不便に思し召せども、自業自得果の道理背き難ければ、黒縄地獄へつかはす。爾の時阿用子申さく、我娑婆にありし時、馬車財宝も多かりしを、他人にはゆづらざりしに、何に妻子も兄弟も訪はざるらんと、天に叫び地を叩けども更に助くる者なし。三七日のさよ(小夜)なかに、宗帝王の筆を染めて阿用子が姓名を委しく注し、四七日の明けぼのに、倶生神にもたせつつ五官王に引き渡しけり。彼の札にまかせて黒縄地獄へ向かふ。彼の地獄のありさまは縦横一万由旬なり。獄卒罪人を掎(ひきたを)して熱鉄地に臥せて、熱鉄の縄を以てよこさまに身にすみを打ち、熱鉄の斧を持ちて縄にしたがひてきりわり、或はのこぎりを以て其の身をひき、或は刀を持ちて其の身をさききる事百千段々なり。
五体身分処々に散在せり。或は獄卒罪人をとらへて、あつき鉄の縄を持ちて其の身を絞絡す。縄身肉をとおり、骨にいたる事限りなし。骨微塵にくだけ破るるなり。或は鉄の山の上に鉄の幡ほこを立て、幡ほこの端に鉄の縄をはり、下に熱鉄の釜あり。其の罪人に鉄の山をせをわせて、縄の上を行かしむるに、遥かの鉄のかまへおち入る事大豆の如くなり。かくの如く苦をうくる事、人間の一百年を以て利天の一日一夜として、其の寿一千歳なり。利天の一千歳の寿を一日一夜として、此の地獄の苦一千歳なり。殺生偸盗の者、此の黒縄地獄におつるなり。/ 然れば良郭は迹に孝子有りて訪へば、苦患をのがれて利天へ生まれたり。阿用子は孝子なく迹訪ふことなければ、一千歳の間無量の苦を五尺の身に受けて悲しみ極まりなし。昔を以て今を思ふに、孝子なき人かくの如くならんか。又訪ふ事なくば、何れの世にか浮かぶべきや。我父母の物をゆづられながら、死人なれば何事のあるべきと思ひて、後生を訪はざれば、悪霊と成り、子々孫々にたたり(崇)をなすと涅槃経と申す経に見えたり。他人の訪はぬよりも、親類財を与へられて、彼の苦を訪はざらん志の程うたてかるべし。悲しむべし悲しむべし、哀れむべし哀れむべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
七月二十二日  日蓮花押/ 侍従殿
◆ 一代聖教大意 〔C5・正嘉二年二月一四日〕/ 四教。一には三蔵教、二には通教、三には別教、四には円教なり。/ 始めに三蔵とは阿含経の意なり。此の経の意は六道より外を明かさず。但六道〈地・餓・畜・修・人・天〉の内の因果の道理を明かす。但し正報は十界を明かすなり。地・餓・畜・修・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏なり。依報が六にて有れば六界と申すなり。此の教の意は六道より外を明かさざれば三界より外に浄土と申す生処ありと云はず。又三世に仏は次第次第に出世すとは云へども、横に十方に並べて仏有りとも云はず。三蔵とは、一には経蔵〈亦定蔵とも云ふ〉二には律蔵〈亦戒蔵とも云ふ〉三には論蔵〈亦恵蔵とも云ふ〉。但し経律論の定戒恵・戒定恵・恵定戒と云ふ事あるなり。戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒なり。定蔵とは味禅〈定とも名づく〉浄禅・無漏禅なり。恵蔵とは苦・空・無常・無我の智恵なり。戒定恵の勝劣と云ふは、但上の戒計りを持つ者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり。但し上の定計りを修する人は戒を持たずとも定の力に依りて上の戒を具するなり。此の定の内に味禅・浄禅は三界の内の色界無色界へ生ず。無漏禅は声聞・縁覚と成りて見思を断じ尽くし灰身滅智するなり。
恵は又苦・空・無常・無我と我が色心を観すれば、上の戒定を自然に具足して声聞縁覚とも成るなり。故に戒より定勝れ、定より恵勝れたり。而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり。されば阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり。此の教の意は依報には六界、正報には十界を明かせども、依報に随ひて六界を明かす経と名づくるなり。又正報に十界を明かせども縁覚・菩薩・仏も声聞の覚りを過ぎざれば但声聞教と申す。されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり。/ 声聞に付きて七賢七聖の位あり。六道は凡夫なり。/                   ┌─一、五停心/             ┌─三賢──┼─二、別想念処/  〈智と云ふことなり〉 │     └─三、総想念処/ 七賢──────────┤     ┌─一、軟法/             │     ├─二、頂法/             └─四善根─┼─三、忍法
└─四、世第一法/ 此の七賢の位は六道の凡夫より賢く、生死を厭ひ、煩悩を具しながら煩悩を発さざる賢人なり。例せば外典の許由・巣父が如し。/      ┌─一、数息──息を数へて散乱を治す。/      ├─二、不浄──身の不浄を観じて貪欲を治す。/ 五停心──┼─三、慈悲──慈悲を観じて嫉妬を治す。/      ├─四、因縁──十二因縁を観じて愚痴を治す。/      └─五、界方便─〈亦は念仏と云ふ〉地水火風空識の六界を観じて障道を治す。/      ┌─一、身──外道は身を浄と云ひ、仏は不浄と説く。/ 別想念処─┼─二、受──外道は三界を楽と云ひ、仏は苦と説く。/      ├─三、心──外道は心を常と云ひ、仏は無常と説く。
└─四、法──外道は一切衆生に我有りと云ひ、仏は無我と説く。/ 外道は常〈心〉楽〈受〉我〈法〉浄〈身〉、仏は苦・不浄・無常・無我と説く。/ 総想念処─先の苦・不浄・無常・無我を調練して観ずるなり。/ 軟法───智恵の火、煩悩の薪を蒸せば煙の立つなり。故に軟法と云ふ。/ 頂法───山の頂に登りて四方を見るに雲(くもり)無きが如し。世間出世間の因果の道理を委しく知りて闇(くもり)無き事に譬へたるなり。始め五停心より此の頂法に至るまでは、退位と申して悪縁に値へば悪道に堕つ。而れども此の頂法の善根は失せずと習ふなり。/ 忍法───此の位に入る人は永く悪道に堕ちず。/ 世第一法─此の位に至るまでは賢人なり。但し今に聖人と成るべし。/                    ┌─随信行─鈍根/          ┌─一、見道──二─┤/          │         └─随法行─利根
〈正と云ふ事なり〉│         ┌─一、信解──鈍根/ 七聖三──────┼─二、修道──三─┼─二、見得──利根/          │         └─三、身証──利鈍に亘る/          │  〈阿羅漢〉  ┌─恵解脱─鈍根/          └─三、無学道─二─┤/                    └─倶解脱─利根/ 見思の煩悩を断ずる者を聖と云ふ。此の聖人に三道あり。見道とは見思の内の見惑を断じ尽くす。此の見惑を尽くす人をば初果の聖者と申す。此の人は欲界の人天には生ずれども、永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちず。天台云く「見惑を破するが故に四悪趣を離る」文。此の人は未だ思惑を断ぜざれば貪・瞋・痴身に有り。貪欲ある故に妻を帯す。而れども他人の妻を犯さず。瞋恚あれども物を殺さず。鋤を以て地をすけば虫自然に四寸去る。愚痴なる故に我が身初果の聖者と知らず。
婆沙論に云く「初果の聖者は妻を八十一度一夜に犯す」取意。天台の解釈に云く「初果、地を耕すに虫四寸を離るるは道共の力なりと。第四果の聖者阿羅漢を無学と云ひ、亦不生と云ふ。永く見思を断じ尽くして三界六道に此の生の尽きて後は生ずべからず。見思の煩悩の無き故なり」。又此の教の意は三界六道より外に処を明かさざれば、外の生処有りと知らず。身に煩悩有りとも知らず。又生因無く但灰身滅智と申して身も心もうせ虚空の如く成るべしと習ふ。法華経にあらずば永く仏になるべからずと云ふは二乗是れなり。此の教の修行の時節は、声聞は三生〈鈍根〉六十劫〈利根〉。又一類の最上利根の声聞の一生の内に阿羅漢の位に登る事有り。縁覚は四生〈鈍根〉百劫〈利根〉。菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず。而も四弘誓願を発し、六度万行を修し、三僧祇百大劫を経て三蔵教の仏と成る。仏と成る時始めて見思を断尽するなり。見惑とは一には身見〈亦我見と云ふ〉・二には辺見〈亦断見常見と云ふ〉・三には邪見〈亦撥無見と云ふ〉・四には見取見〈亦劣謂勝見と云ふ〉・五には戒禁取見〈亦非因計因非道計道見と云ふ〉。見惑は八十八有れども此の五が本にて有るなり。思惑とは一には貪、二には瞋、三には痴、四には慢なり。思惑は八十一有れども此の四が本にて有るなり。
此の法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に具に明かせり。別して倶舎宗と申す宗有り。又諸の大乗に此の法門少々明らめる事あり。謂く方等部の経・涅槃経等なり。但し華厳・般若・法華には此の法門無し。/ 次に通教〈大乗の始めなり〉。又戒定恵の三学あり。此の教のおきて大旨は六道を出でず。少分利根なる菩薩、六道より外を推し出だすことあり。声聞・縁覚・菩薩共に一つ法門を習ひ、見思を三人共に断じ、而も声聞・縁覚は灰身滅智の意(おもひ)に入る者もあり、入らざる者もあり。此の教に十地あり。/    ┌─一、乾恵地─────三賢──┐/    ├─二、性地──────四善根─┴─賢人/    ├─三、八人地───┬─〈見道の位〉聖人/    │         ├─見惑を断ず/    ├─四、見地────┴─初果聖人/ 十地─┼─五、薄地─┐/    ├─六、離欲地├────思惑を断ず/    ├─七、已弁地┴阿羅漢─見思を断じ尽くす/    ├─八、辟支仏地────見思を尽くす/    ├─九、菩薩地
└─十、仏地──────見思を断じ尽くす/ 此の通教の法門は別して一経に限らず。方等経・般若経・心経・観経・阿弥陀経・双観経・金剛般若経等の経に散在せり。此の通教の修行の時節は、動踰塵劫を経て仏に成ると習ふなり。又一類の疾く成ると云ふ辺もあり。已上、上の蔵通二教には六道の凡夫本より仏性ありとも談ぜず。始めて修すれば声聞・縁覚・菩薩・仏とおもひおもひに成ると談ずる教なり。/ 次に別教。又戒定恵の三学を談ず。此の教は但菩薩許りにて声聞縁覚を雑へず。菩薩戒とは三聚浄戒なり。五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒。梵網の五十八の戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護他の十戒・大論の十戒。是等は皆菩薩の三聚浄戒の内摂律儀戒なり。摂善法戒とは八万四千の法門を摂す。饒益有情戒とは四弘誓願なり。定とは観・練・薫・修の四種の禅定なり。恵とは心生十界の法門なり。五十二位を立つ。五十二位とは一には十信、二には十住、三には十行、四には十回向、五には十地、等覚〈一位〉、妙覚〈一位〉。已上五十二位。/      ┌─十信───┬─退位
├─十住──┐└─凡夫菩薩未だ見思を断ぜず/ 五十二位─┼─十行──┼──不退位/      ├─十回向─┴──見思・塵沙を断ぜる菩薩/      ├─十地──┐/      ├─等覚──┴──無明を断ぜる菩薩/      └─妙覚─────無明を断尽せる仏なり/ 此の教は大乗なり。戒定恵を明かす。戒は前の蔵通二教に似ず尽未来際の戒、金剛法戒なり。此の教の菩薩は三悪道をば恐れとせず。二乗の道を三悪道と云ひて地・餓・畜等の三悪道は仏の種子を断ぜず、二乗の道は仏の種子を断つ。大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障へず。若し自利の心を起こさば是れ大菩提の障りなり」。此の教の習ひは真の悪道とは三無為の火なり。真の悪人とは二乗を立つるなり。されば悪をば造るとも、二乗の戒をば持たじと談ず。故に大般若経に云く「若し菩薩設ひ伽沙劫に妙の五欲を受くるとも、菩薩戒に於て猶犯と名づけず。若し一念二乗の心を起こさば即ち名づけて犯と為す」文。
此の文に妙なる五欲とは色声香味触の五欲なり。色欲とは青黛(しょうたい)・珂雪・白歯等、声欲とは糸竹管絃、香欲とは沈檀芳薫、味欲とは猪鹿等の味、触欲とは軟膚等なり。此の五欲には伽沙劫に著すとも菩薩戒は破れず。一念の二乗の心を起こすに菩薩戒は破ると云へる文なり。太賢の古迹に云く「貪に汚さると雖も大心尽きず。無余の犯無きが故に無犯と名づく」文。二乗戒に趣くを菩薩の破戒とは申すなり。華厳・般若・方等、総じて爾前の経にはあながちに二乗をきらうなり。定恵は此れを略す。梵網経に云く「戒をば謂ひて平地と為し、定をば謂ひて室宅と為す、智恵は為れ灯明なり」文。此の菩薩戒は人・畜・黄門・二形の四種を嫌はず、但一種の菩薩戒を授く。此の教の意は五十二位を一々の位に多倶低劫を経て衆生界を尽くして仏に成るべし。一人として一生に仏に成る物無し。又一行を以て仏に成る事無し。一切行を積みて仏と成る。微塵を積みて須弥山と成るが如し。華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経に此の旨分明なり。但し二乗界の此の戒を受くる事を嫌ふ。妙楽の釈に云く「遍く法華已前の諸教を尋ぬるに、実に二乗作仏の文無し」文。/ 次に円教。此の円教に二有り。一には爾前の円、二には法華涅槃の円なり。
爾前の円に五十二位又戒定恵あり。爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門。文に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」。又云く「円満修多羅」文。浄名経に云く「無我無造にして受くる者は無けれども、善悪の業敗亡せず」文。般若経に云く「初発心より即ち道場に坐す」文。観経に云く「韋提希時に応じて即ち無生法忍を得」文。梵網経に云く「衆生仏戒を受くれば位大覚位に同じ。即ち諸仏の位に入り、真に是れ諸仏の子(みこ)なり」文。此れは皆爾前の円の証文なり。此の教の意は又五十二位を明かす。名は別教の五十二位の如し、但し義はかはれり。其の故は五十二位が互ひに具して浅深も無し勝劣も無し。凡夫も位を経ずとも仏にも成る、又往生するなり。煩悩も断ぜざれども仏に成るに障り無く一善一戒を以ても仏に成る。少々開会の法門を説く処もあり。所謂 浄名経には凡夫を会す。煩悩悪法も皆会す。但し二乗を会せず。般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず。観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜずして往生すと説くは、皆爾前の円教の意なり。法華経の円教は後に至りて書くべし〈已上四教〉。/ 次に五時。五時とは、一には華厳経〈結経は梵網経〉、別円二教を説く。二には阿含〈結経は遺教経〉、但三蔵教の小乗の法門を説く。
三には方等経・宝積経・観経等の説時を知らざる大乗経なり〈結経は瓔珞経〉、蔵通別円の四教を皆説く。四には般若経〈結経は仁王経〉、通教・別教・円教の後三教を説く。三蔵教を説かず。華厳経は三七日の間の説、阿含経は十二年の説、方等・般若は三十年の説。已上華厳より般若に至る四十二年なり。山門の義には方等は説時定まらず説処定まらず、般若経三十年と申す。寺門の義には方等十六年般若十四年と申す。秘蔵の大事の義には方等・般若は説時三十年。但し方等は前、般若は後と申すなり。仏は十九出家三十成道と定むる事は大論に見えたり。一代聖教五十年と申す事は涅槃経に見えたり。法華経已前四十二年と申す事は無量義経に見えたり。法華経八箇年と申す事は涅槃経の五十年の文と、無量義経の四十二年の文の間を勘ふれば八箇年なり。已上十九出家、三十成道、五十年の転法輪、八十入滅と定むべし。/ 此等の四十二年の説教は皆法華経の汲引の方便なり。其の故は無量義経に云く「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり○方便力を以て四十余年には未だ真実を顕はさず○初めに四諦を説き〈阿含経なり〉○次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説く」文。
私に云く、説の次第に順ずれば華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃なり。法門の浅深の次第を列ねば阿含・方等・般若・華厳・法華涅槃と列ぬべし。されば法華経・涅槃経には爾の如く見えたり。華厳宗と申す宗は智儼法師・法蔵法師・澄観法師等の人師、華厳経に依りて立てたり。倶舎宗・成実宗・律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師、阿含経に依りて立てたり。法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等、方等部の内に上生経・下生経・成仏経・深密経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依りて立てたり。三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依りて吉蔵大師立て給へり。華厳宗と申すは華厳と法華・涅槃は同じく円教と立つ。余は皆劣と云ふなるべし。法相宗には深密・解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云ふ。三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり。但し法相の依経の諸小乗経は劣なりと立つ。此等は皆法華已前の諸経に依りて立てたる宗なり。爾前の円を極として立てたる宗どもなり。宗々の人々の諍ひは有れども経々に依りて勝劣を判ぜん時は、いかにも法華経は勝れたるべきなり。人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し。/ 五には法華経と申すは開経には無量義経〈一巻〉、法華経八巻、結経には普賢経〈一巻〉。
上の四教四時の経論を書き挙ぐる事は此の法華経を知らん為なり。法華経の習ひとしては、前の諸経を習はずしては永く心を得ること莫きなり。爾前の諸経は一経一経を習ふに又余経を沙汰せざれども苦しからず。故に天台の御釈に云く「若し余経を弘むるには、教相を明かさざれども義に於て傷むこと無し。若し法華を弘むには、教相を明かさざれば文義欠くること有り」文。法華経に云く「種々の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文。種々の道と申すは爾前の一切の諸経なり。仏乗の為とは法華経の為に一切の経を説くと申す文なり。/ 問ふ、諸経の如きは或は菩薩の為、或は人天の為、或は声聞縁覚の為、機に随ひて法門もかわり益もかわる。此の経は何なる人の為ぞや。答ふ、此の経は相伝に有らざれば知り難し。悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女人・四衆八部、総じて十界の衆生の為なり。所謂 悪人は提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王、善人は韋提希等の人天の人。有智は舎利弗、無智は須利槃特。有戒は声聞・菩薩、無戒は竜・畜なり。女人は竜女なり。総じて十界の衆生、円の一法を覚るなり。此の事を知らざる学者、法華経は我等凡夫の為には有らずと申す、仏意恐れ有り。此の経に云く「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり」文。
此の文の菩薩とは、九界の衆生、善人・悪人・女人・男子、三蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の三乗、別教の菩薩、爾前の円教の菩薩、皆此の経の力に有らざれば仏に成るまじと申す文なり。又此の経に云く「薬王、多く人有りて在家出家の菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能はずんば、当に知るべし、是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず。若し是の経典を聞くこと得ること有らば、乃ち能善(よく)菩薩の道を行ずるなり」。此の文は顕然に権教の菩薩の三祇百劫・動踰塵劫・無量阿僧祇劫の間の六度万行・四弘誓願は、此の経に至らざれば菩薩の行には有らず、善根を修したるにも有らずと云ふ文なり。又菩薩の行無ければ仏にも成らざる事も顕然なり。/ 天台・妙楽の末代の凡夫を勧進する文、文句に云く「好堅は地に処して芽已に百囲せり。頻伽は(かいこ)に在りて声衆鳥に勝れたり」文。此の文は法華経の五十展転の第五十の功徳を釈する文なり。仏苦(ねんごろ)に五十展転にて説き給ふ事、権教の多劫の修行又大聖の功徳よりも、此の経の須臾の結縁、愚人の随喜の功徳、百千万億勝れたる事経に見えつれば、此の意を大師譬へを以て顕はし給へり。
好堅樹と申す木は一日に百囲にて高く生ふ。頻伽と申す鳥は幼きだも諸の大小の鳥の声に勝れたり。権教の修行の久しきに諸の草木の遅く生長するを譬へ、法華の行速やかに仏に成る事を一日に百囲なるに譬ふ。権教の大小の聖をば諸鳥に譬へ、法華の凡夫のはかなきをの声の衆鳥に勝るに譬ふ。妙楽大師重ねて釈して云く「恐らくは人謬りて解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推(ゆず)りて此の初心を蔑る。故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕はす」文。末代の愚者は法華経は深理にしていみじけれども、我が下機に叶はずと云ひて法を挙げ機を下して退する者を釈する文なり。/ 又妙楽大師、末代に此の法の捨てられん事を歎きて云く「此の円頓を聞いて崇重せざる者は、良に近代大乗を習ふ者の雑濫に由るが故なり。況や像末に情澆く信心寡薄に、円頓の教法、蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず。便ち目を瞑ぐに至りて、徒らに生じ徒らに死す、一に何ぞ痛ましきや。有る人云く、聞いて行ぜざらんは、汝に於て何ぞ預からん。此れは未だ深く久遠の益を知らず。善住天子経の如きは、文殊・舎利弗に告ぐ、法を聞き謗を生じて地獄に堕つるは恒沙の仏を供養する者に勝れたり。地獄に堕つと雖も地獄より出で還りて法を聞くことを得ると。
此れは供仏し法を聞かざる者を以て校量と為り。聞いて而も謗を生ずる尚遠種と為る。況や聞いて思惟し勤めて修習せんをや」。又云く「一句も神に染めぬれば咸く彼岸を資く。思惟修習永く舟航に用ゐる。随喜・見聞は恒に主伴と為る。若しは取・若しは捨、耳に経て縁と成り、或は順・或は違、終に斯に因りて脱す」文。私に云く、若しは取若しは捨或は順或は違の文、肝に銘ずるなり。/ 法華翻経の後記に云く〈釈僧肇記〉「什〈羅什三蔵なり〉、姚興王に対して曰く、予昔天竺国に在りし時、遍く五竺に遊びて大乗を尋討し、大師須利耶蘇摩に従ひて理味を餐受するに頂を摩でて此の経を属累して言く、仏日、西に隠れ遺光東北を照らす。茲の典、東北諸国に有縁なり。汝慎みて伝弘せよ」文。私に云く、天竺よりは此の日本は東北の州なり。恵心の一乗要決に云く「日本一州円機純熟にして、朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賤悉く成仏を期す。唯一師等ありて若し信受せざれば権とや為さん、実とや為さん。権と為さば貴むべし。浄名に云く、衆の魔事を覚知して而も其の行に随はざるは善力方便を以て意に随ひて而も度すと。実と為さば憐れむべし。此の経に云く、当来世の悪人は仏説の一乗を聞いて迷惑して信受せず、法を破して悪道に堕つ」文。
妙法蓮華経。妙とは天台の玄義に云く「言ふ所の妙とは、妙は不可思議に名づくるなり」。又云く「秘密の奥蔵を発く、之れを称して妙と為す」。又云く「妙とは最勝修多羅甘露の門なり、故に妙と言ふなり」。法とは玄義に云く「言ふ所の法とは、十界十如権実の法なり」。又云く「権実の正軌を示す、故に号して法と為す」。蓮華とは玄義に云く「蓮華とは権実の法に譬ふるなり」。又云く「久遠の本果を指す、之れを喩ふるに蓮を以てし、不二の円道に会す、之れを譬ふるに華を以てす」文。経とは玄義に云く「声仏事を為す、之れを称して経と為す」文。私に云く、法華以前の諸経に、小乗は心生ずれば六界、心滅すれば四界なり。通教以て是の如し。爾前の別円の二教は心生の十界なり。小乗の意は六道四生の苦楽は衆生の心より生ずと習ふなり。されば心滅すれば六道の因果は無きなり。大乗の心は心より十界を生ず。華厳経に云く「心は工みなる画師の如く種々の五陰を造る、一切世間の中に法として造らざること無し」文。種々の五陰を造るとは十界の五陰なり。仏界をも心法をも造ると習ふ。心が過去・現在・未来の十方の仏と顕はると習ふなり。
華厳経に云く「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是の如く観すべし、心は諸の如来を造る」。法華已前の経のおきては上品の十悪は地獄の引業、中品の十悪は餓鬼の引業、下品の十悪は畜生の引業、五常は修羅の引業、三帰五戒は人の引業、三帰十善は六欲天の引業なり。有漏の坐禅は色界無色界の引業、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声聞・縁覚の引業、五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六度・四弘の菩提心を発すは菩薩なり。仏界の引業なり。蔵通二教には仏性の沙汰無し。但し菩薩の発心を仏性と云ふ。別円二教には衆生に仏性を論ず、但し別教の意は二乗には仏性を論ぜず。爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙汰無し。此等は皆麁法なり。/ 今の妙法とは此等の十界を互ひに具すと説く時、妙法と申す。十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し、十界互ひに具すれば百法界なり。玄義二に云く「又一法界に九法界を具すれば即ち百法界有り」文。法華経とは別の事無し。十界の因果は爾前の経に明かす、今は十界の因果互具をおきてたる計りなり。爾前の経の意は菩薩をば仏に成るべし、声聞は仏に成るまじなんど説けば、菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひもかけずなんどある経も有り。
或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念ひ、菩薩はわざと煩悩を断ぜずして六道に生まれて衆生を利益せんと念ふ。或は菩薩の頓悟成仏を見、或は菩薩の多倶低劫の修行を見、或は凡夫往生の旨を説けば菩薩・声聞の為には有らずと見て、人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏、凡夫の往生は我が往生、聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らずして四十二年は過ぎしなり。爾るに今の経にして十界互具を談ずる時、声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば、六度万行も修せず、多倶低劫も経ぬ声聞が、諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間、をもはざる外に声聞が菩薩と云はる。人をせむる獄卒、慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる。仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ、妙覚ながら等覚なり。薬草喩品に声聞を説いて云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり」。又我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文、経に云く「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前す」。我等一戒をも受けざるが持戒の者と云はる文、経に云く「是れ則ち勇猛なり是れ則ち精進なり、是れを戒を持ち頭陀を行ずる者と名づく」文。/ 問うて云く、諸経にも悪人が仏に成る。華厳経の調達の授記、普超経の闍王の授記、大集経の婆籔天子の授記。
又女人が仏に成る、胎経の釈女の成仏。畜生が仏に成る、阿含経の鴿雀の授記。二乗が仏に成る、方等だらに経・首楞厳経等なり。菩薩の成仏は華厳経等。具縛の凡夫の往生は観経の下品下生等。女人の女身を転ずるは、双観経の四十八願の中の三十五の願。此等は法華経の二乗・竜女・提婆・菩薩の授記に何なるかわりめかある。又設ひかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし 如何。答ふ、予の習ひ伝ふる処の法門此の答へに顕はるべし。此の答へに法華経の諸経に超過し、又諸経の成仏を許し許さぬは聞こふべし。秘蔵の故に顕露に書(しる)さず。/ 問うて曰く、妙法を一念三千と云ふ事 如何。答ふ、天台大師此の法門を覚り給ひて後、玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説き給ひしかども、此の一念三千をば談義し給はず。但十界百界千如の法門ばかりにておはしまししなり。御年五十七の夏四月の比、荊州の玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師と申す人に説ききかせ給ひし止観十巻あり。上の四帖に猶をしみ給ひて但六即・四種三昧等計りの法門にてありしに、五の巻より十境十乗を立てて一念三千の法門を書し給へり。
此れを妙楽大師末代の人に勧進して言く「並びに三千を以て指南と為す○請ふらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ」文。六十巻三千丁の多くの法門も由無し、但此の初めの二・三行を意得べきなり。止観の五に云く「夫れ一心に十法界を具す、一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す。此の三千一念の心に在り」文。妙楽承け釈して云く「当に知るべし、身土は一念の三千なり。故に成道の時、此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」文。/ 日本の伝教大師比叡山を建立の時、根本中堂の地を引き給ひし時、地中より舌八つある鑰を引き出だしたりき。此の鑰を以て入唐の時に、天台大師より第七代妙楽大師の御弟子道邃和尚に値ひ奉りて天台の法門を伝へし時、天機秀発の人たりし間、道邃和尚悦びて天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給ひしに、十四を開きて一の蔵を開かず。其の時伝教大師云く、師、此の一蔵を開き給へと請ひ給ひしに、邃和尚の云く、此の一蔵は開くべき鑰無し。天台大師自ら出世して開き給ふべし云云。其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給ひしに、此の経蔵開きたりしかば経蔵の内より光室に満ちたりき。其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなり。ありがたかりし事なり。
其の時邃和尚は返りて伝教大師を礼拝し給ひき、天台大師の後身と云云。依って天台の経蔵の所釈は遺り無く日本に亘りしなり。天台大師の御自筆の観音経、章安大師の自筆の止観、今比叡山の根本中堂に収めたり。/     ┌─一 自性──自力──迦毘羅外道/ 四性計─┼─二 他性──他力──楼僧伽外道/     ├─三 共性──共力──勒娑婆外道/     └─四 無因性─無因力─自然外道/ 外道に三人あり。一には仏法外の外道〈九十五種の外道〉、二には学仏法成の外道〈小乗〉、三には附仏法の外道〈妙法を知らざる大乗の外道なり〉。今の法華経は自力も定めて自力にあらず、十界の一切衆生を具する自なる故に。我が身に本より自の仏界、一切衆生の他の仏界我が身に具せり。されば今仏に成るに新仏にあらず。又他力も定めて他力に非ず、他仏も我等凡夫の自ら具せる故に、又他仏が我等が如き自に現同するなり。共と無因とは略す。法華経已前の諸経は十界互具を明かさざれば、仏に成らんと願ふには必ず九界を厭ふ、九界を仏界に具せざる故なり。されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず、凡夫の身を仏に具すと云はざるが故に。
されば人天、悪人の身をば失ひて仏に成ると申す。此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名づく。されば爾前の経の人々は仏の九界の形を現ずるをば、但仏の不思議の神変と思ひ、仏の身に九界が本よりありて現ずるとは云はず。されば実を以てさぐり給ふに法華経已前には但権者の仏のみ有りて、実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり。煩悩を断じ九界を厭ひて仏に成らんと願ふは、実には九界を離れたる仏無き故に。往生したる実の凡夫も無し、人界を離れたる菩薩界も無き故に。但法華経の仏の、爾前にして十界の形を現じて所化とも能化とも、悪人とも善人とも外道とも云はれしなり。実の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権を行じて真実の教とうち思ひなしてすぎし程に、法華経に来たりて方便にてありけり、実には見思無明も断ぜざりけり、往生もせざりけりなんど覚知するなり。一念三千は別に委しく書くべし。/ 此の経には二妙あり。釈に云く「此の経は唯二妙を論ず」。一には相待妙、二には絶待妙なり。相待妙の意は、前四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之れを嫌ひ、爾前をば当分と云ひ法華を跨節と申す。絶待妙の意は、一代聖教は即ち法華経なりと開会す。又法華経に二の事あり。一には所開、二には能開なり。開示悟入の文、或は皆已成仏道等の文。一部八巻二十八品六万九千三百八十四字、一々の字の下に皆妙の文字あるべし。此れ能開の妙なり。
此の法華経は知らずして習ひ談ずる物は但爾前の経の利益なり。阿含経開会の文は、経に云く「我が此の九部の法は衆生に随順して説く、大乗に入るに為れ本なり」云云。華厳経開会の文は「一切世間の天人及び阿修羅は、皆謂へり今の釈迦牟尼仏」等文。般若経開会の文は安楽行品の十八空の文なり。観経等の往生安楽開会の文は「此に於て命終して即ち安楽世界に往く」等文。散善開会の文は「一たび南無仏と称せし皆已に仏道を成じき」文。一切衆生開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」。外典開会の文は「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文。兜率開会の文、人天所開会の文しげきゆへにいださず。/ 此の経を意得ざる人は経の文に此の経を読みて人天に生ずと説く文を見、或は兜率・利なんどにいたる文を見、或は安養に生ずる文を見て、穢土に於て法華経を行ぜば、経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば穢土にして流転し、久しく五十六億七千万歳の晨を期し、或は人畜等に生じて隔生する間、自らの苦しみ限り無しなんど云云。或は自力の修行なり難行道なり等云云。此れは恐らくは爾前法華の二途を知らずして自身痴闇に迷ふのみに非ず、一切衆生の仏眼を閉づる人なり。
兜率を勧めたる事は小乗経に多し。少しは大乗経にも勧めたり。西方を勧めたる事は大乗経に多し。此等は皆所開の文なり。法華経の意は、兜率に即して十方仏土中、西方に即して十方仏土中、人天に即して十方仏土中云云。法華経は悪人に対しては十界の悪を説けば、悪人五眼を具しなんどすれば悪人のきわまりを救ひ、女人に即して十界を談ずれば十界皆女人なる事を談ず。何にも法華円実の菩提心を発さん人は迷ひの九界へ業力に引かるる事無きなり。此の意を存じ給ひけるやらん。法然上人も一向念仏の行者ながら選択と申す文には、雑行・難行道には法華経・大日経等をば除かれたる処も有り、委しく見よ。又恵心の往生要集にも法華経を除きたり。たとい法然上人・恵心、法華経を雑行難行道として末代の機に叶はずと書き給ふとも、日蓮は全くもちゆべからず。一代聖教のおきてに違ひ、三世十方の仏陀の誠言に違する故に。いわうやそのぎ無し。而るに後の人々の消息に、法華経を難行道、経はいみじけれども末代の機に叶はず、謗ぜばこそ罪にても有らめ、浄土に至りて法華経をば覚るべしと云云。日蓮の心はいかにも此の事はひが事と覚ゆるなり。かう申すもひが事にや有るらん。能く能く智人に習ふべし。
正嘉二年二月十四日  日蓮撰
◆ 一念三千理事 〔C6・正嘉二年〕/ 十二因縁図/ 問ふ、流転の十二因縁とは何等ぞや。答ふ、一には無明。倶舎に云く「宿惑の位は無明なり」文。無明とは昔愛欲の煩悩起こりしを云ふなり。男は父に瞋りを成して母に愛を起こす。女は母に瞋りを成して父に愛を起こすなり。倶舎の第九に見えたり。二には行。倶舎に云く「宿(むかし)の諸業を行と名づく」と文。昔の造業を行とは云ふなり。業に二有り。一には牽引の業なり。我等が正しく生を受くべき業を云ふなり。二には円満の業なり。余の一切の造業なり。所謂 足を折り手を切る先業を云ふなり。是れは円満の業なり。三には識。倶舎に云く「識とは正しく生を結する蘊なり」文。正しく母の腹の中に入る時の五蘊なり。五蘊とは色受想行識なり。亦五陰とも云ふなり。四には名色。倶舎に云く「六処の前は名色なり」文。五には六処。倶舎に云く「眼等の根を生ずるより三和の前は六処なり」文。六処とは眼耳鼻舌身意の六根出来するを云ふなり。六には触。倶舎に云く「三受の因の異なるに於て未だ了知せざるを触と名づく」文。火は熱しとも知らず、水は寒しとも知らず、刀は人を切る物とも知らざる時なり。
七には受。倶舎に云く「淫愛の前に在るは受なり」文。寒熱を知りて、未だ淫欲を発さざる時なり。八には愛。倶舎に云く「資具と淫とを貪るは愛なり」文。女人を愛して淫欲等を発すを云ふなり。九には取。倶舎に云く「諸の境界を得んが為に、遍く馳求するを取と名づく」文。今世に有る時、世間を営みて他人の物を貪り取る時を云ふなり。十には有。倶舎に云く「有は謂く正しく能く当有の果を牽く業を造る」文。未来に又此の如く生を受くべき業を造るを有とは云ふなり。十一には生。倶舎に云く「当の有を結するを生と名づく」文。未来に正しく生を受けて母の腹に入る時を云ふなり。十二には老死。倶舎に云く「当の受に至るまでは老死なり」文。生老死を受くるを老死憂悲苦悩とは云ふなり。/ 問ふ、十二因縁を三世両重に分別する方 如何。答ふ、無明と行とは過去の二因なり。識と名色と六入と触と受とは現在の五果なり。愛と取と有とは現在の三因なり。生と老死とは未来の両果なり。私の略頌に云く「過去の二因〈無明・行〉、現在の五果〈識・名色・六入・触・受〉、現在の三因〈愛・取・有〉、未来の両果〈生・老死〉」。問ふ、十二因縁流転の次第 如何。答ふ、無明は行に縁たり。行は識に縁たり。識は名色に縁たり。名色は六入に縁たり。六入は触に縁たり。触は受に縁たり。受は愛に縁たり。愛は取に縁たり。取は有に縁たり。有は生に縁たり。生は老死憂悲苦悩に縁たり。
是れ其の生死海に流転する方なり。此の如くして凡夫とは成るなり。問ふ、還滅の十二因縁の様 如何。答ふ、無明滅すれば則ち行滅す。行滅すれば則ち識滅す。識滅すれば則ち名色滅す。名色滅すれば則ち六入滅す。六入滅すれば則ち触滅す。触滅すれば則ち受滅す。受滅すれば則ち愛滅す。愛滅すれば則ち取滅す。取滅すれば則ち有滅す。有滅すれば則ち生滅す。生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す。是れ其の還滅の様なり。仏は還りて煩悩を失ひて行く方なり。私に云く、中夭の人には十二因縁具に之れ無し。又天上にも具には之れ無く、又無色界にも具には之れ無し。/ 一念三千理の事/ 十如是とは、如是相は身なり〈玄二に云く「相は以て外に拠る、覧て別かつべし」文。籖六に云く「相は唯色に在り」文〉。如是性は心なり〈玄二に云く「性は以て内に拠る、自分改めず」文。籖六に云く「性は唯心に在り」文〉。如是体は身と心となり〈玄二に云く「主質を名づけて体と為す」〉。如是力は身と心となり〈止に云く「力とは堪任を用と為す」文〉。如是作は身と心となり〈止に云く「建立を作と名づく」文〉。如是因は心なり〈止に云く「因とは果を招くを因と為す、亦名づけて業と為す」文〉。如是縁〈止に云く「縁とは縁は業を助くるに由る」文〉。如是果〈止に云く「果とは剋獲を果と為す」〉。如是報〈止に云く「報とは因に酬ゆるを報と曰ふ」〉。
如是本末究竟等〈玄二に云く「初めの相を本と為し、後の報を末と為す」〉。三種世間とは、五陰世間〈止に云く「十種の陰界不同なるを以ての故に、故に五陰世間と名づくるなり」文〉。衆生世間〈止に云く「十界の衆生寧ろ異ならざることを得んや、故に衆生世間と名づくなり」文〉。国土世間〈止に云く「十種の所居通じて国土世間と称す」文〉。五陰とは、新訳には五蘊と云ふなり。陰とは聚集の義なり。一に色陰、五色是れなり。二に受陰、領納是れなり。三に想陰、倶舎に云く「想は像を取るを体と為す」文。四に行陰、造作是れ行なり。五に識陰、了別是れ識なり。止の五に婆沙を引きて云く「識先づ了別し、次に受は領納し、想は相貌を取り、行は違従を起こし、色は行に由りて感ず」。/ 百界千如三千世間の事/ 十界互具即百界と成るなり。地獄〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、地下赤鉄〉。餓鬼〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、地下〉。畜生〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、水陸空〉。修羅〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、海畔底〉。人〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、須弥四洲〉。
天〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、宮殿〉。声聞〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、同居土〉。縁覚〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、同居土〉。菩薩〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、同居・方便・実報〉。仏〈衆生世間十如是〉五陰世間〈十如是〉国土世間〈十如是、寂光土〉。止観の五に云く「心と縁と合すれば則ち三種世間、三千の性相皆心より起こる」文。弘の五に云く「故に止観に正しく観法を明かすに至りて、並びに三千を以て指南と為す。乃ち是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に説己心中所行法門と云ふ。良に以(ゆえ)有るなり。請ふ、尋ね読まん者心に異縁無かれ」文。又云く「妙境の一念三千を明かさずんば 如何ぞ一に一切を摂することを識るべけん。三千は一念の無明を出でず。是の故に唯苦因苦果のみ有り」文。又云く「一切の諸業、十界・百界・千如・三千世間を出でず」文。籤の二に云く「仮は即ち衆生、実は即ち五陰及以(および)国土、即ち三世間なり。千の法は皆三なり。故に三千有り」文。弘の五に云く「一念の心に於て十界に約せざれば事を収むること遍からず。三諦に約せざれば理を摂すること周からず。十如を語らざれば因果備はらず。三世間無くんば依正尽きず」文。
記の一に云く「若し三千に非ざれば摂すること則ち遍からず。若し円の心に非ざれば三千を摂せず」文。玄の二に云く「但衆生法は太だ広く、仏法は太だ高し。初学に於て難しと為し、心は則ち易しと為す」文。弘の五に云く「初めに華厳を引くは、心は工みなる画師の如く種々の五陰を造る、一切世界の中に法として造らざること無し。心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり。心・仏及び衆生是の三差別無し。若し人三世一切の仏を求め知らんと欲せば、応当に是の如く観ずべし。心は諸の如来を造る」。金論に云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土なり」文。/ 三身の事/ 先づ法身とは、大師、大経を引きて「一切の世諦は若し如来に於ては即ち是れ第一義諦なり。衆生顛倒して仏法に非ずと謂へり」と釈せり。然れば則ち自他・依正・魔界仏界・染浄・因果は異なれども、悉く皆諸仏の法身に乖く事非ざれば、善星比丘が不信なりしも、楞伽王の信心に同じく、般若蜜外道が意の邪見なりしも、須達長者が正見に異ならず。即ち知んぬ、此の法身の本は衆生の当体なり。十方諸仏の行願は実に法身を証するなり。
次に報身とは、大師の云く「法如々の智、如々真実の道に乗じて、来たりて妙覚を成ず。智は如の理に称ふ、理に従ひて如と名づけ、智に従ひて来と名づく。即ち報身如来なり。盧舎那と名づけ、此れには浄満と翻ず」と釈せり。此れは如々法性の智・如々真実の道に乗じて妙覚究竟の理智法界と冥合したる時、理を如と名づく。智は来なり。
◆ 総在一念抄 〔C6・正嘉二年〕/ 釈籤六に云く「総は一念に在り別は色心を分つ」云云。問うて云く「総在一念」とは其れ何なる者ぞや。答へて云く、一偏に思ひ定め難しといへども、且く一義を存せば、衆生最初の一念なりと定む。心を止めて倩(つらつら)按ずるに、我等が最初の一念は無没無記と云ひて、善にも定まらず、悪にも定まらず、闇々湛々たる念なり、是れを第八識と云ふ。此の第八識は万法の総体にして、諸法総在して備はるが故に是れを総在一念と云ふ。但し是れは八識の事の一念なり。/ 此の一念動揺して一切の境界に向かふといへども所縁の境界を未だ分別せず、是れを第七識と云ふ。此の第七識又動揺し、出でて善悪の境に対して、悦ぶべきをば喜び、愁ふべきをば愁へて善悪の業を結ぶ、是れを第六識と云ふ。此の六識の業感じて来生の色報を獲得するなり。譬へば最初の一念は湛々たる水の如し。次に動揺して一切の境界に向かふとは、水の風に吹かれて動ずれども、波とも泡とも見分けざるが如し。又動揺して善悪の境界に対して喜ぶべきをば喜び、愁ふべきをば愁ふとは、水の波濤(なみ)と顕はれて高く立ち上るが如し。次に来生の色報を獲得するとは、波濤の岸に打ちあげられて、大小の泡となるが如し。泡消ゆるは我等が死に還るが如し。能く能く思惟すべし。
波と云ひ泡と云ふも一水の所為なり、是れは譬へなり。法に合はせば、最初の一念展転して色報を成す、是れを以て外に全く別に有るにあらず、心の全体が身体と成るなり。相構へて各別には意得べからず。譬へば是れ水の全体寒じて大小の氷となるが如し。仍って地獄の身と云ひて、洞然猛火の中の盛んなる焔となるも、乃至仏界の体と云ひて、色相荘厳の身となるも、只是れ一心の所作なり。之れに依りて悪を起こせば三悪の身を感じ、菩提心を発せば仏菩薩の身を感ずるなり。是れを以て一心の業感の氷にとぢられて、十界とは別れたるなり。故に十界は源其の体一にして只是れ一心なり。一物にて有りける間、地獄界に余の九界を具し、乃至仏界に又余の九界を具す。是の如く十界互ひに具して十界即百界と成るなり。此の百界の一界に各々十如是あるが故に百界は千如是となるなり。此の千如是を衆生世間にも具し、五陰世間にも具し、国土世間にも具せるが故に、千如是は即ち三千となれり。此の三千世間の法門は我等が最初の一念に具足して全く欠減無し。此の一念即色身となる故に、此の身は全く三千具足の体なり。是れを一念三千の法門と云ふなり。/ 之れに依りて地獄界とて恐るべきにあらず、仏界とて外に尊ぶべきにあらず、此の一身に具して事理円融せり。全く余念無く不動寂静の一念に住せよ。
上に云ふところの法門、是れを観ずるを実相観と云ふなり。余念は動念なり、動念は無明なり、無明は迷ひなり。此の観に住すれば、此の身即本有の三千と照らすを仏とは云ふなり。是れを以て妙楽大師云く「当に知るべし、身土は一念の三千なり、故に成道の時、此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」云云。若し此の観に堪へざる人は余の観に移りて最初の一念の起こる心を観ずべし。起こる心とは寂静の一念動じて迷ひ初むる心なり。此の動の念は全く三諦なり。三諦とは心の体は中なり、起こる所の念は仮なり、念に自性無きは空なり。此の三観成就する時、動ずる念は即ち不動念と成るなり。是の無明即明と観ずるを唯識観と云ふなり。縦ひ唯識観を成ずといへども終には実相観の人に成るなり。故に義例〈妙楽釈〉に云く「本末相映じ事理不二なり」と云へり。本とは実相観、末とは唯識観、事とは唯識観、理とは実相観なり。此の不思議観成ずる時、流転生死一時に断壊(だんね)して果位に登るなり。是れを事理体一の不思議の総在一念と云ふなり。/ 此の性具を顕はして観音は三十三身を顕はし、此の理具を照らして妙音は三十四身を現ずる者なり。若し然らずんは仏の分身、薩の化身、之れを現ずるに由無し。
又此の理を得ざる時は胎金両部の千二百余尊、大日の等流身・変化身も更に以て意得難し。是等の法門は性具の一念の肝要なり。秘蔵すべし、秘蔵すべし。此の一念三千を天台釈して云く「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已(や)みなん。介爾も心有れば即ち三千を具す」云云。介爾とは妙楽釈して云く「細念を謂ふなり」云云。意はわづかにと云ふなり。仍って意得べき様は、次第を以て云ふ時は一心は本、十界は末なり、是れ思議の法門なり。不思議を以て云ふ時は、一心の全体十界三千と成る故に、取り別かつべき物にもあらず、表裏も之れ無し。一心即三千、三千即一心なり。譬へば不覚の人は氷の外に水ある様に是れを思ふ。能く能く心得る人は氷即水なり。故に一念と三千と差別無く一法と心得べし。仍って天台釈して云く「只心是れ一切法、一切法是れ心なり。故に縦に非ず横に非ず、一に非ず異に非ず、玄妙深絶なり。識の識る所に非ず、言の言ふ所に非ず、所以に称して不可思議境と為す。意茲に在り」云云。故に一念は一念に非ず即ち三千なり、三千は三千に非ず即ち一念なり。之れに依りて事理体一修性不二の法門なり。
此の一念三千の不思議は国土世間に三千を具するが故に、草木瓦石も皆本有の三千を具して円満の覚体なり。然れば即ち我等も三千を具するが故に本有の仏体なり。仍って無間地獄の衆生も三千を具し、妙覚の如来と一体にして差別無きなり。是れを以て提婆が三逆の炎、忽ちに天王如来の記を蒙る。地獄すら尚爾なり、何に況や余の九界をや。心智都(すべ)て滅せる二乗すら尚成仏す、何に況や余の八界をや。/ 故に十界の草木等も一々に本有の三千の仏体にして、悪心悪法と云ひて捨つべき物之れ無く、善心善法と云ひて取るべき物之れ無し。故に今の経には此の理を説き顕はすが故に妙法蓮華経とは題するなり。妙法とは十界の草木等に三千を具す、一法として捨つべき物なきが故なり。蓮華とは此の理を悟る人は必ず仏と等しく蓮華の台(うてな)に処し、蓮華を以て身を荘厳し、蓮華を以て国土をかざる故に云ふなり。知んぬ、此の身即ち三世の諸仏の体なり。若し此の理を得ざる者をば仏種とは名づけず。故に妙楽釈して云く「若し正境に非ずんば縦ひ妄偽無けれども亦種と成らず」云云。爰に知んぬ、法華以前の諸経は権法を説き交ゆるが故に、塵劫を経歴して受持すとも仏種となるべからず、仏智を説き顕はさざるが故なり。
仏智を説かざるが故に、悪人女人成仏すとは云はず。故に天台釈して云く「他経は但菩薩に記して二乗に記せず。但善に記して悪に記せず。但男に記して女に記せず。但人天に記して畜に記せず。今経は皆記すなり」云云。妙楽釈して云く「縦ひ経有りて諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はず。兼但対帯其の義知んぬべし」云云。此の釈の如くんば爾前の諸経は方便にして成仏の直因に非ざるなり。問うて云く、法華以前の諸経の中に円教と云ひて殊勝の法門を説く、何ぞ強ちに爾前の諸経をば仏の種子と成らずと之れを簡ぶや。答へて云く、円教を説くといへども、彼の円は仏の種子を失へる声聞・縁覚・悪人・女人を成仏すと説かざるが故に円教の至極にあらず。究竟に非ざるが故に仏意を挙げず、故に又仏智にもあらず。されば成仏の種子に非ざるなり。之れに依りて諸経をば法華に対して皆簡ぶなり。爰を以て大師の云く「細人・麁人二倶に過を犯し、過の辺に従ひて説いて倶に麁人と名づく」云云。仍って余経をば妙法蓮華経と名づけざるなり。/ 問うて云く、一文不通の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。答ふ、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先づ口業の功徳を成就せり。
若し功徳成就すれば仏の種子むねの中に収めて必ず出離の人と成るなり。此の経の諸経に超過する事は誹謗すら尚逆縁と説く、不軽軽毀の衆是れなり。何に況や信心を致す順縁の人をや。故に伝教大師云く「信謗彼此決定成仏」等云云。/ 問うて云く、成仏の時の三身とは其の義 如何。答ふ、我が身の三千円融せるは法身なり。此の理を知り極めたる智恵の身と成るを報身と云ふなり。此の理を究竟して、八万四千の相好より虎狼野干の身に至るまで、之れを現じて衆生を利益するを応身と云ふなり。此の三身を法華経に説いて云く「如是相如是性如是体」云云。相は応身、性は報身、体は法身なり。此の三身は無始より已来我等に具足して欠減なし。然りと雖も迷ひの雲に隠されて是れを見ず。悟りの仏と云ふは此の理を知る法華経の行者なり。此の三身は昔は迷ひて覚らず知らず、仏の説法に扣かれて近く覚りたりと説くをば迹門と云ふなり。此の三身の理をば我等具足して一分も迷はず、三世常住にして遍せざる所無しと説くをば本門と云ふなり。若し爾らば、本迹は只久近の異にして其の法体全く異ならず。是れを以て天台釈して云く「本迹殊なりと雖も不思議一なり」云云。
悟りとは只此の理体を知るを悟りと云ふなり。譬へば庫蔵の戸を開きて宝財を得るが如し。外より来たらず。一心の迷ひの雲晴れぬれば、三世常住の三身三諦の法体なり。鏡に塵積もりぬれば形現ぜず、明らかなれば万像を浮かぶるが如し。塵の去る事は人の磨くによる、像の浮かぶ事は磨くに非ずばならじ。若し爾れば転迷覚悟は行者の所作による。三千三諦三身の理体は全く人の所作に非ず、只是れ本有なり。又迷ひを修行する事は人の作(わざ)なりといへども、但迷ひの去る処を見ざるなり。百年の闇室に火をともすが如し、全く闇の去るところを見ず。是れ転迷覚悟返流尽源なり。無明即明は唯迷悟に名づけ、無明法性は全く其の体一なり。穴賢穴賢。各別には心得べからず。若し迷悟異体と心得るならば成仏の道遼遠(りょうえん)ならん事、一須弥より一須弥に至るが如し。本より不二なる理体に迷ふが故に衆生と云ひ、是れを悟るを仏と云ふなり。よくよく此の大旨を心得て失錯(しっさく)あるべからざるなり。我等が生死の一大事なり、出離の素懐なり。豈に宝山に入りて手を空しくせんや。後悔千万すとも敢へて益無し。閻魔の責め、獄卒の杖は全く人を選ばず只罪人を打つ。
若し人間に生まれて其の難処を去らざれは、百千万劫を経歴すとも仏法の名字を聞かず、三界に昇沈して六道流浪の身となるべし。出離の要法を聞かざる事悲しむべし悲しむべし。恐るべし恐るべし。獄卒阿防羅刹の責めを蒙らん事を。/ 日蓮花押
◆ 武蔵殿御消息 〔C3・正元元年・武蔵公御房〕/ 摂論三巻は給はり候へども、釈論等の各疏候はざるあひだ事ゆかず候。をなじくは給はり候ひてみあわす(見合)べく候。見参の事いつにてか候べき。仰せをかほり候はん。八講はいつにて候やらん。/ 七月十七日  日蓮花押/ 武蔵殿御房
◆ 十住毘婆娑論尋出御書 〔C6・正元元年一〇月一四日・武蔵公御房〕/ 昨日武蔵前司殿の使ひとして念仏者等召し相はせられて候ひしなり。又十郎の使ひにて候はんずるか。十住毘婆沙論を内々見るべき事候。万事を抛ちて尋ね出だし給ひ候はん。諸事、此れ程の大事不□歟。/ 十月十四日  日蓮花押/ 武蔵公御房/ 十住毘婆沙論十四巻拝上せしむ。今一巻は求め失せ候なり。御要以後は早々返し給ふべく候。愚身も必々参り候ひて承るべく候。昨日の論談は難眼、座席に列せざる歎き、五十展転の随喜の事、誠に以て有り難く候。又袴品賜はるべし。穴賢穴賢。恐々。/ 十月十一日  日蓮(花押)/ 日蓮阿闍梨御房 通達房之れを証す。止観八口決之木火土金水云云。謂く五星変じて彗星と為る云云。然らざる由、之れを料簡せば通達房之れを摂伏す。
◆ 守護国家論 〔C3・正元元年〕/ 夫れ以みれば偶(たまたま)十方微塵の三悪の身を脱れて希に閻浮日本に爪上の生を受く。亦閻浮日域の爪上の生を捨てて十方微塵三悪の身を受けんこと疑ひ無きものなり。然るに生を捨てて悪趣に堕するの縁一に非ず。或は妻子眷属の哀憐に依り、或は殺生悪逆の重業に依り、或は国主と成りて民衆の歎きを知らざるに依り、或は法の邪正を知らざるに依り、或は悪師を信ずるに依る。此の中に於ても世間の善悪は眼前に在れば愚人も之れを弁ふべし。仏法の邪正、師の善悪に於ては証果の聖人すら尚之れを知らず。況や末代の凡夫に於てをや。加之(しかのみならず)仏日西山に隠れ余光東域を照らしてより已来、四依の恵灯は日に減じ三蔵の法流は月に濁る。実経に迷へる論師は真理の月に雲を副へ、権経に執する訳者は実経の珠を砕きて権経の石と成す。何に況や震旦の人師の宗義其の誤り無からんや。何に況や日本辺土の末学誤りは多く実は少なき者か。随って其の教を学する人数は竜鱗より多けれども得道の者は麟角より希なり。或は権教に依るが故に、或は時機不相応の教に依るが故に、或は凡聖の教を弁へざるが故に、或は権実二教を弁へざるが故に、或は権教を実教と謂(おも)ふに依るが故に、或は位の高下を知らざるが故になり。
凡夫の習ひ仏法に就きて生死の業を増すこと其の縁一に非ず。中昔(なかむかし)邪智の上人有りて末代の愚人の為に一切の宗義を破して選択集一巻を造る。名を鸞・綽・導の三師に仮りて一代を二門に分かち、実経を録して権経に入れ、法華真言の直道を閉ぢて浄土三部の隘路(あいろ)を開く。亦浄土三部の義にも順ぜずして権実の謗法を成し、永く四聖の種を断じて阿鼻の底に沈むべき僻見なり。而るに世人之れに順ふこと譬へば大風の小樹の枝を吹くが如く、門弟此の人を重んずること天衆の帝釈を敬ふに似たり。此の悪義を破らんが為に亦多くの書有り。所謂 浄土決義抄・弾選択・摧邪輪等なり。此の書を造る人、皆碩徳(せきとく)の名一天に弥(はびこ)ると雖も、恐らくは未だ選択集謗法の根源を顕はさず、故に還りて悪法の流布を増す。譬へば盛んなる旱魃の時に小雨を降らせば草木弥(いよいよ)枯れ、兵者を打つ刻みに弱き兵を先にすれば強敵倍(ますます)力を得るが如し。予此の事を歎く間、一巻の書を造りて選択集謗法の縁起を顕はし、名づけて守護国家論と号す。願はくは一切の道俗、一時の世事を止めて永劫の善苗を種えよ。今経論を以て邪正を直す。信謗は仏説に任せ敢へて自義を存すること無し。
分かちて七門と為す。一には如来の経教に於て権実二教を定むることを明かし。二には正像末の興廃を明かし、三には選択集の謗法の縁起を明かし、四には謗法の者を対治すべき証文を出だすことを明かし、五には善知識並びに真実の法には値ひ難きことを明かし、六には法華涅槃に依る行者の用心を明かし、七には問ひに随ひて答へを明かす。/ 大文の第一に、如来の経教に於て権実二教を定むることを明かさば、此れに於て四有り。一には大部の経の次第を出だして流類を摂することを明かし、二には諸経の浅深を明かし、三には大小乗を定むることを明かし、四には且く権を捨てて実に就くべきことを明かす。/ 第一に大部の経の次第を出だして流類を摂することを明かさば、問うて云く、仏最初に何なる経を説きたまふや。答へて云く、華厳経なり。問うて云く、其の証 如何。答へて云く、六十華厳経の離世間浄眼品に云く「是の如く我聞く、一時仏摩竭提国寂滅道場に在りて始めて正覚を成ず」。法華経の序品に放光瑞の時、弥勒菩薩十方世界の諸仏の五時の次第を見る時、文殊師利菩薩に問うて云く「又諸仏聖主師子経典の微妙第一なることを演説したまふ。其の声清浄に柔軟の音を出だして諸の菩薩を教へたまふこと無数億万なるを覩る」。
亦方便品に仏自ら初成道の時を説いて云く「我始め道場に坐し樹を観じ亦経行して、乃至、爾の時に諸の梵王及び諸の天帝釈・護世四天王及び大自在天並びに余の諸の天衆眷属百千万、恭敬合掌し礼して我に転法輪を請ず」。此等の説は法華経に華厳経の時を指す文なり。故に華厳経の第一に云く「毘沙門天王〈略〉月天子〈略〉日天子〈略〉釈提桓因〈略〉大梵〈略〉摩醯首羅等〈略〉」已上。涅槃経に華厳経の時を説いて云く「既に成道し已りて梵天勧請すらく、唯願はくは如来当に衆生の為に広く甘露の門を開き給ふべし。乃至梵王復言く、世尊一切衆生に凡そ三種有り、所謂 利根・中根・鈍根なり。利根は能く受く、唯願はくは為に説き給へ。仏言く、梵王諦らかに聴け諦らかに聴け。我今当に一切衆生の為に甘露の門を開くべし」。亦三十三に華厳経の時を説いて云く「十二部経修多羅の中の微細の義を我先に已に諸の菩薩の為に説くが如し」。此の如き等の文は皆諸仏世に出で給ひて一切経の初めには必ず華厳経を説き給ひし証文なり。/ 問うて云く、無量義経に云く「初めに四諦を説き、乃至、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く」。此の文の如くんば般若経の後に華厳経を説けり。相違 如何。
答へて云く、浅深の次第なるか、或は後分の華厳経なるか。法華経の方便品に一代の次第浅深を列ねて云く「余乗〈華厳経なり〉若しは二〈般若経なり〉若しは三〈方等経なり〉有ること無し」、此の意なり。問うて云く、華厳経の次に何れの経を説き給ふや。答へて曰く、阿含経を説き給ふなり。問うて云く、何を以て之れを知るや。答へて云く、法華経の序品に華厳経の次の経を説いて云く「若し人苦に遭ひて老病死を厭ふには為に涅槃を説く」。方便品に云く「即ち波羅奈に趣き、乃至、五比丘の為に説く」。涅槃経に華厳経の次の経を定めて云く「即ち波羅奈国に於て正法輪を転じて中道を宣説す」。此等の経文は華厳経より後に阿含経を説くなり。/ 問うて云く、阿含経の後に何れの経を説き給ふや。答へて曰く、方等経なり。問うて云く、何を以て之れを知るや。答へて云く、無量義経に云く「初めに四諦を説き、乃至、次に方等十二部経を説く」。涅槃経に云く「修多羅より方等を出だす」。問うて云く、方等とは天竺の語、此には大乗と云ふなり。華厳・般若・法華・涅槃等皆大乗方等なり。何ぞ独り方等部に限りて方等の名を立つるや。答へて曰く、実には華厳・般若・法華等皆方等なり。然りと雖も今方等部に於て別して方等の名を立つることは私の義に非ず。無量義経・涅槃経の文に顕然たり。
阿含の証果は一向小乗なり。次に大乗を説く。方等より已後皆大乗と云ふと雖も、大乗の始めなるが故に初めに従ひて方等部を方等と云ふなり。例せば十八界の十半は色なりと雖も、初めに従ひて色境の名を立つるが如し。/ 問うて曰く、方等部の諸経の後には何れの経を説き給ふや。答へて曰く、般若経なり。問うて曰く、何を以て之れを知るや。答へて曰く、涅槃経に云く「方等より般若を出だす」。問うて曰く、般若経の後には何れの経を説き給ふや。答へて曰く、無量義経なり。問うて曰く、何を以て之れを知るや。答へて曰く、仁王経に云く「二十九年中」。無量義経に云く「四十余年」。問うて曰く、無量義経には般若経の後に華厳経を列ね、涅槃経には般若経の後に涅槃経を列ぬ。今の所立の次第は般若経の後に無量義経を列ぬ、相違 如何。答へて曰く、涅槃経第十四の文を見るに、涅槃経已前の諸経を列ねて涅槃経に対して勝劣を論じて法華経を挙げず。第九の巻に於て法華経は涅槃経より已前なりと之れを定め給ふ。法華経の序品を見るに無量義経は法華経の序分なり。無量義経には般若の次に華厳経を列ぬれども、華厳経を初時に遣れば般若経の後は無量義経なればなり。
問うて曰く、無量義経の後に何れの経を説き給ふや。答へて曰く、法華経を説き給ふなり。問うて曰く、何を以て之れを知るや。答へて曰く、法華経の序品に云く「諸の菩薩の為に、大乗経の無量義、教菩薩法、仏所護念と名づくるを説き給ふ。仏此の経を説き已りて結跏趺坐し無量義処三昧に入る」。問うて曰く、法華経の後に何れの経を説きたまふや。答へて曰く、普賢経を説き給ふなり。問うて曰く、何を以て之れを知るや。答へて曰く、普賢経に云く「却って後三月我当に般涅槃すべし。乃至、如来昔耆闍崛山及び余の住処に於て已に広く一実の道を分別す。今も此処に於てす」。問うて曰く、普賢経の後に何れの経を説き給ふや。答へて曰く、涅槃経を説き給ふなり。問うて曰く、何を以て之れを知るや。答へて曰く、普賢経に云く「却って後三月我当に般涅槃すべし」。涅槃経三十に云く「如来何が故ぞ二月に涅槃したまふや」。亦云く「如来の初生・出家・成道・転妙法輪皆八日を以てす。何ぞ仏の涅槃独り十五日なるや」。大部の経大概是の如し。此れより已外諸の大小乗経は次第不定なり。或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く。皆義類を以て之れを収めて一処に置くべし。
第二に諸経の浅深を明かさば、無量義経に云く「初めに四諦を説き〈阿含〉、次に方等十二部経摩訶般若華厳海空を説き、菩薩の歴劫修行を宣説す」。亦云く「四十余年未だ真実を顕はさず」。又云く「無量義経は尊にして過上無し」。此の如き等の文は四十余年の諸経は無量義経に劣ること疑ひ無き者なり。問うて曰く、密厳経に云く「一切の経中に勝れたり」。大雲経に云く「諸経の転輪聖王なり」。金光明経に云く「諸経の中の王なり」。此等の文を見るに諸大乗経の常の習ひなり。何ぞ一文を瞻(み)て無量義経は四十余年の諸経に勝ると云ふや。答へて云く、教主釈尊若し諸経に於て互ひに勝劣を説かば、大小乗の差別・権実の不同有るべからず。若し実に差別無きに互ひに差別浅深等を説かば諍論の根源、悪業起罪の因縁なり。爾前の諸経の第一とは縁に随ひて不定なり。或は小乗の諸経に対して第一と、或は報身の寿を説いて諸経の第一と、或は俗諦真諦中諦等を説いて第一なりと。一切の第一に非ず。今の無量義経の如きは四十余年の諸経に対して第一なり。/ 問うて云く、法華経と無量義経と何れか勝れたるや。答へて云く、法華経勝れたり。
問うて云く、何を以て之れを知るや。答へて云く、無量義経には未だ二乗作仏と久遠実成とを明かさず。故に法華経に嫌はれて今説の中に入るなり。問うて云く、法華経と涅槃経と何れか勝れたるや。答へて云く、法華経勝るるなり。問うて曰く、何を以て之れを知るや。答へて曰く、涅槃経に自ら「如法華中」等と説いて「更無所作」と云ふ。法華経に当説を指して「難信難解」と云はざるが故なり。問うて云く、涅槃経の文を見るに涅槃経已前をば皆邪見なりと云ふ 如何。答へて云く、法華経は如来出世の本懐なる故に「今者已満足」、「今正是其時」、「然善男子 我実成仏已来」等と説く。但し諸経の勝劣に於ては仏自ら「我所説経典 無量千万億」なりと挙げ了りて「已説・今説・当説」等と説く時、多宝仏、地より涌現して「皆是真実」と定め、分身の諸仏は舌相を梵天に付けたまふ。是の如く諸経と法華経との勝劣を定め了んぬ。此の外釈迦如来一仏の所説なれば、先後の諸経に対して法華経の勝劣を論ずべきに非ず。故に涅槃経に諸経を嫌ふ中に法華経を入れず、法華経は諸経に勝るる由、之れを顕はす故なり。但し邪見の文に至りては、法華経を覚知せざる一類の人、涅槃経を聞いて悟りを得る故に、迦葉童子、自身並びに所引を指して涅槃経より已前を邪見等と云ふなり。経の勝劣を論ずるには非ず。
第三に、大小乗を定むることを明かさば、問うて云く、大小乗の差別 如何。答へて云く、常途の説の如くんば阿含部の諸経は小乗なり。華厳・方等・般若・法華・涅槃等は大乗なり。或は六界を明かすは小乗、十界を明かすは大乗なり。其の外法華経に対して実義を論ずる時、法華経より外の四十余年の諸大乗経は皆小乗にして法華経は大乗なり。問うて云く、諸宗に亘りて我が拠る所の経を実大乗と謂ひ、余宗の拠る所の経を権大乗と云ふこと常の習ひなり。末学に於て是非定め難し。未だ法華経に対して諸大乗経を小乗と称する証文を聞知せず 如何。答へて云く、宗々の立義互ひに是非を論ず。就中 末法に於て世間出世に就きて非を先とし是れを後とす。自ら是非を知らず愚者の歎ずべき所なり。但し且く我等が智を以て四十余年の現文を看るに、此の文を破る文無ければ人の是非を信用すべからざるなり。其の上法華経に対して諸大乗経を小乗と称することは自答を存すべきに非ず。法華経の方便品に云く「仏は自ら大乗に住し給へり。乃至、自ら無上道大乗平等の法を証す。若し小乗を以て化すること乃至一人に於てもせば我則ち慳貪に堕せん。此の事は為(さだ)めて不可なり」。此の文の意は、法華経より外の諸経を皆小乗と説けるなり。
亦寿量品に云く「小法を楽ふ」。此等の文は法華経より外の四十余年の諸経を皆小乗と説けるなり。天台・妙楽の釈に於て四十余年の諸経を小乗なりと釈すとも他師之れを許すべからず。故に但経文を出だすなり。/ 第四に、且く権経を閣きて実経に就くことを明かさば、問うて云く、証文 如何。答へて曰く、十の証文有り。法華経に云く「但楽ひて大乗経典を受持して、乃至余経の一偈をも受けざれ」〈是一〉。涅槃経に云く「了義経に依りて不了義経に依らざれ」〈四十余年を不了義経と云ふ。是二〉。法華経に云く「此の経は持ち難し。若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏も亦然なり。是の如きの人は諸仏の歎めたまふ所なり。是れ則ち勇猛なり、是れ則ち精進なり、是れを戒を持ち頭陀を行ずる者と名づく」〈末代に於て四十余年の持戒無く唯法華経を持つを持戒と為す。是三〉。涅槃経に云く「乗に緩なる者に於ては乃ち名づけて緩と為す。戒に緩なる者に於ては名づけて緩と為さず。菩薩摩訶薩此の大乗に於て心懈慢せずんば是れを奉戒と名づく。正法を護るが為に大乗の水を以て自ら澡浴す。是の故に菩薩破戒を現ずと雖も名づけて緩と為さず」〈此の文は法華経の戒を流通する文なり。是四〉。
法華経第四に云く「妙法華経 乃至 皆是真実」〈此の文は多宝の証明なり。是五〉。法華経第八普賢菩薩の誓ひに云く「如来の滅後に於て、閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」〈是六〉。法華経第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に於て断絶せしむること無けん」〈釈迦如来の誓ひなり。是七〉。法華経第四に多宝並びに十方諸仏来集の意趣を説いて云く「法をして久しく住せしめんが故に此に来至し給へり」〈是八〉。法華経第七に法華経を行ずる者の住処を説いて云く「如来の滅後に於て、当に一心に受持・読・誦・解説・書写して説の如く修行すべし。所在の国土に乃至若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在りても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆塔を起てて供養すべし。所以は何ん。当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得」〈是九〉。法華経の流通たる涅槃経の第九に云く「我涅槃の後、正法未だ滅せず、余の八十年の爾の時、是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし。是の時当に諸の悪比丘有りて是の経を抄掠し、分かちて多分と作し、能く正法の色香美味を滅すべし。
是の諸の悪人復是の如き経典を読誦すと雖も、如来深密の要義を滅除して、世間荘厳の文飾無義の語を安置し、前を抄して後に著け、後を抄して前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。当に知るべし。是の如き諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり。乃至譬へば牧牛女の多く水を加ふる乳の如し。諸の悪比丘も亦復是の如し。雑ふるに世語を以てし錯(あやま)りて是の経を定む。多くの衆生をして正説・正写・正取・尊重・讃歎・供養・恭敬することを得ざらしむ。是の悪比丘は利養の為の故に是の経を広宣流布すること能はず。分流すべき所少なくして言ふに足らざること彼の牧牛貧窮の女人展転して乳を売り乃至糜と成すに乳味無きが如し。是の大乗経典大涅槃経も亦復是の如し。展転し薄淡にして気味有ること無し。気味無しと雖も猶余経に勝ること是れ一千倍なること彼の乳味の諸の苦味に於て千倍勝るると為すが如し。何を以ての故に。是の大乗経典大涅槃経は声聞の経に於て最も為れ上首たり」〈是十〉。/ 問うて云く、不了義経を捨てて了義経に就くとは、大円覚修多羅了義経・大仏頂如来密因修証了義経、是の如き諸大乗経は皆了義経なり。依用と為すべきや。答へて曰く、了義・不了義は所対に随ひて不同なり。二乗・菩薩等の所説の不了義に対すれば一代の仏説は皆了義なり。
仏説に就きて亦小乗経は不了義、大乗経は了義なり。大乗に就きて又四十余年の諸経は不了義経、法華・涅槃・大日経等は了義経なり。而るに円覚・大仏頂等の諸経は小乗及び歴劫修行の不了義経に対すれば了義経なり。法華経の如き了義には非ざるなり。/ 問うて曰く、華厳・法相・三論等、天台・真言より以外の諸宗の高祖、各其の依憑の経々に依りて其の経々の深義を極めたりと欲(おも)へり。是れ爾るべきや 如何。答へて云く、華厳宗の如きは、華厳経に依りて諸経を判じて華厳経の方便と為すなり。法相宗の如きは、阿含・般若等を卑しめ、華厳・法華・涅槃を以て深密経に同じ、同じく中道教と立つると雖も、亦法華・涅槃は一類の一乗を説くが故に不了義経なり。深密経には五性各別を存するが故に了義経と立つるなり。三論宗の如きは、二蔵を立てて一代を摂し、大乗に於て浅深を論ぜず。而も般若経を以て依憑と為す。此等の諸宗の高祖多分は四依の菩薩なるか、定めて所存有らん、是非に及ばず。然りと雖も自身の疑ひを晴らさんが為に且く人師の異解を閣きて諸宗の依憑の経々を開き見るに、華厳経は旧訳は五十・六十、新訳は八十・四十なり。其の中に法華・涅槃の如く一代聖教を集めて方便と為すの文無し。
四乗を説くと雖も、其の中の仏乗に於て十界互具久遠実成を説かず。但し人師に至りて五教を立てて先の四教に諸経を収めて華厳経の方便と為す。法相宗の如きは、三時教を立つる時法華等を以て深密経に同ずと雖も、深密経五巻を開き見るに全く法華等を以て中道の内に入れず。三論宗の如きは、二蔵を立つる時、菩薩蔵に於て華厳・法華等を収め般若経に同ずと雖も、新訳の大般若経を開き見るに全く大般若を以て法華・涅槃に同ずるの文無し。華厳は頓教、法華は漸教等とは人師の意楽にして仏説に非ざるなり。法華経の如きは、序分の無量義経に慥かに「四十余年」の年限を挙げ、華厳・方等・般若等の大部の諸経の題名を呼びて「未顕真実」と定め、正宗の法華経に至りて一代の勝劣を定むる時、「我が所説の経典は無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん」の金言を吐きて「而も其の中に於て此の法華経は最も為(こ)れ難信難解なり」と説きたまふ時、多宝如来、地より涌出し妙法華経皆是真実と証誠し、分身の諸仏十方より尽く一処に集まりて舌を梵天に付けたまふ。今此の義を以て余(われ)推察を加ふるに、唐土日本に渡れる所の五千七千余巻の諸経以外の、天竺・竜宮・四王天・過去の七仏等の諸経並びに阿難の未結集の経、十方世界の塵に同ずる諸経の勝劣・浅深・難易掌中に在り。
「無量千万億」の中に豈に釈迦如来の所説の諸経漏るべきや。已説・今説・当説の年限に入らざる諸経之れ有るべきや。/ 願はくは末代の諸人且く諸宗の高祖の弱文無義を閣きて、釈迦・多宝・十方諸仏の強文有義を信ずべし。何に況や諸宗の末学の偏執を先と為し、末代の愚者の人師を本と為して経論を抛つ者に依憑すべきや。故に法華の流通たる双林最後の涅槃経に仏迦葉童子菩薩に遺言して言く「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ、智に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ」云云。予世間を見聞するに、自宗の人師を以て三昧発得智恵第一と称すれども無徳の凡夫にして、実経に依りて法門を信ぜしめず、不了義の観経等を以て時機相応の教と称し、了義の法華・涅槃を閣きて、譏りて理深解微の失を付く。如来の遺言に背きて、「人に依りて法に依らざれ、語に依りて義に依らざれ、識に依りて智に依らざれ、不了義経に依りて了義経に依らざれ」と談ずるに非ずや。請ひ願はくは心有らん人は思惟を加へよ。如来の入滅は既に二千二百余の星霜を送れり。文殊・迦葉・阿難、経を結集して已後、四依の菩薩重ねて世に出でて論を造り経の意を申ぶ。
末の論師に至りて漸く誤り出来す。亦訳者に於ても梵・漢未達の者有り。権教宿習の人は、実の経論の義を曲げて権の経論の義を存せり。之れに就きて亦唐土の人師、過去の権教の宿習の故に権の経論心に叶ふ間、実の経論を用ゐず。或は少し自義に違ふ文有れば理を曲げて会通を構へ、以て自身の義に叶はしむ。設ひ後に道理と念ふと雖も、或は名利に依り、或は檀那の帰依に依りて、権宗を捨てて実宗に入らず。世間の道俗亦無智の故に理非を弁へず。但人に依りて法に依らず。設ひ悪法たりと雖も多人の邪義に随ひて一人の実説に依らず。而るに衆生の機多くは流転に随ひ、設ひ出離を求むとも亦多分は権経に依る。但恨むらくは悪業の身、善に付け悪に付け生死を離れ難きのみ。/ 然りと雖も今の世の一切の凡夫設ひ今生を損すと雖も、上に出だす所の涅槃経第九の文に依りて且く法華・涅槃を信ぜよ。其の故は世間の浅事すら多く展転する時は虚は多く実は少なし。況や仏法の深義に於てをや。如来の滅後二千余年の間、仏経に邪義を副へ来たり、万に一も正義無きか。一代の聖教多分は誤り有るか。所以に心地観経の法爾無漏の種子、正法華経の属累の経末、婆沙論の一十六字、摂論の識を八・九に分かつ、法華論と妙法華経との相違、涅槃論の法華煩悩に汚さるるの文、法相宗の定性無性の不成仏、摂論宗の法華経の一称南無の別時意趣、此等は皆訳者人師の誤りなり。
此の外に亦四十余年の経々に於て多くの誤り有るか。設ひ法華・涅槃に於て誤り有るも誤り無きも、四十余年の諸経を捨てて法華・涅槃に随ふべし。其の証上に出だし了んぬ。況や誤り有る諸経に於て信心を致す者生死を離るべきや。/ 大文の第二に、正像末に就きて仏法の興廃有ることを明かさば、之れに就きて二有り。一には爾前四十余年の内の諸経と浄土の三部経との末法に於ける久住・不久住を明かし、二には法華・涅槃と浄土の三部経並びに諸経との久住・不久住を明かす。/ 第一に、爾前四十余年の内の諸経と浄土の三部経との末法に於ける久住・不久住を明かさば、問うて云く、如来の教法は大小・浅深・勝劣を論ぜず、但時機に依りて之れを行ぜば定めて利益有るべきなり。然るに賢劫・大術・大集等の諸経を見るに仏滅後二千余年已後は仏法皆滅して但教のみ有りて行証有るべからず。随って伝教大師の末法灯明記を開くに「我延暦二十年〈辛巳〉一千七百五十歳」〈一説なり〉。延暦二十年より已後亦四百五十余歳なり。既に末法に入れり。設ひ教法有りと雖も行証無けん。然るに於ては仏法を行ずる者、万が一も得道有り難きか。
然るに双観経の「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍して、特り此の経を留めて止住すること百歳ならん。其れ衆生の斯の経に値ふこと有らん者は、意の所願に随ひて皆得度すべし」等の文を見るに、釈迦如来一代の聖教皆滅尽の後、唯特り双観経の念仏のみを留めて衆生を利益すべしと見え了んぬ。此の意趣に依りて粗浄土家の諸師の釈を勘ふるに其の意無きに非ず。道綽禅師は「当今末法は是れ五濁悪世なり。唯浄土の一門のみ有りて通入の路なるべし」と書し、善導和尚は「万年に三宝滅して此の経のみ住すること百年なり」と宣べ、慈恩大師は「末法万年に余経悉く滅し、弥陀の一教利物偏に増す」と定め、日本国の叡山の先徳恵心僧都は一代聖教の要文を集め末代の指南を教ふる往生要集の序に云く、「夫れ往生極楽の教行は濁世末代の目足なり。道俗貴賤誰か帰せざる者あらん。但し顕密の教法は其の文一に非ず。事理の業因其の行惟(これ)多し。利智精進の人は未だ難しと為ず。予が如き頑魯(がんろ)の者豈に敢へてせんや」。乃至次下に云く「就中 念仏の教は多く末代経道滅尽して後の濁悪の衆生を利する計りなり」。/ 総じて諸宗の学者も此の旨を存すべし。殊に天台一宗の学者誰か此の義に背くべけんや 如何。
答へて云く、爾前四十余年の経々は各時機に随ひて而も興廃有るが故に、多分は浄土の三部経より已前に滅尽有るべきか。諸経に於ては多く三乗現身の得道を説く。故に末代に於ては現身得道の者之れ少(まれ)なり。十方の往生浄土は多くは末代の機に蒙らしむ。之れに就きて、西方極楽は娑婆隣近なるが故に、最下の浄土なるが故に、日輪東に出で西に没するが故に諸経に多く之れを勧む。随って浄土の祖師のみ独り此の義を勧むるに非ず。天台・妙楽等も亦爾前の経に依るの日は且く此の筋有り。亦独り人師のみに非ず、竜樹・天親も此の意有り。是れ一義なり。亦仁王経等の如きは浄土の三部経より尚久しく末法万年の後八千年住すべしと。故に爾前の諸経に於ては一定すべからず。/ 第二に、法華・涅槃と浄土の三部経との久住・不久住を明かさば。問うて云く、法華・涅槃と浄土の三部経と何れか先に滅すべきや。答へて云く、法華・涅槃より已前に浄土の三部経は滅すべきなり。問うて云く、何を以て之れを知るや。答へて云く、無量義経に四十余年の大部の諸経を挙げ了りて「未顕真実」と云ふ。故に双観経等の「特り此の経を留む」の言、皆方便なり、虚妄なり。華厳・方等・般若・観経等の速疾・歴劫の往生・成仏は無量義経の実義を以て之れを検ふるに、「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず。乃至、険径を行くに留難多きが故に」といふ経なり。
往生・成仏倶に別時意趣なり。大集・双観経等の住滅の先後は皆随宜の一説なり。法華経に来たらざる已前は彼の外道の説に同じ。譬へば江河の大海に趣かず、民臣の大王に随はざるが如し。身を苦しめ行を作すとも法華・涅槃に至らずんば一分の利益無く、有因無果の外道なり。在世滅後倶に教有りて人無く、行有りて証無きなり。諸木は枯るると雖も松柏は萎まず。衆草は散ると雖も鞠竹は変ぜず。法華経も亦復是の如し。釈尊の三説・多宝の証明・諸仏の舌相偏に令法久住に在るが故なり。/ 問うて云く、諸経滅尽の後特り法華経のみ留まるべき証文 如何。答へて云く、法華経の法師品に釈尊自ら流通せしめて云く「我が所説の経典は無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」云云。文の意は、一代五十年の已今当の三説に於て最第一の経なり。八万聖教の中に殊に未来に留めんと欲して説きたまひしなり。故に次の品に多宝如来は地より涌出し、分身の諸仏は十方より一処に来集し、釈迦如来は諸仏を御使ひとして、八方四百万億那由他の世界に充満せる菩薩・二乗・人・天・八部等を責めて云く、多宝如来並びに十方の諸仏、涌出来集の意趣は偏に令法久住の為なり、
各三説の諸経滅尽の後慥かに未来五濁難信の世界に於て此の経を弘めんと誓言を立てよと。時に二万の菩薩、八十万億那由他の菩薩、各誓状を立てて云く「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」。千世界の微塵の菩薩文殊等皆誓ひて云く「我等仏の滅後に於て乃至当に広く此の経を説くべし」云云。其の後仏十喩を挙げたまふ。其の第一の喩へは川流江河を以て四十余年の諸経に譬へ、法華経を以て大海に譬ふ。末代濁悪の無慚無愧の大旱魃の時、四味の川流江河は竭くると雖も法華経の大海は減少せず等と説き了りて、次下に正しく説いて云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」と定め了んぬ。倩(つらつら)文の次第を按ずるに、「我滅度後」の次の後の字は、四十余年の諸経滅尽の後の後の字なり。故に法華経の流通たる涅槃経に云く「応に無上の仏法を以て諸の菩薩に付すべし。諸の菩薩は善能(よく)問答するを以てなり。是の如き法宝は則ち久住することを得。無量千世にも増益熾盛にして衆生を利安すべし」已上。此の如き等の文は法華・涅槃は無量百歳にも絶ゆべからざる経なり。此の義を知らざる世間の学者、大集権門の五五百歳の文を以て此の経に同じ、浄土の三部経より已前に滅尽すべしと存する立義は一経先後起尽を忘れたるなり。
問うて云く、上に挙ぐる所の曇鸞・道綽・善導・恵心等の諸師は、皆法華・真言等の諸経に於て末代不相応の釈を作る。之れに依りて源空並びに所化の弟子、法華・真言等を以て雑行と立て難行道と疎み、行者をば群賊・悪衆・悪見の人等と罵り、或は祖父の履(くつ)に類し〈聖光房の語〉、或は絃歌等にも劣ると云ふ〈南無房の語〉、其の意趣を尋ぬれば偏に時機不相応の義を存するが故なり。此等の人師の釈を如何に之れを会すべきや。答へて云く、釈迦如来一代五十年の説教、一仏の金言に於て権実二教を分け、権経を捨てて実経に入らしむる仏語顕然たり。此に於て「若し但仏乗を讃せば、衆生苦に没在せん」の道理を恐れ、且く四十二年の権経を説くと雖も「若し小乗を以て化すること、乃至、一人に於てもせば、我則ち慳貪に堕せん」の失を脱れんが為に「大乗に入るに為れ本なり」の義を存し、本意を遂げて法華経を説きたまふ。然るに涅槃経に至りて「我滅度せば必ず四依を出だして権実二教を弘通せしめん」と約束し了んぬ。故に竜樹菩薩は如来の滅後八百年に出世して十住毘婆沙等の権論を造りて華厳・方等・般若等の意を宣べ、大論を造りて般若・法華の差別を分かち、
天親菩薩は如来の滅後九百年に出世して倶舎論を造りて小乗の意を宣べ、唯識論を造りて方等部の意を宣べ、最後に仏性論を造りて法華・涅槃の意を宣べ、了教・不了教を分かちて敢へて仏の遺言に違はず。末の論師並びに訳者の時に至りては一向に権経に執するが故に、実経を会して権経に入れ権実雑乱の失出来せり。亦人師の時に至りては各依憑の経を以て本と為すが故に余経を以て権経と為す。是れより弥(いよいよ)仏意に背く。/ 而るに浄土の三師に於ては鸞・綽の二師は十住毘婆沙論に依りて難易聖浄の二道を立つ。若し本論に違して法華・真言等を以て難易の内に入れば信用に及ばず。随って浄土論注並びに安楽集を見るに多分は本論の意に違せず。善導和尚は亦浄土の三部経に依りて弥陀称名等の一行一願の往生を立つる時、梁・陳・隋・唐の四代の摂論師、総じて一代聖教を以て別時意趣と定む。善導和尚の存念に違せるが故に摂論師を破する時、彼の人を群賊等に譬ふ。順次往生の功徳を賊するが故なり。其の所行を雑行と称することは、必ず万行を以て往生の素懐を遂ぐる故をば此の人初むる故に千中無一と嫌へり。是の故に善導和尚も雑行の言の中に敢へて法華・真言等を入れず。日本国の源信僧都は亦叡山第十八代の座主慈恵大師の御弟子なり。多くの書を造れども皆法華を弘めんが為なり。
而るに往生要集を造る意は爾前四十余年の諸経に於て往生・成仏の二義有り。成仏の難行に対して往生易行の義を存し往生の業の中に於て菩提心観念の念仏を以て最上と為す。故に大文第十の問答料簡の中、第七の諸行勝劣門に於ては念仏を以て最勝と為す。次下に爾前最勝の念仏を以て法華経の一念信解の功徳に対して勝劣を判ずる時、一念信解の功徳は念仏三昧より勝るること百千万倍なりと定めたまへり。当に知るべし、往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して、人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり。故に往生要集の後に一乗要決を造りて自身の内証を述ぶる時、法華経を以て本意と為す。/ 而るに源空並びに所化の衆此の義を知らざるが故に、法華・真言を以て三師並びに源信所破の難聖雑並びに往生要集の序の顕密の中に入れて、三師並びに源信を法華・真言の謗法の人と作す。其の上日本国の一切の道俗を化し法華・真言に於て時機不相応の旨を習はしめ、在家出家の諸人に於て法華・真言の結縁を留む。豈に仏の記し給ふ所の「悪世中比丘 邪智心諂曲」の人に非ずや。亦「則断一切世間仏種」の失を免るべきや。其の上山門・寺門・東寺・天台並びに日本国中法華・真言等を習ふ諸人を群賊・悪衆・悪見の人等に譬ふる源空が重罪、何れの劫にか其の苦果を経尽すべきや。
法華経の法師品に持経者を罵る罪を説いて云く「若し悪人有りて不善の心を以て、一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。若し人一つの悪言を以て在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せん、其の罪甚だ重し」〈已上経文〉。一人の持者を罵る罪すら尚是の如し。況や書を造り日本国の諸人に罵らしむる罪をや。何に況や此の経を千中無一と定め法華経を行ずる人に疑ひを生ぜしむる罪をや。何に況や此の経を捨てて観経等の権経に遷らしむる謗法の罪をや。願はくは一切の源空が所化の四衆、頓に選択集の邪法を捨てて忽ちに法華経に遷り今度阿鼻の炎を脱れよ。/ 問うて云く、正しく源空が法華経を誹謗する証文 如何。答へて云く、法華経の第二に云く「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」〈経文〉。不信の相貌は人をして法華経を捨てしむればなり。故に天親菩薩の仏性論の第一に此の文を釈して云く「若し大乗に憎背するは、此れは是れ一闡提の因なり。衆生をして此の法を捨てしむるを為(も)ての故に」〈論文〉。謗法の相貌は此の法を捨てしむるが故なり。選択集は人をして法華経を捨てしむる書に非ずや。「閣抛」の二字は仏性論の「憎背」の二字に非ずや。
亦法華経誹謗の相貌は四十余年の諸経の如く小善成仏を以て別時意趣と定むる等なり。故に天台の釈に云く「若し小善成仏を信ぜずんば則ち世間の仏種を断ずるなり」。妙楽重ねて此の義を宣べて云く「此の経は遍く六道の仏種を開す。若し此の経を謗ぜば義断に当たるなり」。釈迦・多宝・十方の諸仏・天親・天台・妙楽の意の如くんば源空は謗法の者なり。所詮 選択集の意は人をして法華・真言を捨てしめんと定めて書き了んぬ。謗法の義疑ひ無き者なり。/ 大文の第三に、選択集謗法の縁起を出ださば、問うて云く、何れの証拠を以て源空を謗法の者と称するや。答へて云く、選択集の現文を見るに一代聖教を以て二つに分かつ。一には聖道・難行・雑行、二には浄土・易行・正行なり。其の中に聖・難・雑と云ふは、華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃・大日経等なり〈取意〉。浄・易・正と云ふは、浄土の三部経の称名念仏等なり〈取意〉。聖・難・雑の失を判ずるには、末代の凡夫之れを行ぜば百の時に希に一・二を得、千の時に希に三・五を得ん、或は千が中に一も無し、或は群賊・悪衆・邪見・悪見・邪雑の人等と定むるなり。浄・易・正の得を判ずるには、末代の凡夫之れを行ぜば十は即ち十生じ、百は即ち百生ぜん等なり。謗法の邪義是れなり。
問うて云く、一代聖教を聖道浄土・難行易行・正行雑行と分かつ。其の中に難・聖・雑を以て時機不相応と称すること但源空一人の新義に非ず、曇鸞・道綽・善導の三師の義なり。此れ亦此等の人師の私の按に非ず、其の源は竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出でたり。若し源空を謗法の者と称せば竜樹菩薩並びに三師を謗法の者と称するに非ずや。答へて云く、竜樹菩薩並びに三師の意は法華已前の四十余年の経々に於て難易等の義を存す。而るを源空より已来、竜樹並びに三師の難行等の語を借りて法華・真言等を以て難・雑等の内に入れぬ。所化の弟子、師の失を知らず、此の邪義を以て正義と存じ此の国に流布せしむるが故に、国中の万民悉く法華・真言等に於て時機不相応の想ひを作す。其の上世間を貪る天台・真言の学者、世情に随はんが為に法華・真言等に於て時機不相応の悪言を吐きて選択集の邪義を扶け、一旦の欲心に依りて釈迦・多宝並びに十方諸仏の御評定の令法久住於閻浮提広宣流布の誠言を壊り、一切衆生に於て一切三世十方の諸仏の舌を切る罪を得しむ。偏に是れ「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂ひ、乃至、悪鬼其の身に入り仏の方便随宜所説の法を知らざる」が故なり。
問うて云く、竜樹菩薩並びに三師、法華・真言等を以て難・聖・雑の内に入れざるを源空私に之れを入るとは何を以て之れを知るや。答へて云く、遠く余処に証拠を尋ぬべきに非ず。即ち選択集に之れ見えたり。問うて云く、其の証文 如何。答へて云く、選択集の第一篇に云く「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文」と約束し了りて、次下に安楽集を引き私の料簡の段に云く「初めに聖道門とは之れに就きて二有り。一には大乗、二には小乗なり。大乗の中に就きて顕密・権実等の不同有りと雖も、今此の集の意は唯顕大及び権大を存す。故に歴劫迂回の行に当たる。之れに準じて之れを思ふに、まさに密大及び実大をも存すべし」已上選択集の文なり。此の文の意は、道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て、聖道・浄土の二門を分かつと雖も、我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す。「準之思之」の四字是れなり。此の意に依るが故に亦曇鸞の難・易の二道を引く時、私に法華真言を以て難行道の中に入れ、善導和尚の正・雑二行を分かつ時も亦私に法華・真言を以て雑行の内に入る。
総じて選択集の十六段に亘りて無量の謗法を作す根源は、偏に此の四字より起こる。誤れるかな、畏しきかな。/ 爰に源空の門弟、師の邪義を救ひて云く、諸宗の常の習ひ、設ひ経論の証文無しと雖も義類の同じきを聚めて一処に置く。而も選択集の意は法華・真言等を集めて雑行の内に入れ正行に対して之れを捨つ。偏に経の法体を嫌ふに非ず。但風勢無き末代の衆生を常没の凡夫と定め、此の機に易行の法を撰ぶ時、称名の念仏を以て其の機に当て、易行の法を以て諸教に勝ると立つ。権実・浅深等の勝劣を詮ずるに非ず。雑行と云ふも嫌ひて雑と云ふに非ず。雑と云ふは不純を雑と云ふ。其の上諸の経論並びに諸師も此の意無きに非ず。故に叡山の先徳の往生要集の意偏に是の義なり。所以に往生要集の序に云く「顕密の教法は其の文一に非ず。事理の業因其の行惟れ多し。利智精進の人は未だ難しと為ず、予が如き頑魯の者豈に敢へてせんや。是の故に念仏の一門に依る」云云。此の序の意は恵心先徳も法華・真言等を破するに非ず。但偏に我等頑魯の者の機に当たりて法華・真言は聞き難く行じ難きが故、我が身鈍根なるが故なり。敢へて法体を嫌ふには非ず。
其の上序より已外正宗に至るまで十門有り。大文第八の門に述べて云く「今念仏を勧むること是れ余の種々の妙行を遮するに非ず。只是れ男女貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、之れを修するに難からず、乃至、臨終には往生を願求するに其の便宜を得ること念仏には如かず」已上。此等の文を見るに源空の選択集と源信の往生要集と一巻三巻の不同有りと雖も、一代聖教の中には易行を撰びて末代の愚人を救はんと欲する意趣は但同じ事なり。源空上人真言・法華を難行と立てて悪道に堕せば、恵心先徳も亦此の失を免るべからず 如何。/ 答へて云く、汝師の謗法の失を救はんが為に事を源信の往生要集に寄せて謗法の上に弥(いよいよ)重罪を招く者なり。其の故は釈迦如来五十年の説教に、総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く「険径を行くに留難多きが故に」。無量義経の已後を定めて云く「大直道を行くに留難無きが故に」。仏自ら難易勝劣の二道を分かちたまへり。仏より外等覚已下末代の凡師に至るまで自義を以て難易の二道を分け、是の義に背く者は外道・魔王の説に同じからんか。随って四依の大士竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分かち、敢へて四十余年已後の経に於て難行の義を存せず。
其の上若し修し易きを以て易行と定めば、法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり。若し亦勝を以て易行と定めば、分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間、檀・戒・忍・進・念仏三昧等先の五波羅蜜の功徳を以て、法華経の一念信解の功徳に比するに、一念信解の功徳は念仏三昧等の先の五波羅蜜に勝るること百千万億倍なり。難易勝劣と謂ひ行浅功深と謂ひ、観経等の念仏三昧を法華経に比するに、難行の中の極難行、勝劣の中の極劣なり。其の上悪人・愚人を扶くること亦教の浅深に依る。阿含十二年の戒門には現身に四重五逆の者に得道を許さず。華厳・方等・般若・双観経等の諸経は阿含経より教深き故に観門の時重罪の者を摂すと雖も、猶戒門の日は七逆の者に現身の受戒を許さず。然りと雖も決定性の二乗・無性の闡提に於ては戒観共に之れを許さず。法華・涅槃等には唯五逆・七逆・謗法の者を摂するのみに非ず亦定性・無性をも摂す。就中 末法に於ては常没の闡提之れ多し。豈に観経等の四十余年の諸経に於て之れを扶くべけんや。無性の常没・決定性の二乗は但法華・涅槃等に限れり。四十余年の経に依る人師は彼の経の機を取る。此の人は未だ教相を知らざる故なり。/ 但し往生要集は一往序文を見る時は法華・真言等を以て顕密の内に入れて殆ど末代の機に叶はずと書すと雖も、
文に入りて委細に一部三巻の始末を見るに、第十の問答料簡の下に正しく諸行の勝劣を定むる時、観仏三昧・般舟三昧・十住毘婆沙論・宝積・大集等の爾前の経論を引きて、一切の万行に対して念仏三昧を以て王三昧と立て了んぬ。最後に一つの問答有り。爾前の禅定念仏三昧を以て法華経の一念信解に対するに百千万億倍劣ると定む。復問ひを通ずる時、念仏三昧を万行に勝ると云ふは爾前の当分なりと云云。当に知るべし、恵心の意は往生要集を造りて末代の愚機を調へて法華経に入れんが為なり。例せば仏の四十余年の経を以て権機を調へ法華経に入れたまふが如し。故に最後に一乗要決を造る。其の序に云く「諸乗の権実は古来の諍ひなり。倶に経論に拠りて互ひに是非を執す。余寛弘〈丙午〉の歳冬十月病中に歎きて曰く、仏法に遇ふと雖も仏意を了せず。若し終に手を空しうせば後悔何ぞ追(およ)ばん。爰に経論の文義・賢哲の章疏、或は人をして尋ねしめ或は自ら思択して、全く自宗・他宗の偏党を捨てて専ら権智・実智の深奥を探るに、終に一乗は真実の理、五乗は方便の説を得る者なり。既に今生の蒙を開く、何ぞ夕死の恨みを遺さんや」已上。此の序の意は偏に恵心の本意を顕はすなり。自宗・他宗の偏党を捨つるの時、浄土の法門を捨てざらんや。一乗は真実の理を得る時、専ら法華経に依るに非ずや。
源信僧都は永観二年〈甲申〉の冬十一月往生要集を造り、寛弘二年〈丙午〉の冬十月の比、一乗要決を作る。其の中間二十余年。権を先にし実を後にす。宛も仏の如く亦竜樹・天親・天台等の如し。/ 汝往生要集を便りと為して師の謗法の失を救はんと欲すれども敢へて其の義類に似ず。義類の同じきを以て一処に聚むとならば何等の義類同なるや。華厳経の如きは二乗界を隔つるが故に十界互具なし。方等・般若の諸経も亦十界互具を許さず。観経等の往生極楽も亦方便の往生なり。成仏・往生倶に法華経の如き往生に非ず。皆別時意趣の往生・成仏なり。其の上源信僧都の意は四威儀に行じ易きが故に念仏を以て易行と云ひ、四威儀に行じ難きが故に法華を以て難行と称せば天台・妙楽の釈を破る人なり。所以に妙楽大師は、末代の鈍者・無智の者等の法華経を行ずるに普賢菩薩並びに多宝・十方の諸仏を見奉るを易行と定めて云く「散心に法華を誦し禅三昧に入らず。坐立行一心に法華の文字を念ぜよ」已上。此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり。散心とは定心に対する語なり。誦法華とは八巻・一巻・一字・一句・一偈・題目、一心一念随喜の者五十展転等なり。坐立行とは四威儀を嫌はざるなり。一心とは定の一心にも非ず、理の一心にも非ず、散心の中の一心なり。
念法華文字とは此の経は諸経の文字に似ず、一字を誦すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり。/ 天台大師玄義の八に云く「手に巻を執らざれども常に是の経を読み、口に言声無けれども遍く衆典を誦し、仏説法せざれども恒に梵音を聞き、心に思惟せざれども普く法界を照らす」已上。此の文の意は、手に法華経一部八巻を執らざれども是の経を信ずる人は昼夜十二時の持経者なり。口に読経の声を出ださざれども法華経を信ずる者は日々時々念々に一切経を読む者なり。仏の入滅既に二千余年を経たり。然りと雖も法華経を信ずる者の許に仏の音声を留めて、時々刻々念々に我が死せざる由を聞かしむるなり。心に一念三千を観ぜざれども遍く十方法界を照らす者なり。此等の徳は偏に法華経を行ずる者に備はれるなり。是の故に法華経を信ずる者は、設ひ臨終の時、心に仏を念ぜず、口に経を誦せず、道場に入らずとも心無くして法界を照らし、音無くして一切経を誦し、巻軸を取らずして法華経八巻を拳る徳之れ有り。是れ豈に権教の念仏者の臨終正念を期して十念の念仏を唱へんと欲する者に百千万倍勝るるの易行に非ずや。故に天台大師文句の十に云く「都て諸教に勝るるが故に随喜功徳品と言ふ」。妙楽大師の法華経は諸経より浅機を取る、
而るを人師此の義を弁へざるが故に法華経の機を深く取ることを破して云く「恐らくは人謬りて解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推(ゆず)りて此の初心を蔑る。故に今彼の行は浅く功の深きことを示して以て経力を顕はす」已上。以顕経力の釈の意趣は、法華経は観経等の権経に勝れたるが故に行は浅く功は深し。浅機を摂する故なり。若し恵心の先徳法華経を以て念仏より難行と定め、愚者・頑魯の者を摂せずと云はば、恐らくは逆路伽耶陀の罪を招かざらんや。亦恐人謬解の内に入らざらんや。/ 総じて天台・妙楽の三大部の本末の意には、法華経は諸経に漏れたる愚者・悪人・女人・常没の闡提等を摂したまふ。他師仏意を覚らざるが故に法華経を諸経に同じ、或は地住の機を取り、或は凡夫に於ても別時意趣の義を存す。此等の邪義を破して人天・四悪を以て法華経の機と定む。種類・相対を以て過去の善悪を収む。人天に生ずる人豈に過去の五戒十善無からんや等と定め了んぬ。若し恵心此の義に背かば豈に天台宗を知れる人ならんや。而るを源空深く此の義に迷ふが故に往生要集に於て僻見を起こし、自らも失ひ他をも誤る者なり。適(たまたま)宿善有りて実教に入りながら、一切衆生を化して権教に還らしめ、剰へ実教を破せしむ。豈に悪師に非ずや。
彼の久遠下種・大通結縁の者の五百・三千の塵点を経る者の如きは、法華の大教を捨てて爾前の権小に遷るが故に後には権経をも捨てて六道に回りぬ。不軽軽毀の衆は千劫阿鼻地獄に堕つ。権師を信じて実経を弘むる者に誹謗を作したるが故なり。而るに源空我が身唯実経を捨てて権経に入るのみに非ず、人を勧めて実経を捨てて権経に入らしめ亦権人をして実経に入らしめず。剰へ実経の行者を罵るの罪永劫にも浮かび難からんか。/ 問うて云く、十住毘婆沙論は一代の通論なり。難・易の二道の内に何ぞ法華・真言・涅槃を入れざるや。答へて云く、一代の諸大乗経に於て華厳経の如きは初頓・後分有り。初頓の華厳は二乗の成不成を論ぜず。方等部の諸経には一向に二乗無性闡提の成仏を斥ふ。般若部の諸経も之れに同じ。総じて四十余年の諸大乗経の意は法華・涅槃・大日経等の如く二乗無性の成仏を許さず。此等を以て之れを検ふるに爾前・法華の相違水火の如し。滅後の論師竜樹・天親も亦倶に千部の論師なり。所造の論に通別の二論有り。通論に於ても亦二有り。四十余年の通論と一代五十年の通論となり。其の差別を分かつに決定性の二乗・無性闡提の成不成を以て論の権実を定むるなり。而るに大論は竜樹菩薩の造、羅什三蔵の訳なり。
般若経に依る時は二乗作仏を許さず、法華経に依れば二乗作仏を許す。十住毘婆沙論も亦竜樹菩薩の造、羅什三蔵の訳なり。此の論も亦二乗作仏を許さず。之れを以て知んぬ。法華已前の諸大乗経の意を申べたる論なることを。/ 問うて云く、十住毘婆沙論の何処に二乗作仏を許さざるの文出でたるや。答へて云く、十住毘婆沙論の第五に云く〈竜樹菩薩造羅什訳〉「若し声聞地及び辟支仏地に堕する是れを菩薩の死と名づく。則ち一切の利を失す。若し地獄に堕すとも是の如き畏れを生ぜず。若し二乗地に堕すれば則ち大怖畏を為す。地獄の中に堕すとも畢竟して仏に至ることを得。若し二乗地に堕すれば畢竟して仏道を遮す」已上。此の文二乗作仏を許さず。宛も浄名等の「於仏法中以如敗種」の文の如し。問うて云く、大論は般若経に依りて二乗作仏を許さず。法華経に依りて二乗作仏を許すの文 如何。答へて曰く、大論の一百に云く〈竜樹菩薩造羅什三蔵訳〉「問うて曰く、更に何れの法か甚深にして般若に勝れたる者有りて、般若を以て阿難に属累し、而も余経を以て菩薩に属累するや。答へて曰く、般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而るに法華等の諸経は阿羅漢の受決作仏を説く。所以に大菩薩能く受持し用ゐる。譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」。
亦九十三に云く「阿羅漢の成仏は論義者の知る所に非ず。唯仏のみ能く了したまふ」已上。此等の文を以て之れを思ふに、論師の権実は宛も仏の権実の如し。/ 而るを権経に依る人師猥りに法華等を以て観経等の権説に同じ、法華・涅槃等の義を仮りて浄土三部経の徳と作し、決定性の二乗・無性の闡提・常没等の往生を許す。権実雑乱の失脱れ離し。例せば外典の儒者の内典を賊みて外典を荘るが如し。謗法の失免れ難きか。仏自ら権実を分けたまふ。其の詮を探るに決定性の二乗・無性有情の成不成是れなり。而るに此の義を弁へざる訳者爾前の経々を訳する時、二乗の作仏・無性の成仏を許す。此の義を知る訳者は爾前の経を訳する時二乗の作仏・無性の成仏を許さず。之れに依りて仏意を覚らざる人師も亦爾前の経に於て決定性・無性の成仏を明かすと見て法華・爾前同じき思ひを作し、或は爾前の経に於て決定無性を嫌ふ文を見、此の義を以て了義経と為し、法華・涅槃を以て不了義経と為す。共に仏意を覚らず、権実二経に迷へり。此等の誤りを出ださば但源空一人に限るのみに非ず。天竺の論師並びに訳者より唐土の人師に至るまで其の義有り。所謂 地論師・摂論師の一代の別時意趣、善導・懐感の法華経の一称南無仏の別時意趣、此等は皆権実を弁へざるが故に出来する所の誤りなり。
論を造る菩薩、経を訳する訳者、三昧発得の人師猶以て是の如し。何に況や末代の凡師に於てをや。/ 問うて云く、汝末学の身に於て何ぞ論師並びに訳者人師を破するや。答へて云く、敢へて此の難を致すこと勿れ。摂論師並びに善導等の釈は権実二教を弁へずして猥りに法華経を以て別時意趣と立つ。故に天台・妙楽の釈と水火を作す間、且く人師の相違を閣きて経論に付きて是非を検ふる時、権実の二教は仏説より出でたり。天親・竜樹重ねて之れを定む。此の義に順ずる人師をば且く之れを仰ぎ、此の義に順ぜざる人師をば且く之れを用ゐず。敢へて自義を以て是非を定むるに非ず。但相違を出だす計りなり。/ 大文の第四に謗法の者を対治すべき証文を出ださば、此れに二有り。一には仏法を以て国王大臣並びに四衆に付属することを明かし、二には正しく謗法の人の王地に処するをば対治すべき証文を明かす。/ 第一に仏法を以て国王大臣並びに四衆に付属することを明かさば、仁王経に云く「仏波斯匿王に告げたまはく乃至是の故に諸の国王に付属して比丘・比丘尼・清信男・清信女に付属せず。何を以ての故に、王の威力無きが故に。乃至此の経の三宝をば諸の国王四部の弟子に付属す」已上。
大集経二十八に云く「若し国王有りて我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば、無量世に於て施戒恵を修すとも、悉く皆滅失して其の国に三種の不祥の事を出ださん。乃至命終して大地獄に生ぜん」已上。仁王経の文の如くんば、仏法を以て先づ国王に付属し、次に四衆に及ぼす。王位に居る君、国を治むる臣は仏法を以て先と為して国を治むべきなり。大集経の文の如くんば、王臣等仏道の為に無量劫の間、頭目等の施を施し八万の戒行を持ち無量の仏法を学ぶと雖も、国に流布する所の法の邪正を直さざれば、国中に大風・旱魃・大雨の三災起こりて万民を逃脱せしめ、王臣定めて三悪に堕せん。/ 亦双林最後の涅槃経第三に云く「今正法を以て諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に付属す。乃至法を護らざる者をば禿居士と名づく」。又云く「善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」。又云く「五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名づく。正法を護る者は当に刀剣器杖を執持すべし」云云。四十余年の内にも梵網等の戒の如くんば国王・大臣の諸人等、一切刀杖・弓箭・矛斧・闘戦の具を蓄ふることを得ず。若し此れを蓄ふる者は定めて現身に国王の位、比丘比丘尼の位を失ひ、後生は三悪道の中に堕すべしと定め了んぬ。
而るに今の世は道俗を択ばず弓箭・刀杖を帯せり。梵網経の文の如くんば必ず三悪道に堕せんこと疑ひ無き者なり。涅槃経の文無くんば如何にしてか之れを救はん。亦涅槃経の先後の文の如くんば、弓箭・刀杖を帯して悪法の比丘を治し正法の比丘を守護せん者は、先世の四重・五逆を滅して必ず無上道を証せんと定めたまふ。/ 亦金光明経の第六に云く「若し人有りて其の国土に於て此の経有りと雖も未だ曾て流布せず、捨離の心を生じ聴聞せんことを楽はず、亦供養し尊重し讃歎せず、四部の衆、持経の人を見て亦復尊重し乃至供養すること能はず、遂に我等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ず、甘露の味に背き、正法の流れを失ひ、威光及び勢力有ること無からしめ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に堕ちて涅槃の路に乖かん。世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯の如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、亦無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん。既に捨離し已りなば其の国当に種々の災禍有りて国位を喪失すべし。一切の人衆皆善心無けん。唯繋縛・殺害・瞋諍のみ有りて互ひに相讒諂し枉げて辜無きに及ばん。
疫病流行し、彗星数(しばしば)出で、両日並び現じ、薄蝕恒無く、黒白の二虹不祥の相を表はし、星流れ地動じ、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉に遭ひて苗実も成らず、多く他方の怨賊有りて国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け、土地として可楽の処有ること無けん」已上。此の経文を見るに、世間の安穏を祈らんに而も国に三災起こらば悪法流布する故なりと知るべし。而るに当世は随分国土の安穏を祈ると雖も、去ぬる正嘉元年には大地大いに動じ、同二年に大雨大風苗実を失へり。定めて国を喪(ほろぼ)すの悪法此の国に有るかと勘ふるなり。/ 選択集の或段に云く「第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除きて已外、大小顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名づく」と書き了へて、次に書きて云く「次に二行の得失を判ぜば、法華・真言等の雑行は失、浄土の三部経は得なり」。次下に善導和尚の往生礼讃の十即十生・百即百生・千中無一の文を書き載せて云く「私に云く、此の文を見るに弥(いよいよ)須く雑を捨てて専を修すべし。豈に百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能く之れを思量せよ」已上。
此等の文を見るに世間の道俗豈に諸経を信ずべけんや。次下に亦書きて法華経等の雑行と念仏の正行との勝劣難易を定めて云く「一には勝劣の義、二には難易の義なり。初めに勝劣の義とは、念仏は是れ勝、余行は是れ劣。次に難易の義とは、念仏は修し易く諸行は修し難し」。亦次下に法華・真言等の失を定めて云く「故に知んぬ、諸行は機に非ず時を失ふ。念仏往生のみ機に当たり時を得たり」。亦次下に法華・真言等の雑行の門を閉ぢて云く「随他の前には暫く定散の門を開くと雖も随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは唯是れ念仏の一門なり」已上。最後の本懐に云く「夫れ速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に且く聖道門を閣きて撰びて浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて撰びて応に正行に帰すべし」已上。門弟此の書を伝へて日本六十余州に充満するが故に、門人世間無智の者に語りて云く「上人智恵第一の身と為りて此の書を造り真実の義と定め、法華・真言の門を閉ぢて後に開くの文無く、抛ちて後に還りて取るの文無し」等と立つる間、世間の道俗一同に頭を傾け、其の義を訪ふ者には仮字を以て選択の意を宣べ、或は法然上人の物語を書す間、法華・真言に於て難を付けて或は去年の暦祖父の履に譬へ、或は法華経を読むは管絃より劣ると。
是の如き悪書国中に充満するが故に、法華・真言等国に在りと雖も聴聞せんことを楽はず、偶(たまたま)行ずる人有りと雖も尊重を生ぜず、一向念仏者、法華等の結縁を作すをば往生の障りと成ると云ふ、故に捨離の意を生ず。此の故に諸天妙法を聞くことを得ず。法味を嘗めざれば威光勢力有ること無く、四天王並びに眷属此の国を捨て、日本国守護の善神捨離し已んぬ。故に正嘉元年に大地大いに震ひ、同二年春の大雨に苗を失ひ、夏の大旱魃に草木を枯らし、秋の大風に果実を失ひ、飢渇忽ちに起こりて万民を逃脱せしむること金光明経の文の如し。豈に選択集の失に非ずや。仏語虚しからざる故に悪法の流布有りて既に国に三災起これり。而るに此の悪義を対治せずんば仏の所説の三悪を脱るべけんや。而るに近年より予「我不愛身命 但惜無上道」の文を瞻る間、雪山・常啼の心を起こし命を大乗の流布に替へ強言を吐きて云く、選択集を信じて後世を願はん人は無間地獄に堕すべしと。/ 爾の時に法然上人の門弟選択集に於て上に出だす所の悪義を隠し、或は諸行往生を立て、或は選択集に於て法華・真言等を破せざる由を称し、或は在俗に於て選択集の邪義を知らしめざらんが為に妄語を構へて云く、日蓮は念仏を称ふる人は三悪道に堕すと云ふと。
問うて云く、法然上人の門弟諸行往生を立つるに失有りや否や。答へて曰く、法然上人の門弟と称し諸行往生を立つるは逆路伽耶陀の者なり。当世も亦諸行往生の義を立つ。而も内心には一向に念仏往生の義を存し、外には諸行不謗の由を聞かしむるなり。抑 此の義を立つる者は選択集の法華・真言等に於て失を付け、捨閉閣抛・群賊・邪見・悪見・邪雑人・千中無一等の語を見ざるや否や。/ 第二に正しく謗法人の王地に処するを対治すべき証文を出ださば。涅槃経第三に云く「懈怠にして戒を破し正法を毀る者をば王者・大臣・四部の衆、当に苦治すべし。善男子是の諸の国王及び四部の衆は当に罪有るべきや不や。不なり、世尊。善男子是の諸の国王及び四部の衆は尚罪有ること無し」。又第十二に云く「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪・嫉悋有ること無かりき。乃至善男子我爾の時に於て心に大乗を重んず。婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已りて即時に其の命根を断じき。善男子是の因縁を以て是れより已来地獄に堕せず」已上。/ 問うて云く、梵網経の文を見るに比丘等の四衆を誹謗するは波羅夷罪なり。而るに源空が謗法の失を顕はすは豈に阿鼻の業に非ずや。
答へて云く、涅槃経の文に云く「迦葉菩薩世尊に言さく、如来何が故ぞ彼れ当に阿鼻地獄に堕すべしと記するや。善男子、善星比丘は多く眷属有り。皆善星は是れ阿羅漢なり是れ道果を得しと謂へり。我彼れが悪邪の心を壊らんと欲するが故に、彼の善星は放逸を以ての故に地獄に堕せりと記す」已上。此の文に放逸とは謗法の名なり。源空も亦彼の善星の如く、謗法を以ての故に無間に堕すべし。所化の衆此の邪義を知らざるが故に源空を以て一切智人と号し、或は勢至菩薩或は善導の化身なりと云ふ。彼れが悪邪の心を壊らんが為の故に謗法の根源を顕はす。梵網経の説は謗法の者の外の四衆なり。仏誡めて云く「謗法の人を見て其の失を顕はさざれば仏弟子に非ず」。故に涅槃経に云く「我涅槃の後、其の方面に随ひ持戒の比丘有りて威儀具足し正法を護持せば、法を壊る者を見て即ち能く駆遣し呵責し徴治せよ。当に知るべし、是の人は福を得んこと無量にして称計すべからず」。亦云く「若し善比丘ありて法を壊る者を見て、置きて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駆遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」已上。予仏弟子の一分に入らんが為に此の書を造り謗法の失を顕はし世間に流布す。
願はくは十方の仏陀此の書に於て力を副へ大悪法の流布を止め一切衆生の謗法を救はしめ給へ。/ 大文の第五に善知識並びに真実の法に値ひ難きことを明かさば、之れに付きて三有り。一には受け難き人身値ひ難き仏法なることを明かし、二には受け難き人身を受け値ひ難き仏法に値ふと雖も悪知識に値ふが故に三悪道に堕することを明かし、三には正しく末代の凡夫の為の善知識を明かす。/ 第一に受け難き人身値ひ難き仏法なることを明かさば、涅槃経三十三に云く「爾の時に世尊、地の少土を取りて之れを爪上に置き迦葉に告げて言く、是の土多きや、十方世界の地の土多きや。迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、爪上の土は十方所有の土に比せざるなりと。善男子、人有りて身を捨てて還りて人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くることを得。諸根完く具して中国に生じ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く正道を修し、正道を修し已りて能く解脱を得、解脱を得已りて能く涅槃に入るは爪上の土の如く、人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、諸根具せずして辺地に生じ、邪倒の見を信じ邪道を修習し、解脱常楽の涅槃を得ざるは十方界の所有の地土の如し」〈已上経文〉。
此の文は多く法門を集めて一具と為せり。人身を捨てて還りて人身を受くるは爪上の土の如く、人身を捨てて三悪道に堕つるは十方の土の如し。三悪の身を捨てて人身を受くるは爪上の土の如く、三悪の身を捨てて還りて三悪の身を得るは十方の土の如し。人身を受くるは十方の土の如く、人身を受けて六根欠けざるは爪上の土の如し。人身を受けて六根欠けざれども辺地に生ずるは十方の土の如く、中国に生ずるは爪上の土の如し。中国に生ずるは十方の土の如く、仏法に値ふは爪上の土の如し。/ 又云く「一闡提と作らず、善根を断ぜず、是の如き等の涅槃経典を信ずるは爪上の土の如く、乃至一闡提と作り、諸の善根を断じ、是の経を信ぜざるは十方界所有の地土の如し」〈已上経文〉。此の文の如くんば法華・涅槃を信ぜずして一闡提と作るは十方の土の如く、法華・涅槃を信ずるは爪上の土の如し。此の経文を見て弥(いよいよ)感涙押へ難し。今日本国の諸人を見聞するに多分は権教を行ず。設ひ身口には実教を行ずと雖も心には亦権教を存す。故に天台大師摩訶止観の五に云く「其の痴鈍なる者は毒気深く入りて本心を失ふが故に、既に其れ信ぜざるは則ち手に入らず。乃至大罪聚の人なり。乃至設ひ世を厭ふ者も下劣の乗を翫び枝葉に攀付し、狗、作務に狎れ、猴を敬ひて帝釈と為し、瓦礫を崇みて是れ明珠なりとす。此の黒闇の人豈に道を論ずべけんや」已上。
源空並びに所化の衆、深く三毒の酒に酔ひて大通結縁の本心を失ふ。法華・涅槃に於て不信の思ひを作し一闡提と作り、観経等の下劣の乗に依りて方便称名等の瓦礫を翫び、法然房の猴を敬ひて智恵第一の帝釈と思ひ、法華・涅槃の如意珠を捨て、如来の聖教を褊するは権実二教を弁へざるが故なり。故に弘決の第一に云く「此の円頓を聞いて崇重せざる者は、良に近代大乗を習ふ者の雑濫に由るが故なり」。大乗に於て権実二教を弁へざるを雑濫と云ふなり。故に末代に於て法華経を信ずる者は爪上の土の如く、法華経を信ぜずして権教に堕落する者は十方の微塵の如し。故に妙楽歎きて云く「像末は情澆く信心寡薄にして円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず。便ち目を瞑ぐに至る。徒らに生じ徒らに死す。一に何ぞ痛ましきかな」已上。此の釈は偏に妙楽大師権者たるの間、遠く日本国の当代を鑑みて記し置く所の未来記なり。問うて云く、法然上人の門弟の内にも一切経蔵を安置し法華経を行ずる者有り。何ぞ皆謗法の者と称せんや。答へて曰く、一切経を開き見て法華経を読むは、難行道の由を称し選択集の悪義を扶けんが為なり。経論を開くに付きて弥(いよいよ)謗法を増すこと、例せば善星の十二部経、提婆達多の六万蔵の如し。智者の由を称するは自身を重んじ悪法を扶けんが為なり。
第二に受け難き人身を受け値ひ難き仏法に値ふと雖も悪知識に値ふが故に三悪道に堕することを明かさば。仏蔵経に云く「大荘厳仏の滅後に五比丘あり。一人は正道を知りて多億の人を度し、四人は邪見に住す。此の四人命終して後阿鼻地獄に堕つ。仰ぎ臥し伏せに臥し左脇に臥し右脇に臥すこと各々九百万億歳なり。乃至若しは在家出家の此の人に親近せしもの、並びに諸の檀越凡そ六百四万億人あり。此の四師と倶に生じ倶に死して、大地獄に在りて諸の焼煮を受く。大劫若し尽きぬれば是の四悪人及び六百四万億の人此の阿鼻地獄より他方の大地獄の中に転生す」已上。涅槃経三十三に云く「爾の時に城中に一の尼乾有り。名を苦得と曰ふ。乃至善星、苦得に問ふ。答へて曰く、我食吐鬼の身を得。善星諦らかに聞け。乃至爾の時に善星即ち我が所に還りて是の如き言を作す、世尊、苦得尼乾は命終の後に三十三天に生ぜんと。乃至爾の時に如来即ち迦葉と善星の所に往きたまふ。善星比丘遥かに我来たるを見、見已りて即ち悪邪の心を生ず。悪心を以ての故に生身に陥ち入りて阿鼻地獄に堕す」已上。善星比丘は仏の菩薩たりし時の子なり。仏に随ひ奉り出家して十二部経を受け、欲界の煩悩を壊りて四禅定を獲得せり。
然りと雖も悪知識たる苦得外道に値ひ、仏法の正義を信ぜざるに依りて、出家の受戒・十二部経の功徳を失ひ、生身に阿鼻地獄に堕す。苦岸等の四比丘に親近せし六百四万億の人は四師と倶に十方の大阿鼻地獄を経しなり。今の世の道俗は選択集を貴むが故に、源空の影像を拝して一切経難行の邪義を読む。例せば尼乾の所化の弟子が尼乾の遺骨を礼して三悪道に堕せしが如し。願はくは今の世の道俗選択集の邪正を知りて後に供養恭敬を致せ。爾らずんば定めて後悔有らん。/ 故に涅槃経に云く「菩薩摩訶薩悪象等に於ては心に怖畏すること無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。何を以ての故に。是の悪象等は唯能く身を壊りて心を壊ること能はず、悪知識は二倶に壊るが故に。是の悪象等は唯一身を壊り、悪知識は無量の善身無量の善心を壊る。是の悪象等は唯能く不浄の臭き身を破壊し、悪知識は能く浄身及以(および)浄心を壊る。是の悪象等は能く肉身を壊り、悪知識は法身を壊る。悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る。是の悪象等は但身の怨と為る、悪知識は善法の怨と為らん。是の故に菩薩常に当に諸の悪知識を遠離すべし」已上。
請ひ願はくは今の世の道俗、設ひ此の書を邪義なりと思ふと雖も且く此の念を抛ちて十住毘婆沙論を開き、其の難行の内に法華経の入不入を検へ、選択集の「準之思之」の四字を案じて後に是非を致せ。謬りて悪知識を信じ邪法を習ひ此の生を空しうすること莫れ。/ 第三に正しく末代の凡夫の為の善知識を明かさば、問うて云く、善財童子は五十余の知識に値ひき。其の中に普賢・文殊・観音・弥勒等有り。常啼・班足・妙荘厳・阿闍世等は曇無竭・普明・耆婆・二子・夫人に値ひ奉りて生死を離れたり。此等は皆大聖なり。仏世を去りての後是の如きの師を得ること難しと為す。滅後に於て亦竜樹・天親も去りぬ。南岳・天台にも値はず。如何ぞ生死を離るべきや。答へて曰く、末代に於て真実の善知識有り。所謂 法華・涅槃是れなり。問うて云く、人を以て善知識と為すは常の習ひなり。法を以て知識と為すの証有りや。答へて云く、人を以て知識と為すは常の習ひなり。然りと雖も末代に於ては真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証有り。摩訶止観に云く「或は知識に従ひ、或は経巻に従ひて、上に説く所の一実の菩提を聞く」已上。此の文の意は、経巻を以て善知識と為すなり。法華経に云く「若し法華経を閻浮提に行じ受持すること有らん者は応に此の念を作すべし。皆是れ普賢威神の力なり」已上。
此の文の意は、末代の凡夫法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり。又云く「若し是の法華経を受持し読誦し、正憶念し修習し、書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。/ 又云く「若し我成仏して滅度の後、十方の国土に於て法華経を説く所有らば、我が塔廟是の経を聴かんが為の故に其の前に涌現して為に証明を作さん」已上。此の文の意は、我等法華の名号を唱へば多宝如来本願の故に必ず来たりたまふ。又云く「諸仏の十方世界に在りて法を説くを尽く還して一処に集めたまふ」已上。釈迦・多宝・十方の諸仏・普賢菩薩等は我等が善知識なり。若し此の義に依らば我等も亦宿善、善財・常啼・班足等にも勝れたり。彼れは権経の知識に値ひ、我等は実経の知識に値へばなり。彼れは権経の菩薩に値ひ、我等は実経の仏菩薩に値ひ奉ればなり。涅槃経に云く「法に依りて人に依らざれ、智に依りて識に依らざれ」已上。
依法と云ふは法華・涅槃の常住の法なり。不依人とは法華・涅槃に依らざる人なり。設ひ仏菩薩たりと雖も法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況や法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てをや。依智とは仏に依る。不依識とは等覚已下なり。今の世の世間の道俗源空の謗法の失を隠さんが為に徳を天下に挙げて権化なりと称す。依用すべからず。外道は五通を得て能く山を傾け海を竭すとも神通無き阿含経の凡夫に及ばず。羅漢を得六通を現ずる二乗は華厳・方等・般若の凡夫に及ばず。華厳・方等・般若の等覚の菩薩も法華経の名字・観行の凡夫に及ばず。設ひ神通智恵有りと雖も権教の善知識をば用ゐるべからず。/ 我等常没の一闡提の凡夫法華経を信ぜんと欲するは仏性を顕はさんが為の先表なり。故に妙楽大師の云く「内薫に非ざるよりは何ぞ能く悟りを生ぜん。故に知んぬ、悟りを生ずる力は真如に在り、故に冥薫を以て外護と為すなり」已上。法華経より外の四十余年の諸経には十界互具無し。十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば外の諸仏も顕はれず。故に四十余年の権行の者は仏を見ず。設ひ仏を見ると雖も他仏を見るなり。二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し。
爾前の菩薩も亦自身の十界互具を見ざれば二乗界の成仏を見ず。故に衆生無辺誓願度の願も満足せず。故に菩薩も仏を見ず、凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界顕はれず。故に阿弥陀如来の来迎も無く、諸仏如来の加護も無し。譬へば盲人の自身の影を見ざるが如し。今法華経に至りて九界の仏界を開くが故に、四十余年の菩薩・二乗・六凡始めて自身の仏界を見る。此の時此の人の前に始めて仏・菩薩・二乗を立つ。此の時に二乗・菩薩始めて成仏し凡夫始めて往生す。是の故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是れなり。常途の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、自義に於ては猶当分の得道を許さず。然りと雖も此の書に於ては其の義を尽くさず、略して之れを記す。追って之れを記すべし。/ 大文の第六に法華・涅槃に依る行者の用心を明かさば、一代教門の勝劣・浅深・難易等に於ては先の段に既に之れを出だす。此の一段に於ては一向に後世を念ふ末代常没の五逆・謗法・一闡提等の愚人の為に之れを注す。略して三有り。一には在家の諸人正法を護持するを以て生死を離るべく、悪法を持つに依りて三悪道に堕することを明かし、二には但法華経の名字計りを唱へて三悪道を離るべきことを明かし、三には涅槃経は法華経の為の流通と成ることを明かす。
第一に在家の諸人正法を護持するを以て生死を離るべく、悪法を持つに依りて三悪道に堕することを明かさば。涅槃経第三に云く「仏迦葉に告げ給はく、能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得」。亦云く「時に国王有り、名を有徳と曰ふ。乃至法を護らんが為の故に、乃至是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。乃至王是の時に於て法を聞くことを得已りて心大いに歓喜し、尋いで即ち命終して阿仏の国に生ず」已上。此の文の如くんば在家の諸人別の智行無しと雖も、謗法の者を対治する功徳に依りて生死を離るべきなり。問うて云く、在家の諸人仏法を護持すべき様 如何。答へて曰く、涅槃経に云く「若し衆生有りて財物に貪著せば、我当に財を施して然して後に是の大涅槃経を以て之れを勧めて読ましむべし。乃至先に愛語を以て而も其の意に随ひ、然して後に漸く当に是の大乗大涅槃経を以て之れを勧めて読ましむべし。若し凡庶の者には当に威勢を以て之れに逼りて読ましむべし。若し慢の者には我当に其れが為に僕使と作り其の意に随順し其れをして歓喜せしむべし。然して後に復当に大涅槃を以て之れを教導すべし。
若し大乗経を誹謗する者有らば、当に勢力を以て之れを摧きて伏せしめ、既に摧伏し已りて然して後に勧めて大涅槃を読ましむべし。若し大乗経を愛楽する者有らば、我躬ら当に往きて恭敬し供養し尊重し讃歎すべし」已上。/ 問うて云く、今の世の道俗偏に選択集に執して、法華・涅槃に於ては自身不相応の念を作すの間護惜建立の心無し。偶(たまたま)邪義の由を称する人有れば念仏誹謗の者と称し、悪名を天下に雨らす。斯れ等は 如何。答へて曰く、自答を存すべきに非ず。仏自ら此の事を記して云く、仁王経に云く「大王我が滅度の後未来世の中の四部の弟子・諸の小国の王・太子・王子乃ち是れ住持して三宝を護らん者転(うたた)更に三宝を滅破せんこと師子の身中の虫の自ら師子を食らふが如くならん。外道に非ざるなり。多く我が仏法を破り、大罪過を得ん、正教衰薄し、民に正行無く、漸く悪を為すを以て其の寿日に減じて百歳に至らん。人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず。疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」。亦次下に云く「大王、未来世の中の諸の小国の王・四部の弟子自ら此の罪を作るは破国の因縁なり。
乃至諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴し、乃至、其の時に当たりて正法将に滅せんとして久しからず」已上。余選択集を見るに敢へて此の文の未来記に違はず。選択集は法華・真言等の正法を定めて雑行難行と云ひ、末代の我等に於ては時機相応せず、之れを行ずる者は千が中に一も無く、仏還りて法華等を説きたまふと雖も法華・真言の諸行の門を閉じて念仏の一門を開く。末代に於て之れを行ずる者は群賊等と定め、当世の一切の道俗に於て此の書を信ぜしめ、此の義を以て如来の金言と思へり。此の故に世間の道俗仏法建立の意無く、法華真言の正法の法水忽ちに竭き、天人減少して三悪日に増長す。偏に選択集の悪法に催されて起こす所の邪見なり。此の経文に仏記して「我滅度後」と云へるは、正法の末八十年、像法の末八百年、末法の末八千年なり。選択集の出でたる時は像法の末、末法の始めなれば八百年の内なり。仁王経に記す所の時節に当たれり。諸の小国の王とは日本国の王なり。中下品の善は粟散王是れなり。「如師子身中虫」とは仏弟子の源空是れなり。「諸悪比丘」とは所化の衆是れなり。
「説破仏法因縁破国因縁」とは上に挙ぐる所の選択集の語是れなり。「其王不別信聴此語」とは今の世の道俗邪義を弁へずして猥りに之れを信ずるなり。請ひ願はくは道俗法の邪正を分別して其の後正法に付きて後世を願へ。今度人身を失ひ三悪道に堕ちて後に後悔すとも何ぞ及ばん。/ 第二に但法華経の題目計りを唱へて三悪道を離るべきことを明かさば、法華経の第五に云く「文殊師利、是の法華経は無量の国中に於て、乃至名字をも聞くことを得べからず」。第八に云く「汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら福量るべからず」。提婆品に云く「妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕せず」。大般涅槃経名字功徳品に云く「若し善男子善女人有りて是の経の名を聞いて悪趣に生ずといふは是の処(ことわり)有ること無けん」〈涅槃経は法華経の流通たるが故に之れを引く〉。問うて云く、但法華の題目を聞くと雖も解心無くば如何にして三悪趣を脱れんや。答へて云く、法華経流布の国に生まれて此の経の題名を聞き、信を生ずるは宿善の深厚なるに依れり。設ひ今生は悪人無智なりと雖も必ず過去の宿善有るが故に、此の経の名を聞いて信を致す者なり。故に悪道に堕せず。
問うて云く、過去の宿善とは 如何。答へて曰く、法華経の第二に云く「若し此の経法を信受すること有らん者は是の人は已に曾て過去の仏を見奉り恭敬し供養し亦是の法を聞けるなり」。法師品に云く「又如来滅度の後、若し人有りて妙法華経の乃至一偈一句を聞いて一念も随喜せん者は、乃至、当に知るべし、是の諸人等已に曾て十万億の仏を供養せしなり」。流通たる涅槃経に云く「若し衆生有りて煕連河沙等の諸仏に於て菩提心を発し、乃ち能く是の悪世に於て是の如き経典を受持して誹謗を生ぜず。善男子、若し能く一恒河沙等の諸仏世尊に於て菩提心を発すこと有りて、然して後に乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜず是の典を愛敬せん」〈已上経文〉。此等の文の如くんば、設ひ先に解心無くとも此の法華経を聞いて謗ぜざるは大善の所生なり。夫れ三悪の生を受くること大地微塵より多く、人間の生を受くること爪上の土より少なし。乃至四十余年の諸経に値ふは大地微塵より多く、法華・涅槃に値ふことは爪上の土より少なし。上に挙ぐる所の涅槃経の三十三の文を見るべし。設ひ一字一句なりと雖も此の経を信ずるは宿縁多幸なり。問うて云く、設ひ法華経を信ずと雖も悪縁に随はば何ぞ三悪道に堕せざらんや。
答へて曰く、解心無き者権教の悪知識に遇ひて実教を退せば、悪師を信ずる失に依りて必ず三悪道に堕すべきなり。彼の不軽軽毀の衆は権人なり。大通結縁の者の三千塵点を歴しは法華経を退して権教に遷りしが故なり。法華経を信ずるの輩法華経の信を捨てて権人に随はんより外は、世間の悪業に於ては法華の功徳に及ばず。故に三悪道に堕すべからざるなり。/ 問うて云く、日本国は法華・涅槃有縁の地なりや否や。答へて云く、法華経第八に云く「如来の滅後に於て、閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」。七の巻に云く「閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」。涅槃経第九に云く「此の大乗経典大涅槃経も亦復是の如し。南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし」〈已上経文〉。三千世界広しと雖も仏自ら法華・涅槃を以て南方流布の処と定む。南方の諸国の中に於ては日本国は殊に法華経の流布すべき処なり。問うて云く、其の証 如何。答へて曰く、肇公の法華の翻経の後記に云く「羅什三蔵、須利耶蘇摩三蔵に値ひ奉りて法華経を授かる時の語に云く、仏日西山に隠れ遺耀東北を照らす。茲の典東北の諸国に有縁なり。汝慎みて伝弘せよ」已上。
東北とは日本なり。西南の天竺より東北の日本を指すなり。故に恵心の一乗要決に云く「日本一州円機純一にして、朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賤悉く成仏を期す」已上。願はくは日本国の今世の道俗選択集の久習を捨てて、法華涅槃の現文に依り、肇公・恵心の日本記を恃みて法華修行の安心を企てよ。/ 問うて云く、法華経修行の者何れの浄土を期すべきや。答へて曰く、法華経二十八品の肝心たる寿量品に云く「我常在此娑婆世界」。亦云く「我常住於此」。亦云く「我此土安穏」文。此の文の如くんば本地久成の円仏は此の世界に在せり。此の土を捨てて何れの土を願ふべきや。故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思ふべし。何ぞ煩はしく他処を求めんや。故に神力品に云く「若しは経巻所住の処ならば、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在りても、若しは山谷曠野にても、乃至当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり」。涅槃経に云く「若し善男子、是の大涅槃微妙の経典流布せらるる処は当に知るべし、其の地即ち是れ金剛なり。是の中の諸人も亦金剛の如し」已上。法華涅槃を信ずる行者は余処に求むべきに非ず。此の経を信ずる人の所住の処は即ち浄土なり。
問うて云く、華厳・方等・般若・阿含・観経等の諸経を見るに兜率・西方・十方の浄土を勧む。其の上法華経の文を見るに亦兜率・西方・十方の浄土を勧む。何ぞ此等の文に違して但此の瓦礫荊棘の穢土を勧むるや。答へて曰く、爾前の浄土は久遠実成の釈迦如来の所現の浄土にして実には皆穢土なり。法華経は亦方便寿量の二品なり。寿量品に至りて実の浄土を定むる時、此の土は即ち浄土なりと定め了んぬ。但し兜率・安養・十方の難に至りては爾前の名目を改めずして此の土に於て兜率・安養等の名を付く。例せば此の経に三乗の名有りと雖も三乗有らざるが如し。「更に観経等を指すを須ひざるなり」の釈の意是れなり。法華経に結縁無き衆生の当世西方浄土を願ふは瓦礫の土を楽ふとは是れなり。法華経を信ぜざる衆生は誠に分添の浄土無き者なり。/ 第三に涅槃経は法華経流通の為に之れを説きたまふを明かさば、問うて云く、光宅の法雲法師並びに道場の恵観等の碩徳は法華経を以て第四時の経と定め無常・熟蘇味と立つ。天台智者大師は法華涅槃同味と立つると雖も亦拾の義を存す。二師共に権化なり。互ひに徳行を具せり。何れを正と為して我等の迷心を晴らすべきや。
答へて曰く、設ひ論師訳者たりと雖も仏教に違して権実二教を判ぜずんば且く疑ひを加ふべし。何に況や唐土の人師たる天台・南岳・光宅・恵観・智儼・嘉祥・善導等の釈に於てをや。設ひ末代の学者たりと雖も依法不依人の義を存し、本経本論に違はずんば信用を加ふべし。問うて云く、涅槃経の第十四巻を開きたるに、五十年の諸大乗経を挙げて前四味に譬へ、涅槃経を以て醍醐味に譬ふ。諸大乗経は涅槃経より劣ること百千万倍と定め了んぬ。其の上迦葉童子の領解に云く「我今日より始めて正見を得。是れより前の我等、悉く邪見の人と名づく」。此の文の意は、涅槃経已前の法華等の一切衆典を皆邪見と云ふなり。当に知るべし、法華経は邪見の経にして未だ正見の仏性を明かさず。故に天親菩薩の涅槃論に諸経と涅槃との勝劣を定むる時、法華経を以て般若経に同じて同じく第四時に摂したり。豈に正見の涅槃経を以て邪見の法華経の流通と為さんや 如何。/ 答へて曰く、法華経の現文を見るに仏の本懐残すこと無し。方便品に云く「今正しく是れ其の時なり」。寿量品に云く「毎に自ら是の念を作さく、何を以てか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得しめん」。
神力品に云く「要を以て之れを言はば、如来の一切の所有の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説す」已上。此等の現文は釈迦如来の内証は皆此の経に尽くしたまふ。其の上多宝並びに十方の諸仏来集の庭に於て釈迦如来の已今当の語を証し、法華経の如き経無しと定め了んぬ。而るに多宝諸仏本土に還るの後に、但釈迦一仏のみ異変を存して、還りて涅槃経を説き法華経を卑くせば誰人か之れを信ぜん。深く此の義を存ぜよ。随って涅槃経の第九を見るに、法華経を流通して説いて云く「是の経の世に出づること、彼の菓実の一切を利益し安楽する所多きが如し。能く衆生をして仏性を見(あら)はしむ。法華の中の八千の声聞の記別を授かることを得て大菓実を成ずるが如きは、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」。此の文の如くんば法華経若し邪見ならば涅槃経も豈に邪見に非ずや。法華経は大収、涅槃経は拾なりと見え了んぬ。涅槃経は自ら法華経に劣るの由を称す。法華経の当説の文敢へて相違無し。但し迦葉の領解並びに第十四の文は法華経を下すの文に非ず。迦葉自身並びに所化の衆今始めて法華経の所説の常住仏性・久遠実成を覚る。故に我が身を指して此れより已前は邪見なりと云ふ。法華経已前の無量義経に嫌はるる諸経を涅槃経に重ねて之れを挙げて嫌ふなり。法華経を嫌ふには非ざるなり。
亦涅槃論に至りては、此等の論は書き付くるが如く天親菩薩の造、菩提流支の訳なり。法華論も亦天親菩薩の造、菩提流支の訳なり。経文に違すること之れ多し。涅槃論も亦本経に違す。当に知るべし、訳者の誤りなり、信用に及ばず。/ 問うて云く、先の教に漏れたる者を後の教に之れを承け取りて得道せしむるを流通と称せば、阿含経は華厳経の流通と成るべきや、乃至法華経は前四味の流通と成るべきや 如何。答へて曰く、前四味の諸経は菩薩人天等の得道を許すと雖も決定性の二乗・無性・闡提の成仏を許さず。其の上仏意を探りて実を以て之れを検ふるに亦菩薩人天等の得道も無し。十界互具を説かざるが故に、久遠実成無きが故に。問うて云く、証文 如何。答へて云く、法華経方便品に云く「若し小乗を以て化すること、乃至、一人に於てもせば、我則ち慳貪に堕せん。此の事は為(さだ)めて不可なり」已上。此の文の意は、今選択集の邪義を破せんが為に余事を以て詮と為さず。故に爾前得道の有無の実義は之れを出ださず。追って之れを検ふべし。但し四十余年の諸経は実に凡夫の得道無きが故に法華経を爾前の流通と為さず。法華経に於て十界互具久遠実成を顕はし了んぬ。故に涅槃経は法華経の為に流通と成るなり。
大文の第七に、問ひに随ひて答ふとは、若し末代の愚人、上の六門に依りて万が一も法華経を信ぜば、権宗の諸人、或は自ら惑へるに依り、或は偏執に依りて法華経の行者を破せんが為に、多く四十余年並びに涅槃等の諸経を引きて之れを難ぜん。而るに権教を信ずる人は之れ多く、或は威勢に依り、或は世間の資縁に依り、人の意に随ひて世路を亘らんが為にし、或は権教には学者多く、実教には智者少なし。是非に就きて万が一も実教を信ずる者有るべからず。是の故に此の一段を撰びて権人の邪難を防がん。問うて云く、諸宗の学者難じて云く「華厳経は報身如来の所説、七処八会皆頓極頓証の法門なり。法華経は応身如来の所説、教主既に優劣有り。法門に於て何ぞ浅深無からん。随って対告衆も法恵・功徳林・金剛幢等なり。永く二乗を雑へず。法華経は舎利弗等を以て対告衆と為す」〈華厳宗の難〉。法相宗の如きは解深密経等を以て依憑と為して難を加へて云く「解深密経は文殊・観音等を以て対告衆と為す。勝義生菩薩の領解には一代を有・空・中と詮す。其の中とは華厳・法華・涅槃・深密等なり。法華経の信解品の五時の領解は四大声聞なり。菩薩と声聞と勝劣天地なり」。
浄土宗の如きは道理を立てて云く「我等は法華等の諸経を誹謗するに非ず。彼等の諸経は正には大人の為、傍には凡夫の為にす。断惑証理・理深の教にして末代の我等之れを行ずるに千人の中に一人も彼の機に当たらず、在家の諸人多分は文字を見ず、亦華厳・法相等の名を聞かず。況や其の義を知らんや。浄土宗の意は我等凡夫は但口に任せて六字の名号を称すれば、現在には阿弥陀如来二十五の菩薩等を遣はして身に影の随ふが如く、百重千重に行者を囲繞して之れを守りたまふ。故に現世には七難即滅七福即生し、乃至臨終の時は必ず来迎有りて観音の蓮台に乗じ、須臾の間に浄土に至り、業に随ひて蓮華開け、法華経を聞いて実相を覚る。何ぞ煩はしく穢土に於て余行を行じて何の詮か有る。但万事を抛ちて一向に名号を称せよ」云云。禅宗等の人云く「一代聖教は月を指す指なり。天地日月等も汝等が妄心より出でたり。十方の浄土も執心の影像なり。釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変なり。文字に執する者は株(くいぜ)を守る愚人なり。我が達磨大師は文字を立てず、方便を仮らず、一代聖教の外に仏迦葉に印して此の法を伝ふ。法華経等は未だ真実を宣べず」已上。此等の諸宗の難一に非ず。如何ぞ法華経の信心を壊らざるべしや。
答へて云く、法華経の行者は心中に、四十余年・已今当・皆是真実・依法不依人等の文を存して而も外に語に之れを出ださず。難に随ひて之れを問ふべし。抑 所立の宗義何れの経に依るや。彼の経を引かば引くに随ひて亦之れを尋ねよ。一代五十年の間の説の中に法華経より先か、後か、同時なるか、亦先後不定なるかと。若し先と答へば未顕真実の文を以て之れを責めよ。敢へて彼の経の説相を尋ぬること勿れ。後と答へば当説の文を以て之れを責めよ。同時なりと答へば今説の文を以て之れを責めよ。不定と答へば不定の経は大部の経に非ず、一時一会の説にして亦物の数に非ず。其の上不定の経と雖も三説を出でず。設ひ百千万の義を立つると雖も「四十余年」等の文を載せて虚妄と称せざるより外は用ゐるべからず。仏の遺言に不依不了義経と云ふが故なり。亦智儼・嘉祥・慈恩・善導等を引きて徳を立て難ずと雖も法華涅槃に違する人師に於ては用ゐるべからず。依法不依人の金言を仰ぐが故なり。/ 亦法華経を信ぜん愚者の為に二種の信心を立つ。一には仏に就きて信を立て、二には経に就きて信を立つ。仏に就きて信を立つとは、権宗の学者来たり難じて云はん、善導和尚は三昧発得の人師、本地は弥陀の化身なり。慈恩大師は十一面観音の化身、亦筆端より舎利を雨らす。
此等の諸人は皆彼々の経々に依りて皆証有り。何ぞ汝彼の経に依らず、亦彼の師の義を用ゐざるや。答へて曰く、汝聞け。一切の権宗の大師先徳並びに舎利弗・目連・普賢・文殊・観音乃至阿弥陀・薬師・釈迦如来、我等の前に集まりて説いて云はん、法華経は汝等の機に叶はず、念仏等の権経の行を修して往生を遂げて後に法華経を覚れと。是の如き説を聞くと雖も敢へて用ゐるべからず。其の故は四十余年の諸経には法華経の名字を呼ばず。何れの処にか機の堪不堪を論ぜん。法華経に於ては多宝・釈迦・十方諸仏、一処に集まりて撰定して云く「法をして久住せしむ」、「如来の滅後に於て、閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」。此の外に今仏出来して法華経を末代不相応と定めば既に法華経に違す。知んぬ、此の仏は涅槃経に出だす所の滅後の魔仏なり。之れを信用すべからず。其の已下の菩薩・声聞・比丘等は亦言論するに及ばず。此等は不審も無し。涅槃経に記す所の滅後の魔の所変の菩薩等なり。其の故は法華経の座は三千大千世界の外四百万億阿僧祇の世界なり。其の中に充満せる菩薩・二乗・人天・八部等皆如来の告勅を蒙り、各々所在の国土に法華経を弘むべきの由之れを願ひぬ。善導等若し権者ならば何ぞ竜樹・天親等の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや。法華経の告勅の数に入らざるや、
何ぞ仏の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや。若し此の義無くんば設ひ仏たりと雖も之れを信ずべからず。今は法華経の中の仏を信ず、故に仏に就きて信を立つと云ふなり。/ 問うて云く、釈迦如来の所説を他仏之れを証するを実説と称せば何ぞ阿弥陀経を信ぜざるや。答へて云く、阿弥陀経に於ては法華経の如き証明無きが故に之れを信ぜず。問うて云く、阿弥陀経を見るに、釈迦如来の所説の一日七日の念仏を、六方の諸仏舌を出だし、三千を覆ひて之れを証明せり。何ぞ証明無しと云ふや。答へて云く、阿弥陀経に於ては全く法華経の如き証明無し。但釈迦一仏、舎利弗に向かひて説いて言く、我一人阿弥陀経を説くのみに非ず、六方の諸仏舌を出だし三千を覆ひて阿弥陀経を説くと云ふと雖も、此等は釈迦一仏の説なり、敢へて諸仏は来たりたまはず。此等は権文なり。四十余年の間は教主も権仏・始覚の仏なり。仏権なるが故に所説も亦権なり。故に四十余年の権仏の説は之れを信ずべからず。今の法華涅槃は久遠実成の円仏の実説なり。十界互具の実言なり。亦多宝十方の諸仏来たりて之れを証明したまふ。故に之れを信ずべし。阿弥陀経の説は無量義経の未顕真実の語に壊れ了んぬ。全く釈迦一仏の語にして諸仏の証明には非ざるなり。
二に経に就きて信を立つとは、無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云ふ。涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因りて法利を得と知れば、宜しきに随ひて方便して則ち為に之れを説きたまふ」。又云く「了義経に依りて不了義経に依らざれ」已上。是の如きの文一に非ず。皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す。是れ皆人をして其の経を捨てて法華涅槃に入らしめんが為なり。而るに何の恃み有りて妄語の経を留めて行儀を企て得道を期するや。今権教の情執を捨てて偏に実経を信ず。故に経に就きて信を立つと云ふなり。/ 問うて云く、善導和尚も人に就きて信を立て、行に就きて信を立つ。何の差別有らんや。答へて曰く、彼れは阿弥陀経等の三部に依りて之れを立て、一代の経に於て了義経・不了義経を分かたずして之れを立つ。故に法華涅槃の義に対して之れを難ずる時は其の義壊れ了んぬ。/ 守護国家論

◆ 十法界事 〔C6・正元元年〕/ 二乗三界を出でざれば即ち十法界の数量を失ふ云云。/ 問ふ、十界互具を知らざる者、六道流転の分段の生死を出離して変易の土に生ずべきや。答ふ、二乗は既に見思を断じ三界の生因無し。底(なに)に由りてか界内の土に生ずることを得ん。是の故に二乗は永く六道に生ぜず。故に玄の第二に云く「夫れ変易に生ずるに則ち三種有り。三蔵の二乗、通教の三乗、別教の三十心」已上。此の如き等の人は皆通惑を断じ、変易の土に生ずることを得て、界内分段の不浄の国土に生ぜず。/ 難じて云く、小乗の教は但是れ心生の六道を談じて是れ心具の六界を談ずるに非ず。是の故に二乗は六界を顕はさず、心具を談ぜず。云何ぞ但六界の見思を断じて六道を出づべきや。故に寿量品に云へる「一切世間天人阿修羅」とは、爾前迹門両教の二乗三教の菩薩並びに五時の円人を皆天人・修羅と云ふ。豈に未断見思の人と云ふに非ずや。答ふ、十界互具とは法華の淵底、此の宗の沖微なり。四十余年の諸経の中には之れを秘して伝へず。但し四十余年の諸の経教の中に無数の凡夫見思を断じて無漏の果を得、能く二種の涅槃の無為を証し、塵数の菩薩通別の惑を断じ、頓に二種の生死の縛を超ゆ。
無量義経の中に四十余年の諸経を挙げて、未顕真実と説くと雖も而も猶爾前三乗の益を許す。法華の中に於て「正直捨方便」と説くと雖も尚「見諸菩薩授記作仏」と説く。此の如き等の文爾前の説に於て当分の益を許すに非ずや。但し爾前の諸経に二事を説かず、謂く、実の円仏無く又久遠実成を説かず。故に等覚の菩薩に至るまで近成を執するの思ひ有り。此の一辺に於て天人と同じく能迷の門を挙げ、生死煩悩一時に断壊することを証せず。故に唯未顕真実と説けり。六界の互具を明かさざるが故に出づべからずとは此の難甚だ不可なり。六界互具せば即ち十界互具すべし。何となれば、権果の心生とは六凡の差別なり。心生を観ずるに何ぞ四聖の高下無からんや。/ 第三重の難に云く、所立の義誠に道理有るに似たり。委しく一代聖教の前後を検するに、法華本門並びに観心の智恵を起こさざれば円仏と成らず。故に実の凡夫にして権果だも得ず。所以に彼の外道五天竺に出でて四顛倒を立つ。如来出世して四顛倒を破せんが為に苦空等を説く。此れ則ち外道の迷情を破せんが為なり。是の故に外道の我見を破して無我に住するは火を捨てて以て水に随ふが如し。
堅く無我を執して見思を断じ六道を出づると謂へり。此れ迷ひの根本なり。故に色心倶滅の見に住す。大集等の経々に断常の二見と説くは是れなり。例せば有漏外道の自らは得道なりと念へども無漏智に望むれば未だ三界を出でざるが如し。仏教に値はずして三界を出づるといはば是の処(ことわり)有ること無し。小乗の二乗も亦復是の如し。鹿苑施小の時には外道の我を離れて無我の見に住す。此の情を改めずして四十余年、草庵に止宿するの思ひには暫くも離るる時無し。又大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず。又或時は九界の色心を断じ尽くして仏界の一理に進む。是の故に自ら念はく、三惑を断じ尽くして変易の生を離れ寂光に生まるべしと。然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり。進みて仏界に昇れば即ち常見と為す。九界の色心の常住を滅すと欲ふは豈に九法界に迷惑するに非ずや。又妙楽大師の云く「但し心を観ずと言はば則ち理に称はず」文。此の釈の意は、小乗の観心は小乗の理に称はざるのみ。又天台の文句第九に云く「七方便並びに究竟の滅に非ず」已上。此の釈は是れ爾前の前三教の菩薩も実には不成仏と云へるなり。/ 但し未顕真実と説くと雖も三乗の得道を許し、正直捨方便と説くと雖も而も見諸菩薩授記作仏と云ふは、天台宗に於て三種の教相有り。
第二の化導の始終の時、過去の世に於て法華結縁の輩有り。爾前の中に於て且く法華の為に三乗当分の得道を許す。所謂 種熟脱の中の熟益の位なり。是れは尚迹門の説なり。本門観心の時は是れ実義に非ず。一往許すのみ。其の実義を論すれば如来久遠の本に迷ひ、一念三千を知らざれば永く六道の流転を出づべからず。故に釈に云く「円乗の外を名づけて外道と為す」文。又「諸善男子楽於小法徳薄垢重者」と説く。若し爾れば経釈共に道理必然なり。/ 答ふ、執難有りと雖も其の義不可なり。所以は如来の説教は機に備はりて虚しからず。是れを以て頓等の四教、蔵等の四教は八機の為に設くる所にして得益無きに非ず。故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別あり」と説く。誠に知んぬ、「終に無上菩提を成ずることを得ず」と説くと雖も而も三法四果の益無きに非ず。但是れ速疾頓成と歴劫迂回との異なりなるのみ。是れ一向に得道無きに非ざるなり。是の故に或は三明六通も有り、或は普現色身の菩薩も有り、縦ひ一心三観を修して以て同体の三惑を断ぜざれども既に析智を以て見思を断ず。何ぞ二十五有を出でざらん。是の故に解釈に云く「若し衆生に遇ひて小乗を修せしめば我則ち慳貪に堕せん。此の事不可なりと為す。祇(ただ)二十五有を出づ」已上。当に知るべし。此の事不可と説くと雖も而も出界有り。
但是れ不思議の空を観ぜざるが故に不思議の空智を顕はさずと雖も何ぞ小分の空解を起こさざらん。/ 若し空智を以て見思を断ぜずと云はば開善の無声聞の義に同ずるに非ずや。況や今経は正直捨権純円一実の説なり。諸の爾前の声聞の得益を挙げて「諸漏已に尽きて復煩悩無し」と説き、又「実に阿羅漢を得、此の法を信ぜず是の処(ことわり)有ること無し」と云ひ、又「三百由旬を過ぎて一城を化作す」と説く。若し諸の声聞全く凡夫に同ぜば五百由旬一歩も行くべからず。又云く「自ら所得の功徳に於て滅度の想ひを生じて当に涅槃に入るべし。我余国に於て作仏して更に異名有らん。是の人滅度の想ひを生じて涅槃に入ると雖も而も彼の土に於て仏の智恵を求めて是の経を聞くことを得ん」已上。此の文既に証果の羅漢法華の座に来たらずして無余涅槃に入り方便土に生じて法華を説くを聞くと見えたり。若し爾らば既に方便土に生じて何ぞ見思を断ぜざらん。是の故に天台妙楽も「彼土得聞」と釈す。又爾前の菩薩に於て「始めて我が身を見、我が所説を聞いて即ち皆信受し如来恵に入りにき」と説く。故に知んぬ、爾前の諸の菩薩三惑を断除して仏恵に入ることを。故に解釈に云く「初後の仏恵、円頓の義斉し」已上。或は云く「故に始終を挙ぐるに、意仏恵に在り」。
若し此等の説相経釈共に非義ならば正直捨権の説・唯以一大事の文・妙法華経皆是真実の証誠皆以て無益なり。皆是真実の言は豈に一部八巻に亘るに非ずや。釈迦・多宝・十方分身の舌相至梵天の神力・三世諸仏の誠諦不虚の証誠空しく泡沫に同ぜん。但し小乗の断常の二見に至りては且く大乗に対して小乗を以て外道に同ず。小益無きに非ざるなり。又「七方便並びに究竟の滅に非ず」の釈、或は復「但し心を観ずと言はば則ち理に称はず」とは、又是れ円実の大益に対して七方便の益を下して並びに非究竟滅・即不称理と釈するなり。/ 第四重の難に云く、法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに庵羅果を取りて掌中に捧ぐるが如し。所以は何ん。迹門の大教起これば爾前の大教亡じ、本門の大教起これば迹門爾前亡じ、観心の大教起これば本迹爾前共に亡ず。此れは是れ如来所説の聖教、従浅至深して次第に迷ひを転ずるなり。然れども如来の説は一人の為にせず。此の大道を説いて迷情除かざれば生死出で難し。若し爾前の中に八教有りとは頓は則ち華厳、漸は則ち三味、秘密と不定とは前四味に亘る。蔵は則ち阿含方等に亘る、通は是れ方等般若、円別は是れ則ち前四味の中に鹿苑の説を除く。此の如く八機各々不同なれば教説も亦異なるなり。
四教の教主亦是れ不同なれば当教の機根余仏を知らず。故に解釈に云く「各々仏独り其の前に在すと見る」已上。人天の五戒十善・二乗の四諦十二・菩薩の六度三祇百劫或は動踰塵劫或は無量阿僧祇劫・円教の菩薩の初発心時便成正覚。明らかに知んぬ、機根別なるが故に説教亦別なり。教別なるが故に行も亦別なり。行別なるが故に得果も別なり。此れ則ち各別の得益にして不同なり。/ 然るに今法華方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説きたまふ。爾の時八機並びに悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り、互ひに五眼を具し、一界に十界を具し、十界に百界を具せり。是の時爾前の諸経を思惟するに諸経の諸仏は自界の二乗を、二乗は又菩薩界を具せず。三界の人天の如きは成仏の望み絶えて二乗菩薩の断惑即ち是れ自身の断惑なりと知らず、三乗四乗の智恵は四悪趣を脱るるに似たりと雖も互ひに界々を隔て而も皆是れ一体なり。昔の経は二乗は但自界の見思を断除すと思ひて六界の見思を断ずることを知らず。菩薩も亦是の如し。自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず。真実に証する時、一衆生即十衆生、十衆生即一衆生なり。若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ずべからず。
是の如く説くと雖も迹門は但九界の情を改め十界互具を明かす。故に即ち円仏と成るなり。爾前当分の益を嫌ふこと無きが故に「三界の諸漏已に尽き三百由旬を過ぎて始めて我が身を見る」と説けり。又爾前入滅の二乗は実には見思を断ぜず。故に六界を出でずと雖も迹門は二乗作仏の本懐なり。故に「彼の土に於て是の経を聞くことを得」と説く。既に「彼の土に聞くことを得」と云ふ。故に知んぬ、爾前の諸経には方便土無し。故に実には実報並びに常寂光無し。菩薩の成仏を明かす。故に実報寂光を仮立す。然れども菩薩に二乗を具す。二乗成仏せずんば菩薩も成仏すべからざるなり。衆生無辺誓願度も満ぜず。二乗の沈空尽滅は即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり。凡夫六道を出でざれば二乗も六道を出づべからず。尚下劣の方便土を明かさず。況や勝れたる実報寂光を明かさんや。実に見思を断ぜば何ぞ方便を明かさざらん。菩薩実に実報寂光に至らば何ぞ方便土に至ること無からん。但断無明と云ふが故に仮に実報寂光を立つと雖も、而も上の二土無きが故に同居の中に於て影現の実報寂光を仮立す。然るに此の三百由旬は実には三界を出づること無し。
迹門には但是れ始覚の十界互具を説いて未だ必ずしも本覚本有の十界互具を明かさず。故に所化の大衆・能化の円仏皆是れ悉く始覚なり。若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや。当に知るべし、四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり。是の故に無始の本仏を知らず。故に無始無終の義欠けて具足せず。又無始色心常住の義無し。但し「是法住法位」と説くことは、未来常住にして是れ過去常に非ざるなり。本有の十界互具を顕はさざれば本有の大乗菩薩界無きなり。故に知んぬ、迹門の二乗は未だ見思を断ぜず、迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず、六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり。故に涌出品に至りて爾前迹門の断無明の菩薩を「五十小劫半日の如しと謂へり」と説く。是れ則ち寿量品の久遠円仏の非長非短不二の義に迷ふが故なり。爾前迹門の断惑とは外道の有漏断の退すれば起こるが如し。未だ久遠を知らざるを以て而も惑者の本と為すなり。故に四十一品断の弥勒、本門立行の発起・影響・当機・結縁の地涌千界の衆を知らず。既に一分の無始の無明を断じて而も十界の一分の無始の法性を得たり、何ぞ等覚の菩薩を知らざらん。
設ひ等覚の菩薩を知らざれども争でか当機結縁の衆を知らざらん。「乃し一人をも識らず」の文は最も未断三惑の故か。是れを以て本門に至り則ち爾前迹門に於て随他意の釈を加へ、又天人修羅に摂し「貪著五欲、妄見網中、為凡夫顛倒」と説く。釈の文には「我坐道場、不得一法」と云ふ。蔵通両仏の見思断も、別円二仏の無明断も、並びに皆見思無明を断ぜず。故に随他意と云ふ。所化の衆生三惑を断ずと謂へるは是れ実の断に非ず。/ 答への文に開善の無声聞の義に同ずとは汝も亦光宅の有声聞の義に同ずるか。天台は有無共に破すなり。開善は爾前に於て無声聞を判じ、光宅は法華に於て有声聞を判ず。故に有無共に難有り。天台は「爾前には則ち有り、今経には則ち無し。所化の執情には則ち有り、長者の見には則ち無し」。此の如きの破文皆是れ爾前迹門相対の釈にて有無共に今の難に非ざるなり。但し「七方便並びに究竟の滅に非ず」又「但し心を観ずと言はば則ち理に称はず」との釈は、円益に対し当分の益を下して「並非究竟滅」、「即不称理」と云ふなりと云はば、金論の「偏に清浄の真如を指す、尚小の真を失へり、仏性安んぞ在らん」と云ふ釈をば云何が会すべき。但し此の「尚小の真を失へり」の釈は常には出だすべからず、最も秘蔵すべし。
但し「妙法蓮華経皆是真実」の文を以て迹門に於て爾前の得道を許すが故に爾前得道の義有りといふは、此れは是れ迹門を爾前に対して真実と説くか。而も未だ久遠実成を顕はさず、是れ則ち彼の未顕真実の分域なり。所以に無量義経に大荘厳等の菩薩の四十余年の得益を挙ぐるを、仏の答ふるに「未顕真実」の言を以てす。又涌出品の中に弥勒疑って云く「如来太子為りし時釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、乃至四十余年を過ぐ」已上。仏答へて云く「一切世間の天人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からずして、三菩提を得たまへりと謂へり。我実に成仏してより以来」已上。我実成仏とは寿量品已前を未顕真実と云ふに非ずや。是の故に記の九に云く「昔七方便より誠諦に至るまでは七方便の権と言ふは且く昔の権に寄す。若し果門に対すれば権実倶に是れ随他意なり」已上。此の釈は明らかに知んぬ、迹門をも尚随他意と云ふなり。寿量品の「皆実不虚」を天台釈して云く「円頓の衆生に約すれば迹本二門に於て一実一虚なり」已上。記の九に云く「故に知んぬ、迹の実は本に於て猶虚なり」已上。迹門既に虚なること論に及ぶべからず。
但し皆是真実とは、若し本門に望むれば迹は是れ虚なりと雖も一座の内に於て虚実を論ず、故に本迹両門倶に真実と言ふなり。例せば迹門法説の時、譬説・因縁の二周も此の一座に於て聞知せざること無し、故に名づけて顕と為すが如し。記の九に云く「若し方便教は二門倶に虚なり。因門開し竟りて果門に望むれば則ち一実一虚なり。本門顕はれ竟れば則ち二種倶に実なり」已上。此の釈の意は、本門未だ顕はれざる以前は本門に対すれば尚迹門を以て名づけて虚と為す、若し本門顕はれ已りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に、天月・水月本有の法と成りて本迹倶に三世常住と顕はるるなり。一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因と言ひ、一切衆生の本覚を名づけて本門の円果と為す。修一円因感一円果とは是れなり。是の如く法門を談ずるの時、迹門爾前は若し本門顕はれざれば六道を出でず、何ぞ九界を出でんや。
◆ 爾前二乗菩薩不作仏事 〔C3・正元元年〕/ 問うて云く、二乗永不成仏の教に菩薩の作仏を許すべきや。答へて云く、楞伽経第二に云く「大恵、何者か無性乗なる、謂く一闡提なり。大恵、一闡提とは涅槃の性無し。何を以ての故に、解脱の中に於て信心を生ぜず涅槃に入らざる。大恵、一闡提とは二種あり、何等をか二と為す。一には一切の善根を焚焼す。二には一切衆生を憐愍して尽一切衆生界の願を作す。大恵、云何が一切の善根を焚焼する。謂く、菩薩蔵を謗じて是の如き言を作す。彼の修多羅毘尼解脱の説に随順するに非ず、諸の善根を捨つと、是の故に涅槃を得ず。大恵、衆生を憐愍して衆生界を尽くさんとの願を作すは是れを菩薩と為す。大恵菩薩方便して願を作す。若し諸の衆生の涅槃に入らざれば我も亦涅槃に入らずと。是の故に菩薩摩訶薩涅槃に入らず。大恵、是れを二種の一闡提と名づく。涅槃の性無し。是の義を以ての故に決定して一闡提の行を取る。大恵菩薩、仏に白して言さく、世尊、此の二種の一闡提、何等の一闡提か常に涅槃に入らざる。仏大恵に告げたまはく、菩薩摩訶薩の一闡提は常に涅槃に入らず。何を以ての故に。能善く一切諸法、本来涅槃なりと知るを以て、是の故に涅槃に入らず。一切の善根を捨つる闡提に非ず。何を以ての故に。
大恵、彼の一切の善根を捨つる闡提は、若し諸仏善知識等に値ひたてまつれば菩提心を発し諸の善根を生じ便ち涅槃を証す」等云云。此の経文に「若し諸の衆生涅槃に入らざれば我も亦涅槃に入らじ」等云云。前四味の諸経に二乗作仏を許さず。之れを以て之れを思ふに、四味諸経の四教の菩薩の作仏も有り難きか。華厳経に云く「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」等云云。一切の菩薩必ず四弘誓願を発すべし。其の中の衆生無辺誓願度の願之れを満せざれば、無上菩提誓願証の願又成じ難し。之れを以て之れを案ずるに、四十余年の文二乗に限らば菩薩の願又成じ難きか。/ 問うて云く、二乗成仏之れ無ければ菩薩の成仏も之れ無き正しき証文 如何。答へて云く、涅槃経三十六に云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も、必ずしも一切皆悉く之れ有らず。是の故に名づけて信不具足と為す」〈三十六本三十二〉。此の文の如くんば、先四味の諸菩薩は皆一闡提の人なり。二乗作仏を許さず、二乗の作仏を成ぜざるのみに非ず、将又菩薩の作仏も之れを許さざる者なり。之れを以て之れを思ふに、四十余年の文二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之れ無きなり。一乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く、仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切皆悉く之れ有らず。是の故に名づけて信不具足と為す〈三十六本三十二〉。
第三十一に説く、一切衆生及び一闡提に悉く仏性有りと信ずるを、菩薩の十法の中の第一の信心具足と名づく〈三十六本第三十〉。一切衆生悉有仏性を明かすは是れ少分に非ず。若し猶堅く少分の一切なりと執せば唯経に違するのみにあらず亦信不具なり。何に因りてか楽ひて一闡提と作るや。此れに由りて全分の有性を許すべし。理亦一切の成仏を許すべし」。慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば常に闡提と為る。大智の辺に約すれば亦当に作仏すべし。宝公の云く、大悲闡提は是れ前経の所説なり。前説を以て後説を難ずべからざるなり。諸師の釈意大途之れに同じ」文。金の注に云く「境は謂く四諦なり、百界三千の生死は即ち苦なり。此の生死即ち是れ涅槃なりと達するを衆生無辺誓願度と名づく。百界三千三惑を具足す。此の煩悩即ち是れ菩提なりと達するを煩悩無辺誓願断と名づく。生死即涅槃なれば円の仏性を証するは即ち仏道無上誓願成なり。惑即菩提にして般若に非ざること無ければ即ち法門無尽誓願知なり。惑智無二なれば生仏体同じ。苦集唯心、四弘融摂、一即一切なり、斯の言徴有り」文。慈覚大師の速証仏位集に云く「第一に唯今経の力用仏の下化衆生の願を満す。故に世に出でて之れを説く。所謂 諸仏の因位・四弘の願・利生断惑・知法作仏なり。
然るに因円果満なれば後の三の願は満ず。利生の一願甚だ満じ難しと為す。彼の華厳の力十界皆仏道を成ずること能はず。阿含・方等・般若も亦爾なり。後番の五味皆成仏道の本懐なること能はず。今此の妙経は十界皆成仏道なること分明なり。彼の達多無間に堕するに天王仏の記を授け、竜女成仏し、十羅刹女も仏道を悟り、阿修羅も成仏の総記を受け、人天・二乗・三教の菩薩円妙の仏道に入る。経に云く、我が昔の所願の如きは今は已に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ云云。衆生界尽きざるが故に、未だ仏道に入らざる衆生有りと雖も然れども十界皆成仏すること唯今経の力に在り。故に利生の本懐なり」云云。又云く「第一に妙経の大意を明かさば、諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し、一切衆生悉有仏性と説く。聞法・観行皆当に作仏すべし。/ 抑 仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたまふや。天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云く、如来五種の過失を除き、五種の功徳を生ずるが為の故に、一切衆生悉有仏性と説きたまふ。謂く、五種の過失とは、一には下劣心、二には高慢心、三には虚妄執、四には真法を謗じ、五には我執を起こす。五種の功徳とは、一には正勤、二には恭敬、三には般若、四には闍那、五には大悲なり。
生ずること無しと疑ふが故に大菩提心を発すこと能はざるを下劣心と名づけ、我に性有りて能く菩提心を発すと謂へるを高慢と名づけ、一切の法無我の中に於て有我の執を作すを虚妄執と名づけ、一切諸法の清浄の智恵功徳を違謗するを謗真法と名づけ、意唯己を存して一切衆生を憐れむことを欲せざるを起我執と名づく。此の五に翻対して定めて性有りと知りて菩提心を発す」。/ 日蓮花押
◆ 爾前得道有無御書 〔C6・文永六年頃か〕/ 爾前当分跨節の両得道有無の事。仏滅後月氏には一千年の間、論師は心に存して之れを弘めず。仏法漢土に渡りて五百余年、二百六十余の訳者人師も此の義無し。陳隋の初めに天台智者大師一人始めて此の義を立てたまふ。日本国には欽明より桓武に至るまで二百余年、又此の義を知らず。伝教大師始めて之れを覚り粗之れを弘通したまへり。其の後今に至るまで四百余年、漸々に習ひ失ひて当世は知れる人之れ無し。纔かに之れを知れども夢の如く囈語(ねごと)の如し。今日蓮宿習有りて粗之れを覚知す。此の国の道俗の習ひ高慢無智にして日蓮を蔑如して之れを習はず。而るに国主は狂へるが如く万民は矜を為し、終に苦海に沈まんか。諸人未だ之れを知らず。余宗余家の学者が此の義を習はんの時は先づ爾前の経々に当分跨節の得道有るの由、粗之れを知らしめて、復返りて彼の義を破して、之れを建立するなり。/ 所謂 天台宗の意は四教を立てて一代を摂尽す。四教とは蔵通別円是れなり。蔵に三有り、所謂 阿含の蔵・方等の蔵・涅槃の蔵なり。尽くして一の蔵と為し三蔵教と称す。通に三有り、所謂 方等の通・般若の通・涅槃の通なり。束ねて一の通と為す。
別に四有り、所謂 華厳の別・方等の別・般若の別・涅槃の別なり。束ねて一の別と為せり。円に五有り、所謂 華厳の円・方等の円・般若の円・法華の円・涅槃の円。束ねて一の円と為せり已上。一代を以て四教に摂尽するに一句一字も残らず。/ 此の四教の中に三蔵は小乗教なり。七賢七聖を立つ、七賢は未断見思の位なり。然りと雖も忍世第一に入れば不退の位に住して永く四悪趣に還らず。世々生々に生まれて人天に往き終に七聖に入る。七聖とは已断見思の位なり。所謂「見惑を破するが故に四悪趣を離れ、思惑を破するが故に三界の生を離る」とは是れなり。縁覚も此の如し。菩薩も亦見思を断じて成仏す。当分の得道とは是れなり。通教は大乗の初門なり。十地有り。乾恵と性地との二地は賢位にして未断見思なり。三蔵の七賢の如し。第三地より第十地に至るまで八地有り。声聞は三地より七地に至るまでに見思を断じ畢る。縁覚は第八地に留まり、菩薩は第九地・第十地に至りて、見思を断じ尽くして分に成仏す。是れも又当分の得道なり。別教は五十二位を立つ。所謂 十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚なり。十信に見思を伏す。蔵の七賢、通の初地二地の如し。十住は初住に見を断じ二住より七住に至るまでに思惑を断尽す。蔵の七聖・通の下の八地の如し。
十住の下の三住に上品の塵沙を断じ、十行・十回向に中下品の塵沙を尽くす。十回向の後心に無明を伏し、初地に至りて一品の無明を断じ、乃至等覚妙覚に十二品を断ず。此の仏は二種の生死を超過す。円教にも同じく五十二位を立つ。其の名は別教の如く、其の義は水火の異なり。第一の初信に見惑を断じ、第二信より第七信に至るまでに思惑を断ずること、蔵通の七聖下の八地と別の十住の初住より七住に至るとの如し。八九十の後の三信は次での如く上中下の三品の塵沙を断す。第十信の後心には無明を伏すること、別の十回向の後心の如し。十住・十行・十回向・十地・等・妙には四十二品の無明之れを断尽し畢んぬ。此れは即ち爾前の三の円・跨節の得道なり。/ 今浄土の三部経は、天台の意に依れば前四味の中には方等部なり。具に四教を説く。観経の中に蔵を以ては阿含・方等・般若・涅槃の三蔵教を摂尽す。通を以ては方等・般若・涅槃の通之れを摂尽す。別を以ては華厳・方等・般若・涅槃の別之れを摂尽す。円を以ては華厳・方等・般若・法華・涅槃の円之れを摂尽す。一代聖教をば観経に摂尽し、八万法蔵をば阿弥陀の三字に収蔵す。末代の凡夫に南無阿弥陀仏と唱へしむ、豈に大善根に非ずや。其の上観無量寿経の心は末代悪世を以て面と為し、未断惑の凡夫に六字の名号を唱へしめ、他力本願に乗じて同居の浄土に往生せしむ。
此れ偏に天台大師の本意竜樹菩薩の所欲なり。三国一同の正義なり。但し二乗作仏と久遠実成計りは観経に之れ無し。末代の凡夫は二乗作仏に非ず。久遠実成の教主釈尊の事を、我等は之れを沙汰して何か為と。/ 此の外華厳宗・三論宗・法相宗・真言宗・禅宗・浄土宗等は天台の教相を一分も之れを用ゐず。各正に我が宗の元祖を崇重し、曾て自宗の依経を重んずること宛も天台の法華経を信仰するが如し。所謂 華厳宗は法華経を以て華厳経の方便と為し、方便の法華経すら尚得道有り、真実の華厳経何ぞ成仏無からんやと。真言宗は顕密の二道を分かてり。法華経は顕教にして釈尊の所説なり。民の万言の如く、空拳を捧げて小児を誑かすが如くなり。密教は大日如来の所説なり。天子の一言の如し。猶雲霧を払ひて満月を見るが如し。空拳の方便たる法華すら尚当分の得道之れ有り、最上秘密の真言教に豈に跨節の成仏之れ無からんや。秘密は三国大同治国の法、諸宗一帰の密宗なりと。法相宗云く「法華の一乗は方便の教、深密の五意は真実の教なり」等云云。三論宗云く「般若経は三世の諸仏の智母、一切衆生の慈父なり。後生は且く之れを置く。今生を以て之れを案ずるに、帝釈・竜王・修羅と戦ふの時何れの経をか用ゐん。仁王経是れなり。
普明の死を脱する豈に仏力に非ずや。現を以て当を推するに第一の秘法なり。月氏・漢土・日本異なりと雖も、三国一同に最初の本宗なり。何ぞ邪義を以て当分跨節の得道之れ無しと為んや」。/ 其の上法華・涅槃の二経を見聞するに爾前の得益之れを許すこと之れ多し。序分に列ぬる所の二界八番の衆、皆爾前得道の人々なり。舎利弗方等の時を挙げて云く「我昔、仏に従ひて是の如き法を聞き、諸の菩薩の授記作仏を見たり」等云云。譬喩品に云く「羊車・鹿車・牛車」云云。化城喩品に云く「三百由旬を過ぐ」云云。涌出品に云く「始め我が身を見、我が所説を聞きて、即ち皆信受して如来の恵に入りにき」云云。涅槃経に云く「我初め成道」等云云。天台の云く「此の妙と彼の妙、妙の義殊なること無し」云云。或は云く「初後の仏恵、円頓の義斉し」云云。或は云く「他経は但菩薩に記して二乗に記せず」等云云。又妙楽の云く「菩薩処々に入ることを得」等云云。爾前の得道之れを許すの文釈以て此の如し。/ 其の上一大事の大難之れ有り。法華已前四十余年の其の間の得道の人々は 如何。此の如き重々の大難之れ有り。此等の諸難一々に之れを挙げ条を取るに大火に乾草を投げ大海に小火を入るるが如し。
自宗諸宗重々の不審を打ち滅し畢んぬ。爾前の経々には一分も得道無しと申し候なり。然りと雖も身に当たりて易き事国土に之れを知らざるか。諸人不審を残し候か。我慢を捨てて之れを学ばば何ぞ之れを悟らざらんや。/ 日蓮花押
◆ 二乗作仏事 〔C6・文永八年頃か〕/ 爾前得道の旨たる文。経に云く「見諸菩薩」等云云。又云く「始見我身」等。此等の文の如きは、菩薩初地初住に叶ふ事有ると見えたるなり。故に「見諸菩薩」の文の下には「而我等不預斯事」。又「始見」の文の下には「除先修習」等云云。此れは爾前に二乗作仏無しと見えたる文なり。/ 問ふ、顕露定教には二乗作仏を許すや。顕露不定教には之れを許すか。秘密には之れを許すか。爾前の円には二乗作仏を許すや。別教には之れを許すか。答ふ、所詮は重々の問答有りと雖も皆之れを許さざるなり。所詮は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許されざるか。衆生無辺誓願度の願の欠くるが故なり。釈は菩薩の得道と見えたる経文を消する許りなり。所詮 華・方・般若の円の菩薩も初住に登らず。又凡夫二乗は勿論なり。「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」の文の下にて此の事は意得べきなり。/ 問ふ、円の菩薩に向かひては二乗作仏を説くか。答ふ、説かざるなり。「未だ曾て、人に向かひて此の如き事を説かず」の釈に明らかなり。問ふ、華厳経の三無差別の文は十界互具の正証なりや。答ふ、次下の経に云く〈二十五〉「如来智恵の大薬王樹は唯二所を除き生長することを得ず。所謂 声聞・縁覚なり」等云云。二乗作仏を許さずと云ふ事分明なり。
若し爾らば本文は十界互具と見えたれども、実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか。其の上爾前の経は法華経を以て定むべし。既に「除先修習」等云云と云ふ。華厳は菩薩に向かひて二乗作仏無しと云ふ事分明なり。方等般若も又以て此の如し。総じて爾前の円に意得べき様二有り。一には阿難結集の已前に仏は、一音に必ず別円二教の義を含ませ、一々の音に必ず四教三教を含ませ給へるなり。故に純円の円は爾前経には無きなり。故に円と云へども今の法華経に対すれば別に摂すと云ふなり。籤の十に「又一々の位に皆普賢行布の二門有り、故に知んぬ、兼ねて円門を用ゐて別に摂す」と釈するなり。此の意にて爾前に得道無しと云ふなり。二には阿難結集の時多羅葉に注す、一段は純別・一段は純円に書けるなり。方等般若も此の如し。此の時は爾前の純円に書ける処は粗法華に似たり。「住の中には多く円融の相を明かす」等と釈するは此の意なり。天台智者大師は此の道理を得給ひし故に他師の華厳など総じて爾前の経を心得しには、たがひ給へるなり。此の二の法門をば如何として天台大師は心得給ひしぞとさぐれば、法華経の信解品等を以て一々の文字、別円の菩薩及び四教三教なりけりとは心得給ひしなり。
又此の智恵を得るの後、彼等の経に向かひて見る時は、一向に別、一向に円等と見えたる処あり。阿難結集後のしはざなりけりと見給へるなり。/ 天台一宗の学者の中に此の道理を得ざるは、爾前の円と法華の円と始終同義と思ふ故に、一処のみ円教の経を見て一巻二巻等純円の義を存す故に、彼の経等に於て成仏往生の義理を許す人々是れ多きなり。華厳・方等・般若・観経等の本文に於て、阿難円教の巻を書くの日に即身成仏云云、即得往生等とあるを見て、一生乃至順次生に往生成仏を遂げんと思ひたり。阿難結集已前の仏口より出だす所の説教にて意を案ずれば、即身成仏・即得往生の裏に歴劫修行・永不往生の心を含めり。句の三に云く摂論を引きて云く「了義経は文に依りて義を判ず」等と云ふ意なり。爾前の経を文の如く判ぜば仏意に乖くべしと云ふ事は是れなり。記の三に云く「法華已前は不了義の故」と云へり、此の心を釈せるなり。籤の十に云く「唯此の法華のみ前教の意を説き今経の意を顕はす」。釈の意は是れなり。/ 抑 他師と天台との意の殊なる様は如何と云ふに、他師は一々の経々に向かひて彼の経々の意を得たりと謂へり。
天台大師は法華経に仏四十余年の経々を説き給へる意をもって諸経を釈する故に、阿難尊者の書きし所の諸経の本文にたがひたる様なれども仏意に相叶ひたるなり。且く観経の疏の如き経説には見えざれども一字に於て四教を釈す。本文は一処は別教、一処は円教、一処は通教に似たり。釈の四教に亘るは法華の意を以て仏意を知りたまふ故なり。阿難尊者の結集する経にては一処は純別、一処は純円に書き、別円を一字に含する義をば法華にて書きけり。法華にして爾前の経の意を知らしむるなり。若し爾らば一代聖教は反覆すと雖も法華経無くんば一字も諸経の心を知るべからざるなり。又法華経を読誦する行者も此の意を知らずんば法華経を読むにては有るべからず。爾前の経は深経なればと云ひて浅経の意をば顕はさず、浅経なればと云ひて又深義を含まざるにも非ず。法華経の意は一々の文字は皆爾前経の意を顕はし、法華経の意をも顕はす。故に一字を読めば一切経を読むなり。一字を読まざるは一切経を読まざるなり。若し爾らば法華経無き国には諸経有りと雖も得道は難かるべし。滅後に一切経を読むべき様は華厳経にも必ず法華経を列ねて彼の経の意を顕はし、観経にも必ず法華経を列ねて其の意を顕はすべし。諸経も又以て此の如し。
而るに月支の末の論師及び震旦の人師此の意を弁へず、一経を講じて各我得たりと謂ひ、又超過諸経の謂ひを成せるは曾て一経の意を得ざるのみに非ず、謗法の罪に堕するか。/ 問ふ、天竺の論師・震旦の人師の中に天台の如く阿難結集已前の仏口の諸経を此の如く意得たる論師人師之れ有るか。答ふ、無著菩薩の摂論には四意趣を以て諸経を釈し、竜樹菩薩の大論には四悉檀を以て一代を得たり。此等は粗此の意を釈すとは見えたれども天台の如く分明には見えず。天親菩薩の法華論又以て此の如し。震旦国に於ては天台以前の五百年の間には一向に此の義無し。玄の三に云く「天竺の大論すら尚其の類に非ず」云云。籤の三に云く「一家の章疏は理に附し教に憑り、凡そ立つる所の義、他人の其の所弘に随ひ偏に己が典を讃するに同じからず。若し法華を弘むるに偏に讃せば尚失なり。況や復余をや文。何となれば既に開権顕実と言ふ、何ぞ一向に権を毀るべきや」。華厳経の「心仏及衆生 是三無差別」の文は、華厳の人師此の文に於て一心覚不覚の三義を立つるは、源(もと)起信論の名目を借りて此の文を釈するなり。南岳大師は妙法の二字を釈するに此の文を借りて三法妙の義を存せり。天台智者大師は之れを依用す。此に於て天台宗の人は華厳・法華同等の義を存するか。
又澄観「心仏及衆生」の文に於て一心覚不覚の義を存するのみに非ず、性悪の義を存して云く、澄観の釈に「彼の宗には此れを謂ひて実と為す、此の宗の立義理通ぜざる無し」等云云。此等の法門許すべきや不や。答へて云く、弘の一に云く「若し今家の諸の円文の意無くんば彼の経の偈の旨理実に消し難し」。同五に云く「今文を解せずんば 如何ぞ心造一切三無差別を消解せん」文。記の七に云く「忽ち都て未だ性悪の名を聞かず」と云へり。此等の文の如くんば、天台の意を得ずんば彼の経の偈の意知り難きか。又震旦の人師の中には天台の外には性悪の名目あらざりけるか。又法華経に非ずんば一念三千の法門談ずべからざるか。天台已後の華厳の末師並びに真言宗の人、性悪を以て自宗の依経の詮と為すは、天竺より伝はりたりけるか、祖師より伝はるか。又天台の名目を偸みて自宗の内証と為すと云へるか。能く能く之れを験すべし。/ 問ふ、性悪の名目は天台一家に限るべし。諸宗には之れ無し。若し性悪を立てずんば、九界の因果を如何が仏界の上に現ぜん。答ふ、義例に云く「性悪若し断ずれば」等云云。問ふ、円頓止観の証拠と一念三千の証拠に華厳経の「心仏及衆生 是三無差別」の文を引くは彼の経に円頓止観及び一念三千を説くというか。
答へて云く、天台宗の人の中には爾前の円と法華の円と同の義を存す。/ 問ふ、六十巻の中に前三教の文を引きて円義を釈せるは文を借ると心得、爾前の円の文を引きて法華の円の義を釈するをば借らずと存ぜんや。若し爾らば三種の止観の証文に爾前の諸経を引く中に円頓止観の証拠に華厳の「菩薩於生死」等の文を引けるをば、妙楽釈して云く「還りて教味を借りて以て妙円を顕はす」。此の文は諸経の円の文を借ると釈するに非ずや。若し爾らば「心仏及衆生」の文を一念三千の証拠に引く事は之れを借れるにて有るべし。答ふ、当世の天台宗は華厳宗の見を出でざる事を云ふか。華厳宗の心は法華と華厳とに於て同勝の二義を存す。同は法華・華厳の所詮の法門之れ同じとす。勝は二義あり。古への華厳宗は教主と対菩薩衆等の勝の義を談ず。近代の華厳宗は華厳と法華とに於て同勝の二義有りと云云。其の勝に於て又二義ありといふ。迹門は華厳と同勝の二義あり。華厳の円と法華迹門の相待妙の円とは同なり。彼の円も判麁此の円も判麁の故なり。籤の二に云く「故に二妙を須ひて以て三法を妙ならしむ。故に諸味の中に円融有りと雖も全く二妙無きなり」。私志記に云く「昔の八の中の円は今の相待の円と同じ」と云へり。是れは同なり。
記の四に云く「法界を以て之れを論ずれば華厳に非ざる無し。仏恵を以て之れを論ずれば法華に非ざる無し」云云。又云く「応に知るべし、華厳の尽未来際は即ち是れ此の経の常在霊山なり」云云。此等の釈は、爾前の円と法華の相待妙と同ずる釈なり。/ 迹門の絶待開会は永く爾前の円と異なり。籤の十に云く「此の法華経は開権顕実開迹顕本す。此の両意は永く余経に異なれり」と云へり。記の四に云く「若し仏恵を以て法華と為さば即ち」等云云。此の釈は仏恵を明かすは爾前法華に亘り、開会は唯法華に限ると見えたり。是れは勝なり。爾前の無得道なる事は分明なり。其の故は二妙を以て一法を妙ならしむるなり。既に爾前の円には絶待の一妙を欠く、衆生も妙の仏と成るべからざる故に。籤の三に云く「妙変じて麁と為る」等の釈是れなり。華厳の円が変じて別と成ると云ふ意なり。本門は相待絶待の二妙倶に爾前に分無し、又迹門にも之れ無し。爾前迹門は異なれども、二乗は見思を断じ菩薩は無明を断ずと申すことは一往之れを許して再往は之れを許さず。本門寿量品の意は爾前迹門に於て一向に三乗倶に三惑を断ぜずと意得べきなり。/ 此の道理を弁へざるの間、天台の学者は爾前法華の一往同の釈を見て永異の釈を忘れ、結句名は天台宗にて其の義分は華厳宗に堕ちたり。
華厳宗に堕ちるが故に方等般若の円に堕ちぬ。結句は善導等の釈の見を出でず。結句後には謗法の法然に同じて「師子身中の虫の自ら師子を食らふが如し」文。〈仁王経の下に〉「大王、我が滅度の後未来世の中に四部の弟子・諸の小国の王・太子・王子乃ち是れ三宝を任持し護れば、転(うたた)更に三宝を滅破すること師子の身中の虫の自ら師子を食らふが如し、外道には非ず多く我が仏法を壊りて大罪過を得ん」云云。籤の十に云く「始め住前より登住に至る来(このかた)全く是れ円の義。第二住より次の第七住に至る文相次第して又別の義に似たり。七住の中に於て又一多相即自在を弁ず。次の行向地又是れ次第差別の義なり。又一々の位に皆普賢行布の二門有り。故に知んぬ、兼ねて円門を用ゐて別に摂す」。
◆ 災難興起由来 〔C1・正元二年二月上旬〕/ 答へて曰く、爾なり。謂く夏の桀・殷の紂・周の幽等の世是れなり。/ 難じて云く、彼の時仏法無し。故に亦謗法者無し。何に依るが故に国を亡ぼすや。答へて曰く、黄帝・孔子等治国の作方五常を以てす。愚王有りて礼教を破る故に災難出来す。/ 難じて云く、若し爾らば今世の災難五常を破るに依らば何ぞ必ずしも選択流布の失と云ふや。答へて曰く、仏法未だ漢土に渡らず前には黄帝等五常を以て国を治む。其の五常は仏法渡りて後之れを見れば即ち五戒なり。老子・孔子等も亦仏遠く未来を鑑み、国土に和し仏法を信ぜしめん為に遣はす所の三聖なり。夏の桀・殷の紂・周の幽等五常を破りて国を亡ぼすは即ち五戒を破るに当たるなり。亦人身を受けて国主と成るは必ず五戒十善に依る。外典は浅近の故に過去の修因・未来の得果を論ぜずと雖も五戒十善を持ちて国王と成る。故に人五常を破ること有れば上天変頻りに顕はれ下地妖間に侵す者なり。故に今世の変災も亦国中の上下万人多分選択集を信ずる故に、弥陀仏より外の他仏他経に於て拝信を致す者に於ては、面を背けて礼儀を致さず、言を吐きて随喜の心無し。
故に国土人民に於て殊に礼儀を破り道俗禁戒を犯す。例へば阮籍を習ふ者は礼儀を亡じ、元嵩に随ふ者は仏法を破るが如し。/ 問うて曰く、何を以て之れを知る。仏法未だ漢土に渡らざる已前の五常は仏教の中の五戒たること 如何。答へて曰く、金光明経に云く「一切世間の所有の善論は皆此の経に因る」。法華経に云く「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」。普賢経に云く「正法をもって国を治め人民を邪枉せず、是れを第三懺悔を修すと名づく」。涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず」。止観に云く「若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」。弘決に云く「礼楽前に駆せて真道後に啓く」。広釈に云く「仏三人を遣はして且く真旦を化し、五常以て五戒の方を開く。昔大宰孔子に問うて云く、三皇五帝は是れ聖人なるか。孔子答へて云く、聖人に非ず。又問ふ、夫子は是れ聖人なるか。亦答ふ、非なり。又問ふ、若し爾らば誰か是れ聖人なる。答へて云く、吾聞く、西方に聖有り、釈迦と号す」。周書異記に云く「周の昭王二十四年〈甲寅〉の歳四月八日、江河泉池忽然として浮漲し、井水並びに皆溢れ出づ。宮殿人舎、山川大地咸(みな)悉く震動す。其の夜五色の光気有り、入りて太微を貫き四方に遍ず。昼青紅色と作る。
昭王大史蘇由に問うて曰く、是れ何の怪ぞや。蘇由対へて曰く、大聖人有り、西方に生まる。故に此の瑞を現ず。昭王曰く、天下に於て何如。蘇由曰く、即時には化無し。一千年の外声教此の土に被及せん。昭王即ち人を鴿門に遣はし、石に之れを記して埋めて西郊天祠の前に在(お)く。穆王の五十二年〈壬申〉の歳二月十五日平旦、暴風忽ちに起こりて人舎を廃損し樹木を傷折し、山川大地皆悉く震動す。午後天陰り雲黒し。西方に白虹十二道あり。南北に通過して連夜滅せず。穆王大史扈多に問ふ。是れ何の徴ぞや。対へて曰く、西方に聖人有り。滅度の衰相現のみ」已上。今之れを勘ふるに金光明経に「一切世間の所有の善論は皆此の経に因る」。仏法未だ漢土に渡らず。先づ黄帝等玄女の五常を習ふ。即ち玄女の五常に因りて久遠の仏教を習ひ黄帝に国を治めしむ。機未だ熟さざれば五戒を説くとも過去未来を知らず。但現在に国を治め至孝至忠をもって身を立つる計りなり。余の経文以て亦是の如し。亦周書異記等は仏法未だ真旦に被らざる已前一千余年に人西方に仏有ること之れを知る。何に況や老子は殷の時に生まれ周の列王の時に有り。孔子亦老子の弟子、顔回亦孔子の弟子なり。豈に周の第四の昭王、第五の穆王の時、蘇由扈多記す所の「一千年の外、声教此の土に被及する」の文を知らざらんや。
亦内典を以て之れを勘ふるに仏慥かに之れを記したまふ。我三聖を遣はして彼の真旦を化す。仏漢土に仏法を弘めん為に先に三菩薩を漢土に遣はし、諸人に五常を教へ仏経の初門と為す。此等の文を以て之れを勘ふるに仏法已前の五常は仏教の内の五戒なることを知る。/ 疑って云く、若し爾らば何ぞ選択集を信ずる謗法の者の中に此の難に値はざる者之れ有りや。答へて曰く、業力不定なり、現世に謗法を作し今世に報い有る者あり。即ち法華経に云く「此の人現世に白癩の病を得ん、乃至、諸の悪重病あるべし」。仁王経に云く「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず。疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し連禍せん」。涅槃経に云く「若し是の経典を信ぜざる者有らば、○若しは臨終の時荒乱し刀兵競ひ起こり、帝王の暴虐、怨家の讐隙に侵逼せられん」已上。順現業なり。法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○其の人命終して阿鼻獄に入らん」。仁王経に云く「人仏教を壊らば○死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」已上。順次生業なり。順後業等之れを略す。/ 疑って云く、若し爾らば法華真言等の諸大乗経を信ずる者何ぞ此の難に値へるや。
答へて曰く、金光明経に云く「枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん」。法華経に云く「横に其の殃(わざわい)に羅(かか)る」等云云。止観に云く「似解の位は因の疾少し軽くして道心転(うたた)熟す、果の疾猶重くして衆災を免れず」。記に云く「若し過現の縁浅ければ微苦も亦徴無し」已上。此等の文を以て之れを案ずるに、法華真言等を行ずる者も未だ位深からず、縁浅くして口に誦すれども其の義を知らず、一向に名利の為に之れを読む。先生の謗法の罪未だ尽きず、外に法華等を行じて内に撰択の意を存す。心に存せずと雖も世情に叶はん為に、在俗に向かひて法華経は末代に叶ひ難き由を称すれば、此の災難を免れ難きか。/ 問うて曰く、何なる秘術を以て速やかに此の災難を留むべきや。答へて曰く、還りて謗法の書並びに所学人を治すべし。若し爾らざれば無尽の祈請有りと雖も但費のみ有りて験無からんか。/ 問うて曰く、如何が対治すべきか。答へて曰く、治方も亦経に之れ有り。涅槃経に云く「仏言く、唯一人を除きて余の一切に施せ○正法を誹謗して是の重業を造る○唯此の如き一闡提の輩を除きて其の余の者に施さば一切讃歎すべし」已上。
此の文より外にも亦治方有り。具に戴するに暇あらず。而るに当世の道俗多く謗法の一闡提の人に帰して讃歎供養を加ふるの間、偶(たまたま)謗法の語を学せざる者も還りて謗法の者と称して怨敵を作す。諸人此の由を知らず故に正法の者を還りて謗法の者と謂へり。此れ偏に法華経勧持品に記する所の「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に○好みて我等が過を出だし○国王・大臣・波羅門・居士に向かひて○誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人外道の論議を説くと謂はん」の文の如し。仏の讃歎する所の世中の福田を捨てて、誡むる所の一闡提に於て讃歎供養を加ふ。故に弥(いよいよ)貪欲の心盛んにして謗法の音天下に満てり。豈に災難起こらざらんや。問うて曰く、謗法の者に於て供養を留め苦治を加へんに罪有りや不や。答へて曰く、涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属す○正法を毀る者は王者・大臣・四部の衆当に苦治すべし○尚罪有ること無し」已上。一切衆生は螻蟻蚊虻に至るまで必ず小善有れども謗法の人には小善無し。故に施を留めて苦治を加ふるなり。/ 問うて曰く、汝僧形を以て比丘の失を顕はす、豈に不謗四衆と不謗三宝との二重の戒を破るに非ずや。
答へて曰く、涅槃経に云く「若し善比丘ありて法を壊る者を見て、置きて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駆遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」已上の文を守りて之れを記す。若し此の記自然に国土に流布せしめん時、一度高覧を経ん人は必ず此の旨を存ずべきか。若し爾らずんば大集並びに仁王経の「若し国王有りて我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば○其の国の内に三種の不祥を出ださん。乃至、命終して大地獄に生ぜん。若し王の福尽きん時は○七難必ず起こらん」の責めを免れ難きか。此の文の如くんば且く万事を閣きて先づ此の災難の起こる由を慥かむべきか。若し爾らずんば仁王経の「国土乱れん時は先づ鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る」の文を見よ。当時鬼神の乱・万民の乱有り。亦当に国土乱るべし。愚勘是の如し、取捨は人の意に任す。正元二年〈太歳庚申〉二月上旬之れを勘ふ
◆ 災難対治抄 〔C0・正元二年二月頃・兵部阿闍梨〕/ 国土に起こる大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病・大兵乱等の種々の災難の根源を知りて対治を加ふべき勘文。/ 金光明経に云く「若し人有りて其の国土に於て此の経有りと雖も未だ嘗て流布せず、捨離の心を生じ聴聞せんことを楽はず、亦供養し尊重し讃歎せず、四部の衆、持経の人を見て亦復尊重し乃至供養すること能はず、遂に我等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ず。甘露の味に背き正法の流を失ひて威光及び勢力有ること無からしむ。悪趣を増長して、人天を損減し、生死の河に墜ちて、涅槃の路に乖かん。世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯の如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無からん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん。既に捨離し已りなば其の国に当に種々の災禍有るべし。国位を喪失し、一切の人衆皆善心無く、唯繋縛・殺害・瞋諍のみ有りて、互ひに相讒諂し枉げて辜無きに及ばん。疫病流行し、彗星数(しばしば)出で、両日並び現じ、薄蝕恒無く、黒白の二虹不祥の相を表はし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、
常に飢饉に遭ひ苗実も成らず、多く他方の怨賊有りて国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無からむ」文。/ 大集経に云く「若し国王有りて我が法の滅せんを見て捨てて擁護せすんば、無量世に於て施戒恵を修すとも悉く皆滅失して其の国の内に三種の不祥の事を出ださん、乃至、命終して大地獄に生ぜん」。/ 仁王経に云く「大王、国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る」文。亦云く「大王、我今五眼をもって明らかに三世を見るに、一切の国王は皆過去世に五百の仏に侍へしに由りて帝王主と為ることを得たり。是れを為て一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん。若し王の福尽きん時は一切の聖人皆捨去為ん。若し一切の聖人去る時は七難必ず起こらん」。仁王経に云く「大王、吾が今化する所の百億の須弥、百億の日月、一々の須弥に四天下有り。其の南閻浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国有り。其の国土の中に七の畏るべき難有り。一切の国王是れを難と為すが故に○云何なるを難と為す。日月度を失ひ、時節返逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出づ、或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ずるを○一の難と為すなり。
二十八宿度を失ひ、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星、是の如き諸星各々変現するを○二の難と為すなり。大火国を焼きて万姓焼尽し、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あり、是の如く変怪するを○三の難と為すなり。大水百姓を漂没して時節返逆して、冬雨ふり夏雪ふり、冬時に雷電霹靂し、六月に氷・霜・雹を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らし、江河逆しまに流れ、山を浮かべ石を流す。是の如く変ずる時を○四の難と為すなり。大風万姓を吹き殺し、国土の山河樹木一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風・是の如く変ずる時を○五の難と為すなり。天地国土亢陽し、炎火洞燃として、百草亢旱して、五穀登(みの)らず、土地赫然として万姓滅尽せん、是の如く変ずる時を○六の難と為すなり。四方の賊来たりて国を侵し、内外の賊起こり、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて百姓荒乱し、刀兵劫起せん。是の如く怪する時を○七の難と為すなり」。/ 法華経に云く「百由旬の内にして諸の衰患無からしむ」。涅槃経に云く「是の大涅槃微妙の経典の流布する処は、当に知るべし、其の地は即ち是れ金剛なり。是の中の諸人も亦金剛の如し」。
仁王経に云く「是の経は常に千の光明を放ち千里の内をして七難起こらざらしむ」。又云く「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず。是れを破仏破国の因縁と為す」。今之れを勘ふるに、法華経に云く「百由旬の内にして諸の衰患無からしむ」。仁王経に云く「千里の内を七難起こらざらしむ」。涅槃経に云く「当に知るべし、其の地は即ち是れ金剛なり、是の中の諸人亦金剛の如し」文。/ 疑って云く、今此の国土を見聞するに種々の災難起こる。所謂 建長八年八月より正元二年二月に至るまで、大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病等種々の災難連々として今に絶えず、大体国土の人数尽くべきに似たり。之れに依りて種々の祈請を致す人之れ多しと雖も其の験無きか。正直捨方便・多宝証明・諸仏出舌の法華経の文の「令百由旬内」、双林最後の遺言の涅槃経の「其地金剛」の文、仁王経の「令千里内七難不起」の文、皆虚妄に似たり 如何。答へて曰く、今愚案を以て之れを勘ふるに、上に挙ぐる所の諸大乗経国土に在り。祈請と成らずして災難起こることは少しく其の故有るか。
所謂 金光明経に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ嘗て流布せず。捨離の心を生じて聴聞せんことを楽はず○我等四王○皆悉く捨て去り○其の国当に種々の災禍有るべし」。大集経に云く「若し国王有りて我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば○其の国の内に三種の不祥を出ださん」。仁王経に云く「仏戒に依らざるを、是れを破仏・破国の因縁と為す○若し一切の聖人去る時は七難必ず起こらん」已上。此等の文を以て之れを勘ふるに、法華経等の諸大乗経国中に在りと雖も、一切の四衆捨離の心を生じて聴聞し供養するの志を起こさず。故に国中の守護の善神・一切の聖人此の国を捨てて去り、守護の善神・聖人等無きが故に出来する所の災難なり。/ 問うて曰く、国中の諸人、諸大乗経に於て捨離の心を生じて供養の志を生ぜざる事は何の故より之れ起こるや。答へて曰く、仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず」。法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん○是の人悪心を懐き○国王・大臣・婆羅門・居士及び余の諸の比丘に向かひて誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂はん○悪鬼其の身に入る」等云云。
此等の文を以て之れを思ふに、諸の悪比丘国中に充満して破国・破仏法の因縁を説く。国王並びに国中の四衆弁へずして信聴を加ふるが故に諸大乗経に於て捨離の心を生ずるなり。/ 問うて曰く、諸の悪比丘等国中に充満して破国・破仏戒等の因縁を説くこと仏弟子の中に出来すべきか、外道の中に出来すべきか。答へて曰く、仁王経に云く「三宝を護る者にして転(うたた)更に三宝を滅破せんこと、師子の身中の虫の自ら師子を食ふが如し。外道には非ず」文。此の文の如くんば仏弟子の中に於て破国・破仏法の者出来すべきか。/ 問うて曰く、諸の悪比丘正法を壊るに相似の法を以て之れを破らんか。当に亦悪法を以て之れを破るべしと為んか。答へて曰く、小乗を以て権大乗を破し、権大乗を以て実大乗を破して師弟共に謗法破国の因縁を知らず。故に破仏戒・破国の因縁を成じて三悪道に堕するなり。問うて曰く、其の証拠 如何。答へて曰く、法華経に云く「仏の方便随宜所説の法を知らずして悪口して顰蹙し数数擯出せられん」。涅槃経に云く「我涅槃の後、当に百千無量の衆生有りて、誹謗して是の大涅槃を信ぜざるべし○三乗の人も亦復是の如く無上の大涅槃経を憎悪せん」已上。
勝意比丘の喜根菩薩を謗じて三悪道に堕し、尼思仏等の不軽菩薩を打ちて阿鼻の炎を招くも、皆大小権実を弁へざるより之れ起これり。十悪・五逆は愚者皆罪たることを知る。故に輙く破国・破仏法の因縁を成ぜず。故に仁王経に云く「其の王別へずして此の語を信聴せん」。涅槃経に云く「若し四重を犯し、五逆罪を作り、自ら定めて是の如き重事を犯すと知りて、而も心に初めより怖畏懺悔無く肯へて発露せず」已上。此等の文の如くんば、謗法の者は自他共に子細を知らず。故に重罪を成して国を破り仏法を破るなり。/ 問うて曰く、若し爾らば此の国土に於て権教を以て人の意を取りて実教を失ふ者之れ有るか 如何。答へて曰く、爾なり。問うて曰く、其の証拠 如何。答へて曰く、法然上人所造等の選択集是れなり。今其の文を出だして上の経文に合はせ其の失を露顕せしめん。若し対治を加へば国土を安穏ならしむべきか。選択集に云く「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文○初めに聖道門とは之れに就きて二有り。一には大乗、二には小乗なり。大乗の中に就きて顕密・権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以(および)権大を存す。故に歴劫迂回の行に当たる。之れに准じて之れを思ふに、応に密大及び実大を存すべし。
然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、此等の八家の意正しく此に在るなり。○曇鸞法師の往生論の注に云く、謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く、菩薩阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり○此の中に難行道とは即ち是れ聖道門なり。易行道とは即ち是れ浄土門なり。○浄土宗の学者先づ須く此の旨を知るべし。設ひ先より聖道門を学する人と雖も、若し浄土門に於て其の志有らん者は須く聖道を棄てて浄土に帰すべし」文。又云く「善導和尚は正雑二行を立て、雑行を捨てて正行に帰するの文。第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除く已外の大小乗顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名づく○第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除く已外の一切諸余の仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝恭敬するを悉く礼拝雑行と名づく。○私に云く、此の文を見るに須く雑を捨てて専を修すべし。豈に百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能く之れを思量せよ」。又云く「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで、顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし。
○当に知るべし、随他の前には暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なり」文。又最後結句の結文に云く「夫れ速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に且く聖道門を閣きて選びて浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて選びて正行に帰すべし」已上選択集の文なり。/ 今之れを勘ふるに、日本国中の上下万人深く法然上人を信じ此の書をぶ。故に無智の道俗此の書の中の捨閉閣抛等の字を見て、浄土の三部経・阿弥陀仏より外の諸経・諸仏・菩薩・諸天善神等に於て捨閉閣抛等の思ひを作し、彼の仏経等に於て供養受持等の志を起こさず、還りて捨離の心を生ずる故に、古き諸大師等の建立する所の鎮護国家の道場、零落せしむと雖も護惜建立の心無し。護惜建立の心無き故に亦読誦供養の音絶え、守護の善神も法味を嘗めざる故に国を捨てて去り、四依の聖人も来たらざるなり。偏に金光明・仁王等の「一切の聖人去る時七難必ず起こらん」、「我等四王皆悉く捨去せん、既に捨離し已れば其の国当に種々の災禍有るべし」の文に当たれり。
豈に諸悪比丘多く名利を求め悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲の人に非ずや。/ 疑って云く、国土に於て選択集を流布せしむるに依りて災難起こると云はば、此の書無き已前には国中に於て災難無かりしや。答へて曰く、彼の時亦災難有り。云く、五常を破り仏法を失ふ者之れ有る故に。所謂 周の宇文・元嵩等是れなり。/ 難じて云く、今の世の災難五常を破りしが故に之れ起こるといはば、何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや。答へて曰く、仁王経に云く「大王、未来世の中の諸の小国の王・四部の弟子○諸の悪比丘○横に法制を作りて仏戒に依らず○亦復仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さざれば○七難必ず起こらん」。金光明経に云く「亦供養し尊重し讃歎せざれば○其の国に当に種々の災禍有るべし」。涅槃経に云く「無上の大涅槃経を憎悪す」等云云。豈に弥陀より外の諸仏諸経等を供養し礼拝し讃歎するは悉く雑行と名づくるに当たらざらんや。/ 難じて云く、仏法已前に国に於て災難有り。何ぞ謗法の者の故ならんや。答へて曰く、仏法已前に五常を以て国を治むるは遠く仏誓を以て国を治むるなり。礼儀を破るは仏の出だしたまへる五戒を破るなり。
問うて曰く、其の証拠 如何。答へて曰く、金光明経に云く「一切世間の所有の善論は皆此の経に因る」。法華経に云く「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」。普賢経に云く「正法をもって国を治め人民を邪枉せず、是れを第三の懺悔を修すと名づく」。涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず」。止観に云く「若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」。弘決に云く「礼楽前に駆せて真道後に啓く」。広釈に云く「仏三人を遣はして且く真旦を化し、五常以て五戒の方を開く。昔大宰孔子に問うて云く、三皇五帝は是れ聖人なるか。孔子答へて云く、聖人に非ず。又問ふ、夫子是れ聖人なるか。亦答ふ、非なり。又問ふ、若し爾らば誰か是れ聖人なるや。答へて云く、吾聞く西方に聖有り、釈迦と号す」文。此等の文を以て之れを勘ふるに、仏法已前の三皇五帝は五常を以て国を治む。夏の桀・殷の紂・周の幽等の礼儀を破りて国を喪すは遠く仏誓の持破に当たれるなり。/ 疑って云く、若し爾らば法華真言等の諸大乗経を信ずる者は何ぞ此の難に値へるや。
答へて曰く、金光明経に云く「枉げて辜無きに及ばん」。法華経に云く「横に其の殃(わざわい)に羅(かか)る」等云云。此等の文を以て之れを推するに、法華真言等を行ずる者も未だ位深からず、信心薄く口に誦して其の義を知らず、一向名利の為に之れを誦す。先生の謗法の失未だ尽きず。外には法華等を行じて内には選択の心を存する。此の災難の根源等を知らざる者は此の難を免れ難きか。/ 疑って云く、若し爾らば何ぞ選択集を信ずる謗法者の中に此の難に値はざる者之れ有るや。答へて曰く、業力不定なり。順現業は法華経に云く「此の人現世に白癩の病を得ん、乃至、諸の悪重病あらん」。仁王経に云く「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず。疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し連禍せん」。涅槃経に云く「若し是の経典を信ぜざる者有らば、○若しは臨終の時荒乱し刀兵競ひ起こり、帝王の暴虐、怨家の讐隙に侵逼せられん」已上。順次生業は法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○其の人命終して阿鼻獄に入らん」。仁王経に云く「人仏教を壊らば○死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」已上。順後業等は之れを略す。
問うて曰く、如何にして速やかに此の災難を留むべきや。答へて曰く、還りて謗法の者を治すべし。若し爾らずんば無尽の祈請有りと雖も災難を留むべからざるなり。/ 問うて曰く、如何が対治すべき。答へて曰く、治方亦経に之れ有り。涅槃経に云く「仏言く、唯一人を除きて余の一切に施せ○正法を誹謗して是の重業を造る○唯此の如き一闡提の輩を除きて其の余の者に施さば一切讃歎すべし」已上。此の文の如きは施を留めて対治すべしと見えたり。此の外亦治方是れ多し。具に出だすに暇あらず。/ 問うて曰く、謗法の者に於て供養を留めて苦治を加ふるは罪有りや不や。答へて曰く、涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属す○正法を毀る者は王者・大臣・四部の衆、当に苦治すべし○尚罪有ること無けん」已上。/ 問うて曰く、汝僧形を以て比丘の失を顕はすは罪業に非ずや。答へて曰く、涅槃経に云く「若し善比丘ありて法を壊る者を見て、置きて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駆遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」已上。
予此の文を見る故に「仏法中怨」の責めを免れんが為に見聞を憚らず、法然上人並びに所化の衆等の阿鼻大城に堕つべき由を称す。此の道理を聞き解く道俗の中に、少々は回心の者有り、若し一度高覧を経ん人、上に挙ぐる所の如く之れを行ぜずば、大集経の文に「若し国王有りて我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば、無量世に於て施戒恵を修すとも、悉く皆滅失して其の国の内に三種の不祥を出ださん。乃至命終して大地獄に生ぜん」との記文を免れ難きか。仁王経に云く「若し王の福尽きん時は○七難必ず起こらん」。此の文に云く「無量世に於て施戒恵を修すとも悉く皆滅失す」等云云。此の文を見るに且く万事を閣きて先づ此の災難の起こる由を勘ふべきか。若し爾からざれば弥(いよいよ)亦重ねて災難起こらむか。愚勘是の如し。取捨は人の意に任す。
◆ 十法界明因果抄 〔C5・文応元年四月二一日〕/ 沙門 日蓮撰/ 八十華厳経六十九に云く「普賢道に入ることを得て、十法界を了知す」。法華経第六に云く「地獄声、畜生声、餓鬼声、阿修羅声、比丘声・比丘尼声〈人道〉、天声〈天道〉、声聞声、辟支仏声、菩薩声、仏声」〈已上十法界の名目なり〉。/ 第一に地獄界とは、観仏三昧経に云く「五逆罪を造り、因果を撥無し、大乗を誹謗し、四重禁を犯し、虚しく信施を食する者此の中に堕す」〈阿鼻地獄なり〉。正法念経に云く「殺・盗・淫欲・飲酒・妄語の者此の中に堕す」〈大叫喚地獄なり〉。正法念経に云く「昔酒を以て人に与へて酔はしめ、已りて調戯して之れを翫び、彼れをして羞恥せしむるの者此の中に堕す」〈叫喚地獄なり〉。正法念経に云く「殺生・偸盗・邪淫の者此の中に堕す」〈衆合地獄なり〉。涅槃経に云く「殺に三種有り、謂く下中上なり○下とは蟻子乃至一切の畜生、乃至下殺の因縁を以て地獄に堕し、乃至具に下の苦を受く」文。/ 問うて云く、十悪五逆等を造りて地獄に堕するは世間の道俗皆之れを知れり。謗法に依りて地獄に堕するは未だ其の相貌を知らず 如何。
答へて云く、堅恵菩薩の造、勒那摩提訳の究竟一乗宝性論に云く「楽ひて小法を行じて法及び法師を謗じ○如来の教を識らずして、説くこと修多羅に乖きて是れ真実義と言ふ」文。此の文の如くんば、小乗を信じて真実義と云ひ、大乗を知らざるは是れ謗法なり。天親菩薩の説、真諦三蔵訳の仏性論に云く「若し大乗に憎背するは、此れは是れ一闡提の因なり。衆生をして此の法を捨てしむるを為(も)ての故に」文。此の文の如くんば、大小流布の世に一向に小乗を弘め、自身も大乗に背き人に於ても大乗を捨てしむる、是れを謗法と云ふなり。天台大師の梵網経疏に云く「謗は是れ乖背の名なり。(すべ)て是れ解とせば理に称はず、言実に当たらず、異解して説く者を皆名づけて謗と為すなり。己が宗に乖くが故に罪を得」文。法華経の譬喩品に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」文。此の文の意は、小乗の三賢已前、大乗の十信已前、末代の凡夫の十悪・五逆・不孝父母・女人等を嫌はず。此等は法華経の名字を聞いて、或は題名を唱へ、一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し読誦し、乃至亦上の如く行ぜん人を、随喜し讃歎する人は、法華経よりの外、一代の聖教を深く習ひ義理に達し、堅く大小乗の戒を持てる大菩薩の如き者より勝れて、
往生成仏を遂ぐべしと説くを信ぜずして還りて法華経は地住已上の菩薩の為、或は上根上智の凡夫の為にして、愚人・悪人・女人・末代の凡夫等の為には非ずと言はん者は、即ち一切衆生の成仏の種を断じて阿鼻獄に入るべしと説ける文なり。涅槃経に云く「仏の正法に於て永く護惜建立の心無し」文。此の文の意は、此の大涅槃経の大法、世間に滅尽せんを惜しまざる者は、即ち是れ誹謗の者なり。天台大師法華経の怨敵を定めて云く「聞く事を喜ばざる者を怨と為す」文。/ 謗法は多種なり。大小流布の国に生まれて、一向に小乗の法を学して身を治め大乗に遷らざるは是れ謗法なり。亦華厳・方等・般若等の諸大乗経を習へる人も、諸経と法華経と等同の思ひを作し、人をして等同の義を学ばしめ、法華経に遷らざるは是れ謗法なり。亦偶(たまたま)円機有る人の法華経を学ぶをも、我が法に付け、世利を貪るが為に、汝が機は法華経に当たらざる由を称して、此の経を捨て権経に遷らしむるは是れ大謗法なり。此の如き等は皆地獄の業なり。人間に生ずること過去の五戒は強く、三悪道の業因は弱きが故に人間に生ずるなり。亦当世の人も五逆を作る者は少なく、十悪は盛んに之れを犯す。
亦偶(たまたま)後世を願ふ人の十悪を犯さずして善人の如くなるも、自然に愚痴の失に依りて身口は善く意は悪しき師を信ず。但我のみ此の邪法を信ずるに非ず。国を知行する人、人民を聳(すす)めて我が邪法に同ぜしめ、妻子眷属所従の人を以て亦聳め従へ我が行を行ぜしむ。故に正法を行ぜしむる人に於て結縁を作さず。亦民所従等に於ても随喜の心を至さしめず。故に自他共に謗法の者と成りて、修善止悪の如き人も自然に阿鼻地獄の業を招くこと、末法に於て多分之れ有るか。/ 阿難尊者は浄飯王の甥、斛飯王の太子、提婆達多の舎弟、釈迦如来の従子なり。如来に仕へ奉りて二十年、覚意三昧を得て一代聖教を覚れり。仏入滅の後、阿闍世王、阿難に帰依し奉る。仏滅後四十年の比、阿難尊者、一(ひとり)竹林の中に至るに一の比丘有り。一の法句の偈を誦して云く「若し人生じて百歳なりとも水の潦涸(ろうかく)を見ずんば生じて一日にして之れを覩見することを得るに如かず」已上。阿難此の偈を聞き比丘に語りて云く、此れ仏説に非ず。汝修行すべからず。爾の時に比丘阿難に問うて云く、仏説は 如何。阿難答へて云く「若し人生じて百歳なりとも生滅の法を解せずんば生じて一日にして之れを解了することを得んには如かず」已上。此の文仏説なり。汝が唱ふる所の偈は此の文を謬りたるなり。
爾の時に比丘、此の偈を得て本師の比丘に語る。本師の云く、我汝に教ふる所の偈は真の仏説なり。阿難が唱ふる所の偈は仏説に非ず。阿難年(よわい)老衰して言錯謬(あやまり)多し。信ずべからずと。此の比丘亦阿難の偈を捨てて本の謬りたる偈を唱ふ。阿難又竹林に入りて之れを聞くに、我が教ふる所の偈に非ず。重ねて之れを語るに比丘信用せざりき等云云。仏の滅後四十年にさへ既に謬り出来せり。何に況や仏の滅後既に二千余年を過ぎたり。仏法天竺より唐土に至り、唐土より日本に至る。論師・三蔵・人師等伝来せり、定めて謬り無き法は万が一なるか。何に況や当世の学者偏執を先と為して我慢を挿(さしはさ)み、火を水と諍ひ之れを糾さず。偶(たまたま)仏の教への如く教へを宣ぶる学者をも之れを信用せず。故に謗法ならざる者は万が一なるか。/ 第二に餓鬼道とは、正法念経に云く「昔財を貪りて屠殺するの者此の報いを受く」。亦云く「丈夫自ら美食をひ妻子に与へず。或は婦人自ら食して夫子に与へざるは此の報いを受く」。亦云く「名利を貪るが為に不浄説法する者此の報いを受く」。亦云く「昔酒をるに水を加ふる者、此の報いを受く」。亦云く「若し人労して少しく物を得たるを誑惑して取り用ゐる者、此の報いを受く」。
亦云く「昔行路の人病苦ありて疲極せるに、其の売を欺き取り、直(あたい)を与ふること薄少なりし者、此の報いを受く」。亦云く「昔刑獄を典主(つかさどり)、人の飲食を取りし者此の報いを受く」。亦云く「昔陰涼樹を伐り、及び衆僧の園林を伐りし者、此の報いを受く」文。法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること、己が舎宅の如し」文。慳貪・偸盗等の罪に依りて餓鬼道に堕することは世人知り易し。慳貪等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に其の義を信ずるに依りて餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之れを知らず。能く能く恐るべきか。/ 第三に畜生道とは、愚痴無慚にして徒らに信施の他物を受けて之れを償はざる者此の報いを受くるなり。法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○当に畜生に堕すべし」文。〈已上三悪道なり〉。/ 第四に修羅道とは、止観の一に云く「若し其の心念々に常に彼れに勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽しめ己を珍(たっと)ぶこと鵄(とび)の高く飛びて視下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり」文。
第五に人道とは、報恩経に云く「三帰五戒は人に生ず」文。/ 第六に天道とは、二有り。欲天には十善を持ちて生じ、色・無色天には下地は麁・苦・障、上地は静・妙・離の六行観を以て生ずるなり。/ 問うて云く、六道の生因は是の如し。抑 同時に五戒を持ちて人界の生を受くるに何ぞ生盲(しょうもう)・聾(ろう)・唖(いんあ)・陋(ざる)・躄(れんびゃく)・背傴(はいう)・貧窮・多病・瞋恚等無量の差別有りや。答へて云く、大論に云く「若しは衆生の眼を破り、若しは衆生の眼を屈り、若しは正見の眼を破り、罪福無しと言はん。是の人死して地獄に堕し、罪畢りて人と為り、生まれてより盲(めしい)なり。若しは復仏塔の中の火珠及び諸の灯明を盗む。是の如き等の種々の先世の業因縁をもて眼を失ふ○聾とは是れ先世の因縁、師父の教訓を受けず行ぜず。而も反りて瞋恚す。是の罪を以ての故に聾となる。復次に衆生の耳を截り、若しは衆生の耳を破り、若しは仏塔・僧塔、諸の善人福田の中の稚・鈴・貝及び鼓を盗む。故に此の罪を得るなり。先世に他の舌を截り、或は其の口を塞き、或は悪薬を与へて語ることを得ざらしめ、或は師の教へ、父母の教勅を聞き其の語を断つ○世に生まれて人と為り唖にして言ふこと能はず。
○先世に他の坐禅を破り、坐禅の舎を破り、諸の呪術を以て人を呪して瞋らし闘諍し淫欲せしむ。今世に諸の結使厚重なること、婆羅門の其の稲田を失ひ其の婦復死して即時に狂発して裸形にして走りしが如くならん○先世に仏・阿羅漢・辟支仏の食及び父母所親の食を奪へば、仏世に値ふと雖も猶故(なお)飢渇す。罪の重きを以ての故なり○先世に好みて鞭杖・拷掠・閉繋を行じ種々に悩ますが故に今世に病を得るなり○先世に他の身を破り、其の頭を截り、其の手足を斬り、種々の身分を破り、或は仏像を壊り、仏像の鼻及び諸の賢聖の形像を毀り、或は父母の形像を破る。是の罪を以ての故に形を受くるに多く具足せず。復次に不善法の報い、身を受くること醜陋なり」文。/ 法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○若し人と為ることを得ては諸根闇鈍にして盲・聾・背傴ならん○口の気常に臭く、鬼魅に著せられん。貧窮下賤にして人に使はれ、多病瘠痩にして依怙する所無く○若しは他の叛逆し抄劫し窃盗せん。是の如き等の罪横に其の殃に羅らん」文。又八の巻に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ、此の人現世に白癩の病を得ん。
若し之れを軽笑すること有らん者は当に世々に牙歯疎き欠け・醜き脣平める鼻・手脚繚戻し、眼目角に、身体臭穢・悪瘡・膿血・水腹・短気諸の悪重病あるべし」文。/ 問うて云く、何なる業を修する者が六道に生じて其の中の王と成るや。答へて云く、大乗の菩薩戒を持して之れを破る者は色界の梵王・欲界の魔王・帝釈・四輪王・禽獣王・閻魔王等と成るなり。心地観経に云く「諸王の受くる所の諸の福楽は、往昔曾て三つの浄戒を持ち、戒徳薫修して招き感ずる所にして、人天の妙果として王の身を獲たり○中品に菩薩戒を受持すれば、福徳自在の転輪王となり、心の所作に随ひて尽く皆成じ、無量の人天悉く遵奉せん。下の上品に持すれば大鬼王となり、一切の非人咸く率伏せん。戒品を受持して欠犯すと雖も、戒の勝るるに由るが故に王と為ることを得るなり。下の中品に持すれば禽獣の王となり、一切の飛走皆帰伏せん。清浄の戒に於て欠犯有るも戒の勝るるに由るが故に王と為ることを得るなり。下の下品に持すれば、魔王として地獄の中に処して常に自在なり。禁戒を毀り悪道に生ずと雖も、戒の勝るるに由るが故に王と為ることを得るなり。○若し如来の戒を受けざること有らば、終に野干の身をも得ること能はず。何に況や、能く人天の中の最勝の快楽を感じて、王位に居せんをや」文。
安然和尚の広釈に云く「菩薩の大戒は持して法王と成り、犯して世王となる。而も戒の失せざること譬へば金銀を器と為すに用ゐるに貴く、器を破りて用ゐざるも而も宝は失せざるが如し」。亦云く「無量寿観に云く、劫初より已来八万の王有りて其の父を殺害すと。此れ則ち菩薩戒を受け国王と作ると雖も、今殺の戒を犯して皆地獄に堕すれども、犯戒の力も王と作るなり。大仏頂に云く、発心の菩薩罪を犯せども、暫く天神地祇と作る。大随求に云く、天帝命尽きて忽ち驢の腹に入れども、随求の力に由りて還りて天上に生ず。尊勝に云く、善住天子死後七返、応に畜生の身に堕すべきを尊勝の力に由りて還りて天の報を得たり。昔国王有り千車をもって水を運び、仏塔の焼くるを救ふ。自ら心を起こして修羅王と作る。昔梁の武帝五百の袈裟を須弥山の五百の羅漢に施す。誌公往きて五百に施すに一を欠く。衆の云く、罪を犯すも暫く人王と作らんと。即ち武帝是れなり。昔国王有りて民を治むること等しからず。今天王と作れども大鬼王と為る。即ち東南西の三天王是れなり。拘留孫の末に菩薩と成りて発誓し現に北王と作る、毘沙門是れなり」云云。
此等の文を以て之れを思ふに、小乗戒を持して破る者は六道の民と作り、大乗戒を破する者は六道の王と成り、持する者は仏と成る是れなり。/ 第七に声聞道とは、此の界の因果をば阿含小乗十二年の経に分明に之れを明かせり。諸大乗経に於ても大に対せんが為に亦之れを明かせり。声聞に於て四種有り。一には優婆塞、俗男なり。五戒を持し苦・空・無常・無我の観を修し、自調自度の心強くして敢へて化他の意無く、見思を断じ尽くして阿羅漢と成る。此の如くする時自然に髪を剃るに自ら落つ。二には優婆夷、俗女なり。五戒を持し髪を剃るに自ら落つること男の如し。三には比丘僧なり、二百五十戒〈具足戒なり〉を持して苦・空・無常・無我の観を修し、見思を断じて阿羅漢と成る。此の如くするの時、髪を剃らざれども生ぜず。四には比丘尼なり。五百戒を持す。余は比丘の如し。一代諸経に列座せる舎利弗・目連等の如き声聞是れなり。永く六道に生ぜず。亦仏・菩薩とも成らず、灰身滅智し決定して仏に成らざるなり。小乗戒の手本たる尽形寿の戒は、一度依身を壊れば永く戒の功徳無し。上品を持すれば二乗と成り、中下を持すれば人天に生じて民と為る。之れを破れば三悪道に堕ちて罪人と成るなり。
安然和尚の広釈に云く「三善の世戒は因生じて果を感じ業尽きて悪に堕す。譬へば楊葉の秋至れば金に似たれども、秋去れば地に落つるが如し。二乗の小戒は持する時は果拙く破する時は永く捨つ。譬へば瓦器の完くして用ゐるに卑しく、若し破れば永く失するが如し」文。/ 第八に縁覚道とは、二有り。一には部行独覚、仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習ひ、小乗の戒を持し、見思を断じて永不成仏の者と成る。二には麟喩独覚、無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し、見思を断じて永不成仏の身と成る。戒も亦声聞の如し。此の声聞縁覚を二乗とは云ふなり。/ 第九に菩薩界とは、六道の凡夫の中に於て、自身を軽んじ他人を重んじ、悪を以て己に向け善を以て他に与へんと念ふ者有り。仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまへり。此の菩薩戒に於て三有り。一には摂善法戒、所謂 八万四千の法門を習ひ尽くさんと願す。二には饒益有情戒、一切衆生を度しての後に自らも成仏せんと欲する是れなり。三には摂律儀戒、一切の諸戒を尽く持せんと欲する是れなり。華厳経の心を演ぶる梵網経に云く「仏諸の仏子に告げて言く、十重の波羅提木叉有り。若し菩薩戒を受けて此の戒を誦せざる者は菩薩に非ず、仏の種子に非ず。我も亦是の如く誦す。一切の菩薩は已に学し、一切の菩薩は当に学し、一切の菩薩は今学す」文。
菩薩と言ふは二乗を除きて一切の有情なり。小乗の如きは戒に随ひて異なるなり。菩薩戒は爾らず。一切の有心に必ず十重禁等を授く。一戒を持するを一分の菩薩と云ひ、具に十分を受くるを具足の菩薩と名づく。故に瓔珞経に云く「一分の戒を受くること有れば一分の菩薩と名づけ、乃至二分・三分・四分・十分なるを具足の受戒といふ」文。/ 問うて云く、二乗を除くの文 如何。答へて云く、梵網経に菩薩戒を受くる者を列ねて云く「若し仏戒を受くる者は国王・王子・百官・宰相・比丘・比丘尼・十八梵天・六欲天子・庶民・黄門・淫男・淫女・奴婢・八部・鬼神・金剛神・畜生乃至変化人にもあれ、但法師の語を解するは尽く戒を受得すれば皆第一清浄の者と名づく」文。此の中に於て二乗無きなり。方等部の結経たる瓔珞経にも亦二乗無し。問うて云く、二乗所持の不殺生戒と菩薩所持の不殺生戒と差別 如何。答へて云く、所持の戒の名は同じと雖も、持する様並びに心念永く異なるなり。故に戒の功徳も亦浅深有り。問うて云く、異なる様 如何。答へて云く、二乗の不殺生戒は永く六道に還らんと思はず、故に化導の心無し。亦仏菩薩と成らんと思はず、但灰身滅智の思ひを成すなり。
譬へば木を焼き灰と成しての後に一塵も無きが如し。故に此の戒をば瓦器に譬ふ。破れて後用ゐること無きが故なり。菩薩は爾らず。饒益有情戒を発して此の戒を持するが故に、機を見て五逆十悪を造り同じく犯せども此の戒は破れず、還りて弥(いよいよ)戒体を全くす。故に瓔珞経に云く「犯すこと有れども失せず、未来際を尽くす」文。故に此の戒をば金銀の器に譬ふ。完くして持する時も破する時も永く失せざるが故なり。問うて云く、此の戒を持する人は幾劫を経てか成仏するや。答へて云く、瓔珞経に云く「未だ住に上らざる前○若しは一劫二劫三劫乃至十劫を経て初住の位の中に入ることを得」文。文の意は、凡夫に於て此の戒を持するを信位の菩薩と云ふ。然りと雖も一劫二劫乃至十劫の間は六道に沈輪し、十劫を経て不退の位に入り永く六道の苦を受けざるを不退の菩薩と云ふ。未だ仏に成らず、還りて六道に入れども苦無きなり。/ 第十に仏界とは、菩薩の位に於て四弘誓願を発すを以て戒と為す。三僧祇の間六度万行を修し、見思・塵沙・無明の三惑を断じ尽くして仏と成る。故に心地観経に云く「三僧企耶大劫の中に具に百千の諸の苦行を修し、功徳円満して法界に遍く、十地究竟して三身を証す」文。
「因位に於て諸の戒を持ち、仏果の位に至りて仏身を荘厳す」文。三十二相・八十種好は即ち是れ戒の功徳の感ずる所なり。但し仏果の位に至れば戒体失す。譬へば華の果と成りて華の形無きが如し。故に天台の梵網経疏に云く「仏に至りて乃ち廃す」文。/ 問うて云く、梵網経等の大乗戒は現身に七逆を造れると並びに決定性の二乗とを許すや。答へて云く、梵網経に云く「若し戒を受けんと欲する時は、師応に問ひ言ふべし。汝現身に七逆の罪を作らざるや、菩薩の法師は七逆の人の与(ため)に現身に戒を受けしむることを得ず」文。此の文の如くんば七逆の人は現身に受戒を許さず。大般若経に云く「若し菩薩設ひ伽沙劫に妙の五欲を受くるとも、菩薩戒に於て猶犯と名づけず。若し一念二乗の心を起こさば即ち名づけて犯と為す」文。大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障へず。若し自利の心を起こさば是れ大菩提の障りなり」文。此等の文の如くんば六凡に於ては菩薩戒を授け、二乗に於ては制止を加ふる者なり。二乗戒を嫌ふは二乗所持の五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌ふに非ず。彼の戒は菩薩も持すべし。但二乗の心念を嫌ふなり。夫れ以みれば持戒は父母・師僧・国王・主君・一切衆生・三宝の恩を報ぜんが為なり。
父母は養育の恩深し。一切衆生は互ひに相助くる恩重し。国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり。此れに依りて善を修すれば恩重し。主君も亦彼の恩を蒙りて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養ふ。設ひ爾らずと雖も一身を顧みる等の恩是れ重し。師は亦邪道を閉じ正道に趣かしむる等の恩是れ深し。仏恩は言ふに及ばず。是の如く無量の恩分之れ有り。而るに二乗は此等の報恩皆欠けたり。故に一念も二乗の心を起こすは十悪五逆に過ぎたり。一念も菩薩の心を起こすは一切諸仏の後心の功徳を起こせるなり。已上四十余年の間の大小乗の戒なり。/ 法華経の戒と言ふは二有り。一には相待妙の戒、二には絶待妙の戒なり。先づ相待妙の戒とは、四十余年の大小乗の戒と法華経の戒と相対して爾前を麁戒と云ひ法華経を妙戒と云ふ。諸経の戒をば未顕真実の戒・歴劫修行の戒・決定性の二乗戒と嫌ふなり。法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌はざる戒等を相対して麁妙を論ずるを相対妙の戒と云ふなり。問うて云く、梵網経に云く「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る。位大覚に同じ已に真に是れ諸仏の子なり」文。華厳経に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」文。大品経に云く「初発心の時即ち道場に坐す」文。
此等の文の如くんば四十余年の大乗戒に於て法華経の如く速疾頓成の戒有り。何ぞ但歴劫修行の戒なりと云ふや。答へて云く、此に於て二義有り。一義に云く、四十余年の間に於て歴劫修行の戒と速疾頓成の戒と有り。法華経に於ては但一つの速疾頓成の戒のみ有り。其の中に於て、四十余年の間の歴劫修行の戒に於ては、法華経の戒に劣ると雖も、四十余年の間の速疾頓成の戒に於ては法華経の戒に同じ。故に上に出だす所の衆生、仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る等の文は、法華経の「須臾聞之即得究竟」の文に之れ同じ。但し無量義経に四十余年の経を挙げて歴劫修行等と云へるは四十余年の内の歴劫修行の戒計りを嫌ふなり。速疾頓成の戒をば嫌はざるなり。/ 一義に云く、四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒、法華経の戒は速疾頓成の戒なり。但し上に出だす所の四十余年の諸経の速疾頓成の戒に於ては、凡夫地より速疾頓成するに非ず。凡夫地より無量の行を成じて無量劫を経、最後に於て凡夫地より即身成仏す。故に最後に従へて速疾頓成とは説くなり。委悉に之れを論ぜば歴劫修行の所摂なり。故に無量義経には総て四十余年の経を挙げて、仏、無量義経の速疾頓成に対して宣説菩薩歴劫修行と嫌ひたまへり。
大荘厳菩薩の此の義を承けて領解して云く「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず。何を以ての故に、菩提の大直道を知らざるが故に。険径を行くに留難多きが故に。乃至、大直道を行くに留難無きが故に」文。若し四十余年の間に無量義経・法華経の如く速疾頓成の戒之れ有れば、仏猥りに四十余年の実義を隠したまふの失之れ有らん云云。二義の中に後の義を作る者は存知の義なり。相待妙の戒是れなり。/ 次に絶待妙の戒とは、法華経に於ては別の戒無し。爾前の戒即ち法華経の戒なり。其の故は、爾前の人天の楊葉戒、小乗阿含経の二乗の瓦器戒、華厳・方等・般若・観経等の歴劫菩薩の金銀戒の行者、法華経に至りて互ひに和会して一同と成る。所以に人天の楊葉戒の人は、二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を具し、菩薩の金銀戒に人天の楊葉・二乗の瓦器を具す。余は以て知んぬべし。三悪道の人は現身に於て戒無し。過去に於て人天に生まれし時、人天の楊葉・二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を持ち、退して三悪道に堕す。然りと雖も其の功徳未だ失せずして之れ有り。三悪道の人、法華経に入る時、其の戒之れを起こす。故に三悪道にも亦十界を具す。故に爾前の十界の人、法華経に来至すれば皆持戒なり。故に法華経に云く「是れを持戒と名づく」文。
安然和尚の広釈に云く「法華に云く、能く法華を説く是れを持戒と名づく」文。爾前経の如く師に随ひて戒を持せず、但此の経を信ずるが即ち持戒なり。/ 爾前の経には十界互具を明かさず。故に菩薩無量劫を経て修行すれども、二乗・人天等の余戒の功徳無く、但一界の功徳を成ず。故に一界の功徳を以て成仏を遂げず。故に一界の功徳も亦成ぜず。爾前の人法華経に至りぬれば余界の功徳を一界に具す、故に爾前の経即ち法華経なり、法華経即ち爾前の経なり。法華経は爾前の経を離れず、爾前の経は法華経を離れず、是れを妙法と言ふ。此の覚り起こりて後は、行者、阿含小乗経を読むも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり。故に法華経に云く「声聞の法を決了すれば是れ諸経の王なり」文。阿含経即ち法華経と云ふ文なり。「一仏乗に於て分別して三と説く」文。華厳・方等・般若、即ち法華経と云ふ文なり。「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文。一切の外道・老子・孔子等の経は、即ち法華経と云ふ文なり。/ 梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別あり。一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず。二には戒の功徳に仏果を具せず。三には彼れは歴劫修行の戒なり。是の如き等の多くの失有り。
法華経に於ては二乗七逆の者を許す上、博地の凡夫一生の中に仏位に入り、妙覚に至りて因果の功徳を具するなり。/ 四月二十一日  日蓮花押
◆ 唱法華題目抄 〔C4・文応元年五月二八日〕/ 有る人予に問うて云く、世間の道俗させる法華経の文義を弁へずとも、一部・一巻・四要品・自我偈・一句等を受持し、或は自らもよみかき、若しは人をしてもよみかかせ、或は我とよみかかざれども、経に向かひ奉り、合掌礼拝をなし、香華を供養し、或は上の如く行ずる事なき人も、他の行ずるを見てわづかに随喜の心ををこし国中に此の経の弘まれる事を悦ばん。是れ体の僅かの事によりて世間の罪にも引かれず、彼の功徳に引かれて小乗の初果の聖人の度々人天に生まれて、而も悪道に堕ちざるがごとく、常に人天の生をうけ、終に法華経を心得るものと成りて十方浄土にも往生し、又此の土に於ても即身成仏する事有るべきや、委細に之れを聞かん。/ 答へて云く、させる文義を弁へたる身にはあらざれども、法華経・涅槃経並びに天台・妙楽の釈の心をもて推し量るに、かりそめにも法華経を信じて聊かも謗を生ぜざらん人は、余の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず。但し悪知識と申してわづかに権教を知れる人、智者の由をして法華経を我等が機に叶ひ難き由を和らげ申さんを誠と思ひて、法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて、一生さて法華経へ帰り入らざらん人は、悪道に堕つべき事も有りなん。
仰せに付きて疑はしき事侍り。実にてや侍るらん。法華経に説かれて候とて智者の語らせ給ひしは、昔三千塵点劫の当初、大通智勝仏と申す仏います。其の仏の凡夫にていましける時十六人の王子をはします。彼の父の王仏にならせ給ひて、一代聖教を説き給ひき。十六人の王子も亦出家して其の仏の御弟子とならせ給ひけり。大通智勝仏法華経を説き畢らせ給ひて定に入らせ給ひしかば、十六人の王子の沙弥其の前にしてかはるがはる法華経を講じ給ひけり。其の所説を聴聞せし人幾千万といふ事をしらず、当座に悟りをえし人は不退の位に入りにき。又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり、其の人々・当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり。其の間又つぶさに六道四生に輪回し、今日釈迦如来の法華経を説き給ふに不退の位に入る。所謂 舎利弗・目連・迦葉・阿難等是れなり。猶々信心薄き者は、当時も覚らずして未来無数劫を経べきか。知らず、我等も大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん。此の結縁の衆をば天台・妙楽は名字・観行の位にかなひたる人なりと定め給へり。名字・観行の位は一念三千の義理を弁へ、十法成乗の観を凝らし、能く能く義理を弁へたる人なり。
一念随喜五十展転と申すも、天台・妙楽の釈のごときは皆観行五品の初随喜の位と定め給へり。博地の凡夫の事にはあらず。/ 然るに我等は末代の一字一句等の結縁の衆、一分の義理をも知らざらんは、豈に無量の世界の塵点劫を経ざらんや。是れ偏に理深解微の故に、教は至りて深く、機は実に浅きがいたす処なり。只弥陀の名号を唱へて、順次生に西方極楽世界に往生し、永く不退の無生忍を得て、阿弥陀如来・観音・勢至等の法華経を説き給はん時、聞いて悟りを得んには如かじ。然るに弥陀の本願は有智無智・善人悪人・持戒破戒等をも択ばず。只一念唱ふれば臨終に必ず弥陀如来本願の故に来迎し給ふ。是れを以て思ふに、此の土にして法華経の結縁を捨て浄土に往生せんとをもふは、億千世界の塵点を経ずして疾く法華経を悟らんがためなり。法華経の根機にあたはざる人の、此の穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さざるは、法華経の証は取り難く、極楽の業は定まらず、中間になりて中々法華経をおろそかにする人にてやおはしますらんと申し侍るは如何に。其の上只今承り候へば、僅かに法華経の結縁計りならば、三悪道に堕ちざる計りにてこそ候へ、六道の生死を出づるにはあらず。
念仏の法門はなにと義理を知らざれども、弥陀の名号を唱へ奉れば浄土に往生する由を申すは、遥かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞こえ侍れ。/ 答へて云く、誠に仰せめでたき上、智者の御物語にて侍るなれば、さこそと存じ候へども、但し若し御物語のごとく侍らば、すこし不審なる事侍り。大通結縁の者をあらあらうちあてがひ申すには、名字・観行の者とは釈せられて侍れども、正しく名字即の位の者と定められ侍る上、退大取小の者とて法華経をすてて権教にうつり、後には悪道に堕ちたりと見えたる上、正しく法華経を誹謗して之れを捨てし者なり。設ひ義理を知るやう(様)なる者なりとも、謗法の人にあらん上は、三千塵点・無量塵点も経べく侍るか。五十展転一念随喜の人々を観行初随喜の位の者と釈せられたるは、末代の我等が随喜等は彼の随喜の中には入るべからずと仰せ候か。是れを天台・妙楽初随喜の位と釈せられたりと申さるるほどにては、又名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか。所詮 仰せの御義を委しく案ずれば、をそれにては候へども、謗法の一分にやあらんずらん。其の故は法華経を我等末代の機に叶ひ難き由を仰せ候は、末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無き事なりと仰せらるるにや。
若しさやう(左様)に侍らば、末代の一切衆生の中に此の御詞を聞いて、既に法華経を信ずる者も打ち捨て、未だ行ぜざる者も行ぜんと思ふべからず。随喜の心も留め侍らば謗法の分にやあるべかるらん。若し謗法の者に一切衆生なるならば、いかに念仏を申させ給ふとも、御往生は不定にこそ侍らんずらめ。又弥陀の名号を唱へ、極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは何なる経論を証拠として此の心はつき給ひけるやらん。正しくつよき証文候か。若しなくば其の義たのもしからず。前に申し候ひつるがごとく法華経を信じ侍るは、させる解なけれども三悪道には堕つべからず候。六道を出づる事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか。但し悪知識に値ひて法華経随喜の心を云ひやぶられて候はんは力及ばざるか。/ 又仰せに付きて驚き覚え侍り。其の故は法華経は末代の凡夫の機に叶ひ難き由を智者申されしかば、さか(左歟)と思ひ侍る処に、只今の仰せの如くならば、弥陀の名号を唱ふとも法華経をいゐうとむるとがによりて往生をも遂げざる上、悪道に堕つべきよし承るは、ゆゆしき大事にこそ侍れ。抑 大通結縁の者は謗法の故に六道に回るも又名字即の浅位の者なり。又一念随喜五十展転の者も又名字観行即の位と申す釈は何れの処に候やらん、委しく承り候はばや。
又義理をも知らざる者の僅かに法華経を信じ侍るが、悪知識の教によて法華経を捨て権教に移るより外の、世間の悪業に引かれては悪道に堕つべからざる由申さるるは証拠あるか。又無智の者の念仏申して往生すると、何に見えてあるやらんと申し給ふこそ、よ(世)に事あたらしく侍れ。双観経等の浄土の三部経・善導和尚等の経釈に明らかに見えて侍らん上は、なにとか疑ひ給ふべき。/ 答へて曰く、大通結縁の者を退大取小の謗法、名字即の者と申すは私の義にあらず。天台大師の文句第三の巻に云く「法を聞いて未だ度せず、而して世々に相値ひて今に声聞地に住する者有り。即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給ひて侍るを、妙楽大師の疏記第三に、重ねて此の釈の心を述べ給ひて云く「但し未だ品に入らず倶に結縁と名づくるが故に」文。文の心は大通結縁の者は名字即の者となり。又天台大師の玄義の第六に大通結縁の者を釈して云く「若しは信若しは謗、因りて倒れ因りて起く。喜根を謗ずと雖も後要(かなら)ず度を得るが如し」文。文の心は大通結縁の者の三千塵点を経るは謗法の者なり。例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしが如しと釈す。/ 五十展転の人は五品の初めの初随喜の位と申す釈もあり。又初随喜の位の先の名字即と申す釈もあり。
疏記第十に云く「初めに法会にして聞く、是れ初品なるべし。第五十人は必ず随喜の位の初めに在る人なり」文。文の心は初会聞法の人は必ず初随喜の位の内、第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり。其の上五種法師にも受持・読・誦・書写の四人は自行の人、大経の九人の先の四人は解無き者なり。解説は化他、後の五人は解有る人と証し給へり。疏記第十に五種法師を釈するには「或は全く未だ品に入らず」。又云く「一向未だ凡位に入らず」文。文の心は五種法師は観行五品と釈すれども、又五品已前の名字即の位とも釈するなり。此等の釈の如くんば義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も、経文の一偈一句一念随喜の者、五十展転等の内に入るかと覚え候。/ 何に況や此の経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬喩品に委しくとかれたり。持経者を謗ずる罪は法師品にとかれたり。此の経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり。謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり。させる義理を知らざれども、一念も貴き由申すは違背・随順の中には何れにか取られ候べき。又末代無智の者のわづかの供養随喜の功徳は経文には載せられざるか 如何。
其の上天台・妙楽の釈の心は、他の人師ありて法華経の乃至童子戯・一偈一句・五十展転の者を、爾前の諸経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば謗法の者と定め給へり。然るに我が釈を作る時、機を高く取りて末代造悪の凡夫を迷はし給はんは自語相違にあらずや。故に妙楽大師、五十展転の人を釈して云く「恐らくは人謬りて解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推(ゆず)りて此の初心を蔑る。故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕はす」文。文の心は謬りて法華経を説かん人の、此の経は利智精進上根上智の人のためといはん事を仏をそれて、下根下智末代の無智の者の、わづかに浅き随喜の功徳を、四十余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事を顕はさんとして五十展転の随喜は説かれたり。/ 故に天台の釈には、外道・小乗・権大乗までたくらべ来たりて、法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり。所以に阿竭多(あかだ)仙人は十二年が間恒河の水を耳に留め、耆兎(ぎと)仙人は一日の中に大海の水をすいほす。此の如き得通の仙人は、小乗阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫には百千万倍劣れり。三明六通を得たりし小乗の舎利弗目連等は、華厳・方等・般若等の諸大乗経の未断三惑の一通もなき一偈一句の凡夫には百千万倍劣れり。
華厳・方等・般若経を習ひ極めたる等覚の大菩薩は、法華経を僅かに結縁をなせる未断三惑無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由、釈の文顕然なり。而るを当世の念仏宗等の人、我が身の権教の機にて実教を信ぜざる者は、方等・般若の時の二乗のごとく、自身をはぢ(恥)しめてあるべき処に敢へて其の義なし。あまつさへ世間の道俗の中に、僅かに観音品・自我偈なんどを読み、適(たまたま)父母孝養なんどのために一日経等を書く事あれば、いゐさまたげて云く、善導和尚は念仏に法華経をまじふるを雑行と申し、百の時は希に一・二を得、千の時は希に三・五を得ん。乃至千中無一と仰せられたり。何に況や智恵第一の法然上人は法華経等を行ずる者をば、祖父の履、或は群賊等にたとへられたりなんどいゐうとめ侍るは、是の如く申す師も弟子も阿鼻の焔をや招かんずらんと申す。/ 問うて云く、何なるすがた並びに語を以てか、法華経を世間にいゐうとむる者には侍るや、よにおそろ(恐)しくこそおぼ(覚)え候へ。答へて云く、始めに智者の申され候と御物語候ひつるこそ、法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ。末代に法華経を失ふべき者は、心には一代聖教を知りたりと思ひて而も心には権実二経を弁へず。
身には三衣一鉢を帯し、或は阿練若に身をかくし、或は世間の人にいみじき智者と思はれて、而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんどして、世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失ふべしと見えて候。/ 問うて云く、其の証拠 如何。答へて云く、法華経勧持品に云く「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん。我等皆当に忍ぶべし」文。妙楽大師此の文の心を釈して云く「初めの一行は通じて邪人を明かす。即ち俗衆なり」文。文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵(あだ)をすべしとなり。経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん」文。妙楽大師此の文の心を釈して云く「次の一行は道門増上慢の者を明かす」文。文の心は悪世末法の権教の諸の比丘、我法を得たりと慢じて法華経を行ずるものの敵(あだ)となるべしといふ事なり。経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在りて、自ら真の道を行ずと謂(おも)ひて人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣の与(ため)に法を説いて、世に恭敬せらることを為(う)ること、六通の羅漢の如くならん。
是の人悪心を懐き、常に世俗の事を念ひ、名を阿練若に仮りて、好みて我等が過を出ださん。而も是の如き言を作さん。此の諸の比丘等は利養を貪るを為(もっ)ての故に、外道の論議を説き、自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑す。名聞を求むるを為ての故に分別して是の経を説く。常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かひて、誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂はん」已上。大師此の文を釈して云く「三に七行は僣聖増上慢の者を明かす」文。経並びに釈の心は、悪世の中に多くの比丘有りて身には三衣一鉢を帯し、阿練若に居して、行儀は大迦葉等の三明六通の羅漢のごとく、在家の諸人にあふ(仰)がれて、一言を吐けば如来の金言のごとくをもはれて、法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために、国王大臣等に向かひ奉りて、此の人は邪見の者なり、法門は邪法なりなんどいゐうとむるなり。上の三人の中に、第一の俗衆の毀りよりも、第二の邪智の比丘の毀りは猶しのびがたし。又第二の比丘よりも、第三の大衣の阿練若の僧は甚だし。/ 此の三人は当世の権教を手本とする文字の法師、並びに諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の法師、並びに彼等を信ずる在俗等、四十余年の諸経と法華経との権実の文義を弁へざる故に、
華厳・方等・般若等の心仏衆生・即心是仏・即往十方西方等の文と、法華経の諸法実相・即往十方西方の文と語の同じきを以て義理のかはれるを知らず、或は諸経の言語道断・心行所滅の文を見て、一代聖教には如来の実事をば宣べられざりけりなんどの邪念をおこす。故に悪鬼此の三人に入りて末代の諸人を損じ国土をも破るなり。故に経文に云く「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん、悪鬼其の身に入りて、我を罵詈し毀辱せん、乃至仏の方便随宜所説の法を知らず」文。文の心は濁悪世の時、比丘、我が信ずる所の教は仏の方便随宜の法門ともしらずして、権実を弁へたる人出来すれば、罵り破しなんどすべし。是れ偏に悪鬼の身に入りたるをしらずと云ふなり。/ されば末代の愚人の恐るべき事は、刀杖・虎狼・十悪・五逆等よりも、三衣一鉢を帯せる暗禅の比丘と並びに権経の比丘を貴しと見て実経の人をにくまん俗侶等なり。故に涅槃経二十二に云く「悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。何を以ての故に、是の悪象等は唯能く身を壊りて心を壊ること能はず。悪知識は二倶に壊るが故に。乃至悪象の為に殺されては三趣に至らず。悪友の為に殺されては必ず三趣に至らん」文。
此の文の心を章安大師宣べて云く「諸の悪象等は但是れ悪縁にして人に悪心を生ぜしむること能はず。悪知識は甘談詐媚・巧言令色もて人を牽きて悪を作さしむ。悪を作すを以ての故に人の善心を破る。之れを名づけて殺と為す、即ち地獄に堕す」文。文の心は、悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧みにして愚痴の人の心を取りて善心を破るといふ事なり。総じて涅槃経の心は、十悪・五逆の者よりも謗法・闡提のものをおそるべしと誡めたり。闡提の人と申すは法華経・涅槃経を云ひうとむる者と見えたり。/ 当世の念仏者等法華経を知り極めたる由をいふに、因縁譬喩をもて釈し、よくよく知る由を人にしられて、然して後には此の経のいみじき故に末代の機のおろかなる者及ばざる由をのべ、強き弓重き鎧、かひなき人の用にたたざる由を申せば、無智の道俗さもと思ひて実には叶ふまじき権教に心を移して、僅かに法華経に結縁しぬるをも翻し、又人の法華経を行ずるをも随喜せざる故に、師弟倶に謗法の者となる。之れに依りて謗法の衆生国中に充満して、適(たまたま)仏事をいとなみ、法華経を供養し、追善を修するにも、念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来たりて、法華経は末代の機に叶ひ難き由を示す。
故に施主も其の説を実と信じてある間、訪はるる過去の父母・夫婦・兄弟等は弥(いよいよ)地獄の苦を増し、孝子は不孝謗法の者となり、聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属となる。日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず。/ 適(たまたま)仏法を知る智者は、国の人に捨てられ、守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ、利生を止め、此の国をすて他方に去り給ひ、悪鬼は便りを得て国中に入り替はり、大地を動かし悪風を興し、一天を悩まし五穀を損ず。故に飢渇出来し、人の五根には鬼神入りて精気を奪ふ。是れを疫病と名づく。一切の諸人善心無く多分は悪道に堕することひとへに悪知識の教を信ずる故なり。仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず。是れを破仏破国の因縁と為す」文。文の心は末法の諸の悪比丘、国王・大臣の御前にして、国を安穏ならしむる様にして終に国を損じ、仏法を弘むる様にして還りて仏法を失ふべし。国王・大臣此の由を深く知ろし食さずして此の言を信受する故に、国を破り仏教を失ふと云ふ文なり。
此の時日月度を失ひ、時節もたがひて、夏はさむく、冬はあたたかに、秋は悪風吹き、赤き日月出で、望朔にあらずして日月蝕し、或は二つ三つ等の日出来せん。大火・大風・彗星等をこり、飢饉・疫病等あらんと見えたり。国を損じ人を悪道におとす者は悪知識に過ぎたる事なきか。/ 問うて云く、始めに智者の御物語とて申しつるは、所詮後世の事の疑はしき故に善悪を申して承らんためなり。彼の義等は恐ろしき事にあるにこそ侍るなれ。一文不通の我等が如くなる者はいかにしてか法華経に信をとり候べき。又心ねをば何様に思ひ定め侍らん。答へて云く、此の身の申す事をも一定とおぼしめさるまじきにや。其の故はかやうに申すも天魔波旬・悪鬼等の身に入りて、人の善き法門を破りやすらんとおぼしめされ候はん。一切は賢きが智者にて侍るにや。/ 問うて云く、若しかやうに疑ひ候はば、我が身は愚者にて侍り、万の智者の御語をば疑ひ、さて信ずる方も無くして空しく一期過ごし侍るべきにや。答へて云く、仏の遺言に依法不依人と説かせ給ひて候へば、経の如くに説かざるをば、何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か。
又依了義経・不依不了義経と説かれて候へば、愚痴の身にして一代聖教の前後浅深を弁へざらん程は了義経に付かせ給ひ候へ。了義経・不了義経も多く候。阿含小乗経は不了義経、華厳・方等・般若・浄土の観経等は了義経。又四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経、法華経は了義経。涅槃経を法華経に対すれば、法華経は了義経、涅槃経は不了義経。大日経を法華経に対すれば、大日経は不了義経、法華経は了義経なり。故に四十余年の諸経並びに涅槃経を打ち捨てさせ給ひて、法華経を師匠と御憑み候へ。/ 法華経をば国王・父母・日月・大海・須弥山・天地の如くおぼしめせ。諸経をば関白・大臣・公卿・乃至万民・衆星・江河・諸山・草木等の如くおぼしめすべし。我等が身は末代造悪の愚者・鈍者・非法器の者、国王は臣下よりも人をたすくる人、父母は他人よりも子をあはれむ者、日月は衆星より暗を照らす者、法華経は機に叶はずんば況や余経は助け難しとおぼしめせ。又釈迦如来と阿弥陀如来・薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏菩薩は我等が慈悲の父母、此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとどまれりとおぼしめせ。諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕はさずとおぼしめせ。法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍り。
而るを当世の学者、法華経をば一切経に勝れたりと讃めて、而も末代の機に叶はずと申すを皆信ずる事豈に謗法の人に侍らずや。只一口におぼしめし切らせ給ひ候へ。所詮 法華経の文字を破りさきなんどせんには法華経の心やぶるべからず。又世間の悪業に対して云ひうとむるとも、人々用ゐるべからず。只相似たる権経の義理を以て云ひうとむるにこそ、人はたぼらかさるれとおぼしめすべし。/ 問うて云く、或智者の申され候ひしは、四十余年の諸経と八箇年の法華経とは、成仏の方こそ爾前は難行道、法華経は易行道にて候へ。往生の方にては同事にして易行道に侍り。法華経を書き読みても十方の浄土阿弥陀仏の国へも生まるべし。観経等の諸経に付きて弥陀の名号を唱へん人も往生を遂ぐべし。只機縁の有無に随ひて何れをも諍ふべからず。但し弥陀の名号は人ごとに行じ易しと思ひて、日本国中に行じつけたる事なれば、法華経等の余行よりも易きにこそと申されしは 如何。/ 答へて云く、仰せの法門はさも侍るらん。又世間の人も多くは道理と思ひたりげに侍り。但し身には此の義に不審あり。其の故は前に申せしが如く、末代の凡夫は智者と云ふともたのみなし、世こぞりて上代の智者には及ぶべからざるが故に。愚者と申すともいやしむべからず、経論の証文顕然ならんには。
抑 無量義経は法華経を説かんが為の序分なり。然るに始め寂滅道場より今の常在霊山の無量義経に至るまで、其の年月日数を委しく計へ挙ぐれば四十余年なり。其の間の所説の経を挙ぐるに華厳・阿含・方等・般若なり。所談の法門は三乗五乗所習の法門なり。修行の時節を定むるには宣説菩薩歴劫修行と云ひ、随自意・随他意を分かつには是れを随他意と宣べ、四十余年の諸経と八箇年の所説との語同じく義替はれる事を定むるには「文辞は一なりと雖も而も義は各異なり」ととけり。成仏の方は別にして往生の方は一つなるべしともおぼえず。華厳・方等・般若、究竟最上の大乗経、頓悟・漸悟の法門、皆未顕真実と説かれたり。此の大部の諸経すら未顕真実なり。何に況や浄土の三部経等の往生極楽ばかり未顕真実の内にもれんや。其の上経々ばかりを出だすのみにあらず、既に年月日数を出だすをや。然れば、華厳・方等・般若等の弥陀往生已に未顕真実なる事疑ひ無し。観経の弥陀往生に限りて豈に多留難故の内に入らざらんや。/ 若し随自意の法華経の往生極楽を随他意の観経の往生極楽に同じて易行道と定めて、而も易行の中に取りても猶観経等の念仏往生は易行なりと之れを立てられば、権実雑乱の失大謗法たる上、一滴の水漸々に流れて大海となり、一塵積もりて須弥山となるが如く、漸く権経の人も実経にすすまず、実経の人も権経におち、権経の人次第に国中に充満せば法華経随喜の心も留まり、
国中に王なきが如く、人の神(たましい)を失へるが如く、法華・真言の諸の山寺荒れて、諸天善神・竜神等一切の聖人国を捨てて去れば、悪鬼便りを得て乱れ入り、悪風吹きて五穀も成(みの)らしめず、疫病流行して人民をや亡ぼさんずらん。/ 此の七八年が前までは諸行は永く往生すべからず、善導和尚の千中無一と定めさせ給ひたる上、選択には諸行を抛てよ、行ずる者は群賊と見えたりなんど放語を申し立てしが、又此の四五年の後は選択集の如く人を勧めん者は、謗法の罪によって師檀共に無間地獄に堕つべしと経に見えたりと申す法門出来したりげに有りしを、始めは念仏者こぞりて不思議の思ひをなす上、念仏を申す者無間地獄に堕つべしと申す悪人外道あり、なんどののしり候ひしが、念仏者無間地獄に堕つべしと申す語に智恵つきて、各選択集を委しく披見する程に、げにも謗法の書とや見なしけん、千中無一の悪義を留めて、諸行往生の由を念仏者毎に之れを立つ。然りと雖も唯口にのみゆるして、心の中は猶本の千中無一の思ひなり。在家の愚人は内心の謗法なるをばしらずして、諸行往生の口にばかされて、念仏者は法華経をば謗ぜざりけるを、法華経を謗ずる由を聖道門の人の申されしは僻事なりと思へるにや。
一向諸行は千中無一と申す人よりも謗法の心はまさりて候なり。失なき由を人に知らせて而も念仏計りを亦弘めんとたばかるなり。偏に天魔の計りごとなり。/ 問うて云く、天台宗の中の人の立つる事あり、天台大師、爾前と法華と相対して爾前を嫌ふに二義あり。一には約部、四十余年の部と法華経の部と相対して爾前は麁なり、法華は妙なりと之れを立つ。二には約教、教に麁妙を立て、華厳・方等・般若等の円頓速疾の法門をば妙と歎じ、華厳・方等・般若等の三乗歴別の修行の法門をば前三教と名づけて麁なりと嫌へり。円頓速疾の方をば嫌はず、法華経に同じて一味の法門とせりと申すは 如何。/ 答へて云く、此の事は不審にもする事侍るらん。然るべしとをぼゆ。天台・妙楽より已来今に論有る事に侍り。天台の三大部六十巻、総じて五大部の章疏の中にも、約教の時は爾前の円を嫌ふ文無し。只約部の時ばかり爾前の円を押しふさね(聚束)て嫌へり。日本に二義あり、園城寺には智証大師の釈より起こりて、爾前の円を嫌ふと云ひ、山門には嫌はずと云ふ。互ひに文釈あり、倶に料簡あり。然れども今に事ゆかず。但し予が流の義には不審晴れておぼえ候。
其の故は天台大師、四教を立て給ふに四つの筋目あり。一には爾前の経に四教を立つ、二には法華経と爾前と相対して、爾前の円を法華の円に同じて前三教を嫌ふ事あり、三には爾前の円をば別教に摂して前三教と嫌ひ、法華の円をば純円と立つ、四には爾前の円をば法華に同ずれども、但法華経の二妙の中の相待妙に同じて絶待妙には同ぜず。此の四の道理を相対して六十巻をかんがうれば狐疑の氷解けたり。一々の証文は且つは秘し、且つは繁き故に之れを載せず。又法華経の本門にしては爾前の円と迹門の円とを嫌ふ事不審なき者なり。爾前の円をば別教に摂して、約教の時は「前三を麁と為し、後一を妙と為す」と云ふなり。此の時は爾前の円は無量義経の歴劫修行の内に入りぬ。又伝教大師の注釈の中に、爾前の八教を挙げて「四十余年 未顕真実」の内に入れ、或は前三教をば迂回と立て、爾前の円をば直道と云ひ、無量義経をば大直道と云ふ。委細に見るべし。/ 問うて云く、法華経を信ぜん人は本尊並びに行儀並びに常の所行は何にてか候べき。答へて云く、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品・或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之れを立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。
行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし。道場を出でては行住坐臥をゑらぶべからず。常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱ふべし。たへたらん人は一偈一句をも読み奉るべし。助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随ふべし。愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず、其の志あらん人は必ず習学して之れを観ずべし。/ 問うて云く、只題目計りを唱ふる功徳 如何。答へて云く、釈迦如来、法華経を説かんとおぼしめして世に出でましまししかども、四十余年の程は法華経の御名を秘しおぼしめして、御年三十の比より七十余に至るまで法華経の方便をまうけ、七十二にして始めて題目を呼び出ださせ給へば、諸経の題目に是れを比ぶべからず。其の上、法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。天台大師玄義十巻を造り給ふ。第一の巻には略して妙法蓮華経の五字の意を宣べ給ふ、第二の巻より七の巻に至るまでは又広く妙の一字を宣べ、八の巻より九の巻に至るまでは法蓮華の三字を釈し、第十の巻には経の一字を宣べ給へり。経の一字に華厳・阿含・方等・般若・涅槃経を収めたり。妙法の二字は、玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり。止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生三無差別と立て給ふ。
一切の諸仏・菩薩・十界の因果・十方の草木瓦礫等妙法の二字にあらずと云ふ事なし。華厳・阿含等の四十余年の経々、小乗経の題目には大乗経の功徳を収めず、又大乗経にも往生を説く経の題目には成仏の功徳を収めず。又王にては有れども王中の王にて無き経も有り。仏も又経に随ひて他仏の功徳をおさめず、平等意趣をもって他仏自仏とをなじといひ、或は法身平等をもて自仏他仏同じといふ。実には一仏に一切仏の功徳をおさめず、今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、十方世界の三身円満の諸仏をあつめて、釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、一仏一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり。故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大なり。諸仏諸経の題目は法華経の所開なり、妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱ふべし。/ 問うて云く、此の法門を承けて又智者に尋ね申し候へば、法華経のいみじき事は左右に及ばず候。但し器量ならん人は唯我が身計りは然るべし。末代の凡夫に向かひて、ただちに機をも知らず、爾前の教を云ひうとめ、法華経を行ぜよと申すは、としごろの念仏なんどをば打ち捨て、又法華経には未だ功も入れず、有にも無にもつかぬやう(様)にてあらんずらん。
又機も知らず、法華経を説かせ給はば、信ずる者は左右に及ばず、若し謗ずる者あらば定めて地獄に堕ち候はんずらん。其の上、仏も四十余年の間、法華経を説き給はざる事は「若但讃仏乗衆生没在苦」の故なりと。在世の機すら猶然なり。何に況や末代の凡夫をや。されば譬喩品には「仏舎利弗に告げて言く、無智の人の中に此の経を説くことなかれ」云云。此等の道理を申すは如何が候べき。答へて云く、智者の御物語と仰せ承り候へば、所詮 末代の凡夫には機をかがみ(鑑)て説け、左右なく説いて人に謗ぜさする事なかれとこそ候なれ。彼の人さやうに申され候はば、御返事候べきやうは、抑「若但讃仏乗 乃至 無智人中」等の文を出だし給はば、又一経の内に「凡有所見・我深敬汝等」等と説いて、不軽菩薩の杖木瓦石をもってうちはられさせ給ひしをば顧みさせ給はざりしは如何と申させ給へ。/ 問うて云く、一経の内に相違の候なる事こそ、よ(世)に心得がたく侍れば、くはしく承り候はん。答へて云く、方便品等には機をかがみて此の経を説くべしと見え、不軽品には謗ずとも唯強ひて之れを説くべしと見え侍り。一経の前後水火の如し。然るを天台大師会して云く「本已に善有り、釈迦は小を以て之れを将護し、本未だ善有らず、不軽は大を以て之れを強毒す」文。
文の心は本と善根ありて今生の内に得解すべき者の為には直に法華経を説くべし。然るに其の中に猶聞いて謗ずべき機あらば暫く権経をもてこしらへて後に法華経を説くべし。本と大の善根もなく、今も法華経を信ずべからず、なにとなくとも悪道に堕ちぬべき故に、但押して法華経を説いて之れを謗ぜしめて逆縁ともなせと会する文なり。此の釈の如きは、末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の縁と成すべきか。然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事諍ひ無き者をや。/ 又法華経の方便品に五千の上慢あり、略開三顕一を聞いて広開三顕一の時、仏の御力をもて座をたたしめ給ふ。後に涅槃経並びに四依の辺にして今生に悟りを得しめ給ふと、諸法無行経に、喜根菩薩、勝意比丘に向かひて大乗の法門を強ひて説ききか(聞)せ謗ぜさせしと、此の二つの相違をば天台大師会して云く「如来は悲を以ての故に発遣し、喜根は慈を以ての故に強説す」文。文の心は仏は悲の故に後のたのしみをば閣きて、当時法華経を謗じて地獄にをちて苦にあうべきを悲しみ給ひて、座をたたしめ給ひき。
譬へば母の子に病あると知れども、当時の苦を悲しみて左右なく灸(やいと)を加へざるが如し。喜根菩薩は慈の故に当時の苦をばかへりみず、後の楽を思ひて強ひて之れを説き聞かしむ。譬へば父は慈の故に子に病あるを見て、当時の苦をかへりみず、後を思ふ故に灸(やいと)を加ふるが如し。/ 又仏在世には仏法華経を秘し給ひしかば、四十余年の間等覚・不退の菩薩、名をしらず。其の上寿量品は法華経八箇年の内にも名を秘し給ひて最後にきかしめ給ひき。末代の凡夫には左右なく如何がきかしむべきとおぼゆる処を、妙楽大師釈して云く「仏世は当機の故に簡ぶ、末代は結縁の故に聞かしむ」と釈し給へり。文の心は仏在世には仏一期の間、多くの人不退の位にのぼりぬべき故に法華経の名義を出だして謗ぜしめず、機をこしらへて之れを説く。仏滅後には当機の衆は少なく結縁の衆多きが故に、多分に就きて左右なく法華経を説くべしと云ふ文なり。是れ体の多くの品あり。又末代の師は多くは機を知らず。機を知らざらんには強ひて但実教を説くべきか。されば天台大師の釈に云く「等しく是れ見ざらんは、但大を説くに咎無し」文。文の心は機をも知らざれば大を説くに失なしと云ふ文なり。
又時機を見て説法する方もあり。皆国中の諸人権経を信じて実経を謗じ強ちに用ゐざれば、弾呵の心をもて説くべきか。時に依りて用否あるべし。/ 問うて云く、唐土の人師の中に、一分一向に権大乗に留まりて実経に入らざる者はいかなる故か候。答へて云く、仏世に出でましまして先づ四十余年の権大乗・小乗の経を説き、後には法華経を説いて言く「若以小乗化 乃至於一人 我則堕慳貪 此事為不可」文。文の心は、仏但爾前の経計りを説いて法華経を説き給はずば、仏慳貪の失ありと説かれたり。後に属累品にいたりて、仏右の御手をのべて三たび諫めをなして、三千大千世界の外八方四百万億那由他の国土の諸菩薩の頂をなでて、未来には必ず法華経を説くべし。若し機たへずば、余の深法の四十余年の経を説いて機をこしらへて法華経を説くべしと見えたり。後に涅槃経に重ねて此の事を説いて、仏滅後に四依の菩薩ありて法を説くに又法の四依あり。実経をつひ(終)に弘めずんば天魔としるべきよしを説かれたり。故に如来の滅後、後の五百年、九百年の間に出で給ひし竜樹菩薩・天親菩薩等、遍く如来の聖教を弘め給ふに、天親菩薩は先に小乗の説一切有部の人、倶舎論を造りて阿含十二年の経の心を宣べて一向に大乗の義理を明かさず、
次に十地論・摂大乗論釈論等を造りて四十余年の権大乗の心を宣べ、後に仏性論・法華論等を造りて粗実大乗の義を宣べたり。竜樹菩薩も亦然なり。天台大師、唐土の人師として一代を分かつに大小・権実顕然なり。余の人師は僅かに義理を説けども分明ならず、又証文たしかならず。但し末の論師並びに訳者、唐土の人師の中に大小をば分かちて大にをい(於)て権実を分かたず、或は語には分かつといへども心は権大乗のをもむき(趣)を出でず。此等は「不退諸菩薩、其数如恒沙、亦復不能知」とおぼえて候なり。/ 疑って云く、唐土の人師の中に慈恩大師は十一面観音の化身、牙より光を放つ。善導和尚は弥陀の化身、口より仏をいだす。この外の人師、通を現じ徳をほどこし三昧を発得する人世に多し。なんぞ権実二経を弁へて法華経を詮とせざるや。答へて云く、阿竭多仙人外道は十二年の間耳の中に恒河の水をとどむ。婆籔仙人は自在天となりて三目を現ず。唐土の道士の中にも張階は霧をいだし、鸞巴は雲をはく。第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり。通力をもて智者愚者をばしるべからざるか。唯仏の遺言の如く、一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は、権経に宿習ありて実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。
但し法門をもて邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず。/ 文応元年〈太歳庚申〉五月二十六日  日蓮花押/ 鎌倉名越に於て書き畢んぬ
◆ 立正安国論 〔C0・文応元年・北条時頼〕/ 旅客来たりて歎きて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之れを悲しまざるの族敢へて一人も無し。然る間、或は利剣即是の文を専らにして西土教主の名を唱へ、或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰ぎて法華真実の妙文を崇め、或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調へ、有るは秘密真言の教に因りて五瓶の水を灑ぎ、有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし、若しくは七鬼神の号を書して千門に押し、若しくは五大力の形を図して万戸に懸け、若しくは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て、若しくは万民百姓を哀れみて国主国宰の徳政を行ふ。然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥(いよいよ)飢疫に逼り、乞客目に溢れ死人眼に満てり。臥せる屍を観(ものみ)と為し並べる尸を橋と作す。観(おもんみ)れば夫れ二離璧を合はせ五緯珠を連ぬ。三宝世に在し、百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰へ、其の法何ぞ廃れたるや。是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るや。
主人の曰く、独り此の事を愁ひて胸臆に憤す。客来たりて共に歎く、屡(しばしば)談話を致さん。夫れ出家して道に入る者は法に依りて仏を期するなり。而るに今神術も協はず、仏威も験無し。具に当世の体を覿るに、愚かにして後生の疑ひを発す。然れば則ち円覆を仰ぎて恨みを呑み、方載に俯して慮りを深くす。倩(つらつら)微管を傾け聊か経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是れを以て魔来たり鬼来たり災起こり難起こる。言はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず。/ 客の曰く、天下の災・国中の難、余独り歎くのみに非ず、衆皆悲しめり。今蘭室に入りて初めて芳詞を承るに、神聖去り辞し、災難並び起こるとは何れの経に出でたるや。其の証拠を聞かん。/ 主人の曰く、其の文繁多にして其の証弘博なり。金光明経に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ嘗て流布せず。捨離の心を生じて聴聞せんことを楽はず。亦供養し尊重し讃歎せず。四部の衆、持経の人を見るも、亦復尊重し乃至供養すること能はず。遂に我等及び余の眷属、無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ず、甘露の味はひに背き正法の流を失ひて、威光及以(および)勢力有ること無からしむ。
悪趣を増長し、人天を損減して、生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん。世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯の如き事を見て、其の国土を捨てて擁護の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん。既に捨離し已はりなば其の国当に種々の災禍有りて国位を喪失すべし。一切の人衆皆善心無く、唯繋縛・殺害・瞋諍のみ有りて、互ひに相讒諂(ざんてん)して枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん。疫病流行し、彗星数(しばしば)出で、両日並び現じ、薄蝕恒無く、黒白の二虹不祥の相を表はし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉に遭ひて苗実成らず、多く他方の怨賊有りて国内を侵掠せば、人民諸の苦悩を受けて、土地として所楽の処有ること無けん」已上。/ 大集経に云く「仏法実に隠没せば、鬚髪爪皆長く、諸法も亦忘失せん。当時(そのとき)虚空の中に大いなる声ありて地に震ひ、一切皆遍く動ぜんこと猶水上輪の如くならん。城壁破れ落ち下り、屋宇悉く拆し、樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽きん。唯浄居天を除きて欲界一切処の七味・三精気損減して、余り有ること無けん。解脱の諸の善論当時(そのとき)一切尽きん。
生ずる所の華菓の味はひ希少にして亦美からず。諸有の井泉池一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、剔裂して丘澗と成らん。諸山皆燃して天竜も雨を降らさず。苗稼皆枯死し、生ずる者皆死れ尽くして余草更に生ぜず。土を雨らし皆昏闇にして日月も明を現ぜず。四方皆亢旱し、数(しばしば)諸悪瑞を現じ、十不善業道、貪・瞋・痴倍増して、衆生父母に於ける、之れを観ること鹿の如くならん。衆生及び寿命色力威楽減じ、人天の楽を遠離し、皆悉く悪道に堕せん。是の如き不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊し、天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍する者、此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向かはん」已上。/ 仁王経に云く「国土乱れん時は先づ鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る。賊来たりて国を劫(おびや)かし、百姓亡喪し、臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん。天地怪異し、二十八宿・星道・日月時を失ひ度を失ひ、多く賊の起こること有らん」。亦云く「我今五眼をもって明らかに三世を見るに、一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍へしに由りて帝王主と為ることを得たり。是れを為(もっ)て一切の聖人・羅漢、而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん。
若し王の福尽きん時は一切の聖人皆捨去為ん。若し一切の聖人去らん時は七難必ず起こらん」已上。/ 薬師経に云く「若し刹帝利・潅頂王等の災難起こらん時、所謂 人衆疾疫の難・他国侵逼の難・自界叛逆の難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」已上。/ 仁王経に云く「大王、吾が今化する所の百億の須弥、百億の日月、一々の須弥に四天下有り。其の南閻浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国有り。其の国土の中に七の畏るべき難有り。一切の国王是れを難と為すが故に。云何なるを難と為す。日月度を失ひ、時節返逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり。二十八宿度を失ひ、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星、是の如き諸星各々変現するを二の難と為すなり。大火国を焼き万姓焼尽せん、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。是の如く変怪するを三の難と為すなり。大水百姓を漂没し、時節返逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬時に雷電霹靂し、六月に氷霜雹を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らす。江河逆しまに流れ、山を浮かべ石を流す。是の如く変ずる時を四の難と為すなり。
大風万姓を吹き殺し、国土山河樹木一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん、是の如く変ずるを五の難と為すなり。天地国土亢陽し、炎火洞燃として百草亢旱し、五穀登らず、土地赫燃して万姓滅尽せん。是の如く変ずる時を六の難と為すなり。四方の賊来たりて国を侵し、内外の賊起こり、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて百姓荒乱し、刀兵劫起せん。是の如く怪する時を七の難と為すなり」。/ 大集経に云く「若し国王有りて、無量世に於て施戒恵を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば、是の如く種うる所の無量の善根悉く皆滅失し、其の国当に三の不祥の事有るべし。一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり。一切の善神悉く之れを捨離せば、其の王教令すとも人随従せず、常に隣国の為に侵せられん。暴火横に起こり、悪風雨多く、暴水増長して、人民を吹漂せば、内外の親戚其れ共に謀叛せん。其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄の中に生ずべし。乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復是の如くならん」已上。夫れ四経の文朗らかなり、万人誰か疑はん。而るに盲瞽の輩、迷惑の人、妄りに邪説を信じて正教を弁へず。
故に天下世上諸仏衆経に於て、捨離の心を生じて擁護の志無し。仍って善神聖人国を捨て所を去る。是れを以て悪鬼外道、災を成し難を致すなり。/ 客色を作して曰く、後漢の明帝は金人の夢を悟りて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構へを成す。爾しより来、上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専らにす。然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四海・一州・五畿・七道に、仏経は星のごとく羅なり、堂宇は雲のごとく布けり。子の族は則ち鷲頭の月を観じ、鶴勒の流は亦鶏足の風を伝ふ。誰か一代の教を褊し三宝の跡を廃すと謂はんや。若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。/ 主人喩して曰く、仏閣甍を連ね経蔵軒を並べ、僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり。崇重年旧り尊貴日に新たなり。但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ふること無し。仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず。是れを破仏破国の因縁と為す」已上。涅槃経に云く「菩薩、悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては三趣に至らず。悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。
法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん。或は阿練若に納衣にして空閑に在りて、自ら真の道を行ずと謂ひて人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣の与(ため)に法を説いて、世に恭敬せらることを為(う)ること六通の羅漢の如くならん。乃至常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かひて誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人外道の論議を説くと謂はん。○濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入りて我を罵詈し毀辱せん。濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙し数数擯出せられん」已上。涅槃経に云く「我涅槃の後、無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像して少かに経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養せん。袈裟を著すと雖も、猶猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺ふが如し。常に是の言を唱へん、我羅漢を得たりと。外には賢善を現じ内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」已上。
文に就きて世を見るに誠に以て然なり。悪侶を誡めずんば豈に善事を成さんや。/ 客猶憤りて曰く、明王は天地に因りて化を成し、聖人は理非を察らかにして世を治む。世上の僧侶は天下の帰する所なり。悪侶に於ては明王信ずべからず。聖人に非ずんば賢哲仰ぐべからず。今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽からざるを知んぬ。何ぞ妄言を吐きて強ちに誹謗を成し、誰人を以て悪比丘と謂ふや、委細に聞かんと欲す。/ 主人の曰く、後鳥羽院の御宇に法然といふもの有り、選択集を作る。則ち一代の聖教を破し遍く十方の衆生を迷はす。其の選択に云く「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文。初めに聖道門とは之れに就きて二有り、乃至之れに准じて之れを思ふに、応に密大及以(および)実大を存すべし。然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、此等の八家の意正しく此に在るなり。曇鸞法師の往生論の注に云く、謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く、菩薩阿毘跋致を求むるに二種の道有り、一には難行道、二には易行道なり。此の中に難行道とは即ち是れ聖道門なり。易行道とは即ち是れ浄土門なり。
浄土宗の学者先づ須く此の旨を知るべし。設ひ先より聖道門を学ぶ人なりと雖も、若し浄土門に於て其の志有らん者は須く聖道を棄てて浄土に帰すべし」。又云く「善導和尚は正雑二行を立て、雑行を捨てて正行に帰するの文。第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除きて已外、大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名づく。第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除きて已外、一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名づく、私に云く、此の文を見るに須く雑を捨てて専を修すべし。豈に百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能く之れを思量せよ」。/ 又云く「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで、顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし」「当に知るべし、随他の前には暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは唯是れ念仏の一門なり」。又云く「念仏の行者必ず三心を具足すべきの文。観無量寿経に云く、同経の疏に云く、問うて曰く、若し解行の不同邪雑の人等有りて外邪異見の難を防がん。或は行くこと一分二分にして群賊等喚び回すとは、即ち別解・別行・悪見の人等に喩ふ。
私に云く、又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言ふは是れ聖道門を指すなり」已上。又最後結句の文に云く「夫れ速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に且く聖道門を閣きて選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて選びて応に正行に帰すべし」已上。/ 之れに就きて之れを見るに、曇鸞・道綽・善導の謬釈を引きて聖道浄土・難行易行の旨を建て、法華・真言総じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣き、或は抛つ。此の四字を以て多く一切を迷はし、剰へ三国の聖僧・十方の仏弟を以て皆群賊と号し、併せて罵詈せしむ。近くは所依の浄土の三部経の「唯五逆と誹謗正法とを除く」の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」の誡文に迷ふ者なり。是に代末代に及び、人聖人に非ず。各冥衢に容りて並びに直道を忘る。悲しきかな瞳矇を(う)たず。痛ましきかな徒らに邪信を催す。故に上国王より下土民に至るまで、皆経は浄土三部の外に経無く、仏は弥陀三尊の外に仏無しと謂へり。
仍って伝教・義真・慈覚・智証等、或は万里の波濤を渉りて渡せし所の聖教、或は一朝の山川を回りて崇むる所の仏像、若しは高山の巓に華界を建てて以て安置し、若しは深谷の底に蓮宮を起てて以て崇重す。釈迦・薬師の光を並ぶるや、威を現当に施し、虚空・地蔵の化を成すや、益を生後に被らしむ。故に国主は郡郷を寄せて以て灯燭を明らかにし、地頭は田園を充てて以て供養に備ふ。而るを法然の選択に依りて、則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び、付属を抛ちて東方の如来を閣き、唯四巻三部の経典を専らにして空しく一代五時の妙典を抛つ。是れを以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め、念仏の者に非ざれば早く施僧の懐ひを忘る。故に仏堂は零落して瓦松の煙老い、僧坊は荒廃して庭草の露深し。然りと雖も各護惜の心を捨てて、並びに建立の思ひを廃す。是れを以て住持の聖僧行きて帰らず、守護の善神去りて来たること無し。是れ偏に法然の選択に依るなり。悲しきかな数十年の間、百千万の人魔縁に蕩(たぼら)かされて多く仏教に迷へり。謗を好みて正を忘る、善神怒りを成さざらんや。円を捨てて偏を好む、悪鬼便りを得ざらんや。如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文、浄土の三部経を説きたまひてより以来、曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣きて偏に西方の行を弘め、善導和尚は雑行を抛ちて専修を立て、恵心僧都は諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。弥陀を貴重すること誠に以て然なり。又往生の人其れ幾ばくぞや。就中 法然聖人は幼少にして天台山に昇り、十七にして六十巻に渉り、並びに八宗を究め具に大意を得たり。其の外一切の経論七遍反覆し、章疏伝記究め看ざることなく、智は日月に斉しく徳は先師に越えたり。然りと雖も猶出離の趣に迷ひ涅槃の旨を弁へず。故に遍く覿、悉く鑑み、深く思ひ、遠く慮り、遂に諸経を抛ちて専ら念仏を修す。其の上一夢の霊応を蒙り四裔の親疎に弘む。故に或は勢至の化身と号し、或は善導の再誕と仰ぐ。然れば則ち十方の貴賤頭を低れ、一朝の男女歩みを運ぶ。爾しより来た春秋推し移り、星霜相積もれり。而るに忝くも釈尊の教へを疎かにして、恣に弥陀の文を譏る。何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ、強ちに先師を毀り、更に聖人を罵るや。毛を吹きて疵を求め、皮を剪りて血を出だす。昔より今に至るまで此の如き悪言未だ見ず、惶るべく慎むべし。
罪業至りて重し、科条争でか遁れん。対座猶以て恐れ有り、杖を携へて則ち帰らんと欲す。/ 主人咲み止めて曰く、辛きを蓼葉に習ひ臭きを溷厠に忘る。善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑って悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。事の起こりを聞け、委しく其の趣を談ぜん。釈尊説法の内、一代五時の間先後を立てて権実を弁ず。而るに曇鸞・道綽・善導、既に権に就きて実を忘れ、先に依りて後を捨つ。未だ仏教の淵底を探らざる者なり。就中 法然其の流を酌むと雖も其の源を知らず。所以は何ん。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛の字を置きて一切衆生の心を薄(おか)す。是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず。妄語の至り、悪口の科、言ひても比無く、責めても余り有り。人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。故に浄土の三経を崇めて衆経を抛ち、極楽の一仏を仰ぎて諸仏を忘る。誠に是れ諸仏諸経の怨敵、聖僧衆人の讐敵なり。此の邪教広く八荒に弘まり周く十方に遍す。/ 抑 近年の災を以て往代を難ずるの由強ちに之れを恐る。聊か先例を引きて汝の迷ひを悟すべし。
止観第二に史記を引きて云く「周の末に被髪袒身にして礼度に依らざる者有り」。弘決の第二に此の文を釈するに、左伝を引きて曰く「初め平王の東遷するや、伊川に被髪の者の野に於て祭るを見る。識者の曰く、百年に及ばずして其の礼先づ亡びん」。爰に知んぬ、徴前に顕はれ災後に致ることを。「又阮籍逸才にして蓬頭散帯す。後に公卿の子孫皆之れに教ひて、奴苟相辱むる者を方に自然に達すといひ、節兢持する者を呼びて田舎と為す。司馬氏の滅ぶる相と為す」已上。又慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く「唐の武宗皇帝の会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝へしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す。同三年河北の節度使忽ち乱を起こす。其の後大蕃国更た命を拒み、回鶻国重ねて地を奪ふ。凡そ兵乱は秦項の代に同じく、災火邑里の際に起こる。何に況や、武宗大いに仏法を破し多く寺塔を滅す。乱を撥むること能はずして遂に以て事有り」〈已上取意〉。此れを以て之れを惟ふに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事既に眼前に在り。然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕はす。汝疑ふこと莫れ汝怪しむこと莫れ。唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截るべし。
客聊か和らぎて曰く、未だ淵底を究めざれども数(しばしば)其の趣を知る。但し華洛より柳営に至るまで釈門に枢在り、仏家に棟梁在り。然れども未だ勘状を進らせず、上奏に及ばず。汝賤しき身を以て輙く莠言を吐く。其の義余り有り、其の理謂れ無し。/ 主人の曰く、予少量たりと雖も忝くも大乗を学す。蒼蝿驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや。其の上涅槃経に云く「若し善比丘ありて法を壊る者を見て、置きて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駆遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」。余、善比丘の身為らずと雖も「仏法中怨」の責めを遁れんが為に、唯大綱を撮りて粗一端を示す。其の上去ぬる元仁年中に、延暦・興福の両寺より度々奏聞を経、勅宣御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に之れを焼失せしめ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人(いぬじにん)に仰せ付けて破却せしむ。其の門弟隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流せられ、其の後未だ御勘気を許されず。豈に未だ勘状を進らせずと云はんや。
客則ち和らぎて曰く、経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し。然れども大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛の四字に載す。其の詞勿論なり、其の文顕然なり。此の瑕瑾を守りて其の誹謗を成せども、迷ひて言ふか、覚りて語るか。賢愚弁たず、是非定め難し。但し災難の起こりは選択に因るの由、盛んに其の詞を増し、弥(いよいよ)其の旨を談ず。所詮 天下泰平国土安穏は君臣の楽ふ所、土民の思ふ所なり。夫れ国は法に依りて昌え、法は人に因りて貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。先づ国家を祈りて須く仏法を立つべし。若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。/ 主人の曰く、余は是れ頑愚にして敢へて賢を存せず。唯経文に就きて聊か所存を述べん。抑 治術の旨、内外の間、其の文幾多ぞや。具に挙ぐべきこと難し。但し仏道に入りて数(しばしば)愚案を回らすに、謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん。即ち涅槃経に云く「仏の言く、唯一人を除きて余の一切に施さば皆讃歎すべし。
純陀問うて言く、云何なるをか名づけて唯除一人と為す。仏の言く、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。純陀復言く、我今未だ解せず、唯願はくは之れを説きたまへ。仏純陀に語りて言く、破戒とは謂く一闡提なり。其の余の在所一切に布施するは皆讃歎すべし、大果報を獲ん。純陀復問ひたてまつる。一闡提とは其の義云何。仏の言く、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有りて麁悪の言を発し、正法を誹謗せん。是の重業を造りて永く改悔せず、心に懺悔無からん。是の如き等の人を名づけて一闡提の道に趣向すと為す。若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是の如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯へて発露せず。彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰軽賤して言に禍咎多からん。是の如き等の人を亦一闡提の道に趣向すと名づく。唯此の如き一闡提の輩を除きて其の余に施さば一切讃歎すべし」。/ 又云く「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉悋有ること無し。善男子、我爾の時に於て心に大乗を重んず。婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已りて即時に其の命根を断つ。善男子、是の因縁を以て是れより已来地獄に堕せず」。
又云く「如来昔国王と為りて菩薩の道を行ぜし時、爾所の婆羅門の命を断絶す」。又云く「殺に三つ有り、謂く下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕ちて具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺さば具に罪報を受く。中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是れを名づけて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕す。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是れ一闡提なり」已上。/ 仁王経に云く「仏波斯匿王に告げたまはく、是の故に諸の国王に付属して比丘・比丘尼に付属せず。何を以ての故に。王のごとき威力無ければなり」已上。涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付属す。正法を毀る者をば大臣四部の衆、当に苦治すべし」。又云く「仏の言く、迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」。
又云く「若し五戒を受持せん者有らば、名づけて大乗の人と為すことを得ざるなり。五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名づく。正法を護る者は、当に刀剣器仗を執持すべし。刀杖を持つと雖も、我是等を説いて、名づけて持戒と曰はん」。/ 又云く「善男子、過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまふこと有りき。歓喜増益如来と号したてまつる。仏涅槃の後、正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年仏法の末、爾の時に一の持戒の比丘有り、名を覚徳と曰ふ。爾の時に多く破戒の比丘有り。是の説を作すを聞き皆悪心を生じ、刀杖を執持して是の法師を逼む。是の時の国王の名を有徳と曰ふ。是の事を聞き已りて、護法の為の故に、即便(すなわち)説法者の所に往至して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。爾の時に説法者厄害を免るることを得たり。王爾の時に於て身に刀剣箭槊の瘡を被り、体に完き処は芥子の如き許りも無し。爾の時に覚徳、尋いで王を讃めて言く、善きかな善きかな、王今真に是れ正法を護る者なり。当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし。王是の時に於て法を聞くことを得已りて心大いに歓喜し、尋いで即ち命終して阿仏の国に生ず。而も彼の仏の為に第一の弟子と作る。
其の王の将従・人民・眷属の戦闘すること有りし者、歓喜すること有りし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉く阿仏の国に生ず。覚徳比丘却って後寿終りて亦阿仏の国に往生することを得、而も彼の仏の為に声聞衆の中の第二の弟子と作る。若し正法尽きんと欲すること有らん時、当に是の如く受持し擁護すべし。迦葉、爾の時の王とは則ち我が身是れなり。説法の比丘は迦葉仏是れなり。迦葉、正法を護る者は是の如き等の無量の果報を得ん。是の因縁を以て、我今日に於て種々の相を得て以て自ら荘厳し、法身不可壊の身を成ず。仏、迦葉菩薩に告げたまはく、是の故に護法の優婆塞等は、応に刀杖を執持して擁護すること是の如くなるべし。善男子、我涅槃の後、濁悪の世に国土荒乱し、互ひに相抄掠し、人民飢餓せん。爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是の如きの人を名づけて禿人と為す。是の禿人の輩、正法を護持するを見て、駆逐して出ださしめ、若しは殺し若しは害せん。是の故に我今持戒の人諸の白衣の刀杖を持つ者に依りて、以て伴侶と為すことを聴す。刀杖を持つと雖も我是等を説いて名づけて持戒と曰はん。刀杖を持つと雖も、命を断ずべからず」。/ 法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」已上。
夫れ経文顕然なり。私の詞何ぞ加へん。凡そ法華経の如くんば、大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり。故に阿鼻大城に堕して永く出づる期無けん。涅槃経の如くんば、設ひ五逆の供を許すとも謗法の施を許さず。蟻子を殺す者は必ず三悪道に落つ。謗法を禁むる者は定めて不退の位に登る。所謂 覚徳とは是れ迦葉仏なり。有徳とは則ち釈迦文なり。法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり。其の禁め実に重し、誰か帰仰せざらんや。/ 而るに謗法の族、正道を忘るるの人、剰へ法然の選択に依りて弥(いよいよ)愚痴の盲瞽を増す。是れを以て或は彼の遺体を忍びて木画の像に露はし、或は其の妄説を信じて莠言を模に彫り、之れを海内に弘め之れを外に翫ぶ。仰ぐ所は則ち其の家風、施す所は則ち其の門弟なり。然る間、或は釈迦の手指を切りて弥陀の印相に結び、或は東方如来の雁宇を改めて西土教主の鵞王を居へ、或は四百余回の如法経を止めて西方浄土の三部経と成し、或は天台大師の講を停めて善導の講と為す。此の如き群類其れ誠に尽くし難し。是れ破仏に非ずや、是れ破法に非ずや、是れ破僧に非ずや。此の邪義は則ち選択に依るなり。嗟呼(ああ)悲しきかな如来誠諦の禁言に背くこと。哀れなるかな愚侶迷惑の麁語に随ふこと。早く天下の静謐を思はば須く国中の謗法を断つべし。
客の曰く、若し謗法の輩を断じ、若し仏禁の違を絶たんには、彼の経文の如く斬罪に行ふべきか。若し然らば殺害相加へ罪業何んが為んや。則ち大集経に云く「頭を剃り袈裟を著せば持戒及び毀戒をも、天人彼れを供養すべし。則ち為(こ)れ我を供養するなり。是れ我が子なり。若し彼れを打(かだ)すること有れば則ち為れ我が子を打つなり。若し彼れを罵辱せば則ち為れ我を毀辱するなり」。料り知んぬ、善悪を論ぜず是非を択ぶこと無く、僧侶為らんに於ては供養を展ぶべし。何ぞ其の子を打辱して忝くも其の父を悲哀せしめん。彼の竹杖の目連尊者を害せしや永く無間の底に沈み、提婆達多の蓮華比丘尼を殺せしや久しく阿鼻の焔に咽ぶ。先証斯れ明らかなり、後昆最も恐れあり。謗法を誡むるに似て既に禁言を破る。此の事信じ難し 如何が意得んや。/ 主人の曰く、客明らかに経文を見て猶斯の言を成す。心の及ばざるか、理の通ぜざるか。全く仏子を禁むるに非ず、唯偏に謗法を悪むなり。夫れ釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さずして皆此の善に帰せば、何なる難か並び起こり何なる災か競ひ来らん。
客則ち席を避け襟を刷(つくろ)ひて曰く、仏教斯れ区にして旨趣窮め難く、不審多端にして理非明らかならず。但し法然聖人の選択現在なり。諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛と載す。其の文顕然なり。茲に因りて聖人国を去り善神所を捨て、天下飢渇し、世上疫病すと。今主人広く経文を引きて明らかに理非を示す。故に妄執既に翻り、耳目数(しばしば)朗らかなり。所詮 国土泰平天下安穏は、一人より万民に至るまで好む所なり楽ふ所なり。早く一闡提の施を止め、永く衆僧尼の供を致し、仏海の白浪を収め、法山の緑林を截らば、世は羲農の世と成り国は唐虞の国と為らん。然して後法水の浅深を斟酌し、仏家の棟梁を崇重せん。/ 主人悦びて曰く、鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る。悦ばしきかな、汝蘭室の友に交はりて麻畝の性と成る。誠に其の難を顧みて専ら此の言を信ぜば、風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならんのみ。但し人の心は時に随ひて移り、物の性は境に依りて改まる。譬へば猶水中の月の波に動き、陣前の軍の剣に靡くがごとし。汝当座に信ずと雖も後定めて永く忘れん。若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を回らし怱ぎて対治を加へよ。所以は何ん。
薬師経の七難の内、五難忽ちに起こり二難猶残れり。所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり。大集経の三災の内、二災早く顕はれ一災未だ起こらず。所以兵革の災なり。金光明経の内、種々の災過一々に起こると雖も、他方の怨賊国内を侵掠する、此の災未だ露はれず、此の難未だ来たらず。仁王経の七難の内、六難今盛んにして一難未だ現ぜず。所以「四方の賊来たりて国を侵す」の難なり。加之(しかのみならず)「国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る」と。今此の文に就きて具に事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑はん。若し残る所の難悪法の科に依りて並び起こり競ひ来たらば其の時何んが為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈に驚かざらんや豈に騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。/ 汝須く一身の安堵を思はば先づ四表の静謐を祈るべきものか。就中 人の世に在るや各後生を恐る。是れを以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も、而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇めんや。
若し執心翻らず、亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん。所以は何ん、大集経に云く「若し国王有りて、無量世に於て施戒恵を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば、是の如く種うる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至、其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄に生ずべし。王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官も亦復是の如くならん」。仁王経に云く「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず。疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。響きの如く影の如く、人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是の如し」。法華経第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」。又同第七巻不軽品に云く「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」。涅槃経に云く「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在りて、受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」。広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。悲しきかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。
愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の網に纏はる。此の矇霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。豈に愁へざらんや、豈に苦しまざらんや。/ 汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく崇むべし。/ 客の曰く、今生後生誰か慎まざらん誰か和(したが)はざらん。此の経文を披きて具に仏語を承るに、誹謗の科至りて重く毀法の罪誠に深し。我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは是れ私曲の思ひに非ず、則ち先達の詞に随ひしなり。十方の諸人も亦復是の如くなるべし。今世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこと文明らかに理詳らかなり疑ふべからず。弥(いよいよ)貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の痴心を開き、速やかに対治を回らして早く泰平を致し、先づ生前を安んじ更に没後を扶けん。唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。
◆ 椎地四郎殿御書 〔C6・四月二八日 (システム上は定本に依る)・椎地四郎〕/ 先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候ひし処、仰せ候ひしが如く少しもちがはず候ひき。/ これにつけても、いよいよはげまして法華経の功徳を得給ふべし。師曠が耳・離婁が眼のやうに聞き見させ給へ。末法には法華経の行者必ず出来すべし。但し大難来たりなば強盛の信心弥々悦びをなすべし。火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや。大海へ衆流入る、されども大海は河の水を返す事ありや。法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども、かへす事とがむる事なし。諸河の水入る事なくば大海あるべからず。大難なくば法華経の行者にはあらじ。天台の云く「衆流海に入り薪火を熾んにす」等云云。/ 法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし。経に云く「亦正法を聞かず是の如き人は度し難し」云云。此の文の意は、正法とは法華経なり。此の経をきかざる人は度しがたしと云ふ文なり。法師品には「若是善男子善女人 乃至 則如来使」と説かせ給ひて、僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使ひと見えたり。貴辺すでに俗なり、善男子の人なるべし。
此の経を一文一句なりとも聴聞して神(たましい)にそめん人は、生死の大海を渡るべき船なるべし。妙楽大師の云く「一句も神に染めぬれば咸く彼岸を資(たす)く、思惟修習永く舟航に用ゐる」云云。生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべからず。/ 抑 法華経の如渡得船の船と申す事は、教主大覚世尊、巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め、正直捨権とけづりなして、邪正一如ときり合はせ、醍醐一実のくぎを丁とうちて、生死の大海へをしうかべ、中道一実のほばしらに界如三千の帆をあげて、諸法実相のおひて(追風)をえて、以信得入の一切衆生を取りのせて、釈迦如来はかぢ(楫)を取り、多宝如来はつなで(綱手)を取り給へば、上行等の四菩薩は函蓋相応して、きりきりとこぎ給ふ所の船を如渡得船の船とは申すなり。是れにのるべき者は日蓮が弟子檀那等なり。能く能く信じさせ給へ。四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給ひ候へ。委しくは又々申すべく候。恐々謹言。/ 四月二十八日  日蓮花押/ 椎地四郎殿え。
◆ 船守弥三郎許御書 〔C6・弘長元年六月二七日・船守弥三郎夫妻〕/ わざと使ひを以て、ちまき(粽)・さけ(酒)・ほしひ(干飯)・さんせう(山椒)・かみ(紙)しなじな給はり候ひ畢んぬ。又つかひ(使者)申され候は、御かくさせ給へと申し上げ候へと、日蓮心得申すべく候。/ 日蓮去ぬる五月十二日流罪の時、その津につきて候ひしに、いまだ名をもききをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ候ひきところに、ねんごろにあたらせ給ひ候ひし事はいかなる宿習なるらん。過去に法華経の行者にてわたらせ給へるが、今末法にふなもり(船守)の弥三郎と生まれかはりて日蓮をあわれみ給ふか。たとひ男はさもあるべきに、女房の身として食をあたへ、洗足てうづ(手水)其の外さも事ねんごろなる事、日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし。ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ、日蓮を供養し給ふ事いかなる事のよしなるや。かかる地頭・万民、日蓮をにくみねたむ事鎌倉よりもすぎたり。見るものは目をひき、きく人はあだむ。ことに五月のころなれば米もとぼ(乏)しかるらんに、日蓮を内々にてはぐく(育)み給ひしことは、日蓮が父母の伊豆の伊東かわな(川奈)と云ふところに生まれかはり給ふか。
法華経の第四に云く「及び清信士女を遣はして法師を供養せしめ」云云。法華経を行ぜん者をば、諸天善神等、或はをとこ(男)となり、或は女となり、形をかへ、さまざまに供養してたすくべしと云ふ経文なり。弥三郎殿夫婦の士女と生まれて、日蓮法師を供養する事疑ひなし。さきにまいらせし文につぶさにかきて候ひし間、今はくはしからず。/ ことに当地頭の病悩について、祈せい(請)申すべきよし仰せ候ひし間、案にあつかひて候。然れども一分信仰の心を日蓮に出だし給へば、法華経へそせう(訴訟)とこそおもひ候へ。此の時は十羅刹女もいかでか力をあはせ給はざるべきと思ひ候ひて、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並びに天照・八幡・大小の神祇等に申して候。定めて評議ありてぞしるし(験)をばあらはし給はん。よも日蓮をば捨てさせ給はじ。いた(痛)きとかゆ(痒)きとの如く、あてがはせ給はんとをもひ候ひしに、ついに病悩なをり、海中いろくづ(鱗)の中より出現の仏体を日蓮にたまはる事、此の病悩のゆへなり。さだめて十羅刹女のせめなり。此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし。/ 我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが、法華経の行者となりて無始色心本是理性・妙境妙智金剛不滅の仏身とならん事、あにかの仏にかはるべきや。
過去久遠五百塵点のそのかみ(当初)唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり。法華経の一念三千の法門、常住此説法のふるまいなり。かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり。迷悟の不同は沙羅の四見の如し。一念三千の仏と申すは法界の成仏と云ふ事にて候ぞ。雪山童子のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり。尸毘王の所へにげ入りし鳩は毘首羯摩天ぞかし。班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします。肉眼はしらず、仏眼は此れをみる。虚空と大海とには魚鳥の飛行するあとあり。此等は経文にみえたり。木像即金色なり、金色即木像なり。あぬるだ(阿楼駄)が金はうさぎとなり死人となる。釈摩男がたなごころ(掌)にはいさご(沙)も金となる。此等は思議すべからず。凡夫即仏なり、仏即凡夫なり、一念三千我実成仏これなり。/ しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生まれかわり給ひて日蓮をたすけ給ふか。伊東とかわな(川奈)のみちのほどはちかく候へども心はとをし。後のためにふみをまいらせ候ぞ。人にかたらずして心得させ給へ。すこしも人しるならば御ためあし(悪)かりぬべし。むねのうちにを(置)きて、かたり給ふ事なかれ。あなかしこあなかしこ。南無妙法蓮華経。
弘長元年六月二十七日  日蓮花押/ 船守弥三郎殿許へ之れを遣はす。
◆ 同一鹹味御書 〔C6・弘長元年〕/ 夫れ味に六種あり。一には淡(あわき)、二には鹹(しおからき)、三には辛(からき)、四には酸(すき)、五には甘(あまき)、六には苦(にがき)なり。百味の膳(きょうぜん)を調ふといへども、一つの鹹(しお)の味なければ大王の膳とならず。山海の珍物も鹹なければ気味なし。大海に八の不思議あり。一には漸々に転(うたた)深し、二には深くして底を得難し、三には同じ一鹹(いっかん)の味なり、四には潮(うしお)限りを過ぎず、五には種々の宝蔵有り、六には大身の衆生中に在りて居住す、七には死屍を宿(とど)めず、八には万流大雨之れを収めて不増不減なり。/ 漸々に転(うたた)深しとは、法華経は凡夫無解より聖人有解に至るまで、皆仏道を成ずるに譬ふるなり。深くして底を得難しとは、法華経は唯仏与仏の境界にして、等覚已下は極むることなきが故なり。同じ一鹹の味とは、諸河に鹹なきは諸教に得道なきに譬ふ。諸河の水大海に入りて鹹となるは、諸教の機類法華経に入りて仏道を成ずるに譬ふ。潮限りを過ぎずとは、妙法を持つ人寧ろ身命を失するとも不退転を得るに譬ふ。種々の宝蔵有りとは、諸仏菩薩の万行・万善・諸波羅蜜の功徳妙法に納まるに譬ふ。
大身の衆生所居の住処とは、仏菩薩大智恵あるが故に大身衆生と名づく。大身・大心・大荘厳・大調伏・大説法・大勢・大神通・大慈・大悲おのづから法華経より生ずるが故なり。死屍を宿(とど)めずとは、永く謗法一闡提を離るるが故なり。不増不減とは、法華の意は一切衆生の仏性同一性なるが故なり。/ 蔓草漬たる桶(とうびょう)の中の鹹は、大海の鹹に随ひて満干(みちひ)ぬ。禁獄を被る法華の持者は桶の中の鹹の如く、火宅を出で給へる釈迦如来は大海の鹹の如し。法華の持者を禁(いまし)むるは釈迦如来を禁むるなり。梵釈四天も如何驚き給はざらん。十羅刹女の頭破七分の誓ひ、此の時に非ずんば何(いつ)の時か果し給ふべき。頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を禁獄せし阿闍世、早く現身に大悪瘡(だいあくそう)を感得しき。法華の持者を禁獄する人、何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや。/ 日蓮花押
◆ 四恩抄 〔C6・弘長二年一月一五日・工藤左衛門〕/ 抑 此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり。一には大なる悦びあり。其の故は、此の世界をば娑婆と名づく、娑婆と申すは忍と申す事なり。故に仏をば能忍と名づけたてまつる。此の娑婆世界の内に百億の須弥山、百億の日月、百億の四州あり。其の中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出でまします。此の日本国は其の仏の世に出でまします国よりは丑寅の角(すみ)にあたりたる小島なり。此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば、人の心もやはらかに、賢聖をのり悪(にく)む事も候はず。此の国土は、十方の浄土にすてはてられて候十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝父母・不敬沙門等の科の衆生が、三悪道に堕ちて無量劫を経て、還りて此の世界に生まれて候が、先生の悪業の習気(じっけ)失(う)せずして、ややもすれば十悪・五逆を作り、賢聖をのり、父母に孝せず、沙門をも敬はず候なり。/ 故に釈迦如来世に出でましませしかば、或は毒薬を食に雑(まじ)へて奉り、或は刀杖・悪象・師子・悪牛・悪狗等の方便を以て害し奉らんとし、或は女人を犯すと云ひ、或は卑賤の者、或は殺生の者と云ひ、
或は行き合ひ奉る時は面(おもて)を覆(おお)ふて眼に見奉らじとし、或は戸を閉じ窓を塞(ふさ)ぎ、或は国王大臣の諸人に向かひては、邪見の者なり、高き人を罵者(のるもの)なんど申せしなり。大集経・涅槃経等に見えたり。させる失(とが)も仏にはおはしまさざりしかども、只此の国のくせ・かたわとして、悪業の衆生が生まれ集まりて候上、第六天の魔王が此の国の衆生を他の浄土へ出ださじと、たばかりを成して、かく事にふれてひがめる事をなすなり。此のたばかりも詮ずる所は仏に法華経を説かせまいらせじ料と見えて候。其の故は魔王の習ひとして、三悪道の業を作る者をば悦び、三善道の業を作る者をばなげ(歎)く。又三善道の業を作る者をばいたうなげかず、三乗とならんとする者をばいたうなげく。又、三乗となる者をばいたうなげかず、仏となる業をなす者をば強ちになげき、事にふれて障りをなす。法華経は一文一句なれども耳にふるる者は既に仏になるべきと思ひて、いたう第六天の魔王もなげき思ふ故に方便(てだて)をまはして留難をなし、経を信ずる心をすてしめんとたばかる。/ 而るに仏の在世の時は濁世なりといへども、五濁の始めたりし上、仏の御力をも恐れ、人の貪・瞋・痴・邪見も強盛ならざりし時だにも、
竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は悪象を放ちて三界の独尊ををどし奉り、提婆達多は証果の阿羅漢蓮華比丘尼を害し、瞿迦利尊者は智恵第一の舎利弗に悪名を立てき。何に況や世漸く五濁の盛んになりて候をや。況や世末代に入りて法華経をかりそめにも信ぜん者の人にそね(嫉)みねた(妬)まれん事はおびただしかるべきか。故に法華経に云く「如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」云云。始めに此の文を見候ひし時は、さしもやと思ひ候ひしに、今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと、殊に身に当たりて思ひ知られて候へ。/ 日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども、此の御経を若しや我も信を取り、人にも縁を結ばしむるかと思ひて随分世間の事おだやかならんと思ひき。世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧もさてこそ候か。日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず、只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧(ぼんそう)の名四海に満ち、螻蟻(ろうぎ)をも殺さざれども悪名一天に弥(はびこ)れり。恐らくは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり。
是れ偏に法華経を信ずる事の、余人よりも少し経文の如く信をもむけたる故に、悪鬼其の身に入りてそね(嫉)みをなすかとをぼ(覚)へ候へば、是れ程の卑賤無智無戒の者の、二千余年已前に説かれて候法華経の文にのせられて、留難に値ふべしと仏記しを(置)かれまいらせて候事のうれしさ、申し尽くし難く候。/ 此の身に学文つかまつりし事、やうやく二十四五年にまかりなるなり。法華経を殊に信じまいらせ候ひし事は、わづかに此の六七年よりこのかたなり。又信じて候ひしかども懈怠の身たる上、或は学文と云ひ、或は世間の事にさえ(障)られて、一日わづかに一巻・一品・題目計りなり。去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき。凡夫の習ひ我とはげみて、菩提心を発して後生を願ふといへども、自ら思ひ出だし十二時の間に一時二時こそははげみ候へ。是れは思ひ出ださぬにも御経をよみ、読まざるにも法華経を行ずるにて候か。無量劫の間六道四生を輪回(りんね)し候ひけるには、或は謀叛(むほん)をおこし、強盗夜打ち等の罪にてこそ国主より禁(いましめ)をも蒙り流罪死罪にも行はれ候らめ。
是れは法華経を弘むるかと思ふ心の強盛なりしに依りて、悪業の衆生に讒言(ざんげん)せられて、かかる身になりて候へば、定めて後生の勤めにはなりなんと覚え候。是れ程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は、末代には有りがたくこそ候らめ。/ 又止事(やんごと)なくめでたき事侍り。無量劫の間六道に回り候ひけるには、多くの国主に生まれ値ひ奉りて、或は寵愛の大臣・関白等ともなり候ひけん。若し爾らば国を給はり、財宝官禄の恩を蒙りけるか。法華経流布の国主に値ひ奉り、其の国にて法華経の御名を聞いて修行し、是れを行じて讒言を蒙り、流罪に行はれまいらせて候国主には未だ値ひまいらせ候はぬか。法華経に云く「是の法華経は無量の国中に於て、乃至名字をも聞くことを得べからず。何に況や見ることを得て受持し読誦せんをや」云云。されば此の讒言の人、国主こそ我が身には恩深き人にはをわしまし候らめ。/ 仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か。四恩とは、心地観経に云く、一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し。又悪人無くして菩薩に留難をなさずば、いかでか功徳をば増長せしめ候べき。
二には父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり。其の中に或は殺盗・悪律儀・謗法の家に生まれぬれば、我と其の科(とが)を犯さざれども其の業を成就す。然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり。梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生まれて、三界四天をゆづられて人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某が父母なるか。三には国王の恩、天の三光に身をあたため、地の五穀に神(たましい)を養ふこと皆是れ国王の恩なり。其の上、今度(このたび)法華経を信じ、今度生死を離るべき国主に値ひ奉れり。争でか少分の怨に依りておろかに思ひ奉るべきや。/ 四には三宝の恩、釈迦如来無量劫の間菩薩の行を立て給ひし時、一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり。其の一分をば我が身に用ゐ給ふ。今六十三分をば此の世界に留め置きて、五濁雑乱の時、非法の盛んならん時、謗法の者国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光勢力減ぜん時、日月光を失ひ、天竜雨をくださず、地神地味を減ぜん時、草木根茎枝葉華果薬等の七味も失はん時、十善の国王も貪・瞋・痴をまし、父母六親に孝せずしたしからざらん時、我が弟子、無智無戒にして髪ばかりを剃りて守護神にも捨てられて、活命(かつみょう)のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり。
又果地の三分の功徳、二分をば我が身に用ゐ給ひ、仏の寿命百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし、一切の草木を焼きて墨となして一切のけだものの毛を筆とし、十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争でか仏の恩を報じ奉るべき。/ 法の恩を申さば法は諸仏の師なり。諸仏の貴き事は法に依る。されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし。次に僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云く「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云ひて是れを悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古への聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひ(打飼)となし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。
然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。某は愚痴の凡夫血肉の身なり。三惑一分も断ぜず。只法華経の故に罵詈毀謗せられて刀杖を加へられ、流罪せられたるを以て、大聖の臂を焼き、髄をくだき、頭をはねられたるになぞら(擬)へんと思ふ。是れ一の悦びなり。/ 第二に大なる歎きと申すは、法華経第四に云く「若し悪人有りて不善の心を以て、一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。若し人一つの悪言を以て在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せん、其の罪甚だ重し」等云云。此等の経文を見るに、信心を起こし、身より汗を流し、両眼より涙を流す事雨の如し。我一人此の国に生まれて多くの人をして一生の業を造らしむる事を歎く。彼の不軽菩薩を打擲(ちょうちゃく)せし人現身に改悔(かいげ)の心を起こせしだにも、猶罪消え難くして千劫阿鼻地獄に堕ちぬ。今我に怨(あだ)を結べる輩は未だ一分も悔ゆる心もおこさず。是れ体の人の受くる業報を大集経に説いて云く「若し人ありて万億の仏の所にして仏身より血を出ださん。意に於て 如何。此の人の罪をうる事寧ろ多しとせんや否や。大梵王言さく、若し人只一仏の身より血を出ださん、無間の罪尚多し。無量にして算をおきても数をしらず、阿鼻大地獄の中に堕ちん。何に況や万億の仏身より血を出ださん者を見んをや。
終によく広く彼の人の罪業果報を説く事ある事なからん。但し如来をば除き奉る。仏の言く、大梵王、若し我が為に髪をそり、袈裟をかけ、片時も禁戒をうけず、欠犯(けつぼん)をうけん者を、なやまし、のり(罵)、杖をもて打ちなんどする事有らば、罪をうる事彼れよりは多し」。/ 弘長二年〈壬戌〉正月十五日  日蓮花押/ 工藤左近尉殿
◆ 教機時国抄 〔C6・要検討 (システム上は定本に依る)〕/ 本朝沙門日蓮之れを注す/ 一に教とは、釈迦如来所説の一切の経律論五千四十八巻四百八十帙。天竺に流布すること一千年、仏の滅後一千一十五年に当たりて震旦国に仏経渡る。後漢の孝明皇帝永平十年〈丁卯〉より唐の玄宗皇帝開元十八年〈庚午〉に至る六百六十四歳の間に、一切経渡り畢んぬ。此の一切の経律論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕教・密教あり。此等を弁ふべし。此の名目は論師人師よりも出でず、仏説より起こる。十方世界の一切衆生一人も無く之れを用ゐるべし。之れを用ゐざる者は外道と知るべきなり。阿含経を小乗と説く事は、方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経より出でたり。法華経には、一向に小乗を説いて法華経を説かざれば、仏慳貪に堕すべしと説きたまふ。涅槃経には、一向に小乗経を用ゐて仏を無常なりと云はん人は舌口中に爛るべしと云云。/ 二に機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし。舎利弗尊者は金師に不浄観を教へ、浣衣の者には数息観を教ふる間、九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして、還りて邪見を起こし一闡提と成り畢んぬ。
仏は金師に数息観を教へ浣衣の者に不浄観を教へたまふ。故に須臾の間に覚ることを得たり。智恵第一の舎利弗すら尚機を知らず。何に況や末代の凡師機を知り難し。但し機を知らざる凡師は所化の弟子に一向に法華経を教ふべし。問うて云く、無智の人の中にして此の経を説くこと莫れとの文は 如何。答へて云く、機を知るは智人の説法する事なり。又謗法の者に向かひては一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し。亦智者と成るべき機と知らば必ず先づ小乗を教へ、次に権大乗を教へ、後に実大乗を教ふべし。愚者と知らば、必ず先づ実大乗を教ふべし。信謗共に下種と為ればなり。/ 三に時とは、仏教を弘めん人は必ず時を知るべし。譬へば農人の秋冬田を作るに種と地と人の功労とは違はざれども一分も益無く還りて損す。一段を作る者は少損なり。一町二町等の者は大損なり。春夏耕作すれば上中下に随ひて皆分々に益有るが如し。仏法も亦復是の如し。時を知らずして法を弘めば益無き上、還りて悪道に堕するなり。仏出世したまひて必ず法華経を説かんと欲するに、縦ひ機有れども時無きが故に四十余年此の経を説きたまはず。故に経に云く「説時未だ至らざるが故に」等云云。
仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少なし。正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少なし。像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少なく無戒の者は多し。正法には破戒無戒を捨てて持戒の者を供養すべし。像法には無戒を捨てて破戒の者を供養すべし。末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし。但し法華経を謗ぜん者をば、正像末の三時に亘りて持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず。供養せば必ず国に三災七難起こり必ず無間大城に堕すべきなり。法華経の行者の権経を謗ずるは、主君親師の所従子息弟子等を罰するが如し。権経の行者の法華経を謗ずるは、所従子息弟子等の主君親師を罰するが如し。又当世は末法に入りて二百一十余年なり。権経念仏等の時か。法華経の時か。能く能く時刻を勘ふべきなり。/ 四に国とは、仏教は必ず国に依りて之れを弘むべし。国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国、一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之れ有り。又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之れ有り。而るに日本国は一向に小乗の国か。一向に大乗の国か。大小兼学の国か。能く能く之れを勘ふべし。
五に教法流布の先後とは、未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり。既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり。必ず先に弘まる法を知りて後の法を弘むべし。先に小乗権大乗弘まらば後に必ず実大乗を弘むべし。先に実大乗弘まらば後に小乗権大乗を弘むべからず。瓦礫を捨てて金珠を取るべし。金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ。已上。/ 此の五義を知りて仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか。所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり。但し光宅の法雲・道場の恵観等は涅槃経は法華経に勝れたりと。清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと。嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云ふ。天台山の智者大師只一人のみ、一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず、法華経に勝れたる経之れ有りと云はん者を諫暁せよ。止まずんば現世に舌口中に爛れ、後生は阿鼻地獄に堕すべし等云云。此等の相違を能く能く之れを弁へたる者は教を知れる者なり。当世の千万の学者等一々之れに迷へるか。若し爾らば、教を知れる者之れ少なきか。
教を知れる者之れ無ければ、法華経を読む者之れ無し。法華経を読む者之れ無ければ、国師となる者無きなり。国師となる者無ければ、国中の諸人一切経の大小権実顕密の差別に迷ひて、一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り、法に依りて阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く、法に依りて生死を離るる者は爪上の土よりも少なし。恐るべし恐るべし。/ 日本国の一切衆生は桓武皇帝より已来四百余年、一向に法華経の機なり。例せば霊山八箇年の純円の機為るが如し。〈天台大師・聖徳太子・鑑真和尚・根本大師・安然和尚・恵心等の記に之れ有り〉是れ機を知れる者なり。而るに当世の学者の云く、日本国は一向に称名念仏の機なり等云云。例せば舎利弗の機に迷ひて所化の衆を一闡提と成せしが如し。/ 日本国の当世は如来の滅後二千二百一十余年。後五百歳に当たりて妙法蓮華経広宣流布の時刻なり。是れ時を知るなり。而るに日本国の当世の学者或は法華経を抛ちて一向に称名念仏を行じ、或は小乗の戒律を教へて叡山の大僧を蔑み、或は教外を立てて、法華の正法を軽しむ。此等は時に迷へる者か。例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗じ、徳光論師が弥勒菩薩を蔑りて、阿鼻の大苦を招きしが如し。
日本国は一向に法華経の国なり。例せば舎衛国の一向に大乗なりしが如きなり。又天竺には一向に小乗の国・一向に大乗の国・大小兼学の国も之れ有り。日本国は一向大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国為るべきなり。〈瑜伽論・肇公の記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記之れ有り〉是れ国を知れる者なり。而るに当世の学者日本国の衆生に一向に小乗の戒律を授け、一向に念仏者等と成すは「譬へば宝器に穢食を入れたるが如し」等云云。〈宝器の譬へは伝教大師の守護章に在り〉/ 日本国には欽明天皇の御宇に、仏法百済国より渡り始めしより、桓武天皇に至るまで二百四十余年の間、此の国に小乗権大乗のみ弘め、法華経有りと雖も其の義未だ顕はれず。例せば震旦国に法華経渡りて三百余年の間、法華経有りと雖も其の義未だ顕はれざりしが如し。桓武天皇の御宇に伝教大師有して、小乗権大乗の義を破して法華経の実義を顕はせしより已来、又異義無く純一に法華経を信ず。設ひ華厳・般若・深密・阿含大小の六宗を学する者も法華経を以て所詮と為す。況や天台真言の学者をや。何に況や在家の無智の者をや。例せば崑崙山に石無く蓬莱山に毒無きが如し。
建仁より已来今に五十余年の間、大日・仏陀禅宗を弘め、法然・隆寛浄土宗を興し、実大乗を破して権宗に付き、一切経を捨てて教外を立つ。譬へば珠を捨てて石を取り、地を離れて空に登るが如し。此れは教法流布の先後を知らざる者なり。仏誡めて云く「悪象に値ふとも悪知識に値はざれ」等云云。/ 法華経の勧持品に、後五百歳二千余年に当たりて法華経の敵人三類有るべしと記し置きたまへり。当世は後五百歳に当たれり。日蓮仏語の実否を勘ふるに、三類の敵人之れ有り。之れを隠さば法華経の行者に非ず。之れを顕はさば身命定めて喪はんか。法華経第四に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」等云云。同第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」。又云く「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」。同第六に云く「自ら身命を惜しまず」云云。涅槃経第九に云く「譬へば王使の善能(よく)談論して方便に巧みなる、命を他国に奉るに、寧ろ身命を喪ふとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し。智者も亦爾なり。凡夫中に於て身命を惜しまず、要必(かならず)大乗方等を宣説すべし」云云。章安大師釈して云く「寧喪身命不匿教とは、身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」云云。
此等の本文を見れば、三類の敵人を顕はさずんば法華経の行者に非ず。之れを顕はすは法華経の行者なり。而れども必ず身命を喪はんか。例せば師子尊者・提婆菩薩等の如くならん云云。/ 二月十日  日蓮花押
◆ 行者仏天守護抄 〔C6・弘安二・三年頃か〕/ 釈迦仏ある経の中に、此の三千大千世界の梵天・帝釈・日月・星宿・四大天王・阿修羅・竜神等を一人ももらさず集めさせ給ひて、又十方無量世界の仏・菩薩・乃至堅牢地神等を集めさせ給ひて、我滅後正像末の持戒破戒無戒の弟子等を、第六天の魔王・悪鬼神、人王・人民・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の身に入りかはりて悩乱せんを、みながらききながら対治を加へずいましめずんば、他方の梵釈四天等治罰すべし。若し然らずんば三世の仏の出世にももれ、永く梵釈等の位を失ひて無間大城にしづむべしと、釈迦・多宝・十方の仏の御前にて起請をかき給へり。されば法華経をたもつ人をば、釈迦・多宝・十方の諸仏、梵天・帝釈・日月・四天・竜神、日本守護の天照太神八幡大菩薩、人の眼をおしむがごとく、諸天の帝釈を敬ふがごとく、母の子を愛するが如く守りおぼしめし給ふべき事、影の身にしたがふが如くなるべし。経文に云く「諸天昼夜に、常に法の為の故に、之れを衛護したまふ」云云。/ 四月十七日  日蓮花押
◆ 顕謗法抄 〔C3・文永九年頃〕/ 本朝沙門日蓮撰/ 第一に八大地獄の因果を明かし、第二に無間地獄の因果の軽重を明かし、第三に問答料簡を明かし、第四に行者弘経の用心を明かす。/ 第一に八大地獄の因果を明かさば、第一に等活地獄とは、此の閻浮提の地の下一千由旬にあり。此の地獄は縦広斉等にして一万由旬なり。此の中の罪人はたがいに害心をいだく。若したまたま相見れば犬と猿とのあえるがごとし。各鉄の爪をもて互ひにつかみさく。血肉既に尽きぬれば唯骨のみあり。或は獄卒手に鉄杖を取りて頭より足にいたるまで皆打ちくだく。身体くだけて沙のごとし。或は利刀をもて分々に肉をさく。然れども又よみがへりよみがへりするなり。此の地獄の寿命は、人間の昼夜五十年をもて第一四王天の一日一夜として、四王天の天人の寿命五百歳なり。四王天の五百歳を此の等活地獄の一日一夜として、其の寿命五百歳なり。此の地獄の業因をいはば、ものの命をたつもの此の地獄に堕つ。螻蟻蚊虻等の小虫を殺せる者も懺悔なければ必ず此の地獄に堕つべし。譬へばはりなれども水の上にをけば沈まざることなきが如し。
又懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし。譬へばぬすみをして獄に入りぬるものの、しばらく経て後に御免を蒙りて獄を出づれども、又重ねて盗みをして獄に入りぬれば出でゆるされがたきが如し。されば当世の日本国の人は上一人より下万民に至るまで、此の地獄をまぬかるる人は一人もありがたかるべし。何に持戒のおぼへをとれる持律の僧たりとも、蟻虱なんどを殺さず、蚊虻をあやまたざるべきか。況や其の外、山野の鳥鹿、江海の魚鱗を日々に殺すものをや。何に況や牛馬人等を殺す者をや。/ 第二に、黒縄地獄とは、等活地獄の下にあり、縦広は等活地獄の如し。獄卒・罪人をとらへて熱鉄の地にふせて、熱鉄の縄をもて身にすみうて、熱鉄の斧をもて縄に随ひてきりさきけづる。又鋸を以てひく。又左右に大なる鉄の山あり。山の上に鉄の幢を立て、鉄の縄をはり、罪人に鉄の山をををせて、縄の上よりわたす。縄より落ちてくだけ、或は鉄のかなえに堕とし入れてにらる。此の苦は上の等活地獄の苦よりも十倍なり。人間の一百歳は第二の利天の一日一夜なり。其の寿一千歳なり。此の天の寿一千歳を一日一夜として、此の第二の地獄の寿命一千歳なり。
殺生の上に偸盗とて、ぬすみをかさねたるもの此の地獄にをつ。当世の偸盗のもの、ものをぬすむ上、物の主を殺すもの此の地獄に堕つべし。/ 第三に衆合地獄とは、黒縄地獄の下にあり。縦広は上の如し。多くの鉄の山二つづつ相向かへり。牛頭・馬頭等の獄卒、手に棒を取りて罪人を駆りて山の間に入らしむ。此の時両の山迫り来たりて合はせ押す。身体くだけて血流れて地にみつ。又種々の苦あり。人間の二百歳を第三の夜摩天の一日一夜として此の天の寿二千歳。此の天の寿を一日一夜として此の地獄の寿命二千歳なり。殺生・偸盗の罪の上、邪淫とて他人のつまを犯す者此の地獄の中に堕つべし。而るに当世の僧尼士女、多分は此の罪を犯す。殊に僧にこの罪多し。士女は各々互ひにまぼり、又人目をつつまざる故に此の罪ををかさず。僧は一人ある故に、淫欲とぼしきところに、若し孕むこと有らば、父ただされてあらはれぬべきゆへに、独りある女人をばをかさず。もしやかくるると、他人の妻をうかがひ、ふかくかくれんとをもうなり。当世のほかたうとげなる僧の中に、ことに此の罪又多かるらんとおぼゆ。されば多分は当世たうとげなる僧此の地獄に堕つべし。/ 第四に叫喚地獄とは、衆合の下にあり。縦広前に同じ。獄卒悪声を出だして弓箭をもて罪人をいる。又鉄の棒を以て頭を打ちて、熱鉄の地をはしらしむ。
或は熱鉄のいりだなにうちかへしうちかへし此の罪人をあぶる。或は口を開けてわける銅のゆを入るれば、五臓やけて下より直に出づ。寿命をいはば人間の四百歳を第四の都率天の一日一夜とす。又都率天の四千歳なり。都率天の四千歳の寿を一日一夜として、此の地獄の寿命四千歳なり。此の地獄の業因をいはば、殺生・偸盗・邪淫の上、飲酒とて酒のむもの此の地獄に堕つべし。当世の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆の大酒なる者、此の地獄の苦免れがたきか。大論には酒に三十六の失をいだし、梵網経には酒杯をすすめる者、五百生に手なき身と生まるととかせ給ふ。人師の釈にはみみずていの者となるとみえたり。況や酒をうりて人にあたえたる者をや。何に況や酒に水を入れてうるものをや。当世の在家の人々この地獄の苦まぬかれがたし。/ 第五に大叫喚地獄とは、叫喚の下にあり。縦広前に同じ。其の苦の相は上の四の地獄の諸の苦に十倍して重くこれをうく。寿命の長短を云はば、人間の八百歳は第五の化楽天の一日一夜なり。此の天の寿八千歳なり。此の天の八千歳を一日一夜として、此の地獄の寿命八千歳なり。殺生・偸盗・邪淫・飲酒の重罪の上に妄語とてそらごとせる者此の地獄に堕つべし。
当世の諸人設ひ賢人上人なんどいはるる人々も、妄語せざる時はありとも、妄語をせざる日はあるべからず。設ひ日はありとも、月はあるべからず。設ひ月はありとも、年はあるべからず。設ひ年はありとも、一期生妄語せざる者はあるべからず。若ししからば当世の諸人一人もこの地獄をまぬかれがたきか。/ 第六に焦熱地獄とは、大叫喚地獄の下にあり。縦広前にをなじ。此の地獄に種々の苦あり。若し此の地獄の豆計りの火を閻浮提にをけらんに、一時にやけ尽きなん。況や罪人の身の軟らかなることわたのごとくなるをや。此の地獄の人は前の五つの地獄の火を見る事雪の如し。譬へば人間の火の薪の火よりも鉄銅の火熱きが如し。寿命の長短は人間の千六百歳は第六の他化天の一日一夜として、此の天の寿千六百歳なり。此の天の千六百歳を一日一夜として、此の地獄の寿命一千六百歳なり。業因を云はば、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語の上、邪見とて因果なしという者此の中に堕つべし。邪見とは、有る人の云く、人飢ゑて死ぬれば天に生まるべし等云云。総じて因果をしらぬ者を邪見と申すなり。世間の法には慈悲なき者を邪見の者という。当世の人々此の地獄を免れがたきか。
第七に大焦熱地獄とは、焦熱の下にあり。縦広前の如し。前の六つの地獄の一切の諸苦に十倍して重く受くるなり。其の寿命は半中劫なり。業因を云はば、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見の上に浄戒の比丘尼ををかせる者、此の中に堕つべし。又比丘、酒を以て不邪淫戒を持てる婦女をたぼらかし、或は財物をあたへて犯せるもの此の中に堕つべし。当世の僧の中に多く此の重罪あるなり。大悲経の文に「末代には士女は多くは天に生じ、僧尼は多くは地獄に堕つべし」ととかれたるはこれていの事か。心あらん人々ははづべしはづべし。総じて上の七大地獄の業因は諸経論をもて勘え見るに当世日本国の四衆にあて見るに、此の七大地獄をはなるべき人を見ず、又きかず。涅槃経に云く「末代に入りて人間に生ぜん者は爪上の土の如し。三悪道に堕つるものは十方世界の微塵の如し」と説かれたり。若し爾らば、我等が父母兄弟等の死ぬる人は皆上の七大地獄にこそ堕ち給ひては候らめ。あさましともいうばかりなし。竜と蛇と鬼神と仏・菩薩・聖人をば未だ見ず。ただをとにのみこれをきく。当世に上の七大地獄の業を造らざるものをば未だ見ず。又をとにもきかず。
而るに我が身よりはじめて、一切衆生七大地獄に堕つべしとをもえる者一人もなし。設ひ言には堕つべきよしをさえづれども、心には堕つべしともをもわず。又僧尼士女、地獄の業をば犯すとはをもえども、或は地蔵菩薩等の菩薩を信じ、或は阿弥陀仏等の仏を恃み、或は種々の善根を修したる者もあり。皆をもはく、我はかかる善根をもてればなんど、うちをもひて地獄をもをぢず。或は宗々を習へる人々は、各々の智分をたのみて、又地獄の因ををぢず。而るに仏菩薩を信じたるも、愛子夫婦なんどをあいし、父母主君なんどをうやまうには雲泥なり。仏菩薩等をばかろくをもえるなり。されば当世の人々の、仏菩薩を恃みぬれば、宗々を学したれば地獄の苦はまぬかれなんなんどをもえるは僻案にや。心あらん人々はよくよくはかりをもうべきか。/ 第八に大阿鼻地獄とは、又は無間地獄と申すなり。欲界の最底大焦熱地獄の下にあり。此の地獄は縦広八万由旬なり。外に七重の鉄の城あり。地獄の極苦は且く之れを略す。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦一千倍勝れたり。此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事、他化自在天の楽しみの如し。
此の地獄の香のくささを人かぐならば、四天下・欲界・六天の天人皆ししなん。されども出山・没山と申す山、此の地獄の臭き気ををさえて、人間へ来たらせざる故に、此の世界の者死せずと見えぬ。若し仏此の地獄の苦を具に説かせ給はば、人聴いて血をはいて死すべき故に、くわしく仏説き給はずとみえたり。此の無間地獄の寿命の長短は一中劫なり。一中劫と申すは、此の人寿無量歳なりしが百年に一寿を減じ、又百年に一寿を減ずるほどに、人寿十歳の時に減ずるを一減と申す。又十歳より百年に一寿を増し、又百年に一寿を増する程に、八万歳に増するを一増と申す。此の一増一減の程を小劫として、二十の増減を一中劫とは申すなり。此の地獄に堕ちたる者、これ程久しく無間地獄に住して大苦をうくるなり。業因を云はば、五逆罪を造る人此の地獄に堕つべし。五逆罪と申すは、一に殺父、二に殺母、三に殺阿羅漢、四に出仏身血、五に破和合僧なり。今の世には仏ましまさず。しかれば出仏身血あるべからず。和合僧なければ破和合僧なし。阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし。但殺父殺母の罪のみありぬべし。しかれども王法のいましめきびしくあるゆへに、此の罪をかしがたし。若し爾らば、当世には阿鼻地獄に堕つべき人すくなし。但し相似の五逆罪これあり。
木画の仏像・堂塔等をやき、かの仏像等の寄進の所をうばいとり、率兜婆等をきりやき、智人を殺しなんどするもの多し。此等は大阿鼻地獄の十六の別処に堕つべし。されば当世の衆生十六の別処に堕つるもの多きか。又謗法の者この地獄に堕つべし。/ 第二に無間地獄の因果の軽重を明かさば、問うて云く、五逆罪より外の罪によりて無間地獄に堕ちんことあるべしや。答へて云く、誹謗正法の重罪なり。問うて云く、証文 如何。答へて云く、法華経第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云。此の文に謗法は阿鼻地獄の業と見えたり。問うて云く、五逆と謗法と罪の軽重 如何。答へて云く、大品経に云く「舎利弗、仏に白して言く、世尊五逆罪と破法罪と相似するや。仏舎利弗に告げたまはく、応に相似と言ふべからず。所以は何ん、若し般若波羅蜜を破れば、則ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為んぬ。仏宝を破るが故に、法宝を破るが故に、僧宝を破るが故に。三宝を破るが故に則ち世間の正見を破す。世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祇の罪を得るなり。無量無辺阿僧祇の罪を得已りて則ち無量無辺阿僧祇の憂苦を受くるなり」文。
又云く「破法の業・因縁集むるが故に、無量百千万億歳大地獄の中に堕つ。此の破法人の輩一大地獄より一大地獄に至る。若し劫火起こる時は他方の大地獄の中に至る。是の如く十方に遍して彼の間に劫火起こる。故に彼れより死し、破法の業・因縁未だ尽きざるが故に、是の間の大地獄の中に還来す」等云云。法華経第七に云く「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り。悪口罵詈して言く、是の無智の比丘と。或は杖木瓦石を以て之れを打擲す。乃至、千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」等云云。此の経文の心は法華経の行者を悪口し、及び杖を以て打擲せるもの、其の後に懺悔せりといえども、罪いまだ滅せずして、千劫阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ。懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出づる期かたかるべし。故に法華経第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更(また)生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」等云云。/ 第三に問答料簡を明かさば、問うて云く、五逆罪と謗法罪との軽重はしんぬ。謗法の相貌 如何。答へて云く、天台智者大師の梵網経の疏に云く「謗とは背なり」等云云。法に背くが謗法にてはあるか。
天親の仏性論に云く「若し憎背するは」等云云。この文の心は正法を人に捨てさするが謗法にてあるなり。問うて云く、委細に相貌をしらんとをもう、あらあらしめすべし。答へて云く、涅槃経第五に云く「若し人有りて如来は無常なりと言はん、云何ぞ是の人の舌堕落せざらん」等云云。此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云。問うて云く、諸の小乗経に仏を無常と説かるる上、又所化の衆皆無常と談じき。若し爾らば、仏並びに所化の衆の舌堕落すべしや。答へて云く、小乗経の仏を小乗経の人が無常ととき談ずるは舌ただれざるか。大乗経に向かひて仏を無常と談じ、小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか。此れをもてをもうに、をのれが依経には随えども、すぐれたる経を破するは破法となるか。若し爾らば、設ひ観経・華厳経等の権大乗経の人々、所依の経の文の如く修行すとも、かの経にすぐれたる経々に随はず、又すぐれざる由を談ぜば、謗法となるべきか。されば観経等の経の如く法をえたりとも、観経等を破せる経の出来したらん時、其の経に随はずば破法となるべきか。小乗経を以てなぞらえて心うべし。/ 問うて云く、双観経等に乃至十念即得往生なんどとかれて候が、彼のけうの教への如く十念申して往生すべきを、後の経を以て申しやぶらば、謗法にては候まじきか。
答へて云く、仏、観経等の四十余年の経々を束(つか)ねて未顕真実と説かせ給ひぬれば、此の経文に随ひて乃至十念即得往生等は実には往生しがたしと申す。此の経文なくば謗法となるべし。問うて云く、或人云く、無量義経の「四十余年 未顕真実」の文はあえて四十余年の一切の経々並びに文々句々を皆未顕真実と説き給ふにはあらず。但四十余年の経々に処々に決定性の二乗を永不成仏ときらはせ給ひ、釈迦如来を始成正覚と説き給ひしを、其の言ばかりをさして未顕真実とは申すなり。あえて余事にはあらず。而るをみだりに「四十余年」の文を見て、観経等の凡夫のために九品往生なんぞを説きたるを、妄りに往生はなき事なり、なんど押へ申すはあにをそろしき謗法の者にあらずや、なんど申すはいかに。答へて云く、此の料簡は東土の得一が料簡に似たり。得一が云く、未顕真実とは決定性の二乗を、仏爾前の経にして永不成仏ととかれしを未顕真実とは嫌はるるなり。前四味の一切には亘るべからずと申しき。伝教大師は前四味に亘りて文々句々に未顕真実と立て給ひき。さればこの料簡は古への謗法の者の料簡に似たり。但し且く汝等が料簡に随ひて尋ね明らめん。問ふ、法華已前に二乗作仏を嫌ひけるを今未顕真実というとならば、先づ決定性の二乗を仏の永不成仏と説かせ給ひし処々の経文ばかりは、未顕真実の仏の妄語なりと承伏せさせ給ふか。
さては仏の妄語は勿論なり。若し爾らば、妄語の人の申すことは有無共に用ゐぬ事にてあるぞかし。決定性の二乗永不成仏の語ばかり妄語となり、若し余の菩薩凡夫の往生成仏等は実語となるべきならば、信用しがたき事なり。譬へば東方を西方と妄語し申す人は西方を東方と申すべし。二乗を永不成仏と説く仏は余の菩薩の成仏をゆるすも又妄語にあらずや。五乗は但一仏性なり。二乗の仏性をかくし、菩薩凡夫の仏性をあらはすは、返りて菩薩凡夫の仏性をかくすなり。/ 有る人云く「四十余年 未顕真実」とは、成仏の道ばかり未顕真実なり。往生等は未顕真実にはあらず。又難じて云く、四十余年が間の説の成仏を未顕真実と承伏せさせ給はば、双観経に云ふ「不取正覚成仏已来凡歴十劫」等の文は未顕真実と承伏せさせ給ふか。若し爾らば、四十余年の経々にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給はずば、法蔵比丘の成仏すでに妄語なり。若し成仏妄語ならば何れの仏か行者を迎へ給ふべきや。又かれ此の難を通して云はん、四十余年が間は成仏はなし。阿弥陀仏は今の成仏にはあらず、過去の成仏なり等云云。今難じて云く、今日の四十余年の経々にして実の凡夫の成仏を許されずば、過去遠々劫の四十余年の権経にても成仏叶ひがたきか。三世の諸仏の説法の儀式皆同じきが故なり。
或は云く、不得疾成無上菩提ととかるれば、四十余年の経々にては疾くこそ仏にはならねども、遅く劫を経てはなるか。難じて云く、次下の大荘厳菩薩等の領解に云く「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」等云云。此の文の如くならば劫を経ても爾前の経計りにては成仏はかたきか。有るいは云ふ、華厳宗の料簡に云く、四十余年の内には華厳経計りは入るべからず。華厳経にすでに往生成仏此れあり。なんぞ華厳経を行じて往生成仏をとげざらん。答へて云く、四十余年の内に華厳経入るべからずとは華厳宗の人師の義なり。無量義経には正しく四十余年の内に華厳海空と名目を呼び出だして、四十余年の内にかずへ入れられたり。人師を本とせば仏を背くになりぬ。/ 問うて云く、法華経をはなれて往生成仏をとげずば、仏世に出でさせ給ひては但法華経計りをこそ説き給はめ。なんぞわづらはしく四十余年の経々を説かせ給ふや。答へて云く、此の難は仏自ら答へ給へり。「若し但仏乗を讃せば、衆生苦に没在して、法を破して信ぜざるが故に、三悪道に墜ちなん」等の経文これなり。問うて云く、いかなれば爾前の経をば衆生謗ぜざるや。答へて云く、爾前の経々は万差なれども、束ねて此れを論ずれば随他意と申して衆生の心をとかれてはんべり。故に違する事なし。譬へば水に石をなぐるにあらそうことなきがごとし。
又しなじなの説教はんべれども、九界の衆生の心を出でず。衆生の心は皆善につけ悪につけて迷ひを本とするゆへに、仏にはならざるか。問うて云く、衆生謗ずべきゆへに仏最初に法華経をとき給はずして、四十余年の後に法華経をとき給はば、汝なんぞ当世に権経をばとかずして、左右なく法華経をといて人に謗をなさせて悪道に堕すや。答へて云く、仏在世には仏菩提樹の下に坐し給ひ機をかがみ給ふに、当時法華経を説くならば、衆生謗じて悪道に堕ちぬべし。四十余年すぎて後にとかば、謗ぜずして初住不退乃至妙覚にのぼりぬべし、と知見しましましき。末代濁世には当機にして初住の位に入るべき人は万に一人もありがたかるべし。又能化の人も仏にあらざれば、機をかがみん事もこれかたし。されば逆縁順縁のために、先づ法華経を説くべしと仏ゆるし給へり。但し又滅後なりとも、当機衆になりぬべきものには、先づ権経をとく事もあるべし。又悲を先とする人は先づ権経をとく、釈迦仏のごとし。慈を先とする人は先づ実経をとくべし、不軽菩薩のごとし。又末代の凡夫はなにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし。同じく悪道に堕つるならば、法華経を謗ぜさせて堕すならば、世間の罪をもて堕ちたるにはにるべからす。「聞法生謗 堕於地獄 勝於供養 恒沙仏者」等の文のごとし。
此の文の心は、法華経をはうじて地獄に堕ちたるは、釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し帰依渇仰する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり。/ 問うて云く、上の義のごとくならば、華厳・法相・三論・真言・浄土等の祖師はみな謗法に堕すべきか。華厳宗には華厳経は法華経には雲泥超過せり。法相三論もてかくのごとし。真言宗には日本国に二の流あり。東寺の真言は法華経は華厳経にをとれり。何に況や大日経にをいてをや。天台の真言には大日経と法華経とは理は斉等なり。印・真言等は超過せりと云云。此等は皆悪道に堕つべしや。答へて云く、宗をたて、経々の勝劣を判ずるに二の義あり。一は似破、二は能破なり。一に似破とは、他の義は吉しとをもえども此れをはす。かの正義を分明にあらはさんがためか。二に能破とは、実に他人の義の勝れたるをば弁えずして、迷ひて我が義すぐれたりとをもひて、心中よりこれを破するをば能破という。されば彼の宗々の祖師に似破・能破の二の義あるべし。心中には法華経は諸経に勝れたりと思えども、且く違して法華経の義を顕はさんとをもひて、これをはする事あり。提婆達多・阿闍世王・諸の外道が仏のかたきとなりて仏徳を顕はし、後には仏に帰せしがごとし。
又実の凡夫が仏のかたきとなりて悪道に堕つる事これ多し。されば諸宗の祖師の中に回心の筆をかかずば、謗法の者悪道に堕ちたりとしるべし。三論の嘉祥・華厳の澄観・法相の慈恩・東寺の弘法等は回心の筆これあるか。よくよく尋ねならふべし。/ 問うて云く、まことに今度生死をはなれんとをもはんに、なにものをかいとひ、なにものをか願ふべきや。答ふ、諸の経文には女人等をいとうべしとみえたれども、双林最後の涅槃経に云く「菩薩是の身に無量の過患具足充満すと見ると雖も、涅槃経を受持せんと欲するを為ての故に、猶好く将護して乏少ならしめず。菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。何を以ての故に、是れ悪象等は唯能く身を壊りて心を壊る事能はず。悪知識は二倶に壊るが故に。悪象の若きは唯一身を壊る。悪知識は無量の身無量の善心を壊る。悪象の為に殺されては三趣に至らず。悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」等云云。此の経文の心は、後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし。一切の悪縁よりは悪知識ををそるべしとみえたり。されば大荘厳仏の末の四(よたり)の比丘は、自ら悪法を行じて、十方の大阿鼻地獄を経るのみならず、六百億人の檀那等をも十方の地獄に堕としぬ。
鴦崛摩羅(あうくつまら)は摩尼跋陀が教へに随ひて、九百九十九人の指をきり、結句、母並びに仏をがいせんとぎす。善星比丘は仏の御子、十二部経を受持し、四禅定をえ、欲界の結を断じたりしかども、苦得外道の法を習ひて、生身に阿鼻地獄に堕ちぬ。提婆が六万蔵八万蔵を暗んじたりしかども、外道の五法を行じて現に無間に堕ちにき。阿闍世王の父を殺し、母を害せんと擬せし、大象を放ちて仏をうしないたてまつらんとせしも悪師提婆が教へなり。倶伽利比丘が舎利弗・目連をそしりて、生身に阿鼻に堕せし、大族王の五竺の仏法僧をほろぼせし、大族王の舎弟は加弥羅国の王となりて、健駄羅国の率都婆・寺塔一千六百所をうしなひし、金耳国王の仏法をほろぼせし、波瑠璃王の九千九十万人の人をころして血ながれて池をなせし、設賞迦王の仏法を滅ぼし菩提樹をきり根をほりし、周の宇文王の四千六百余所の寺院を失ひ、二十六万六百余の僧尼を還俗せしめし、此等は皆悪師を信じ悪鬼其の身に入りし故なり。/ 問うて云く、天竺・震旦は外道が仏法をほろぼし、小乗が大乗をやぶるとみえたり。此の日本国もしかるべきか。答へて云く、月支・尸那には外道あり、小乗あり。此の日本国には外道なし、小乗の者なし。紀典博士(きてはかせ)等これあれども、仏法の敵となるものこれなし。
小乗の三宗これあれども、彼の宗を用ゐて生死をはなれんとをもはず。但大乗を心うる才覚とをもえり。但し此の国には大乗の五宗のみこれあり。人々皆をもえらく、彼の宗々にして生死をはなるべしとをもう故にあらそいも多くいできたり。又檀那の帰依も多くあるゆへに利養の心もふかし。/ 第四弘法用心抄。夫れ仏法をひろめんとをもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし。五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり。/ 第一に教とは、如来一代五十年の説教は大小権実顕密の差別あり。華厳宗には五教を立て一代ををさめ、其の中には華厳・法華を最勝とし、華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす。南三北七並びに華厳宗の祖師・日本国の東寺の弘法大師此の義なり。法相宗は三時に一代ををさめ、其の中に深密・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす。深密・法華の中法華経は了義経の中の不了義経、深密経は了義経の中の了義経なり。三論宗に又二蔵・三時を立つ。三時の中の第三、中道教とは、般若・法華なり。般若・法華の中には般若最第一なり。真言宗には日本国に二の流あり。東寺流は弘法大師十住心を立て、第八法華・第九華厳・第十真言。法華経は大日経に劣るのみならず猶華厳経に下るなり。
天台の真言は慈覚大師等、大日経と法華経とは広略の異。法華経は理秘密、大日経は事理倶密なり。浄土宗には聖道浄土、難行易行、雑行正行を立てたり。浄土の三部経より外の法華経等の一切経は難行・聖道・雑行なり。禅宗には二の流あり。一流は一切経・一切の宗の深義は禅宗なり。一流は如来一代の聖教は皆言説、如来の口輪の方便なり。禅師は如来の意密、言説にをよばず教外の別伝なり。倶舎宗・成実宗・律宗は小乗宗なり。天竺震旦には小乗宗の者、大乗を破する事これ多し。日本国には其の義なし。/ 問うて云く、諸宗の異義区(まちまち)なり。一々に其の謂はれありて得道をなるべきか。又諸宗皆謗法となりて一宗計り正義となるべきか。答へて云く、異論相違ありといえども皆得道なるか。仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国の迦弐色迦王、仏法を貴み、一夏、僧を供し仏法をといしに一々の僧異義多し。此の王不審して云く、仏説は定めて一ならん、終に脇尊者に問ふ。尊者答へて云く、金杖を折りて種々の物につくるに、形は別なれども金杖は一なり。形の異なるをば諍ふといへども、金たる事をあらそはず。門々不同なれば、いりかどをば諍へども、入理は一なり等云云。
又求那跋摩云く、諸論各異端なれども修行の理は二無し。偏執に是非有りとも達者は違諍無し等云云。又五百羅漢の真因各異なれども同じく聖理をえたり。大論の四悉檀の中の対治悉檀、摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣、此等は此の善を嫌ひ、此の善をほむ。檀戒進等一々にそしり、一々にほむる、皆得道をなる。此等を以てこれを思ふに、護法・清弁のあらそい、智光・戒賢の空・中、南三北七の頓漸不定、一時・二時・三時・四時・五時、四宗・五宗・六宗、天台の五時、華厳の五教、真言教の東寺・天台の諍、浄土宗の聖道・浄土、禅宗の教外・教内、入門は差別せりというとも実理に入る事は但一なるべきか。/ 難じて云く、華厳の五教、法相・三論の三時、禅宗の教外、浄土宗の難行・易行、南三北七の五時等、門はことなりといへども入理一にして、皆仏意に叶ひ謗法とならずといはば、謗法という事あるべからざるか。謗法とは法に背くという事なり。法に背くと申すは、小乗は小乗経に背き、大乗は大乗経に背く。法に背かばあに謗法とならざらん。謗法とならばなんぞ苦果をまねかざらん。此の道理にそむくこれひとつ。大般若経に云く「般若を謗ずる者は十方の大阿鼻地獄に堕つべし」。法華経に云く「若し人信ぜずして、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」。
涅槃経に云く「世に難治の病三あり。一には四重、二には五逆、三には謗大乗なり」。此等の経文あにむなしかるべき。此等は証文なり。されば無垢論師・大慢婆羅門・熈連禅師・嵩霊法師等は正法を謗じて、現身に大阿鼻地獄に堕ち、舌口中に爛れたり。これは現証なり。天親菩薩は小乗の論を作りて諸大乗経をはしき。後に無著菩薩に対して此の罪を懺悔せんがために舌を切らんとくい給ひき。謗法もし罪とならずんば、いかんが千部の論師懺悔をいたすべき。闡提とは、天竺の語、此には不信と翻す。不信とは、一切衆生悉有仏性を信ぜざるは闡提の人と見えたり。不信とは、謗法の者なり。恒河の七種の衆生の第一は一闡提謗法常没の者なり。第二は五逆謗法常没等の者なり。あに謗法ををそれざらん。答へて云く、謗法とは、只由なく仏法を謗ずるを謗法というか。我が宗をたてんがために余法を謗ずるは謗法にあらざるか。摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣とは、仮令(たとい)人ありて一生の間一善をも修せず但悪を作る者あり。而るに小縁にあいて何れの善にてもあれ一善を修せんと申す。これは随喜讃歎すべし。又善人あり、一生の間ただ一善を修す。而るを他の善えうつさんがためにそのぜんをそしる。一事の中に於て或は呵し或は讃ずという、これなり。
大論の四悉檀の中の対治悉檀又これをなじ。浄名経の弾呵と申すは阿含経の時ほめし法をそしるなり。此等を以てをもふに、或は衆生多く小乗の機あれば、大乗を謗りて小乗経に信心をまし、或は衆生多く大乗の機なれば、小乗をそしりて大乗経に信心をあつくす。或は衆生弥陀仏に縁あれば、諸仏をそしりて弥陀に信心をまさしめ、或は衆生多く地蔵に縁あれば諸菩薩をそしりて地蔵をほむ。或は衆生多く華厳経に縁あれば、諸経をそしりて華厳経をほむ。或は衆生大般若経に縁あれば、諸経をそしりて大般若経をほむ。或は衆生法華経、或は衆生大日経等、同じく心うべし。機を見て或は讃め或は毀る、共に謗法とならず。而るを機をしらざる者、みだりに或は讃め或は呰るは謗法となるべきか。例せば華厳宗・三論・法相・天台・真言・禅・浄土等の諸師の諸経をはして我が宗を立つるは謗法とならざるか。/ 難じて云く、宗を立てんに諸経諸宗を破し、仏菩薩を讃むるに仏菩薩を破し、他の善根を修せしめんがためにこの善根をはする、くるしからずば、阿含等の諸の小乗経に華厳経等の諸大乗経をはしたる文ありや。華厳経に法華・大日経等の諸大乗経をはしたる文これありや。答へて云く、阿含小乗経に諸大乗経をはしたる文はなけれども、華厳経には二乗・大乗・一乗をあげて二乗・大乗をはし、涅槃経には諸大乗経をあげて涅槃経に対してこれをはす。
密厳経には一切経中王と説き、無量義経には「四十余年 未顕真実」ととかれ、阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根ととかる。これらの例一にあらず。故に又彼の経々による人師、皆此の義を存せり。此等をもて思ふに、宗を立つる方は我が宗に対して諸経を破るはくるしからざるか。/ 難じて云く、華厳経には小乗・大乗・一乗とあげ、密厳経には一切経中の王ととかれ、涅槃経には是れ諸大乗とあげ、阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根とはとかれたれども、無量義経のごとく四十余年と年限を指して、其の間の大部の諸経、阿含・方等・般若・華厳等の名をよびあげて勝劣をとける事これなし。涅槃経の是諸大乗の文計りこそ、双林最後の経として是れ諸大乗ととかれたれば、涅槃経には一切経は嫌はるかとをぼうれども、是諸大乗経と挙げて、次下に諸大乗経を列ねたるに、十二部修多羅・方等・般若等とあげたり。無量義経・法華経をば載せず。但し無量義経に挙ぐるところは四十余年の阿含・方等・般若・華厳経をあげたり。いまだ法華経・涅槃経の勝劣はみえず。密厳に一切経中王とはあげたれども、一切経をあぐる中に華厳・勝鬘等の諸経の名をあげて一切経中王ととく。故に法華経等とはみえず。
阿弥陀経の小善根は時節もなし小善根の相貌もみえず。たれかしる、小乗経を小善根というか。又人天の善根を小善根というか。又観経・双観経の所説の諸善を小善根というか。いまだ一代を念仏に対して小善根というとはきこえず。又大日経・六波羅蜜経等の諸の秘教の中にも、一代の一切経を嫌ひてその経をほめたる文はなし。但し無量義経計りこそ前四十余年の諸経を嫌ひ、法華経一経に限りて、已説の四十余年・今説の無量義経・当説の未来にとくべき涅槃経を嫌ひて法華経計りをほめたり。釈迦如来過去・現在・未来の三世の諸仏、世にいで給ひて各々一切経を説き給ふに、いづれの仏も法華経第一なり。例せば上郎下郎不定なり。田舎にしては、百姓・郎従等は侍を上郎といふ。洛陽にして、源平等已下を下郎といふ。三家を上郎といふ。又主を王といはば百姓も宅中の王なり。地頭・領家等も又村郷郡国の王なり。しかれども大王にはあらず。小乗経には無為涅槃の理が王なり。小乗の戒定等に対して智恵は王なり。諸大乗経には中道の理が王なり。又華厳経は円融相即の王、般若経は空理の王、大集経は守護正法の王、薬師経は薬師如来の別願を説く経の中の王、双観経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中の王、大日経は印真言を説く経の中の王、一代一切経の王にはあらず。
法華経は真諦俗諦・空仮中・印真言・無為の理・十二大願・四十八願、一切諸経の所説の所詮の法門の大王なり。これ教をしれる者なり。而るを善無畏・金剛智・不空・法蔵・澄観・慈恩・嘉祥・南三北七・曇鸞・道綽・善導・達磨等の、我が所立の依経を一代第一といえるは教をしらざる者なり。但し一切の人師の中には天台智者大師一人教をしれる人なり。曇鸞・道綽等の聖道浄土・難行易行・正行雑行は、源と十住毘婆沙論に依る。彼の本論に難行の内に法華真言等を入ると謂へるは僻案なり。論主の心と論の始中終をしらざる失あり。慈恩が深密経の三時に一代ををさめたる事、又本経の三時に一切経の摂らざる事をしらざる失あり。法蔵・澄観等が五教に一代ををさむる中に、法華経・華厳経を円教と立て、又華厳経は法華経に勝れたりとをもえるは、所依の華厳経に二乗作仏・久遠実成をあかさざるに記小・久成ありとをもひ、華厳超過の法華経を我が経に劣ると謂ふは僻見なり。三論の嘉祥の二蔵等、又法華経に般若経すぐれたりとをもう事は僻案なり。善無畏等が大日経は法華経に勝れたりという。法華経の心をしらざるのみならず、大日経をもしらざる者なり。/ 問うて云く、此等皆謗法ならば悪道に堕ちたるか 如何。答へて云く、謗法に上中下雑の謗法あり。慈恩・嘉祥・澄観等が謗法は上中の謗法か。其の上自身も謗法としれるかの間、悔い還す筆これあるか。
又他師をはするに二あり。能破・似破これなり。教はまさりとしれども、是非をあらはさんがために、法をはす、これは似破なり。能破とは、実にまされる経を劣とをもうてこれをはす、これは悪能破なり。又現にをとれるをはす、これ善能破なり。但し脇尊者の金杖の譬へは、小乗経は多しといえども同じ苦・空・無常・無我の理なり。諸人同じく此の義を存じて、十八部・二十部、相諍論あれども、但門の諍ひにて理の諍ひにはあらず。故に共に謗法とならず。外道が小乗経を破するは、外道の理は常住なり、小乗経の理は無常なり空なり。故に外道が小乗経をはするは謗法となる。大乗経の理は中道なり。小乗経は空なり。小乗経の者が大乗経をはするは謗法となる。大乗経の者が小乗経をはするは破法とならず。諸大乗経の中の理は未開会の理、いまだ記小久成これなし。法華経の理は開会の理、記小久成これあり。諸大乗経の者が法華経をはするは謗法となるべし。法華経の者の諸大乗経を謗ずるは謗法となるべからず。大日経・真言宗は未開会、記小久成なくば法華経已前なり。開会・記小・久成を許さば涅槃経とをなじ。但し善無畏三蔵・金剛智・不空・一行等の性悪の法門・一念三千の法門は天台智者の法門をぬすめるか。若し爾らば、善無畏等の謗法は似破か又雑謗法か。
五百羅漢の真因は小乗十二因縁の事なり。無明・行等を縁として空理に入ると見えたり。門は諍へども謗法とならず。摂論の四意趣・大論の四悉檀等は、無著菩薩・竜樹菩薩滅後の論師として、法華経を以て一切経の心をえて四悉・四意趣等を用ゐて爾前の経々の意を判ずるなり。未開会の四意趣・四悉檀と開会の四意趣・四悉檀を同ぜば、あに謗法にあらずや。此等をよくよくしるは教をしれる者なり。/ 四句あり。一に信而不解、二に解而不信、三に亦信亦解、四に非信非解。問うて云く、信而不解の者は謗法なるか。答へて云く、法華経に云く「信を以て入ることを得」等云云。涅槃経の九に云く。難じて云く、涅槃経三十六に云く「我契経の中に於て説く、二種の人有り仏法僧を謗ずと。一には、不信にして瞋恚の心あるが故に、二には、信ずと雖も義を解せざるが故に。善男子、若し人信心ありて智恵有ること無き、是の人は則ち能く無明を増長す。若し智恵有りて信心あること無き、是の人は則ち能く邪見を増長す。善男子、不信の人は瞋恚の心あるが故に、説いて仏法僧宝有ること無しと言はん。信ずる者にして恵無くば、顛倒して義を解するが故に、法を聞く者をして仏法僧を謗ぜしむ」等云云。此の二人の中には信じて解せざる者を謗法と説く 如何。
答へて云く、此の信而不解の者は涅槃経の三十六に恒河の七種の衆生の第二の者を説くなり。此の第二の者は涅槃経の一切衆生悉有仏性の説を聞いて之れを信ずと雖も而も又不信の者なり。/ 問うて云く、如何ぞ信ずと雖も而も不信なるや。答へて云く、一切衆生悉有仏性の説を聞いて之れを信ずと雖も、又心を爾前の経に寄する一類の衆生をば無仏性の者と云ふなり。此れ信而不信の者なり。問うて云く、証文 如何。答へて云く、恒河第二の衆生を説いて云く、経に云く「是の如き大涅槃経を聞くことを得て信心を生ず。是れを名づけて出と為す」。又云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も、必ずしも一切皆悉く之れ有らず。是の故に名づけて信不具足と為す」文。此の文の如くんば、口には涅槃を信ずと雖も、心に爾前の義を存する者なり。又此の第二の人を説いて云く「信ずる者にして恵無くば、顛倒して義を解するが故に」等云云。顛倒解義とは、実経の文を得て権経の義を覚る者なり。/ 問うて云く、信而不解得道の文 如何。答へて云く、涅槃経の三十二に云く「此の菩提の因は復無量なりと雖も、若し信心を説けば已に摂尽す」文。九に云く「此の経を聞き已りて悉く皆菩提の因縁と作る。法声光明毛孔に入る者は必定当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし」等云云。法華経に云く「信を以て入ることを得」等云云。
問うて云く、解而不信の者は 如何。答ふ、恒河の第一の者なり。問うて云く、証文 如何。答へて云く、涅槃経の三十六に第一を説いて云く、「人有りて是の大涅槃経の如来常住にして変易有ること無く、常・楽・我・浄なり。終に畢竟じて涅槃に入らず。一切衆生悉く仏性有り。一闡提の人は、謗方等経、作五逆罪、犯四重禁なり。必ず当に菩提の道を成ずることを得べし。須陀の人・斯陀含の人・阿那含の人・阿羅漢の人・辟支仏等も必ず当に阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得べしを聞く。是の語を聞き已りて不信の心を生ず」等云云。問うて云く、此の文不信とは見えたり。解而不信とは見えず 如何。答へて云く、第一の結文に云く「若し智恵有りて信心有ること無くんば、是の人は則ち能く邪見を増長す」文。
◆ 論談敵対御書 〔C1・弘長二年〕/ 論談敵対の時、二口三口に及ばず、一言二言を以て退屈せしめ了んぬ。所謂 善光寺道阿弥陀仏・長安寺能安等是れなり。其の後は唯悪口を加へ、無知の道俗を相語らひ、留難を作さしむ。或は国々の地頭等に語らひ、或は事を権門に寄せ、或は昼夜に私宅を打ち、或は杖木を加へ、或は刀杖に及び、或は貴人に向かひて云く謗法者・邪見者・悪口者・犯禁者等の誑言其の数を知らず。終に去年五月十二日戌の時、念仏者並びに塗師・剛師・雑人等。
◆ 持妙法華問答抄 〔C6・文永六年~文永九年頃か〕/ 抑 希に人身をうけ、適(たまたま)仏法をきけり。然るに法に浅深あり、人に高下ありと云へり。何なる法を修行してか速やかに仏になり候べき。願はくは其の道を聞かんと思ふ。答へて云く、家々に尊勝あり、国々に高貴あり。皆其の君を貴み、其の親を崇むといへども、豈に国王にまさるべきや。爰に知んぬ、大小権実は家々の諍ひなれども、一代聖教の中には法華独り勝れたり。是れ頓証菩提の指南、直至道場の車輪なり。/ 疑って云く、人師は経論の心を得て釈を作る者なり。然らば則ち宗々の人師、面々各々に教門をしつらひ、釈を作り、義を立て証得菩提を志す。何ぞ虚しかるべきや。然るに法華独り勝ると候はば、心せばくこそ覚え候へ。答へて云く、法華独りいみじと申すが心せばく候はば、釈尊程心せばき人は世に候はじ。何ぞ誤りの甚だしきや。且く一経・一流の釈を引きて其の迷ひをさとらせん。無量義経に云く「種々に法を説き種々に法を説くこと方便力を以てす、四十余年未だ真実を顕はさず」云云。此の文を聞いて大荘厳等の八万の菩薩一同に「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず」と領解し給へり。
此の文の心は、華厳・阿含・方等・般若の四十余年の経に付きて、いかに念仏を申し、禅宗を持ちて仏道を願ひ、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、無上菩提を成ずる事を得じと云へり。しかのみならず、方便品には「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」ととき、又「唯有一乗法無二亦無三」と説いて此の経ばかりまことなりと云ひ、又二の巻には「唯我一人のみ能く救護を為す」と教へ、「但楽ひて大乗経典を受持して、乃至余経の一偈をも受けざれ」と説き給へり。文の心は、ただわれ一人してよくすくひまもる事をなす。法華経をうけたもたん事をねがひて、余経の一偈をもうけざれと見えたり。又云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。此の文の心は、若し人此の経を信ぜずして此の経にそむかば、則ち一切世間の仏のたねをたつものなり。その人は命をはらば無間地獄に入るべしと説き給へり。此等の文をうけて天台は、将非魔作仏の詞正しく此の文によれりと判じ給へり。唯人師の釈計りを憑みて、仏説によらずば何ぞ仏法と云ふ名を付すべきや。言語道断の次第なり。之れに依りて智証大師は「経に大小無く、理に偏円なしと云ひて、一切人に依らば、仏説無用なり」と釈し給へり。
天台は「若し深く所以有り、復修多羅と合する者は録して之れを用ゐよ。文無く義無きは信受すべからず」と判じ給へり。又云く「文証無きは悉く是れ邪謂なり」とも云へり。いかが心得べきや。/ 問うて云く、人師の釈はさも候べし。爾前の諸経に、此の経第一とも説き、諸経の王とも宣べたり。若し爾らば仏説なりとも用ゐるべからず候か 如何。答へて云く、設ひ此の経第一とも諸経の王とも申し候へ、皆是れ権教なり。其の語によるべからず。之れに依りて、仏は「了義経に依りて不了義経に依らざれ」と説き、妙楽大師は「縦ひ経有りて諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はず。兼但対帯其の義知んぬべし」と釈し給へり。此の釈の心は、設ひ経ありて諸経の王とは云ふとも、前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば、方便の経としれと云ふ釈なり。されば爾前の経の習ひとして、今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり。唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に、已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ。されば釈には「唯法華に至りて前教の意を説いて、今教の意を顕はす」と申して、法華経にて如来の本意も、教化の儀式も定まりたりと見えたり。
之れに依りて、天台は「如来成道四十余年未だ真実を顕はさず、法華始めて真実を顕はす」と云へり。此の文の心は、如来世に出ださせ給ひて四十余年が間は真実の法をば顕はさず。法華経に始めて仏になる実の道を顕はし給へりと釈し給へり。/ 問うて云く、已今当の中に法華経勝れたりと云ふ事はさも候べし。但し有る人師の云く「四十余年 未顕真実」と云ふは法華経にて仏になる声聞の為なり。爾前の得益の菩薩の為には未顕真実と云ふべからずと云ふ義をばいかが心得候べきや。答へて云く、法華経は二乗の為なり、菩薩の為にあらず。されば未顕真実と云ふ事二乗に限るべしと云ふは徳一大師の義か。此れは法相宗の人なり。此の事を伝教大師破し給ふに「現在の麁食者は偽章数巻を作りて法を謗じ人を謗ず、何ぞ地獄に堕せざらんや」と破し給ひしかば、徳一大師其の語に責められて舌八にさけてうせ給ひき。未顕真実とは二乗の為なりと云はば、最も理を得たり。其の故は如来布教の元旨は元より二乗の為なり。一代の化儀、三周の善巧、併しながら二乗を正意とし給へり。されば華厳経には地獄の衆生は仏になるとも、二乗は仏になるべからずと嫌ひ、方等には高峰に蓮の生(をい)ざるやうに、二乗は仏の種をいりたりと云はれ、般若には五逆罪の者は仏になるべし、二乗は叶ふべからずと捨てらる。
かかるあさましき捨者の仏になるを以て如来の本意とし、法華経の規模とす。之れに依りて天台云く「華厳大品も之れを治すること能はず唯法華のみ有りて能く無学をして還りて善根を生じ仏道を成ずることを得しむ、所以に妙と称す。又闡提は心有り、猶作仏すべし。二乗は智を滅す、心生ずべからず。法華能く治す。復称して妙と為す」云云。此の文の心は、委しく申すに及ばず。誠に知んぬ、華厳・方等・大品等の法薬も、二乗の重病をばいやさず。又三悪道の罪人をも菩薩ぞと爾前の経にはゆるせども、二乗をばゆるさず。之れに依りて、妙楽大師は「余趣を実に会すること諸経に或は有れども二乗は全く無し。故に菩薩に合して二乗に対し難きに従ひて説く」と釈し給へり。しかのみならず、二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕はすと天台は判じ給へり。修羅が大海を渡らんをば、是れ難しとやせん。嬰児の力士を投げん、何ぞたやすしとせん。然らば則ち仏性の種ある者は仏になるべしと爾前にも説けども、未だ焦種の者作仏すべしとは説かず。かかる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。只須く汝仏にならんと思はば、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてて、偏に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼(ああ)恥づべし恥づべし、恐るべし恐るべし。
問うて云く、一を以て万を察する事なれば、あらあら法華のいわれを聞くに耳目始めて明らかなり。但し法華経をばいかやうに心得候ひてか、速やかに菩提の岸に到るべきや。伝へ聞く、一念三千の大虚には恵日くもる事なく、一心三観の広池には智水にごる事なき人こそ、其の修行に堪へたる機にて候なれ。然るに南都の修学に臂をくたす事なかりしかば、瑜伽・唯識にもくらし。北嶺の学文に眼をさらさざりしかば、止観・玄義にも迷へり。天台・法相の両宗はほとぎを蒙りて壁に向かへるが如し。されば法華の機には既にもれて候にこそ、何んがし候べき。答へて云く、利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云ひて、無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり。是れ還りて愚痴邪見の至りなり。一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。されば経には「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」と説き給へり。いかにも信じて次の生の仏前を期すべきなり。譬へば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして、此の縄にとりつかば我岸の上に引き登さんと云はんに、引く人の力を疑ひ縄の弱からん事をあやぶみて、手を納めて是れをとらざらんが如し。
争でか岸の上に登る事をうべき。若し其の詞に随ひて、手をのべ是れをとらへば即ち登る事をうべし。「唯我一人 能為救護」の仏の御力を疑ひ、「以信得入」の法華経の教への縄をあやぶみて、決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。菩提の岸に登る事難かるべし。不信の者は堕在泥梨(だざいないり)の根元なり。されば経には「疑ひを生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり。受けがたき人身をうけ、値ひがたき仏法にあひて争でか虚しくて候べきぞ。同じく信を取るならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ。/ 持つ処の御経の諸経に勝れてましませば、能く持つ人も亦諸人にまされり。爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり。大聖の金言疑ひなし。然るに人此の理をしらず見ずして、名聞狐疑偏執を致せるは堕獄の基なり。只願はくは経を持ち、名を十方の仏陀の願海に流し、誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし。然れば法華経を持ち奉る人は、天竜八部諸大菩薩を以て我が眷属とする者なり。しかのみならず、因身の肉団に果満の仏眼を備へ、有為の凡膚に無為の聖衣を著ぬれば、三途に恐れなく、八難に憚りなし。
七方便の山の頂に登りて九法界の雲を払ひ、無垢地の園に花開け、法性の空に月明らかならん。「是人於仏道 決定無有疑」の文憑みあり。「唯我一人 能為救護」の説疑ひなし。一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越え、五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり。頓証菩提の教は遥かに群典に秀で、顕本遠寿の説は永く諸乗に絶えたり。爰を以て八歳の竜女は大海より来て経力を刹那に示し、本化の上行は大地より涌出して仏寿を久遠に顕はす。言語道断の経王、心行所滅の妙法なり。/ 然るに此の理(ことわり)をいるかせにして、余経にひと(等)しむるは、謗法の至り、大罪の至極なり。譬へを取るに物なし。仏の神変にても何ぞ是れを説き尽くさん。菩薩の智力にても争でか是れを量るべき。されば譬喩品に云く「若し其の罪を説かば劫を窮むとも尽きず」と云へり。文の心は、法華経を一度もそむける人の罪をば、劫を窮むとも説き尽くし難しと見えたり。然る間、三世の諸仏の化導にももれ、恒沙の如来の法門にも捨てられ、冥(くら)きより冥きに入りて、阿鼻大城の苦患争でか免れん。誰か心あらん人、長劫の悲しみを恐れざらんや。爰を以て経に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。
文の心は、法華経をよみたもたん者を見て、かろしめ、いやしみ、にくみ、そねみ、うらみをむすばん。其の人は命をはりて阿鼻大城に入らんと云へり。大聖の金言誰か是れを恐れざらんや。正直捨方便の明文、豈に是れを疑ふべきや。然るに人皆経文に背き、世悉く法理に迷へり。汝何ぞ悪友の教へに随はんや。されば邪師の法を信じ受くる者を、名づけて毒を飲む者なりと天台は釈し給へり。汝能く是れを慎むべし、是れを慎むべし。倩(つらつら)世間を見るに法をば貴しと申せども、其の人をば万人是れを悪む。汝能く能く法の源に迷へり。何にと云ふに、一切の草木は地より出生せり。是れを以て思ふに、一切の仏法も又人によりて弘まるべし。之れに依りて、天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす。末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんや、とこそ釈して御坐し候へ。されば持たるる法だに第一ならば、持つ人随ひて第一なるべし。然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり。其の子を賤しむるは即ち其の親を賤しむなり。爰に知んぬ、当世の人は詞と心と総じてあはず、孝経を以て其の親を打つが如し。豈に冥の照覧恥づかしからざらんや。地獄の苦しみ恐るべし恐るべし。慎むべし慎むべし。
上根に望めても卑下すべからず。下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても慢ならざれ。上根ももるる事あり、心をいたさざるが故に。/ 凡そ其の里ゆかしけれども道たえ縁なきには、通ふ心もをろそかに、其の人恋しけれども憑めず契らぬには、待つ思ひもなをざりなるやうに、彼の月卿雲客に勝れたる霊山浄土の行きやすきにも未だゆかず。我即ち是れ父の柔軟の御すがた見奉るべきをも未だ見奉らず。是れ誠に袂をくた(腐)し、胸をこがす歎きならざらんや。暮れ行く空の雲の色、有明方の月の光までも心をもよほす思ひなり。事にふれ、をりに付けても後世を心にかけ、花の春、雪の朝も是れを思ひ、風さはぎ、村雲まよふ夕べにも忘るる隙なかれ。出づる息は入る息をまたず。何なる時節ありてか、毎自作是念の悲願を忘れ、何なる月日ありてか、無一不成仏の御経を持たざらん。昨日が今日になり、去年の今年となる事も、是れ期する処の余命にはあらざるをや。総じて過ぎにし方をかぞへて、年の積もるをば知るといへども、今行末にをいて、一日片時も誰か命の数に入るべき。臨終已に今にありとは知りながら、我慢偏執名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下にかひなし。
さこそは皆成仏道の御法とは云ひながら、此の人争でか仏道にものうからざるべき。色なき人の袖にはそぞろに月のやどる事かは。又命已に一念にすぎざれば、仏は一念随喜の功徳と説き給へり。若し是れ二念三念を期すと云はば、平等大恵の本誓、頓教一乗皆成仏の法とは云はるべからず。流布の時は末世法滅に及び、機は五逆謗法をも納めたり。故に頓証菩提の心におきてられて、狐疑執著の邪見に身を任する事なかれ。/ 生涯幾ばくならず。思へば一夜のかりの宿を忘れて幾ばくの名利をか得ん。又得たりとも是れ夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。雲とやなり、雨とやなりけん、昔の人は只名をのみきく。露とや消え、煙とや登りけん、今の友も又みえず。我いつまでか三笠の雲と思ふべき。春の花の風に随ひ、秋の紅葉の時雨に染むる。是れ皆ながらへぬ世の中のためしなれば、法華経には「世皆不牢固如水沫泡焔」とすすめたり。「以何令衆生 得入無上道」の御心のそこ、順縁逆縁の御ことのは、已に本懐なれば、暫くも持つ者も又本意にかないぬ。又本意に叶はば仏の恩を報ずるなり。悲母深重の経文心安ければ、唯我一人の御苦しみもかつかつ(僅々)やすみ給ふらん。
釈迦一仏の悦び給ふのみならず、諸仏出世の本懐なれば、十方三世の諸仏も悦び給ふべし。「我即歓喜諸仏亦然」と説かれたれば、仏悦び給ふのみならず、神も即ち随喜し給ふなるべし。伝教大師是れを講じ給ひしかば、八幡大菩薩は紫の袈裟を布施し、空也上人是れを読み給ひしかば、松尾の大明神は寒風をふせがせ給ふ。/ されば「七難即滅七福即生」と祈らんにも此の御経第一なり。現世安穏と見えたればなり。他国侵逼の難・自界叛逆の難の御祈祷にも、此の妙典に過ぎたるはなし。令百由旬内無諸衰患と説かれたればなり。然るに当世の御祈祷はさかさまなり。先代流布の権教なり。末代流布の最上真実の秘法にあらざるなり。譬へば去年の暦を用ゐ、烏を鵜につかはんが如し。是れ偏に権教の邪師を貴みて、未だ実教の明師に値はせ給はざる故なり。惜しきかな、文武の卞和(べんか)があら玉、何くにか納めけん。嬉しきかな、釈尊出世の髻(もとどり)の中の明珠、今度我が身に得たる事よ。十方諸仏の証誠としているがせならず。さこそは「一切世間 多怨難信」と知りながら、争でか一分の疑心を残して、決定無有疑の仏にならざらんや。過去遠々の苦しみは、徒らにのみこそうけこしか。などか暫く不変常住の妙因をうへざらん。
未来永々の楽しみはかつかつ心を養ふとも、しいてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず。「三界無安猶如火宅」は如来の教へ、「所以諸法如幻如化」は菩薩の詞なり。寂光の都ならずは、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏 後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思ひ出なるべけれ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。/ 日蓮花押
◆ 月水御書 〔C6・文永元年四月一七日・大学三郎妻〕/ 伝へ承る御消息の状に云く、法華経を日ごとに一品づつ、二十八日が間に一部をよみまいらせ候ひしが、当時は薬王品の一品を毎日の所作にし候。ただもとの様に一品づつをよみまいらせ候べきやらんと云云。/ 法華経は一日の所作に一部八巻二十八品、或は一巻、或は一品・一偈・一句・一字、或は題目ばかりを南無妙法蓮華経と只一遍となへ、或は又一期の間に只一度となへ、或は又一期の間にただ一遍唱ふるを聞いて随喜し、或は又随喜する声を聞いて随喜し、是れ体に五十展転して末になりなば志もうすくなり、随喜の心の弱き事、二三歳の幼稚の者のはかなきが如く、牛馬なんどの前後を弁へざるが如くなりとも、他経を学する人の利根にして智恵かしこく、舎利弗・目連・文殊・弥勒の如くなる人の、諸経を胸の内にうかべて御坐しまさん人々の御功徳よりも、勝れたる事百千万億倍なるべきよし、経文並びに天台・妙楽の六十巻の中に見え侍り。されば経文には「仏の智恵を以て多少を籌量すとも其の辺を得ず」と説かれて、仏の御智恵すら此の人の功徳をばしろしめさず。仏の智恵のありがたさは、此の三千大千世界に七日、若しは二七日なんどふる雨の数をだにもしろしめして御坐し候なるが、只、法華経の一字を唱へたる人の功徳をのみ知ろしめさずと見えたり。何に況や、我等逆罪の凡夫の此の功徳をしり候ひなんや。
然りと云へども如来滅後二千二百余年に及んで、五濁さかりになりて年久し。事にふれて善なる事ありがたし。設ひ善を作す人も一の善に十の悪を造り重ねて、結句は小善につけて大悪を造り、心には大善を修したりと云ふ慢心を起こす世となれり。然るに如来の世に出でさせ給ひて候ひし国よりしては、二十万里の山海をへだてて、東によれる日域辺土の小島にうまれ、五障の雲厚うして、三従のきづなにつながれ給へる女人なんどの御身として、法華経を御信用候は、ありがたしなんどとも申すに限りなく候。凡そ一代聖教を披き見て、顕密二道を究め給へる様なる智者学匠だにも、近来(このごろ)は法華経を捨て念仏を申し候に、何なる御宿善ありてか、此の法華経を一偈一句もあそばす御身と生まれさせ給ひけん。されば此の御消息を拝し候へば、優曇華を見たる眼よりもめづらしく、一眼の亀の浮木の穴に値へるよりも乏しき事かなと、心ばかりは有りがたき御事に思ひまいらせ候間、一言一点も随喜の言を加へて、善根の余慶にもやとはげみ候へども、只恐らくは雲の月をかくし、塵の鏡をくもらすが如く、短く拙き言にて、殊勝にめでたき御功徳を申し隠し、くもらす事にや候らんと、いたみ思ひ候ばかりなり。
然りと云へども、貴命もだす(黙止)べきにあらず。一滴を江海に加へ、火を日月にそえて、水をまし光を添ふると思し食すべし。/ 先づ法華経と申すは八巻・一巻・一品・一偈・一句乃至題目を唱ふるも、功徳は同じ事と思し食すべし。譬へば大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり。如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす。百千万億の滴珠も又これ同じ。法華経は一字も一の滴珠の如し。乃至万億の字も又万億の滴珠の如し。諸経諸仏の一字一名号は、江河の一滴の水、山海の一石の如し。一滴に無量の水を備へず、一石に無数の石の徳をそなへもたず。若し然らば、此の法華経は何れの品にても御坐しませ、只御信用の御坐さん品こそめづらしくは候へ。総じて如来の聖教は、何れも妄語の御坐すとは承り候はねども、再び仏教を勘へたるに、如来の金言の中にも大小・権実・顕密なんど申す事、経文より事起こりて候。随って論師人師の釈義にあらあら見えたり。詮を取りて申さば、釈尊の五十余年の諸教の中に、先四十余年の説教は猶うたがはしく候ぞかし。仏自ら無量義経に「四十余年未だ真実を顕はさず」と申す経文まのあたり説かせ給へる故なり。法華経に於ては、仏自ら一句の文字を「正直に方便を捨てて但無上道を説く」と定めさせ給ひぬ。
其の上、多宝仏大地より涌出させ給ひて「妙法華経 皆是真実」と証明を加へ、十方の諸仏皆法華経の座にあつまりて、舌を出だして法華経の文字は一字なりとも妄語なるまじきよし助成をそへ給へり。譬へば大王と后と長者等の一味同心に約束をなせるが如し。/ 若し法華経の一字をも唱へん男女等、十悪・五逆・四重等の無量の重業に引かれて悪道におつるならば、日月は東より出でさせ給はぬ事はありとも、大地は反覆する事はありとも、大海の潮はみちひぬ事はありとも、破(われ)たる石は合ふとも、江河の水は大海に入らずとも、法華経を信じたる女人の、世間の罪に引かれて悪道に堕つる事はあるべからず。若し法華経を信じたる女人、物をねたむ故、腹のあしきゆへ、貪欲の深きゆへなんどに引かれて悪道に堕つるならば、釈迦如来・多宝仏・十方の諸仏、無量曠劫よりこのかた持ち来たり給へる不妄語戒忽ちに破れて、調達が虚誑罪にも勝れ、瞿伽利が大妄語にも超えたらん。争でかしかるべきや。法華経を持つ人憑もしく有りがたし。但し一生が間一悪をも犯さず、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・無量の戒を持ち、一切経をそらに浮かべ、一切の諸仏菩薩を供養し、無量の善根をつませ給ふとも、法華経計りを御信用なく、
又御信用はありとも諸経諸仏にも並べて思し食し、又並べて思し食さずとも、他の善根をば隙なく行じて時々法華経を行じ、法華経を用ゐざる謗法の念仏者なんどにも語らひをなし、法華経を末代の機に叶はずと申す者を科とも思し食さずば、一期の間行じさせ給ふ処の無量の善根も忽ちにうせ、並びに法華経の御功徳も且く隠れさせ給ひて、阿鼻大城に堕ちさせ給はん事、雨の空にとどまらざるが如く、峰の石の谷へころぶが如しと思し食すべし。十悪五逆を造れる者なれども、法華経に背く事なければ、往生成仏は疑ひなき事に侍り。一切経をたもち、諸仏菩薩を信じたる持戒の人なれども、法華経を用ゐる事無ければ、悪道に堕つる事疑ひなしと見えたり。予が愚見をもて近来の世間を見るに、多くは在家・出家・誹謗の者のみあり。/ 但し御不審の事、法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。又別に書き出だしてもあそばし候べく候。余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財の備はるが如し。
寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉。薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候ひて、余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候。/ 又御消息の状に云く、日ごとに三度づつ七つの文字を拝しまいらせ候事と、南無一乗妙典と一万遍申し候事とをば、日ごとにし候が、例の事に成りて候程は、御経をばよみまいらせ候はず。拝しまいらせ候事も一乗妙典と申し候事も、そらにし候は苦しかるまじくや候らん。それも例の事の日数の程は叶ふまじくや候らん。いく日ばかりにてよみまいらせ候はんずる等云云。/ 此の段は一切の女人ごとの御不審に常に問はせ給ひ候御事にて侍り。又古へも女人の御不審に付きて申したる人も多く候へども、一代聖教にさして説かれたる処のなきかの故に、証文分明に出だしたる人もおはせず。日蓮粗聖教を見候にも、酒肉五辛淫事なんどの様に、不浄を分明に月日をさして禁めたる様に、月水をいみたる経論を未だ勘へず候なり。在世の時、多く盛んの女人尼になり、仏法を行ぜしかども、月水の時と申して嫌はれたる事なし。
是れをもて推し量り侍るに、月水と申す物は外より来たれる不浄にもあらず、只女人のくせかたわ生死の種を継ぐべき理(ことわり)にや。又長病の様なる物なり。例せば屎尿なんどは人の身より出づれども能く浄くなしぬれば別にいみもなし。是れ体に侍る事か。されば印度・尸那なんどにもいたくいむよしも聞こえず。但し日本国は神国なり。此の国の習ひとして、仏菩薩の垂迹不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに、是れをそむけば現に当罰あり。委細に経論を勘へ見るに、仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是れに当たれり。此の戒の心は、いたう事かけざる事をば、少々仏教にたがふとも其の国の風俗に違ふべからざるよし、仏一つの戒を説き給へり。此の由を知らざる智者共、神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を申して、多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり。若し然らば此の国の明神、多分は此の月水をいませ給へり。生を此の国にうけん人々は大いに忌み給ふべきか。但し女人の日(ひび)の所作は苦しかるべからずと覚え候か。元より法華経を信ぜざる様なる人々が、経をいかにしても云ひうとめんと思ふが、さすがにただちに経を捨てよとは云ひえずして、身の不浄なんどにつけて、法華経を遠ざからしめんと思ふ程に、又不浄の時、此れを行ずれば経を愚かにしまいらするなんどをどして罪を得させ候なり。
此の事をば一切御心得候ひて、月水の御時は七日までも其の気の有らん程は、御経をばよませ給はずして、暗に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひ候へ。礼拝をも経にむかはせ給はずして拝せさせ給ふべし。又不慮に臨終なんどの近づき候はんには、魚鳥なんどを服せさせ給ひても候へ。よみぬべくば経をもよみ、及び南無妙法蓮華経とも唱へさせ給ひ候べし。又月水なんどは申すに及び候はず。又南無一乗妙典と唱へさせ給ふ事、是れ同じ事には侍れども、天親菩薩・天台大師等の唱へさせ給ひ候ひしが如く、只南無妙法蓮華経と唱へさせ給ふべきか。是れ子細ありてかくの如くは申し候なり。穴賢穴賢。/ 文永元年卯月十七日  日蓮花押/ 大学三郎殿御内御報。
◆ 題目弥陀名号勝劣事 〔C6・文永元年・大学三郎妻〕/ 南無妙法蓮華経と申す事は唱へがたく、南無阿弥陀仏、南無薬師如来なんど申す事は唱へやすく、又文字の数の程も大旨は同じけれども、功徳の勝劣は遥かに替はりて候なり。天竺の習ひ、仏出世の前には二天三仙の名号を唱へて天を願ひけるに、仏世に出でさせ給ひては仏の御名を唱ふ。然るに仏の名号を二天三仙の名号に対すれば、天の名は瓦礫のごとし、仏の名号は金銀如意宝珠等のごとし。又諸仏の名号は題目の妙法蓮華経に対すれば、瓦礫と如意宝珠の如くに侍るなり。然るを仏教の中の大小権実をも弁へざる人師なんどが、仏教を知りがほにして、仏の名号を外道等に対して如意宝珠に譬へたる経文を見、又法華経の題目を如意宝珠に譬へたる経文と喩への同じきをもて、念仏と法華経とは同じ事と思へるなり。同じ事と思ふ故に、又世間に貴しと思ふ人の只弥陀の名号計りを唱ふるに随ひて、皆人一期の間一日に六万遍十万遍なんど申せども、法華経の題目をば一期に一遍も唱へず。或は世間に智者と思はれたる人々、外には智者気にて内には仏教を弁へざるが故に、念仏と法華経とは只一なり。南無阿弥陀仏と唱ふれば法華経を一部よむにて侍るなんど申しあへり。
是れは一代の諸経の中に一句一字もなき事なり。設ひ大師先徳の釈の中より出でたりとも、且つは観心の釈か、且つはあて事か、なんど心得べし。法華経の題目は過去に十万億の生身の仏に値ひ奉りて、功徳を成就する人、初めて妙法蓮華経の五字の名を聞き、始めて信を致すなり。諸仏の名号は外道・諸天・二乗・菩薩の名号にあはすれば、瓦礫と如意宝珠の如くなれども、法華経の題目に対すれば、又瓦礫と如意宝珠との如し。当世の学者は法華経の題目と諸仏の名号とを功徳ひとしと思ひ、又同じ事と思へるは、瓦礫と如意宝珠とを同じと思ひ、一と思ふが如し。止観の五に云く「設ひ世を厭ふ者下劣の乗を翫びて枝葉に攀附す。狗作務に狎れ、猴を敬ひて帝釈と為し、瓦礫を崇めて是れ明珠とす。此れ黒闇の人なり。豈に道を論ずべけんや」等云云。文の心は設ひ世をいとひて出家遁世して山林に身をかくし、名利名聞をたちて一向に後世を祈る人々も、法華経の大乗をば修行せずして、権教下劣の乗につきたる名号等を唱ふるを、瓦礫を明珠なんどと思ひたる僻人に譬へ、闇き悪道に行くべき者と書かれて侍るなり。弘決の一には妙楽大師善住天子経をかたらせ給ひて、法華経の心を顕はして云く「法を聞いて謗を生じ地獄に堕するは恒沙の仏を供養する者に勝る」等云云。
法華経の名を聞いてそしる罪は、阿弥陀仏・釈迦仏・薬師仏等の恒河沙の仏を供養し名号を唱ふるにも過ぎたり。されば当世の念仏者の念仏を六万遍乃至十万遍申すなんど云へども、彼れにては終に生死をはなるべからず。法華経を聞くをば千中無一雑行未有一人得者なんど名づけて、或は抛てよ、或は門を閉ぢよ、なんど申す謗法こそ設ひ無間大城に堕つるとも、後に必ず生死は離れ侍らんずれ。同じくは今生に信をなしたらばいかによく候なん。/ 問ふ、世間の念仏者なんどの申す様は、此の身にて法華経なんどを破する事は争でか候べき。念仏を申すも、とくとく極楽世界に参りて法華経をさとらんが為なり。又或は云く、法華経は不浄の身にては叶ひがたし、恐れもあり。念仏は不浄をも嫌はねばこそ申し候へ、なんど申すはいかん。答へて云く、此の四五年の程は、世間の有智無智を嫌はず此の義をばさなんめりと思ひて過ぐる程に、日蓮一代聖教をあらあら引き見るに、いまだ此の二義の文を勘へ出ださず。詮ずるところ、近来の念仏者並びに有智の明匠とおぼしき人々の、臨終の思ふやうにならざるは是れ大謗法の故なり。人ごとに念仏申して、浄土に生まれて法華経をさとらんと思ふ故に、穢土にして法華経を行ずる者をあざむき、又行ずる者もすてて念仏を申す心は出で来たるなりと覚ゆ。謗法の根本此の義より出でたり。
法華経こそ此の穢土より浄土に生ずる正因にては侍れ。念仏等は未顕真実の故に、浄土の直因にはあらず。然るに浄土の正因をば極楽にして、後に修行すべき物と思ひ、極楽の直因にあらざる念仏をば浄土の正因と思ふ事僻案なり。浄土門は春沙を田に蒔きて秋米を求め、天月をすてて水に月を求むるに似たり。人の心に叶ひて法華経を失ふ大術、此の義にはすぎず。次に不浄念仏の事。一切念仏者の師とする善導和尚・法然上人は、他事にはいわれなき事多けれども、此の事にをいてはよくよく禁められたり。善導の観念法門経に云く「酒肉五辛を手に取らざれ、口にかまざれ。手にとり口にもかみて念仏を申さば、手と口に悪瘡付くべし」と禁め、法然上人は起請を書きて云く「酒肉五辛を服して念仏を申さば予が門弟にあらず」云云。不浄にして念仏を申すべしとは当世の念仏者の大妄語なり。問うて云く、善導和尚・法然上人の釈を引くは彼の釈を用ゐるや否や。答へて云く、しからず。念仏者の師たる故に、彼れがことば己が祖師に相違するが故に、彼の祖師の禁めをもて彼れを禁むるなり。例せば世間の沙汰の彼れが語の彼の文書に相違するを責むるが如し。/ 問うて云く、善導和尚・法然上人には何事の失あれば用ゐざるや。答へて云く、仏の御遺言には、我が滅度の後には四依の論師たりといへども、法華経にたがはば用ゐるべからずと、涅槃経に返す返す禁め置かせ給ひて侍るに、
法華経には我が滅度の後末法に諸経失せて後、殊に法華経流布すべき由一所二所ならず、あまたの所に説かれて侍り。随って天台・妙楽・伝教・安然等の義に此の事分明なり。然るに善導・法然、法華経の方便の一分たる四十余年の内の未顕真実の観経等に依りて、仏も説かせ給はぬ我が依経の読誦大乗の内に法華経をまげ入れて、還りて我が経の名号に対して読誦大乗の一句をすつる時、法華経を抛てよ、門を閉ぢよ、千中無一なんど書きて侍る僻人をば、眼あらん人是れをば用ゐるべしやいなや。/ 疑って云く、善導和尚は三昧発得の人師、本地阿弥陀仏の化身、口より化仏を出だせり。法然上人は本地大勢至菩薩の化身、既に日本国に生まれては念仏を弘めて、頭より光を現ぜり。争でか此等を僻人と申さんや。又善導和尚・法然上人は汝が見る程の法華経並びに一切経をば見給はざらんや。定めて其の故是れあらんか。答へて云く、汝が難ずる処をば世間の人々定めて道理と思はんか。是れ偏に法華経並びに天台妙楽等の実経実義を述べ給へる文義を捨て、善導法然等の謗法の者にたぼらかされて、年久しくなりぬるが故に思はする処なり。先づ通力ある者を信ぜば、外道・天魔を信ずべきか。或外道は大海を吸ひ干し、或外道は恒河を十二年まで耳に湛へたり。第六天の魔王は三十二相を具足して仏身を現ず。
阿難尊者、猶魔と仏とを弁へず。善導・法然が通力いみじしというとも、天魔・外道には勝れず。其の上仏の最後の禁めに、通を本とすべからずと見えたり。次に善導・法然は一切経、並びに法華経をばおのれよりも見たりなんどの疑ひ、是れ又謗法の人のためには、さもと思ひぬべし。然りといへども、如来の滅後には先の人は多分賢きに似て、後の人は大旨ははかなきに似たれども、又先の世の人の世に賢き名を取りてはかなきも是れあり。外典にも、三皇・五帝・老子・孔子の五経等を学びて賢き名を取れる人も、後の人にくつがへされたる例是れ多きか。内典にも又かくの如し。仏法漢土に渡りて五百年の間は明匠国に充満せしかども、光宅の法雲・道場の恵観等には過ぎざりき。此等の人々は名を天下に流し、智水を国中にそそぎしかども、天台智者大師と申せし末の人、彼の義どもの僻事なる由を立て申せしかば、初めには用ゐず。後には信用を加へし時、始めて五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えしなり。日本国にも仏法渡りて二百余年の間は、異義まちまちにして、何れを正義とも知らざりし程に、伝教大師と申す人に破られて、前二百年の間の私義は破られしなり。其の時の人々も当時の人の申す様に、争でか前々の人は一切経並びに法華経をば見ざるべき。
定めて様こそあるらめ、なんど申しあひたりしかども叶はず。経文に違ひたりし義どもなれば終に破れて止みにき。当時も又かくの如し。此の五十余年が間は善導の千中無一、法然が捨閉閣抛の四字等は、権者の釈なればゆへこそあらんと思ひて、ひら信じに信じたりし程に、日蓮が法華経の或は「悪世末法」時、或は「於後末世」、或は「令法久住」等の文を引きむかへて相違をせむる時、我が師の私義破れて疑ひあへるなり。詮ずるところ、後五百歳の経文の誠なるべきかの故に、念仏者の念仏をもて法華経を失ひつるが、還りて法華経の弘まらせ給ふべきかと覚ゆ。但し御用心の御為に申す。世間の悪人は魚鳥鹿等を殺して世路を渡る。此等は罪なれども仏法を失ふ縁とはならず。懺悔をなさざれば三悪道にいたる。又魚鳥鹿等を殺して売買をなして善根を修する事もあり。此等は世間には悪と思はれて遠く善となる事もあり。仏教をもて仏教を失ふこそ失ふ人も失ふとも思はず。只善を修すると打ち思ひて、又そばの人も善と打ち思ひてある程に、思はざる外に悪道に堕つる事の出で来候なり。当世には念仏者なんどの日蓮に責め落とされて、我が身は謗法の者なりけりと思ふ者も是れあり。/ 聖道の人々の御中にこそ実の謗法の人々は侍れ。彼の人々の仰せらるる事は、法華経を毀る念仏者も不思議なり、念仏者を毀る日蓮も奇怪なり。
念仏と法華とは一体の物なり。されば法華経を読むこそ念仏を申すよ、念仏申すこそ法華経を読むにては侍れと思ふ事に候なりと、かくの如く仰せらるる人々、聖道の中にあまたをはしますと聞こゆ。随って檀那も此の義を存じて、日蓮並びに念仏者をおこがましげに思へるなり。先づ日蓮が是れ程の事をしらぬと思へるははかなし。仏法漢土に渡り初めし事は後漢の永平なり。渡りとどまる事は唐の玄宗皇帝開元十八年なり。渡れるところの経律論五千四十八巻、訳者一百七十六人。其の経々の中に、南無阿弥陀仏は即ち南無妙法蓮華経なりと申す経は、一巻一品もおはしまさざる事なり。其の上、阿弥陀仏の名を仏説き出だし給ふ事は、始め華厳より終り般若経に至るまで、四十二年が間に所々に説かれたり。但し阿含経をば除く。一代聴聞の者是れを知れり。妙法蓮華経と申す事は仏の御年七十二、成道より已来四十二年と申せしに、霊山にましまして無量義処三昧に入り給ひし時、文殊弥勒の問答に過去の日月灯明仏の例を引きて、「我見灯明仏、乃至欲説法華経」と先例を引きたりし時こそ、南閻浮提の衆生は法華経の御名をば聞き初めたりしか。三の巻の心ならば、阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時、十六の王子として法華経を習ひて、後に正覚をならせ給へりと見えたり。
弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は、妙法蓮華経の五字を習ひてこそ仏にはならせ給ひて侍れ。全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給ひたりとは見えず。妙法蓮華経は能開なり。南無阿弥陀仏は所開なり。能開所開を弁へずして、南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり。/ 日蓮幼少の時、習ひそこなひの天台宗真言宗に教へられて、此の義を存じて数十年の間ありしなり。是れ存外の僻案なり。但し人師の釈の中に、一体と見えたる釈どもあまた侍る。彼れは観心の釈か。或は仏の所証の法門につけて述べたるを、今の人弁へずして、全体一なりと思ひて、人を僻人に思ふなり。御景迹(ごきょうざく)あるべきなり。念仏と法華経と一つならば、仏の念仏説かせ給ひし観経等こそ如来出世の本懐にては侍らめ。彼れをば本懐ともをぼしめさずして、法華経を出世の本懐と説かせ給ふは、念仏と一体ならざる事明白なり。其の上多くの真言宗・天台宗の人々に値ひ奉りて候ひし時、此の事を申しければ、されば僻案にて侍りけりと申す人是れ多し。敢へて証文に経文を書きて進ぜず候はん限りは御用ゐ有るべからず。是れこそ謗法となる根本にて侍れ。あなかしこあなかしこ。
日蓮花押
◆ 法華真言勝劣事 〔C5・文永九~一〇年頃〕/ 東寺の弘法大師空海の所立に云く、法華経は猶華厳経に劣れり、何に況や大日経等に於てをや云云。慈覚大師円仁・智証大師円珍・安然和尚等の云く、法華経の理は大日経に同じ、印と真言との事に於ては是れ猶劣れるなり云云〈其の所釈余処に之れを出だす〉。/ 空海は大日経・菩提心論等に依りて、十住心を立て顕密の勝劣を判ず。其の中に第六に他縁大乗心は法相宗、第七に覚心不生心は三論宗、第八に如実一道心は天台宗、第九に極無自性心は華厳宗、第十に秘密荘厳心は真言宗なり。此の所立の次第は浅きより深きに至る。其の証文は大日経の住心品と菩提心論とに出づと云へり。然るに出だす所の大日経の住心品を見て他縁大乗・覚心不生・極無自性を尋ぬるに名目は経文に之れ有り。然りと雖も他縁・覚心・極無自性の三句を法相・三論・華厳に配する名目は之れ無し。其の上覚心不生と極無自性との中間に如実一道の文義共に之れ無し。但し此の品の初めに「云何なるか菩提。謂く如実に自心を知る」等の文之れ有り。此の文を取りて此の二句の中間に置きて天台宗と名づけ、華厳宗に劣るの由之れを存す。住心品に於ては全く文義共に之れ無し。有文有義無文有義の二句を虧(か)く信用に及ばず。
菩提心論の文に於ても法華・華厳の勝劣都て之れを見ざる上、此の論は竜猛菩薩の論と云ふ事、上古より諍論之れ有り。此の諍論絶えざる已前に亀鏡に立つる事は竪(りゅう)義の法に背く。其の上、善無畏・金剛智等評定有りて大日経の疏義釈を作れり。一行阿闍梨の執筆なり。此の疏義釈の中に諸宗の勝劣を判ずるに、法華経と大日経とは広略の異なりと定め畢んぬ。空海の徳貴しと雖も争でか先師の義に背くべきやと云ふ難此れ強し〈此れ安然の難なり〉。之れに依りて空海の門人之れを陳するに旁(かたがた)陳答之れ有り。或は守護経、或は六波羅蜜経、或は楞伽経、或は金剛頂経等に見ゆと多く会通すれども総じて難勢を免れず。然りと雖も東寺の末学等大師の高徳を恐るるの間、強ちに会通を加へんとすれども結句会通の術計之れ無く、問答の法に背きて伝教大師最澄は弘法大師の弟子なり云云。又宗論の甲乙等旁(かたがた)論ずる事之れ有りと云云。/ 日蓮案じて云く、華厳宗の杜順・智儼・法蔵等、法華経の「始見今見」の文に就きて法華華厳斉等の義之れを存す。其の後澄観始今の文に依りて斉等の義を存すること、祖師に違せず。其の上一往の弁を加へ、法華と華厳と斉等なり。但し華厳は法華経より先なり。
華厳経の時仏最初に法恵功徳林等の大菩薩に対して出世の本懐之れを遂ぐ。然れども二乗並びに下賤の凡夫等根機未熟の故に之れを用ゐず。阿含・方等・般若等の調熟に依りて還りて華厳経に入らしむ。此れを今見の法華経と名づく。大陣を破るに余残堅からざる如し等。然れば実に華厳経は法華経に勝れたり等云云。本朝に於て勤操等に値ひて此の義を習学して後天台真言を学すと雖も旧執を改めざるが故に此の義を存するか。何に況や華厳経の法華経に勝るの由は陳隋より已前、南三北七皆此の義を存す。天台已後も又諸宗此の義を存せり。但弘法一人に非ざるか。但し澄観「始見今見」の文に依りて華厳経は法華経より勝ると料簡する才覚に於ては、天台智者大師涅槃経の「是経出世乃至如法華中」等の文に依りて法華・涅槃斉等の義を存するのみに非ず、又勝劣の義を存すれば此の才覚を学びて此の義を存するか。此の義若し僻案ならば空海の義も又僻見なるべきなり。/ 天台真言の書に云く「法華経と大日経とは広略の異なり。略とは法華経なり。大日経と斉等の理なりと雖も印真言之れを略する故なり。広とは大日経なり。極理を説くのみに非ず印真言をも説ける故なり。又法華経と大日経とに同劣の二義有り。謂く理同事劣なり。又二義有り。一には大日経は五時の摂なり。是れ与の義なり。二には大日経は五時の摂に非ず。是れ奪の義なり」。
又云く「法華経は譬へば裸形の猛者の如し。大日経は甲冑を帯せる猛者なり」等云云。又云く「印真言無きは其の仏を知るべからず」等云云。/ 日蓮不審して云く、何を以て之れを知る、理は法華経と大日経と斉等なりと云ふ事を。答へて云く、疏と義釈並びに慈覚智証等の所釈に依るなり。求めて云く、此等の三蔵大師等は又何を以て之れを知るや、理は斉等の義なりと。答へて云く、三蔵大師等をば疑ふべからず等云云。難じて云く、此の義論義の法に非ざる上、仏の遺言に違背す。慥かなる経文を出だすべし。若し経文無くんば義分無かるべし 如何。答ふ威儀形色経・瑜祇経・観智儀軌等なり。文は口伝すべし。問うて云く、法華経に印真言を略すとは仏よりか、経家よりか、訳者よりか。答へて云く、或は仏と云ひ、或は経家と云ひ、或は訳者と云ふなり。不審して云く、仏より真言印を略して法華経と大日経と理同事勝の義之れ有りといはば、此の事何れの経文ぞや。文証の所出を知らず我意の浮言ならば之れを用ゐるべからず。若し経家訳者より之れを略すといはば、仏説に於ては何ぞ理同事勝の釈を作るべきや。法華経と大日経とは全体斉なり。能く能く子細を尋ぬべきなり。
私に日蓮云く、威儀形色経瑜祇経等の文の如くんば仏説に於ては法華経に印真言有るか。若し爾らば、経家訳者之れを略せるか。六波羅蜜経の如きは経家之れを略す。旧訳の仁王経の如きは訳者之れを略せるか。若し爾らば、天台真言の理同事異の釈は経家並びに訳者の時より法華経大日経の勝劣なり。全く仏説の勝劣に非ず。此れ天台真言の極なり。天台宗の義勢才覚の為に此の義を難ず。天台真言の僻見此の如し。東寺所立の義勢は且く之れを置く。僻見眼前の故なり。抑 天台真言宗の所立の理同事勝に二難有り。一には法華経と大日経と理同の義、其の文全く之れ無し。法華経と大日経と先後 如何。既に義釈に二経の前後之れを定め畢りて、法華経は先、大日経は後なりと云へり。若し爾らば、大日経は法華経の重説なり、流通なり。一法を両度之れを説くが故なり。若し所立の如くんば、法華経の理を重ねて之れを説くを大日経と云ふ。然れば則ち法華経と大日経と敵論の時は大日経の理之れを奪って法華経に付くべし。但し大日経の得分は但印真言計りなり。印契は身業、真言は口業なり。身口のみにして意無くば印真言有るべからず。手口等を奪って法華経に付けなば、手無くして印を結び口無くして真言を誦せば、虚空に印真言を誦結すべきか 云何。
裸形の猛者と甲冑を帯せる猛者との譬への事。裸形の猛者の進みて大陣を破ると、甲冑を帯せる猛者の退きて一陣をも破らざるとは何れが勝るるや。又猛者は法華経なり。甲冑は大日経なり。猛者無くんば甲冑何の詮か之れ有らん。此れは理同の義を難ずるなり。次に事勝の義を難ぜば。法華経には印真言無く、大日経には印真言之れ有りと云云。印契真言の有無に付きて二経の勝劣を定むるに、大日経に印真言有りて法華経に之れ無き故に劣ると云はば、阿含経には世界建立・賢聖の地位、是れ分明なり。大日経には之れ無し。若し爾らば大日経は阿含経より劣るか。双観経等には四十八願是れ分明なり。大日経に之れ無し。般若経には十八空是れ分明なり。大日経には之れ無し。此等の諸経に劣ると云ふべきか。/ 又印真言無くんば仏を知るべからず等云云。今反詰して云く、理無くんば仏有るべからず。仏無くんば印契真言一切徒然と成るべし。彼れ難じて云く、賢聖並びに四十八願等をば印真言に対すべからず等云云。今反詰して云く、最上の印真言之れ無くば法華経は大日経等よりも劣るか。若し爾らば、法華経には二乗作仏・久遠実成之れ有り。大日経には之れ無し。印真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥なり。
諸経に印真言を簡ばざるに大日経之れを説いて何の詮か有るべきや。二乗若し灰断の執を改めずんば印真言も無用なり。一代の聖教に皆二乗を永不成仏と簡ぶ、随って大日経にも之れを隔つ。皆成仏までこそ無からめ三分が二之れを捨て、百分が六十余分得道せずんば仏の大悲何かせん。凡そ理の三千之れ有りて成仏すと云ふ上には、何の不足か有るべき。成仏に於ては唖なる仏・中風の覚者は之れ有るべからず。之れを以て案ずるに印真言は規模無きか。又諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕はさず。本無今有の失有れば大日如来は有名無実なり。寿量品に此の旨を顕はす。釈尊は天の一月諸仏菩薩は万水に浮かべる影なりと見えたり。委細の旨は且く之れを置く。/ 又印真言無くんば、祈祷有るべからずと云云。是れ又以ての外の僻見なり。過去現在の諸仏法華経を離れて成仏すべからず。法華経を以て正覚成り給ふ。法華経の行者を捨て給はば諸仏還りて凡夫と成り給ふべし。恩を知らざる故なり。又未来の諸仏の中の二乗も法華経を離れては永く枯木敗種なり。今は再生なり。華果なり。他経の行者と相論を為す時は華光如来・光明如来等は何れの方に付くべきや。
華厳経等の諸経の仏・菩薩・人天乃至四悪趣等の衆は皆法華経に於て、一念三千久遠実成の説を聞いて正覚を成ずべし。何れの方に付くべきや。真言宗等と外道並びに小乗権大乗の行者等と敵対相論を為すの時は甲乙知り難し。法華経の行者に対する時は竜と虎と師子と兎との闘ひの如く、諍論分絶えたる者なり。恵亮脳を破りし時次弟位に即き、相応加持する時真済の悪霊伏せらるる等是れなり。一向真言の行者は法華経の行者に劣れる証拠是れなり。/ 問うて云く、義釈の意は法華経・大日経共に二乗作仏・久遠実成を明かすや 如何。答へて云く、共に之れを明かす。義釈に云く「此の経の心の実相は彼の経の諸法実相なり」云云。又云く「本初は是れ寿量の義なり」等云云。問うて云く、華厳宗の義に云く、華厳経には二乗作仏・久遠実成之れを明かす。天台宗は之れを許さず。宗論は且く之れを置く。人師を捨てて本経を存せば、華厳経に於ては二乗作仏・久遠実成の相似の文之れ有りと雖も、実には之れ無し。之れを以て之れを思ふに義釈には大日経に於て二乗作仏・久遠実成を存すと雖も実には之れ無きか 如何。答へて云く、華厳経の如く相似の文之れ有りと雖も実義之れ無きか。
私に云く、二乗作仏無くんば、四弘誓願満足すべからず。四弘誓願満ぜずんば又別願も満ずべからず。総別の二願満ぜずんば衆生の成仏も有り難きか。能く能く意得べし云云。問うて云く、大日経の疏に云く「大日如来は無始無終なり」。遥かに五百塵点に勝れたり 如何。答ふ、毘盧遮那の無始無終なる事華厳・浄名・般若等の諸大乗経に之れを説く。独り大日経のみに非ず。問うて云く、若し爾らば、五百塵点は際限有れば有始有終なり。無始無終は際限無し。然れば則ち法華経は諸経に破せらるるか 如何。答へて云く、他宗の人は此の義を存す。天台一家に於て此の難を会通する者有り難きか。今大日経並びに諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり。三身の無始無終に非ず。法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之れを破りたる五百塵点なり。大日経等の諸大乗経には全く此の義無し。宝塔の涌現、地涌の涌出、弥勒の疑ひ、寿量品の初めの三誡四請。弥勒菩薩領解の文に「仏希有の法を説きたまふ、昔より未だ曾て聞かざる所なり」等の文是れなり。大日経六巻並びに供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地経等の諸の真言部の経の中に、未だ三止四請三誡四請、二乗の劫国名号、難信難解等の文を見ず。
問うて云く、五乗の真言 如何。答ふ、未だ二乗の真言を知らず。四諦・十二因縁の梵語のみ有るなり。又法身平等に会すること有らんや。/ 問うて云く、慈覚・智証等理同事勝の義を存す。争でか此等の大師等に過ぎんや。答へて云く、人を以て人を難ずるは仏の誡めなり。何ぞ汝仏の制誡に違背するや。但経文を以て勝劣の義を存すべし。難じて云く、末学の身として祖師の言に背かば之れを難ぜざらんや。答ふ、末学の祖師に違する之れを難ぜば、何ぞ智証・慈覚の天台・妙楽に違するを何ぞ之れを難ぜざるや。問うて云く、相違 如何。答へて云く、天台妙楽の意は已今当の三説の中に法華経に勝れたる経之れ有るべからず。若し法華経に勝れたる経之れ有りといわば一宗の宗義之れを壊るべきの由之れを存す。若し大日経法華経に勝るといわば、天台・妙楽の宗義忽ちに破るべきか。問うて云く、天台妙楽の已今当の宗義証拠経文に有りや。答へて云く、之れ有り。法華経法師品に云く「我が所説の経典は無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん、而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」等云云。此の経文の如くんば、五十余年の釈迦所説の一切経の内には法華経は最第一なり。
難じて云く、真言師の云く、法華経は釈迦所説の一切経の中に第一なり。大日経は大日如来所説の経なりと。答へて云く、釈迦如来より外に大日如来閻浮提に於て八相成道して大日経を説けるか〈是一〉。六波羅蜜経に云く「過去現在並びに釈迦牟尼仏の所説の諸経を分かちて五蔵と為し其の中の第五の陀羅尼蔵は真言なり」。真言の経釈迦如来の所説に非ずといはば、経文に違す〈是二〉。「我が所説の経典」等の文は釈迦如来の正直捨方便の説なり。大日如来の証明、分身の諸仏広長舌相の経文なり〈是三〉。五仏の章、尽く諸仏皆法華経を第一なりと説き給ふ〈是四〉。「要を以て之れを言はば、如来の一切の所有の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説す」等云云。此の経文の如くならば法華経は釈迦所説の諸経の第一なるのみに非ず大日如来十方無量諸仏の諸経の中に法華経第一なり。此の外一仏二仏の所説の諸経の中に法華経に勝れたるの経之れ有りと云はば信用すべからず〈是五〉。大日経等の諸の真言経の中に法華経に勝れたる由の経文之れ無し〈是六〉。仏より外の天竺・震旦・日本国の論師・人師の中に天台大師より外の人師の所釈の中に一念三千の名目之れ無し。若し一念三千を立てざれば性悪の義之れ無し。
性悪の義之れ無くんば仏菩薩の普現色身、不動愛染等の降伏の形、十界の曼荼羅、三十七尊等本無今有の外道の法に同じきか〈是七〉。問うて云く、七義の中一々の難勢之れ有り。然りと雖も六義は且く之れを置く。第七の義 如何。華厳の澄観・真言の一行等皆性悪の義を存す。何ぞ諸宗に此の義無しと云ふや。答へて云く、華厳の澄観・真言の一行は天台所立の義を盗みて自宗の義と成すか。此の事余処に勘へたるが如し。/ 問うて云く、天台大師の玄義の三に云く「法華は衆経を総括す。乃至舌口中に爛る。人情を以て彼の大虚を局(かぎ)る莫れ」等云云。釈籖の三に云く「法華宗極の旨を了せずして、声聞に記する事相のみ華厳般若の融通無碍なるに如かずと謂ふ。諫暁すれども止まず。舌の爛れんこと何ぞ疑はん。乃至、已今当の妙、茲に於て固く迷へり。舌爛れて止まざるは猶華報と為す。謗法の罪苦長劫に流る」等云云。若し天台妙楽の釈、実ならば、南三北七並びに華厳・法相・三論・東寺の弘法等舌爛れんこと何の疑ひ有らんや。乃至苦流長劫の者なるか。是れは且く之れを置く。慈覚・智証等の親り此の宗義を承けたる者、法華経は大日経より劣の義存すべし。若し其の義ならば、此の人々の「舌爛口中苦流長劫」は 如何。
答へて云く、此の義は最上の難の義なり。口伝に在り云云。/ 文永元年〈甲子〉七月九日之れを記す  日蓮花押
◆ 当世念仏者無間地獄事 〔C6・文永元年九月二二日・浄円房〕/ 安房国長狭郡東条花房の郷蓮華寺に於て、浄円房に対して、日蓮阿闍梨之れを注す。文永元年〈甲子〉九月二十二日。/ 問うて曰く、当世の念仏者無間地獄と云ふ事。其の故 如何。答へて云く、法然の選択に就きて云ふなり。問うて云く、其の選択の意 如何。答へて曰く、後鳥羽院の治天下建仁年中日本国に一の彗星出だせり。名を源空法然と曰ふ。選択一巻を記して六十余紙に及べり。科段を十六に分つ。第一段の意は、道綽禅師の安楽集に依りて、聖道浄土の名目を立つ。其の聖道門とは、浄土の三部経等を除きて自余の大小乗の一切経、殊には朝家帰依の大日経・法華経・仁王経・金光明経等の顕密の諸大乗経の名目、阿弥陀仏より已外の諸仏・菩薩・朝家御帰依の真言等の八宗の名目、之れを挙げて聖道門と名づく。此の諸経・諸仏・諸宗は正像の機に値ふと雖も、末法に入りて之れを行ぜん者一人も生死を離るべからずと云云。又曇鸞法師の往生論注に依りて難易の二行を立つ。第二段の意は、善導和尚の五部九巻の書に依りて正雑二行を立つ。其の雑行とは道綽の聖道門の料簡の如し。又此の雑行は末法に入りては往生を得る者千中に一も無きなり。
下の十四段には或は聖道・難行・雑行をば小善根・随他意・有上功徳等と名づけ、念仏等を以ては大善根・随自意・無上功徳等と名づけて、念仏に対して末代の凡夫此れを捨てよ此の門を閉じよ之れを閣けよ之れを抛てよ等の四字を以て之れを制止す。而るに日本国中の無智の道俗を始めて大風に草木の従ふが如く皆此の義に随ひて、忽ちに法華真言等に随喜の意を止め、建立の思ひを廃す。而る間人毎に平形の念珠を以て弥陀の名号を唱へ、或は毎日三万遍・六万遍・十万遍・四十八万遍・百万遍等唱ふる間又他の善根も無く、念仏堂を造ること稲麻竹葦の如し。結句は法華・真言等の智者とおぼしき人々も皆或は帰依を受けんが為、或は往生極楽の為に、皆本宗を捨てて念仏者と成り。或は本宗ながら念仏の法門を仰げるなり。/ 今云く、日本国中の四衆の人々は形は異なり替ると雖も意根は皆一法を行じて悉く西方の往生を期す。仏法繁昌の国と見えたる処に一の大なる疑ひを発する事は、念仏宗の亀鏡と仰ぐべき智者達、念仏宗の大檀那為る大名小名並びに有徳の者、多分は臨終思ふ如くならざるの由之れを聞き之れを見る。而るに善導和尚十即十生と定め、十遍乃至一生の間念仏者は一人も漏れず往生を遂ぐべしと見えたり。人の臨終と善導の釈とは水火なり。
爰に念仏者会して云く、往生に四有り。一には意念往生、般舟三昧経に出でたり。二には正念往生、阿弥陀経に出でたり。三には無記往生、群疑論に出でたり。四には狂乱往生、観経の下品下生に出でたり。詰(なじ)りて曰く、此の中の意・正の二は且く之れを置く。無記往生は何れの経論に依りて懐感禅師之れを書けるや。経論に之れ無くば信用取り難し。第四の狂乱往生とは引証は観経の下品下生の文なり。第一に悪人臨終の時、妙法を覚れる善知識に値ひて覚る所の諸法実相を説かしめて、之れを聞く者正念存し難く、十悪・五逆・具諸不善の苦に逼められて妙法を覚ることを得ざれば、善知識実相の初門と為る故に、称名して阿弥陀仏を念ぜよと云ふに音を揚げて唱へ了んぬ。此れは苦痛に堪へ難くして正念を失ふ、狂乱の者に非ざるか。狂乱の者争でか十念を唱ふべき。例せば正念往生の所摂なり。全く狂乱の往生には例すべからず。而るに汝等が本師と仰ぐ所の善導和尚は此の文を受けて転教口称とは云へども狂乱往生とは云はず。其の上汝等が昼夜十二時に祈る所の願文に云く「願はくは弟子等命終の時に臨みて心顛倒せず心錯乱せず、心失念せず、身心諸の苦痛無く、身心快楽禅定に入るが如し」等云云。此の中に錯乱とは狂乱か。
而るに十悪五逆を作らざる当世の念仏の上人達並びに大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並びに臨終の狂乱は意得ざる事なり。而るに善導和尚の十即十生と定め。又定得往生等の釈の如きは疑ひ無きの処。十人に九人往生すと雖も一人往生せざれば猶不審発るべし。何に況や念仏宗の長者為る善恵・隆観・聖光・薩生・南無・真光等皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱して死するの由之れを聞き又之れを知る。其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず。善導和尚の定むる所の十即十生は欠けて嫌へる所の千中無一と成りぬ。千中無一と定められし法華・真言の行者は粗ぼ臨終の正念なる由之れを聞けり。/ 念仏の法門に於ては正像末の中には末法に殊に流布すべし。利根鈍根・善人悪人・持戒破戒等の中には鈍根・悪人・破戒等殊に往生すべしと見えたり。故に道綽禅師は唯有浄土一門と書かれ、善導和尚は十即十生と定め、往生要集には濁世末代の目足と云へり。念仏は時機已に叶へり。行ぜん者空しかるべからざるの処に、是の如きの相違は大なる疑ひなり。若し之れに依りて本願を疑はば仏説を疑ふに成りぬ。進退惟谷(これきわ)まれり。此の疑ひを以て念仏宗の先達並びに聖道の先達に之れを尋るに一人として答ふる人之れ無し。
念仏者救ひて云く、汝は法然上人の捨閉閣抛の四字を謗法と過むるか。汝が小智の及ばざる所なり。故に上人此の四字を私に之れを書くと思へるか。源(もと)曇鸞・道綽・善導の三師の釈より之れを出だしたり。三師の釈又私に非ず。源(もと)浄土三部経・竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出づ。双観経の上巻に云く「設ひ我仏を得、乃至十念」等云云。第十九の願に云く「設ひ我仏を得、諸の功徳を修め菩提心を発す」等云云。下巻に云く「乃至一念」等云云。第十八の願成就の文なり。又下巻に云く「其の上輩者一向専念・其の中輩者一向専念・其の下輩者一向専念」云云。此れは十九願成就の文なり。観無量寿経に云く「仏阿難に告げたまはく、汝好く是の語を持て。是の語を持つ者は即ち是れ無量寿仏の名を持つ」等云云。阿弥陀経に云く「小善根を以てすべからず。乃至一日七日」等云云。先づ双観経の意は念仏往生・諸行往生と説けども一向専念と云ひて諸行往生を捨て了んぬ。故に弥勒の付属には一向に念仏を付属し了んぬ。観無量寿経の十六観も上の十五の観は諸行往生・下輩の一観の三品は念仏往生なり。仏阿難尊者に念仏を付属するは諸行を捨つる意なり。阿弥陀経には、双観経の諸行・観無量寿経の前十五観を束ねて小善根と名づけ往生を得ざるの法と定め畢んぬ。
双観経には念仏をば無上功徳と名づけて弥勒に付属し、観経には念仏をば芬陀利華と名づけて阿難に付属し、阿弥陀経には、念仏をば大善根と名づけて舎利弗に付属す。終りの付属は一経の肝心を付属するなり。又一経の名を付属するなり。三部経には諸の善根多しと雖も其の中に念仏最もなり。故に題目には無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経等と云へり。釈摩訶衍論・法華論等の論を以て之れを勘ふるに、一切経の初めには必ず南無の二字有り。梵本を以て之れを言はば三部経の題目には南無之れ有り。双観経の修諸の二字に念仏より外の八万聖教残るべからず。観無量寿経の三福九品等の読誦大乗の一句に一切経残るべからず。阿弥陀経の念仏の大善根に対する小善根の語に法華経等漏るべきや。総じて浄土の三部経の意は行者の意楽に随はんが為に暫く諸行を挙ぐと雖も、再び念仏に対する時は諸行の門を閉じて捨閉閣抛する事顕然なり。例せば法華経を説かんが為に無量義経を説くの時に、四十余年の経を捨てて法華の門を開くが如し。竜樹菩薩十住毘婆沙論を造りて一代聖教を難易の二道に分かてり。難行道とは三部経の外の諸行なり。易行道とは念仏なり。/ 経論此の如く分明なりと雖も震旦の人師此の義を知らず。唯善導一師のみ此の義を発得せり。
所以に双観経の三輩を観念法門に書きて云く「一切衆生根性不同にして上中下有り。其の根性に随ひて仏皆無量寿仏の名を専念することを勧む」等云云。此の文の意は、発菩提心修諸功徳等の諸行は他力本願の念仏に値はざりし以前に修する事よと有りけるを忽ちに之れを捨てよと云ふとも行者用ゐるべからざる故に暫く諸行を許すなり。実には念仏を離れて諸行を以て往生を遂ぐる者之れ無しと書きしなり。観無量寿経の仏告阿難等の文を善導の疏の四に之れを受けて曰く「上来に定散両門を説くと雖も仏の本願に望むれば意衆生の一向に専ら弥陀仏の名を称するに在り」云云。定散とは八万の権実顕密の諸経を尽くして之れを摂して念仏に対して之れを捨つるなり。善導の法事讃に阿弥陀経の大小善根の故を釈して云く「極楽は無為涅槃界なり。随縁の雑善恐らくは生じ難し。故に如来要法を選びて教へて弥陀専修を念ぜしむ」等云云。諸師の中に三部経の意を得たる人は但導一人のみなり。如来の三部経に於ては是の如く有れども、正法・像法の時は根機猶利根の故に諸行往生の機も之れ有りけるか。然るに機根衰へて末法と成る間、諸行の機漸く失せ念仏の機と成れり。更に阿弥陀如来善導和尚と生まれて震旦に此の義を顕はす。和尚日本に生まれて初めは叡山に入りて修行し、後には叡山を出でて一向に専修念仏して三部経の意を顕はし給ひしなり。
汝捨閉閣抛の四字を謗法と過むること未だ導和尚の釈並びに三部経の文を窺はざるか。狗の雷を齧むが如く地獄の業を増す。汝知らずんば浄土家の智者に問へ。/ 不審して云く、上の所立の義を以て法然の捨閉閣抛の謗言を救ふか。実に浄土の三師並びに竜樹菩薩仏説により此の三部経の文を開くに、念仏に対して諸行を傍と為す事粗経文に之れ見えたり。経文に嫌はれし程の諸行念仏に対して之れを嫌はんこと過むべきに非ず。但不審なるの処は双観経の念仏已外の諸行・観無量寿経の念仏以外の定散・阿弥陀経の念仏の外の小善根の中に法華・涅槃・大日経等の極大乗経を入れ、念仏に対して不往生の善根ぞと仏の嫌はせ給ひけるを竜樹菩薩三師並びに法然之れを嫌はば何の失有らん。但し三部経の小善根等の句に法華・涅槃・大日経等は入るべしとも覚えざれば三師並びに法然の釈を用ゐざるなり。無量義経の如きは「四十余年 未顕真実」と説き、法華八箇年を除きて以前四十二年に説く所の大小権実の諸経は一字一点も未顕真実の語に漏るべしとも覚えず。加之(しかのみならず)四十二年の間に説く所の阿含・方等・般若・華厳の名目之れを出だせり。既に大小の諸経を出だして生滅無常を説ける諸の小乗経を阿含の句に摂し、三無差別の法門を説ける諸大乗経を華厳海空の句に摂し、十八空等を説ける諸大乗経を般若の句に摂し、弾呵の意を説ける諸大乗経を方等の句に摂す。
是の如く年限を指し経の題目を挙げたる無量義経に依りて法華経に対して諸経を嫌ひ、嫌へる所の諸経に依れる諸宗を下すこと天台大師の私に非ず。汝等が浄土の三部経の中には念仏に対して諸行を嫌ふ文は之れ有れども、嫌はるる諸行は浄土の三部経よりの外の五十年の諸経なりと云ふ現文は之れ無し。又無量義経の如く阿含方等般若華厳等をも挙げず。誰か知る、三部経には諸の小乗経並びに歴劫修行の諸経等の諸行を仏小善根と名づけ給ふと云ふ事を。左右無く念仏よりの外の諸行を小善等と云へるを、法華・涅槃等の一代の教なりと打ち定めて、捨閉閣抛の四字を置きては仏意に乖くらんと不審する計りなり。例せば王の所従には諸人の中諸国の中の凡下等一人も残るべからず、民が所従には諸人諸国の主は入るべからざるが如し。/ 誠に浄土の三部経等が一代超過の経ならば五十年の諸経を嫌ふも其の謂はれ之れ有りなん。三部経の文より事起こりて一代を摂すべしとは見えず。但一機一縁の小事なり。何ぞ一代を摂して之れを嫌はん。三師並びに法然此の義を弁へずして、諸行の中に法華・涅槃並びに一代を摂して、末代に於て之れを行ぜん者は千中無一と定むるは、近くは依経に背き遠くは仏意に違ふ者なり。
但し竜樹の十住毘婆沙論の難行の中に法華真言等を入ると云ふは論文に分明に之れ有りや。設ひ論文に之れ有りとも慥かなる経文之れ無くば不審の内なり。竜樹菩薩は権大乗の論師為りし時の論なるか。又訳者の入れたるかと意得べし。其の故は仏は無量義経に四十余年は難行道、無量義経は易行道と定め給ふ事金口の明鏡なり。竜樹菩薩仏の記文に当たりて出世し、諸経の意を演ぶ。豈に仏説なる難易の二道を破して私に難易の二道を立てんや。随って十住毘婆沙論の一部始中終を開くに、全く法華経を難行の中に入れたる文之れ無し。只華厳経の十地を釈するに、第二地に至り畢りて宣べず。又此の論に諸経の歴劫修行の旨を挙ぐるに、菩薩難行道に堕し、二乗地に堕して、永不成仏の思ひを成す由見えたり。法華已前の論なる事疑ひ無し。竜樹菩薩の意を知らずして、此の論の難行の中に法華真言を入れたりと料簡するか。浄土の三師に於ては書釈を見るに難行雑行聖道の中に法華経を入れたる意粗之れ有り。然りと雖も法然が如き放言の事之れ無し。/ 加之(しかのみならず)仏法を弘めん輩は教・機・時・国・教法流布の前後を検(かんが)ふべきか。如来在世に前の四十余年には大小を説くと雖も、説時いまだ至らざるの故に本懐を演べ給はず。機有りと雖も時無ければ大法を説き給はず。
霊山八年の間誰か機にあらざる。時も来たる故に本懐を演べたまふに権機移りて実機と成る。法華経の流通並びに涅槃経には、実教を前とし権教を後とすべきの由見えたり。在世には実を隠して権を前にす。滅後には実を前として権を後と為すべし。道理顕然なり。然りと雖も天竺国には正法一千年の間は外道有り。一向小乗の国有り。又一向大乗の国有り。又大小兼学の国有り。漢土に仏法渡りても又天竺の如し。日本国に於ては外道も無く、小乗の機も無く、唯大乗の機のみ有り。大乗に於ても法華よりの外の機無し。但し仏法日本に渡り始めし時、暫く小乗の三宗・権大乗の三宗を弘むと雖も、桓武の御宇に伝教大師の御時、六宗情を破りて天台宗と成りぬ。倶舎・成実・律の三宗の学者も、彼の教の如く七賢三道を経て見思を断じ、二乗と成らんとは思はず。只彼の宗を習ひて大乗の初門と為し、彼の極を得んとは思はず。権大乗の三宗を習へる者も五性各別等の宗義を捨てて一念三千・五輪等の妙観を窺ふ。大小権実を知らざる在家の檀那等も一向に法華・真言の学者の教へに随ひて之れを供養する間、日本一洲は印度震旦には似ず、一向純円の機なり。恐らくは霊山八年の機の如し。之れを以て之れを思ふに、浄土の三師は震旦権大乗の機に超えざらん。法然に於ては純円の機・純円の教・純円の国を知らず。
権大乗の一分為る観経等の念仏を、権実をも弁へざる震旦の三師の釈之れを以て此の国に流布せしめ、実機に権法を授け、純円の国を権教の国と成し、醍醐を嘗(な)むる者に蘇味を与ふるの失、誠に甚だ多し。/ 日蓮花押
◆ 南条兵衛七郎殿御書 〔C2・文永元年一二月一三日・南条兵衛七郎〕/ 御所労の由承り候はまことにてや候らん。世間の定めなき事は病なき人も留まりがたき事に候へば、まして病あらん人は申すにおよばず。但心あらん人は後世をこそ思ひさだむべきにて候へ。又後世を思ひ定めん事は私にはかなひがたく候。一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。/ しかるに仏の教へ又まちまちなり。人の心の不定なるゆへか。しかれども釈尊の説教五十年にはすぎず。さき四十余年の間の法門に、華厳経には「心仏及衆生 是三無差別」、阿含経には苦・空・無常・無我、大集経には染浄融通、大品経には混同無二、双観経・観経・阿弥陀経等には往生極楽。此等の説教はみな正法・像法・末法の一切衆生をすくはんがためにこそとかれはんべり候ひけめ。而れども仏いかんがをぼしけん、無量義経に「方便力を以て四十余年には未だ真実を顕はさず」ととかれて、先四十余年の往生極楽等の一切経は親の先判のごとくくひかへされて、「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず」といゐきらせ給ひて、法華経の方便品に重ねて「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ととかせ給へり。
方便をすてよととかれてはんべるは、四十余年の念仏等をすてよととかれて候。かうたしかにくいかえして実義をさだむるには「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」、「久しく斯の要を黙して務めて速やかに説かず」等とさだめられしかば、多宝仏大地よりわきいでさせ給ひて、この事真実なりと証明をくわへ、十方の諸仏八方にあつまりて広長舌相を大梵天宮につけさせ給ひき。二処三会、二界八番の衆生一人もなくこれをみ候ひき。此等の文をみ候に、仏教を信ぜぬ悪人外道はさておき候ひぬ。仏教の中に入り候ひても爾前権教の念仏等を厚く信じて、十遍・百遍・千遍・一万乃至六万等を一日にはげみて、十年二十年のあひだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも申さぬ人々は、先判に付きて後判をもちゐぬ者にては候まじきか。此等は仏説を信じたりげには我が身も人も思ひたりげに候へども、仏説の如くならば不孝の者なり。故に法華経の第二に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す。復教詔すと雖も而も信受せず」等云云。此の文の心は釈迦如来は此等衆生には、親なり師なり主なり。
我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親。師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ。この親と師と主との仰せをそむかんもの、天神地祇にすてられたてまつらざらんや。不孝第一の者なり。故に「雖復教詔 而不信受」等と説かれたり。たとひ爾前の経につかせ給ひて、百千万億劫行ぜさせ給ふとも、法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずば、不孝の人たる故に三世十方の聖衆にもすてられ、天神地祇にもあだまれ給はんか〈是一〉。/ たとひ五逆十悪無量の悪をつくれる人も、根だにも利なれば得道なる事これあり。提婆達多・鴦崛摩羅(おうくつまら)等これなり。たとひ根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり。須利槃特等是れなり。我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもすぎ、物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし。貪・瞋・痴きわめてあつく、十悪は日々にをかし、五逆をばおかさざれども五逆に似たる罪又日々におかす。又十悪五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり。させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども、人ごとに法華経をばもちゐず。
又もちゐたるやうなれども念仏等のやうには信心ふかからず。信心ふかき者も法華経のかたきをばせめず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経の敵をだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏もせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還りてとがに行はれんが如し。当世の人々は謗法の者としろしめすべし〈是二〉。/ 仏入滅の次の日より千年をば正法と申す。持戒の人多く得道の人これあり。正法千年の後は像法千年なり。破戒の者は多く得道すくなし。像法千年の後は末法万年。持戒もなし破戒もなし、無戒の者のみ国に充満せん。而も濁世と申してみだれたる世なり。清世と申してすめる世には、直縄のまがれる木をけづらするやうに、非をすて是れを用ゐるなり。正像より五濁やうやういできたりて、末法になり候へば五濁さかりにすぎて、大風の大波ををこしてきしをうつのみならず、又波と波とをうつなり。見濁と申すは正像やうやうすぎぬれば、わづかの邪法の一つをつたへて無量の正法をやぶり、世間の罪にて悪道におつるものよりも、仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみえはんべり。
しかるに当世は正像二千年すぎて末法に入りて二百余年、見濁さかりにして、悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり。悪は愚痴の人も悪としればしたがはぬへんもあり。火を水を以てけすがごとし。善は但善と思ふほどに、小善に付きて大悪のをこる事をしらず。所以に伝教慈覚等の聖跡あり。すたれあばるれども念仏堂にあらずといゐてすてをきて、そのかたわらにあたらしく念仏堂をつくり、かの寄進の田畠をとりて念仏堂によす。此等は像法決疑経の文のごとくならば、功徳すくなしと見へはんべり。此等をもちてしるべし。善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし。今の世は末法のはじめなり。小乗経の機・権大乗経の機みなうせはててただ実大乗経の機のみあり。小船には大石をのせず。悪人愚者は大石のごとし。小乗経並びに権大乗経念仏等は小船なり。大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず。末代濁世の我等には念仏等はたとへば冬田を作るが如し。時があはざるなり〈是三〉。/ 国をしるべし。国に随ひて人の心不定なり。たとへば江南の橘の淮北(わいほく)にうつされてからたちとなる。心なき草木すらところによる。まして心あらんもの何ぞ所によらざらん。
されば玄奘三蔵の西域と申す文に天竺の国々を多く記したるに、国の習ひとして不孝なる国もあり、孝の心ある国もあり。瞋恚のさかんなる国もあり、愚痴の多き国もあり。一向に小乗を用ゐる国もあり、一向大乗を用ゐる国もあり。大小兼学する国もありと見え侍り。又一向に殺生の国、一向に偸盗の国、又穀の多き国、又粟等の多き国不定なり。抑 日本国はいかなる教を習ひてか生死を離るべき国ぞと勘へたるに、法華経に云く「如来の滅後に於て、閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云。此の文の心は、法華経は南閻浮提の人のための有縁の経なり。弥勒菩薩の云く「東方に小国有り、唯大機のみ有り」等云云。此の論の文の如きは、閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機あるか。肇公の記に云く「茲(この)典は東北の小国に有縁なり」等云云。法華経は東北の国に縁ありとかかれたり。安然和尚の云く「我が日本国皆大乗を信ず」等云云。恵心の一乗要決に云く「日本一州円機純一」等云云。釈迦如来・弥勒菩薩・須利耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・恵心の先徳等の心ならば、日本国は純らに法華経の機なり。一句一偈なりとも行ぜば必ず得道なるべし。有縁の法なるが故なり。たとへばくろがねを磁石のすうが如し、方諸の水をまねくににたり。
念仏等の余善は無縁の国なり。磁石のかねをすわず、方諸の水をまねかざるが如し。故に安然の釈に云く「如(もし)実乗に非ずんば恐らくは自他を欺かん」等云云。此の釈の心は、日本国の人に法華経にてなき法をさづくるもの、我が身をもあざむき人をもあざむく者と見えたり。されば法は必ず国をかんがみて弘むべし。彼の国によかりし法なれば必ず此の国にもよかるべしとは思ふべからず〈是四〉。/ 又仏法流布の国においても前後を勘ふべし。仏法を弘むる習ひ、必ずさきに弘まりける法の様を知るべきなり。例せば病人に薬をあたふるにはさきに服したる薬の様を知るべし。薬と薬とがゆき合ひてあらそひをなし、人をそんずる事あり。仏法と仏法とがゆき合ひてあらそひをなして、人を損ずる事のあるなり。さきに外道の法弘まれる国ならば仏法をもつてこれをやぶるべし。仏の印度にいでて外道をやぶり、まとうか(摩騰迦)・ぢくほうらん(竺法蘭)の震旦に来て道士をせめ、上宮太子和国に生まれて守屋をきりしが如し。仏教においても、小乗の弘まれる国をば大乗経をもつてやぶるべし。無著菩薩の世親の小乗をやぶりしが如し。権大乗の弘まれる国をば実大乗をもつてこれをやぶるべし。天台智者大師の南三北七をやぶりしが如し。
而るに日本国は天台真言の二宗のひろまりて今に四百余歳、比丘・比丘尼・うばそく・うばひの四衆皆法華経の機と定まりぬ。善人悪人・有智無智、皆五十展転の功徳をそなふ。たとへば崑崙山に石なく、蓬莱山に毒なきが如し。而るを此の五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして、珠に似たる石をもつて珠を投げさせ石をとらせたるなり。止観の五に云く「瓦礫を貴みて明珠なりと申す」は是れなり。一切衆生石をにぎりて珠とおもふ。念仏を申して法華経をすてたる是れなり。此の事をば申せば還りてはらをたち、法華経の行者をのりて、ことに無間の業をますなり〈是五〉。/ 但とのは、このぎをきこしめして、念仏をすて法華経にならせ給ひてはべりしが、定めてかへりて念仏者にぞならせ給ひてはべるらん。法華経をすてて念仏者とならせ給はんは、峰の石の谷へころび、空の雨の地におつるとおぼせ。大阿鼻地獄疑ひなし。大通結縁の者の三千塵点劫を、久遠下種の者の五百塵点を経し事、大悪知識にあいて法華経をすてて念仏等の権教にうつりし故なり。一家の人々念仏者にてましましげに候ひしかば、さだめて念仏をぞすすめまいらせ給ひ候らん。我が信じたる事なればそれも道理にては候へども、悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人々なりとおぼして、大信心を起こし御用ゐあるべからず。
大悪魔は貴き僧となり、父母兄弟等につきて人の後世をばさうるなり。いかに申すとも、法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用ゐあるべからず。まづ御きやうざく(景迹)あるべし。/ 念仏実に往生すべき証文つよくば、此の十二年が間念仏者無間地獄と申すをば、いかなるところへ申しいだしてもつめずして候べきか。よくよくゆはき事なり。法然善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき。このごろの人の申すもこれにすぎず。結句は法門はかなわずして、よせてたたかいにし候なり。念仏者は数千万、かたうど多く候なり。日蓮は唯一人、かたうどは一人もこれなし。今までもいきて候はふかしぎなり。今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあふものはわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかが候ひけん、うちもらされていままでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさり候へ。
第四の巻に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」。第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云。日本国に法華経をよみ学する人これ多し。人のめ(妻)をねらひ、ぬすみ等にて打ちはらるる人は多けれども、法華経の故にあやまたるる人は一人もなし。されば日本国の持経者はいまだ此の経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよみはべれ。「我不愛身命 但惜無上道」是れなり。/ されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。もしさきにたたせ給はば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なり、となのらせ給へ。よもはうしん(芳心)なき事は候はじ。但一度は念仏、一度は法華経となへつ、二心ましまし、人の聞くにはばかりなんどだにも候はば、よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ。後にうらみさせ給ふな。但し又法華経は今生のいのりともなり候なれば、もしやとしていきさせ給ひ候はば、あはれとくとく見参して、みづから申しひらかばや。語はふみにつくさず、ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候ひぬ。恐々謹言。/ 文永元年十二月十三日  日蓮花押
なんでうの七郎殿
◆ 上野殿後家尼御返事 〔C6・文永一一年七月一一日・南条時光母尼〕/ 御供養の物種々給はり畢んぬ。抑 上野殿死去の後はをとづれ冥途より候やらん。きかまほしくをぼへ候。ただし、あるべしともをぼへず。もし夢にあらずんばすがたをみる事よもあらじ。まぼろしにあらずんばみみえ給ふ事いかが候はん。さだめて霊山浄土にてさばの事をばちうやにきき、御覧じ候らむ。妻子等は肉眼なればみさせ、きかせ給ふ事なし。ついには一所とをぼしめせ。生々世々の間、ちぎりし夫は大海のいさごのかずよりもををくこそをはしまし候ひけん。今度のちぎりこそ、まことのちぎりのをとこよ。そのゆへは、をとこのすすめによりて法華経の行者とならせ給へば、仏とをがませ給ふべし。いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり。法華経の第四に云く「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。/ 夫れ浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず。ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏といふ。これにまよふを凡夫と云ふ。これをさとるは法華経なり。もししからば、法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ。
たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば、ただいつも地獄なるべし。此の事日蓮が申すにはあらず。釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給ひしなり。されば権教を修行する人は、火にやくるもの又火の中へいり、水にしづむものなをふち(淵)のそこ(底)へ入るがごとし。法華経をたもたざる人は、火と水との中にいたるかごとし。法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ、阿弥陀経・大日経等を信じ給ふは、なを火より火の中、水より水のそこへ入るがごとし。いかでか苦患をまぬかるべきや。等活・黒縄・無間地獄の火坑、紅蓮大紅蓮の氷の底に入り、しづみ給はん事疑ひなかるべし。法華経の第二に云く「其の人命終して阿鼻獄に入らん。是の如く展転して無数劫に至らん」云云。故聖霊は此の苦をまぬかれ給ふ。すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり。経に云く「設ひ大火に入るとも火も焼くこと能はじ。若し大水に漂はされんに其の名号(みな)を称せば即ち浅き処を得ん」。又云く「火も焼くこと能はず、水も漂はすこと能はず」云云あらたのもしや、たのもしや。/ 詮ずるところ、地獄を外にもとめ、獄卒の鉄杖、阿防羅刹のかしやくのこゑ、別にこれなし。
此の法門ゆゆしき大事なれども、尼にたいしまいらせて、おしへまいらせん。例せば竜女にたいして文殊菩薩は即身成仏の秘法をとき給ひしがごとし。これをきかせ給ひて後は、いよいよ信心をいたさせ給へ。法華経の法門をきくにつけて、なをなを信心をはげむをまことの道心者とは申すなり。天台云く「従藍而青」云云。此の釈の心はあいは葉のときよりも、なをそむればいよいよあをし。法華経はあいのごとし。修行のふかきはいよいよあをきがごとし。地獄と云ふ二字をば、つちをほるとよめり。人の死する時、つちをほらぬもの候べきか。これを地獄と云ふ。死人をやく火は無間の火炎なり。妻子眷属の死人の前後にあらそひゆくは獄卒阿防羅刹なり。妻子等のかなしみなくは獄卒のこゑなり。二尺五寸の杖は鉄杖なり。馬は馬頭、牛は牛頭なり。穴は無間大城、八万四千のかまは八万四千の塵労門。家をきりいづるは死出の山。孝子の河のほとりにたたずむは三途の愛河なり。別に求むる事はかなしはかなし。/ 此の法華経をたもちたてまつる人は此れをうちかへし、地獄は寂光土、火焔は報身如来の智火、死人は法身如来、火坑は大慈悲為室の応身如来、又つえ(杖)は妙法実相のつえ、三途の愛河は生死即涅槃の大海、死出の山は煩悩即菩提の重山なり。
かく御心得させ給へ。即身成仏とも開仏知見とも、これをさとり、これをひらくを申すなり。提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき、竜女が即身成仏もこれより外は候はず。逆即是順の法華経なればなり。これ妙の一字の功徳なり。竜樹菩薩の云く「譬へば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云。妙楽大師云く「豈に伽耶を離れて別に常寂を求めんや。寂光の外に別に娑婆有るに非ず」云云。又云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土なり」云云。法華経に云く「諸法実相 乃至 本末究竟等」云云。寿量品に云く「我実に成仏してより已来無量無辺なり」等云云。此の経文に我と申すは十界なり。十界本有の仏なれば浄土に住するなり。方便品に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云。世間のならひとして三世常恒の相なれば、なげくべきにあらず、をどろくべきにあらず。相の一字は八相なり。八相も生死の二字をいでず。かくさとるを法華経の行者の即身成仏と申すなり。/ 故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑ひなし。さのみなげき給ふべからず。又なげき給ふべきが凡夫のことわりなり。ただし聖人の上にもこれあるなり。釈迦仏御入滅のとき、諸大弟子等のさとりのなげき、凡夫のふるまひを示し給ふか。
いかにもいかにも、追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし。古徳のことばにも、心地を九識にもち、修行をば六識にせよとをしへ給ふ。ことわりにもや候らん。此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ。秘しさせ給へ、秘しさせ給へ。あなかしこあなかしこ。/ 七月十一日  日蓮花押/ 上野殿後家尼御前御返事
◆ 女人成仏抄 〔C6・文永三年以降〕/ 提婆品に云く「仏告諸比丘 未来世中 乃至 蓮華化生」等云云。此の提婆品に二箇の諫暁あり。所謂 達多の弘経釈尊の成道を明かし、又文殊の通経は竜女の作仏を説く。されば此の品を長安宮に一品切り留めて、二十七品を世に流布する間、秦の代より梁の代に至るまで、七代の間の王は二十七品の経を講読す。其の後満法師と云ひし人、此の品法華経になき由を読み出だされ候ひて後、長安城より尋ね出だし、今は二十八品にて弘まらせ給ふ。さて此の品に浄心信敬の人のことを云ふに、一には三悪道に堕せず、二には十方の仏前に生ぜん、三には所生の処には常に此の経を聞かん、四には若し人天の中に生ぜば勝妙の楽を受けん、五には若し仏前に在らば蓮華より化生せんとなり。/ 然るに一切衆生は、法性真如の都を迷ひ出でて、妄想顛倒の里に入りしより已来、身口意の三業になすところ、善根は少なく悪業は多し。されば経文には一人一日の中に八億四千念あり。念々の中に作す所皆是れ三途の業なり等云云。我等衆生、三界二十五有のちまたに輪回せし事、鳥の林に移るが如く、死しては生じ、生じては死し、車の場に回るが如く、始め終りもなく、死し生ずる悪業深重の衆生なり。
爰を以て心地観経に云く「有情輪回して六道に生ずること、猶車輪の始終無きが如く、或は父母と為り、男女と為り、生々世々互ひに恩有り」等云云。法華経二の巻に云く「三界は安きこと無し猶火宅の如く衆苦充満せり」云云。涅槃経二十二に云く「菩薩摩訶薩諸の衆生を観ずるに、色香味触の因縁の為の故に昔無量無数劫より以来、常に苦悩を受く。一々の衆生一劫の中に積もる所の身の骨は王舎城の毘富羅山の如く、飲む所の乳汁は四海の水の如く、身より出だす所の血は四海の水より多く、父母兄弟妻子眷属の命終に涕泣して出だす所の目涙は四大海の水より多し。地の草木を尽くして四寸の籌と為して以て父母を数ふるに、亦尽くすこと能はじ。無量劫より已来、或は地獄畜生餓鬼に在りて受くる所の行苦称計すべからず。亦一切衆生の骸骨をや」云云。是の如くいたづらに命を捨つるところの骸骨(かばね)は毘富羅山よりも多し。恩愛あはれみの涙は四大海の水よりも多けれども、仏法の為には一骨をもなげず。一句一偈を聴聞して、一滴の涙をもおとさぬゆへに、三界の籠樊(ろうはん)を出でず、二十五有のちまたに流転する衆生にて候なり。/ 然る間 如何として三界を離るべきと申すに、仏法修行の功力に依りて無明のやみはれて法性真如の覚りを開くべく候。
さては仏法は何なるをか修行して生死を離るべきぞと申すに、但一乗妙法にて有るべく候。されば恵心僧都、七箇日加茂に参籠して、出離生死は何なる教にてか候べきと祈請申され候ひしに、明神御託宣に云く「釈迦の説教は一乗に留まり、諸仏の成道は妙法に在り、菩薩の六度は蓮華に在り、二乗の得道は此の経に在り」云云。普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり」云云。/ 此の経より外はすべて成仏の期有るべからず候上、殊更女人成仏の事は此の経より外は更にゆるされず。結句爾前の経にてはをびただしく嫌はれたり。されば華厳経に云く「女人は地獄の使ひなり、能く仏の種子を断ず。外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」云云。銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも、法界の諸の女人は永く成仏の期無し」云云。或は又女人には五障三従の罪深しと申す。其れは内典には五障を明かし、外典には三従を教へたり。其の三従とは、少なくしては父母に従ひ、盛んにしては夫に従ひ、老いては子に従ふ。一期身を心に任せず。されば栄啓期が三楽を歌ひし中にも、女人と生まれざるを以て一楽とす。
天台大師云く「他経に但菩薩に記して二乗に記せず。但男に記して女に記せず」とて、全く余経には女人の授記これなしと釈せり。/ 其の上、釈迦・多宝の二仏塔中に並坐し給ひし時、文殊、妙法を弘めん為に海中に入り給ひて、仏前に帰り参り給ひしかば、宝浄世界の多宝仏の御弟子智積菩薩は竜女成仏を難じて云く、「我釈迦如来を見たてまつれば無量劫に於て難行苦行し功を積み徳を累ね菩薩の道を求むること未だ曾て止息したまはず。三千大千世界を観るに乃至芥子の如き許りも是れ菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し、衆生の為の故なり」等云云。所謂 智積・文殊再三問答いたし給ふ間は、八万の菩薩・万二千の声聞等、何れも耳をすまして御聴聞計りにて一口の御助言に及ばず。然るに智恵第一の舎利弗、文殊の事をば難ずる事なし。多くの故を以て竜女を難ぜらる。所以に女人は垢穢にして是れ法器に非ずと小乗権教の意を以て難ぜられ候ひしかば、文殊が竜女成仏の有無の現証は今仏前にして見え候べしと仰せられ候ひしに、案にたがはず、八歳の竜女蛇身をあらためずして仏前に参詣し、「価直三千大千世界」と説かれて候如意宝珠を仏に奉りしに、仏悦びて是れを請け取り給ひしかば、此の時、智積菩薩も舎利弗も不審を開き、女人成仏の路をふみわけ候。
されば女人成仏の手本是れより起こりて候。委細は五の巻の経文之れを読むべく候。/ 伝教大師の秀句に云く「能化の竜女歴劫の行無く、所化の衆生も歴劫の行無し、能化所化倶に歴劫無し。妙法経力即身成仏す」。天台の疏に云く「智積は別教に執して疑ひを為し、竜女は円を明かして疑ひを釈(と)く。身子は三蔵の権を挟(さしはさ)みて難じ、竜女は一実を以て疑ひを除く」。海竜王経に云く「竜女作仏し、国土を光明国と号し、名をば無垢証如来と号す」云云。法華已前の諸経の如きは縦ひ人中天上の女人なりといふとも成仏の思ひ絶えたるべし。然るに竜女、畜生道の衆生として、戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり。是れを始めとして、釈尊の姨母摩訶波闍波提比丘尼等、勧持品にして一切衆生喜見如来と授記を被り、羅羅の母耶輸陀羅女も眷属の比丘尼と共に具足千万光相如来と成り、鬼道の女人たる十羅刹女も成仏す。然れば尚殊に女性の御信仰あるべき御経にて候。/ 抑 此の経の一文一句を読み、一字一点を書く、尚出離生死証大菩提の因なり。然れば彼の字に結縁せし者、尚炎魔の庁より帰され、六十四字を書きし人は其の父を天上へ送る。
何に況や阿鼻の依正は極聖の自心に処し、地獄天宮皆是れ果地の如来なり。毘盧の身土は凡下の一念を逾えず、遮那の覚体も衆生の迷妄を出でず。妙文は霊山浄土に増し、六万九千の露点は紫磨金の輝光を副へ給ふべし。殊に過去聖霊は御存生の時より御信心他に異なる御事なりしかば、今日講経の功力に依りて、仏前に生を受け、仏果菩提の勝因に登り給ふべし云云。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
◆ 薬王品得意抄 〔C2・文永二年〕/ 此の薬王品の大意とは、此の薬王品は第七の巻。二十八品の中には第二十三の品なり。此の第一の巻に序品・方便品の二品有り。序品は二十八品の序なり。方便品より人記品に至るまでの八品は、正には二乗作仏を明かし、傍には菩薩・凡夫の作仏を明かす。法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は、上の八品を末代の凡夫の修行すべき様を説くなり。又涌出品は寿量品の序なり。分別功徳品より十二品は、正には寿量品を末代の凡夫の行ずべき様、傍には方便品等の八品を修行すべき様を説くなり。然れば此の薬王品は方便品等の八品、並びに寿量品を修行すべき様を説きし品なり。/ 此の品に十の喩へ有り。第一大海の譬、先づ第一の譬へを粗申すべし。此の南閻浮提に二千五百の河あり。西倶耶尼に五千の河あり。総じて此の四天下に二万五千九百の河あり。或は四十里、乃至、百里・一里・一町・一尋等有るなり。然りと雖も此の諸河は総じて深浅の事大海に及ばず。法華已前の華厳経・阿含経・方等経・般若経・深密経・阿弥陀経・涅槃経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・密厳経等の釈迦如来の所説の一切経、大日如来の所説の一切経、阿弥陀如来の所説の一切経、薬師如来の所説の一切経、過去・現在・未来三世の諸仏所説の一切経の中に法華経第一なり。
譬へば諸経は大河・中河・小河等の如し、法華経は大海の如し等と説くなり。河に勝れたる大海に十の徳有り。一に大海は漸次に深し。河は爾らず。二に大海は死屍を留めず。河は爾らず。三に大海は本の名字を失ふ。河は爾らず。四に大海は一味なり。河は爾らず。五に大海は宝等有り。河は爾らず。六に大海は極めて深し。河は爾らず。七に大海は広大無量なり。河は爾らず。八に大海は大身の衆生等有り。河は爾らず。九に大海は潮の増減有り。河は爾らず。十に大海は大雨大河を受けて盈溢無し。河は爾らず。此の法華経には十の徳有り。諸経には十の失有り。此の経は漸次深多にして五十展転なり。諸経には猶一も無し。況や二三四乃至五十展転をや。河は深けれども大海の浅きに及ばず。諸経は一字一句十念等を以て十悪五逆等の悪機を摂すと雖も、未だ一字一句の随喜五十展転には及ばざるなり。此の経の大海に死屍を留めずとは、法華経に背く謗法の者は極善の人為りと雖も、猶之れを捨つ。何に況や悪人なるの上、謗法を為さん者をや。設ひ諸経を謗ずと雖も、法華経に背かざれば必ず仏道を成ず。設ひ一切経を信ずと雖も、法華経に背かば必ず阿鼻大城に堕つ。乃至、第八には大海は大身の衆生あり等と云ふは、大海には摩竭大魚等大身の衆生之れ有り。
無間地獄と申すは縦広八万由旬なり。五逆の者無間地獄に堕ちては一人必ず充満す。此の地獄の衆生は五逆の者大身の衆生なり。諸経の小河大河の中には摩竭大魚之れ無し。法華経の大海には之れ有り。五逆の者仏道を成す。是れ実には諸経に之れ無し。諸経に之れ有りと云ふと雖も実には未顕真実なり。故に一代聖教を諳(そら)んぜし天台智者大師の釈に云く「他経は但菩薩に記して二乗に記せず。乃至、但善に記して悪に記せず。今経は皆記す」等云云。余は且く之れ略す。/ 第二には山に譬ふ。十宝山等とは山の中には須弥山第一なり。十宝山とは一には雪山、二には香山、三には軻梨羅山、四には仙聖山、五には由乾陀山、六には馬耳山、七には尼民陀羅山、八には斫伽羅山、九には宿恵山、十には須弥山なり。先の九山とは諸経諸山の如し。但し一々に財あり。須弥山は衆財を具して其の財に勝れたり。例せば世間の金の閻浮檀金に及ばざるが如し。華厳経の法界唯心、般若の十八空、大日経の五相成身、観経の往生より、法華経の即身成仏勝れたるなり。須弥山は金色なり。一切の牛馬人天衆鳥等此の山に依れば必ず本色を失ひて金色なり。余山は爾らず。一切の諸経法華経に依れば本の色を失ふ。例せば黒色の物日月の光に値ひて色を失ふが如し。諸経の往生成仏等の色は法華経に値へば必ず其の義を無ふ。
第三には月に譬ふ。衆星は或は半里、或は一里、或は八里、或は十六里には過ぎず。月は八百余里なり。衆星は光有りと雖も月には及ばず。設ひ百千万億、乃至一四天下三千大千十方世界の衆星之れを集むとも、一の月の光に及ばず。何に況や一の星月の光に及ぶべきや。華厳経・阿含経・方等・般若・涅槃経・大日経・観経等の一切の経之れを集むとも、法華経の一字に及ばず。一切衆生の心中の見思・塵沙・無明の三惑、並びに十悪五逆等の業は暗夜のごとし。華厳経等の一切経は闇夜の星のごとし。法華経は闇夜の月のごとし。法華経を信ずれども深く信ぜざる者は半月の闇夜を照らすが如し。深く信ずる者は満月の闇夜を照らすが如し。月無くして但星のみ有る夜には強力の者・かたましき者なむどは行歩すといへども、老骨の者・女人なむどは行歩に叶はず。満月の時は女人老骨なむども、或は遊宴のため、或は人に値はんが如き行歩自在なり。諸経には菩薩、大根性の凡夫は設ひ得道なるとも、二乗・凡夫・悪人・女人乃至末代の老骨の懈怠無戒の人々は往生成仏不定なり。法華経は爾らず。二乗・悪人・女人等猶仏に成る。何に況や菩薩、大根性の凡夫をや。
又月はよいよりも暁は光まさり、春夏よりも秋冬は光あり。法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有るべし。問うて云く、証文 如何。答へて云く、道理顕然なり。其の上、次下の文に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云。此の経文に二千年の後、南閻浮提に広宣流布すべしととかれて候は、第三の月の譬への意なり。此の意を根本伝教大師釈して云く「正像稍過ぎ已りて末法太だ近きに有り。法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」等云云。正法千年も像法千年も法華経の利益諸経に之れ勝るべし。然りと雖も月の光の春夏の正像二千年より末法の秋冬に至りて光の勝るが如し。/ 第四譬の日の譬は、星の中に月の出でたるは星の光には月の光は勝るとも、未だ星の光を消さず。日中には星の光消ゆるのみに非ず、又月の光も奪って光を失う。爾前は星の如く、法華経の迹門は月の如し、寿量品は日の如し。寿量品の時は迹門の月未だ及ばず。何に況や爾前の星をや。夜は星の時月の時も衆務を作さず。夜暁けて必ず衆務を作す。爾前迹門にして猶生死を離れ難し。本門寿量品に至りて必ず生死を離るべし。/ 余の六譬之れを略す。此の外又多くの譬へ此の品に有り。其の中に渡りに船を得たるが如しと。
此の譬への意は生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船なり。生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も、生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとづ(届)きがたし。例せば世間の小船等が筑紫より坂東に至り、鎌倉よりい(夷)の島なむどへとつけども唐土へ至らず。唐船は必ず日本国より震旦国に至るに障り無きなり。又云く「貧しきに宝を得たるが如し」等云云。爾前の国は貧国なり。爾前の人は餓鬼なり。法華経は宝の山なり。人は富人なり。問うて云く、爾前は貧国と云ふ証文 如何。答へて云く、授記品に云く「飢ゑたる国より来たりて忽ちに大王の膳に値へるが如し」等云云。/ 女人の往生成仏の段。経文に云く「若し如来の滅後、後の五百歳の中に、若し女人有りて是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して即ち安楽世界阿弥陀仏の大菩薩衆に囲繞せられて住する処に往きて、蓮華の中宝座の上に生ぜん」等云云。問うて曰く、此の経此の品に殊に女人の往生を説く、何の故か有るや。答へて曰く、仏意測り難く此の義決し難きか。但し一の料簡を加へば、女人は衆罪の根本、破国の源なり。故に内外典に多く之れを禁む。其の中に外典を以て之れを論ずれば、三従あり。三従と申すは三つしたがうと云ふなり。
一には幼にしては父母に従ひ、嫁しては夫に従ひ、老いては子に従ふ。此の三障有りて世間自在ならず。内典を以て之れを論ずれば、五障有り。五障とは、一には六道輪回の間、男子の如く大梵天王と作らず。二には帝釈と作らず。三には魔王と作らず。四には転輪聖王と作らず。五には常に六道に留まりて、三界を出でて仏に成らず〈超日明三昧経の文なり〉。銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも、法界の諸の女人は永く成仏の期無し」等云云。但し凡夫すら賢王聖人は妄語せず。はんよき(樊於期)といゐし者はけいか(荊軻)に頸をあたえ、きさつ(季札)と申せし人は徐君が塚に剣をかけたりき。これ約束を違へず、妄語無き故なり。何に況や声聞・菩薩・仏をや。仏は昔凡夫にましましし時、小乗経を習ひ給ひし時、五戒を受け始め給ひき。五戒の中の第四の不妄語の戒を固く持ち給ひき。財を奪はれ、命をほろぼされし時も此の戒をやぶらず。大乗経を習ひ給ひし時、又十重禁戒を持ち、其の十重禁戒の中の第四の不妄語戒を持ち給ひき。此の戒を堅く持ちて無量劫之れを破りたまはず。終に此の戒の力に依りて仏身を成じ、三十二相の中に広長舌の相を得たまへり。此の舌うすく、ひろく、ながし。或は面にををい、或は髪際にいたり、或は梵天にいたる。
舌の上に五の画あり。印文のごとし。其の舌の色は赤銅のごとし。舌の下に二の珠あり。甘露を涌出す。此れ不妄語戒の徳の至す所なり。仏此の舌を以て、三世の諸仏の御眼を大地に堕すとも、法界の女人は仏になるべからずととかれしかば、一切の女人は何なる世にも仏にはならせ給ふまじきとこそをぼへて候へ。/ さるにては女人の御身も受けさせ給ひては、設ひきさきさんこうの位にそなはりてもなにかはすべき。善根仏事をなしても、よしなしとこそをぼへ候へ。而るを此の法華経の薬王品に女人往生をゆるされ候ひぬる事又不思議に候。彼の経の妄語か。此の経の妄語、いかにも一方は妄語たるべきか。若し又一方妄語ならば一仏に二言あり、信じ難き事なり。但し無量義経の「四十余年未だ真実を顕はさず」。涅槃経の「如来には虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因ると知ろしめす」の文を以て之れを思へば、仏は女人は往生成仏すべからずと説かせ給ひけるは妄語と聞こえたり。妙法華経の文に「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」。「妙法華経 乃至 皆是真実」と申す文を以て之れを思ふには、女人の往生成仏決定と説かるる法華経の文は、実語不妄語戒と見えたり。
世間の賢人も但一人ある子が不思議なる時、或は失有る時は永く子為るべからざるの理、起請を書き、或は誓言を立つるとも、終に命終の時に臨みて之れを許す。然りと雖も賢人に非ずと云はず、又妄語せし者とも云はず。仏も亦復是の如し。爾前四十余年が間は菩薩の得道・凡夫の得道・善人・男子等の得道は許すやうなれども、二乗・悪人・女人なんどの得道は此れ許されず。或は又許さるるににたる事もあり。いまだ定めがたかりしを、仏の説教四十二年すでにすぎて、御年七十二摩謁提国王舎城耆舎崛山と申す山にして法華経を説かせ給ふとをぼせし時、先づ無量義経と申せし経を説かせ給ふ。無量義経の文に云く「四十余年」云云。
◆ 女人往生抄 〔C6・文永二・三年〕/ 第七の巻に後五百歳二千余年の女人の往生を明かす事を云はば、釈迦如来は十九にして浄飯王宮を出で給ひて、三十の御年成仏し、八十にして御入滅ならせ給ひき。三十と八十との中間を数ふれば年紀五十年なり。其の間一切経を説き給ひき。何れも皆衆生得度の御ため無虚妄の説、一字一点もおろかなるべからず。又凡夫の身として是れを疑ふべきにあらず。但し仏説より事起こりて、小乗大乗・権大乗・実大乗・顕教・密教と申す名目新たに出来せり。一切衆生には皆成仏すべき種備はれり。然りと雖も小乗経には此の義を説き顕はさず。されば仏我ととかせ給ふ経なれども、諸大乗経には多く小乗経を嫌へり。又諸大乗経にも法華已前の四十余年の諸大乗経には、一切衆生に多分仏性の義をば許せども、又一類の衆生には無仏性の義を説き給へり。一切衆生多分仏性の義は巧みなれども、一類無仏性の義がつたなき故に、多分仏性の巧みなる言も又拙き言と成りぬべし。されば涅槃経に云く「衆生に是れ仏性有りと信ずと雖も、必ずしも一切皆悉く之れ有らず、是の故に名づけて信不具足と為す」等云云。此の文の心は一切衆生に多分仏性ありと説けども、一類に無しと説けば、所化の衆生は闡提の人と成るべしと云ふ文なり。
四十余年の衆生は三乗五乗倶に闡提の人と申す文なり。されば仏、無量義経に四十余年の諸経を結して云く「四十余年 未顕真実」文。されば智者は且く置く、愚者に於ては且く四十余年の御経をば仰ぎて信をなして置くべし。法華経こそ正直捨方便但説無上道、妙法華経皆是真実と、釈迦・多宝の二仏定めさせ給ふ上、諸仏も座に列なり給ひて、舌を出ださせ給ひぬ。一字一文一句一偈なりとも、信心を堅固に発して疑ひを成すべからず。其の上、疑ひを成すならば「疑ひを生じて信ぜざらん者は即ち当に悪道に堕つべし」、「若し人信ぜずして、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」、無虚妄の御舌をもて定めさせ給ひぬれば、疑ひをなして悪道におちては何の詮か有るべきと覚ゆ。/ されば二十八品何れも疑ひなき其の中にも、薬王品の後五百歳の文と勧発品の後五百歳の文とこそ殊にめづらしけれ。勧発品には此の文三処にあり。三処倶に後五百歳二千余年已後の男女等に亘る。薬王品には此の文二処にあり。一処には後五百歳に法華経の南閻浮提に流布すべき由を説かれて候。一処には後五百歳の女人の法華経を持ちて、大通智勝仏の第九の王子阿弥陀如来の浄土、久遠実成の釈迦如来の分身の阿弥陀の本門同居の浄土に往生すべき様を説かれたり。
抑 仏には偏頗御坐すまじき事とこそ思ひ侍るに、後五百歳の男女ならば男女にてこそ御坐すべきに、余処に後五百歳の男女法華経を持ちて往生成仏すべき由の委細なるに、重ねて後五百歳の女人の事を説かせ給へば、女人の御為にはいみじく聞こゆれども、男子の疑ひは尚あるかと覚ゆる故に、仏には偏頗のおわするかとたのもしくなき辺もあり。旁(かたがた)疑はしき事なり。然りと雖も力及ばず。後五百歳二千余年已後の女人は法華経を行じて、阿弥陀仏の国に往生すべしとこそ御覧じ侍りけめ。/ 仏は悉達太子として御坐せしが十九の御出家なり。三十の御年仏に成らせ給ひたりしかば、迦葉等の大徳通力の人々千余人付きまいらせたりしかども、猶五天竺の外道怨み奉りてあやうかりしかば、浄飯大王おほせありしやうは、悉達太子をば位を譲り奉りて転輪聖王と仰ぎ奉らんと思し召しかども、其の甲斐もなく出家して仏となり給ひぬ。今は又人天一切衆生の師と成らせ給ひぬれば、我一人の財にあらず。一切衆生の眼目なり。而るを外道に云ひ甲斐なくあやまたせ奉る程ならば悔ゆるとも甲斐なけん。されば我を我と思はん一門の人々は出家して仏に付き奉れと仰せありしかば、千人の釈子出家して仏に付き奉る。
千人の釈子一々に浄飯王宮にまひり、案内を申して御門を出で給ひしに、九百九十八人は事ゆへなく御門の橋を打ち渡りき。提婆達多と瞿伽利とは橋にして馬倒れ冠ぬげたりき。相人之れを見て、此の二人は仏の聖教の中に利益あるべからず。還りて仏教によて重罪を造りて阿鼻地獄に堕つべしと相したりき。又震旦国には周の第十三平王の御宇に、かみをかうふり、身赤裸なる者出で来たれり。相人相して云く、百年に及ばざるに世将に亡びなんと。此等の先相に寸分も違はず。遂に瞿伽利、現身に阿鼻地獄に提婆と倶に堕ち、周の世も百年の内に亡びぬ。此等は皆仏教の智恵を得たる人は一人もなし。但二天・三仙・六師と申す外典、三皇・五帝等の儒家共なり。三惑一分も断ぜず、五眼の四眼既に欠けて但肉眼計りなり。一紙の外をもみず、一の法も推し当てん事難かるべし。然りと雖も此等の事一分も違はず。而るに仏は五重の煩悩の雲晴れ、五眼の眼曇り無く、三千大千世界・無量世界・過去未来現在を掌の中に照知照見せさせ給ふが、後五百歳の南閻浮提の一切の女人、法華経を一字一点も信じ行ぜば、本時同居の安楽世界に往生すべしと、知見し給ひける事の貴く憑も敷き事云ふ計りなし。/ 女人の御身として漢の李夫人・楊貴妃・王昭君・小野小町・和泉式部と生まれさせ給ひたらんよりも、当世の女人は喜ばしかるべき事なり。
彼等は寵愛の時にはめづらしかりしかども一期は夢の如し。当時は何れの悪道にか侍らん。彼の時は世はあがりたりしかども、或は仏法已前の女人、或は仏法の最中なれども後五百歳の已前なり。仏の指し給はざる時なれば覚束なし。当世の一切の女人は仏の記し置き給ふ後五百歳二千余年に当たりて是れ実の女人往生の時なり。例せば冬は氷乏しからず、春は花珍しからず、夏は草多く、秋は菓多し。時節此の如し。当世の女人往生も亦此の如し。貪多く瞋多く愚多く慢多く嫉多きを嫌はず。何に況や此等の過無からん女人をや。/ 問うて云く、内外典の詮を承るに道理には過ぎず。されば天台釈して云く「明者は其の理を貴み、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたつとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。さればこそ此の「後五百歳若有女人」の文は、仏説なれども心未だ顕はれず。其の故は正法千年は四衆倶に持戒なり。故に女人は五戒を持ち、比丘尼は五百戒を持ちて、破戒無戒の女人は市の中の虎の如し。像法一千年には破戒の女人・比丘尼是れ多く、持戒の女人は是れ希なり。末法に入りては無戒の女人是れ多し。されば末法の女人いかに賢しと申すとも正法・像法の女人には過ぐべからず。又減劫になれば日々に貪・瞋・痴増長すべし。
貪・瞋・痴強盛なる女人を法華経の機とすべくは末法万年等の女人をも取るべし。貪・瞋・痴微薄なる女人をとらば正像の女人をも取るべし。今とりわけて後五百歳二千余年の女人を仏の記させ給ふ事は第一の不審なり。/ 答へて云く、此の事第一の不審なり。然りと雖も試みに一義を顕はすべし。夫れ仏と申すは大丈夫の相を具せるを仏と名づく。故に女人には大丈夫の相無し。されば諸小乗経には一向に女人成仏を許さず。女人も男子と生まれて後に成仏あるべしと説かる。諸大乗経には多分は女人成仏を許さず。少分成仏往生を許せども又有名無実なり。然りと雖も法華経は九界の一切衆生、善悪・賢愚・有心無心・有性無性・男子女人、一人も漏れなく成仏往生を許さる。然りと雖も経文略を存する故に、二乗作仏・女人悪人の成仏・久遠実成等をこまやかに説いて、男子・善人・菩薩等の成仏をば委細にあげず。人此れを疑はざる故か。然るに在世には仏の威徳の故に成仏やすし。仏の滅後には成仏は難く、往生は易かるべし。然りと雖も滅後には二乗少なく善人少なし。悪人のみ多かるべし。悪人よりも女人の生死を離れん事かたし。然りと雖も正法一千年の女人は像法・末法の女人よりも少しなをざりなるべし。諸経の機たる事も有りなん。
像法の末、末法の始めよりの女人は殊に法器にあらず。諸経の力及ぶべからず。但法華経計り助け給ふべし。故に次上の文に十喩を挙ぐるに、川流江河の中には大海第一、一切の山の中には須弥山第一、一切の星の中には月天子第一、衆星と月との中には日輪第一等とのべて千万億の已今当の諸経を挙げて江河諸山衆星等に譬へて、法華経をば大海・須弥・日月等に譬へ、此の如く讃め已はりて、殊に後五百歳の女人に此の経を授け給ひぬるは、五濁に入り正像二千年過ぎて末法の始めの女人は殊に諂曲なるべき故に、諸経の力及ぶべからず、諸仏の力も及ぶべからず、但法華経の力のみ及び給ふべき故に、後五百歳の女人とは説かれたるなり。されば当世の女人は法華経を離れては往生協ふべからざるなり。/ 問うて云く、双観経に法蔵比丘の四十八願の第三十五に云く「設(も)し我仏を得んに十方無量不可思議の諸仏の世界に其れ女人有りて我が名字を聞いて歓喜信楽して菩提心を発し女身を厭悪せんに、寿終の後復女像と為らば正覚を取らじ」文。善導和尚の観念法門に云く「乃ち弥陀の本願力に由るが故に、女人仏の名号を称へば正しく命終の時即ち女身を転じて男子と成ることを得。弥陀は手を接し菩薩は身を扶け、宝華の上に坐して仏に随ひて往生し、仏の大会に入りて無生を証悟せん」文。
又云く「一切の女人若し弥陀の名願力に因らずんば、千劫・万劫・恒河沙等の劫にも終に女身を転じ得べからず」等文。此の経文は弥陀の本願に依りて、女身男子と成りて往生すべしと見えたり。又善導和尚の「不因弥陀名願力者」等の釈は弥陀の本願によらずば女人の往生有るべからずと見えたり 如何。答へて云く、双観経には女人往生の文は有りといへども、法華経に説かるるところの川流江河の内、或は衆星の光なり。末代後五百歳の女人弥陀の願力に依りて往生せん事は、大石を小船に載せ大冑を弱兵に著せたらんが如し。
◆ 聖愚問答抄 〔C6・文永四年以降〕/ 夫れ生を受けしより死を免れざる理(ことわり)は、賢き御門より卑しき民に至るまで、人ごとに是れを知るといへども、実に是れを大事とし是れを歎く者、千万人に一人も有りがたし。無常の現起するを見ては、疎きをば恐れ親しきをば歎くといへども、先立つははかなく、留まるはかしこきやうに思ひて、昨日は彼のわざ今日は此の事とて、徒らに世間の五欲にほだされて、白駒のかげ過ぎやすく、羊の歩み近づく事をしらずして、空しく衣食の獄につながれ、徒らに名利の穴にをち、三途の旧里に帰り、六道のちまたに輪回せん事、心有らん人誰か歎かざらん、誰か悲しまざらん。嗚呼(ああ)老少不定は娑婆の習ひ、会者定離は浮世のことはりなれば、始めて驚くべきにあらねども、正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに、或は幼き子をふりすて、或は老いたる親を留めをき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣く心の中、さこそ悲しかるらめ。行くもかなしみ留まるもかなしむ。彼の楚王が神女に伴ひし情を一片の朝の雲に残し、劉氏が仙客に値ひし思ひを七世の後胤に慰む、予が如き者底(なに)に縁りて愁ひを休めん。かかる山左のいやしき心なれば身には思ひのなかれかしと云ひけん人の古事さへ思ひ出でられて、末の代のわすれがたみにもとて難波のもしほ草をかきあつめ、水くきのあとを形の如くしるしをくなり。
悲しきかな痛ましきかな、我等無始より已来、無明の酒に酔ひて六道四生に輪回して、或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび、或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ、或時は餓鬼・飢渇の悲しみに値ひて、五百生の間飲食の名をも聞かず。或時は畜生残害の苦しみをうけて、小さきは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる、是れを残害の苦と云ふ。或時は修羅闘諍の苦をうけ、或時は人間に生まれて八苦をうく。生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり。或時は天上に生まれて五衰をうく。此の如く三界の間を車輪のごとく回り、父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず、夫婦の会ひ遇へるも会ひ遇ひたる事をしらず、迷へる事は羊目に等しく、暗き事は狼眼に同じ。我を生みたる母の由来をもしらず、生を受けたる我が身も死の終りをしらず。嗚呼(ああ)受け難き人界の生をうけ、値ひ難き如来の聖教に値ひ奉れり。一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし。今度若し生死のきづなをきらず、三界の籠樊(ろうはん)を出でざらん事かなしかるべし、かなしかるべし。/ 爰に或智人来たりて示して云く、汝が歎く所実に爾なり。此の如く無常のことはりを思ひ知り、善心を発す者は麟角よりも希なり。此のことはりを覚らずして、悪心を発す者は牛毛よりも多し。
汝早く生死を離れ菩提心を発さんと思はば、吾最第一の法を知れり、志あらば汝が為に之れを説いて聞かしめん。/ 其の時愚人座より起ちて掌を合はせて云く、我は日来外典を学し風月に心をよせて、いまだ仏教と云ふ事を委細にしらず。願はくは上人我が為に是れを説き給へ。其の時上人の云く、汝耳を伶倫が耳に寄せ目を離朱が眼にかつて、心をしづめて我が教へをきけ。汝が為に之れを説かん。夫れ仏教は八万の聖教多けれども、諸宗の父母たる事戒律にはしかず。されば天竺には世親・馬鳴等の薩、唐土には恵曠・道宣と云ひし人是れを重んず。我が朝には人皇四十五代聖武天皇の御宇に、鑑真和尚此の宗と天台宗と両宗を渡して東大寺の戒壇之れを立つ。爾しより已来当世に至るまで、崇重年旧り尊貴日に新たなり。就中 極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで、生身の如来と是れを仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾なり。飯島の津にて六浦の関米を取りては諸国の道を作り、七道に木戸をかまへて人別の銭を取りては諸河に橋を渡す。慈悲は如来に斉しく、徳行は先達に越えたり。汝早く生死を離れんと思はば、五戒二百五十戒を持ち慈悲をふかくして物の命を殺さずして、良観上人の如く道を作り橋を渡せ。是れ第一の法なり。汝持たんや否や。
愚人弥(いよいよ)掌を合はせて云く、能く能く持ち奉らんと思ふ。具に我が為に是れを説き給へ。抑 五戒二百五十戒と云ふ事は我等未だ存知せず。委細に是れを示し給へ。智人云く、汝は無下に愚かなり。五戒二百五十戒と云ふ事をば孩児(おさなご)も是れをしる。然れども汝が為に之れを説かん。五戒とは一には不殺生戒、二には不偸盗戒、三には不妄語戒、四には不邪淫戒、五には不飲酒戒是れなり。二百五十戒の事は多き間之れを略す。其の時に愚人礼拝恭敬して云く、我今日より深く此の法を持ち奉るべし。/ 爰に予が年来の知音(ちいん)、或所に隠居せる居士一人あり。予が愁歎を訪はん為に来たれるが、始めには往事渺茫として夢に似たる事をかたり、終りには行く末の冥々として弁へ難き事を談ず。欝を散じ思ひをのべて後、予に問うて云く、抑 人の世に有る誰か後生を思はざらん。貴辺何なる仏法をか持ちて出離をねがひ、又亡者の後世をも訪ひ給ふや。予答へて云く、一日或上人来たりて我が為に五戒二百五十戒を授け給へり。実に以て心肝にそみて貴し。我深く良観上人の如く、及ばぬ身にもわろき道を作り、深き河には橋をわたさんと思へるなり。
其の時居士示して云く、汝が道心貴きに似て愚かなり。今談ずる処の法は浅ましき小乗の法なり。されば仏は則ち八種の喩へを設け、文殊は又十七種の差別を宣べたり。或は蛍火日光の喩へを取り、或は水精瑠璃の喩へあり。爰を以て三国の人師も其の破文一に非ず。次に行者の尊重の事、必ず人の敬ふに依りて法の貴きにあらず。されば仏は依法不依人と定め給へり。我伝へ聞く、上古の持律の聖者の振舞ひは「殺を言ひ収を言ふには知浄の語有り、行雲廻雪には死屍の想ひを作す」。而るに今の律僧の振舞ひを見るに、布絹財宝をたくはえ、利銭借請を業とす。教行既に相違せり。誰か是れを信受せん。次に道を作り橋を渡す事、還りて人の歎きなり。飯島の津にて六浦(むつら)の関米(せきまい)を取る、諸人の歎き是れ多し。諸国七道の木戸、是れも旅人のわづらひ只此の事に在り、眼前の事なり、汝見ざるや否や。/ 愚人色を作して云く、汝が智分をもて上人を謗じ奉り、其の法を誹る事謂はれ無し。知りて云ふか、愚にして云ふか、おそろしおそろし。其の時居士笑ひて云く、嗚呼(ああ)おろかなりおろかなり。彼の宗の僻見をあらあら申すべし。抑 教に大小有り、宗に権実を分かてり。鹿苑施小の昔は化城の戸ぼそに導くといへども、鷲峰開顕の莚には其の得益更に之れ無し。
其の時愚人茫然として居士に問うて云く、文証現証実に以て然なり。さて何なる法を持ちてか生死を離れ、速やかに成仏せんや。居士示して云く、我在俗の身なれども深く仏道を修行して、幼少より多くの人師の語を聞き、粗経教をも開き見るに、末代我等が如くなる無悪不造のためには念仏往生の教へにしくはなし。されば恵心僧都は「夫れ往生極楽の教行は濁世末代の目足なり」と云ひ、法然上人は諸経の要文を集めて一向専修の念仏を弘め給ふ。中にも弥陀の本願は諸仏超過の崇重なり。始め無三悪趣の願より、終り得三法忍の願に至るまで、いづれも悲願目出たけれども、第十八の願殊に我等が為に殊勝なり。又十悪・五逆をもきらはず、一念・多念をもえらばず。されば上一人より下万民に至るまで、此の宗をもてなし給ふ事他に異なり、又往生の人それ幾(いくばく)ぞや。/ 其の時愚人の云く、実に小を恥ぢて大を慕ひ、浅きを去りて深きに就くは、仏教の理のみに非ず、世間にも是れ法なり。我早く彼の宗にうつらんと思ふ。委細に彼の旨を語り給へ。彼の仏の悲願の中に五逆十悪をも簡ばずと云へる、五逆とは何等ぞや、十悪とは 如何。
智人の云く、五逆とは父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身の血を出だし、和合僧を破す、是れを五逆と云ふなり。十悪とは身に三、口に四、意に三なり。身に三とは殺・盗・淫、口に四とは妄語・綺語・悪口・両舌、意に三とは貪・瞋・痴、是れを十悪と云ふなり。/ 愚人云く、我今解しぬ。今日よりは他力往生に憑みを懸くべきなり。爰に愚人又云く、以ての外盛んにいみじき密宗の行人あり。是れも予が歎きを訪はんが為に来臨して、始めには狂言・綺語のことはりを示し、終りには顕密二宗の法門を談じて、予に問うて云く、抑 汝は何なる仏法をか修行し、何なる経論をか読誦し奉るや。予答へて云く、我一日或居士の教へに依りて浄土の三部経を読み奉り、西方極楽の教主に憑みを深く懸くるなり。行者云く、仏教に二種有り、一には顕教、二には密教なり。顕教の極理は密教の初門にも及ばずと云云。汝が執心の法を聞けば釈迦の顕教なり。我が所持の法は大日覚王の秘法なり。実に三界の火宅を恐れ、寂光の宝台を願はば須く顕教を捨てて密教につくべし。/ 愚人驚きて云く、我いまだ顕密二道と云ふ事を聞かず。何なるを顕教と云ひ、何なるを密教と云へるや。行者の云く、予は是れ頑愚にして敢へて賢を存せず。然りと雖も今一二の文を挙げて汝が矇昧を挑(かか)げん。
顕教とは舎利弗等の請ひに依りて応身如来の説き給ふ諸教なり。密教とは自受法楽の為に法身大日如来の金剛薩を所化として説き給ふ処の大日経等の三部なり。/ 愚人云く、実に以て然なり。先非をひるがへして賢き教へに付き奉らんと思ふなり。又爰に萍のごとく諸州を回り、蓬のごとく県々に転ずる非人の、それとも知らず来たり、門の柱に寄り立ちて含笑(ほくそえ)み語る事なし。あやしみをなして是れを問ふに始めには云ふ事なし。後に強ひて問ひを立つる時、彼れが云く、月蒼々として風忙々たりと。形質常に異に、言語又通ぜず。其の至極を尋ぬれば当世の禅法是れなり。予彼の人の有様を見、其の言語を聞いて仏道の良因を問ふ時、非人の云く、修多羅の教は月をさす指、教網は是れ言語にとどこほる妄事なり。我が心の本分におちつかんと出で立つ法は其の名を禅と云ふなり。/ 愚人云く、願はくは我聞かんと思ふ。非人云く、実に其の志深くば壁に向かひ坐禅して本心の月を澄ましめよ。爰を以て西天には二十八祖系乱れず、東土には六祖の相伝明白なり。汝是れを悟らずして教網にかかる、不便不便。是心即仏、即心是仏なれば此の身の外に更に何(いず)くにか仏あらんや。
愚人此の語を聞いてつくづくと諸法を観じ、閑かに義理を案じて云く、仏教万差にして理非明らめ難し。宜なるかな、常啼は東に請ひ善財は南に求め、薬王は臂を焼き楽法は皮を剥ぐ。善知識実に値ひ難し。或は教内と談じ、或は教外と云ふ。此のことはりを思ふに未だ淵底を究めず、法水に臨む者は深淵の思ひを懐き、人師を見る族は薄氷の心を成せり。爰を以て金言には依法不依人と定め、又爪上の土の譬へあり。若し仏法の真偽をしる人あらば尋ねて師とすべし、求めて崇むべし。夫れ人界に生を受くるを天上の糸にたとへ、仏法の視聴は浮木の穴に類せり。身を軽くして法を重くすべしと思ふに依りて衆山に攀(よ)じ、歎きに引かれて諸寺を回る。足に任せて一つの巌窟に至るに、後ろには青山峨々として松風常楽我浄を奏し、前には碧水湯々(しょうしょう)として岸うつ波四徳波羅蜜を響かす。深谷に開敷せる花も中道実相の色を顕はし、広野に綻ぶる梅も界如三千の薫りを添ふ。言語道断心行所滅せり。謂ひつべし商山の四皓の所居とも、又知らず古仏経行の迹なるか。景雲朝に立ち霊光夕べに現ず。嗚呼(ああ)心を以て計るべからず、詞を以て宣ぶべからず。
予此の砌に沈吟とさまよひ、彷徨とたちもとをり、徙倚(しい)とたたずむ。此の処に忽然として一の聖人坐す。其の行儀を拝すれば法華読誦の声深く心肝に染みて、閑窓の戸ぼそを伺へば玄義の床(ゆか)に臂をくたす。/ 爰に聖人、予が求法の志を酌み知りて、詞を和らげ予に問うて云く、汝なにに依りて此の深山の窟に至れるや。予答へて云く、生をかろくして法をおもくする者なり。聖人問うて云く、其の行法 如何。予答へて云く、本より我は俗塵に交はりて未だ出離を弁へず。適(たまたま)善知識に値ひて始めには律、次には念仏真言並びに禅、此等を聞くといへども未だ真偽を弁へず。聖人云く、汝が詞を聞くに実に以て然なり。身をかろくして法をおもくするは先聖の教へ、予が存ずるところなり。抑 上は非想の雲の上、下は那落の底までも、生を受けて死をまぬかるる者やはある。然れば外典のいやしきをしえにも「朝に紅顔有りて世路に誇るとも、夕べには白骨と為りて郊原に朽ちぬ」と云へり。雲上に交はりて雲のびんづらあざやかに、雪のたもとをひるがへすとも、其の楽しみをおもへば夢の中の夢なり。山のふもと、蓬がもとはつゐの栖なり。玉の台(うてな)・錦の帳も後世の道にはなにかせん。
小野小町・衣通姫(そとおりひめ)が花の姿も無常の風に散り、樊(はんかい)張良が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ。されば心ありし古人の云く「あはれなり 鳥べの山の 夕煙 をくる人とて とまるべきかは」、「末のつゆ 本のしづくや 世の中の をくれさきだつ ためしなるらん」。先亡後滅の理(ことわり)、始めて驚くべきにあらず。願ふても願ふべきは仏道、求めても求むべきは経教なり。抑 汝が云ふところの法門をきけば、或は小乗、或は大乗、位の高下は且く之れを置く、還りて悪道の業たるべし。/ 爰に愚人驚きて云く、如来一代の聖教はいづれも衆生を利せんが為なり。始め七処八会の筵(むしろ)より終り跋提河の儀式まで、何れか釈尊の所説ならざる。設ひ一分の勝劣をば判ずとも、何ぞ悪道の因と云ふべきや。聖人云く、如来一代の聖教に権有り実有り、大有り小有り、又顕密二道相分かち其の品一に非ず。須く其の大途を示して汝が迷ひを悟らしめん。夫れ三界の教主釈尊は十九歳にして伽耶城を出で、檀特山に籠りて難行苦行し、三十成道の刻みに三惑頓に破し無明の大夜爰に明けしかば、須く本願に任せて一乗妙法蓮華経を宣ぶべしといへども、機縁万差にして其の機仏乗に堪へず。然れば四十余年に所被の機縁を調へて、後八箇年に至りて出世の本懐たる妙法蓮華経を説き給へり。
然れば仏の御年七十二歳にして、序分無量義経に説き定めて云く「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん。諸の衆生の性欲不同なるを知れり。性欲不同なれば種々に法を説く。種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕はさず」文。此の文の意は、仏の御年三十にして寂滅道場菩提樹の下に坐して、仏眼を以て一切衆生の心根を御覧ずるに、衆生成仏の直道たる法華経をば説くべからず。是れを以て空拳を挙げて嬰児をすかすが如く、様々のたばかりを以て四十余年が間は、いまだ真実を顕はさずと年紀をさして、青天に日輪の出で、暗夜に満月のかかるが如く説き定めさせ給へり。此の文を見て何ぞ同じ信心を以て、仏の虚事と説かるる法華已前の権教に執著して、めづらしからぬ三界の故宅に帰るべきや。されば法華経の一の巻方便品に云く「正直に方便を捨てて但無上道を説く」文。此の文の意は、前四十二年の経々、汝が語るところの念仏・真言・禅・律を正直に捨てよとなり。此の文明白なる上、重ねていましめて第二の巻譬喩品に云く「但楽ひて大乗経典を受持して、乃至余経の一偈をも受けざれ」文。
此の文の意は、年紀かれこれ煩はし、所詮法華経より自余の経をば一偈をも受くべからずとなり。然るに八宗の異義蘭菊に、道俗形を異にすれども、一同に法華経をば崇むる由を云ふ。されば此等の文をばいかが弁へたる。正直に捨てよと云ひて余経の一偈をも禁むるに、或は念仏、或は真言、或は禅、或は律、是れ余経にあらずや。/ 今此の妙法蓮華経とは諸仏出世の本意、衆生成仏の直道なり。されば釈尊は付属を宣べ、多宝は証明を遂げ、諸仏は舌相を梵天に付けて皆是れ真実と宣べ給へり。此の経は一字も諸仏の本懐、一点も多生の助けなり。一言一語も虚妄あるべからず。此の経の禁めを用ゐざる者は諸仏の舌をきり賢聖をあざむく人に非ずや。其の罪実に怖るべし。されば二の巻に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」文。此の文の意は、若人此経の一偈一句をも背かん人は、過去・現在・未来三世十方の仏を殺さん罪と定む。経教の鏡をもて当世にあてみるに、法華経をそむかぬ人は実に以て有りがたし。事の心を案ずるに不信の人尚無間を免れず。況や念仏の祖師法然上人は、法華経をもて念仏に対して抛てよと云云。五千七千の経教に何れの処にか法華経を抛てよと云ふ文ありや。
三昧発得の行者、生身の弥陀仏とあがむる善導和尚、五種の雑行を立てて、法華経をば千中無一とて、千人持つとも一人も仏になるべからずと立てたり。経文には「若し法を聞くこと有らん者は一りとして成仏せずということ無けん」と談じて、此の経を聞けば十界の依正皆仏道を成ずと見えたり。爰を以て五逆の調達は天王如来の記別に預かり、非器五障の竜女も南方に頓覚成道を唱ふ。況や復(きっこう)の六即を立てて機を漏らす事なし。善導の言と法華経の文と実に以て天地雲泥せり、何れに付くべきや。就中 其の道理を思ふに、諸仏衆経の怨敵、聖僧衆人の讐敵なり。経文の如くならば、争でか無間を免るべきや。/ 爰に愚人色を作(な)して云く、汝賤しき身を以て恣に莠言を吐く。悟りて言ふか、迷ひて言ふか、理非弁へ難し。忝くも善導和尚は弥陀善逝の応化、或は勢至菩薩の化身と云へり。法然上人も亦然なり。善導の後身といへり。上古の先達たる上、行徳秀発し解了底を極めたり。何ぞ悪道に堕ち給ふと云ふや。聖人云く、汝が言(ことば)然なり。予も仰ぎて信を取ること此の如し。但し仏法は強(あなが)ちに人の貴賤には依るべからず、只経文を先とすべし。
身の賤きをもて其の法を軽んずる事なかれ。有人楽生悪死有人楽死悪生の十二字を唱へし毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ、諸行無常等の十六字を談ぜし鬼神は雪山童子に貴まる。是れ必ず狐と鬼神との貴きに非ず、只法を重んずる故なり。されば我等が慈父教主釈尊、双林最後の御遺言、涅槃経の第六には依法不依人とて、普賢文殊等の等覚已還の大薩法門を説き給ふとも、経文を手に把らずば用ゐざれとなり。天台大師云く「修多羅と合せば録して之れを用ゐよ。文無く義無きは信受すべからず」文。釈の意は経文に明らかならんを用ゐ、文証無からんをば捨てよとなり。伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」文。前の釈と同意なり。竜樹菩薩の云く「修多羅に依るは白論なり、修多羅に依らざるは黒論なり」文。意は経の中にも法華已前の権教をすてて此の経につけよとなり。経文にも論文にも法華に対して諸余の経典を捨てよと云ふ事分明なり。然るに開元の録に挙ぐる所の五千七千の経巻に、法華経を捨てよ乃至抛てよと嫌ふことも、又雑行に摂して之れを捨てよと云ふ経文も全く無し。されば慥かの経文を勘へ出だして、善導法然の無間の苦を救はるべし。今世の念仏の行者・俗男・俗女、経文に違するのみならず、又師の教へにも背けり。
五種の雑行とて念仏申さん人のすつべき日記、善導の釈之れ有り。其の雑行とは選択に云く「第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除きて已外、大小乗顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名づく。乃至第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除きて已外、一切諸余の仏菩薩等、及び諸の世天に於て礼拝恭敬するを悉く礼拝雑行と名づく。第四に称名雑行とは、上の弥陀の名号を称するを除きて已外、自余の一切の仏菩薩等、及び諸の世天等の名号を称するを悉く称名雑行と名づく。第五に讃歎供養雑行とは、上の弥陀仏を除きて已外、一切諸余の仏菩薩等、及び諸の世天等に於て讃歎し供養するを悉く讃歎供養雑行と名づく」文。此の釈の意は第一の読誦雑行とは、念仏申さん道俗男女、読むべき経あり、読むまじき経ありと定めたり。読むまじき経は法華経・仁王経・薬師経・大集経・般若心経・転女成仏経・北斗寿命経、ことさらうち任せて諸人読まるる八巻の中の観音経、此等の諸経を一句一偈も読むならば、たとひ念仏を志す行者なりとも、雑行に摂せられて往生すべからずと云云。予愚眼を以て世を見るに、設ひ念仏申す人なれども、此の経々を読む人は多く師弟敵対して七逆罪となりぬ。
又第三の礼拝雑行とは、念仏の行者は弥陀三尊より外は上に挙ぐる所の諸仏・菩薩・諸天善神を礼するをば礼拝雑行と名づけ、又之れを禁ず。然るを日本は神国として伊奘諾(いざなぎ)・伊奘冊尊(いざなみのみこと)此の国を作り、天照太神垂迹御坐して、御裳濯河(みもすそがわ)の流れ久しふして今にたえず。豈に此の国に生を受けて此の邪義を用ゐるべきや。又普天の下に生まれて三光の恩を蒙りながら、誠に日月星宿を破する事尤も恐れ有り。又第四の称名雑行とは、念仏申さん人は唱ふべき仏菩薩の名あり、唱ふまじき仏菩薩の名あり。唱ふべき仏菩薩の名とは、弥陀三尊の名号、唱ふまじき仏菩薩の名号とは、釈迦・薬師・大日等の諸仏、地蔵・普賢・文殊・日月星、二所と三島と熊野と羽黒と天照太神と八幡大菩薩と、此等の名を一遍も唱へん人は念仏を十万遍百万遍申したりとも、此の仏菩薩・日月神等の名を唱ふる過(とが)に依りて無間にはおつとも、往生すべからずと云云。我世間を見るに念仏を申す人も、此等の諸仏・菩薩・諸天善神の名を唱ふる故に、是れ又師の教へに背けり。第五の讃歎供養雑行とは、念仏申さん人は供養すべき仏は弥陀三尊を供養せん外は、上に挙ぐる所の仏菩薩・諸天善神に香華のすこしをも供養せん人は、念仏の功は貴とけれども、此の過に依りて雑行に摂すと是れをきらふ。
然るに世を見るに、社壇に詣でては幣帛(へいはく)を捧げ、堂舎に臨みては礼拝を致す、是れ又師の教へに背けり。汝若し不審ならば選択を見よ、其の文明白なり。又善導和尚の観念法門経に云く「酒肉五辛誓ひて発願して手に捉らざれ、口に喫まざれ。若し此の語に違せば、即ち身口倶に悪瘡を著けんと願ぜよ」文。此の文の意は、念仏申さん男女・尼法師は酒を飲まざれ魚鳥をも食はざれ、其の外にらひる等の五つのからくくさき物を食はざれ。是れを持たざる念仏者は今生には悪瘡身に出で、後生には無間に堕すべしと云云。然るに念仏申す男女・尼法師此の誡めをかへりみず、恣に酒をのみ魚鳥を食ふ事、剣を飲む譬へにあらずや。/ 爰に愚人云く、誠に是れ此の法門を聞くに、念仏の法門実に往生すと雖も其の行儀修行し難し。況や彼の憑む所の経論は皆以て権説なり、往生すべからざるの条分明なり。但真言を破する事は其の謂はれ無し。夫れ大日経とは大日覚王の秘法なり。大日如来より系も乱れず、善無畏不空之れを伝へ、弘法大師は日本に両界の曼陀羅を弘め、尊高三十七尊秘奥なる者なり。然るに顕教の極理は尚密教の初門にも及ばず。爰を以て後唐院は「法華尚及ばず、況や自余の教をや」と釈し給へり。此の事如何が心うべきや。
聖人示して云く、予も始めは大日に憑みを懸け、密宗に志を寄す。然れども彼の宗の最底を見るに其の立義も亦謗法なり。汝が云ふ所の高野の大師は嵯峨天皇の御宇の人師なり。然るに皇帝より仏法の浅深を判釈すべき由の宣旨を給はりて、十住心論十巻之れを造る。此の書広博なる間、要を取りて三巻に之れを縮め、其の名を秘蔵宝鑰と号す。始め異生羝羊心より終り秘密荘厳心に至るまで十に分別し、第八法華、第九華厳、第十真言と立てて法華は華厳にも劣れば大日経には三重の劣と判じて「此の如きの乗々は自乗に仏の名を得れども、後に望めば戯論と作す」と書きて、法華経を狂言綺語と云ひ、釈尊をば無明に迷へる仏と下せり。仍って伝法院を建立せし弘法の弟子正覚房は「法華経は大日経のはきものとりに及ばず、釈迦仏は大日如来の牛飼ひにも足らず」と書けり。汝心を静めて聞け、一代五千七千の経教、外典三千余巻にも、法華経は戯論三重の劣、華厳経にも劣り、釈尊は無明に迷へる仏にて、大日如来の牛飼ひにも足らずと云ふ慥かなる文ありや。設ひさる文有りと云ふとも能く能く思案あるべきか。経教は西天より東土に(およ)ぼす時、訳者の意楽に随ひて経論の文不定なり。さて後秦の羅什三蔵は我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり。
我が訳する所の経若し誤りなくば、我死して後、身は不浄なれば焼くると云ふとも、舌計りは焼けざらんと常に説法し給ひしに、焼き奉る時御身は皆骨となるといへども、御舌計りは青蓮華の上に光明を放ちて、日輪を映奪(えいだつ)し給ひき、有り難き事なり。さてこそ殊更彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給ひしか。然れば延暦寺の根本大師、諸宗を責め給ひしには、法華を訳する三蔵は舌の焼けざる験(しるし)あり。汝等が依経は皆誤れりと破し給ふは是れなり。涅槃経にも「我が仏法は他国へ移らん時誤り多かるべし」と説き給へば、経文に設ひ法華経はいたずら事、釈尊をば無明に迷へる仏なりとありとも、権教実教・大乗小乗・説時の前後、訳者能く能く尋ぬべし。所謂 老子・孔子は九思一言・三思一言、周公旦は食するに三度吐き、沐するに三度にぎる。外典のあさましき猶是の如し、況や内典の深義を習はん人をや。其の上此の義経論に迹形(あとかた)もなし。人を毀り法を謗じては悪道に堕つべしとは弘法大師の釈なり。必ず地獄に堕ちんこと疑ひ無き者なり。/ 爰に愚人茫然とほれ、忽然となげひて良久しふして云く、此の大師は内外の明鏡、衆人の導師たり。徳行世に勝れ名誉普く聞えて、或は唐土より三鈷を八万余里の海上をなぐるに即ち日本に至り、或は心経の旨をつづるに蘇生の族途に彳(たたず)む。
然れば此の人ただ人にあらず、大聖権化の垂迹なり。仰ぎて信を取らんにはしかじ。聖人云く、予も始めは然なり。但し仏道に入りて理非を勘へ見るに、仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず、是れを以て仏は依法不依人と定め給へり。前に示すが如し。彼の阿伽陀仙は恒河を片耳にたたへて十二年、耆兎仙(ぎとせん)は一日の中に大海をすひほす。張階は霧を吐き、欒巴(らんぱ)は雲を吐く。然れども未だ仏法の是非を知らず、因果の道理をも弁へず。異朝の法雲法師は講経勤修の砌に須臾(しゅゆ)に天華をふらせしかども、妙楽大師は「感応斯の若きも猶理に称はず」とて、いまだ仏法をばしらずと破し給ふ。夫れ此の法華経と申すは已今当の三説を嫌ひて、已前の経をば未顕真実と打ち破り、肩を並ぶる経をば今説の文を以てせめ、已後の経をば当説の文を以て破る、実に三説第一の経なり。第四の巻に云く「薬王今汝に告ぐ、我が所説の経典而も此の経の中に於て法華最第一なり」文。此の文の意は、霊山会上に薬王菩薩と申せし菩薩に仏告げて云く、始め華厳より終り涅槃経に至るまで無量無辺の経は恒河沙等のごとく数多し。其の中には今の法華経最第一と説かれたり。然るを弘法大師は一の字を三と読まれたり。
同巻に云く「我仏道を為(もっ)て無量の土に於て、始めより今に至るまで広く諸経を説く、而も其の中に於て此の経第一なり」。此の文の意は、又釈尊無量の国土にして或は名字を替へ、或は年紀を不同になし、種々の形を現じて説く所の諸経の中には、此の法華経を第一と定められたり。同じき第五巻には最在其上と宣べて、大日経・金剛頂経等の無量の経の頂に、此の経は有るべしと説かれたるを、弘法大師は最在其下と謂へり。釈尊と弘法と、法華経と宝鑰とは実に以て相違せり。釈尊を捨て奉りて弘法に付くべきか。又弘法を捨てて釈尊に付き奉るべきか。又経文に背きて人師の言に随ふべきか、人師の言を捨てて金言を仰ぐべきか。用捨心に有るべし。/ 又第七の巻薬王品に十喩を挙げて教を歎ずるに第一は水の譬へなり。江河を諸経に譬へ、大海を法華に譬へたり。然るを大日経は勝れたり、法華は劣れりと云ふ人は、即ち大海は小河よりもすくなしと云はん人なり。然るに今の世の人は海の諸河に勝る事をば知るといへども、法華経の第一なる事をば弁へず。第二は山の譬へなり。衆山を諸経に譬へ須弥山を法華に譬へたり。須弥山は上下十六万八千由旬の山なり。何れの山か肩を並ぶべき。法華経を大日経に劣ると云ふ人は、富士山は須弥山より大なりと云はん人なり。
第三は星月の譬へなり。諸経を星に譬へ法華経を月に譬ふ。月と星とは何れ勝りたりと思へるや。乃至次下には「此の経も亦復是の如し、一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為(こ)れ第一」とて、此の法華経は只釈尊一代の第一と説き給ふのみにあらず、大日及び薬師・阿弥陀等の諸仏、普賢・文殊等の菩薩の一切の所説諸経の中に此の法華経第一と説けり。されば若し此の経に勝れたりと云ふ経有らば、外道天魔の説と知るべきなり。/ 其の上大日如来と云ふは久遠実成の教主釈尊、四十二年和光同塵して其の機に応ずる時、三身即一の如来暫く毘盧遮那と示せり。是の故に開顕実相の前には釈迦の応化と見えたり。爰を以て普賢経には「釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけ、其の仏の住処を常寂光と名づく」と説けり。今法華経は十界互具・一念三千・三諦即是・四土不二と談ず。其の上に一代聖教の骨髄たる二乗作仏・久遠実成は今経に限れり。汝語る所の大日経・金剛頂経等の三部の秘経に此等の大事ありや。善無畏・不空等此等の大事の法門を盗み取りて、己が経の眼目とせり。本経本論には迹形(あとかた)もなき誑惑なり。急ぎ急ぎ是れを改むべし。
抑 大日経とは四教含蔵して尽形寿戒等を明かせり。唐土の人師は天台所立の第三時方等部の経なりと定めたる権教なり。あさましあさまし。汝実に道心あらば急ぎて先非を悔ゆべし。夫れ以みれば、此の妙法蓮華経は一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につづめたり。
◆ 聖愚問答抄 〔C6・文永四年以降〕/ 爰に愚人聊か和らぎて云く、経文は明鏡なり、疑慮をいたすに及ばず。但し法華経は三説に秀で一代に超ゆるといへども、言説に拘はらず経文に留まらざる我等が心の本分の禅の一法にはしくべからず。凡そ万法を払遣(ほっけん)して言語の及ばざる処を禅法とは名づけたり。されば跋提河の辺り沙羅林の下にして、釈尊金棺より御足を出だし拈華微笑して、此の法門を迦葉に付属ありしより已来、天竺二十八祖系も乱れず、唐土には六祖次第に弘通せり。達磨は西天にしては二十八祖の終り、東土にしては六祖の始めなり。相伝をうしなはず教網に滞るべからず。爰を以て大梵天王問仏決疑経に云く「吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙の法門有り、教外に別に伝ふ。文字を立てず摩訶迦葉に付属す」とて、迦葉に此の禅の一法をば教外に伝ふと見えたり。都て修多羅の経教は月をさす指、月を見て後は指何かはせん。心の本分禅の一理を知りて後は仏教に心を留むべしや。されば古人の云く、十二部経は総て是れ閑文字と云云。仍って此の宗の六祖恵能の壇経を披見するに実に以て然なり。言下に契会(けいえ)して後は教は何かせん。此の理如何が弁へんや。
聖人示して云く、汝先づ法門を置きて道理を案ぜよ。抑 我一代の大途を伺はず十宗の淵底を究めずして、国を諫め人を教ふべきか。汝が談ずる所の禅は我最前に習ひ極めて、其の至極を見るに甚だ以て僻事なり。禅に三種あり。所謂 如来禅と教禅と祖師禅となり。汝が言ふ所の祖師禅等の一端之れを示さん。聞いて其の旨を知れ。若し教を離れて之れを伝ふといはば、教を離れて理無く、理を離れて教無し。理全く教、教全く理と云ふ道理、汝之れを知らざるや。拈華微笑して迦葉に付属し給ふと云ふも是れ教なり。不立文字と云ふ四字も即ち教なり、文字なり。此の事和漢両国に事旧りぬ。今いへば事新しきに似たれども、一両の文を勘へて汝が迷ひを払はしめん。補注十一に云く「又復若し言説に滞ると謂はば、且く娑婆世界には何を将(もっ)て仏事と為るや。禅徒豈に言説をもて人に示さざらんや。文字を離れて解脱の義を談ずること無し、豈に聞かざらんや」。乃至次下に云く「豈に達磨西来して直指人心・見性成仏すと。而るに華厳等の諸大乗経に此の事無からんや。嗚呼(ああ)世人何ぞ其れ愚かなるや。汝等当に仏の所説を信ずべし。諸仏如来は言虚妄無し」。
此の文の意は、若し教文にとどこほり言説にかかはるとて、教の外に修行すといはば、此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作(な)すべき。さやうに云ふところの禅人も、人に教ふる時は言を以て云はざるべしや。其の上仏道の解了を云ふ時、文字を離れて義なし。又達磨西より来たりて直に人心を指して仏なりと云ふ。是れ程の理は華厳・大集・大般若等の法華已前の権大乗経にも在々処々に之れを談ぜり。是れをいみじき事とせんは無下に云ひがひ(甲斐)なき事なり。嗚呼(ああ)今世の人何ぞ甚だひがめるや。只中道実相の理に契当せる妙覚果満の如来の誠諦の言を信ずべきなり。又妙楽大師の弘決の一に此の理を釈して云く「世人教を蔑ろにして理観を尚ぶは誤れるかな、誤れるかな」。此の文の意は、今の世の人々は観心観法を先として経教を尋ね学ばず、還りて教をあなづり経をかろしむる、是れ誤れりと云ふ文なり。/ 其の上当世の禅人自宗に迷へり。続高僧伝を披見するに、習禅の初祖達磨大師の伝に云く「教に籍(よ)りて宗を悟る」。如来一代の聖教の道理を習学し、法門の旨、宗々の沙汰を知るべきなり。又達磨の弟子六祖の第二祖恵可の伝に云く「達磨禅師四巻の楞伽を以て可に授けて云く、我漢の地を観るに唯此の経のみ有り。仁者(きみ)依行せば自ら世を度することを得ん」。
此の文の意は、達磨大師天竺より唐土に来たりて、四巻の楞伽経をもて恵可に授けて云く、我此の国を見るに是の経殊に勝れたり、汝持ち修行して仏に成れとなり。此等の祖師既に経文を前とす。若し之れに依りて経に依ると云はば大乗か小乗か、権教か実教か、能く能く弁ふべし。或は経を用ゐるには禅宗も楞伽経・首楞厳経・金剛般若経等による。是れ皆法華已前の権教覆蔵の説なり。只諸経に是心即仏・即心是仏等の理の方を説ける一両の文と句とに迷ひて、大小・権実・顕露・覆蔵をも尋ねず、只不二を立てて而二を知らず。謂己均仏の大慢を成せり。彼の月氏の大慢が迹をつぎ、此の尸那の三階禅師が古風を追ふ。然りと雖も大慢は生きながら無間に入り、三階は死して大蛇と成りぬ、をそろしをそろし。釈尊は三世了達の解了朗らかに、妙覚果満の智月潔くして未来を鑑みたまひ像法決疑経に記して云く「諸の悪比丘、或は禅を修すること有るとも経論に依らず。自ら己見を逐ひて非を以て是と為し、是れ邪、是れ正と分別すること能はず。遍く道俗に向かひて是の如き言を作さく、我能く是れを知り、我能く是れを見ると。当に知るべし、此の人は速やかに我が法を滅す」。此の文の意は、諸の悪比丘あて禅を信仰して経論をも尋ねず、邪見を本として、法門の是非をば弁へずして、而も男女・尼法師等に向かひて、我よく法門を知れり、人はしらずと云ひて此の禅を弘むべし。
当に知るべし、此の人は我が正法を滅すべしとなり。此の文をもて当世を見るに宛も符契の如し。汝慎むべし汝畏るべし。/ 先に談ずる所の天竺に二十八祖有りて、此の法門を口伝すと云ふ事、其の証拠何れに出でたるや。仏法を相伝する人二十四人、或は二十三人と見えたり。然るを二十八祖と立つる事所出の翻訳何れにかある。全く見えざるところなり。此の付法蔵の人の事、私に書くべきにあらず、如来の記文分明なり。其の付法蔵伝に云く「復比丘有り名を師子と曰ふ。賓国(けいひんこく)に於て大いに仏事を作す。時に彼の国王をば弥羅掘(みらくつ)と名づけ、邪見熾盛にして心に敬信無く、賓国に於て塔寺を毀壊し衆僧を殺害す。即ち利剣を以て用ゐて師子を斬る。頸の中血無く唯乳のみ流出す。法を相付する人是れに於て便ち絶えん」。此の文の意は、仏我が入涅槃の後に我が法を相伝する人二十四人あるべし。其の中に最後弘通の人に当たるをば師子比丘と云はん。賓国(けいひんこく)と云ふ国にて我が法を弘むべし。彼の国の王をば檀弥羅王と云ふべし。邪見放逸にして仏法を信ぜず、衆僧を敬はず、堂塔を破り失ひ、剣をもて諸僧の頸を切るべし。
即ち師子比丘の頸をきらん時に、頸の中に血無く、只乳のみ出づべし。是の時に仏法を相伝せん人絶ゆべしと定められたり。/ 案の如く仏の御言違はず師子尊者頸をきられ給ふ事、実に以て爾なり。王のかいな共につれて落ち畢んぬ。二十八祖を立つる事、甚だ以て僻見なり。禅の僻事是れより興るなるべし。今恵能が壇経に二十八祖を立つる事は、達磨を高祖と定むる時、師子と達磨との年紀遥かなる間、三人の禅師を私に作り入れて、天竺より来たれる付法蔵系乱れずと云ひて、人に重んぜさせん為の僻事なり。此の事異朝にして事旧りぬ。補注の十一に云く「今家は二十三祖を承用す。豈に誤り有らんや。若し二十八祖を立つるは未だ所出の翻訳を見ざるなり。近来更に石に刻み版に鏤(ちりば)め、七仏二十八祖を図状し、各一偈を以て伝授相付すること有り。嗚呼(ああ)仮託何ぞ其れ甚だしきや。識者力有らば宜しく斯の弊を革むべし」。是れも二十八祖を立て、石にきざみ版にちりばめて伝ふる事、甚だ以て誤れり。此の事を知る人あらば此の誤りをあらためなをせとなり。祖師禅甚だ僻事なる事是れにあり。先に引く所の大梵天王問仏決疑経の文を教外別伝の証拠に汝之れを引く、既に自語相違せり。
其の上此の経は説相権教なり、又開元・貞元の再度の目録にも全く載せず、是れ録外の経なる上権教と見えたり。然れば世間の学者用ゐざるところなり、証拠とするにたらず。/ 抑 今の法華経を説かるる時益をうる輩、迹門界如三千の時敗種の二乗仏種を萌す。四十二年の間は永不成仏と嫌はれて、在々処々の集会にして罵詈誹謗の音をのみ聞き、人天大会に思ひうとまれて既に飢ゑ死ぬべかりし人々も、今の経に来たりて舎利弗は華光如来、目連は多摩羅跋栴檀香如来、阿難は山海恵自在通王仏、羅羅は踏七宝華如来、五百の羅漢は普明如来、二千の声聞は宝相如来の記別に預かる。顕本遠寿の日は微塵数の菩薩、増道損生して位大覚に隣る。されば天台大師の釈を披見するに、他経には菩薩は仏になると云ひて、二乗の得道は永く之れ無し。善人は仏になると云ひて、悪人の成仏を明かさず。男子は仏になると説いて、女人は地獄の使ひと定む。人天は仏になると云ひて、畜類は仏になるといはず。然るを今の経は是等が皆仏になると説く、たのもしきかな。末代濁世に生を受くといへども提婆が如くに五逆をも造らず三逆をも犯さず。而るに提婆猶天王如来の記別を得たり。況や犯さざる我等が身をや。
八歳の竜女既に蛇身を改めずして南方に妙果を証す。況や人界に生を受けたる女人をや。只得難きは人身、値ひ難きは正法なり。汝早く邪を翻し正に付き、凡を転じて聖を証せんと思はば、念仏・真言・禅・律を捨てて此の一乗妙典を受持すべし。若し爾らば妄染の塵穢を払ひて、清浄の覚体を証せん事、疑ひなかるべし。/ 爰に愚人云く、今聖人の教誡を聴聞するに、日来の矇昧忽ちに開けぬ。天真発明とも云ひつべし。理非顕然なれば誰か信仰せざらんや。但し世上を見るに上一人より下万民に至るまで、念仏・真言・禅・律を深く信受し御座す。さる前には国土に生を受けながら争でか王命を背かんや。其の上我が親と云ひ祖と云ひ旁(かたがた)念仏等の法理を信じて他界の雲に交はり畢んぬ。又日本には上下の人数幾か有る。然りと雖も権教権宗の者は多く、此の法門を信ずる人は未だ其の名をも聞かず。仍って善処悪処をいはず、邪法正法を簡ばず、内典五千七千の多きも、外典三千余巻の広きも、只主君の命に随ひ、父母の義に叶ふが肝心なり。されば教主釈尊は天竺にして孝養報恩の理を説き、孔子は大唐にして忠功孝高の道を示す。師の恩を報ずる人は肉をさき身をなぐ。主の恩をしる人は弘演は腹をさき、予譲は剣をのむ。親の恩を思ひし人は丁蘭は木をきざみ、伯瑜は杖になく。
儒・外・内、道は異なりといへども報恩謝徳の教は替る事なし。然れば主師親のいまだ信ぜざる法理を、我始めて信ぜん事、既に違背の過(とが)に沈みなん。法門の道理は経文明白なれば疑網都て尽きぬ。後生を願はずば来世苦に沈むべし。進退惟谷(これきわま)れり、我如何がせんや。/ 聖人云く、汝此の理を知りながら猶是の語をなす。理の通ぜざるか、意の及ばざるか。我釈尊の遺法をまなび、仏法に肩を入れしより已来、知恩をもて最とし報恩をもて前とす。世に四恩あり、之れを知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす。予父母の後世を助け、国家の恩徳を報ぜんと思ふが故に、身命を捨つる事敢へて他事にあらず、唯知恩を旨とする計りなり。先づ汝目をふさぎ心を静めて道理を思へ。我は善道を知りながら親と主との悪道にかからんを諫めざらんや。又愚人の狂ひ酔ひて毒を服せんを我知りながら是れをいましめざらんや。其の如く法門の道理を存じて火・血・刀の苦を知りながら、争でか恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや。身をもなげ命をも捨つべし。諫めてもあきたらず歎きても限りなし。今生に眼を合はする苦しみ猶是れを悲しむ。況や悠々たる冥途の悲しみ、豈に痛まざらんや。恐れても恐るべきは後世、慎みても慎むべきは来世なり。
而るを是非を論ぜず親の命に随ひ、邪正を簡ばず主の仰せに順はんと云ふ事、愚痴の前には忠孝に似たれども、賢人の意には不忠不孝是れに過ぐべからず。/ されば教主釈尊は転輪聖王の末、師子頬王の孫、浄飯王の嫡子として五天竺の大王たるべしといへども、生死無常の理をさとり出離解脱の道を願ひて世を厭ひ給ひしかば、浄飯大王是れを歎き、四方に四季の色を顕はして太子の御意を留め奉らんと巧(たくら)み給ふ。先づ東には霞たなびくたえまより、かりがねこしぢに帰り、窓の梅の香玉簾(たますだれ)の中にかよひ、でうでうたる花の色、ももさへづりの鴬、春の気色を顕はせり。南には泉の色白たへにして、かの玉川の卯の華、信太の森のほととぎす、夏のすがたを顕はせり。西には紅葉常葉(ときわ)に交はればさながら錦をおり交へ、荻ふく風閑かにして松の嵐ものすごし。過ぎにし夏のなごりには、沢辺にみゆる蛍の光、あまつ空なる星かと誤り、松虫・鈴虫の声々涙を催せり。北には枯野の色いつしかものうく、池の汀につららゐて、谷の小川もをとさびぬ。かかるありさまを造りて御意をなぐさめ給ふのみならず、四門に五百人づつの兵を置きて守護し給ひしかども、終に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比(ころ)、車匿を召して金泥駒(こんでいく)に鞍置かせ、伽耶城を出でて檀特山に入り十二年、
高山に薪をとり深谷に水を結びて難行苦行し給ひ、三十成道の妙果を感得して、三界の独尊一代の教主と成りて、父母を救ひ群生を導き給ひしをば、さて不孝の人と申すべきか。/ 仏を不孝の人と云ひしは九十五種の外道なり。父母の命に背きて無為に入り、還りて父母を導くは孝の手本なる事、仏其の証拠なるべし。彼の浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王、外道の法に著して仏法に背き給ひしかども、二人の太子は父の命に背きて雲雷音王仏の御弟子となり、終に父を導きて沙羅樹王仏と申す仏になし申されけるは不孝の人と云ふべきか。経文には「棄恩入無為 真実報恩者」と説いて、今生の恩愛をば皆すてて仏法の実の道に入る、是れ実に恩をしれる人なりと見えたり。又主君の恩の深き事汝よりも能くしれり。汝若し知恩の望みあらば深く諫め強ひて奏せよ。非道にも主命に随はんと云ふ事、佞臣の至り不忠の極まりなり。殷の紂王は悪王、比干は忠臣なり。政事理に違ひしを見て、強ひて諫めしかば即ち比干は胸を割かる。紂王は比干死して後、周の王に打たれぬ。今の世までも比干は忠臣といはれ、紂王は悪王といはる。夏の桀王を諫めし竜蓬は頭をきられぬ。されども桀王は悪王、竜蓬は忠臣ぞと云ふ。
主君を三度諫むるに用ゐずば山林に交はれとこそ教へたれ。何ぞ其の非を見ながら黙せんと云ふや。古への賢人世を遁れて山林に交はりし先蹤を集めて、聊か汝が愚耳に聞かしめん。殷の代の太公望は渓(はんけい)と云ふ谷に隠る。周の代の伯夷・叔斉(しゅくせい)は首陽山と云ふ山に籠る。秦の綺里季は商洛山(しょうらくさん)に入り、漢の厳光は孤亭に居し、晋の介子綏(かいしすい)は綿上山(めんじょうさん)に隠れぬ。此等をば不忠と云ふべきか。愚かなり、汝忠を存ぜば諫むべし、孝を思はば言ふべきなり。/ 先づ汝権教権宗の人は多く此の宗の人は少なし、何ぞ多きを捨て少なきに付くと云ふ事、必ず多きが尊くして少なきが卑しきにあらず。賢善の人は希に愚悪の者は多し。麒麟・鸞鳳は禽獣の奇秀(きしゅう)なり。然れども是れは甚だ少なし。牛羊烏鴿(うごう)は畜鳥の拙卑なり。されども是れは転(うたた)多し。必ず多きがたつとくして少なきがいやしくば、麒麟をすてて牛羊をとり、鸞鳳を閣きて烏鴿をとるべきか。摩尼金剛は金石の霊異なり。此の宝は乏しく、瓦礫土石は徒ら物の至り、是れは又巨多(こた)なり。汝が言の如くならば、玉なんどをば捨てて瓦礫を用ゐるべきか。はかなしはかなし。
聖君は希(まれ)にして千年に一たび出で、賢佐は五百年に一たび顕はる。摩尼は空しく名のみ聞く、麟鳳誰か実を見たるや。世間出世善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり。然れば何ぞ強(あなが)ちに少なきをおろかにして多きを詮とするや。土沙は多けれども米穀は希なり。木皮は充満すれども布絹は些少なり。汝只正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。/ 爰に愚人席をさり袂をかいつくろひて云く、誠に聖教の理をきくに、人身は得難く、天上の糸筋の海底の針に貫けるよりも希に、仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇ふよりも難し。今既に得難き人界に生をうけ、値ひ難き仏教を見聞しつ、今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。夫れ一劫受生の骨は山よりも高けれども、仏法の為にはいまだ一骨をもすてず。多生恩愛の涙は海よりも深けれども、尚後世の為には一滴をも落さず。拙きが中に拙く、愚かなるが中に愚かなり。設ひ命をすて身をやぶるとも、生を軽くして仏道に入り、父母の菩提を資(たす)け、愚身が獄縛をも免るべし。能く能く教を示し給へ。抑 法華経を信ずる其の行相 如何。五種の行の中には先づ何れの行をか修すべき。丁寧に尊教を聞かん事を願ふ。
聖人示して云く、汝蘭室の友に交はりて麻畝の性と成る。誠に禿樹禿(かぶろ)に非ず春に遇ひて栄え華さく。枯草枯るに非ず、夏に入りて鮮やかに注ふ。若し先非を悔いて正理に入らば、湛寂の潭(ふち)に遊泳して無為の宮に優遊せん事疑ひなかるべし。抑 仏法を弘通し群生を利益せんには、先づ教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり。所以は時に正像末あり、法に大小乗あり、修行に摂折あり。摂受の時折伏を行ずるも非なり。折伏の時摂受を行ずるも失(とが)なり。然るに今世は摂受の時か折伏の時か先づ是れを知るべし。摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて、邪法邪師一人もなしといはん、此の時は山林に交はりて観法を修し、五種六種乃至十種等を行ずべきなり。折伏の時はかくの如くならず。経教のおきて蘭菊に、諸宗のおぎろ誉れを擅(ほしいまま)にし、邪正肩を並べ大小先を争はん時は、万事を閣きて謗法を責むべし、是れ折伏の修行なり。此の旨を知らずして摂折途に違はば、得道は思ひもよらず、悪道に堕つべしと云ふ事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈にも分明なり。是れ仏法修行の大事なるべし。譬へば文武両道を以て天下を治るに、武を先とすべき時もあり、文を旨とすべき時もあり。
天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし。東夷・南蛮・西戎・北狄(ほくてき)蜂起して、野心をさしはさまんには武を先とすべきなり。文武のよき事計りを心えて時をもしらず、万邦安堵の思ひをなして世間無為ならん時、甲冑をよろひ兵杖をもたん事も非なり。又王敵起こらん時、戦場にして武具をば閣きて筆硯(ひっけん)を提ん事、是れも亦時に相応せず。摂受折伏の法門も亦是の如し。正法のみ弘まて邪法邪師無からん時は、深谷にも入り、閑静にも居して、読誦書写をもし、観念工夫をも凝らすべし。是れ天下の静なる時筆硯を用ゐるが如し。権宗謗法国にあらん時は、諸事を閣きて謗法を責むべし。是れ合戦の場に兵杖を用ゐるが如し。/ 然れば章安大師涅槃の疏に釈して云く「昔は時平かにして法弘まる、戒を持すべし杖を持すること勿れ。今は時嶮(さか)しくして法翳る。杖を持すべし戒を持すること勿れ。今昔倶に嶮しくば倶に杖を持すべし、今昔倶に平かならば倶に戒を持すべし。取捨宜しきを得て一向にすべからず」。此の釈の意分明なり。昔は世もすなをに人もただしくして邪法邪義無かりき。されば威儀をただし、穏便に行業を積みて、杖をもて人を責めず、邪法をとがむる事無かりき。
今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり。取捨其の旨を得て一向に執する事なかれと書けり。今の世を見るに正法一純に弘まる国か、邪法の興盛する国か、勘ふべし。然るを浄土宗の法然は念仏に対して法華経を捨閉閣抛とよみ、善導は法華経を雑行と名づけ、剰へ千中無一とて千人信ずとも一人得道の者あるべからずと書けり。真言宗の弘法は法華経を華厳にも劣り、大日経には三重の劣と書き、戯論の法と定めたり。正覚房は法華経は大日経のはきものとりにも及ばずと云ひ、釈尊をば大日如来の牛飼ひにもたらずと判ぜり。禅宗は法華経は吐きたるつばき、月をさす指、教網なんど下す。小乗律等は法華経は邪教、天魔の所説と名づけたり。此等豈に謗法にあらずや。責めても猶あまりあり、禁めても亦たらず。/ 愚人云く、日本六十余州人替はり法異なりといへども、或は念仏者或は真言師或は禅或は律、誠に一人として謗法ならざる人はなし。然りと雖も人の上沙汰してなにかせん。只我が心中に深く信受して、人の誤りをば余所の事にせんと思ふ。
聖人示して云く、汝が言ふ所実にしかなり。我も其の義を存ぜし処に、経文には或は不惜身命とも或は寧喪身命とも説く。何故にかやうには説かるるやと存ずるに、只人をはばからず経文のままに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有りて命にも及ぶべしと見えたり。其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば、教へに背きて仏弟子にはあらずと説かれたり。涅槃経第三に云く「若し善比丘ありて法を壊らん者を見て置きて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法中の怨なり。若し能く駆遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」。此の文の意は、仏の正法を弘めん者、経教の義を悪しく説かんを聞き見ながら我もせめず、我が身及ばずば国主に申し上げても是れを対治せずば、仏法の中の敵なり。若し経文の如くに、人をもはばからず、我もせめ、国主にも申さん人は、仏弟子にして真の僧なりと説かれて候。されば「仏法中怨」の責めを免れんとて、かやうに諸人に悪(にく)まるれども命を釈尊と法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす。汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ。是れを以て章安大師云く「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれとは、身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ」。
此の文の意は、身命をばほろぼすとも正法をかくさざれ。其の故は身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなり。/ 悲しきかな、生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。利の一千年も猶退没の風に破らる。況や人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。歓喜仏の末の世の覚徳比丘正法を弘めしに、無量の破戒の此の行者を怨(あだ)みて責めしかば、有徳国王正法を守る故に、謗法を責めて終に命終して阿仏(あしゅくぶつ)の国に生まれて彼の仏の第一の弟子となる。大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙予国王は不退の位に登る。憑もしきかな、正法の僧を重んじて邪悪の侶を誡むる人、かくの如くの徳あり。されば今の世に摂受を行ぜん人は、謗人と倶に悪道に堕ちん事疑ひ無し。南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護し治罰すること能はず。乃至、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」。
此の文の意は、若し仏法を行ずる人有りて、謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして、邪正権実をも簡ばず、詐(いつわ)りて慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云ふ文なり。今真言・念仏・禅・律の謗人をたださず、いつはて慈悲を現ずる人此の文の如くなるべし。/ 爰に愚人意を窃かにし言を顕にして云く、誠に君を諫めて家を正しくする事先賢の教へ本文に明白なり。外典此の如し、内典是れに違ふべからず。悪を見ていましめず謗を知りてせめずば、経文に背き祖師に違せん。其の禁め殊に重し。今より信心を至すべし。但し此の経を修行し奉らん事叶ひがたし。若し其の最要あらば証拠を聞かんと思ふ。聖人示して云く、今汝の道意を見るに鄭重慇懃なり。所謂 諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり。檀王の宝位を退き、竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり。夫れ以みれば今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ、修行の時刻をば一念随喜と定めたり。凡そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも、只是の五字を説かんためなり。霊山の雲の上、鷲峰の霞の中に、釈尊要を結び地涌付属を得ることありしも法体は何事ぞ、只此の要法に在り。
天台・妙楽の六千張の疏玉を連ぬるも、道邃・行満の数軸の釈金を並ぶるも、併しながら此の義趣を出でず。誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつつなるべし。只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来らぬ福や有るべき。真実なり甚深なり。是れを信受すべし。/ 愚人掌を合はせ膝を折りて云く、貴命肝に染み、教訓意を動かせり。然りと雖も上能兼下の理なれば、広きは狭きを括り多は少を兼ぬ。然る処に五字は少なく文言は多し、首題は狭く八軸は広し。如何ぞ功徳斉等ならんや。聖人云く、汝愚かなり。捨少取多の執須弥よりも高く、軽狭重広の情溟海よりも深し。今の文の初後は必ず多きが尊く、少なきが卑しきにあらざる事、前に示すが如し。爰に又小が大を兼ね、一が多に勝ると云ふ事之れを談ぜん。彼の尼拘類樹の実は芥子三分が一のせいなり。されども五百輛の車を隠す徳あり。是れ小が大を含めるにあらずや。又如意宝珠は一あれども万宝を雨(ふら)して欠くる処之れ無し。是れ又少が多を兼ねたるにあらずや。世間のことわざにも一は万が母といへり、此等の道理を知らずや。
所詮 実相の理の背契を論ぜよ。強(あなが)ちに多少を執する事なかれ。汝至りて愚かなり、今一の譬へを仮らん。夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり。仏性とは法性なり。法性とは菩提なり。所謂 釈迦・多宝・十方の諸仏、上行・無辺行等、普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因・日月・明星・北斗七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神八部・人天大会・閻魔法王、上は非想の雲の上、下は那落の炎の底まで、所有一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経とは名づくるなり。されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕はれ出づる。是れを成仏とは申すなり。例せば籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、是れを見て籠の内の鳥も出でんとするが如し。/ 爰に愚人云く、首題の功徳、妙法の義趣今聞く所詳かなり。但し此の旨趣正しく経文に是れをのせたりや 如何。聖人云く、其の理詳らかならん上は文を尋ぬるに及ばざるか。然れども請ひに随ひて之れを示さん。法華経第八陀羅尼品に云く「汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら福量るべからず」。此の文の意は、仏、鬼子母神・十羅刹女の法華経の行者を守らんと誓ひ給ふを讃むるとして、汝等法華の首題を持つ人を守るべしと誓ふ、其の功徳は三世了達の仏の智恵も尚及びがたしと説かれたり。
仏智の及ばぬ事何かあるべき、なれども法華の題名受持の功徳ばかりは是れを知らずと宣べたり。法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に籠れり。一部八巻文々ごとに、二十八品生起かはれども首題の五字は同等なり。譬へば日本の二字の中に六十余州島二つ入らぬ国やあるべき、籠らぬ郡やあるべき。飛鳥とよべば空をかける者と知り、走獣といへば地をはしる者と心うる。一切名の大切なる事蓋し以て是の如し。天台は名詮自性・句詮差別とも、名者大綱とも判ずる此の謂はれなり。又名は物をめす徳あり、物は名に応ずる用あり。法華題名の功徳も亦以て此の如し。/ 愚人云く、聖人の言の如くば実に首題の功莫大なり。但知ると知らざるとの不同あり。我は弓箭に携はり、兵杖をむねとして未だ仏法の真味を知らず。若し然れば得る所の功徳何ぞ其れ深からんや。聖人云く、円頓の教理は初後全く不二にして初位に後位の徳あり。一行一切行にして功徳備はらざるは之れ無し。若し汝が言の如くば、功徳を知りて植ゑずんば、上は等覚より下は名字に至るまで得益更にあるべからず。今の経は唯仏与仏と談ずるが故なり。譬喩品に云く「汝舎利弗尚此の経に於ては信を以て入ることを得たり。況や余の声聞をや」。
文の心は大智舎利弗も法華経には信を以て入る、其の智分の力にはあらず。況や自余の声聞をやとなり。されば法華経に来たりて信ぜしかば、永不成仏の名を削りて華光如来となり。嬰児に乳をふくむるに、其の味をしらずといへども自然に其の身を生長す。医師(くすし)が病者に薬を与ふるに、病者薬の根源をしらずといへども服すれば任運と病愈ゆ。若し薬の源をしらずと云ひて、医師の与ふる薬を服せずば其の病愈ゆべしや。薬を知るも知らざるも、服すれば病の愈ゆる事以て是れ同じ。既に仏を良医と号し法を良薬に譬へ衆生を病人に譬ふ。されば如来一代の教法を擣和合して妙法一粒の良薬に丸せり。豈に知るも知らざるも服せん者煩悩の病愈えざるべしや。病者は薬をもしらず病をも弁へずといへども服すれば必ず愈ゆ。行者も亦然なり。法理をもしらず煩悩をもしらずといへども、只信すれば見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて、実報寂光の台(うてな)にのぼり、本有三身の膚を磨かん事疑ひあるべからず。/ されば伝教大師云く「能化所化倶に歴劫無く、妙法経力即身成仏す」。法華経の法理を教へん師匠も、又習はん弟子も、久しからずして法華経の力をもて倶に仏になるべしと云ふ文なり。
天台大師も法華経に付きて玄義・文句・止観の三十巻の釈を造り給ふ。妙楽大師は又釈籤・疏記・輔行の三十巻の末文を重ねて消釈す。天台六十巻とは是れなり。玄義には、名体宗用教の五重玄を建立して妙法蓮華経の五字の功能を判釈す。五重玄を釈する中の宗の釈に云く「綱維を提ぐるに目として動かざること無く、衣の一角を牽くに縷として来たらざること無きが如し」。意は此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来たらざる事なく、善根として動かざる事なし。譬へば網の目無量なれども、一つの大綱を引くに動かざる目もなく、衣の糸筋巨多なれども、一角を取るに糸筋として来たらざることなきが如しと云ふ義なり。さて文句には、如是我聞より作礼而去まで文々句々に因縁・約教・本迹・観心の四種の釈を設けたり。次に止観には、妙解の上に立てる所の観不思議境の一念三千、是れ本覚の立行本具の理心なり、今爰に委しくせず。悦ばしきかな、生を五濁悪世に受くといへども、一乗の真文を見聞する事を得たり。熈連恒沙(きれんごうじゃ)の善根を致せる者、此の経にあひ奉りて信を取ると見えたり。汝今一念随喜の信を致す、函蓋相応感応道交疑ひ無し。/ 愚人頭を低れ手を挙げて云く、我今よりは一実の経王を受持し、三界の独尊を本師として、今身より仏身に至るまで此の信心敢へて退転無けん。
設ひ五逆の雲厚くとも、乞ふ、提婆達多が成仏を続ぎ、十悪の波あらくとも、願はくは王子覆講の結縁に同じからん。聖人云く、人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり。故に汝当座は信ずといふとも後日は必ず翻へさん。魔来たり鬼来たるとも騒乱する事なかれ。夫れ天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。されば猪の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を盛んになし、風の求羅をますが如くせば、豈に好き事にあらずや。
◆ 法華経題目抄 〔C2・文永三年一月六日〕/ 根本大師門人 日蓮撰/ 南無妙法蓮華経/ 問うて云く、法華経の意をもしらず、義理をもあぢははずして、只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて、一日に一返、一月乃至一年十年一期生の間に只一返なんど唱へても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかず、つひに不退の位にいたるべしや。答へて云く、しかるべきなり。問うて云く、火、火といへども手にとらざればやけず、水、水といへども口にのまざれば水のほしさもやまず。只南無妙法蓮華経と題目計りを唱ふとも、義趣をさとらずば悪趣をまぬかれん事、いかがあるべかるらん。答へて云く、師子の筋を琴の絃として、一度奏すれば余の絃悉くきれ、梅子のすき声をきけば口につ(唾)たまりうるをう。世間の不思議是の如し。況や法華経の不思議をや。小乗の四諦の名計りをさやづる鸚鵡(おうむ)なを天に生ず。三帰計りを持つ人、大魚の難をまぬかる。何に況や法華経の題目は八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目なり。なんぢ(汝等)此れをとなえて四悪趣をはなるべからずと疑ふか。/ 正直捨方便の法華経には「信を以て入ることを得」と云ひ、双林最後の涅槃経には「是の菩提の因は復無量なりと雖も、若し信心を説けば、則ち已に摂尽す」等云云。
夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす。五十二位の中には十信を本とす。十信の位には信心初めなり。たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見の者なり。たとひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提の者なり。善星比丘は二百五十戒を持ちて四禅定を得、十二部経を諳(そら)にせし者なり。提婆達多は六万八万の宝蔵ををぼへ、十八変を現ぜしかども、此等は有解無信の者なり。今に阿鼻大城にありと聞く。又鈍根第一の須利槃特は、智恵もなく悟りもなし。只一念の信ありて普明如来と成り給ふ。又迦葉・舎利弗等は無解有信の者なり。仏に授記を蒙りて華光如来・光明如来といはれき。仏説いて云く「疑ひを生じて信ぜざらん者は即ち当に悪道に堕つべし」等云云。此等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給ひしなり。/ 而るに今の代に世間の学者の云く、只信心計りにて解心なく、南無妙法蓮華経と唱ふる計りにて、争でか悪趣をまぬかるべき等云云。此の人々は経文の如くならば、阿鼻大城をまぬかれがたし。さればさせる解はなくとも、南無妙法蓮華経と唱ふるならば、悪道をまぬかるべし。譬へば、蓮華は日に随ひて回る、蓮に心なし。芭蕉は雷によりて増長す、是の草に耳なし。我等は蓮華と芭蕉との如く、法華経の題目は日輪と雷との如し。
犀の生角を身に帯して水に入りぬれば、水五尺身に近づかず。栴檀の一葉開きぬれば、四十由旬の伊蘭変ず。我等が悪業は伊蘭と水との如く、法華経の題目は犀の生角と栴檀の一葉との如し。金剛は堅固にして一切の物に破られざれども、羊の角と亀の甲に破らる。尼倶類樹は大鳥にも枝をれざれども、か(蚊)のまつげにす(巣)くう小れう(鷦鷯)鳥にやぶらる。我等が悪業は金剛のごとし、尼倶類樹のごとし。法華経の題目は羊角のごとく、せうれう鳥の如し。琥珀は塵をとり磁石は鉄をすう。我等が悪業は塵と鉄との如く、法華経の題目は琥珀と磁石との如し。かくをもひて常に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ふべし。/ 法華経の第一の巻に云く「無量無数劫にも是の法を聞くこと亦難し」。第五の巻に云く「是の法華経は無量の国中に於て、乃至名字をも聞くことを得べからず」等云云。法華経の御名をきく事は、をぼろげにもありがたき事なり。されば須仙多仏、多宝仏は世にいでさせ給ひたりしかども、法華経の御名をだにもとき給わず。釈迦如来は法華経のために世にいでさせ給ひたりしかども、四十二年が間は名を秘してかたりいださざりしかども、仏の御年七十二と申せし時、はじめて妙法蓮華経ととなえいださせ給ひたりき。
しかりといえども摩訶尸那・日本等の辺国の者は御名をもきかざりき。一千一十余年すぎて、三百五十余年に及んでこそ、纔かに御名計りをば聞きたりしか。さればこの経に値ひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優曇華、無量無辺劫に一度値ふなる一眼の亀にもたとへたり。大地の上に針を立てて大梵天王宮より芥子をなぐるに、針のさきに芥子のつらぬかれたるよりも、法華経の題目に値ふ事はかたし。此の須弥山に針を立ててかの須弥山より大風つよく吹く日、いとをわたさんに、いたりてはりの穴にいとのさきのいりたらんよりも、法華経の題目に値ひ奉ることはかたし。さればこの経の題目をとなえさせ給はんにはをぼしめすべし。生盲の始めて眼あきて父母等をみんよりもうれしく、強きかたきにとられたる者のゆるされて妻子を見るよりもめづらしとをぼすべし。/ 問うて云く、題目計りを唱ふる証文これありや。答へて云く、妙法華経の第八に云く「法華の名を受持せん者、福量るべからず」。正法華経に云く「若し此の経を聞いて名号を宣持せば、徳量るべからず」。添品法華経に云く「法華の名を受持せん者、福量るべからず」等云云。此等の文は題目計りを唱ふる福計るべからずとみへぬ。
一部八巻二十八品を受持読誦し、随喜護持等するは広なり。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略なり。但一四句偈乃至題目計りを唱へとなうる者を護持するは要なり。広・略・要の中には題目は要の内なり。/ 問うて云く、妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をおさめたるや。答へて云く、大海は衆流を納め、大地は有情非情を持ち、如意宝珠は万宝を雨らし、梵王は三界を領す。妙法蓮華経の五字も亦復是の如し。一切の九界の衆生並びに仏界を納めたり。十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む。先づ妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる事をいはば、経の一字は諸経の中の王なり。一切の群経を納む。仏世に出でさせ給ひて五十余年の間八万聖教を説きをかせ給ひき。仏は人寿百歳の時、壬申の歳、二月十五日の夜半に御入滅あり。其の後四月八日より七月十五日に至るまで一夏九旬の間、一千人の阿羅漢結集堂にあつまりて、一切経をかきをかせ給ひき。其の後正法一千年の間は五天竺に一切経ひろまらせ給ひしかども、震旦国には渡らず。像法に入りて一十五年と申せしに、後漢の孝明皇帝永平十年〈丁卯〉の歳、仏経始めて渡りて、唐の玄宗皇帝開元十八年〈庚午〉の歳に至るまで、渡れる訳者一百七十六人、持ち来たる経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙。是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり。
先づ妙法蓮華経の以前、四十余年の間の経の中に大方広仏華厳経と申す経まします。竜宮城には三本あり。上本は十三世界微塵数の品、中本は四十九万八千八百偈一千二百品、下本は十万偈四十八品。此の三本の外に震旦・日本には僅かに八十巻・六十巻・四十巻等あり。阿含小乗経、方等般若の諸大乗経等。大日経は梵本には阿訶(あばらかきゃ)の五字計りをもて三千五百の偈をむすべり。況や余の諸尊の種子・尊形・三摩耶其の数をしらず。而るに漢土には但纔かに六巻七巻なり。涅槃経は双林最後の説、漢土には但四十巻なり。是れも梵本之れ多し。此等の諸経は皆釈迦如来の所説の法華経の眷属の修多羅なり。此の外過去の七仏千仏・遠々劫の諸仏の所説、現在十方の諸仏の諸経も皆法華経の経の一字の眷属なり。されば薬王品に仏、宿王華菩薩に対して云く「譬へば一切の川流江河の諸水の中に海為(こ)れ第一なるが如く、衆山の中に須弥山為れ第一、衆星の中に月天子最も為れ第一」等云云。妙楽大師の釈に云く「已今当説 最為第一」等云云。此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり。譬へば如意宝珠の一切の財(たから)を納め、虚空の万象を含めるが如し。
経の一字は一代に勝る。故に妙法蓮華の四字も又八万法蔵に超過するなり。/ 妙とは法華経に云く「方便の門を開きて真実の相を示す」云云。章安大師の釈に云く「秘密の奥蔵を発く、之れを称して妙と為す」云云。妙楽大師此の文を受けて云く「発とは開なり」等云云。妙と申す事は開と云ふ事なり。世間に財を積める蔵に鑰なければ開く事かたし。開かざれば蔵の内の財を見ず。華厳経は仏説き給ひたりしかども、経を開く鑰をば仏、彼の経に説き給はず。阿含・方等・般若・観経等の四十余年の経々も仏説き給ひたりしかども、彼の経々の意をば開き給はず。門を閉じてをかせ給ひたりしかば、人彼の経々をさとる者一人もなかりき。たとひさとれりとをもひしも僻見にてありしなり。而るに仏、法華経を説かせ給ひて諸経の蔵を開かせ給ひき。此の時に四十余年の九界の衆生始めて諸経の蔵の内の財をば見しりたりしなり。譬へば大地の上に人畜草木等あれども、日月の光なければ眼ある人も人畜草木の色かたちをしらず。日月いで給ひてこそ始めてこれをばしることには候へ。爾前の諸経は長夜のやみのごとし。法華経の本迹二門は日月のごとし。諸の菩薩の二目ある、二乗の眇目なる、凡夫の盲目なる、闡提の生盲なる、共に爾前の経々にてはいろかたちをばわきまえずありし程に、
法華経の時迹門の月輪始めて出で給ひし時、菩薩の両眼先にさとり、二乗の眇目次にさとり、凡夫の盲目次に開き、生盲の一闡提未来に眼の開くべき縁を結ぶ事、是れ偏に妙の一字の徳なり。/ 迹門十四品の一妙、本門十四品の一妙、合はせて二妙。迹門の十妙、本門の十妙、合はせて二十妙。迹門の三十妙、本門の三十妙、合はせて六十妙。迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合はせて百二十重の妙なり。六万九千三百八十四字一々の字の下に一の妙あり。総じて六万九千三百八十四の妙あり。妙とは天竺には薩と云ひ、漢土には妙と云ふ。妙とは具の義なり。具とは円満の義なり。法華経の一々の文字、一字一字に余の六万九千三百八十四字を納めたり。譬へば大海の一渧の水に一切の河の水を納め、一の如意宝珠の芥子計りなるが一切の如意宝珠の財を雨らすが如し。譬へば秋冬枯れたる草木の、春夏の日に値ひて枝葉華菓出来するが如し。爾前の秋冬の草木の如くなる九界の衆生、法華経の妙の一字の春夏の日輪にあひたてまつりて、菩提心の華さき成仏の菓なる。竜樹菩薩の大論に云く「譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」云云。此の文は大論に法華経の妙の徳を釈する文なり。
妙楽大師の釈に云く「治し難きを能く治す、所以に妙と称す」等云云。総じて成仏往生のなりがたき者四人あり。第一には決定性の二乗、第二には一闡提人、第三には空心の者、第四には謗法の者なり。此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ故に法華経を妙とは云ふなり。/ 提婆達多は斛飯王の第一の太子、浄飯王にはをひ、阿難尊者がこのかみ(兄)、教主釈尊にはいとこ、南閻浮提にかろからざる人なり。須陀比丘を師として出家し、阿難尊者に十八変をならひ、外道の六万蔵・仏の八万蔵を胸にうかべ、五法を行じて殆ど仏よりも尊きけしきなり。両頭を立てて破僧罪を犯さんがために象頭山(ぞうずせん)に戒壇を築き、仏弟子を招き取り、阿闍世太子をかたらいて云く、我は仏を殺して新仏となるべし。太子は父の王を殺して新王となり給へ。阿闍世太子すでに父の王を殺せしかば提婆達多又仏をうかがい、大石をもちて仏の御身より血をいだし、阿羅漢たる華色比丘尼を打ちころし、五逆の内たる三逆をつぶさにつくる。其の上瞿伽利尊者を弟子とし、阿闍世王を檀那とたのみ、五天竺十六の大国、五百の中国等の一逆二逆三逆等をつくれる者、皆提婆が一類にあらざる事これなし。たと(譬)えば大海の諸河をあつめ、大山の草木をあつめたるがごとし。
智恵の者は舎利弗にあつまり、神通の者は目連にしたがひ、悪人は提婆にかたらいしなり。されば厚さ十六万八千由旬、其の下に金剛の風輪ある大地すでにわれて、生身に無間大城に堕ちにき。第一の弟子瞿伽梨も又生身に地獄に入る。旃遮婆羅門女もおちにき。波瑠璃王もをちぬ。善星比丘もおちぬ。此等の人々の生身に堕ちしをば五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国の人々も皆これをみる。六欲・四禅・色・無色・梵王・帝釈・第六天の魔王も閻魔法王等も皆御覧ありき。三千大千世界十方法界の衆生も皆聞きしなり。されば大地微塵劫はすぐとも無間大城を出づべからず。劫石はひすらぐとも阿鼻大城の苦はつきじとこそ思ひ合ひたりしに、法華経の提婆品にして、教主釈尊の昔の師天王如来と記し給ふ事こそ不思議にはをぼゆれ。爾前の経々実ならば法華経は大妄語、法華経実ならば爾前の諸経は大虚誑罪なり。提婆が三逆罪を具に犯して、其の外無量の重罪を作りしも、天王如来となる。況や二逆一逆等の諸の悪人の得道疑ひなき事、譬へば大地をかへすに草木等のかへるがごとく、堅石をわる者軟草をわるが如し。故に此の経をば妙と云ふなり。/ 女人をば内外典に是れをそしり、三皇五帝の三墳五典に諂曲者と定む。
されば災は三女より起こると云へり。国の亡び人の損ずる源は女人を本とす。内典の中には初成道の大法たる華厳経には「女人は地獄の使ひなり、能く仏の種子を断つ。外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」文。双林最後の大涅槃経には「一切の江河必ず回曲有り。一切の女人必ず諂曲有り」文。又云く「所有三千界の男子の諸の煩悩を合はせ集めて一人の女人の業障と為す」等云云。大華厳経の文に「能断仏種子」と説かれて候は、女人は仏になるべき種子をいれり。譬へば大旱魃の時、虚空の中に大雲をこり大雨を大地に下すに、かれたるが如くなる無量無辺の草木花さき菓なる。然りと雖もいりたる種はをひずして、結句雨しげければくちうするが如し。仏は大雲の如く、説教は大雨の如く、かれたるが如くなる草木を一切衆生に譬へたり。仏教の雨に潤ひて五戒・十善・禅定等の功徳を得るは花さき菓なるが如し。雨ふれども、いりたる種のをひずして、かへりてくちうするは、女人の仏教に遇へども、生死をはなれずして、かへりて仏法を失ひ、悪道に堕つるに譬ふ。是れを「能断仏種子」とは申すなり。涅槃経の文に、一切の江河のまがれるが如く、女人も又まがれりと説かれたるは、水はやわらかなる物なれば、石山なんどのこわき物にさへられて水のさきひるむゆへに、かしこここへ行くなり。
女人も亦是の如し。女人の心をば水に譬へたり。心よわくして水の如くなり。道理と思ふ事も男のこわき心に値ひぬればせかれてよしなき方へをもむく。又水にゑがくにとどまらざるが如し。女人は不信を体とするゆへに、只今さあるべしと見る事も、又しばらくあればあらぬさまになるなり。仏と申すは正直を本とす。故にまがれる女人は仏になるべきにあらず。五障三従と申して五つのさはり、三つしたがふ事あり。/ されば銀色女(ごんじきにょ)経には「三世の諸仏の眼は大地に落つとも、女人は仏になるべからず」と説かれ、大論には「清風はとると云ふとも女人の心はとりがたし」と云へり。此の如く諸経に嫌はれたりし女人を文殊師利菩薩の妙の一字を説き給ひしかば、忽ちに仏になりき。あまりに不審なりし故に、宝浄世界の多宝仏の第一の弟子智積菩薩・釈迦如来の御弟子の智恵第一の舎利弗尊者、四十余年の大小乗経の意をもつて竜女の仏になるまじき由を難ぜしかども、終に叶はず仏になりにき。初成道の「能断仏種子」も、双林最後の「一切江河必有回曲」の文も破れぬ。銀色女経並びに大論の亀鏡も空しくなりぬ。又智積・舎利弗は舌を巻き口を閉ぢ、人天大会は歓喜のあまりに掌を合はせたりき。是れ偏に妙の一字の徳なり。
此の南閻浮提の内に二千五百の河あり。一々に皆まがれり。南閻浮提の女人、心のまがれるが如し。但し娑婆耶と申す河あり。縄を引きはえたるが如くして直に西海に入る。法華経を信ずる女人亦復是の如く、直に西方浄土へ入るべし。是れ妙の一字の徳なり。/ 妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり。譬へば黄鵠(こうこく)の子死せるに、鶴の母子安となけば死せる子還りて活り、鴆鳥(ちんちょう)水に入らば魚蚌悉く死す。犀の角これにふるれば死せる者皆よみがへるが如く、爾前の経々にて仏種をいりて死せる二乗・闡提・女人等、妙の一字を持ちぬれば、いれる仏種も還りて生ずるが如し。天台云く「闡提は心有り猶作仏すべし。二乗は智を滅す、心生ずべからず。法華能く治す復称して妙と為す」云云。妙楽云く「但大と名づけて妙と名づけざるは、一には有心は治し易く無心は治し難し。治し難きを能く治す、所以に妙と称す」等云云。此等の文の心は、大方広仏華厳経・大集経・大般若経・大涅槃経等は題目に大の字のみありて妙の字なし。但生者を治して死せる者をば治せず。法華経は死せる者をも治す。故に妙と云ふ釈なり。されば諸経にしては仏になるべき者も仏にならず。法華は仏になりがたき者すら尚仏になりぬ。
仏になりやすき者は云ふにや及ぶと云ふ道理立ちぬれば、法華経をとかれて後は諸経にをもむく人一人もあるべからず。/ 而るに正像二千年すぎて末法に入りて当世の衆生の成仏往生のとげがたき事は、在世の二乗・闡提等にも百千万億倍すぎたる衆生の、観経等の四十余年の経々に値ひて生死をはなれんと思ふはいかが。はかなしはかなし。女人は在世正像末総じて一切の諸仏の一切経の中に法華経をはなれて仏になるべからざる事を、霊山の聴衆として道場開悟し給へる天台智者大師定めて云く「他経は但男に記して女に記せず。今経は皆記す」等云云。釈迦如来・多宝仏・十方諸仏の御前にして、摩竭提国王舎城の丑寅、鷲の山と申すところにて、八年の間とき給ひし法華経を智者大師はまのあたり聞こしめしけるに、我五十余年の一代聖教を説きをく事は皆衆生利益のためなり。但し其の中に四十二年の経々には女人仏になるべからずと説き、今法華経にして女人の成仏をとくとなのらせ給ひしを、仏滅後一千五百余年に当たりて鷲の山よりは東北十万八千里の山海をへだてて摩訶尸那と申す国あり。震旦国是れなり。此の国に仏の御使ひとして出世し給ひ、天台智者大師となのりて女人は法華経をはなれて仏になるべからずと定めさせ給ひぬ。
尸那国より三千里をへだてて東方に国あり、日本国となづけたり。漢土の天台大師御入滅二百余年と申せしに、此の国に生まれて伝教大師となのらせ給ひて、秀句と申す書を造り給ひしに「能化所化倶に歴劫無く、妙法経力即身成仏す」と竜女が成仏を定め置き給へり。/ 而るに当世の女人は即身成仏こそかたからめ、往生極楽は法華を憑まば疑ひなし。譬へば江河の大海に入るよりもたやすく、雨の空より落つるよりもはやくあるべき事なり。而るに日本国の一切の女人は南無妙法蓮華経とは唱へずして、女人の往生成仏をとげざる双観・観経等によりて、弥陀の名号を一日に六万返十万返なんどとなうるは、仏の名号なれば巧みなるにはにたれども、女人不成仏不往生の経によれる故に、いたづらに他の財(たから)を数えたる女人なり。これひとえに悪知識にたぼらかされたるなり。されば日本国の一切の女人の御かたきは、虎狼よりも、山賊海賊よりも、父母の敵・とわり等よりも、法華経をばをしえずして念仏等ををしうるこそ、一切の女人の第一の御かたきなれ。/ 女人の御身としては南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱へて、後に暇あらば時々弥陀等の諸仏の名号をも口ずさみなるやうに申し給はんこそ、法華経を信ずる女人にてはあるべきに、当世の女人は一期の間弥陀の名号をばしきりにとなへ、
念仏の仏事をばひまなくをこなひ、法華経をばつやつや唱へず供養せず、或はわづかに法華経を持経者によますれども、念仏者をば父母兄弟なんどのやうにをもひなし、持経者をば所従眷属よりもかろくをもへり。かくしてしかも法華経を信ずる由をなのるなり。抑 浄徳婦人は二人の太子の出家を許して法華経をひろめさせ、竜女は「我闡大乗教度脱苦衆生」とこそ誓ひしが、全く他経計りを行じて此の経を行ぜじとは誓はず。今の女人は偏に他経を行じて法華経を行ずる方をしらず。とくとく心をひるがへすべし、心をひるがへすべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。/ 日蓮花押/ 文永三年〈丙寅〉正月六日清澄寺に於て未の時書し畢んぬ。

◆ 秋元殿御返事 〔C6・文永八年一月一一日・秋元殿〕/ 御文委しく承り候ひ畢んぬ。御文に云く、末法の始め五百年にはいかなる法を弘むべしと、思ひまいらせ候ひしに、聖人の仰せを承り候に、法華経の題目に限りて弘むべき由聴聞申して御弟子の一分に定まり候。殊に五節供はいかなる由来、何なる所表、何を以て正意としてまつり候べく候や云云。/ 夫れ此の事は日蓮委しく知る事なし。然りと雖も粗意得て候。根本大師の御相承ありげに候。総じて真言天台両宗の習ひなり。委しくは曾谷殿へ申し候。次での御時は御談合あるべきか。先づ五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつり、天照太神を歳の神とす。三月三日は法の一字のまつりなり、辰を以て神とす。五月五日は蓮の一字のまつりなり、午を以て神とす。七月七日は華の一字の祭りなり、申を以て神とす。九月九日は経の一字のまつり、戌を以て神とす。此の如く心得て、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。「現世安穏 後生善処」疑ひなかるべし。法華経の行者をば一切の諸天、不退に守護すべき経文分明なり。
経の第五に云く「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之れを衛護す」云云。又云く「天の諸の童子、以て給使を為さん。刀杖も加へず毒も害すること能はず」云云。諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等なり。法とは法華経なり。童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等なり。「臨兵闘者 皆陳列在前」、是れ又「刀杖不加」の四字なり。此等は随分の相伝なり。能く能く案じ給ふべし。第六に云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」云云。五節供の時も唯南無妙法蓮華経と唱へて悉地成就せしめ給へ。委細は又々申すべく候。/ 次に法華経は末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り、御弟子となると仰せ候事。師檀となる事は三世の契り種熟脱の三益、別に人を求めんや。「在々諸仏の土に常に師と倶に生まれん」、「若し法師に親近せば速やかに菩提の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」との金言違ふべきや。提婆品に云ふ「所生の処には常に此の経を聞かん」の人はあに貴辺にあらずや。其の故は次上に「未来世中、若有善男子善女人」と見えたり。善男子とは法華経を持つ俗の事なり。弥(いよいよ)信心をいたし給ふべし、信心をいたし給ふべし。恐々謹言。
正月十一日  日蓮花押/ 秋元殿御返事、安房の国ほた(保田)より出だす。
◆ 善無畏抄 〔C2・文永七年・豆子尼御前〕/ 善無畏三蔵は月氏烏萇奈(うちょうな)国の仏種王の太子なり。七歳にして位に即き、十三にして国を兄に譲り出家遁世し、五天竺を修行して五乗の道を極め三学を兼ね給ひき。達磨掬多と申す聖人に値ひ奉りて真言の諸印契一時に頓受し、即日に御潅頂なし人天の師と定まり給ひき。鶏足山に入りては迦葉尊者の髪をそり、王城に於て雨を祈り給ひしかば、観音日輪の中より出でて水瓶を以て水を潅ぎ、北天竺の金粟(こんぞく)王の塔の下にして仏法を祈請せしかば、文殊師利菩薩、大日経の胎蔵の曼荼羅を現はして授け給ふ。其の後開元四年〈丙辰〉に漢土に渡る。玄宗皇帝之れを尊むこと日月の如し。又大旱魃あり。皇帝勅宣を下す。三蔵、一鉢に水を入れ暫く加持し給ひしに、水の中に指許りの物有り変じて竜と成る。其の色赤色なり。白気立ち昇り、鉢より竜出でて虚空に昇り、忽ちに雨を降らす。此の如くいみじき人なれども、一時に頓死して有りき。蘇生りて語りて云く、我死につる時獄卒来たりて鉄の縄七筋付け、鉄杖を以て散々にさいなみ、閻魔宮に到りにき。八万聖教一字一句も覚えず、唯法華経の題名許り忘れず。題名を思ひしに鉄の縄少しき許りぬ。
息続いで高声に唱へて云く「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」等云云。七つの鉄の縄切れ砕け十方に散ず。閻魔冠を傾けて南庭に下り向かひ給ひき。今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給ひき。/ 今日蓮不審して云く、善無畏三蔵は先生に十善の戒力あり。五百の仏陀に仕へたり。今生には捨てがたき王位をつばき(唾)をすつるがごとくこれをすて、幼少十三にして御出家ならせ給ひて、月支国をめぐりて諸宗を習ひ極め、天の感を蒙り、化導の心深くして震旦国に渡りて、真言の大法を弘めたり。一印一真言を結び誦すれば、過去現在の無量の罪滅しぬらん。何の科(とが)に依りて閻魔の責めをば蒙り給ひけるやらん、不審極まり無し。善無畏三蔵真言の力を以て閻魔の責めを脱れずば天竺・震旦・日本等の諸国の真言師、地獄の苦を脱るべきや。委細に此の事を勘へたるに、此の三蔵は世間の軽罪は身に御せず、諸宗並びに真言の力にて滅しぬらん。此の責めは別の故無し、法華経誹謗の罪なり。大日経の義釈を見るに、「此の経は是れ法王の秘宝なり、妄りに卑賤の人に示さず。釈迦出世の四十余年に舎利弗慇懃の三請に因りて方に為に略して妙法蓮華の義を説くが如し。
今此の本地の身は又是れ妙法蓮華最深秘処なり。故に寿量品に云く「常に霊鷲山及び余の諸の住処に在り。乃至我が浄土は毀れざるに而も衆は焼き尽くと見る」、即ち此の宗瑜伽の意なるのみ。又補処の菩薩の慇懃三請に因りて方に為に之れを説く」等云云。此の釈の心は大日経に本迹二門、開三顕一・開近顕遠の法門有り。法華経の本迹二門の如し。此の法門は法華経に同じけれども、此の大日経に印と真言と相加はりて三密相応せり。法華経は但意密許りにて身口の二密欠けたれば、法華経をば略説と云ひ、大日経をば広説と申すべきなりと書かれたり。/ 此の法門第一の誤り、謗法の根本なり。此の文に二つの誤り有り。又義釈に云く「此の経横に一切の仏教を統ぶ」等云云。大日経は当分随他意の経なるを誤りて随自意跨節の経と思えり。かたがた誤りたるを実義と思し食(め)せし故に、閻魔の責めをば蒙りたりしか。智者にて御座せし故に、此の謗法を悔い還して法華経に翻りし故に、此の責めを免がるるか。天台大師釈して云く「法華は衆経を総括す。乃至軽慢止まざれば舌、口中に爛る」等云云。妙楽大師云く「已今当の妙、此に於て固く迷へり。舌爛れて止まざるは猶華報と為す。謗法の罪苦長劫に流る」等云云。
天台妙楽の心は、法華経に勝れたる経有りと云はむ人は無間地獄に堕つべしと書かれたり。善無畏三蔵は、法華経と大日経とは理は同じけれども事の印真言は勝れたりと書かれたり。然るに二人の中に一人は必ず悪道に堕つべしとをぼふる処に、天台の釈は経文に分明なり、善無畏の釈は経文に其の証拠見えず。其の上閻魔王の責めの時我が内証の肝心とをぼしめす大日経等の三部経の内の文を誦せず。法華経の文を誦して此の責めを免れぬ。疑ひなく法華経に真言まさりとをもふ誤りを翻したるなり。/ 其の上善無畏三蔵の御弟子不空三蔵の法華経の儀軌には、大日経・金剛頂経の両部の大日をば左右に立て、法華経多宝仏をば不二の大日と定めて、両部の大日をば左右の臣下の如くせり。伝教大師は延暦二十三年の御入唐、霊感寺の順暁和尚に真言三部の秘法を伝はり、仏滝寺の行満座主に天台止観の宝聚をうけとり、顕密二道の奥旨を極め給ひたる人。華厳・三論・法相・律宗の人々の自宗我慢の辺執を倒して、天台大師に帰入せる由を書かせ給ひて候。依憑集・守護章・秀句なむど申す書の中に、善無畏・金剛智・不空等は天台宗に帰入して智者大師を本師と仰ぐ由のせられたり。
各々思へらく、宗を立つる法は自宗をほめて他宗を嫌ふは常の習ひなりと思えり。法然なむどは又此の例を引きて、曇鸞の難易・道綽の聖道浄土・善導が正雑二行の名目を引きて、天台・真言等の大法を念仏の方便と成せり。此等は牛跡(ごしゃく)に大海を入れ、県の額を州に打つ者なり。世間の法には下剋上・背上向下は国土亡乱の因縁なり。仏法には権小の経々を本として実経をあなづる、大謗法の因縁なり。恐るべし恐るべし。/ 嘉祥寺の吉蔵大師は三論宗の元祖、或時は一代聖教を五時に分け、或時は二蔵と判ぜり。然りと雖も竜樹菩薩造の百論・中論・十二門論・大論を尊みて般若経を依憑と定め給ひ、天台大師を辺執して過ぎ給ひし程に、智者大師の梵網等の疏を見て少し心とけ、やうやう近づきて法門を聴聞せし程に、結句は一百余人の弟子を捨て、般若経並びに法華経をも講ぜず、七年に至りて天台大師に仕へさせ給ひき。高僧伝には「衆を散じ身を肉橋と成す」と書かれたり。天台大師高座に登り給えば寄りて肩を足に備え、路を行き給えば負ひ奉り給ひて堀を越え給ひき。吉蔵大師ほどの人だにも謗法ををそれてかくこそつかえ給ひしか。/ 而るを真言・三論・法相等の宗々の人々、今すえずえに成りて辺執せさせ給ふは自業自得果なるべし。
今の世に浄土宗・禅宗なんど申す宗々は、天台宗にをとされし真言・華厳等に及ぶべからず。依経既に楞伽経・観経等なり。此等の経々は仏の出世の本意にも非ず、一時一会の小経なり。一代の聖教を判ずるに及ばず。而るを彼の経々を依経として一代の聖教を聖道浄土・難行易行・雑行正行に分け、教外別伝なむどののしる。譬へば民が王をしえたげ、小河の大海を納むるが如し。かかる謗法の人師どもを信じて後生を願ふ人々は無間地獄脱るべきや。/ 然れば当世の愚者は仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱れ、法華経を信じぬれば不慮に謗法の科を脱れたり。其の上女人は五障三従と申して、世間出世に嫌はれ一代の聖教に捨てられ畢んぬ。唯法華経計りにこそ竜女が仏に成り、諸の尼の記別はさづけられて候ひぬれば、一切の女人は此の経を捨てさせ給ひては何れの経をか持たせ給ふべき。/ 天台大師は震旦国の人、仏滅後一千五百余年に仏の御使ひとして世に出でさせ給ひき。法華経に三十巻の文を注し給ひ、文句と申す文の第七の巻には「他経に但男に記して女に記せず」等云云。男子も余経にては仏に成らざれども且く与へて其れをば許してむ。女人に於ては一向諸経に於ては叶ふべからずと書かれて候。
縦令(たとい)千万の経々に女人成るべしと許され為りと雖も法華経に嫌はれなば何の憑みか有るべきや。教主釈尊、我が諸経四十余年の経々を未顕真実と悔い返し、涅槃経等をば当説と嫌ひ給ひ、無量義経をば今説と定め置き、三説にひで(秀)たる法華経に、「正直に方便を捨てて但無上道を説く、世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」と釈尊宣べ給ひしかば、宝浄世界の多宝仏は大地より出でさせ給ひて真実なる由の証明を加へ、十方分身の諸仏は広長舌を梵天に付け給ふ。十方世界微塵数の諸仏の御舌は不妄語戒の力に酬いて、八葉の赤蓮華にをいいでさせ給ひき。一仏二仏三仏乃至十仏百仏千万億仏の、四百万億那由他の世界に充満せりし仏の御舌をもって定め置き給える女人成仏の義なり。/ 謗法無くして此の経を持つ女人は十方虚空に充満せる慳貪・嫉妬・瞋恚・十悪・五逆なりとも、草木の露の大風にあえるなるべし。三冬の氷の夏の日に滅するが如し。但滅し難き者は法華経謗法の罪なり。譬へば三千大千世界の草木を薪と為すとも、須弥山は一分も損じ難し。縦令(たとい)七つの日出でて百千日照らすとも、大海の中をばかわかしがたし。
設ひ八万聖教を読み大地微塵の塔婆を立て、大小乗の戒行を尽くし、十方世界の衆生を一子の如くに為すとも、法華経謗法の罪はきゆべからず。我等過去・現在・未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くるは偏に法華経誹謗の罪なるべし。女人と生まれて百悪身に備ふるも、根本此の経誹謗の罪より起これり。然れば此の経に値ひ奉らむ女人は皮をはいで紙と為し、血を切りて墨とし、骨を折りて筆とし、血のなんだを硯の水として書き奉るともあ(飽)くご(期)あるべからず。何に況や衣服・金銀・牛馬・田畠等の布施を以て供養せむはもののかずにてかずならず。
◆ 星名五郎太郎殿御返事 〔C6・文永六年一二月五日・星名五郎太郎〕/ 漢の明夜夢みしより迦・竺二人の聖人初めて長安のとぼそに臨みしより以来、唐の神武皇帝に至るまで、天竺の仏法震旦に流布し、梁の代に百済国の聖明王より我が朝の人王三十代欽明の御宇に仏法初めて伝ふ。其れより已来一切の経論・諸宗・皆日域にみてり。幸ひなるかな、生を末世に受くるといへども、霊山のきき耳に入り、身は辺土に居せりといへども、大河の流れ掌に汲めり。但し委しく尋ね見れば、仏法に於て大小・権実・前後のおもむきあり。若し此の義に迷ひぬれば、邪見に住して、仏法を習ふといへども、還りて十悪を犯し五逆を作る罪よりも甚だしきなり。爰を以て世を厭ひ道を願はん人、先づ此の義を存ずべし。例せば彼の苦岸比丘等の如し。故に大経に云く「若し邪見なる事有らんに、命終の時正に阿鼻獄に堕つべし」と云へり。/ 問ふ、何を以てか邪見の失(とが)を知らん。予不肖の身たりといへども、随分後世を畏れ仏法を求めんと思ふ。願はくは此の義を知り、若し邪見に住せば、ひるがへして正見におもむかん。答ふ、凡眼を以て定むべきにあらず。浅智を以て明らむべきにあらず。経文を以て眼とし、仏智を以て先とせん。
但恐らくは、若し此の義を明かさば、定めていかりをなし、憤りを含まん事を。さもあらばあれ、仏勅を重んぜんにはしかず。其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ。但愚者の行ひなり。其れ若し非ならば遠くとも破すべし。其れ若し理ならば近くとも捨つべからず。人貴むとも非ならば何ぞ今用ゐん。伝へ聞く、彼の南三北七の十流の学者、威徳ことに勝れて天下に尊重せられし事、既に五百余年まで有りしかども、陳隋二代の比(ころ)、天台大師是れを見て邪義なりと破す。天下に此の事を聞いて大いに是れをにくむ。然りといへども、陳王・隋帝の賢王たるに依りて、彼の諸宗に天台を召し決せられ、邪正をあきらめて前五百年の邪義を改め、皆悉く大師に帰伏す。又我が朝の叡山の根本大師は、南都・北京の碩学と論じて、仏法の邪正をただす事皆経文をさきとせり。今当世の道俗・貴賤、皆人をあがめて法を用ゐず、心を師として経によらず。之れに依りて或は念仏権教を以て大乗妙典をなげすて、或は真言の邪義を以て一実の正法を謗ず。是等の類豈に大乗誹謗のやからに非ずや。若し経文の如くならば、争でか那落の苦しみを受けざらんや。之れに依りて其の流をくむ人もかくの如くなるべし。/ 疑って云く、念仏真言は是れ或は権或は邪義、又行者或は邪見或は謗法なりと。此の事甚だ以て不審なり。
其の故は弘法大師は是れ金剛薩の化現、第三地の菩薩なり。真言は是れ最極甚深の秘密なり。又善導和尚は西土の教主弥陀如来の化身なり。法然上人は大勢至菩薩の化身なり。かくの如きの上人を豈に邪見の人と云ふべきや。答へて云く、此の事本より私の語を以て是れを難ずべからず。経文を先として是れをただすべきなり。真言の教は最極の秘密なりと云ふは、三部経の中に於て蘇悉地経を以て王とすと見えたり。全く諸の如来の法の中に於て第一なりと云ふ事を見ず。凡そ仏法と云ふは、善悪の人をゑらばず、皆仏になすを以て最第一に定むべし。是れ程の理をば何なる人なりとも知るべきなり。若し此の義に依らば経と経とを合はせて是れを校すべし。今法華経には二乗成仏あり。真言経には之れ無し。あまつさへ、あながちに是れをきらへり。法華経には女人成仏之れ有り。真言経にはすべて是れなし。法華経には悪人成仏之れ有り。真言経には全くなし。何を以てか法華経に勝れたりと云ふべき。又若し其の瑞相を論ぜば、法華には六瑞あり。所謂 雨華地動し、白毫相の光、上は有頂を極め下は阿鼻獄を照らせる是れなり。又多宝の塔大地より出で、分身の諸仏十方より来たる。しかのみならず、上行等の菩薩の六万恒沙・五万・四万・三万、乃至一恒沙・半恒沙等大地よりわきいでし事、此の威儀不思議を論ぜば何を以て真言法華にまされりと云はん。
此等の事委しくのぶるにいとまあらず。わづかに大海の一滴を出だす。/ 爰に菩提心論と云ふ一巻の文あり。竜猛菩薩の造と号す。此の書に云く「唯真言法の中に即身成仏す。故に是れ三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠きて書せず」と云へり。此の語は大いに不審なるに依りて、経文に就きてこれを見るに、即身成仏の語は有れども即身成仏の人全くなし。たとひありとも、法華経の中に即身成仏あらば、諸教の中にをいてかいて而もかかずと云へる、此の事甚だ以て不可なり。但し此の書は全く竜猛の作にあらず。委しき旨は別に有るべし。設ひ竜猛菩薩の造なりともあやまりなり。故に大論に、一代をのぶる肝要として「般若は秘密にあらず二乗作仏なし。法華は是れ秘密なり二乗作仏あり」と云へり。又云く「二乗作仏あるは是れ秘密、二乗作仏なきは是れ顕教」と云へり。若し菩提心論の語の如くならば、別しては竜樹の大論にそむき、総じては諸仏出世の本意、一大事の因縁をやぶるにあらずや。今竜樹・天親等は皆釈尊の説教を弘めんが為に世に出づ。付法蔵二十四人の其の一なり。何ぞ此の如き妄説をなさんや。彼の真言は是れ般若経にも劣れり。何に況や法華に並ばんや。
而るに弘法の秘蔵宝鑰に、真言に一代を摂するとして法華を第三番に下し、あまつさへ戯論なりと云へり。謹んで法華経を披きたるに、諸の如来の所説の中に第一なりと云へり。又、已今当の三説に勝れたりと見えたり。又薬王の十喩の中に法華を大海にたとへ、日輪にたとへ、須弥山にたとへたり。若し此の義に依らば、深き事何ぞ海にすぎん。明らかなる事何ぞ日輪に勝れん。高き事何ぞ須弥山に越ゆる事有らん。喩へを以て知んぬべし。何を以てか法華に勝れたりと云はん。大日経等に全く此の義なし。但己が見に任せて永く仏意に背く。妙楽大師曰く「請ふ、眼有らん者は委悉に之れを尋ねよ」と云へり。法華経を指して華厳に劣れりと云ふは豈に眼ぬけたるものにあらずや。/ 又大経に云く「若し仏の正法を誹謗する者あらん、正に其の舌を断つべし」。嗚呼(ああ)誹謗の舌は世々に於て物を云ふことなく、邪見の眼は生々にぬけて見ること無からん。加之(しかのみならず)「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」の文の如くならば、定めて無間大城に堕ちて無量億劫のくるしみを受けん。善導・法然も是れに例して知んぬべし。
誰か智恵有らん人、此の謗法の流れを汲みて共に阿鼻の焔にやかれん。行者能く畏るべし。此れは是れ大邪見の輩なり。所以に如来誠諦の金言を按ずるに云く「我が正法をやぶらん事は、譬へば猟師の身に袈裟をかけたるが如し。或は須陀・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏及び仏の色身を現じて我が正法を壊らん」といへり。/ 今此の善導・法然等は、種々の威を現じて、愚痴の道俗をたぶらかし、如来の正法を滅す。就中 彼の真言等の流れ、偏に現在を以て旨とす。所謂 畜類を本尊として男女の愛法を祈り、荘園等の望みをいのる。是の如き少分のしるしを以て奇特とす。若し是れを以て勝れたりといはば、彼の月氏の外道等にはすぎじ。彼の阿竭多(あかだ)仙人は十二年の間恒河の水を耳にたたへたりき。又耆菟仙人の四大海を一日の中にすひほし、拘留外道は八百年の間石となる。豈に是れにすぎたらんや。又瞿曇仙人が十二年の程、釈身と成り説法せし、弘法が刹那の程にびるさなの身と成りし、其の威徳を論ぜば 如何。若し彼の変化のしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし。当に知るべし、彼れ威徳ありといへども、猶阿鼻の炎をまぬかれず。況やわづかの変化においてをや。況や大乗誹謗にをいてをや。
是れ一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏るべし畏るべし。/ 仏の曰く「悪象等に於ては畏るる心なかれ、悪知識に於ては畏るる心をなせ。何を以ての故に。悪象は但身をやぶり意をやぶらず、悪知識は二共にやぶる故に。此の悪象等は但一身をやぶる、悪知識は無量の身、無量の意をやぶる。悪象等は但不浄の臭き身をやぶる、悪知識は浄身及び浄心をやぶる。悪象は但肉身をやぶる、悪知識は法身をやぶる。悪象の為にころされては三悪に至らず、悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る。此の悪象は但身の為のあだなり、悪知識は善法の為のあだなり」。故に畏るべきは大毒蛇・悪鬼神よりも、弘法・善導・法然等の流れの悪知識を畏るべし。略して邪見の失(とが)を明かすこと畢んぬ。/ 此の使ひあまりに急ぎ候ほどに、とりあへぬさまに、かたはしばかりを申し候。此の後又便宜に委しく経釈を見調べてかくべく候。穴賢穴賢。外見あるべからず候。若命つれなく候はば、仰せの如く明年の秋下り候ひて且つ申すべく候。恐々。/ 十二月五日  日蓮花押/ 星名五郎太郎殿御返事
◆ 安国論副状 〔C3・文永五年〕/ 未だ見参に入らずと雖も、事に触れ書を奉るは常の習ひに候か。抑 正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥の刻の大地震日蓮諸経を引きて之れを勘ふるに、念仏宗と禅宗等とを御帰依有るの故に、日本国中の守護の諸大善神恚りに依りて起こす所の災なり。若し御対治無くんば他国の為に此の国を破らるべき悪瑞の由、勘文一通之れを撰し立正安国論と号し、正元二年〈太歳庚申〉七月十六日宿屋入道に付けて、故最明寺入道殿に之れを進覧せしむ。
◆ 安国論御勘由来 〔C0・文永五年四月五日・法鑑御房〕/ 正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥の時、前代に超えたる大地振。同二年〈戊午〉八月一日大風。同三年〈己未〉大飢饉。正元元年〈己未〉大疫病。同二年〈庚申〉四季に亘りて大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之れに驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷有り。爾りと雖も一分の験(しるし)も無く、還りて飢疫等を増長す。日蓮世間の体を見て粗一切経を勘ふるに、御祈請験無く還りて凶悪を増長するの由、道理文証之れを得了んぬ。終に止むこと無く勘文一通を造り作し、其の名を立正安国論と号す。文応元年〈庚申〉七月十六日〈辰時〉、屋戸野(やどや)入道に付し故最明寺入道殿に奏進し了んぬ。此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり。/ 其の勘文の意は、日本国天神七代・地神五代・百王百代、人王第三十代欽明天皇の御宇に始めて百済国より仏法此の国に渡り桓武天皇の御宇に至る。其の中間五十余代二百六十余年なり。其の間一切経並びに六宗之れ有りと雖も天台・真言の二宗未だ之れ有らず。桓武の御宇に山階寺の行表僧正の御弟子に最澄と云ふ小僧有り〈後に伝教大師と号す〉。
已前に渡る所の六宗並びに禅宗之れを極むと雖も未だ我が意に叶はず。聖武天皇の御宇に、大唐の鑑真和尚渡す所の天台の章疏、四十余年を経て已後始めて最澄之れを披見し、粗仏法の玄旨を覚り了んぬ。最澄天長地久の為に延暦四年叡山を建立す。桓武皇帝之れを崇め天子本命の道場と号す。六宗の御帰依を捨てて一向に天台円宗に帰伏したまふ。同延暦十三年に長岡の京を遷(うつ)して平安城を建つ。同延暦二十一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学・勤操・長耀等の十四人を召し合はせて談じて勝負を決断す。六宗の明匠一問答にも及ばず、口を閉づること鼻の如し。華厳宗の五教、法相宗の三時、三論宗の二蔵三時の所立を破し了んぬ。但自宗を破らるるのみに非ず、皆謗法の者為ることを知る。同じき二十九日、皇帝勅宣を下して之れを詰(なじ)る。十四人謝表を作りて皇帝に捧げ奉る。其の後代々の皇帝、叡山の御帰依は孝子の父母に仕ふるに超え、黎民の王威を恐るるに勝れり。或御時は宣明を捧げ、或御時は非を以て理に処す等云云。殊に清和天皇は、叡山の恵亮和尚の法威に依りて位に即き、帝皇の外祖父九条右丞相は誓状を叡山に捧ぐ。源右将軍は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗是非を論ぜず叡山に違背せば天命恐れ有る者か。
然るに後鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼其の身に入りて国中の上下を誑惑し、代(よ)挙りて念仏者と成り人毎に禅宗に趣く。存の外に山門の御帰依浅薄なり、国中の法華真言の学者棄て置かせられ了んぬ。故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神、法味を喰はずして威光を失ひ、国土を捨て去り了んぬ。悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破るべき先相と勘ふる所なり。/ 又其の後文永元年〈甲子〉七月五日、彗星東方に出でて余光大体一国等に及ぶ。此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞(きょうずい)なり。内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず。予弥(いよいよ)悲歎を増長す。而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て、今年後正月大蒙古国の国書を見る。日蓮が勘文に相叶ふこと宛も符契の如し。仏記して云く「我が滅度の後一百余年を経て阿育大王出世し我が舎利を弘めん」。周の第四昭王の御宇に大史蘇由が記に云く「一千年の外、声教此の土に被らしめん」。聖徳太子の記に云く「我が滅度の後二百余年を経て山城国に平安城を立つべし」。天台大師の記に云く「我が滅後二百余年の已後、東国に生まれて我が正法を弘めん」等云云。皆果して記文の如し。
日蓮正嘉の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云く、他国より此の国を破るべき先相なりと。自讃に似たりと雖も、若し此の国土を毀壊せば復仏法の破滅疑ひ無き者なり。而るに当世の高僧等謗法の者と同意の者なり。復自宗の玄底を知らざる者なり。定めて勅宣・御教書を給はりて此の凶悪を祈請するか。仏神弥(いよいよ)瞋恚を作(な)し、国土を破壊せん事疑ひ無き者なり。日蓮復之れを対治するの方之れを知る。叡山を除きて日本国には但一人なり。譬へば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり。若し此の事妄言ならば、日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之れを蒙らん。但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之れを申さず。/ 復禅門に対面を遂げて之れを告げん。之れを用ゐざれば定めて後悔有るべし。恐々謹言。/ 文永五年〈太歳戊辰〉四月五日  日蓮(花押)/ 法鑑御房
◆ 宿屋入道許御状 〔C6・文永五年八月二一日・宿屋左衛門入道〕/ 其の後書絶えて申さず不審極り無く候。抑 去ぬる正嘉元年〈丁巳〉八月二十三日戌亥刻の大地震、日蓮諸経を引きて之れを勘へたるに、念仏宗と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚を作(な)して起こす所の災ひなり。若し此れを対治無くんば、他国の為に此の国を破らるべきの由、勘文一通之れを撰し、正元二年〈庚申〉七月十六日、御辺に付け奉りて、故最明寺入道殿へ之れを進覧す。其の後九箇年を経て今年大蒙古国の牒状之れ有る由風聞す等云云。経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり。而るに日本国中、日蓮一人彼の西戎を調伏すべきの人に当たり、兼ねて之れを知り論文に之れを勘ふ。君の為、国の為、神の為、仏の為内奏を経らるべきか。委細の旨は見参を遂げて申すべく候。恐々謹言。/ 文永五年八月二十一日  日蓮花押/ 宿屋左衛門入道殿
◆ 宿屋入道再御状 〔C1・文永五年九月・宿屋左衛門入道〕/ 去ぬる八月の比(ころ)、愚札を進らせしむるの後、今月に至るも是非に付け返報を給はらず、欝念散じ難し。怱々の故に想亡せしむるか。軽略せらるるの故に□一行を慳むか。本文に云く「師子は少兎を蔑らず、大象を畏れず」等云云。若し又万一他国の兵、此の国を襲う□出来せば、知りて奏せざるの失(とが)、偏に貴辺に懸るべし。仏法を学ぶの法は身命を捨て国恩を報ぜんが為なり。全く自身の為に非ず。本文に云く「雨を見て竜を知り蓮を見て池を知る」等云云。災難急を見るの故度々之れを驚かす。用ゐざるに而も之れを諫む。強
◆ 与北条時宗書 〔C6・文永五年一〇月一一日・北条時宗〕/ 謹んで言上せしめ候。抑 正月十八日西戎大蒙古国の牒状到来すと。日蓮先年諸経の要文を集め之れを勘へたること立正安国論の如く少しも違はず普合しぬ。日蓮は聖人の一分に当たれり。未萌を知るが故なり。然る間重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまへ。然らずんば重ねて又四方より責め来たるべきなり。速やかに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給へ。彼れを調伏せられん事、日蓮に非ざれば叶ふべからざるなり。諫臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し。国家の安危は政道の直否に在り、仏法の邪正は経文の明鏡に依る。/ 夫れ此の国は神国なり。神は非礼を稟けたまはず。天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は、一乗擁護の神明なり。然も法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す。法華経に云く「諸仏救世者は大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現ず」。一乗棄捨の国に於ては豈に善神怒りを成さざらんや。仁王経に云く「一切の聖人去る時七難必ず起こらん」。
彼の呉王は伍子胥(ごししょ)が詞を捨て吾が身を亡ぼし、桀・紂は竜・比を失ひて国位を喪(ほろ)ぼす。今日本国既に蒙古国に奪はれんとす。豈に歎かざらんや、豈に驚かざらんや。日蓮が申す事御用ゐ無くんば、定めて後悔之れ有るべし。日蓮は法華経の御使ひなり。経に云く「則ち如来の使ひ、如来の所遣として、如来の事を行ず」。三世諸仏の事とは法華経なり。/ 此の由方々へ之れを驚かし奉る。一所に集めて御評議有りて御報に預かるべく候。所詮は万祈を抛ちて諸宗を御前に召し合はせ、仏法の邪正を決し給へ。澗底(かんてい)の長松未だ知らざるは良匠の誤り、闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失(とが)なり。三国に於て仏法の分別は殿前に在り。所謂 阿闍世・陳・隋・桓武是れなり。敢へて日蓮が私曲に非ず。只偏に大忠を懐く故に、身の為に之れを申さず。神の為、君の為、国の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐々謹言。/ 文永五年〈戊辰〉十月十一日  日蓮花押/ 謹上 宿屋入道殿
◆ 与宿屋入道書 〔C6・文永五年一〇月一一日・宿屋入道〕/ 先年勘へたるの書安国論に普合せるに就きて、言上せしめ候ひ畢んぬ。抑 正月十八日、西戎大蒙古国より牒状到来すと。之れを以て之れを按ずるに、日蓮は聖人の一分に当たり候か。然りと雖も未だ御尋ねに預からず候の間、重ねて諫状を捧ぐ。希はくば御帰依の寺僧を停止せられ、宜しく法華経に帰せしむべし。若し然らずんば後悔何ぞ追はん。此の趣を以て十一所に申さしめ候なり。定めて御評議有るべく候か。偏に貴殿を仰ぎ奉る。早く日蓮が本望を遂げしめ給へ。十一箇所は、平左衛門尉殿に申さしむる所なり。委悉に申し度く候と雖も、上書分明なる間省略せしめ候。御気色を以て御披露庶幾せしむる所に候。恐々謹言。/ 文永五年〈戊辰〉十月十一日  日蓮花押/ 謹上 宿屋入道殿
◆ 与平左衛門尉頼綱書 〔C6・文永五年一〇月一一日・平左衛門尉頼綱〕/ 蒙古国の牒状到来に就きて言上せしめ候ひ畢んぬ。抑 先年日蓮立正安国論に之れを勘へたるが如く、少しも違はず普合せしむ。然る間重ねて訴状を以て愁欝を発かんと欲す。爰を以て諫旗を公前に飛ばし、争戟を私後に立つ。併しながら貴殿は一天の屋梁たり、万民の手足為り。争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや、慎まざらんや。早く須く退治を加へて謗法の咎を制すべし。夫れ以みれば一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理、諸天善神の威食なり。之れを信受するに於ては何ぞ七難来たり三災興らんや。剰へ此の事を申す日蓮をば流罪せらる。争でか日月星宿罰を加へざらんや。聖徳太子は守屋の悪を倒して仏法を興し、秀郷(ひでさと)は将門を挫きて名を後代に留む。然らば法華経の強敵たる御帰依の寺僧を退治して宜しく善神の擁護を蒙るべき者なり。御式目を見るに非拠を制止すること分明なり。争でか日蓮が愁訴に於ては御叙(もちひ)無からん。豈に御起請の文を破るに非ずや。此の趣を以て方々へ愚状を進らす。所謂 鎌倉殿・宿屋入道殿・建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺・多宝寺・浄光明寺・弥源太殿、並びに此の状を合はせて十一箇所なり。
各々御評議有りて速やかに御報に預かるべく候。若し爾らば卞和(べんか)の璞(あらたま)磨きて玉と成り、法王髻中の明珠此の時に顕はれんのみ。全く身の為に之れを申さず。神の為、君の為、国の為、一切衆生の為に言上せしむるの処件の如し。恐々謹言。/ 文永五年〈戊辰〉十月十一日  日蓮花押/ 平左衛門尉殿
◆ 与北条弥源太書 〔C6・文永五年一〇月一一日・弥源太入道〕/ 去月御来臨。急ぎ急ぎ御帰宅本意無く存ぜしめ候ひ畢んぬ。抑 蒙古国の牒状到来の事、上一人より下万民に至るまで驚動極り無し。然りと雖も何なる故と人未だ之れを知らず。日蓮兼ねて存知せしむるの間、既に一論を造りて之れを進覧せり。徴(しるし)先立ちて顕はれば、則ち災ひ必ず後に来たる。去ぬる正嘉元年〈丁巳〉八月二十三日戌亥刻の大地震、是れ併しながら此の瑞に非ずや。法華経に云く「如是相」。天台大師云く「蜘蛛下りて喜び事来たり鵲(かんじゃく)鳴きて行人来たる」。易に云く「吉凶動に於て生ず」。此等の本文豈に替はるべけんや。所詮 諸宗の帰依を止めて一乗妙経を信受せしむべきの由、勘文を捧げ候。日本亡国の根源は、浄土・真言・禅宗・律宗の邪法悪法より起これり。諸宗を召し合はせ諸経の勝劣を分別せしめ給へ。殊に貴殿は相模守殿の同姓なり。根本滅するに於ては枝葉豈に栄えんや。早く蒙古国を調伏し国土安穏ならしめ給へ。法華を謗ずる者は三世諸仏の大怨敵なり。天照太神・八幡大菩薩等、此の国を放ちたまふ故に大蒙古国より牒状来たるか。自今已後、各々生け取りと成り他国の奴と成るべし。此の趣方々へ之れを驚かし、愚状を進らせしめ候なり。恐々謹言。
文永五年〈戊辰〉十月十一日  日蓮花押/ 謹上 弥源太入道殿
◆ 与建長寺道隆書 〔C6・文永五年一〇月一一日・建長寺道隆〕/ 夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒(いた)る。仏法の繁栄は身毒・支那に超過し、僧宝の形儀は六通の羅漢の如し。然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣浅深を知らず。併しながら禽獣に同じ。忽ちに三徳の釈迦如来を抛ちて他方の仏菩薩を信ず。是れ豈に逆路伽耶陀の者に非ずや。念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と云云。爰に日蓮去ぬる文応元年の比(ころ)、勘へたるの書を立正安国論と名づけ、宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ。此の書の所詮は、念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に、天下に災難頻りに起こり、剰へ他国より此の国を責めらるべきの由之れを勘へたり。然るに去ぬる正月十八日牒状到来すと。日蓮が勘へたる所に之れ少しも違はず普合せしむ。諸寺諸山の祈祷威力滅する故か。将又悪法の故なるか。鎌倉中の上下万人、道隆聖人をば仏の如く之れを仰ぎ良観聖人をば羅漢の如く之れを尊む。其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老等は「我慢心充満 未得謂為得」の増上慢の大悪人なり。何ぞ蒙古国の大兵を調伏せしむべけんや。
剰へ日本国中の上下万人悉く生け取りと成るべし、今世には国を亡ぼし、後世には必ず無間に堕せん。日蓮が申す事を御用ゐ無くんば後悔之れ有るべし。此の趣を鎌倉殿・宿屋入道殿・平左衛門尉殿等へ之れを進状せしめ候。一処に寄り集まりて御評議有るべく候。敢へて日蓮が私曲の義に非ず。只経論の文に之れを任す処なり。具には紙面に載せ難し。併しながら対決の時を期す。書は言(ことば)を尽くさず。言は心を尽くさず。恐々謹言。/ 文永五年〈戊辰〉十月十一日  日蓮花押/ 進上 建長寺道隆聖人侍者御中
◆ 与極楽寺良観書 〔C6・文永五年一〇月一一日・良観房〕/ 西戎大蒙古国簡牒(かんちょう)の事に就きて鎌倉殿其の外へ書状を進らせしめ候。日蓮去ぬる文応元年の比(ころ)、勘へ申せし立正安国論の如く、毫末計りも之れに相違せず候。此の事 如何。長老忍性速やかに嘲哢の心を翻し早く日蓮房に帰せしめ給へ。若し然らずんば「人間を軽賤する者、白衣の与(ため)に法を説く」の失(とが)脱れ難きか。依法不依人とは如来の金言なり。良観聖人の住処を法華経に説いて云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在る有らん」。阿練若は無事と翻ず。争でか日蓮を讒奏するの条、住処と相違せり。併しながら三学に似たる矯賊(きょうぞく)の聖人なり。僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定なり。聊かも先非を悔いなば日蓮に帰すべし。此の趣を鎌倉殿を始め奉り、建長寺等其の外へ披露せしめ候。所詮 本意を遂げんと欲せば対決に如(し)かず。即ち三蔵浅近の法を以て、諸経中王の法華に向かふは、江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん。蒙古国調伏の秘法定めて御存知有るべく候か。日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将為り。「於一切衆生中亦為第一」とは是れなり。
文言端だ多くして理を尽くす能はず。併しながら省略せしめ候。恐々謹言。/ 文永五年〈戊辰〉十月十一日  日蓮花押/ 謹上 極楽寺長老良観聖人御所
◆ 与大仏殿別当書 〔C6・文永五年一〇月一一日・大仏殿別当御房〕/ 去ぬる正月十八日、西戎大蒙古国より牒状到来し候ひ畢んぬ。其の状に云く「大蒙古国皇帝日本国王に書を上る。大道の行はるる其の義(ばく)たり。信を構へ睦を修す、其の理何ぞ異ならん。乃至、至元三年〈丙寅〉正月日」。右此の状の如くんば、返牒に依りて日本国を襲ふべきの由分明なり。日蓮兼ねて勘へ申せし立正安国論に少しも相違せず。急やかに退治を加へ給へ。然れば日蓮を放(おい)て之れを叶ふべからず。早く我慢を倒して日蓮に帰すべし。今生空しく過ぎなば後悔何ぞ追はん。委しく之れを記すること能はず。此の趣方々へ申さしめ候。一処に聚集して御調伏有るべく候か。/ 文永五年十月十一日  日蓮花押/ 謹上 大仏殿別当御房
◆ 与寿福寺書 〔C6・文永五年一〇月一一日・寿福寺〕/ 風聞の如くんば、蒙古国の簡牒(かんちょう)、去ぬる正月十八日慥かに到来し候ひ畢んぬ。然れば先年日蓮が勘へし書の立正安国論の如く普合せしむ。恐らくは日蓮は未萌を知る者なるか。之れを以て之れを按ずるに、念仏・真言・禅・律等の悪法一天に充満して上下の師と為(な)るの故に、此の如き他国侵逼の難起これるなり。法華不信の失に依りて皆一同に後生は無間地獄に堕すべし。早く邪見を翻し、達磨の法を捨てて一乗正法に帰せしむべし。然る間方々へ披露せしめ候の処なり。早々一処に集まりて御評議有るべく候。委しくは対決の時を期す。恐々謹言。/ 文永五年十月十一日  日蓮花押/ 謹上 寿福寺〈侍司御中〉
◆ 与浄光明寺書 〔C6・文永五年一〇月一一日・浄光明寺〕/ 大蒙古国の皇帝日本国を奪ふべきの由牒状を渡す。此の事、先年立正安国論に勘へ申せし如く少しも相違せしめず。内々日本第一の勧賞に行はれるべきかと存ぜしめ候の処、剰へ御称歎に預からず候。是れ併しながら鎌倉中の著麁の類、律宗・禅宗等が「向国王大臣、誹謗説我悪」の故なり。早く二百五十戒を抛ちて日蓮に帰して成仏を期すべし。若し然らずんば堕在無間の根源ならん。此の趣を方々へ披露せしめ候ひ畢んぬ。早く一処に集まりて対決を遂げしめ給へ。日蓮庶幾せしむる処なり。敢へて諸宗を蔑如するに非ざるのみ。法華の大王戒に対して小乗の蚊虻戒、豈に相対に及ばんや。笑ふべし笑ふべし。/ 文永五年十月十一日  日蓮花押/ 謹上 浄光明寺〈侍者御中〉
◆ 与多宝寺書 〔C6・文永五年一〇月一一日・多宝寺〕/ 日蓮、故最明寺殿に奉りたるの書、立正安国論御披見候か。未萌を知りて之れを勘へ申す処なり。既に去ぬる正月、蒙古国の簡牒(かんちょう)到来す。何ぞ驚かざらんや。此の事不審千万なり。縦ひ日蓮は悪(にく)しと雖も勘ふる所の相当たるに於ては何ぞ用ゐざらんや。早く一所に集まりて御評議有るべし。若し日蓮が申す事を御用ゐ無くんば、今世には国を亡ぼし後世は必ず無間大城に堕すべし。此の旨方々へ之れを申さしめしなり。敢へて日蓮が私曲に非ず。委しく御報に預かるべく候。言(ことば)は心を尽くさず、書は言を尽くさず。併しながら省略せしめ候。恐々謹言。/ 文永五年十月十一日  日蓮花押/ 謹上 多宝寺〈侍司御中〉
◆ 与長楽寺書 〔C6・文永五年一〇月一一日・長楽寺〕/ 蒙古国調伏の事に就きて方々へ披露せしめ候ひ畢んぬ。既に日蓮、立正安国論に勘へたるが如く普合せしむ。早く邪法・邪教を捨てて実法・実教に帰すべし。若し御用ゐ無くんば今生は国を亡ぼし身を失ひ、後生には必ず那落に堕すべし。速やかに一処に集まりて談合を遂げ評議せしめ給へ。日蓮庶幾せしむる所なり。御報に依りて其の旨を存ずべく候の処なり。敢へて諸宗を蔑如するに非ず。但此の国の安泰を存ずる計りなり。恐々謹言。/ 文永五年十月十一日  日蓮花押/ 謹上 長楽寺〈侍司御中〉
◆ 弟子檀那中御書 〔C6・文永五年一〇月一一日・日蓮弟子檀那〕/ 大蒙古国の簡牒(かんちょう)到来に就きて十一通の書状を以て方々へ申さしめ候。定めて日蓮が弟子檀那、流罪死罪一定ならんのみ。少しも之れを驚くこと莫れ。方々への強言申すに及ばず、是れ併しながら而強毒之の故なり。日蓮庶幾せしむる所に候。各々用心有るべし。少しも妻子眷属を憶ふこと莫れ。権威を恐るること莫れ。今度生死の縛を切りて仏果を遂げしめ給へ。鎌倉殿・宿屋入道・平左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺〈已上十一箇所〉。仍って十一通の状を書きて諫訴せしめ候ひ畢んぬ。定めて子細有るべし。日蓮が所に来たりて書状等披見せしめ給へ。恐々謹言。/ 文永五年〈戊辰〉十月十一日  日蓮花押/ 日蓮弟子檀那中
◆ 御輿振御書 〔C2・文永六年三月一日・三位房か〕/ 御文並びに御輿振(みこしふり)の日記給はり候ひぬ。悦び入りて候。中堂炎上の事其の義に候か。山門破滅の期其の節に候か。此等も其の故無きに非ず。天竺には祇園精舎・鶏頭摩寺(けいずまじ)、漢土には天台山、正像二千年の内に以て滅尽せり。今末法に当たりて日本国計りに叡山有り。三千界の中に但此の処のみ有るか。定めて悪魔一跡に嫉みを留むるか。小乗権教の輩も之れを妬むか。随って禅僧・律僧・念仏者王臣に之れを訴へ、三千人の大衆は我が山破滅の根源とも知らず、師檀共に破国・破仏の因縁に迷へり。但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の「後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」の文か。又伝教大師の「正像稍過ぎ已りて末法太だ近きに有り。法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」の釈なり。滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為是の如き留難を起こすか。事々紙上に尽くし難し。早々見参を期す。謹言。/ 三月一日  日蓮(花押)/ 御返事
◆ 弁殿御消息 〔C0・文永一二年三月一〇日・日昭〕/ 千観内供の五味義、盂蘭経の疏、玄義六の本末、御随身有るべく候。文句十、少輔殿御借用有るべし。恐々謹言。/ 三月十日  日蓮(花押)/ 弁殿
◆ 問注得意抄 〔C0・文永六年五月九日・富木常忍・以下三人〕/ 土木入道殿  日蓮/ 今日召し合はせ御問注の由承り候。各々御所念の如くならば、三千年に一度花さき菓なる優曇華に値へるの身か。西王母の園の桃、九千年に三度之れを得たる東方朔が心か。一期の幸ひ何事か之れに如かん。御成敗の甲乙は且く之れを置く。前立て欝念を開発せんか。但し兼日御存知有りと雖も駿馬にも鞭うつの理之れ有り。今日の御出仕、公庭に望みての後は、設ひ知音為りと雖も傍輩に向かひて雑言を止めらるべし。両方召し合はせの時、御奉行人、訴陳の状之れを読むの尅(きざみ)、何事に付けても御奉行人の御尋ね無からんの外一言を出だすべからざるか。設ひ敵人等悪口を吐くと雖も、各々当身の事、一二度までは聞かざるが如くすべし。三度に及ぶの時、顔貌を変ぜず、麁言を出ださず、軟語を以て申すべし。各々は一処の同輩なり。私に於ては全く違恨無きの由、之れを申さるべきか。又御共の雑人等に能く能く禁止を加へ、喧嘩を出だすべからざるか。是の如き事、書札に尽くし難し。心を以て御斟酌有るべきか。此等の矯言を出だす事、恐れを存すと雖も、仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に、愚言を出だす処なり。恐々謹言。
五月九日  日蓮(花押)/ 三人御中
◆ 土木殿御消息 〔C0・文永六年六月七日・富木常忍〕/ 大師講の事。今月明性房にて候が、此の月はさしあい候。余人の中、せんと候人候わば申させ給へと候。貴辺如何、仰せを蒙り候はん。又御指合にて候わば他処へ申すべく候。恐々謹言。/ 六月七日  日蓮(花押)/ 土木殿
◆ 六郎恒長御消息 〔C6・文永元年九月・六郎恒長〕/ 所詮 念仏を無間地獄と云ふ義に二有り。一には念仏者を無間地獄とは、日本国一切の念仏衆の元祖法然上人の選択集に、浄土三部を除きてより以外一代聖教、所謂 法華経・大日経・大般若経等一切大小の経を書き上げて「捨閉閣抛」等云云。之れに付きて上人亀鏡と挙られし処の浄土三部経の其の中に、双観経阿弥陀仏の因位法蔵比丘の四十八願に云く「唯五逆と誹謗正法とを除く」云云。法然上人も乃至十念の中には入れ給ふといえども、法華経の門を閉じよと書かれ候へば、阿弥陀仏の本願に漏れたる人に非ずや。其の弟子其の檀那等も亦以て此の如し。法華経の文には「若し人信ぜずして、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。阿弥陀仏の本願と、法華経の文と真実ならば、法然上人は無間地獄に堕ちたる人に非ずや。一切の経の性相に定めて云く「師堕つれば弟子堕つ、弟子堕つれば檀那堕つ」云云。譬へば謀叛の者の郎従等の如し。御不審有らば選択を披見あるべし〈是一〉。/ 二には念仏を無間地獄とは、法華経の序分無量義経に云く「方便力を以て四十余年には未だ真実を顕はさず」云云。
次下の文に云く「無量無辺を過ぐるとも、乃至、終に無上菩提を成ずることを得ず」云云。仏初成道の時より、白鷺池の辺りに至るまで、年紀をあげ、四十余年と指して其の中の一切経を挙ぐる中に、大部の経四部、其の四部の中に「次に方等十二部経を説く」云云。是れ念仏者の御信用候三部経なり。此れを挙げて真実に非ずと云云。次に法華経に云く「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」とは、念仏等の不真実に対し、南無妙法蓮華経を真実と申す文なり。次下に云く「仏は自ら大乗に住したまへり。乃至、若し小乗を以て化すること乃至一人に於てもせば我即ち慳貪に堕せん。此の事は為(さだめ)て不可なり」云云。此の文の意は、法華経を仏胸に秘しおさめて、観経念仏等の四十余年の経計りを人々に授けて、法華経を説かずして黙止するならば、我は慳貪の者なり、三悪道に堕すべしと云ふ文なり。仏すら尚唯念仏を行じて一生をすごし、法華経に移らざる時は地獄に堕すべしと云云。況や末代の凡夫、一向に南無阿弥陀仏と申して一生をすごし、法華経に移りて南無妙法蓮華経と唱へざる者、三悪道を免るべきや。/ 第二の巻に云く「今此三界」等云云。此の文は日本国六十六箇国島二つの大地は教主釈尊の本領なり。
娑婆以て此の如く全く阿弥陀仏の領に非ず。「其中衆生 悉是吾子」云云。日本国の四十九億九万四千八百二十八人の男女、各父母有りといへども、其の詮を尋ぬれば教主釈尊の御子なり。三千余社の大小の神祇も釈尊の御子息なり。全く阿弥陀仏の子には非ざるなり。/ 九月 日  日蓮花押/ 南部六郎恒長殿
◆ 安国論奥書 〔C0・文永六年一二月八日・矢木式部大夫胤家〕/ 文応元年〈太歳庚申〉之れを勘ふ。正嘉より之れを始め文応元年に勘へ畢る。去ぬる正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥の刻の大地震を見て之れを勘ふ。其の後文応元年〈太歳庚申〉七月十六日を以て、宿谷禅門に付して、故最明寺入道殿に奉れり。其の後文永元年〈太歳甲子〉七月五日大明星の時、弥々此の災の根源を知る。文応元年〈太歳庚申〉より文永五年〈太歳戊辰〉後の正月十八日に至るまで九ケ年を経て、西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状之れを渡す。又同六年重ねて牒状之れを渡す。既に勘文之れに叶ふ、之れに準じて之れを思ふに、未来亦然るべきか。此の書は徴(しるし)有る文なり。是れ偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の至す所の感応か。/ 文永六年〈太歳己巳〉十二月八日之れを写す。
◆ 法門可被申様之事 〔C0・文永七年・三位房〕/ 法門申さるべきやう。選択をばうちをきて、先づ法華経の第二の巻の今此三界の文を開きて、釈尊は我等が親父なり等定め了るべし。何れの仏か我等が父母にてはをはします。外典三千余巻にも忠孝の二字こそせん(詮)にて候なれ。忠は又孝の家より出づとこそ申し候なれ。されば外典は内典の初門、此の心は内典にたがわず候か。人に尊卑上下はありというとも、親を孝するにはすぎずと定められたるか。釈尊は我等が父母なり。一代の聖教は父母の子を教へたる教経なるべし。其の中に天上・竜宮・天竺なんどには無量無辺の御経ましますなれども、漢土日本にはわづかに五千七千余巻なり。此等の経々の次第勝劣等は、私には弁へがたう候。而るに論師・大師・先徳には末代の人の智恵こへがたければ、彼の人々の料簡を用ゐるべきかのところに、華厳宗の五教四教、法相三論の三時二蔵、或は三転法輪。「世尊法久後 要当説真実」の文は、又法華経より出でて金口の明説なり。/ 仏説すでに大いに分かれて二途なり。譬へば世間の父母の譲りの前判後判のごとし。はた又、世間の前判後判は如来の金言をまなびたるか。孝不孝の根本は、前判後判の用不用より事をこれり。かう立て申すならば人々さもやとをぼしめしたらん時申すべし。
抑 浄土の三部経等の諸宗の依経は当分四十余年の内なり。世尊は我等が慈父として未顕真実ぞと定めさせ給ふ御心は、かの四十余年の経々に付けとをぼしめししか、又説真実の言にうつれとをぼしめししか。心あらん人々御賢察候べきかとしばらくあぢわひて、よも仏程の親父の一切衆生を一子とをぼしめすが、真実なる事をすてて未顕真実の不実なる事に付けとはをぼしめさじ。/ さて法華経にうつり候はんは四十余年の経々をすてて遷り候べきか、はた又かの経々並びに南無阿弥陀仏等をばすてずして遷り候べきかとをぼしきところに、凡夫の私の計(はからい)、是非につけてをそれあるべし。仏と申す親父の仰せを仰ぐべしとまつところに、仏定めて云く「正直捨方便」等云云。方便と申すは無量義経に未顕真実と申す上に以方便力と申す方便なり。以方便力の方便の内に、浄土三部経等の四十余年の一切経は一字一点も漏るべからざるか。されば四十余年の経々をすてて法華経に入らざらん人々は、世間の孝不孝はしらず、仏法の中には第一の不孝の者なるべし。故に第二譬喩品に云く「今此三界 乃至 雖復教詔 而不信受」等云云。四十余年の経々をすてずして法華経に並べて行ぜん人々は、主師親の三人のをほせを用ゐざる人々なり。
教と申すは師親のをしへ、詔と申すは主上の詔勅なるべし。仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり。されば四十余年の経々につきて法華経へうつらず、又うつれる人々も彼の経々をすててうつらざるは、三徳備へたる親父の仰せを用ゐざる人、天地の中に住むべき者にはあらず。この不孝の人の住処を経の次下に定めて云く「若人不信 乃至 其人命終 入阿鼻獄」等云云。設ひ法華経をそしらずとも、うつり付かざらん人々不孝の失疑ひなかるべし。不孝の者は又悪道疑ひなし。故に仏は入阿鼻獄と定め給ひぬ。何に況や爾前の経々に執心を固くなして法華経へ遷らざるのみならず、善導が千中無一、法然が捨閉閣抛とかけるは、あに阿鼻地獄を脱るべしや。其の所化並びに檀那は又申すに及ばず。/ 「雖復教詔 而不信受」と申すは孝に二つあり。世間の孝の孝不孝は外典の人々これをしりぬべし。内典の孝不孝は、設ひ論師等なりとも実教を弁へざる権教の論師の流れを受けたる末の論師なんどは、後生しりがたき事なるべし。何に況や末々の人々をや。涅槃経の三十四に云く「人身を受けん事は爪上の土、三悪道に堕ちん事は十方世界の土、四重五逆乃至涅槃経を謗ずる事は十方世界の土、四重五逆乃至涅槃経を信ずる事は爪の上の土」なんどととかれて候。
末代には五逆の者と謗法の者は十方世界の土のごとしとみへぬ。されども当時五逆罪つくる者は爪の上の土、つくらざる者は十方世界の土程候へば、経文そらごとなるやうにみへ候を、くはしくかんがへみ候へば、不孝の者を五逆罪の者とは申し候か、又相似の五逆と申す事も候。さるならば前王の正法実法を弘めさせ給へと候を、今の王の権法相似の法を尊みて、天子本命の道場たる正法の御寺の御帰依うすくして、権法邪法の寺の国々に多くいできたれるは、愚者の眼には仏法繁盛とみへて、仏天智者の御眼には古き正法の寺々やうやくうせ候へば、一には不孝なるべし、賢なる父母の氏寺をすつるゆへ、二には謗法なるべし。若ししからば日本国当世は国一同に不孝謗法の国なるべし。此の国は釈迦如来の御所領。仏の左右臣下たる大梵天王第六天の魔王にたばせ給ひて、大海の死骸をとどめざるがごとく、宝山の曲林をいとうがごとく、此の国の謗法をかへんとをぼすかと勘へ申すなりと申せ。/ 此の上捨てられて候四十余年の経々の今に候はいかになんど、俗の難ぜば返詰して申すべし。塔をくむあししろ(足代)は塔くみあげては切りすつるなりなんど申すべし。
此の譬へは玄義の第二の文に「今の大教若し起これば方便の教絶す」と申す釈の心なり。妙と申すは絶という事、絶と申す事は此の経起これば已前の経々を断止(たちやむる)と申す事なるべし。正直捨方便の捨の文字の心、又嘉祥の日出でぬるは星かくるの心なるべし。但し爾前の経々は塔のあししろなれば切りすつるとも、又塔をすり(修理)せん時は用ゐるべし。又切りすつべし。三世の諸仏の説法の儀式かくのごとし。又俗の難に云く、慈覚大師の常行堂等の難、これをば答ふべし。内典の人外典をよむ、得道のためにはあらず、才学のためか。山寺の小児の倶舎の頌をよむ、得道のためか。伝教・慈覚は八宗を極め給へり。一切経をよみ給ふ。これみな法華経を詮と心へ給はん梯磴なるべし。又俗の難に云く、何にさらば御房は念仏をば申し給はぬ。答へて云く、伝教大師は二百五十戒をすて給ひぬ。時にあたりて、法華円頓の戒にまぎれしゆへなり。当世は諸宗の行多けれども、時にあたりて念仏をもてなして法華経を謗ずるゆえに、金石迷ひやすければ唱へ候はず。例せば仏十二年が間、常楽我浄の名をいみ給ひき。外典にも寒食のまつりに火をいみ、あかき物をいむ。不孝の国と申す国をば孝養の人はとをらず。此等の義なるべし。いくたびも選択をばいろはずして先づかうたつべし。
又御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかかれて候事、かへすがへす不思議にをぼへ候。そのゆへは僧となりぬ。其の上、一閻浮提にありがたき法門なるべし。設ひ等覚の菩薩なりともなにとかをもうべき。まして梵天・帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門(かど)まぼり。又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其の上、日本秋津島は四州の輪王の所従にも及ばず、但島の長(をさ)なるべし。長なんどにつかへん者どもに召されたり、上(かみ)なんどかく上、面目なんど申すは、かたがたせんずるところ日蓮をいやしみてかけるか。総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば、始めはわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるう。せう(少輔)房がごとし。わ(和)御房もそれてい(其れ体)になりて天のにくまれかほるな。のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう(条)物くるわし。定めてことば(語)つき音なんども京なめり(訛)になりたるらん。ねずみがかわほり(蝙蝠)になりたるやうに、鳥にもあらず、ねずみ(鼠)にもあらず。田舎法師にもあらず京法師にもにず、せう房がやうになりぬとをぼゆ。
言をば但いなかことばにてあるべし。なかなかあしきやうにて有るなり。尊成とかけるは隠岐の法皇の御実名か、かたがた不思議なるべし。/ かつしられて候やうに、当世の高僧真言・天台等の人々の御いのりは叶ふまじきよしぜんぜん(前々)に申し候上、今年鎌倉の真言師等は去年より変成男子の法行(をこ)なはる。隆弁なんどは自歎する事かぎりなし。七八百余人の真言師、東寺・天台の大法・秘法尽くして行ぜしがついにむなしくなりぬ。禅宗・律僧等又一同に行ひしかどもかなはず。日蓮が叶ふまじと申すとて不思議なりなんど、をどし候ひしかども皆むなしくなりぬ。小事たる今生の御いのりの叶はぬを用てしるべし。大事たる後生叶ふべしや。真言宗の漢土に弘まる始めは、天台の一念三千を盗み取りて真言の教相と定めて理の本とし、枝葉たる印真言を宗と立て、宗として天台宗を立て下す条謗法の根源たるか。又華厳・法相・三論も天台宗日本になかりし時は謗法ともしられざりしが、伝教大師円宗を勘へいだし給ひて後、謗法の宗ともしられたりしなり。当世真言等の七宗の者、しかしながら謗法なれば、大事の御いのり叶ふべしともをぼへず。/ 天台宗の人々は我が宗は正なれども、邪なる他宗と同ずれば、我が宗の正をもしらぬ者なるべし。
譬へば東に迷ふ者は対当の西に迷ひ、東西に迷ふゆへに十方に迷ふなるべし。外道の法と申すは本内道より出でて候。而れども外道の法をもて内道の敵となるなり。諸宗は法華経よりいで、天台宗を才学として而も天台宗を失ふなるべし。天台宗の人々は我が宗は実義とも知らざるゆへに、我が宗のほろび、我が身のかろくなるをばしらずして、他宗を助けて我が宗を失ふなるべし。法華宗の人が法華経の題目南無妙法蓮華経とわとなえ(唱)ずして、南無阿弥陀仏と常に唱へば、法華経を失ふ者なるべし。例せば外道は三宝を立つ、其の中に仏宝と申すは南無摩醯修羅天と唱へしかば、仏弟子は翻邪の三帰と申して南無釈迦牟尼仏と申せしなり。此れをもって内外のしるしとす。南無阿弥陀仏とは浄土宗の依経の題目なり。心には法華経の行者と存すとも、南無阿弥陀仏と申さば、傍輩は念仏者としりぬ。法華経をすてたる人とをもうべし。叡山の三千人は此の旨を弁へずして、王法にもすてられ叡山をもほろぼさんとするゆへに、自然に三宝に申す事叶はず等と申し給ふべし。/ 人不審して云く、天台・妙楽・伝教等の御釈に、我がやうに法華経並びに一切経を心えざらん者は悪道に堕つべしと申す釈やあると申さば、玄の三・籤の三の已今当等をいだし給ふべし。
伝教大師、六宗の学者・日本国の十四人を呵して云く、顕戒論の下に云く「昔斉朝の光統(かうづ)を聞き、今は本朝の六統を見る。実なるかな法華の何況することや」等文。華厳・真言・法相・三論の四宗を呵して云く、依憑集に云く「新来の真言家は即ち筆受の相承を泯ぼし、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠す。沈空の三論宗は弾呵の屈恥を忘れ称心の酔を覆ふ、著有の法相宗は僕陽の帰依を非(なみ)して青竜の判経を撥ふ」等云云。天台・妙楽・伝教等は、真言等の七宗の人々は設ひ戒定はまたく(全)とも、謗法のゆへに悪道脱るべからずと定められたり。何に況や禅宗・浄土宗等は勿論なるべし。されば止観は偏に達磨をこそは(破)して候めれ。而るに当世の天台宗の人々は、諸宗に得道をゆるすのみならず、諸宗の行をうばい取りて我が行とする事いかん。当世の人々ことに真言宗を不審せんか。立て申すべきやう。日本国に八宗あり。真言宗大いに分かちて二流あり。所謂 東寺・天台なるべし。法相・三論・華厳・東寺の真言等は大乗宗、設ひ定恵は大乗なれども東大寺の小乗戒を持つゆへに戒は小乗なるべし。退大取小の者小乗宗なるべし。叡山の真言宗は天台円頓の戒をうく、全く真言宗の戒なし。されば天台宗の円頓戒にをちたる真言宗なり等申すべし。
而るに座主等の高僧名を天台宗にかりて一向真言宗によて法華宗をさぐる(下)ゆへに、叡山皆謗法になりて御いのりにしるしなきか。/ 問うて云く、天台法華宗にたい(対当)して真言宗の名をけづらるる証文 如何。答へて云く、学生式に云く〈伝教大師作なり〉「天台法華宗年分学生式〈一首〉。年分度者の人〈柏原先帝天台法華宗伝法者に加へらる〉。凡そ法華宗天台の年分は弘仁九年より○叡山に住せしめて、一十二年山門を出ださず両業を修学せしめん。凡そ止観業の者○凡そ遮那業の者」等云云。顕戒論縁起の上に云く「新法華宗を加へんことを請ふ表一首。沙門最澄○華厳宗に二人、天台法華宗に二人」等云云。又云く「天台の業に二人〈一人大毘盧遮那経を読ましめ一人摩訶止観を読ましむ〉」。此等は天台宗の内に真言宗をば入れて候こそ候めれ。嘉祥元年六月十五日の格(きやく)に云く「右入唐廻して請益す。伝灯法師位円仁の表に(いは)く伏して天台宗の本朝に伝はることを尋ぬれば○延暦二十四年○二十五年特(ひとり)天台の年分度者二人を賜はる。一人は真言の業を習はし一人は止観の業を学す。○然れば則ち天台宗の止観と真言との両業は是れ桓武天皇の崇建する所」矣等云云。
叡山にをいては天台宗にたいしては真言宗の名をけづり、天台宗を骨とし真言をば肉となせるか。而るに末代に及んで天台・真言両宗、中あし(悪)うなりて骨と肉と分け、座主は一向に真言となる、骨なき者のごとし。大衆は多分天台宗なり、肉なきもののごとし。仏法に諍ひあるゆへに世間の相論も出来して叡山静かならず、朝下にわづらい多し。此等の大事を内々は存すべし。此の法門はいまだをしえざりき。よくよく存知すべし。/ 又念仏宗は法華経を背きて浄土の三部経につくゆへに、阿弥陀仏を正として釈迦仏をあなづる。真言師、大日をせん(詮)とをもうゆへに釈迦如来をあなづる。戒にをいては大小殊なれども釈尊を本とす。余仏は証明なるべし。諸宗殊なりとも釈迦を仰ぐべきか。師子の中の虫師子をくらう。仏教をば外道はやぶりがたし。内道の内に事いできたりて仏道を失ふべし。仏の遺言なり。仏道の内には小乗をもて大乗を失ひ、権大乗をもて実大乗を失ふべし。此等は又外道のごとし。又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人々が、かへりて法華経をば失わんが大事にて候べし。仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我が朝をほろぼさんとす。叡山の正法の失へるゆえに、大天魔日本国に出来して、法然大日等が身に入り、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住み、かへりて叡山三千人に入るゆえに、師檀中不和にして御祈祷しるしなし。御祈請しるしなければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ。
又王臣等天台・真言の学者に向かひて問うて云く、念仏・禅宗等の極理は天台・真言とは一つかととわせ給へば、名は天台・真言にかりて其の心も弁へぬ高僧天魔にぬかれて答へて云く、禅宗の極理は天台・真言の極理なり、弥陀念仏は法華経の肝心なり、なんど答へ申すなり。而るを念仏者・禅宗等のやつばらには天魔乗りうつりて、当世の天台・真言の僧よりも智恵かしこきゆえに、全くしからず禅ははるかに天台・真言に超えたる極理なり。或は云く「諸教は理深、我等衆生は解微なり。機教相違せり、得道あるべからず」なんど申すゆへに、天台・真言等の学者、王臣等檀那皆奪ひとられて御帰依なければ、現身に餓鬼道に堕ちて友の肉をはみ、仏神にいかりをなし、檀那をすそ(呪咀)し、年々に災を起こし、或は我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい、或は生身の弥勒菩薩をほろぼす。進みては教主釈尊の怨敵となり、退きては当来弥勒の出世を過(あやまたん)とくるい候か。この大罪は経論にいまだとかれず。/ 又此の大罪は叡山三千人の失にあらず。公家武家の失となるべし。日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並びに天照太神等、隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか。
例せば国民たりし清盛入道王法をかたぶけたてまつり、結句は山王大仏殿をやきはらいしかば、天照太神・正八幡・山王等よりき(与力)せさせ給ひて、源頼義が末の頼朝に仰せ下して平家をほろぼされて国土安穏なりき。今一国挙りて仏神の敵となれり。我が国に此の国を領すべき人なきかのゆへに大蒙古国は起こるとみへたり。例せば震旦・高麗等は天竺についでは仏国なるべし。彼の国々禅宗・念仏宗になりて蒙古にほろぼされぬ。日本国は彼の二国の弟子なり。二国のほろぼされんに、あに此の国安穏なるべしや。/ 国をたすけ家ををもはん人々は、いそぎ禅念の輩を経文のごとくいましめらるべきか。経文のごとくならば仏神日本国にましまさず。かれを請じまいらせんと術(すべ)はをぼろげならでは叶ひがたし。先づ世間の上下万人云く、八幡大菩薩は正直の頂(かうべ)にやどり給ふ。別のすみかなし等云云。世間に正直の人なければ大菩薩のすみかましまさず。又仏法の中に法華経計りこそ正直の御経にてはをはしませ。法華経の行者なければ大菩薩の御すみかをはせざるか。但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候へ。其の故は故最明寺入道に向かひて、禅宗は天魔のそい(所為)なるべし。のち(後)に勘文もてこれをつげしらしむ。
日本国の皆人無間地獄に堕つべし。これほど有る事を正直に申すものは先代にもありがたくこそ。これをもって推察あるべし。それより外の小事曲ぐべしや。又聖人は言(ことば)をかざらずと申す。又いまだ顕はれざる後をしるを聖人と申すか。日蓮は聖人の一分にあたれり。此の法門のゆへに二十余所をわれ、結句流罪に及び、身に多くのきず(疵)をかをほり、弟子をあまた殺させたり。比干にもこえ、伍しそ(子胥)にもをとらず。提婆菩薩の外道に殺され、師子尊者の檀弥利王に頸をはねられしにもをとるべきか。もししからば八幡大菩薩は日蓮が頂をはなれさせ給ひてはいづれの人の頂にかすみ給はん。日蓮を此の国に用ゐずばいかんがすべき、となげかれ候なりと申せ。/ 又日蓮房の申し候。仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし。禅宗・念仏宗の寺々を一つもなく失ひ、其の僧らをいましめ、叡山の講堂を造り、霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れたてまつらざらん外は、諸神もかへり給ふべからず。諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ。
◆ 故最明寺入道見参御書 〔C1・文永六年〕/ 寺々を挙げ、日本国中旧寺の御帰依を捨てしめんが為に、天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時之れを申す。又立正安国論之れを挙ぐ。総じて日本国中の禅宗・念仏宗
◆ 真間釈迦仏御供養逐状 〔C6・文永七年九月二六日・富木常忍〕/ 釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。「欲令衆生 開仏知見 乃至 然我実成仏已来」は是れなり。但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をもてはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎へ入れまいらせさせ給へ。自身並びに子にあらずばいかんがと存じ候。御所領の堂の事等は、大進の阿闍梨がききて候。かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし。いつぞや大黒を供養して候ひし其の後より世間なげかずしておはするか。此の度は大海のしほの満つるがごとく、月の満ずるが如く、福きたり命ながく、後生は霊山とおぼしめせ。/ 九月二十六日  日蓮花押/ 進上富木殿御返事
◆ 法華捨身念願抄 〔C2・文永六年一一月二八日・富木常忍〕/ 止観の五、正月(むつき)一日よりよみ候ひて、現世安穏後生善処と祈請仕り候。便宜に給ふべく候。本末は失(う)せて候ひしかども、これにすりよせて候。多く本入るべきに申し候。/ 大師講に鵞目五連給はり候ひ了んぬ。此の大師講三四年に始めて候が、今年は第一にて候ひつるに候。/ 抑 此の法門の事、勘文の有無に依りて弘まるべきか、之れ弘まらざるか。去年方々に申して候ひしかども、いなせ(否応)の返事候はず候。今年十一月の比、方々へ申して候へば少々返事あるかたも候。をほかた人の心もやわらぎて、さもやとをぼしたりげに候。又上のげざん(見参)にも入りて候やらむ。これほどの僻事申して候へば、流死の二罪の内は一定と存ぜしが、いままでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候。いたれる道理にて候やらむ。又自界叛逆難の経文も値ふべきにて候やらむ。山門なんどもいにしえにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給はり候。それならず子細ども候やらん。震旦高麗すでに禅門念仏になりて、守護の善神の去るかの間、彼の蒙古に聳(したが)ひ候ひぬ。
我が朝も又此の邪法弘まりて、天台法華宗を忽諸(ゆるがせ)のゆへに、山門安穏ならず、師檀違叛の国と成り候ひぬれば、十が八九はいかんがとみへ候。/ 人身すでにうけぬ。邪師又まぬかれぬ。法華経のゆへに流罪に及びぬ。今死罪に行はれぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来し候へかしとこそはげみ候ひて、方々に強言(がうげん)をかきて挙げをき候なり。すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。いたづらに曠野にすてん身を、同じくは一乗法華のかた(方)になげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をおひ、仙予・有得の名を後代に留めて、法華涅槃経に説き入れられまいらせんと願ふところなり。南無妙法蓮華経。/ 十一月二十八日  日蓮花押/ 御返事
◆ 止観第五之事御消息 〔C0・文永六年一二月二二日・富木常忍〕/ 母尼ごぜんにはことに法華経の御信心のふかくましまし候なる事、悦び候と申させ給ひ候へ。止観第五の事。正月一日辰の時此れをよみはじめ候。明年は世間怱々(そうそう)なるべきよし皆人申すあひだ、一向後生のために十五日まで止観を談ぜんとし候が、文あまた候はず候。御計らひ候べきか。白米一斗御志申しつくしがたう候。鎌倉は世間かつ(渇)して候。僧はあまたをはします。過去の餓鬼道の苦をばつぐ(償)のわせ候ひぬるか。法門の事。日本国に人ごとに信ぜさせんと願して候ひしが、願や成熟せんとし候らん。当時は蒙古の勘文によりて世間やわらぎて候なり。子細ありぬと見へ候。本より信じたる人々はことに悦ぶげに候か。恐々謹言。/ 十二月二十二日  日蓮(花押)
◆ 土木殿御返事 〔C6・文永七年・富木常忍〕/ 白米一ほかひ(行器)本斗六升たしかに給はり候。ときれう(斎料)も候はざりつるに悦び入り候。何事も見参にて申すべく候。/ 乃時  花押/ 富木殿
◆ 善無畏三蔵抄 〔C2・文永七年・浄顕房・義浄房〕/ 法華経は一代聖教の肝心、八万法蔵の依りどころなり。大日経・華厳経・般若経・深密経等の諸の顕密の諸経は、震旦・月氏・竜宮・天上・十方世界の国土の諸仏の説教恒沙塵数なり。大海を硯の水とし、三千大千世界の草木を筆としても書き尽くしがたき経々の中をも、或は此れを見、或は計り推するに、法華経は最第一におはします。而るを印度等の宗、日域の間に仏意を窺はざる論師人師多くして、或は大日経は法華経に勝れたり。或人々は法華経は大日経に劣るのみならず、華厳経にも及ばず。或人々は法華経は涅槃経・般若経・深密経等には劣る。或人々は辺々あり、互ひに勝劣ある故に。或人の云く、機に随ひて勝劣あり、時機に叶へば勝れ、叶はざれば劣る。或人の云く、有門より得道すべき機あれば、空門をそしり有門をほむ。余も是れを以て知るべしなんど申す。其の時の人々の中に此の法門を申しやぶる人なければ、おろかなる国王等深く是れを信ぜさせ給ひ、田畠等を寄進して徒党あまたになりぬ。/ 其の義久しく旧(ふ)りぬれば、只正法なんめりと打ち思ひて、疑ふ事もなく過ぎ行く程に、末世に彼等が論師・人師より智恵賢き人出来して、彼等が持つところの論師・人師の立義、一々に或は所依の経々に相違するやう、
或は一代聖教の始末浅深等を弁へざる故に専ら経文を以て責め申す時、各々宗々の元祖の邪義、扶け難き故に陳し方を失ひ、或は疑って云く、論師・人師定めて経論に証文ありぬらん。我が智及ばざれば扶けがたし。或は疑って云く、我が師は上古の賢哲なり、今我等は末代の愚人なり、なんど思ふ故に、有徳高人をかたらひえて怨(あだ)のみなすなり。しかりといへども、予自他の偏党をなげすて、論師人師の料簡を閣きて、専ら経文によるに、法華経は勝れて第一におはすと意得て侍るなり。法華経に勝れておはする御経ありと申す人出来候はば、思し食すべし。此れは相似の経文を見たがへて申すか。又、人の私に我と経文をつくりて事を仏説によせて候か。智恵おろかなる者弁へずして、仏説と号するなんどと思し食すべし。恵能が壇経、善導が観念法門経、天竺・震旦・日本国に私に経を説きをける邪師其の数多し。其の外、私に経文を作り、経文に私の言を加へなんどせる人々是れ多し。然りと雖も、愚者は是れを真(まこと)と思ふなり。譬へば天(そら)に日月にすぎたる星有りなんど申せば、眼無き者はさもやなんど思はんが如し。我が師は上古の賢哲、汝は末代の愚人なんど申す事をば、愚かなる者はさもやと思ふなり。
此の不審は今に始まりたるにあらず。陳隋の代に智顗(ちぎ)法師と申せし小僧一人侍りき。後には二代の天子の御師、天台智者大師と号し奉る。此の人始めいやしかりし時、但漢土五百余年の三蔵人師を破るのみならず、月氏一千年の論師をも破せしかば、南北の智人等雲の如く起こり、東西の賢哲等星の如く列なりて、雨の如く難を下し、風の如く此の義を破りしかども、終に論師人師の偏邪の義を破して天台一宗の正義を立てにき。日域の桓武の御宇に最澄と申す小僧侍りき。後には伝教大師と号し奉る。欽明已来の二百余年の諸の人師の諸宗を破りしかば、始めは諸人いかりをなせしかども、後には一同に御弟子となりにき。此等の人々の難に我等が元祖は四依の論師、上古の賢哲なり、汝は像末の凡夫愚人なり、とこそ難じ侍りしか。正像末には依るべからず、実経の文に依るべきぞ。人には依るべからず、専ら道理に依るべきか。外道仏を難じて云く「汝は成劫の末、住劫の始めの愚人なり。我等が本師は先代の智者、二天三仙是れなり」なんど申せしかども、終に九十五種の外道とこそ捨てられしか。/ 日蓮八宗を勘へたるに、法相宗・華厳宗・三論宗等は権経に依りて、或は実経に同じ、或は実経を下せり。
是れ論師人師より誤りぬと見えぬ。倶舎成実は子細ある上、律宗なんどは小乗最下の宗なり。人師より権大乗、実大乗にもなれり。真言宗・大日経等は未だ華厳経等に及ばず、何に況や涅槃法華経等に及ぶべしや。而るに善無畏三蔵は、華厳・法華・大日経等の勝劣を判ずる時、理同事勝の謬釈(びうしやく)を作りしより已来、或はおごり(傲)をなして法華経は華厳経にも劣りなん、何に況や真言経に及ぶべしや。或は云く、印真言のなき事は法華経に諍ふべからず。或は云く、天台宗の祖師多く真言宗を勝ると云ひ、世間の思ひも真言宗勝れたるなんめりと思へり。日蓮此の事を計るに、人多く迷ふ事なれば委細にかんがへたるなり。粗余処(よそ)に注せり、見るべし。又志あらん人々は存生の時習ひ伝ふべし。人の多くおもふにはおそるべからず、又時節の久近にも依るべからず、専ら経文と道理とに依るべし。/ 浄土宗は曇鸞・道綽・善導より誤り多くして、多くの人々を邪見に入れけるを、日本の法然、是れをうけ取りて人ごとに念仏を信ぜしむるのみならず、天下の諸宗を皆失はんとするを、叡山三千の大衆・南都興福寺・東大寺の八宗より是れをせく(塞)故に、代々の国王勅宣を下し、将軍家より御教書をなしてせけ(塞)どもとどまらず。弥々繁昌して、返りて主上上皇万民等にいたるまで皆信伏せり。
而るに日蓮は安房の国東条片海(かたうみ)の石中(いそなか)の賤民が子なり。威徳なく、有徳のものにあらず。なににつけてか、南都北嶺のとどめがたき天子の虎牙の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども、経文を亀鏡と定め、天台・伝教の指南を手ににぎりて、建長五年より今年文永七年に至るまで、十七年が間是れを責めたるに、日本国の念仏大体留まり了んぬ。眼前に是れ見えたり。又口にすてぬ人々はあれども、心計りは念仏は生死をはなるる道にはあらざりけると思ふ。/ 禅宗以て是の如し。一を以て万を知れ。真言等の諸宗の誤りをだに留めん事、手ににぎりておぼゆるなり。況や、当世の高僧真言師等は其の智牛馬にもおとり、蛍(ほたる)火の光にもしかず、只、死せるものの手に弓箭をゆひつけ、ねごとするものに物をとふが如し。手に印を結び、口に真言は誦(ず)すれども、其の心中には義理を弁ふる事なし。結句、慢心は山の如く高く、欲心は海よりも深し。是れは皆自ら経論の勝劣に迷ふより事起こり、祖師の誤りをたださざるによるなり。所詮 智者は八万法蔵をも習ふべし、十二部経をも学すべし。末代濁悪世の愚人は、念仏等の難行易行等をば抛ちて、一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱へ給ふべし。
日輪東方の空に出でさせ給へば、南浮の空皆明らかなり。大光を備へ給へる故なり。蛍火は未だ国土を照らさず。宝珠は懐中に持ちぬれば、万物皆ふらさずと云ふ事なし。瓦石は財(たから)をふらさず。念仏等は法華経の題目に対すれば、瓦石と宝珠と、蛍火と日光との如し。我等が昧き眼を以て蛍火の光を得て、物の色を弁ふべしや。旁(かたがた)凡夫の叶ひがたき法は、念仏真言等の小乗権経なり。/ 又、我が師釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり。此の娑婆無仏の世の最先に出でさせ給ひて、一切衆生の眼目を開き給ふ御(み)仏(ほとけ)なり。東西十方の諸仏菩薩も皆此の仏の教なるべし。譬へば、皇帝已前は人、父をしらずして畜生の如し。尭王已前は四季を弁へず、牛馬の痴なるに同じかりき。仏世に出でさせ給はざりしには、比丘比丘尼の二衆もなく、只男女二人にて候ひき。今比丘比丘尼の真言師等、大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し、念仏者等が阿弥陀仏を一向に持ちて釈迦如来を抛(なげす)てたるも、教主釈尊の比丘比丘尼なり。元祖が誤りを伝へ来るなるべし。/ 此の釈迦如来は三の故ましまして、他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ。
一には、此の娑婆世界の一切衆生の世尊にておはします。阿弥陀仏は此の国の大王にはあらず。釈迦仏は譬へば我が国の主上のごとし。先づ此の国の大王を敬ひて、後に他国の王をば敬ふべし。天照太神・正八幡宮等は我が国の本主なり。迹化の後、神と顕はれさせ給ふ。此の神にそむく人、此の国の主となるべからず。されば天照太神をば鏡にうつし奉りて内侍所(ないじどころ)と号す。八幡大菩薩に勅使有りて物申しあはさせ給ひき。大覚世尊は我等が尊主なり、先づ御本尊と定むべし。二には、釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり。先づ我が父母を孝し、後に他人の父母には及ぼすべし。例せば、周の武王は父の形を木像に造りて、車にのせて戦の大将と定めて天感を蒙り、殷の紂王をうつ。舜王は父の眼の盲(めしい)たるをなげきて涙をながし、手をもてのごひ(拭)しかば本のごとく眼あきにけり。此の仏も又是の如く、我等衆生の眼をば開仏知見とは開き給ひしか。いまだ他仏は開き給はず。三には、此の仏は娑婆世界の一切衆生の本師なり。此の仏は賢劫第九、人寿百歳の時、中天竺浄飯大王の御子、十九にして出家し、三十にして成道し、五十余年が間一代聖教を説き、八十にして御入滅、舎利を留めて一切衆生を正像末に救ひ給ふ。
阿弥陀如来・薬師仏・大日等は、他土の仏にして此の世界の世尊にてはましまさず。此の娑婆世界は十方世界の中の最下の処、譬へば此の国土の中の獄門の如し。十方世界の中の十悪五逆誹謗正法の重罪逆罪の者を諸仏如来擯出し給ひしを、釈迦如来此の土にあつめ給ふ。三悪並びに無間大城に堕ちて、其の苦をつぐのひて人中天上には生まれたれども、其の罪の余残ありてややもすれば正法を謗じ、智者を罵る罪つくりやすし。例せば、身子は阿羅漢なれども瞋恚のけしきあり。畢陵は見思を断ぜしかども慢心の形みゆ。難陀は淫欲を断じても女人に交はる心あり。煩悩を断じたれども余残あり。何に況や凡夫にをいてをや。されば釈迦如来の御名をば能忍と名づけて此の土に入り給ふに、一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり。此等の秘術は他仏のかけ(欠)給へるところなり。/ 阿弥陀仏等の諸仏世尊悲願をおこさせ給ひて、心にははぢ(恥)をおぼしめして、還りて此の界にかよひ、四十八願十二大願なんどは起こさせ給ふなるべし。観世音等の他土の菩薩も亦復是の如し。仏には常平等の時は一切諸仏は差別なけれども、常差別の時は各々に十方世界に土をしめて有縁無縁を分かち給ふ。
大通智勝仏の十六王子、十方に土をしめて一々に我が弟子を救ひ給ふ。其の中に釈迦如来は此の土に当たり給ふ。我等衆生も又生を娑婆世界に受けぬ。いかにも釈迦如来の教化をばはなるべからず。而りといへども人皆是れを知らず。委しく尋ねあきらめば「唯我一人 能為救護」と申して釈迦如来の御手を離るべからず。而れば此の土の一切衆生生死を厭ひ、御本尊を崇めんとおぼしめさば、必ず先づ釈尊を木画の像に顕はして御本尊と定めさせ給ひて、其の後力おはしまさば、弥陀等の他仏にも及ぶべし。/ 然るを当世聖行なき此の土の人々の仏をつくりかかせ給ふに、先づ他仏をさきとするは、其の仏の御本意にも釈迦如来の御本意にも叶ふべからざる上、世間の礼儀にもはづれて候。されば優填(うてん)大王の赤栴檀いまだ他仏をばきざませ給はず、千塔王の画像も釈迦如来なり。而るを諸大乗経による人々、我が所依の経々を諸経に勝れたりと思ふ故に、教主釈尊をば次ざまにし給ふ。一切の真言師は大日経は諸経に勝れたりと思ふ故に、此の経に詮とする大日如来を我等が有縁の仏と思ひ、念仏者等は観経等を信ずる故に阿弥陀仏を娑婆有縁の仏と思ふ。
当世はことに善導法然等が邪義を正義と思ひて浄土の三部経を指南とする故に、十造る寺は八九は阿弥陀仏を本尊とす。在家出家・一家十家・百家千家にいたるまで持仏堂の仏は阿弥陀なり。其の外木画の像一家に千仏万仏まします。大旨は阿弥陀仏なり。/ 而るに当世の智者とおぼしき人々、是れを見てわざはひとは思はずして我が意に相叶ふ故に只称美讃歎の心のみあり。只、一向悪人にして因果の道理をも弁へず、一仏をも持たざる者は還りて失なきへんもありぬべし。我等が父母・世尊は主師親の三徳を備へて、一切の仏に擯出せられたる我等を「唯我一人 能為救護」とはげませ給ふ。其の恩大海よりも深し、其の恩大地よりも厚し、其の恩虚空よりも広し。二つの眼をぬいて仏前に空の星の数備ふとも、身の皮を剥ぎて百千万天井にはるとも、涙を閼伽(あか)の水として千万億劫仏前に花を備ふとも、身の肉血を無量劫仏前に山の如く積み、大海の如く湛ふとも、此の仏の一分の御恩を報じ尽くしがたし。而るを当世の僻見の学者等、設ひ八万法蔵を極め、十二部経を諳(そらん)じ、大小の戒品を堅く持ち給ふ智者なりとも、此の道理に背かば悪道を免るべからずと思し食すべし。
例せば善無畏三蔵は真言宗の元祖、烏萇奈(うちょうな)国の大王仏種王の太子なり。教主釈尊は十九にして出家し給ひき。此の三蔵は十三にして位を捨て、月氏七十箇国九万里を歩き回りて諸経諸論諸宗を習ひ伝へ、北天竺金粟(こんぞく)王の塔の下にして天に仰ぎ祈請を致し給へるに、虚空の中に大日如来を中央として胎蔵界の曼荼羅顕はれさせ給ふ。慈悲の余り、此の正法を辺土に弘めんと思し食して漢土に入り給ひ、玄宗皇帝に秘法を授け奉り、旱魃の時雨の祈りをし給ひしかば、三日が内に天より雨ふりしなり。此の三蔵は千二百余尊の種子尊形三摩耶一事もくもりなし。当世の東寺等の一切の真言宗一人も此の御弟子に非ざるはなし。而るに此の三蔵一時(あるとき)に頓死ありき。数多(あまた)の獄卒来たりて鉄縄七すぢ懸けたてまつり、閻魔王宮に至る。此の事第一の不審なり。いかなる罪あて(有)此の責めに値ひ給ひけるやらん。今生は十悪は有りもやすらん、五逆罪は造らず。過去を尋ぬれば、大国の王となり給ふ事を勘ふるに、十善戒を堅く持ち五百の仏陀に仕へ給ふなり。何の罪かあらん。其の上、十三にして位を捨て出家し給ひき。閻浮第一の菩提心なるべし。過去現在の軽重の罪も滅すらん。
其の上、月氏に流布する所の経論諸宗を習ひ極め給ひしなり。何の罪か消えざらん。又真言密教は他に異なる法なるべし。一印一真言なれども手に結び、口に誦(ず)すれば、三世の重罪も滅せずと云ふことなし。無量倶低劫(くていこふ)の間作る所の衆の罪障も、此の曼荼羅を見れば一時に皆消滅すとこそ申し候へ。況や此の三蔵は千二百余尊の印真言を諳(そら)に浮かべ、即身成仏の観道鏡に懸かり、両部潅頂の御時大日覚王となり給ひき。如何にして閻魔の責めに預かり給ひけるやらん。/ 日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給ひて、我等易々(やすやす)と生死を離るべき教に入らんと思ひ候ひて、真言の秘教をあらあら習ひ、此の事を尋ね勘ふるに、一人として答へをする人なし。此の人悪道を免れずば、当世の一切の真言並びに一印一真言の道俗、三悪道の罪を免るべきや。日蓮此の事を委しく勘ふるに、二つの失有りて閻魔王の責めに預かり給へり。一つには、大日経は法華経に劣るのみに非ず、涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を、法華経に勝れたりとする謗法の失なり。二つには、大日如来は釈尊の分身なり。而るを大日如来は教主釈尊に勝れたりと思ひし僻見なり。此の謗法の罪は無量劫の間、千二百余尊の法を行ずとも悪道を免るべからず。
此の三蔵此の失免れ難き故に、諸尊の印真言を作せども叶はざりしかば、法華経第二譬喩品の「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」の文を唱へて、鉄の縄を免れさせ給ひき。/ 而るに善無畏已後の真言師等は、大日経は一切経に勝るるのみに非ず、法華経に超過せり。或は法華経は華厳経にも劣るなんど申す人もあり、此等は人は異なれども其の謗法の罪は同じきか。又、善無畏三蔵法華経と大日経と大事とすべしと深理をば同ぜさせ給ひしかども、印と真言とは法華経は大日経に劣りけるとおぼせし僻見計りなり。其の已後の真言師等は大事の理をも法華経は劣れりと思へり。印真言は又申すに及ばず、謗法の罪遥かにかさみたり。閻魔の責めにて堕獄の苦を延ぶべしとも見えず、直に阿鼻の炎をや招くらん。大日経には本(もと)一念三千の深理なし。此の理は法華経に限るべし。善無畏三蔵、天台大師の法華経の深理を読み出ださせ給ひしを盗み取りて大日経に入れ、法華経の荘厳として説かれて候大日経の印真言を彼の経の得分と思へり。理も同じと申すは僻見なり。真言印契を得分と思ふも邪見なり。譬へば人の下人の六根は主の物なるべし、而るを我が財(たから)と思ふ故に多くの失出で来たる。
此の譬へを以て諸経を解るべし。劣る経に説く法門は勝れたる経の得分と成るべきなり。/ 而るを日蓮は安房の国東条の郷清澄山の住人なり。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智恵の宝珠を授けさせ給ひき。其のしるしにや、日本国の八宗並びに禅宗念仏宗等の大綱粗伺ひ侍りぬ。殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで、此の十六七年の間、禅宗と念仏宗とを難ずる故に、禅宗念仏宗の学者蜂の如く起こり、雲の如く集まる。是れをつ(詰)むる事一言二言には過ぎず。結句は天台・真言等の学者、自宗の廃立を習ひ失ひて我が心と他宗に同じ、在家の信をなせる事なれば、彼の邪見の宗を扶けんが為に天台・真言は念仏宗禅宗に等しと料簡しなして日蓮を破するなり。此れは日蓮を破する様なれども、我と天台・真言等を失ふ者なるべし。能く能く恥ずべき事なり。此の諸経・諸論・諸宗の失を弁ふる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師道善御房の御恩なるべし。亀魚(かめ)すら恩を報ずる事あり、何に況や人倫をや。此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す。
而るに此の人愚痴におはする上念仏者なり、三悪道を免るべしとも見えず。而も又日蓮が教訓を用ゐるべき人にあらず。然れども、文永元年十一月十四日西条華房の僧坊にして見参に入りし時、彼の人の云く、我智恵なければ請用(しやうゆう)の望みもなし、年老いていらへ(綵)なければ念仏の名僧をも立てず、世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり。又、我が心より起こらざれども事の縁有りて、阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是れ又過去の宿習なるべし。此の科に依りて地獄に堕つべきや等云云。/ 爾の時に日蓮意に念はく、別して中違(なかたが)ひまいらする事無けれども、東条左衛門入道蓮智が事に依りて此の十余年の間は見奉らず。但し中不和なるが如し。穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼義なれとは思ひしかども、生死界の習ひ、老少不定なり、又二度見参の事難かるべし。此の人の兄道義房義尚此の人に向かひて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが、臨終思ふ様にもましまさざりけるやらん。此の人も又しかるべしと哀れに思ひし故に、思ひ切って強々に申したりき。阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし。其の故は正直捨方便の法華経に、釈迦如来は我等が親父阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ。
我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給ひて、親父をば一体も造り給はざりけるは、豈に不孝の人に非ずや。中々山人(やまがつ)海人(あま)なんどが、東西をしらず一善をも修せざる者は、還りて罪浅き者なるべし。当世の道心者が後世を願ふとも、法華経釈迦仏をば打ち捨て、阿弥陀仏念仏なんどを念々に捨て申さざるはいかがあるべかるらん。打ち見る処は善人とは見えたれども、親を捨てて他人につく失免るべしとは見えず。一向悪人はいまだ仏法に帰せず、釈迦仏を捨て奉る失も見えず、縁有りて信ずる辺もや有らんずらん。善導法然並びに当世の学者等が邪義に就きて、阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す人々は、多生曠劫をふるとも、此の邪見を翻へして釈迦仏法華経に帰すべしとは見えず。されば双林最後の涅槃経に、十悪五逆よりも過ぎておそろしき者を出ださせ給ふに、謗法闡提と申して二百五十戒を持ち、三衣一鉢を身に纏へる智者共の中にこそ有るべしと見え侍れと、こまごまと申して候ひしかば、此の人もこころえずげに思ひておはしき。/ 傍座の人々もこころえずげにをもはれしかども、其の後承りしに、法華経を持たるるの由承りしかば、此の人邪見を翻し給ふか、善人に成り給ひぬと悦び思ひ候処に、又此の釈迦仏を造らせ給ふ事申す計りなし。
当座には強(つよげ)なる様に有りしかども、法華経の文のままに説き候ひしかば、かう(斯)おれさせ給へり。忠言耳に逆らひ良薬口に苦しと申す事は是れなり。今既に日蓮、師の恩を報ず。定めて仏神納受し給はんか。各々此の由を道善房に申し聞かせ給ふべし。仮令(たとい)強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり。当世学匠等の法門は、軟語・実語と人々は思し食したれども皆強言・妄語なり。仏の本意たる法華経に背く故なるべし。日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし、禅宗真言宗も又謬りの宗なりなんど申し候は、強言とは思し食すとも実語軟語なるべし。例せば此の道善御房の法華経を迎へ、釈迦仏を造らせ給ふ事は日蓮が強言より起こる。日本国の一切衆生も亦復是の如し。当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり。又一向念仏申す人も疑ひをなす故に、心中に法華経を信じ又釈迦仏を書き造り奉る。是れ亦日蓮が強言より起こる。譬へば栴檀は伊蘭より生じ、蓮華は泥より出でたり。而るに念仏は無間地獄に堕つると申せば、当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染(かりそめ)にも毀(そし)るは、糞犬(やせいぬ)が師子王をほへ、痴猿(こざる)が帝釈を笑ふに似たり。
文永七年  日蓮花押/ 義浄房浄顕房
◆ 真言天台勝劣事 〔C6・文永七年〕/ 問ふ、何なる経論に依りて真言宗を立つるや。答ふ、大日経・金剛頂経・蘇悉地経、並びに菩提心論、此の三経一論に依りて真言宗を立つるなり。/ 問ふ、大日経と法華経と何れか勝れたるや。答ふ、法華経は或は七重或は八重の勝なり。大日経は七八重の劣なり。難じて云く、驚きて云く、古へより今に至るまで法華より真言劣ると云ふ義都て之れ無し。之れに依りて、弘法大師は十住心を立てて法華は真言より三重の劣と釈し給へり。覚鑁(かくばん)は法華は真言の履取(はきものとり)に及ばずと釈せり。打ち任せては密教勝れ顕教劣るなりと世挙(こぞ)りて此れを許す。七重の劣と云ふ義は甚だ珍しき者をや。答ふ、真言は七重の劣と云ふ事珍しき義なりと驚かるるは理なり。所以に法師品に云く「已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」云云。又云く「諸経の中に於て最も其の上に在り」云云。此の文の心は、法華は一切経の中に勝れたり〈此れ其の一〉。次に無量義経に云く「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く」云云。又云く「真実甚深、甚深甚深なり」云云。此の文の心は、無量義経は諸経の中に勝れて甚深の中にも猶甚深なり。然れども法華の序文にして機もいまだなましき(不熟)故に正説の法華には劣るなり〈此れ其の二〉。
次に涅槃経の九に云く「是の経の世に出づること、彼の果実の一切を利益し安楽する所多きが如し。能く衆生をして仏性を見はさしむ。法華の中の八千の声聞の記別を授かることを得て、大果実を成ずるが如きは秋収冬蔵して更に所作無きが如し」云云。籤の一に云く「一家の義意謂く二部同味なれども然も涅槃尚劣る」云云。此の文の心は涅槃経も醍醐味、法華経も醍醐味。同じ醍醐味なれども涅槃経は尚劣るなり、法華経は勝れたりと云へり。涅槃経は既に法華の序分の無量義経よりも劣り、醍醐味なるが故に華厳経には勝れたり〈此れ其の三〉。次に華厳経は最初頓説なるが故に般若には勝れ、涅槃経の醍醐味には劣れり〈此れ其の四〉。次に蘇悉地経に云く「猶成ぜざる者は或は復大般若経を転読すること七遍」云云。此の文の心は大般若経は華厳経には劣り、蘇悉地経には勝ると見えたり〈此れ其の五〉。次に蘇悉地経に云く「三部の中に於て此の経を王と為す」云云。此の文の心は蘇悉地経は大般若経には劣り、大日経・金剛頂経には勝ると見えたり〈此れ其の六〉。此の義を以て大日経は法華経より七重の劣とは申すなり。法華の本門に望むれば八重の劣とも申すなり。/ 次に弘法大師の十住心を立てて法華は三重劣ると云ふ事は、安然の教時義と云ふ文に十住心の立様を破して云く、五つの失(あやまち)有り。
謂く、一には大日経の義釈に違する失。二には金剛頂経に違する失。三には守護経に違する失。四には菩提心論に違する失。五には衆師に違する失なり。此の五つの失を陳ずる事無くしてつまり給へり。然る間、法華は真言より三重の劣と釈し給へるが大なる僻事なり。謗法に成りぬと覚ゆ。次に覚鑁(かくばん)の法華は真言の履取に及ばずと舎利講の式に書かれたるは舌に任せたる言なり。証拠無き故に専ら謗法なるべし。次に世を挙げて密教勝れ顕教劣ると此れを許すと云ふ事、是れ偏に弘法を信じて法を信ぜざるなり。所以に弘法をば安然和尚五失有りと云ひて、用ゐざる時は世間の人は何様に密教勝ると思ふべき。抑 密教勝れ顕教劣るとは何れの経に説きたるや。是れ又証拠無き事を世を挙げて申すなり。/ 猶難じて云く、大日経等は是れ中央大日法身無始無終の如来、法界宮或は色究竟天、他化自在天にして、菩薩の為に真言を説き給へり。法華は釈迦応身、霊山にして二乗の為に説き給へり。或は釈迦は大日の化身なりとも云へり。成道の時は、大日の印可を蒙りて(おん)字の観を教へられ、後夜に仏になるなり。大日如来だにもましまさずば、争でか釈迦仏も仏に成り給ふべき。此等の道理を以て案ずるに、法華より真言勝れたる事は云ふに及ばざるなり。
答へて云く、依法不依人の故に、いかやうにも経説のやうに依るべきなり。大日経は釈迦の大日となて説き給へる経なり。故に金光明最勝王経の第一には中央釈迦牟尼と云へり。又金剛頂経の第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり。大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に、大日経をば釈迦の説とも云ふべし、大日の説とも云ふべし。又毘盧遮那(びるしやな)と云ふは天竺の語、大日と云ふは此の土の語なり。釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云ふ時は大日は釈迦の異名なり。加之(しかのみならず)旧訳の経に盧舎那と云ふをば、新訳の経には毘盧遮那と云ふ。然る間、新訳の経の毘盧遮那法身と云ふは、旧訳の経の盧舎那他受用身なり。故に大日法身と云ふは法華経の自受用報身にも及ばず。況や法華経の法身如来にはまして及ぶべからず。法華経の自受用身と法身とは真言には分絶えて知らざるなり。法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるるなり。随って華厳経の新訳には或は釈迦と称(なづ)け、或は毘盧遮那と称くと説けり。故に大日は只是れ釈迦の異名なり。なにしに別の仏とは意得べきや。/ 次に法身の説法と云ふ事、何れの経の説ぞや。弘法大師の二教論には楞伽経に依りて法身の説法を立て給へり。
其の楞伽経と云ふは釈迦の説にして、未顕真実の権教なり。法華経の自受用身に及ばざれば、法身の説法とはいへども、いみじくもなし。此の上に法は定めて説かず、報は二義に通ずるの二身の有るをば一向知らざるなり。故に大日法身の説法と云ふは定めて法華の他受用身に当たるなり。次に大日無始無終と云ふ事、既に「我昔道場に坐して四魔を降伏す」とも宣べ、又「四魔を降伏し六趣を解脱し一切智々の明を満足す」等云云。此等の文は大日は始めて四魔を降伏して、始めて仏に成るとこそ見えたれ。全く無始の仏とは見えず。又仏に成りて何程を経ると説かざる事は権経の故なり。実経にこそ五百塵点等をも説きたれ。次に法界宮とは、色究竟天か。又何れの処ぞや。色究竟天、或は他化自在天は、法華天台宗には別教の仏の説処と云ひていみじからぬ事に申すなり。/ 又菩薩の為に説くとも高名もなし。例せば華厳経は一向菩薩の為なれども、尚法華の方便とこそ云はるれ。只仏出世の本意は仏に成り難き二乗の仏に成るを一大事とし給へり。されば大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ、二乗作仏を説かざるを顕教と云へり。此の趣ならば真言の三部経は二乗作仏の旨無きが故に還りて顕教と云ひ、法華は二乗作仏を旨とする故に密教と云ふべきなり。
随って諸仏秘密の蔵と説けば子細なし。世間の人密教勝ると云ふはいかやうに意得たるや。但し「若し顕教に於て修行する者は久しく三大無数劫を経る」等と云へるは、既に三大無数劫と云ふ故に、是の三蔵四阿含経を指して顕教と云ひて、権大乗までは云はず。況や法華実大乗までは都て云はざるなり。次に釈迦は大日の化身、字を教へられてこそ仏には成りたれと云ふ事。此れは偏に六波羅蜜経の説なり。彼の経一部十巻は是れ釈迦の説なり。大日の説には非ず。是れ未顕真実の権教なり。随って成道の相も三蔵教の教主の相なり。六年苦行の後の儀式なるをや。彼の経説の五味を天台は盗み取りて己が宗に立つると云ふ無実を云ひ付けらるるは、弘法大師の大なる僻事なり。所以に天台は涅槃経に依りて立て給へり。全く六波羅蜜経には依らず。況や天台死去の後百九十年あて貞元四年に渡る経なり。何として天台は見給ふべき。不実の過(とが)、弘法大師にあり。凡そ彼の経説は皆未顕真実なり。之れを以て法華経を下さん事甚だ荒量なり。/ 猶難じて云く、如何に云ふとも印・真言・三摩耶尊形を説く事は、大日経程法華経には之れ無し。事理倶密の談は真言ひとりすぐれたり。
其の上、真言の三部経は釈迦一代五時の摂属に非ず。されば弘法大師の宝鑰(ほうやく)には、釈摩訶衍論を証拠として、法華は無明の辺域、戯論の法と釈し給へり。爰を以て法華劣り真言勝ると申すなり。答ふ、凡そ印相・尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず。設ひ之れを説くとも権実大小の差別浅深有るべし。所以に阿含経等にも印相有るが故に、必ず法華に印相・尊形を説くことを得ずして之れを説かざるに非ず。説くまじければ是れを説かぬにこそ有れ。法華は只三世十方の仏の本意を説いて、其の形がとある、かうあるとは云ふべからず。例せば世界建立の相を説かねばとて、法華は倶舎より劣るとは云ふべからざるが如し。次に事理倶密の事。法華は理秘密、真言は事理倶密なれば勝るとは何れの経に説けるや。抑 法華の理秘密とは何様の事ぞや。法華の理とは、迹門開権顕実の理か。其の理は真言には分絶えて知らざる理なり。法華の事とは、又久遠実成の事なり。此の事又真言になし。真言に云ふ所の事理は未開会の権教の事理なり。何ぞ法華に勝るべきや。/ 次に一代五時の摂属に非ずと云ふ事、是れ往古より諍なり。唐決には、四教有るが故に方等部に摂すと云へり。教時義には、一切智智一味の開会を説くが故に、法華の摂と云へり。二義の中に方等の摂と云ふは吉き義なり。
所以に一切智智一味の文を以て、法華の摂と云ふ事、甚だいはれなし。彼れは法開会の文にして、全く人開会なし。争でか法華の摂と云はるべき。法開会の文は、方等般若にも盛んに談ずれども、法華に等しき事なし。彼の大日経の始終を見るに、四教の旨具にあり。尤も方等の摂と云ふべし。所以に開権顕実の旨有らざれば法華と云ふまじ。一向小乗三蔵の義無ければ阿含部とも云ふべからず。般若畢竟空を説かねば般若部とも云ふべからず。大小四教の旨を説くが故に方等部と云はずんば何れの部とか云はん。又一代五時を離れて外に仏法有りと云ふべからず。若し有らば二仏並出の失あらん。又其の法を釈迦統領の国土にきたして弘むべからず。/ 次に弘法大師、釈摩訶衍論を証拠と為して、法華を無明の辺域、戯論の法と云ふ事、是れ以ての外の事なり。釈摩訶衍論とは、竜樹菩薩の造なり。是れは釈迦如来の御弟子なり。争でか弟子の論を以て師の一代第一と仰せられし法華経を押し下して、戯論の法等と云ふべきや。而も論に其の明文無し。随って彼の論の法門は別教の法門なり。権教の法門なり。是れ円教に及ばず。又実教に非ず。何にしてか法華を下すべき。其の上、彼の論に幾(いくばく)の経をか引くらん。されども法華経を引く事は都て之れ無し。権論の故なり。
地体、弘法大師の華厳より法華を下されたるは、遥かに仏意にはくひ違ひたる心地なり。用ゐるべからず、用ゐるべからず。/ 日蓮花押
◆ 四条金吾女房御書 〔C6・文永八年五月・四条金吾女房〕/ 懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。たとへば秘薬なりとも、毒を入れぬれば薬の用すくなし。つるぎ(剣)なれども、わるびれたる人のためには何かせん。就中 夫婦共に法華の持者なり。法華経流布あるべきたね(種)をつぐ所の玉の子出で生まれん。目出度覚え候ぞ。色心二法をつぐ人なり。争でかをそ(遅)なはり候べき。とくとくこそうまれ候はむずれ。此の薬をのませ給はば疑ひなかるべきなり。闇なれども灯入りぬれば明らかなり。濁水にも月入りぬればすめり。明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり。信心の水すまば、利生の月必ず応を垂れ、守護し給ふべし。とくとくうまれ候べし。法華経に云く「如是妙法」。又云く「安楽産福子」云云。/ 口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候。則ち如来の使ひなるべし。返す返すも信心候べし。天照太神は玉をそさのをのみこと(素盞雄尊)にさづけて、玉の如くの子をまふけたり。然る間、日の神、我が子となづけたり。さてこそ正哉吾勝(まさやあかつ)とは名づけたれ。
日蓮うまるべき種をさづけて候へば争でか我が子にをとるべき。「有一宝珠 価直三千」等。「無上宝聚 不求自得」、「釈迦如来 皆是吾子」等云云。日蓮あに此の義にかはるべきや。幸ひなり幸ひなり。めでたしめでたし。又々申すべく候。あなかしこあなかしこ。/ 文永八年五月 日  日蓮花押/ 四条金吾殿女房御返事
◆ 月満御前御書 〔C6・文永八年(五月以降)八日・四条金吾〕/ 若童生まれさせ給ひし由承り候。目出たく覚え候。殊に今日は八日にて候。彼れと云ひ、此れと云ひ、所願しを(潮)の指すが如く、春の野に華の開けるが如し。然ればいそぎいそぎ名をつけ奉る。月満(つきまろ)御前と申すべし。其の上此の国の主八幡大菩薩は卯月八日にうまれさせ給ふ。娑婆世界の教主釈尊も又卯月八日に御誕生なりき。今の童女、又月は替れども八日にうまれ給ふ。釈尊・八幡のうまれ替はりとや申さん。日蓮は凡夫なれば能くは知らず。是れ併しながら日蓮が符を進らせし故なり。さこそ父母も悦び給ふらん。殊に御祝として餅・酒・鳥目一貫文送り給び候ひ畢んぬ。是れまた御本尊・十羅刹に申し上げて候。/ 今日の仏生まれさせまします時に三十二の不思議あり。此の事、周書異記と云ふ文にしるし置けり。釈迦仏は誕生し給ひて七歩し、口を自ら開きて「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 我当度之」の十六字を唱へ給ふ。今の月満御前はうまれ給ひて、うぶごゑに南無妙法蓮華経と唱へ給ふか。法華経に云く「諸法実相」。天台の云く「声為仏事」等云云。日蓮又かくの如く推し奉る。
譬へば雷の音、耳しいの為に聞く事なく、日月の光、目くらの為に見る事なし。定めて十羅刹女は寄り合ひてうぶ(産)水をなで養ひ給ふらん。あらめでたやあらめでたや。御悦び推量申し候。念頃に十羅刹女・天照太神等にも申して候。あまりの事に候間委しくは申さず。是れより重ねて申すべく候。穴賢穴賢。/ 日蓮花押/ 四条金吾殿御返事
◆ 南部六郎殿御書 〔C6・文永八年五月一六日・波木井実長〕/ 眠れる師子に手を付けざれば瞋らず、流れにさをを立てざれば浪立たず、謗法を呵責せざれば留難なし。「若善比丘 見壊法者 置不呵責」の「置」の字をおそれずんば今は吉し、後を御らんぜよ、無間地獄は疑ひ無し。故に南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護し治罰すること能はず。其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば、此の人は実に菩薩に非ず。外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと。其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」云云。十輪経に云く「若し誹謗の者ならば共住すべからず亦親近せざれ、若し親近し共住せば即ち阿鼻地獄に趣かん」云云。栴檀の林に入りぬれば、たをらざるに其の身に薫ず。誹謗の者に親近すれば所修の善根悉く滅して倶に地獄に堕落せん。故に弘決の四に云く「若し人本悪無けれども、悪人に親近すれば後に必ず悪人と成りて、悪名天下に遍し」云云。/ 凡そ謗法に内外あり。国家の二是れなり。外とは日本六十六箇国の謗法是れなり。内とは王城九重(ここのえ)の謗是れなり。
此の内外を禁制せずんば宗廟社稷の神に捨てられて、必ず国家亡ぶべし。如何と云ふに、宗廟とは国王の神(たましい)を崇む。社とは地の神なり。稷とは五穀の総名、五穀の神なり。此の両の神、法味に飢ゑて国を捨て給ふ故に国土既に日々に衰減せり。故に弘決に云く「地広くして尽く敬すべからず、封じて社と為す。稷とは謂く五穀の総名にして即ち五穀の神なり」。故に天子居する所には宗廟を左にし、社稷を右にし、四時五行を布き列ぬ。故に国の亡ぶるを以て社稷を失ふと為す。故に山家大師は「国に謗法の声有るによて万民数を減じ、家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」。故に分々の内外有るべし。/ 五月十六日  日蓮花押/ 南部六郎殿
◆ 十章抄 〔C1・文永六年・三位房〕/ 華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり。而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云。法相・三論も又々かくのごとし。天台宗、彼の義に同ぜば別宗と立ててなにかせん。例せば法華・涅槃は一つ円なり。先後に依りて涅槃尚をと(劣)るとさだむ。爾前の円・法華の円を一とならば、先後によりて法華豈に劣らざらんや。詮ずるところ、この邪義のをこり「此妙彼妙円実不異 円頓義斉 前三為麁」等の釈にばかされて起こる義なり。止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ。又二の巻の四種三昧は多分は念仏と見へて候なり。源濁れば流れ清からずと申して、爾前の円と法華経の円と一つと申す者が、止観を人によませ候へば、但念仏者のごとくにて候なり。但止観は迹門より出でたり、本門より出でたり、本迹に亘ると申す三つの義いにしえよりこれあり。これは且くこれををく。「故に知んぬ、一部の文共に円乗開権の妙観を成す」と申して、止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり。爾前の経々をひき、乃至外典を用ゐて候も、爾前・外典の心にはあらず。文をばかれ(借)ども義をばけづりすてたるなり。「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して、文殊問・方等・請観音等の諸経を引きて四種を立つれども、心は必ず法華経なり。
「諸文を散引して一代の文体を該(かぬれ)ども、正意は唯二経に帰す」と申すこれなり。/ 止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。前六重は修多羅に依ると申して、大意より方便までの六重は先き四巻に限る。これは妙解迹門の心をのべたり。今妙解に依りて以て正行を立つと申すは、第七の正観、十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千此れよりはじまる。一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず。何に況や爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三の十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限るべし。されば円の行まちまちなり。沙(いさご)をかずえ、大海をみる、なを円の行なり。何に況や爾前の経をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱ふるをや。但しこれらは時々の行なるべし。真実に円の行に順じて、常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。法華経に十七種の名あり。これ通名なり。別名は三世の諸仏皆、南無妙法蓮華経とつけさせ給ひしなり。
阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。/ 此等をしらざる天台・真言等の念仏者、口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあひだ、在家の者は一向に念ふよう、天台・真言等は念仏にてありけり。又善導・法然が一門は、すわすわ、天台・真言の人々も実に自宗が叶ひがたければ念仏を申すなり。わづらわしくかれを学せんよりは、法華経をよまんよりは、一向に念仏を申して浄土にして法華経をもさとるべしと申す。此の義日本国に充満せし故に、天台・真言の学者、在家の人々にすてられて六十余州の山寺はうせはてぬるなり。九十六種の外道は仏恵比丘の威儀よりをこり、日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一つという義の盛んなりしよりこれはじまれり。あわれなるかなや。外道は常楽我浄と立てしかば、仏、世にいでまさせ給ひては苦・空・無常・無我ととかせ給ひき。二乗は空観に著して大乗にすすまざりしかば、仏誡めて云く、五逆は仏のたね、塵労の疇(ともがら)は如来の種、二乗の善法は永不成と嫌はせ給ひき。常楽我浄の義こそ外道はあしかりしかども、名はよかりしぞかし。而れども仏、名をいみ給ひき。悪だに仏の種となる。ましてぜん(善)はとこそをぼうれども、仏二乗に向かひては悪をば許して善をばいましめ給ひき。
当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。設ひぜん(善)たりとも、義分あたれりというとも、先づ名をいむべし。其の故は仏法は国に随ふべし。天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あいわかれたり。震旦亦復是の如し。日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳・法相・三論等の諸大乗すら猶相応せず。何に況や小乗の三宗をや。而るに当世にはやる念仏宗と禅宗とは、源方等部より事をこれり。法相・三論・華厳の見を出づべからず。/ 南無阿弥陀仏は爾前にかぎる。法華経にをいては得道の行にあらず。開会の後仏因となるべし。南無妙法蓮華経は四十余年にわたらず、但法華八箇年にかぎる。南無阿弥陀仏に開会せられず。法華経は能開、念仏は所開なり。法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも、南無阿弥陀仏並びに十方の諸仏の功徳を備へたり。譬へば如意宝珠、金銀等の財備へたるが如し。念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず。譬へば金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし。譬へば三千大千世界に積みたる金銀等の財も、一つの如意宝珠をばかうべからず。設ひ開会をさとれる念仏なりとも、猶体内の権なり、体内の実に及ばず。
何に況や当世に開会を心得たる智者も少なくこそをはせずらめ。設ひさる人ありとも、弟子・眷属・所従なんどはいかんがあるべかるらん。愚者は智者の念仏を申し給ふをみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候はじ。又南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候はんずらん。当世に父母を殺す人よりも、謀反ををこす人よりも、天台・真言の学者といわれて、善公が礼讃をうたい、然公が念仏をさえづる人々はをそろしく候なり。この文を止観よみあげさせ給ひて後、ふみのざ(文座)の人にひろめてわたらせ給ふべし。止観よみあげさせ給はば、すみやかに御わたり候へ。/ 沙汰の事は本より日蓮が道理だにもつよくば、事切れん事かたしと存じて候ひしが、人ごとに問注は法門にはにず、いみじうしたりと申し候なるときに、事切るべしともをぼへ候はず。少弼(せうひつ)殿より平三郎左衛門のもとにわたりて候とぞ、うけ給はり候。この事のび候わば問注はよきと御心え候へ。又いつにてもよも切れぬ事は候はじ。又切れずば日蓮が道理とこそ人々はをもい候はんずらめ。くるしく候はず候。当時はことに天台・真言等の人々の多く来て候なり。事多き故に留め候ひ了んぬ。
◆ 四条金吾殿御書 〔C6・文永八年七月一二日・四条金吾〕/ 雪のごとく白く候白米一斗、古酒のごとく候油一筒、御布施一貫文。態と使者を以て盆料送り給び候。殊に御文の趣有り難くあはれに覚え候。/ 抑 盂蘭盆と申すは源目連尊者の母青提女と申す人、慳貪の業によりて五百生餓鬼道にをち給ひて候を、目連救ひしより事起こりて候。然りと雖も仏にはなさず。其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし。霊山八箇年の座席にして法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱へて多摩羅跋栴檀香仏となり給ひ、此の時母も仏になり給ふ。又施餓鬼の事仰せ候。法華経第三に云く「如従飢国来 忽遇大王膳」云云。此の文は中根の四大声聞、醍醐の珍膳をおと(音)にもきかざりしが、今経に来て始めて醍醐の味をあくまでになめて、昔う(飢)えたる心を忽ちにやめし事を説き給ふ文なり。若し爾らば、餓鬼供養の時は此の文を誦して南無妙法蓮華経と唱へてとぶらひ給ふべく候。総じて餓鬼にをいて三十六種類相わかれて候。其の中に身餓鬼と申すは目と口となき餓鬼にて候。是れは何なる修因ぞと申すに、此の世にて夜討ち強盗などをなして候によりて候。
食吐餓鬼と申すは人の口よりはき出だす物を食し候。是れも修因上の如し。又人の食をうばふに依り候。食水餓鬼と云ふは父母孝養のために手向ける水などを呑む餓鬼なり。有財餓鬼と申すは馬のひづめ(蹄)の水をのむがき(餓鬼)なり。是れは今生にて財ををしみ、食をかくす故なり。無財がき(餓鬼)と申すは生まれてより以来、飲食の名をもきかざるがきなり。食法がき(餓鬼)と申すは出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思ひて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法がき(餓鬼)とて法をくらふがきと申すなり。当世の僧を見るに、人にかくして我一人ばかり供養をうくる人もあり。是れは狗犬の僧と涅槃経に見えたり。是れは未来には牛頭と云ふ鬼となるべし。又人にしらせて供養をうくるとも、欲心に住して人に施す事なき人もあり。是れは未来には馬頭と云ふ鬼となり候。又在家の人々も、我が父母、地獄・餓鬼・畜生におちて苦患をうくるをばとぶらはずして、我は衣服・飲食にあきみち、牛馬眷属充満して我が心に任せてたのしむ人をば、いかに父母のうらやましく恨み給ふらん。僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人はまれなり。定めて天の日月、地の地神いかりいきどをり給ひて、不孝の者とおもはせ給ふらん。形は人にして畜生のごとし。人頭鹿とも申すべきなり。
日蓮此の業障をけしはてて未来は霊山浄土にまいるべしとおもへば、種々の大難雨のごとくふり、雲のごとくにわき候へども、法華経の御故なれば苦をも苦ともおもはず。かかる日蓮が弟子檀那となり給ふ人々、殊に今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり、日蓮が檀那なり。いかでか餓鬼道におち給ふべきや。定めて釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん。是れこそ四条金吾殿の母よ母よと、同心に頭をなで悦びほめ給ふらめ。あはれいみじき子を我はもちたりと、釈迦仏とかたらせ給ふらん。法華経に云く「若し善男子善女人有りて、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん。所生の処には常に此の経を聞かん。若し人天の中に生ずれば勝妙の楽を受け、若し仏前に在らば蓮華より化生せん」云云。此の経文に善女人と見えたり、妙法聖霊の事にあらずんば誰が事にやあらん。又云く「此の経は持ち難し。若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏も亦然なり。是の如きの人は諸仏の歎めたまふ所なり」云云。日蓮讃歎したてまつる事はもののかずならず、諸仏所歎と見えたり。
あらたのもしや、あらたのもしやと、信心をふかくとり給ふべし、信心をふかくとり給ふべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐々謹言。/ 七月十二日  日蓮花押/ 四条金吾殿御返事
◆ 行敏御返事 〔C2・文永八年七月一三日・行敏〕/ 行敏初度の難状/ 未だ見参に入らずと雖も、事の次(ついで)を以て申し承るは常の習ひに候か。抑 風聞の如くんば所立の義尤も以て不審なり。法華の前に説ける一切の諸経は皆是れ妄語にして出離の法に非ずと〈是一〉。大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と〈是二〉。念仏は無間地獄の業為りと〈是三〉。禅宗は天魔の説若し依りて行ずる者は悪見を増長すと〈是四〉。事若し実ならば仏法の怨敵なり。仍って対面を遂げて悪見を破らんと欲す。将又其の義無くんば争でか悪名を被らざらん。痛ましき哉。是非に付き委しく示し給ふべきなり。恐々謹言。/ 七月八日  僧行敏在判/ 日蓮阿闍梨御房/ 条々御不審の事、私の問答は事行き難く候か。然れば上奏を経られ、仰せ下さるるの趣に随ひて、是非を糾明せらるべく候か。此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候。恐々謹言。/ 七月十三日  日蓮花押/ 行敏御房御返事
◆ 行敏訴状御会通 〔C3・文永八年・良観房等〕/ 当世日本第一の持戒の僧良観聖人、並びに法然上人の孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等諸聖人等の、日蓮を訴訟する状に云く「早く日蓮を召し決せられて邪見を摧破し、正義を興隆せんと欲する事」云云。日蓮云く「邪見を摧破し正義を興隆せば、一眼の亀の浮木の穴に入るならん」幸甚幸甚。/ 彼の状に云く「右八万四千の教、乃至、一を是とし諸を非とする理、豈に然るべけんや」云云。道綽禅師云く「当今末法は是れ五濁悪世なり。唯浄土の一門のみ有りて通入の路なるべし」云云。善導和尚云く「千中無一」云云。法然上人云く「捨閉閣抛」云云。念阿上人等の云く「一を是とし諸を非とするは謗法なり」云云。本師三人の聖人の御義に相違す。豈に逆路伽耶陀の者に非ずや。将又忍性良観聖人、彼等の立義に与力して此れを正義と存せらるるか。/ 又云く「而るに日蓮偏に法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す」云云。無量義経に云く「四十余年 未顕真実」。法華経に云く「要当説真実」。又云く「宣示顕説」。多宝仏証明を加へて云く「皆是真実」。十方の諸仏は「舌相至梵天」と云ふ云云。
已今当の三説を非毀して法華経一部を讃歎するは釈尊の金言なり。諸仏の傍例なり。敢へて日蓮が自義に非ず。其の上、此の難は去ぬる延暦大同弘仁の比、南都の徳一大師が伝教大師を難破せし言なり。其の難已に破れて法華宗を建立し畢んぬ。/ 又云く「所謂 法華前説の諸経は皆是れ妄語なり」云云。此れ又日蓮が私の言に非ず。無量義経に云く「未だ真実を顕はさず」〈未顕真実とは妄語の異名なり〉。法華経第二に云く「寧ろ虚妄有りや不や」云云。第六に云く「此の良医虚妄の罪を説くや不や」云云。涅槃経に云く「如来虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因ると知れば」云云。天台云く「則ち為れ如来綺語の語」云云。四十余年の経々を妄語と称すること、又日蓮が私の言に非ず。/ 又云く「念仏は無間の業」云云。法華経第一に云く「我則ち慳貪に堕せん、此の事は為(さだ)めて不可なり」云云。第二に云く「其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。大覚世尊、但観経念仏等の四十余年の経々を説いて、法華経を演説したまはずんば、三悪道を脱れ難し云云。何に況や末代の凡夫一生の間、但自らも念仏の一行に留まり、他人をも進めずんば豈に無間に堕せざらんや。例せば民と子との王と親とに随はざるが如し。
何に況や道綽・善導・法然上人等念仏等を修行する輩、法華経の名字を挙げて念仏に対当して勝劣難易等を論じ、未有一人得者、十即十生・百即百生、千中無一等と謂ふは、無間の大火を招かざらんや。/ 又云く「禅宗は天魔波旬の説」云云。此れ又日蓮が私の言に非ず。彼の宗の人々の云く「教外別伝」云云。仏の遺言に云く「我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり」云云。教外別伝の言豈に此の科を脱れんや。/ 又云く「大小の戒律は世間誑惑の法」云云。日蓮が云く「小乗戒は仏世すら猶之れを破す。其の上、月氏国に三寺有り。所謂 一向小乗の寺と、一向大乗の寺と、大小兼行の寺となり」云云。一向小と一向大とは水火の如し。将又通路をも分隔せり。日本国に去ぬる聖武皇帝と孝謙天皇との御宇に小乗の戒壇を三所に建立せり。其の後桓武の御宇に伝教大師之れを責め破りたまひぬ。其の詮は「小乗戒は末代の機に当たらず」云云。護命・景深の本師等、其の諍論に負くるのみに非ず、六宗の碩徳各退状を棒げ「伝教大師に帰依し、円頓の戒体を伝受す」云云。其の状今に朽ちず。汝自ら開き見よ。而るを良観上人、当世日本国の小乗は昔の科を存せずという。/ 又云く「年来の本尊・弥陀・観音等の像を火に入れ水に流す」等云云。
此の事慥かなる証人を指し出だして申すべし。若し証拠無くんば、良観上人等自ら本尊を取り出だして火に入れ水に流し、科を日蓮に負はせんと欲するか。委細は之れを糾明せん時、其の隠れ無からんか。但し御尋ね無き間は、其の重罪は良観上人等に譲り渡す。二百五十戒を破失せる因縁、此の大妄語に如かず。無間大城の人、他処に求むること勿れ。/ 又云く「凶徒を室中に集む」云云。法華経に云く「或は阿練若に有り」等云云。妙楽云く、東春に云く、輔正記に云く。此等の経釈等を以て当世日本国に引き向かふるに、汝等が挙ぐる所の建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・大仏殿・長楽寺・浄光明寺等の寺々は、妙楽大師の指す所の第三最も甚だしき悪所なり。東春に云く「即ち是れ出家処に一切の悪人を摂す」云云。又云く「両行は公処に向かふ」等云云。又云く「兵杖」等云云。涅槃経に云く、天台云く、章安云く、妙楽云く、法華経守護の為の弓箭兵杖は仏法の定むる法なり。例せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し。/ 但し良観上人等弘通する所の法、日蓮が難脱れ難きの間既に露顕せしむべきか。故に彼の邪義を隠さんが為に、諸国の守護・地頭・雑人等を相語らひて言く「日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏を火に入れ水に流す。汝等が大怨敵なり」云云。
「頸を切れ、所領を追ひ出だせ」等と勧進するが故に、日蓮の身に疵を被り、弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり。此れ偏に良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出でたり。心有らん人々は「驚くべし、怖るべし」云云。/ 毘瑠璃王は七万七千の諸の得道の人を殺す。月氏国の大族王は卒都婆を滅毀し、僧伽藍を廃すること凡そ一千六百余処、乃至大地震動して無間地獄に堕ちにき。毘盧釈迦王は釈種九千九百九十万人を生け取り並べ従へて殺戮す。積む屍莽(くさむら)の如く、流血池を成す。弗沙弥多羅王は四兵を興して五天を回らし、僧侶を殺し寺塔を焼く。説賞迦王は仏法を毀壊す。訖利多王は僧徒を斥逐し仏法を毀壊す。欽明・敏達・用明の三王の詔に曰く「炳然として宜しく仏法を断ずべし」云云。「二臣自ら寺に詣で、堂塔を斫倒し、仏像を毀破し、火を縦(はな)ちて之れを焼き、所焼の仏像を取りて難波の堀江に棄て、三尼を喚び出だして其の法服を奪ひ、並びに笞を加ふ」云云。「大唐の武宗は四千六百余処を滅失して、僧尼還俗する者計ふるに二十六万五百人なり。去ぬる永保年中には山僧園城寺を焼き払ふ」云云。「御願は十五所、堂院は九十所、塔婆は四基、鐘楼は六宇、経蔵は二十所、神社は十三所、僧坊は八百余宇、舎宅は三千余等」云云。
去ぬる治承四年十二月二十二日、太政入道浄海、東大・興福の両寺を焼失して僧尼等を殺す。/ 此等は仏記に云く「此等の悪人は仏法の怨敵には非ず。三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん」。所謂 守護経に云く、涅槃経に云く。/ 日蓮花押
◆ 一昨日御書 〔C6・文永八年九月一二日・平左衛門尉頼綱〕/ 一昨日見参に罷り入り候の条悦び入り候。抑 人の世に在る誰か後世を思はざらん。仏の出世は専ら衆生を救はんが為なり。爰に日蓮比丘と成りしより、旁(かたがた)法門を開き已に諸仏の本意を覚り、早く出離の大要を得たり。其の要は妙法蓮華経是れなり。一乗の崇重、三国の繁昌、儀眼前に流る。誰か疑網を貽(のこ)さんや。而るに専ら正路に背きて偏に邪途を行ず。然る間聖人国を捨て善神瞋を成し、七難並びに起こりて四海閑かならず。方今世は悉く関東に帰し、人は皆土風を貴ぶ。就中 日蓮生を此の土に得たり。豈に吾が国を思はざらんや。仍って立正安国論を造りて、故最明寺入道殿の御時、宿屋の入道を以て見参に入れ畢んぬ。而るに近年の間多日の程、犬戎浪を乱し夷敵国を伺ふ。先年勘へ申す所近日普合せしむる者なり。彼の太公の殷の国に入りしは、西伯の礼に依る。張良の秦朝を量りしは、漢王の誠を感ずればなり。是れ皆時に当たりて賞を得。謀を帷帳の中に回らし、勝つことを千里の外に決せし者なり。/ 夫れ未萌を知る者は六正の聖臣なり。法華を弘むる者は諸仏の使者なり。而るに日蓮忝くも鷲嶺・鶴林の文を開きて鵞王・烏瑟の志を覚る。
剰へ将来を勘へたるに粗普合することを得たり。先哲に及ばずと雖も定めて後人には希なるべき者なり。法を知り国を思ふの志、尤も賞せらるべきの処、邪法邪教の輩、讒奏讒言するの間、久しく大忠を懐きて而も未だ微望を達せず。剰へ不快の見参に罷り入ること、偏に難治の次第を愁ふる者なり。伏して惟みれば泰山に昇らずんば天の高きを知らず。深谷に入らずんば地の厚きを知らず。仍って御存知の為に立正安国論一巻之れを進覧す。勘へ載する所の文は九牛の一毛なり。未だ微志を尽さざるのみ。抑 貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損せんや。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし。世を安んじ国を安んずるを忠と為し孝と為す。是れ偏に身の為に之れを述べず。君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐々謹言。/ 文永八年九月十二日  日蓮花押/ 謹上 平左衛門尉殿
◆ 土木殿御返事 〔C0・文永八年九月一五日・富木常忍〕/ 上のせめさせ給ふにこそ法華経を信じたる色もあらわれ候へ。月はかけてみち、しを(潮)はひてみつ事疑ひなし。此れも罰あり必ず徳あるべし。なにしにかなげかん。/ 此の十二日酉の時御勘気。武蔵守殿御あづかりにて、十三日丑の時にかまくらをいでて、佐土の国へながされ候が、たうじはほんま(本間)のえち(依智)と申すところに、えちの六郎左衛門尉殿の代官右馬太郎と申す者あづかりて候が、いま四五日はあるべげに候。御歎きはさる事に候へども、これには一定と本よりごして候へばなげかず候。いままで頸の切れぬこそ本意なく候へ。法華経の御ゆへに過去に頸をうしなひたらば、かかる少身のみ(身)にて候べきか。又数数見擯出ととかれて、度々失にあたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへなり。/ 九月十五日  日蓮(花押)/ 土木殿御返事/ 御返事  日蓮
◆ 四条金吾殿御消息 〔C6・文永八年九月二一日・四条金吾〕/ 度々の御音信申しつくしがたく候。さてもさても去ぬる十二日の難のとき、貴辺たつのくち(竜口)までつれさせ給ひ、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ、不思議とも申すばかりなけれ。/ 日蓮過去に妻子所領眷属等の故に身命を捨てし所いくそばくかありけむ。或は山にすて、海にすて、或は河、或はいそ等、路のほとりか。然れども法華経のゆへ、題目の難にあらざれば、捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず。成仏のためならざれば、捨てし海河も仏土にもあらざるか。今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におとるべしや。其の故はすでに法華経の故なるがゆへなり。経に云く「十方仏土中 唯有一乗法」。此の意なるべきか。此の経文に一乗法と説き給ふは法華経の事なり。十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり。除仏方便説と見えたり。若し然らば、日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか。
神力品に云く「若於林中 若於園中 若山谷曠野 是中乃至而般涅槃」とは是れか。/ かかる日蓮にともなひて、法華経の行者として腹を切らんとの給ふ事、かの弘演が腹をさいて主の懿公がきも(肝)を入れたるよりも、百千万倍すぐれたる事なり。日蓮霊山にまいりてまづ四条金吾こそ、法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なり、と申し上げ候べきぞ。/ 又かまくらどのの仰せとて、内々佐渡の国へつかはすべき由承り候。三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ、竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。定めて守護あるべきかと、たのもしたのもし。法師品に云く「則遣変化人 為之作衛護」疑ひあるべからず。安楽行品に云く「刀杖不加」。普門品に云く「刀尋段段壊」。此等の経文よも虚事にては候はじ。強盛の信力こそありがたく候へ。恐々謹言。/ 文永八年九月二十一日  日蓮花押/ 四条金吾殿
◆ 五人土籠御書 〔C0・文永八年一〇月三日・日朗はじめ五人御中〕/ せんあくてご房をばつけさせ給へ。ふしらうめが一人あらんするが、ふびんに候へば申す。今月七日さどの国へまかるなり。各々は法華経一部づつあそばして候へば、我が身並びに父母・兄弟・存亡等に回向しましまし候らん。今夜のかんずるにつけて、いよいよ我が身より心くるしさ申すばかりなし。ろう(牢)をいでさせ給ひなば、明年のはる、かならずきたり給へ。みみへまいらすべし。せうどの(少輔殿)の但一人あるやつをつけよかしとをもう心、心なしとをもう人、一人もなければしぬまで各々御はぢなり。又大進阿闍梨はこれにさたすべき事かたがたあり。又をのをのの御身の上をもみはて(見果)させんがれう(料)にとどめをくなり。くはしくは申し候はんずらん。恐々謹言。/ 十月三日  日蓮(花押)/ 五人御中
◆ 転重軽受法門 〔C0・文永八年一〇月五日・大田乗明・曾谷入道・金原法橋〕/ 周利槃特と申すは兄弟二人なり。一人もありしかば、すりはんどくと申すなり。各々三人は又かくのごとし。一人も来たらせ給へば三人と存じ候なり。/ 涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き、今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値ひ候へば、地獄の苦ぱっときへて、死に候へば、人・天・三乗・一乗の益をうる事の候。不軽菩薩の悪口罵詈せられ、杖木瓦礫をかほるも、ゆへなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆへかとみへて「其罪畢已」と説かれて候は、不軽菩薩の難に値ふゆへに、過去の罪の滅するかとみへはんべり〈是一〉。又付法蔵の二十五人は、仏をのぞきたてまつりては、皆仏のかねて記しをき給へる権者なり。其の中に、第十四の提婆菩薩は外道にころされ、第二十五の師子尊者は檀弥栗王に頸を刎ねられ、其の外仏陀蜜多・竜樹菩薩なんども多くの難にあへり。又難なくして、王法に御帰依いみじくて、法をひろめたる人も候。これは世に悪国・善国有り、法に摂受・折伏あるゆへかと、みへはんべる。正像猶かくのごとし。中国又しかなり。これは辺土なり。末法の始めなり。
かかる事あるべしとは先にをもひさだめぬ。期をこそまち候ひつれ〈是二〉。この上の法門は、いにしえ申しをき候ひき、めづらしからず。/ 円教の六即の位に観行即と申すは「行ずる所言ふ所の如く、言ふ所行ずる所の如し」云云。理即・名字の人は、円人なれども、言のみありて真なる事かたし。例せば外典の三墳五典等は読む人かずをしらず。かれがごとくに世ををさめふれまう事、千万が一もかたし。されば世のをさまる事も又かたし。法華経は紙付に音をあげてよめども、彼の経文のごとくふれまう事わ、かたく候か。譬喩品に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん」。法師品に云く「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」。勧持品に云く「刀杖を加へ、乃至、数数擯出せられん」。安楽行品に云く「一切世間、怨多くして信じ難し」。此等は経文には候へども、何れの世にかかるべしともしられず。過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身にあたりてよ(読)みまいらせて候ひけるとみへはんべれ。現在には正像二千年はさてをきぬ。末法に入りては、此の日本国には、当時は日蓮一人みへ候か。昔の悪王の御時、多くの聖僧の難に値ひ候ひけるには、又所従眷属等、弟子檀那等、いくそばくかなげき候ひけんと、今をもちてをしはかり候。
今日蓮、法華経一部よみて候。一句一偈に猶受記をかほれり。何に況や一部をやと、いよいよたのもし。但をほけなく国土までとこそ、をもひて候へども、我と用ゐられぬ世なれば力及ばず。しげきゆへにとどめ候。恐々謹言。/ 文永八年〈辛未〉十月五日  日蓮(花押)/ 大田左衛門尉殿/ 蘇谷入道殿/ 金原法橋御房/ 御返事
◆ 土籠御書 〔C6・文永八年一〇月九日・日朗〕/ 日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今夜のさむきに付けても、ろう(牢)のうちのありさま、思ひやられていたはしくこそ候へ。あわれ殿は、法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母・六親・一切衆生をもたすけ給ふべき御身なり。法華経を余人のよみ候は、口ばかりことば(言)ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。「天諸童子 以為給使 刀杖不加 毒不能害」と説かれて候へば、別の事はあるべからず。籠をばし出でさせ給ひ候はば、とくとくきたり給へ。見たてまつり、見えたてまつらん。恐々謹言。/ 文永八年〈辛未〉十月九日  日蓮花押/ 筑後殿
◆ 佐渡御勘気抄 〔C6・文永八年一〇月・清澄寺知友〕/ 九月十二日に御勘気を蒙りて、今年十月十日佐渡の国へまかり候なり。本より学文し候ひし事は仏教をきはめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思ふ。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと、をしはからる。既に経文のごとく、悪口罵詈、刀杖瓦礫、数数見擯出と説かれて、かかるめに値ひ候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり、後生もたのもしく候。死して候はば、必ず各々をもたすけたてまつるべし。天竺に師子尊者と申せし人は檀弥羅王に頸をはねられ、提婆菩薩は外道につきころさる。漢土に竺の道生と申せし人は蘇山と申す所へながさる。法道三蔵は面にかなやきをやかれて江南と申す所へながされき。是れ皆法華経のとく(徳)仏法のゆへなり。日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国海辺の旃陀羅が子なり。いたづらにくち(朽)ん身を、法華経の御故に捨てまいらせん事、あに石に金をかふるにあらずや。各々なげかせ給ふべからず。道善の御房にもかう申しきかせまいらせ給ふべし。領家の尼御前へも御ふみと存じ候へども、先かかる身のふみなれば、なつかしやと、おぼさざるらんと申しぬると、便宜あらば各々御物語り申させ給ひ候へ。
十月 日  日蓮花押
◆ 寺泊御書 〔C0・文永八年一〇月二二日・富木常忍〕/ 今月〈十月なり〉十日相州愛京郡依智の郷を起ちて、武蔵の国久目河の宿に付き、十二日を経て、越後の国寺泊の津に付きぬ。此れより大海を亘りて、佐渡の国に至らんと欲す。順風定まらず、其の期を知らず。道の間の事、心も及ぶこと莫く、又筆にも及ばず。但暗に推し度るべし。又本より存知の上なれば、始めて歎くべきに非ずと、之れを止む。/ 法華経の第四に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」。第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」。涅槃経の三十八に云く「爾の時に一切の外道の衆、咸く是の言を作さく、大王○今は唯一(ひとり)の大悪人有り瞿曇沙門なり。○一切の世間の悪人、利養の為の故に、其の所に往き集まり、而も眷属と為りて、善を修すること能はず。呪術力の故に迦葉及び舎利弗・目連等を調伏す」云云。此の涅槃経の文は、一切の外道我が本師たる二天三仙の所説の経典を仏陀に毀られて出だす所の悪言なり。法華経の文は、仏を怨と為す経文には非ず。天台の意に云く「一切の声聞・縁覚並びに近成を楽ふ菩薩」等云云。
聞かんと欲せず、信ぜんと欲せず、其の機に当たらざるは、言を出だして謗ること莫きも、皆怨嫉の者と定め了んぬ。在世を以て滅後を惟ふに、一切諸宗の学者等は皆外道の如し。彼等が云ふ、一大悪人とは日蓮に当たれり。一切の悪人之れに集まるとは、日蓮が弟子等是れなり。彼の外道は先仏の説教流伝の後、之れを謬りて後仏を怨と為せり。今諸宗の学者等も亦復是の如し。所詮 仏教に依りて邪見を起こす。目の転ずる者大山転ずと欲ふ。今八宗十宗等、多門の故に諍論を至す。/ 涅槃経の第十八に贖命重宝と申す法門あり。天台大師の料簡に云く、命とは法華経なり。重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり。但し涅槃経に説く所の円教は 如何。此の法華経に説く所の仏性常住を重ねて之れを説いて帰本せしめ、涅槃経の円常を以て法華経に摂す。涅槃経の得分は但前三教に限る。天台の玄義の三に云く「涅槃は贖命の重宝なり。重ねて掌を抵(う)つのみ」文。籤の三に云く「今家の引く意は大経の部を指して以て重宝と為す」等云云。天台大師の四念処と申す文に、法華経の「雖示種々道」の文を引きて、先づ四味を又重宝と定め了んぬ。若し爾らば、法華経の先後の諸経は法華経の為の重宝なり。
世間の学者の想に云く、此れは天台一宗の義なり。諸宗は之れを用ゐず等云云。日蓮之れを案じて云く、八宗十宗等は皆仏滅後より之れを起こし、論師人師之れを立つ。滅後の宗を以て現在の経を計るべからず。天台の所判は一切経に叶ふに依りて、一宗に属して、之れを棄つべからず。諸宗の学者等、自師の誤りに執する故に、或は事を機に寄せ、或は前師に譲り、或は賢王を語らひ、結句最後には悪心強盛にして闘諍を起こし、失無き者之れを損ひて楽と為す。諸宗の中に真言宗、殊に僻案を至す。善無畏・金剛智等の想に云く、一念三千は天台の極理・一代の肝心なり。顕密二道の詮たるべきの心地の三千をば且く之れを置く。此の外印と真言とは仏教の最要等云云。其の後真言師等事を此の義に寄せて、印真言無き経々をば之れを下す。外道の法の如し。或義に云く、大日経は釈迦如来の外の説なりと。或義に云く、教主釈尊第一の説なりと。或義に釈尊と現じて顕経を説き、大日と現じて密経を説くと。道理を得ずして無尽の僻見之れを起こす。譬へば乳の色を弁へざる者種々の邪推を作せども本色に当たらざるが如し。又象の譬の如し。今汝等知るべし。大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く、已後ならば涅槃経等の如し。
又天竺の法華経には印真言有れども訳者之れを略して羅什は妙法経と名づけ、印真言を加へて善無畏は大日経と名づくるか。譬へば正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利等の如し。仏の滅後、天竺に於て此の詮を得たるは竜樹菩薩、漢土に於て始めて之れを得たるは天台智者大師なり。真言宗の善無畏等、華厳宗の澄観等、三論宗の嘉祥等、法相宗の慈恩等、名は自宗に依れども其の心は天台宗に落ちたり。其の門弟等此の事を知らず。如何ぞ謗法の失を免れんや。/ 或人日蓮を難じて云く、機を知らずして麁(あらき)義を立て難に値ふと。或人云く、勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或人云く、我も此の義を存すれども言はずと云云。或人云く、唯教門計りなり。理具は我之れを存すと。卞和は足を切らる。清丸は穢(けがれ)丸と云ふ名を給はりて死罪に及ばんと欲す。時の人之れを咲ふ。然りと雖も其の人未だ善き名を流さず。汝等が邪難も亦爾るべし。勧持品に云く「諸の無智の人の悪口罵詈する有らん」等云云。日蓮此の経文に当たれり。汝等何ぞ此の経文に入らざる。「及び刀杖を加ふる者」等云云。日蓮は此の経文を読めり。汝等何ぞ此の経文を読まざる。
「常に大衆の中に在りて我等が過を毀らんと欲す」等云云。「国王・大臣・婆羅門・居士に向かひて」等云云。「悪口して顰蹙し、数数擯出せられん」。数数とは度々なり。日蓮擯出衆度、流罪は二度なり。法華経は三世の説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来は不軽品為るべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為るべし。一部八巻二十八品、天竺の御経は一須臾に布くと承る。定めて数品有るべし。今漢土日本の二十八品は略の中の要なり。正宗は之れを置く。流通に至りて、宝塔品の三箇の勅宣は霊山虚空の大衆に被らしむ。勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は日蓮が浅智に及ばず。但し「恐怖悪世中」の経文は末法の始めを指すなり。此の「恐怖悪世中」の次下の安楽行品等に云く「於末世」等云云。同本異訳の正法華経に云く「然後末世」。又云く「然後来末世」。添品法華経に云く「恐怖悪世中」等云云。当時、当世三類の敵人は之れ有るに、但し八十万億那由他の諸菩薩は一人も見えたまはず。乾たる潮の満たず、月の虧けて満ちざるが如し。水清めば月を浮かべ、木を植うれば鳥棲む。日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之れを申す。彼の諸の菩薩の加被を請くる者なり。
此の入道佐渡の国へ御供為すべきの由之れを承り申す。然るべけれども用途と云ひ、かたがた煩ひ有るの故に之れを還す。御志始めて之れを申すに及ばず。人々に是の如く申させ給へ。但し囹僧等のみ心に懸り候。便宜の時早々之れを聴かすべし。穴賢穴賢。/ 十月二十二日酉の時  日蓮(花押)/ 土木殿
◆ 富木入道殿御返事 〔C6・文永八年一一月二三日・富木常忍〕/ 此の比は十一月の下旬なれば、相州鎌倉に候ひし時の思ひには、四節の転変は万国皆同じかるべしと存じ候ひし処に、此の北国佐渡の国に下著候ひて後、二月は寒風頻りに吹きて、霜雪更に降らざる時はあれども、日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず。人の心は禽獣に同じく主師親を知らず。何に況や仏法の邪正師の善悪は思ひもよらざるをや。此等は且く之れを置く。/ 去ぬる十月十日に付けられ候ひし入道、寺泊より還し候ひし時、法門を書き遣はし候ひき。推量候らむ。已に眼前なり。仏滅後二千二百余年に月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に、天親竜樹 内鑑冷然 外適時宜云云。天台・伝教は粗釈し給へども之れを弘め残せる一大事の秘法を此の国に初めて之れを弘む。日蓮豈に其の人に非ずや。前相已に顕はれぬ。去ぬる正嘉の大地震前代未聞の大瑞なり。神世十二、人王九十代、仏滅後二千二百余年未曾有の大瑞なり。神力品に云く「仏滅度の後に於て、能く是の経を持つが故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云。「如来一切所有之法」云云。但し此の大法弘まり給ふならば爾前迹門の経教は一分も益なかるべし。伝教大師云く「日出でて星隠る」云云。遵式の記に云く「末法の初め西を照らす」等云云。
法已に顕はれぬ。前相先代に超過せり。日蓮粗之れを勘ふるに是れ時の然らしむる故なり。経に云く「四導師有り一を上行と名づく」云云。又云く「悪世末法時 能持是経者」。又云く「若接須弥 擲置他方」云云。又貴辺に申し付けし一切経の要文、智論の要文、五帖一処に取り集めらるべく候。其の外論釈の要文散在あるべからず候。又小僧達、談義あるべしと仰せらるべく候。流罪の事痛く歎かせ給ふべからず。勧持品に云く、不軽品に云く。命限り有り惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり云云。/ 文永八年十一月二十三日  日蓮花押/ 富木入道殿御返事/ 小僧達少々還し候。此の国の為体(ていたらく)、在所の有様、御問ひ有るべく候。筆端に載せ難く候。
◆ 法華浄土問答抄 〔C2・文永九年一月一七日〕/             ┌─理即/             ├─名字即───三諦の名を聞く/        ┌─穢土─┼─観行即───五品を明かす/        │    │     ┌─八十八使の見惑を断ず/ 法華宗立六即─┤    └─相似即─┼─八十一品の思惑を断ず/        │          └─九品の塵沙を断ず/        │    ┌─分真即───四十一品の無明を断ず/        └─報土─┤/             └─究竟即───一品の無明を断ず/                   ┌─中品戒行世善等/        ┌─穢土───理即──┤/        │          └─浄土下品
浄土宗の所立─┤    ┌─名字即/        │    ├─観行即/        └─報土─┼─相似即/             ├─分真即/             └─究竟即/ 弁成の立。我が身叶ひ難きが故に且く聖道の行を捨閉し閣抛し浄土に帰し、浄土に往生して法華を聞いて無生を悟ることを得べきなり。/ 日蓮難じて曰く、我が身叶ひ難ければ穢土に於て法華経等・教主釈尊等を捨閉し閣抛し、浄土に至りて之れを悟るべし等云云。何れの経文に依りて此の如き義を立つるや。又天台宗の報土は分真即・究竟即、浄土宗の報土は名字即乃至究竟即等とは、何れの経論釈に出でたるや。又穢土に於ては法華経等・教主釈尊等を捨閉し閣抛し、浄土に至りて法華経を悟るべしとは、何れの経文に出でたるや。/ 弁成の立。余の法華等の諸行等を捨閉し閣抛して念仏を用ゐる文は、観経に云く「仏阿難に告げたまはく、汝好く是の語を持て。是の語を持つ者は即ち是れ無量寿仏の名を持つ」文。
浄土に往生して法華を聞くと云ふ事は、文に云く「観世音・大勢至大悲の音声を以て其れが為に広く諸法実相除滅罪法を説く、聞き已りて歓喜し時に応じて即ち菩提の心を発す」文。余は繁き故に且く之れを置く。/ 又日蓮難じて云く、観無量寿経は如来成道四十余年の内なり。法華経は後八箇年の説なり。如何が已説の観経に兼ねて未説の法華経の名を載せて捨閉閣抛の可説と為すべきや。随って「仏告阿難」等の文に至りては、只弥陀念仏を勧進する文なり。未だ法華経を捨閉し閣抛することを聞かず。何に況や無量義経に法華経を説かんが為に、先づ四十余年の已説の経々を挙げて、未顕真実と定め了んぬ。豈に未顕真実の観経の内に已顕真実の法華経を挙げて、捨て乃至之れを抛てと為すべきや。又云く「久しく斯の要を黙して務めて速やかに説かず」等云云。既に教主釈尊四十余年の間法華の名字を説かず。何ぞ已説の観経の念仏に対して此の法華経を抛たんや。次に「下品下生 諸法実相 除滅罪法等」云云。夫れ法華経已前の実相其の数一に非ず。先づ外道の内の長爪の実相、内道の内の小乗乃至爾前の四教、皆所詮の理は実相なり。何ぞ必ずしも已説の観経に載する所の実相のみ法華経に同じと意得べきや。今度慥かなる証文を出だして法然上人の無間の苦を救はるべきか。
又弁成の立。観経は已説の経なりと雖も、未来を面とする故に、未来の衆生は未来に有る所の経巻之れを読誦して浄土に往生すべし。既に法華等の諸経、未来流布の故に之れを読誦して往生すべきか。其の法華を捨閉閣抛し、観経の持無量寿仏の文に依りて法然是の如く行じ給ふか。観経の持無量寿仏の文の上に諸善を説き、一向に無量寿仏を勧持せる故に合ひ申し候。実相に於ても多く有りと云ふ難、彼れは浄土の故に此の難来たるべからず。法然上人、聖道の行は機堪へ難き故に未来流布の法華を捨閉閣抛す。故に是れ慈悲の至進なれば、此の慈悲を以て浄土に往生し全く地獄に堕すべからざるか。/ 日蓮難じて云く、観経を已説の経なりと云云。已説に於ては承伏か。観経の時未だ法華経を説かずと雖も、未来を鑑みて捨閉閣抛すべしと法然上人は意得給ふか云云。仏未来を鑑みて已説の経に未来の経を載せて之れを制止すと云はば、已説の小乗経に未説の大乗経を載せて之れを制止すべきか。又已説の権大乗経に未説の実大乗経を載せて未来流布の法華経を制止せば、何が故に仏爾前経に於て法華の名を載せざる由、仏之れを説きたまふや。
法然上人慈悲の事。慈悲の故に法華経と教主釈尊とを抛つなりと云ふは、所詮 上に出だす所の証文は未だ分明ならず。慥かなる証文を出だして法然上人の極苦を救はるべきか。上の六品の諸行往生を下の三品の念仏に対して諸行を捨つ。豈に法華を捨つるに非ずや等云云。観無量寿経の上六品の諸行は法華已前の諸行なり。設ひ下の三品の念仏に対して上六品の諸行之れを抛つとも、但法華経は諸行に入らず、何ぞ之れを閣かんや。又法華の意は、爾前の諸行と観経の念仏と共に之れを捨て畢りて如来出世の本懐を遂げ給ふなり。日蓮管見を以て一代聖教並びに法華経の文を勘ふるに、未だ之れを見ず、法華経の名を挙げて或は之れを抛て、或は其の門を閉ぢよ等と云ふ事を。若し爾らば法然上人の憑む所の弥陀本願の誓文並びに法華経の入阿鼻獄の釈尊の誡文 如何ぞ之れを免るべけんや。法然上人無間獄に堕せば、所化の弟子並びに諸檀那等共に阿鼻大城に堕ち了んぬるか。今度分明なる証文を出だして法然上人の阿鼻の炎を消さるべし云云。/ 文永九年〈太歳壬申〉正月十七日  日蓮花押/ 弁成花押
◆ 生死一大事血脈抄 〔C6・文永九年二月一一日・最蓮房〕/ 日蓮之れを記す/ 御状委細披見せしめ候ひ畢んぬ。夫れ生死一大事血脈とは、所謂 妙法蓮華経是れなり。其の故は、釈迦・多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給ひて、此の妙法蓮華経の五字過去遠々劫より已来寸時も離れざる血脈なり。妙は死、法は生なり。此の生死の二法が十界の当体なり。又此れを当体蓮華とも云ふなり。天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」云云。此の釈に依正と云ふは生死なり。生死之れ有れば因果又蓮華の法なる事明らけし。伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」と文。天地・陰陽・日月・五星・地獄乃至仏果、生死の二法に非ずと云ふことなし。是の如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり。天台の止観に云く「起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅」云云。釈迦・多宝の二仏も生死の二法なり。然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて、妙法蓮華経と唱へ奉る処を生死一大事の血脈とは云ふなり。此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは是れなり。
所詮 臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を「是人命終 為千仏授手 令不恐怖 不堕悪趣」と説かれて候。悦ばしきかな、一仏二仏に非ず、百仏二百仏に非ず、千仏まで来迎し手を取り給はん事、歓喜の感涙押へ難し。法華不信の者は「其人命終 入阿鼻獄」と説かれたれば、定めて獄卒迎へに来て手をや取り候はんずらん。浅猿浅猿。十王は裁断し、倶生神は呵責せんか。今日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱へん程の者は、千仏の手を授け給はん事、譬へば瓜夕顔の手を出だすが如くと思し食せ。過去に法華経の結縁強盛なる故に、現在に此の経を受持す。未来に仏果を成就せん事疑ひ有るべからず。過去の生死、現在の生死、未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云ふなり。謗法不信の者は「即断一切 世間仏種」とて、仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之れ無きなり。/ 総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思ひを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是れなり。若し然らば、広宣流布の大願も叶ふべき者か。
剰へ日蓮が弟子の中に異体異心の者之れ有れば、例せば城者として城を破るが如し。/ 日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて、仏に成る血脈を継がしめんとするに、還りて日蓮を種々の難に合はせ、結句此の島まで流罪す。而るに貴辺日蓮に随順し又難に値ひ給ふ事、心中思ひ遣られて痛ましく候ぞ。金は大火にも焼けず、大水にも漂はず朽ちず、鉄は水火共に堪へず。賢人は金の如く、愚人は鉄の如し。貴辺豈に真金に非ずや。法華経の金を持つ故か。経に云く「衆山の中に須弥山為第一、此の法華経も亦復是の如し」。又云く「火も焼くこと能はず、水も漂はすこと能はず」云云。過去の宿縁追ひ来て今度日蓮が弟子と成り給ふか。釈迦・多宝こそ御存知候らめ。「在々諸仏土 常与師倶生」よも虚事候はじ。殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり。貴し貴し。此の文に委悉なり。能く能く心得させ給へ。/ 只南無妙法蓮華経、釈迦・多宝・上行菩薩、血脈相承と修行し給へ。火は焼照を以て行と為し、水は垢穢(くゑ)を浄むるを以て行と為し、風は塵埃(じんあい)を払ふを以て行と為し、又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し、大地は草木を生ずるを以て行と為し、天は潤すを以て行と為す。妙法蓮華経の五字も又是の如し。本化地涌の利益是れなり。
上行菩薩末法今の時、此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由、経文には見え候へども如何が候やらん。上行菩薩出現すとやせん、出現せずとやせん。日蓮先づ粗弘め候なり。相構へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是れなり。信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり。委細の旨又々申すべく候。恐々謹言。/ 文永九年〈壬申〉二月十一日、桑門  日蓮花押/ 最蓮房上人御返事
◆ 八宗違目抄 〔C0・文永一〇年〕/ 記の九に云く「若し其れ未だ開せざれば法報は迹に非ず。若し顕本し已れば本迹各三なり」。文句の九に云く「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之れを秘して伝へず」。/   ┌─法身如来      ┌─正因仏性/ 仏─┼─報身如来   衆生─┼─了因仏性/   └─応身如来      └─縁因仏性/       ┌─小乗経には仏性の有無を論ぜず/ 衆生の仏性─┼─華厳方等般若大日経等には、衆生本より正因仏性有りて、了因縁因無し/       └─法華経には本より三因仏性有り/ 文句の十に云く「正因仏性〈法身の性なり〉は本当に通亘す。縁了仏性は種子本有なり。今に適(はじ)むるに非ざるなり」。/ 法華経第二に云く、「今此の三界は皆是れ我が有なり」───〈主・国王・世尊なり〉/ 「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」─〈親父なり〉/ 「而も今此の処は諸の患難多し、唯我一人のみ能く救護を為す」─〈導師〉
寿量品に云く「我も亦為(こ)れ世の父」文。/  ┌─主─国王─報身如来/  ├─師────応身如来/  └─親────法身如来/ 五百問論に云く「若し父の寿の遠を知らずして復父統の邦に迷はば、徒らに才能と謂ふとも全く人の子に非ず」。又云く「但恐らくは才一国に当たるとも父母の年を識らず」。古今仏道論衡〈道宣の作〉に云く「三皇已前は未だ文字有らず、但其の母を識りて其の父を識らず禽獣に同じ〈鳥等なり〉」等云云。〈恵遠法師周の武帝を詰むる語なり〉/ 倶舎宗─┐/ 成実宗─┼─一向に釈尊を以て本尊と為す。爾りと雖も但応身に限る。/ 律宗──┘/ 華厳宗─┐/ 三論宗─┼─釈尊を以て本尊と為すと雖も、法身は無始無終、報身は有始無終、応身は有始有終なり。/ 法相宗─┘/ 真言宗───一向に大日如来を以て本尊と為す。
二義有り。一義に云く、大日如来は釈迦の法身なり。一義に云く、大日如来は釈迦の法身には非ず。但し大日経には大日如来は釈迦牟尼仏なりと見えたり。人師よりの僻見なり。/ 浄土宗─一向に阿弥陀如来を以て本尊と為す。/ 法華宗より外の真言等の七宗、並びに浄土宗等は釈迦如来を以て父と為すことを知らず。例せば三皇已前の人、禽獣に同ずるが如し。鳥の中に鷦鷯鳥も鳳凰鳥も父を知らず。獣の中には兎も師子も父を知らず。三皇已前は大王も小民も共に其の父を知らず。天台宗よりの外真言等の諸宗の大乗宗は師子と鳳凰の如く、小乗宗は鷦鷯と兎等の如く、共に父を知らざるなり。/ 華厳宗に十界互具一念三千を立つること澄観の疏に之れ有り。真言宗に十界互具一念三千を立つること大日経の疏に之れを出だす。天台宗と同異 如何。天台宗已前にも十界互具一念三千を立つるや。記の三に云く「然るに衆釈を攅(あつ)むるに既に三乗及び一乗三一倶に性相等の十有りと許す。何為(す)れぞ六道の十を語らざらんや」。〈此の釈の如くんば、天台已前五百余年の人師三蔵等の法華経に依る者、一念三千の名目を立てざるか〉。
問うて云く、華厳宗は一念三千の義を用ゐるや〈華厳宗は唐の則天皇后の御宇に之れを立つ〉。答へて云く、澄観の疏三十三〈清涼国師〉に云く「止観の第五に十法成乗を明かす中、第二に真正発菩提心○釈して曰く、然も此の経の上下の発心の義は文理淵博なれども其の撮略を見る。故に取りて之れを用ゐ引きて之れを証とす」。二十九に云く「法華経に云く、唯仏与仏等と。天台云く○便ち三千世間を成すと。彼の宗には此れを以て実と為す○一家の意理として通ぜざる無し」文。華厳経に云く〈旧訳には功徳林菩薩之れを説くと、新訳には覚林菩薩之れを説くと、弘決には如来林菩薩と引く〉「心は工みなる画師の如く種々の五陰を画く、一切世間の中に法として造らざること無し。心の如く仏も亦爾なり、仏の如く衆生も然なり、心と仏と及び衆生と是の三差別無し。若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば、当に是の如く観ずべし、心は諸の如来を造る」。法華経に云く〈此れは略開三の文なり、仏の自説なり〉「所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」。又云く「唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したまふ。諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」。
蓮華三昧経に云く「本覚心法身、常に妙法の心蓮台に住して、本より来(このかた)三身の徳を具足し、三十七尊〈金剛界の三十七尊なり〉心城に住したまへるを帰命したてまつる。心王大日遍照尊、心数恒沙諸の如来、普門塵数諸の三昧、因果を遠離して法然として具す。無辺の徳海本より円満、還りて我心の諸仏を頂礼す」。仏蔵経に云く「仏一切衆生心中に皆如来有して結跏趺坐すと見そなはす」文。/ 問うて云く、真言宗は一念三千を用ゐるや。答へて云く、大日経の義釈〈善無畏金剛智不空一行〉に云く、〈此の文に五本有り、十巻の本は伝教弘法之れを見ず、智証之れを渡す〉「此の経は是れ法王の秘宝なり、妄りに卑賤の人に示さず。釈迦出世して四十余年、舎利弗の慇懃なる三請に因りて方に為に略して妙法蓮華の義を説きたまひしが如く、今此の本地の身、又是れ妙法蓮華最深の秘処なるが故に。寿量品に云く常在霊鷲山 及余諸住処 乃至 我浄土不毀 而衆見焼尽と、即ち此の宗の瑜伽の意ならくのみ。又補処の菩薩の慇懃の三請に因りて方に為に之れを説けり」。又云く「又此の経の宗は横に一切の仏教を統ぶ。唯蘊無我にして世間の心を出で蘊の中に住すと説くが如きは、即ち諸部の小乗三蔵を摂す。
蘊の阿頼耶を観じて自心の本不生を覚ると説くが如きは、即ち諸経の八識三性無性の義を摂す。極無自性心と十縁生の句を説くが如きは、即ち華厳般若の種々の不思議の境界を摂して皆其の中に入る。如実知自心を一切種智と名づくと説くが如きは、則ち仏性〈涅槃経なり〉一乗〈法華経なり〉如来秘蔵〈大日経なり〉皆其の中に入る。種々の聖言に於て其の精要を統べざること無し」。毘盧遮那経の疏〈伝教弘法之れを見る〉第七の下に云く「天台の誦経は是れ円頓の数息なり」と謂ふ、是れ此の意なり。/ 大宋の高僧伝巻の第二十七の含光の伝に云く「代宗光を重んずること〈玄宗代宗の御宇に真言わたる、含光は不空三蔵の弟子なり〉不空を見るが如し、勅委して五台山に往きて功徳を修せしむ。時に天台の宗学湛然〈妙楽天台第六の師なり〉禅観を解了して深く智者〈天台なり〉の膏腴を得たりと。嘗て江淮の僧四十余人と清涼の境界に入る。湛然、光と相見て西域伝法の事を問ふ。光の云く、一国の僧空宗を体解する有り。問うて智者の教法に及ぶ。梵僧云く、曾て聞く、此の教邪正を定め偏円を暁り、止観を明かして功第一と推す。再三光に属す。或は因縁ありて重ねて至らば為に唐を翻して梵と為して附し来たれ。某願はくは受持せんと、屡々手を握りて叮属す。詳らかにするに其れ南印土には多く竜樹の宗見を行ず、故に此の流布を願ふこと有るなり」。
菩提心義の三に云く「一行和上は元是れ天台一行三昧の禅師なり。能く天台円満の宗趣を得たり。故に凡そ説く所の文言義理動もすれば天台に合す。不空三蔵の門人含光天竺に帰るの日、天竺の僧問はく、伝へ聞く彼の国に天台の教有りと。理致須ふべくば、翻訳して此の方に将来せんや云云。此の三蔵の旨も亦天台に合す。今或(ある)阿闍梨の云く、真言を学せんと欲せば先づ共に天台を学せよと。而して門人皆瞋る」云云。/ 問うて云く、華厳経に一念三千を明かすや。答へて云く「心仏及衆生」等云云。止観の一に云く「此の一念の心は縦ならず横ならず不可思議なり。但己のみ爾るに非ず、仏及び衆生も亦復是の如し。華厳に云く、心と仏と及び衆生と是の三差別無しと。当に知るべし、己心に一切の法を具することを」文。弘の一に云く「華厳の下は引きて理の斉しきことを証す。故に華厳に初住の心を歎じて云く、心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり。心と仏と及び衆生と是の三差別無し。諸仏は悉く一切は心によりて転ずと了知したまへり。若し能く是の如く解すれば彼の人真に仏を見たてまつる。身亦是れ心に非ず。心も亦是れ身に非ず。一切の仏事を作すこと自在にして未曾有なり。
若し人三世一切の仏を知らんと欲求せば応に是の如き観を作すべし。心諸の如来を造すと。若し今家の諸の円文の意無くんば、彼の経の偈の旨、理として実に消し難からん」。/   ┌─小乗の四阿含経/ ┌─三蔵教────心生の六界─心具の六界を明かさず/ │ ┌─大乗/ ├─通教─────心生の六界─亦心具を明かさず/ ├─別教─────心生の十界─心具の十界を明かさず/ │ └─思議の十界/ │ ┌─爾前華厳等の円/ └─円教─────不思議の十界互具。/   └─法華の円/ 止の五に云く「華厳に云く、心は工みなる画師の如く種々の五陰を造る、一切世間の中に心より造らざること莫しと。種々の五陰とは前の十法界の五陰の如きなり」。又云く「又十種の五陰一々に各十法を具す。謂く如是相性体力作因縁果報本末究竟等なり」文。又云く「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界には即ち三千種の世間を具す。此の三千一念の心に在り」文。
弘の五に云く「故に大師覚意三昧・観心食法及び誦経法・小止観等の諸の心観の文に、但自他等の観を以て三仮を推せり。並びに未だ一念三千具足を云はず。乃至観心論の中に、亦只三十六の問を以て四心を責むれども、亦一念三千に渉らず。唯四念処の中に略して観心の十界を云ふのみ。故に止観に正しく観法を明かすに至りて、並びに三千を以て指南と為せり。乃ち是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に説己心中所行法門と云ふ。良に以(ゆえ)有るなり。請ふ尋ね読まん者心に異縁無かれ」。/ 止の五に云く「此の十重の観法は横竪に収束し微妙精巧なり。初は則ち境の真偽を簡び、中は則ち正助相添ひ、後は則ち安忍無著なり。意円かに法巧みに該括周備して初心に規矩し、将に行者を送りて彼の薩雲に到らんとす〈初住なり〉。闇証の禅師誦文の法師の能く知る所に非ざるなり。蓋し如来積劫の懃求したまへる所、道場の妙悟したまへる所、身子の三請する所、法譬の三たび説く所、正しく茲に在るに由るか」。弘の五に云く「四教の一十六門乃至八教の一期の始終に遍せり。今皆開顕して束ねて一乗に入れ遍く諸教を括りて一実に備ふ。若し当分を者(いわば)、尚偏教の教主の知る所に非ず。況や復た世間暗証の者をや○蓋し如来の下は称歎なり。
十法は既に是れ法華の所乗なり。是の故に還りて法華の文を用ゐて歎ず。迹の説は、即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し、寂滅道場を以て妙悟と為す。若し本門に約せば、我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し、本成仏の時を以て妙悟と為す。本迹二門只是れ此の十法を求悟せるなり。身子等とは寂場にして説かんと欲するに物の機未だ宜しからず、其の苦に堕せんことを恐れて、更に方便を施し四十余年種々に調熟し、法華の会に至りて初めて略して権を開するに動執生疑して慇懃に三請す。五千起ち去りて方に枝葉無し。四一を点示して五仏の章を演べ、上根の人に被るを名づけて法説と為す、中根は未だ解せざれば猶譬喩を稀(ねが)ひ、下根は器劣にして復因縁を待つ。仏意連綿として茲の十法に在り。故に十法の文の末に皆大車に譬へたり。今の文の憑る所、意此に在り。惑者は未だ見ず、尚華厳を指し、唯華厳円頓の名を知りて而して彼の部の兼帯の説に昧し。全く法華絶待の意を失ひて妙教独顕の能を貶挫す。迹本の二文を験して五時の説を検ふるに円極謬らず。何ぞ須く疑ひを致すべけん。是の故に結して、正しく茲に在るかと曰ふ」。又云く「初めに華厳を引くことを者(いわば)、重ねて初めに引きて境相を示す文を牒す。前に心造と云ふは即ち是れ心具なり。故に造の文を引きて以て心具を証す。
彼の経第十八の中に功徳林菩薩の偈を説いて云ふが如く、心は工みなる画師の如く種々の五陰を造る、一切世界の中に法として造らざること無し。心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり。心と仏と及び衆生と是の三差別無し。若し人三世の一切の仏を知らんと欲求せば、当に是の如く観ずべし。心は諸の如来を造ると。今の文を解せずんば 如何ぞ偈の心造一切三無差別を消せん」文。恐々謹言。諸宗の是非之れを以て之れを糾明すべきなり。/ 二月十八日  日蓮(花押)
◆ 草木成仏口決 〔C6・文永九年二月二〇日・最蓮房〕/ 問うて云く、草木成仏とは、有情非情の中何れぞや。答へて云く、草木成仏とは、非情の成仏なり。問うて云く、情非情共に今経に於て成仏するや。答へて云く、爾なり。問うて云く、証文 如何。答へて云く、妙法蓮華経是れなり。妙法とは有情の成仏なり。蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情非情の成仏の事なり。其の故は我等衆生死する時、塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり。止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」。妙楽云く「然も亦共に色香中道を許す、無情仏性惑耳驚心す」。此の一色とは五色の中には何れの色ぞや。青黄赤白黒の五色を一色と釈せり。一とは法性なり。爰を以て妙楽は色香中道と釈せり。天台大師も無非中道といへり。一色一香の一は二三相対の一には非ざるなり。中道法性をさして一と云ふなり。所詮 十界・三千・依正等をそなへずと云ふ事なし。/ 此の色香は草木成仏なり。是れ即ち蓮華の成仏なり。色香と蓮華とは言はかはれども草木成仏の事なり。口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。
経に云く「如来秘密神通之力」云云。法界は釈迦如来の御身に非ずと云ふ事なし。理の顕本は死を表はす、妙法と顕はる。事の顕本は生を表はす、蓮華と顕はる。理の顕本は死にて有情をつかさどる。事の顕本は生にして非情をつかさどる。我等衆生のために依怙依託なるは、非情の蓮華がなりたるなり。我等衆生の言語・音声・生の位には、妙法が有情となりぬるなり。我等一身の上には有情・非情具足せり。爪と髪とは非情なり、きるにもいたまず。其の外は有情なれば切るにもいたみ、くるしむなり。一身所具の有情・非情なり。此の有情・非情、十如是の因果の二法を具足せり。衆生世間・五陰世間・国土世間、此の三世間、有情・非情なり。/ 一念三千の法門をふりすすぎ(振濯)たてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。天台・妙楽・伝教内にはかがみ(鑑)させ給へどもひろめ給はず。一色一香とののしり、惑耳驚心とささやき給ひて、妙法蓮華と云ふべきを円頓止観とかへさせ給ひき。されば草木成仏は死人の成仏なり。此等の法門は知る人すくなきなり。所詮 妙法蓮華をしらざる故に迷ふところの法門なり。敢へて忘失する事なかれ。恐々謹言。
二月二十日  日蓮花押/ 最蓮房御返事
◆ 開目抄 〔C3・文永九年二月・有縁の弟子〕/ 夫れ一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂 主師親これなり。又習学すべき物三あり。所謂 儒・外・内これなり。/ 儒家には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号す。諸臣の頭目、万民の橋梁なり。三皇已前は父をしらず。人皆禽獣に同ず。五帝已後は父母を弁へて孝をいたす。所謂 重華はかたくなはしき父をうやまひ、沛公(はいこう)は帝となつて太公を拝す。武王は西伯を木像に造り、丁蘭は母の形をきざめり。此等は孝の手本なり。比干は殷の世のほろぶべきを見て、しゐて帝をいさめ、頭をはねらる。公胤といゐし者は懿公(いこう)の肝をとて、我が腹をさき、肝を入れて死しぬ。此等は忠の手本なり。尹伊は尭王の師、務成は舜王の師、太公望は文王の師、老子は孔子の師なり。此等を四聖とがうす。天尊頭をかたぶけ、万民掌をあわす。此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり。其の所詮は三玄をいでず。三玄とは、一には有の玄、周公等此れを立つ。二には無の玄、老子等。三には亦有亦無等、荘子が玄これなり。玄とは黒なり。父母未生已前をたづぬれば、或は元気よりして生ず。或は貴賤、苦楽、是非、得失等は皆自然等云云。
かくのごとく巧みに立つといえども、いまだ過去未来を一分もしらず。玄とは黒なり、幽なり。かるがゆへに玄という。但現在計りしれるににたり。現在にをひて仁義を制して身をまぼり、国を安んず。此れに相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう。此等の賢聖の人々は聖人なりといえども、過去をしらざること凡夫の背を見ず、未来をかがみざること盲人の前をみざるがごとし。但現在に家を治め、孝をいたし、堅く五常を行ずれば、傍輩もうやまい、名も国にきこえ、賢王もこれを召して或は臣となし、或は師とたのみ、或は位をゆづり、天も来たりて守りつかう。所謂 周の武王には五老きたりつかえ、後漢の光武には二十八宿来たりて二十八将となりし此れなり。而りといえども、過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり。まことの賢聖にあらず。/ 孔子が「此の土に賢聖なし、西方に仏図という者あり、此れ聖人なり」といゐて、外典を仏法の初門となせしこれなり。礼楽等を教へて、内典わたらば戒定恵をしりやすからせんがため、王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ。
妙楽大師云く「仏教の流化実に茲に頼る。礼楽前に駆せて真道後に啓らく」等云云。天台云く「金光明経に云く、一切世間所有の善論皆此の経に因る。若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云。止観に云く「我三聖を遣はして彼の真丹を化す」等云云。弘決に云く「清浄法行経に云く、月光菩薩彼しこに顔回と称し、光浄菩薩彼しこに仲尼と称し、迦葉菩薩彼しこに老子と称す。天竺より此の震旦を指して彼しこと為す」等云云。/ 二には月氏の外道、三目八臂の摩醯首羅(まけいしゅら)天・毘紐(びちゅう)天、此の二天をば一切衆生の慈父悲母・又天尊主君と号す。迦毘羅(かびら)・楼僧(うるそうぎゃ)・勒娑婆、此の三人をば三仙となづく。此等は仏前八百年已前已後の仙人なり。此の三仙の所説を四韋陀と号す。六万蔵あり。乃至仏出世に当たりて、六師外道此の外経を習伝して五天竺の王の師となる。支流九十五六等にもなれり。一々に流々多くして、我慢の幢(はたほこ)高きこと非想天にもすぎ、執心の心の堅きこと金石にも超えたり。其の見の深きこと巧みなるさま、儒家にはにるべくもなし。或は過去二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し、又兼ねて未来八万劫をしる。其の所説の法門の極理、或は因中有果、或は因中無果、或は因中亦有果亦無果等云云。此れ外道の極理なり。
所謂 善き外道は五戒・十善戒等を持ちて、有漏の禅定を修し、上色・無色をきわめ、上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼれども、非想天より返りて三悪道に堕つ。一人として天に留まるものなし。而れども天を極むる者は永くかへらずとをもえり。各々自師の義をうけて堅く執するゆへに、或は冬寒に一日に三度恒河に浴し、或は髪をぬき、或は巌(いわお)に身をなげ、或は身を火にあぶり、或は五処をやく。或は裸形、或は馬を多く殺せば福をう、或は草木をやき、或は一切の木を礼す。此等の邪義其の数をしらず。師を恭敬する事諸天の帝釈をうやまい、諸臣の皇帝を拝するがごとし。しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生・三生等に悪道に堕ち、悪師につかへては順次生に悪道に堕つ。/ 外道の所詮は内道に入る即ち最要なり。或外道云く「千年已後仏出世す」等云云。或外道云く「百年已後仏出世す」等云云。大涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず」等云云。法華経に云く「衆に三毒有りと示し、又邪見の相を現ず、我が弟子是の如く、方便して衆生を度す」等云云。/ 三には大覚世尊、此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり。
外典外道の四聖三仙、其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫、其の名は賢なりといえども実に因果を弁へざる事嬰児のごとし。彼れを船として生死の大海をわたるべしや。彼れを橋として六道の巷こゑがたし。我が大師は変易猶をわたり給へり。況や分段の生死をや。元品の無明の根本猶をかたぶけ給へり。況や見思枝葉の麁惑をや。/ 此の仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで、五十年が間一代の聖教を説き給へり。一字一句皆真言なり。一文一偈妄語にあらず。外典外道の中の聖賢の言すら、いうことあやまりなし。事と心と相符へり。況や仏陀は無量曠劫よりの不妄語の人。されば一代五十余年の説教は、外典外道に対すれば大乗なり。大人の実語なるべし。初成道の始めより泥の夕べにいたるまで、説くところの所説皆真実なり。/ 但し仏教に入りて五十余年の経々八万法蔵を勘へたるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり、顕教密教、軟語麁語、実語妄語、正見邪見等の種々の差別あり。但し法華経計り教主釈尊の正言なり。三世十方の諸仏の真言なり。大覚世尊は四十余年の年限を指して、其の内の恒河の諸経を未顕真実、八年の法華は要当説真実と定め給ひしかば、多宝仏大地より出現して皆是れ真実と証明す。分身の諸仏来集して長舌を梵天に付く。
此の言、赫々たり明々たり。晴天の日よりもあきらかに、夜中の満月のごとし。仰ぎて信ぜよ。伏して懐ふべし。/ 但し此の経に二箇の大事あり。倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず。華厳宗と真言宗との二宗は偸(ひそ)かに盗みて自宗の骨目とせり。一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹・天親知りてしかもいまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり。一念三千は十界互具よりことはじまれり。法相と三論とは八界を立てて十界をしらず。況や互具をしるべしや。倶舎・成実・律宗等は阿含経によれり。六界を明らめて四界をしらず。十方唯有一仏と云ひて、一方有仏だにもあかさず。一切有情悉有仏性とこそとかざらめ。一人の仏性猶ゆるさず。/ 而るを律宗・成実宗等の十方有仏・有仏性なんど申すは、仏滅後の人師等の大乗の義を自宗に盗み入れたるなるべし。/ 例せば外典・外道等は仏前の外道は執見あさし。仏後の外道は仏教をききみて自宗の非をしり、巧みの心出現して仏教を盗み取り、自宗に入れて邪見もつともふかし。附仏教・学仏法成等これなり。
外典も又々かくのごとし。漢土に仏法いまだわたらざりし時の儒家・道家は、いういうとして嬰児のごとくはかなかりしが、後漢已後に釈教わたりて対論の後、釈教やうやく流布する程に、釈教の僧侶破戒のゆへに、或は還俗して家にかへり、或は俗に心をあはせ、儒道の内に釈教を盗み入れたり。止観の第五に云く「今世多く悪魔の比丘有りて、戒を退き家に還り、駆策を懼畏して更に道士に越済す、復名利を邀(もと)めて荘老を誇談し、仏法の義を以て偸みて邪典に安き、高を押して下に就け尊を摧きて卑に入れ、概して平等ならしむ」云云。弘に云く「比丘の身と作りて仏法を破滅す。若しは戒を退き家に還るは衛の元嵩等が如し。即ち在家の身を以て仏法を破壊す。○此の人正教を偸窃(ちゅうせつ)して邪典に助添す。○押高等とは、○道士の心を以て二教の概と為し、邪正をして等しからしむ。義是の理無し。曾て仏法に入りて正を偸みて邪を助け、八万十二の高きを押して五千二篇の下れるに就け、用ゐて彼の典の邪鄙の教を釈するを摧尊入卑と名づく」等云云。此の釈を見るべし。次上の心なり。/ 仏教又かくのごとし。後漢の永平に漢土に仏法わたりて、邪典やぶれて内典立つ。
内典に南三北七の異執をこりて蘭菊なりしかども、陳隋の智者大師にうちやぶられて、仏法二び群類をすくう。/ 其の後法相宗・真言宗天竺よりわたり、華厳宗又出来せり。此等の宗々の中に法相宗は一向天台宗に敵を成す宗、法門水火なり。しかれども玄奘三蔵・慈恩大師、委細に天台の御釈を見ける程に、自宗の邪見ひるがへるかのゆへに、自宗をばすてねども其の心天台に帰伏すと見えたり。華厳宗と真言宗とは本は権経・権宗なり。善無畏三蔵・金剛智三蔵、天台の一念三千の義を盗みとて自宗の肝心とし、其の上に印と真言とを加へて超過の心ををこす。其の子細をしらぬ学者等は、天竺より大日経に一念三千の法門ありけりとうちをもう。華厳宗は澄観が時、華厳経の「心如工画師」の文に天台の一念三千の法門を偸み入れたり。人これをしらず。日本我が朝には華厳等の六宗、天台・真言已前にわたりけり。華厳・三論・法相、諍論水火なりけり。/ 伝教大師此の国にいでて、六宗の邪見をやぶるのみならず、真言宗が天台の法華経の理を盗み取りて自宗の極とする事あらはれをはんぬ。伝教大師、宗々の人師の異執をすてて、専ら経文を前として責めさせ給ひしかば、六宗の高徳八人・十二人・十四人・三百余人並びに弘法大師等せめをとされて、日本国一人もなく天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺、皆叡山の末寺となりぬ。
又漢土の諸宗の元祖の、天台に帰伏して謗法の失をまぬかれたる事もあらはれぬ。/ 又其の後やうやく世をとろへ人の智あさくなるほどに、天台の深義は習ひうしないぬ。他宗の執心は強盛になるほどに、やうやく六宗七宗に天台宗をとされて、よわりゆくかのゆへに、結句は六宗七宗等にもをよばず。いうにかいなき禅宗・浄土宗にをとされて、始めは檀那やうやくかの邪宗にうつる。結句は天台宗の碩徳と仰がるる人々みなをちゆきて彼の邪宗をたすく。さるほどに六宗八宗の田畠所領みなたをされ、正法失せはてぬ。天照太神・正八幡・山王等諸の守護の諸大善神も法味をなめざるか、国中を去り給ふかの故に、悪鬼便りを得て国すでに破れなんとす。/ 此に予愚見をもて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先づ世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は、二乗作仏・久遠実成なるべし。/ 法華経の現文を拝見するに、舎利弗は華光如来、迦葉は光明如来、須菩提は名相如来、迦旃延は閻浮那提金光如来、目連は多摩羅跋栴檀香仏、富楼那は法明如来、阿難は山海恵自在通王仏、
羅羅は蹈七宝華如来、五百・七百は普明如来、学無学二千人は宝相如来、摩訶波闍波提比丘尼・耶輸多羅比丘尼等は一切衆生喜見如来・具足千万光相如来等なり。此等の人々は法華経を拝見したてまつるには尊きやうなれども、爾前の経々を披見の時はけを(興)さむる事どもをほし。其の故は仏世尊は実語の人なり。故に聖人・大人と号す。外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし。此等の人々に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは申すぞかし。此の大人「唯以一大事因縁故 出現於世」となのらせ給ひて「未だ真実を顕はさず」、「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」、「正直に方便を捨て」等云云。多宝仏証明を加へ分身舌を出だす等は、舎利弗が未来の華光如来、迦葉が光明如来等の説をば、誰の人か疑網をなすべき。/ 而れども爾前の諸経も又仏陀の実語なり。大方広仏華厳経に云く「如来の智恵大薬王樹は、唯二処に於て生長の利益を為作(な)すこと能はず。所謂 二乗の無為広大の深坑に堕つると、及び善根を壊る非器の衆生の大邪見貪愛の水に溺るるとなり」等云云。此の経文の心は、雪山に大樹あり、無尽根となづく。此れを大薬王樹と号す。閻浮提の諸木の中の大王なり。
此の木の高さは十六万八千由旬なり。一閻浮提の一切の草木は、此の木の根ざし枝葉華菓の次第に随ひて、華菓なる(成)なるべし。此の木をば仏の仏性に譬へたり。一切衆生をば一切の草木にたとう。但し此の大樹は火坑と水輪の中に生長せず。二乗の心中をば火坑にたとえ、一闡提人の心中をば水輪にたとえたり。此の二類は永く仏になるべからずと申す経文なり。/ 大集経に云く「二種の人有り、必ず死して活きず。畢竟して恩を知り恩を報ずること能はず。一には声聞、二には縁覚なり。譬へば人有りて深坑に堕墜し、是の人自ら利し他を利すること能はざるが如く、声聞縁覚も亦復是の如し。解脱の坑に堕ちて、自ら利し及以(および)他を利すること能はず」等云云。外典三千余巻の所詮に二つあり。所謂 孝と忠となり。忠も又孝の家よりいでたり。孝と申すは高なり、天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり、地あつけれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何に況や仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をいたすべし。其の上舎利弗・迦葉等の二乗は、二百五十戒・三千の威儀持整して、味・浄・無漏の三静慮、阿含経をきわめ、三界の見思を尽せり。知恩報恩の人の手本なるべし。
然るを不知恩の人なりと世尊定め給ひぬ。其の故は、父母の家を出でて出家の身となるは、必ず父母をすくはんがためなり。二乗は自身は解脱とをもえども、利他の行かけぬ。設ひ分々の利他ありといえども、父母等を永不成仏の道に入るれば、かへりて不知恩の者となる。/ 維摩経に云く「維摩詰又文殊師利に問ふ。何等をか如来の種と為す。答へて曰く、一切塵労の疇(ともがら)は如来の種と為る。五無間を以て具すと雖も猶能く此の大道意を発す」等云云。又云く「譬へば族姓の子高原陸土には青蓮芙蓉衡華を生ぜず、卑湿汚田乃ち此の華を生ずるが如し」等云云。又云く「已に阿羅漢を得て応真と為る者は、終に復道意を起こして仏法を具すること能はざるなり。根敗の士其の五楽に於て復利すること能はざるが如し」等云云。文の心は、貪・瞋・痴等の三毒は仏の種となるべし、殺父等の五逆罪は仏種となるべし、高原の陸土には青蓮華生ずべし、二乗は仏になるべからず。いう心は、二乗の諸善と凡夫の悪と相対するに、凡夫の悪は仏になるとも二乗の善は仏にならじとなり。諸の小乗経には悪をいましめ善をほむ。此の経には二乗の善をそしり凡夫の悪をほめたり。かへて仏経ともをぼへず、外道の法門のやうなれども、詮するところは二乗の永不成仏をつよく定めさせ給ふにや。
方等陀羅尼経に云く「文殊、舎利弗に語らく、猶枯樹の如く更に華を生ずるや不や。亦山水の如く本処に還るや不や。折石還りて合ふや不や。焦種芽を生ずるや不や。舎利弗の言く、不なり。文殊の言く、若し得べからずんば、云何ぞ我に菩提の記を得て歓喜を生ずるや不やと問ふや」等云云。文の心は枯れたる木華さかず、山水山にかへらず、破れたる石あはず、いれる種をいず。二乗またかくのごとし。仏種をいれり等となん。/ 大品般若経に云く「諸の天子、今未だ三菩提心を発さざる者応当(まさ)に発すべし。若し声聞の正位に入れば、是の人能く三菩提心を発さざるなり。何を以ての故に。生死の為に障隔を作す故」等云云。文の心は、二乗は菩提心ををこさざれば我随喜せじ、諸天は菩提心ををこせば我随喜せん。/ 首楞厳経に云く「五逆罪の人、是の首楞厳三昧を聞いて阿耨菩提心を発せば、還りて仏と作るを得。世尊、漏尽の阿羅漢は猶破器の如く、永く是の三昧を受くるに堪忍せず」等云云。浄名経に云く「其れ汝に施す者は福田と名づけず、汝を供養せん者は三悪道に堕す」等云云。文の心は、迦葉・舎利弗等の聖僧を供養せん人天等は、必ず三悪道に堕つべしとなり。
此等の聖僧は、仏陀を除きたてまつりては人天の眼目、一切衆生の導師とこそをもひしに、幾許の人天大会の中にして、かう度々仰せられしは本意なかりし事なり。只詮ずるところは、我が御弟子を責めころさんとにや。此の外牛驢(ごろ)の二乳、瓦器金器、蛍火日光等の無量の譬へをとて、二乗を呵責せさせ給ひき。一言二言ならず、一日二日ならず、一月二月ならず、一年二年ならず、一経二経ならず、四十余年が間、無量無辺の経々に、無量の大会の諸人に対して、一言もゆるし給ふ事もなくそしり給ひしかば、世尊の不妄語なりと我もしる、人もしる、天もしる、地もしる。一人二人ならず百千万人、三界の諸天・竜神・阿修羅・五天・四洲・六欲・色・無色・十方世界より雲集せる人天・二乗・大菩薩等、皆これをしる、又皆これをきく。各々国々へ還りて、娑婆世界の釈尊の説法を彼々の国々にして一々にかたるに、十方無辺の世界の一切衆生一人もなく、迦葉・舎利弗等は永不成仏の者、供養してはあしかりぬべしとしりぬ。/ 而るを後八年の法華経に忽ちに悔ひ還して、二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はんに、人天大会信仰をなすべしや。
用ゐるべからざる上、先後の経々に疑網をなし、五十余年の説教皆虚妄の説となりなん。されば「四十余年 未顕真実」等の経文はあらませしか。天魔の仏陀と現じて後八年の経をばとかせ給ふかと疑網するところに、げに(実)げにしげに劫国名号と申して、二乗成仏の国をさだめ、劫をしるし、所化の弟子なんどを定めさせ給へば、教主釈尊の御語すでに二言になりぬ。自語相違と申すはこれなり。外道が仏陀を大妄語の者と咲ひしことこれなり。/ 人天大会けを(興)さめてありし程に、爾の時に東方宝浄世界の多宝如来、高さ五百由旬広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じて、教主釈尊の人天大会に自語相違をせめられて、とのべ(左宣)かうのべ(右述)さまざまに宣べさせ給ひしかども、不審猶をはるべしともみえず、もてあつかいてをはせし時、仏前に大地より涌現して虚空にのぼり給ふ。例せば暗夜に満月の東山より出づるがごとし。七宝の塔大虚にかからせ給ひて、大地にもつかず大虚にも付かせ給はず、天中に懸かりて、宝塔の中より梵音声を出だして証明して云く、「爾の時に宝塔の中より大音声を出だして歎めて言く、善きかな善きかな、釈迦牟尼世尊、能く平等大恵・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたまふ。是の如し是の如し。釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」等云云。
又云く「爾の時に世尊、文殊師利等の無量百千万億旧住娑婆世界の菩薩、乃至人非人等、一切の衆の前に於て大神力を現じたまふ。広長舌を出だして上梵世に至らしめ、一切の毛孔より、乃至、十方世界衆の宝樹の下の師子の座の上の諸仏も、亦復是の如く、広長舌を出だし無量の光を放ちたまふ」等云云。又云く「十方より来たりたまへる諸の分身の仏をして各本土に還らしむ。乃至多宝仏の塔も還りて故の如くしたまふべし」等云云。/ 大覚世尊、初成道の時、諸仏十方に現じて釈尊を慰諭し給ふ上、諸の大菩薩を遣はしき。般若経の御時は釈尊長舌を三千にをほひ、千仏十方に現じ給ふ。金光明経には四方の四仏現ぜり。阿弥陀経には六方の諸仏舌を三千にををう。大集経には十方の諸仏菩薩大宝坊にあつまれり。此等を法華経に引き合はせてかんがうるに、黄石と黄金と、白雲と白山と、白氷と銀鏡と、黒色と青色とをば、翳眼の者・眇目の者・一眼の者・邪眼の者はみたがへつべし。華厳経には先後の経なければ仏語相違なし。なににつけてか大疑いで来べき。大集経・大品経・金光明経・阿弥陀経等は、諸小乗経の二乗を弾呵せんがために、十方に浄土をとき、凡夫・菩薩を欣慕せしめ、二乗をわづらはす。
小乗経と諸大乗経と一分の相違あるゆへに、或は十方に仏現じ給ひ、或は十方より大菩薩をつかはし、或は十方世界にも此の経をとくよしをしめし、或は十方より諸仏あつまり給ふ。或は釈尊舌を三千にをほひ、或は諸仏の舌をいだすよしをとかせ給ふ。此れひとえに諸小乗経の十方世界唯有一仏ととかせ給ひしをもひをやぶるなるべし。法華経のごとくに先後の諸大乗経と相違出来して、舎利弗等の諸の声聞・大菩薩・人天等に将非魔作仏とをもはれさせ給ふ大事にはあらず。而るを華厳・法相・三論・真言・念仏等の翳眼の輩、彼々の経々と法華経とは同じとうちをもへるは、つたなき眼なるべし。/ 但在世は四十余年をすてて法華経につき候ものもやありけん。仏滅後に此の経文を開見して信受せんことかたかるべし。先づ一つには爾前の経々は多言なり、法華経は一言なり。爾前の経々は多経なり、此の経は一経なり。彼々の経々は多年なり、此の経は八年なり。仏は大妄語の人、永く信ずべからず。不信の上に信を立てば、爾前の経々は信ずる事もありなん。法華経は永く信ずべからず。当世も法華経をば皆信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうをとく人をば悦びて帰依し、別々なるなんど申す人をば用ゐず。たとい用ゐれども本意なき事とをもへり。
日蓮云く「日本に仏法わたりてすでに七百余年、但伝教大師一人計り法華経をよめり」と申すをば諸人これを用ゐず。但し法華経に云く「若し須弥を接りて他方の無数の仏土に擲げ置かんも、亦未だ為れ難しとせず。乃至、若し仏の滅後に悪世の中に於て能く此の経を説かん、是れ則ち為れ難しとす」等云云。日蓮が強義、経文には普合せり。法華経の流通たる涅槃経に、末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし。正法の者は爪上の土のごとしと、とかれて候はいかんがし候べき。日本の諸人は爪上の土か、日蓮は十方の土か、よくよく思惟あるべし。賢王の世には道理かつべし。愚主の世に非道先をすべし。聖人の世に法華経の実義顕はるべし等と心うべし。/ 此の法門は迹門と爾前と相対して、爾前の強きやうにをぼゆ。もし爾前つよるならば、舎利弗等の諸の二乗は永不成仏の者なるべし。いかんがなげかせ給ふらん。/ 二には、教主釈尊は住劫第九の減人寿百歳の時、師子頬王には孫、浄飯王には嫡子、童子悉達太子一切義成就菩薩これなり。御年十九の御出家、三十成道の世尊、始め寂滅道場にして実報華王の儀式を示現して、十玄六相・法界円融・頓極微妙の大法を説き給ひ、十方の諸仏も顕現し、一切の菩薩も雲集せり。
土といひ、機といひ、諸仏といひ、始めといひ、何事につけてか大法を秘し給ふべき。されば経文には「顕現自在力 演説円満経」等云云。一部六十巻は一字一点もなく円満経なり。譬へば如意宝珠は一珠も無量珠も共に同じ。一珠も万宝を尽くして雨らし、万珠も万宝を尽くすがごとし。華厳経は一字も万字も但同事なるべし。「心仏及衆生」の文は華厳宗の肝心なるのみならず、法相・三論・真言・天台の肝要とこそ申し候へ。/ 此等程いみじき御経に何事をか隠すべき。なれども二乗闡提不成仏ととかれしは珠のきずとみゆる上、三処まで始成正覚となのらせ給ひて、久遠実成の寿量品を説きかくさせ給ひき。珠の破れたると、月に雲のかかれると、日の蝕したるがごとし。不思議なりしことなり。阿含・方等・般若・大日経等は仏説なればいみじき事なれども、華厳経にたいすればいうにかいなし。彼の経に秘せんこと、此等の経々にとかるべからず。されば諸阿含経に云く「初め成道」等云云。大集経に云く「如来成道始め十六年」等云云。浄名経に云く「始め仏樹に坐して力めて魔を降す」等云云。大日経に云く「我昔道場に坐して」等云云。仁王般若経に云く「二十九年」等云云。此等は言ふにたらず。
只耳目ををどろかす事は、無量義経に華厳経の唯心法界、方等般若経の海印三昧・混同無二等の大法をかきあげて、或は未顕真実、或は歴劫修行等下す程の御経に、「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり」と初成道の華厳経の始成の文に同ぜられし、不思議と打ち思ふところに、此れは法華経の序分なれば正宗の事をばいわずもあるべし。法華経の正宗・略開三・広開三の御時「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」等、「世尊法久後」等、「正直捨方便」等、多宝仏、迹門八品を指して「皆是真実」と証明せられしに、何事をか隠すべき。なれども久遠寿量をば秘せさせ給ひて「我始め道場に坐し樹を観じて亦経行す」等云云。最第一の大不思議なり。/ されば弥勒菩薩、涌出品に四十余年の未見今見の大菩薩を「仏爾して乃ち之れを教化して初めて道心を発さしむ」等ととかせ給ひしを疑って云く、「如来太子為りし時、釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまへり。是れより已来始めて四十余年を過ぎたり。世尊云何ぞ此の少時に於て大いに仏事を作したまへる」等云云。
教主釈尊、此等の疑ひを晴さんがために、寿量品をとかんとして、爾前迹門のきき(所聞)を挙げて云く「一切世間の天人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまへりと謂へり」等云云。正しく此の疑ひに答へて云く「然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云云。/ 華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給へり。/ 此等の経々に二つの失あり。一には「行布を存する故に仍未だ権を開せず」、迹門の一念三千をかくせり。二には「始成を言ふ故に曾て尚未だ迹を発せず」、本門の久遠をかくせり。此等の二つの大法は、一代の綱骨、一切経の心髄なり。迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし、根なし草の波の上に浮かべるににたり。本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門の十界の因果をとき顕はす。此れ即ち本因本果の法門なり。
九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。/ かうてかへりみれば、華厳経の台上十方、阿含経の小釈迦、方等・般若の、金光明経の、阿弥陀経の、大日経等の権仏等は、此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮かべ給ふを、諸宗の学者等近くは自宗に迷ひ、遠くは法華経の寿量品をしらず、水中の月に実月の想ひをなし、或は入りて取らんとをもひ、或は縄をつけてつなぎとどめんとす。天台云く「天月を識