Confession of Soka

主師親の三徳は誰のものか?

7年前、怖いもの知らずの女子部の部長だったとき、あるブログにコメントしました。芯の通った議論を展開していた婦人部員がホストの、名前も結構、浸透していたブログです

世界広布の旭日

わたしはずっとお聞きしたいと考えておりました。あなたは、あなたの信念を補強する新しい見解を身に着けることができたのですか?自分が岐路に立ったとき、その判断を確実

創価の未来を暗示

dialogue.jpg池田国際対話センターがジョージ・メイソン大学と共同で、25周年の記念出版を行ったことが、1月19日の聖教に報道されておりました。タイトルは『対話を通じた平和構築――教育・人間変革・紛争解決』。センターの創立者である池田先生が序文を寄せ、『他者を無意識に分別し、優劣をつけようとする、自らの「心の壁」を超克し、人々を「彼らと我ら」「敵と味方」などの対立の図式に落とし込む "二元論" の危険を、鋭く見抜かなくてはならないと強調』、『全ての人に無限の可能性と尊厳性が具わると信じる人間観こそ、差異を超えて平和と共生の道を開くと訴えている』
著名な大学の教授や専門家が、対話が持つ力を様々な視点から検討しているだろうこの本は、論文を寄稿しているその時点で、多様で誠実な対話が成立している。時流に左右されない平和への行動と "人間的側面" への洞察、複雑な状況を整理し、関係回復と和解を促す対話への信頼を訴えている。日本語訳を出版していただきたいというのが切なる願いです。

ブログ『Diversity』が復活しました。対話を強調されておりましたが、主に地区や支部といった小単位のなかで、ポジティブで持続的なトライアルは成果や効果はあったのでしょうか。実験的な英知で挑戦する意欲こそ、現在の創価に失われたものです。その曙光を少しまぶしく見ていたのですが、そのような試みをこころよく思わない組織信仰者の苛斂(かれん)管理を乗り越えることができたのでしょうか。わたしが想像する、圧政への反逆者というパターンも画一的で類型的ですね。リニューアルしたい気分もわかりますが、組織は簡単に新装開店とはいきません。創価はリノベーションの歴史でもありましたが、安定期に入り秩序が優先され、あるいは衰退期に入って内的動機が停滞しました。熟してクサルというパターンは世界共通のようです。また秩序を重視するあまり、上意下達の徹底があり、信仰が求める自由に、制限が加えられたと考えるのわたしだけでしょうか。
『Diversity』でも取り上げて、今でも覚えている記事があります。ブライアン・ウィルソン博士の論文を引用した、極めて真面目な創価評論です。池田先生とウィルソン博士の対談集が出版されたのは1985年のことです。トインビー対談から10年の歳月が経過しておりますが、ある意味、健康を維持するための健康診断と同じように、専門家に宗教の健康診断を求めた対談とも言えます。権威ある宗教社会学者の評価は、おそらく宗教界に衝撃を与えたものと考えますが、ウィルソン博士のその後の論文も良識的な研究者の賛辞に満ちたものということができるでしょう。これは聖教にも掲載されたということですが、わたしには記憶がありません。同様の内容と思われる講演論文が東洋哲学研究所のアーカイブで閲覧できます。
『現代西洋における創価学会運動』(1998年)と題された講演は、けっして過去のものではなく、現在を見通した透徹した英知に支えられております。
講演では、キリスト教の禁欲倫理を概観しながら、プロテスタンティズムの合理性と申し合わせたように合致したことを述べております。このことは西洋社会の基本的な理解ですが、日本人の特質に近似しているとも言えるでしょう。例えば、質素や倹約といった美徳、自己抑制が顕著であり、うらおもてがなく品行が正しく清潔であることなどの模範的人格像は、禁欲倫理の一つの表れですが、宗教的伝統が反映していることは言うまでもありません。自己抑制とは厳しい自律的精神の表出とも捉えられますが、社会から制限された禁欲倫理とも言えますので、見方によっては来世を懇願した他力依存とも言えるでしょう。
宗教が必然的に変質していくプロセスは本質的なものですが、特に経済的豊かさ、科学技術の発展によって、その変化は否応なく訪れました。このことについて講演では、次のように章を締めくくっております。
『このようにして、新しいタイプの宗教、つまり新しい経済的インパルスに倫理的に一致し、他方で、精神的宗教的レベルでヒューマニスティックな方向性を保った宗教的精神を好む、社会的雰囲気が生まれていったのです』

人間にとって大切なのは常にバランスです。愛も過剰になれば破滅し、慈悲も過剰になれば相手を束縛するものに変化していくでしょう。信仰は抑制と過剰のバランスをとるものですが、ウィルソン博士が指摘する創価学会運動は、現世的喜びを保証し、自己解放と自己抑制の調和のバランスを保っていることです。
『創価学会は、それら(禁欲的宗教伝統)とは異なった道徳的伝統を代表しており、抑制と報酬の間の新しいバランスを示していました。――つまり個人の行動と満足の間の関係に対する異なった論理を提供していたのです』

そして、創価の魅力の源泉を詳細に分析しています。
1.通常の人々による在家運動であったこと
2.実際主義、実用主義的理念を強く持っていること
3.救済という概念に多様な形式と解釈を示したこと
4.現世を肯定する志向性を持っていること
5.様々な道徳的規制の代わりに、一般的な個人的責任倫理を強調したこと
6.在家組織であるために古い教会制度や寺院制度から解放されていること
7.戒めるためではなく、自信を与えるために指導と助言がある
  (注:座談会を相互カウンセリングと表現している)
8.創価は外向的宗教であり、芸術的表現を持ち、文化的社会的活動を支援している
9.行動的な性格を持ち、他の人々に対して積極的な関心が強く、信仰を促そうとする
10.創価の理念全体が人生を肯定的に捉え、幸福を正当と見なす。罪を教え、悲劇や苦難に
   遭遇すると懺悔することを説くキリスト教と相違して、罪の概念がない。

仏法には、罪の概念がないと言っても、罰の概念があります。創価では特に強調され、不利益や運、宿命論、あるいは否定的に人格攻撃に使われ、多くの信者は常に正しいかどうかという正常バイアスに絡み取られる。カルト宗教の特徴の短いサマリーは、自分たちの運動を絶対的な客観性で正しいと確信しているところで、とても感情的です。言葉では普遍性を主張しながら、実体がないという矛盾に気づくことがありません。
社会悪を生んでいるかもしれない一政党の政策にも検討することなく無条件に賛同し、選挙運動も宗教活動の一環であるという正常バイアスからはみ出すことはありません。厳密に言うと、宗教心の賜である冷静な自己評価も正しくできるかどうかあやしい。自己評価があやしいといえば、何が基準になるのだと反問されそうですが、自己評価を評価するという多重のチェックが人生というものではないでしょうか。ウィルソン博士が言うところを要約すると、正常バイアスから共感バイアスに転換することを願っているように思えます。
イギリスSGIを研究したウィルソン博士は、メンバーの特質をまとめております。
-メンバーは、仏教徒でない人々から、挑戦的な意見が出されることを歓迎する。
-そのような対話の機会は、信仰の自己確証の機会であると捉えている。
-仏教の教えをもったいぶって話す人に対し、あからさまに嫌悪の情を表現することがある。
-また見解の相違に対しては未決定のまま、それ以上追求されることもない。
-人為的な満場一致を作り出そうとしない。
真実を追求し、公平にジャッジするウィルソン博士が書き残してくれたことを感謝したい。
イギリスSGIは寛容でも、日本では受け入れられることはないでしょう。
フランクでオープンなスタンスは、対話の場にあって最も必要な振る舞いではないしょうか。偏見や既成観念、排他性こそ、心に深く突き刺さった矢です。

ウィルソン博士は、同じ年に行われた東哲セミナーにおいて、『新宗教・その直面する問題』と題して講演し、結論として次のように語っています。
『第一に、すべての成功した新宗教運動は、制度化が進むという可能性に直面している。自発的な熱狂から始まったものは、日常化した服従へと落ち着いてしまう傾向がある。運動が成長するに従い、きわめて標準化された制度が必要となり、官僚的な傾向が発展するであろう。その運動を運営するために、ある意味で職業的な階級の成長を避けることは難しく、それゆえ、問題となるのは、この階級と一般的な平信徒との感覚や期待のズレであろう』
そして気になることを記しておりますが、このようなことはいつも正常バイアスが働いて無視されます。組織全体が冷静さを喪失し、独立したことを強調しながら、やがて求心性も魅力も失われることです。
『もしもこうした運営者が、地位を守ることを正当化するために何らかのタイプの聖職者的な地位を主張するならば、聖職者と平信徒との間の古典的な緊張と分離は決裂にいたるであろう』
創価の運命を予言しているようで興味深く読みました。でも結果はすぐに表れず、カリスマ的指導者に新鮮さが失われたとき、次第に危機は姿を表わすでしょう。信仰の中心的価値ではなく、世俗的なことでも異論を主張する会員を敵視するのは、理由がないわけではありません。信仰上の緊張は破滅にいたることを、本能的に認識しているからです。

『第二に、財産や不動産の獲得によって、非常に多くの場合、布教することよりも組織を維持することに関心をはらうような法的手続き上また運営上の専門家を必要とするようになる。目的の転移と社会学者が呼ぶように、専従職員たちは組織上の価値や利益に最優先の関心を払う傾向があり、しばしば、信仰上の主要な価値や宗教的な専心が損なわれることもある』
すでに創価の教義は変更され、大御本尊という信仰上の主要な価値は失われております。池田先生が「永遠に変わらない」と保証した言葉は、永遠に変わり続けるという意味なのですね。品質保証を謳う契約書にサインしたのに、いつの間にか品質が劣化しているメーカー商品のようです。普通の法的理解であれば、損害賠償責任の対象ですが、宗教は心的問題を扱うために立証は難しい。「嫌ならやめろ!」、というのが慈悲を商売にする聖職者の決まり文句です。

『第三に、信仰上の中心的な教義と結びついてはいるが、直接教義から導き出されたものではないような、いくつかの副次的な問題関心をその運動が含んでいる場合にも、同様な問題が発生するであろう。そのような副次的な関心がますます重要になると、信仰それ自体よりも、この副次的な活動計画により専心する者たちをその運動へ惹きつけるであろう。(中略)我々は、ある運動が主要な目的が副次的な目的によって撹乱される場合(極端な例では、運動自体が壊滅するおそれもある)、そして運動のエネルギーや資源が主要なものから、もっと特殊で、二次的なものへ転換されるような場合、それを目標の逸脱の一形態であると呼ぶことができるであろう』
きょうの聖教一面(21日)には、「不屈の関西魂で常勝新時代を」とアピールして、大阪、京都の代表幹部会の模様が報道されておりましたが、本部幹部会での会長のあからさまな選挙指導を受けてのことであることは明白です。そして、相も変わらず、大量の選挙違反者を出した"1956年の大阪の戦い"が美談風に語られています。4面の座談会でも「立正安国が日蓮仏法の根幹」と慣例のフレーズが列を作ったように並びますが、公明支援が「人間主義運動の副次的目的」に代替されていることについて、主要な信仰目的が撹乱されているモデルであると考えます。創価の特徴である熱狂が、忠誠と自己主張に姿を変えて、積極的に社会に変革を起こそうとしている。その方向は、けっして善い方向とは限りません。

『第四に、第二(そして後続の)世代の社会化に関連した不可避的な一連の問題がある。第一世代である親たちは、それまでの信仰とそれに関連するものを放棄するために、必死に戦って新しい信仰を獲得した。親の世代が勝ち得たものは、彼らの子どもたちにとっては、親から受け渡された正統的な信仰を受け入れるかどうかという問題に変わっている。最初の改宗者たちは、ある意味で、革新者であり、開拓者であり、恐らくは反抗者でさえあるのに対し、後続世代は自分たちの信仰のためにそれほどの苦労は必要なく、結果として、信仰を当たり前のものとみなし、年長者たちと同じような深い感謝の念もなしに、軽々しく扱うであろう。こうしたプロセスを我々はコミットメントの低下と呼ぶことができる』
第一世代の至上のものであった信仰が、後続世代によって責任ある関与を否定される。問題があっても、いつまでも自分を美化し続ける創価の問題意識の低下は、ある意味、コミットメントの低下と捉えることも可能。上から降ってくるヒエラルキーの指令を、黙って受け取る会員の正直さは信仰から培われたものですが、後続世代から見れば不道徳きわまりない。自分の軟弱な意志を育てること……それが信仰のはずなのに、従属し依存している。団結することよりも、一人行くことが大事なのに、その源泉である自立心と反抗心も喪失している。

『第五に、時代を経ることによって、その運動が本来もっていた存在理由が十分に理解されなくなるであろう。それをめぐって争い、あるいはそれについて反抗し、そこから新宗教が発展してきたところの、新宗教と古い信仰との違いがあまり主張されなくなるであろう。新しい世代は、違いをもたらした根拠をあまりよく理解しなくなるであろうし、さらにはそれらを「時代遅れのもの」とみなすようになる。したがって、最初の小さな事から、続いてより重要な問題について、より古い確立された信仰存在理由を同じくしてしまう傾向を持つであろう』
女子部のとき、大御本尊問題についてこだわるわたしに、婦人部幹部から「時代遅れね」と小馬鹿にしたように言われたことを忘れない。わたしを揶揄したのではなく大御本尊を卑下したのであり、御本尊に唾をかけても平気なこの婦人部は池田先生の忠実な弟子。
ウィルソン博士の言葉は、創価の未来を暗示している。正宗が衰退する理由がよくわかりますし、その反面、700年以上も保持し継承してきたこと自体が奇跡に近い。古きものこそ宝ですが、それを正しく活かし、新しく時代を創造する人間がいない。聖僧や法主などの肩書が、何の役に立つというのでしょうか。御本仏は、「旃陀羅が子」と無名の被差別民として誇り高く自らを呼称しましたが、その他にどのような肩書がありましたか。
世俗化は進み、聖域を捨てて、効率的な事務作業によって創価は存続し続けるだろう。現実問題への積極的な関わりと変革を説く創価のような仏教は、たぶん多くの西欧の人々に受け入れられる素地を持つ。100年の間でその中心となる本尊を捨てた創価は、100年後、今度は人本尊も捨ててしまうかもしれないし、本尊が信仰の中心でなくなる可能性は否定できない。それを信仰というのかどうか、わたしにはわからない。どうせ100年後は生きていないし。

Chopin - Nocturne No 20


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学会健児と戦陣訓

台風21号被害、北海道地震へのお見舞いを申し上げます。
ブログ記事を書くたびに、災害見舞を言わなければならない状況は、とても危機的だと思います。
おおよそ1年後に、公明党がもっとも熱心な消費税も増税される予定ですが、延期していただきたいというのが率直な感想です。庶民レベルの、年収400万以下(「年収ガイド」)の多くの国民が、さらに生活への不安を抱いていることに、政治家は思いもよらないのでしょう。公明党は国民を苦しめる悪党に変わり果て、いつから庶民レベルから高級志向になったのでしょうか。

また不気味に続く災害を、相変わらず安倍首相のせいだとする会員の記事があり、狂信もここに極まれりというところかしら。創価の邪宗ぶりと自分だけ唯一正しいとする偏狭な考えは、創価が歩んできた歴史がそもそもウソにまみれているという証拠。会員の醜さは創価の未来を暗示しております。もうこういう人間は相手にしないこと、無駄に人生を消費しないように戒めなければなりません。

スピリチュアルなアンテナを持っているわたしは、このごろの天候や気象のせいなのかわかりませんが、ときどき、虚しい気持ちがわきあがってきて、本を読む気もおきない。半年に一回とか、不意に学習意欲を喪失。わたしは勤勉さをずっと継続してきたと思ってきたのに、どういうわけか、虚脱感があるみたいだ。苦しいなかで勤行唱題して思うことは、創価に信仰の純粋さはないということ、教団経営があまりにも政治的な思惑ととに運営されていること。権威について十分な検討がなく、当然会員同士の議論は皆無だということ。
ウイルソン教授が言っていたこと。
『人生は決定すべきことで満ちており、したがって、人間は経験的事実に基づく知識以上のものを必要とします。人間は解釈を要求しますが、解釈には、情緒的な対応と価値観が必然的にともないます。宗教の教えの深さが発見されるのは、まさにこれらのレベルにおいてなのです。そして、宗教が、他の知識体系よりも幅広い範囲の体験に関与するのは、まさにこのためです』
創価も世俗的な志向に満ちており、論理的に堅固に、宗教にふさわしい清浄明瞭さであっていただきたいと考えますが、高い理想と進路を高唱しながら、個人の可能性を最大限に実現できるアドバイスを心掛けているのか、いつも疑問に思います。宗教は空想でなく、日常という現実の再生行為です。精神を呼び覚ますものであり、わたしが異論を唱えるのは正統の単なる異型に過ぎないのに、むりやり形式的に型にはめようとする。宗教によく用いられる普遍的という定義は、再解釈への議論と変化への機会を、普遍的に保障するものという意味であってもらいたい。創価は、言論の自由を保障すると何度も言ってきたのではありませんか。批判や異論を許さない言論の自由はあるのでしょうか。
理想は完全であっても、実践は矛盾と失敗が常につきまとい不満足な形にしか収束できないけれど、その欠陥を補佐してくれる組織は、寛容と慈悲に満ちていなければならないでしょう。

8月24日の聖教に、いわゆる「靖国神社提灯奉納事件」の告訴をした旨の記事がありました。すでに厳密な意味での謗法を容認している創価にあって「謗法厳誡」と恥ずかしくもなく言うところに、苦笑を誘うようなおかしさがあります。日本全国の市町村には、伝統的な祭礼が独自の形態で存在しますが、それらはほとんど神社を中心にした信仰に由来しています。創価では、これらの祭礼に寄付し、参加する姿勢を、地域友好の必要な行動として積極的に承認してきました。同じ町内や隣人に、聖教啓蒙や選挙支援をお願いしなければならない活動上の理由から、町内のイベントや行事に対し、消極的なスタンスは禁物です。
靖国神社への寄付行為も決して告訴するほどのことではありませんが、世法に無知な在家僧は、社会のなかでの信仰のあり方を苦慮している会員の気持ちを察しできずに、ヒステリックに、また形式的に反応します。会員の信仰問題や細部の感情などは二の次です。在家には在家特有の悩みがあるのですが、厳格さを主張し寛容をなくした聖職者は、社会の接点での教義の柔軟な解釈の必要性を認識することはありません。円滑な人間関係や振る舞いは信仰者の目的でもありますので、随方毘尼を主観的に曲解し、仏法本義さえ失わなければ容認するとしてきた創価の問題意識も、あいかわらず低級のまま。大御本尊まで否定しながら、中途半端な教義解釈に止まっているのです。
牧口先生も、国のために亡くなられた方々に感謝するのは当然ということで、靖国に参拝しました。A級戦犯合祀問題もあり、戦時中と現在では事情が異なりますが、牧口先生の信条を適用すれば、靖国だけでなくあらゆる神社に拡大解釈できる可能性もあります。お賽銭なしの初詣なんて提案したら宗門も大騒ぎになるでしょうね。謗法意識がうすれ、その分、御本尊への信もうすれたということでしょうか。世界宗教を考えるうえで、謗法の定義も見直さなければならないと考えますが、ほとんど世俗化し習慣化した信仰形態にそれほど神経質になる必要があるとは思えません。
ただこの「靖国神社提灯奉納事件」では、寄付をした本人が個人名ですれば個人的信仰問題の範囲のなかに収まっていたと思いますが、どうして創価の名前を使用したのか理解できません。祭礼に、個人がわざわざ創価の名義を持ちだして寄付しますか?
謗法など無頓着な会員は、御本尊にも無頓着な会員と思われますが、創価は会員を告訴までして問題を大きくし、この顛末をどう始末つけるつもりなのでしょうか。それなりに健全な判断力と常識ある会員は注目していると思いますが、創価がその期待に応えることはないでしょう。愚かしい会員と愚かしい職員が織りなす滑稽な事件は、創価の上も下も全体の劣化を表わしているようです。

8月24日は先生の入信記念日ですが、毎年のことなので新鮮さがありません。聖教を読む側だけでなく、編集する側もマンネリ化に襲われています。もうポスト池田が進んでいるのかもしれません。組織に必要なのは偶像化にふさわしいシンボルですが、永遠の指導者というイメージほど妥当な偶像はないでしょうね。わたしが関心があるのは戸田先生との出会いシーンですが、おそらく脚色されたものでしょう。「小説・人間革命」はフィクション部分が多いと思いますが、美化され、真実らしく作られているところに、創価の罪深さがあります。なにごとも視点を変えれば、邪も正になり、天地が逆さまになり、ウソも真実になります。
しかし、アレンジされ作られたものでも、戸田先生と出会いをはたした座談会での池田先生の質問はとても重要です。当時の一般的な青年の関心事を反映していると思います。創価の諸運動のなかでも平和運動は突出していますが、反戦平和への最初の出会いが、この質問にあるといってもよいかもしれません。結局、どのような問題意識を持つかということです。
「正しい人生について」
「本当の愛国者とは」
「天皇について」
国家が混乱するときにあって、哲学や思想の混沌と枯渇は過渡期とはいえ青年に失望を与えるものです。真の指導者に出会う幸運は滅多にないことですが、妙法は運命的ストーリーに満ちていることは言うまでもありません。入信は昭和22年のことですので、ちょうど二年前の8月は、日本国民全体が初の原子爆弾や終戦の体験をしていました。国土は焼け野原になり、多くの青年や男子が兵士として戦い亡くなりました。そのようななかで、上記のような質問に的確に答えられる人物に出会うことはほとんど稀なことと言わなければなりません。
わたしも含めて現在の会員は、当時のことを思い描くことは困難ですが、その後の創価では、戦闘的な折伏が行われていたことが伝えられています。「折伏大行進」などという言葉に表現されるように、急激な会員増加は社会のいたるところで敵対や摩擦、確執を生みました。当時の会員が精神的な飢餓状態にあったこと、経済的な不遇にあったことは会員だけの問題ではなく、国民全体が精神的にも物質的にも貧しかったのではないでしょうか。
軍事国家の強制から解放されたのに、創価の組織形態は軍隊式を応用したことは、とても奇異に感じます。「折伏大行進」は統制された性格を持ち、軍隊式行進と言えば言い過ぎでしょうか。目的は正しくても手段の選択に妙法的寛容心が感じられませんが、現世利益を求めるあまり、折伏を強行した貧しさは、それだけ生活も窮迫した苦しみがあり、火急の願いがあったのでしょう。この当時の一人一人の思いを正確に知ることは困難です。

軍隊式は学会歌にも反映されています。歩調を合わせるように2拍子の学会歌は、手拍子も取りやすく、気持ちも前向きになる規則的なリズムです。
特に草創から愛されてきた学会歌に「威風堂々の歌」があります。創価のホームページに紹介されている通り、京都の一会員が作ったものですが、その曲は軍歌を借用したと思われます。指揮を取るときの先生の独特の舞いは、昭和40年ごろから始まったと思われますが、適当にダンスしていることは言うまでもありません。その体操のような舞いもコミカルに見えるから面白い。それにビデオでは、自分を威風堂々と「先生」と呼ぶなんて、なんという配慮に欠ける遠慮のなさでしょう。
威風堂々の歌」は、軍歌「愛馬とともに」によく似ています。(ニコニコ動画で再生できますが、音質は最悪です)現在のように著作権など思いもよらない時代でしたので、京都の一会員が、勢いに任せて借用したものと思います。その旨を注意書きしておけばよかったのではないかと考えますが、そのような用心深さや心配りがあるくらいなら、折伏も進まなかったのかもしれません。あるいは軍歌であることに後ろめたさがあったのかもしれません。手段の強引さは、ほとんど共産思想と同じです。中国と仲が良いのはそのせいかもしれませんね。



ついでに学会歌を検索していたら、いろいろとヒットしましたが、今まであまりにも無知だったことを後悔しました。「同志の歌」は与謝野鉄幹作の「人を恋うる歌」と同じと思いましたが、さらにその原歌は「旧制第三高等学校寮歌」。このような使い回しは頻繁にあったのでしょうか。

 


学会健児とは創価兵士のことです。折伏とは戦闘的行為であり、悲壮感を漂わせて決意するその姿は兵士に似ています。戸田先生が生死の境を生きてきたからといって、妙法流布もそのようにしなければならないというのであれば、そのための訓示をしなければならないのですが、まさか軍歌が使用されるとは、仏法が求める精神的気品も威厳もあったものでありません。それにも増して、祖国を亡ぼしたうえ師の命を奪った元凶であるミリタリズムの象徴「戦陣訓」とは、戸田先生の仏法理解も限界があったのでしょうか。

 


歌詞は巧妙に原歌を援用しており、戦陣訓という非人間的な戦争体験をさらに強いているようです。どこに人間主義や法華経主義の生命尊重の思想が反映されているのか、はなはだ疑わしい。
都合よく変えた歌詞を比較してみると、いかにその場しのぎであるかよくわかります。
1957年(昭和32年)、「大坂事件」で池田先生が逮捕されたとき、連日、拘置所の周辺では室長の無事を祈る姿があり、夜にはこの「日本男子の歌」を歌ったとの報道があったそうです。軍歌に等しい歌を熱狂的に歌う姿はときには狂気じみて、社会に恐怖を与えるくらい激しい。
戦陣訓とは、ウィキペディアで概略が説明されています。軍人・兵士の行動規範であり、国家のために死も厭わないという忠誠を誓わせた東條英機陸軍大臣の訓令。内容は「軍人勅諭」をさらに解説したもの。その戦陣訓を徹底するために親しみやすい軍歌を作り啓蒙したと思われます。創価も、命懸けで何かを成し遂げるという好戦的な強制力を、化他行のなかに漂わせ、菩薩の闘争心を開放し会員増加をはかりました。選択肢がない手段を強行すること、ほとんど軍隊の行動力学と同じです。
創価の愛唱歌の一つに「大楠公」がありますが、哀調に満ちたこの歌も軍国教育のなかで尊皇と忠義の精神として強調されました。
学徒出陣のノンフィクションを図書館から借りて読んでいたら、次のような文章がありました。(「学徒兵の青春」学徒出陣五〇年目の答案:奥村芳太郎編、角川書店)
『兵隊たちは、天皇陛下のために死ぬことを承知して入営するが、入隊する前の思想的基盤になっているのは「教育勅語」である。そのなかに「一旦緩急アレバ義勇公二奉ジ……」とあり、戦争の場合は、天皇のために自己を犠牲にして戦えと教えている。
「軍人勅諭」は明治一五年(一八八二)の発布で、「教育勅語」より八年ほど早い。「教育勅語」が「軍人勅諭」の影響を受けていたことは、その内容から考えても容易に納得できる。この二つが学校と軍隊に浸透して、自発的に戦う国民をつくりあげたことになる。この二つを無視して戦前、戦中の日本人を語れない。昭和一八年(一九四三)になると、現場軍隊の天皇直属意識がさらに高揚され、服従を第二の天性として盲従するように要求されたのである。
日本国軍は神格化された天皇を頂点として一大ピラミッドが形作られている。国法を超えるものといえば天皇の大権しかなく、「建軍の本義」は天皇を大元帥として直接に服従することである。統帥権の所在はしばしば「天皇陛下の命により……」という常套句によって強調され、上意下達を支えるのは厳正というより峻烈な軍紀である。軍学校出身の職業軍人たちは、いささかの疑いもなくこの言葉を使用した。
学徒兵は従順な一般兵隊と天皇親率にこり固まった士官学校、兵学校出の将校や、野蛮な下士官の間にあって、どちらに対しても距離を置いて見るという習性を持っていた。だから、わずかな軍隊生活のなかで、その大きな組織を、表からも裏からも見ることができた。
軍隊生活に順応する第一歩は、「軍人勅諭」を真っ正直に受け入れることである。一般の兵隊たちは、「上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」を守り、理不尽な上官の命令も天皇陛下の命令として服従する。自分で考えて行動し、自分に責任を持つ発想は許されないから、道徳的責任を負うこともないのである。無批判を習性とする部下は、上官にとっては便利な存在で、人格や人権があっては困るのである。それ故に良質な指揮官が望まれるのである。だが、戦闘中も安閑として後方で、将棋の駒のように、命令を乱発して、軍隊を動かしておれば済むと考えていた高級職業軍人たちは、学徒兵を含めた市民兵たちをどう見ていたのであろうか』

『撤退の際は「病兵は銃殺せよ」という私に対する上官からの命令を察知して「天皇陛下万歳」と遺書を残して自決した兵士がいました。その遺書には家族のことについて何一つ書いてありませんでした。彼は死ぬ最後の最後まで、本音をいわず建前だけの人生を送ったのです。私はこうした兵士たちに接するたびに「なぜ、なぜ、天皇のために死ななければならないのだ」と心の中で叫んでいました。
ルソン島のジャングルのなかで、食糧もなく援軍もなく、「天皇のため、国家のために戦え」と部下たちを叱咤していた最高司令官たちはいち早く内地に逃避し、残された司令官や参謀たちは、安全な奥地に食糧を確保し、自分のベッドまで運ばせ隠れていました。前線に送られた私たちは、毎日、熱帯病と飢えで多くの戦友を失い、友軍同士がわずかな食糧を巡って、撃ちあい殺しあい、明日はわが身と予感しながら、何のために戦っているのか、という疑問にとりつかれていました。
守るつもりの、そのために戦おうとする家族たちは遠い内地にあり、ジャングルのなかにいる私たちにはなすべき方法がありません。それでも、そのために戦わなければならない「国家」とは何か。国家の前には一人の生命など問題にならないということを、私は戦争体験を通じて知ることができました』


体験した者の言葉は重い。わたしは天皇制への嫌悪はありませんが、自衛権を認めない現在の憲法への改正の必要性を強く感じております。
「戦争ほど悲惨なものはない」そんなことを言う前に、その戦争で使われた常套句や戦争歌を、なぜまた使用するのか。わたしはもう学会歌を歌うことはないと思うので、無知だったことを恥じてはっきり言いますが、「威風堂々の歌」にひそむ戦争犯罪者を思わせる戦意高揚の欺瞞性を、わたしの身体のなかから永久に除外する。会員はあまりにも不感症過ぎます。

あゝ紅の血は燃ゆる


「紅の歌」があるのですから、歌詞を書き変えて「創価版・あゝ紅の血は燃ゆる」があってもおかしくありませんが、「威風堂々の歌」と同じように、この歌によってどれほどの学徒兵が死地に赴いたか、気楽な会員は思いもよらないのではないでしょうか。


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学会健児と戦陣訓

台風21号被害、北海道地震へのお見舞いを申し上げます。
ブログ記事を書くたびに、災害見舞を言わなければならない状況は、とても悲劇的であり、危機的だと思います。こういうときこそ冷静さが必要ですね。自然災害は予測できないところで起きますが、政治的に社会不安を解決できる要素があるなら、それに向けて努力すべきです。国民の我慢強さにも限界があります。
おおよそ1年後に、公明党がもっとも熱心な消費税も増税される予定ですが、延期していただきたいというのが率直な感想です。庶民レベルの、年収400万以下(「年収ガイド」)の多くの国民が、さらに生活への不安を抱いていることに、政治家は思いもよらないのでしょう。公明党は国民を苦しめる悪党に変わり果て、いつから庶民レベルから高級志向になったのでしょうか。

また不気味に続く災害を、相変わらず安倍首相のせいだとする会員の記事があり、狂信もここに極まれりというところかしら。創価の邪宗ぶりと自分だけ唯一正しいとする偏狭な考えは、創価が歩んできた歴史がそもそもウソにまみれているという証拠。会員の醜さは創価の未来を暗示しております。もうこういう人間は相手にしないこと、無駄に人生を消費しないように戒めなければなりません。

スピリチュアルなアンテナを持っているわたしは、このごろの天候や気象のせいなのかわかりませんが、ときどき、虚しい気持ちがわきあがってきて、本を読む気もおきない。半年に一回とか、不意に学習意欲を喪失。わたしは勤勉さをずっと継続してきたと思ってきたのに、どういうわけか、虚脱感があるみたいだ。苦しいなかで勤行唱題して思うことは、創価に信仰の純粋さはないということ、教団経営があまりにも政治的な思惑とともに運営されていること。権威について十分な検討がなく、当然会員同士の議論は皆無だということ。
ウイルソン教授が言っていたこと。
『人生は決定すべきことで満ちており、したがって、人間は経験的事実に基づく知識以上のものを必要とします。人間は解釈を要求しますが、解釈には、情緒的な対応と価値観が必然的にともないます。宗教の教えの深さが発見されるのは、まさにこれらのレベルにおいてなのです。そして、宗教が、他の知識体系よりも幅広い範囲の体験に関与するのは、まさにこのためです』
創価も世俗的な志向に満ちており、論理的に堅固に、宗教にふさわしい清浄明瞭さであっていただきたいと考えますが、高い理想と進路を高唱しながら、個人の可能性を最大限に実現できるアドバイスを心掛けているのか、いつも疑問に思います。宗教は空想でなく、日常という現実の再生行為です。精神を呼び覚ますものであり、わたしが異論を唱えるのは正統の単なる異型に過ぎないのに、むりやり形式的に型にはめようとする。宗教によく用いられる普遍的という定義は、再解釈への議論と変化への機会を、普遍的に保障するものという意味であってもらいたい。創価は、言論の自由を保障すると何度も言ってきたのではありませんか。批判や異論を許さない言論の自由はあるのでしょうか。
理想は完全であっても、実践は矛盾と失敗が常につきまとい不満足な形にしか収束できないけれど、その欠陥を補佐してくれる組織は、寛容と慈悲に満ちていなければならないでしょう。

8月24日の聖教に、いわゆる「靖国神社提灯奉納事件」の告訴をした旨の記事がありました。すでに厳密な意味での謗法を容認している創価にあって「謗法厳誡」と恥ずかしくもなく言うところに、苦笑を誘うようなおかしさがあります。日本全国の市町村には、伝統的な祭礼が独自の形態で存在しますが、それらはほとんど神社を中心にした信仰に由来しています。創価では、これらの祭礼に寄付し、参加する姿勢を、地域友好の必要な行動として積極的に承認してきました。同じ町内や隣人に、聖教啓蒙や選挙支援をお願いしなければならない活動上の理由から、町内のイベントや行事に対し、消極的なスタンスは禁物です。
靖国神社への寄付行為も決して告訴するほどのことではありませんが、世法に無知な在家僧は、社会のなかでの信仰のあり方を苦慮している会員の気持ちを察しできずに、ヒステリックに、また形式的に反応します。会員の信仰問題や細部の感情などは二の次です。在家には在家特有の悩みがあるのですが、厳格さを主張し寛容をなくした聖職者は、社会の接点での教義の柔軟な解釈の必要性を認識することはありません。円滑な人間関係や振る舞いは信仰者の目的でもありますので、随方毘尼を主観的に曲解し、仏法本義さえ失わなければ容認するとしてきた創価の問題意識も、あいかわらず低級のまま。大御本尊まで否定しながら、中途半端な教義解釈に止まっているのです。
牧口先生も、国のために亡くなられた方々に感謝するのは当然ということで、靖国に参拝しました。A級戦犯合祀問題もあり、戦時中と現在では事情が異なりますが、牧口先生の信条を適用すれば、靖国だけでなくあらゆる神社に拡大解釈できる可能性もあります。お賽銭なしの初詣なんて提案したら宗門も大騒ぎになるでしょうね。謗法意識がうすれ、その分、御本尊への信もうすれたということでしょうか。世界宗教を考えるうえで、謗法の定義も見直さなければならないと考えますが、ほとんど世俗化し習慣化した信仰形態にそれほど神経質になる必要があるとは思えません。
ただこの「靖国神社提灯奉納事件」では、寄付をした本人が個人名ですれば個人的信仰問題の範囲のなかに収まっていたと思いますが、どうして創価の名前を使用したのか理解できません。祭礼に、個人がわざわざ創価の名義を持ちだして寄付しますか?
謗法など無頓着な会員は、御本尊にも無頓着な会員と思われますが、創価は会員を告訴までして問題を大きくし、この顛末をどう始末つけるつもりなのでしょうか。それなりに健全な判断力と常識ある会員は注目していると思いますが、創価がその期待に応えることはないでしょう。愚かしい会員と愚かしい職員が織りなす滑稽な事件は、創価の上も下も全体の劣化を表わしているようです。

8月24日は先生の入信記念日ですが、毎年のことなので新鮮さがありません。聖教を読む側だけでなく、編集する側もマンネリ化に襲われています。もうポスト池田が進んでいるのかもしれません。組織に必要なのは偶像化にふさわしいシンボルですが、永遠の指導者というイメージほど妥当な偶像はないでしょうね。わたしが関心があるのは戸田先生との出会いシーンですが、おそらく脚色されたものでしょう。「小説・人間革命」はフィクション部分が多いと思いますが、美化され、真実らしく作られているところに、創価の罪深さがあります。なにごとも視点を変えれば、邪も正になり、天地が逆さまになり、ウソも真実になります。
しかし、アレンジされ作られたものでも、戸田先生と出会いをはたした座談会での山本伸一の質問はとても重要です。当時の一般的な青年の関心事を反映していると思います。創価の諸運動のなかでも平和運動は突出していますが、反戦平和への最初の出会いが、この質問にあるといってもよいかもしれません。結局、どのような問題意識を持つかということです。
「正しい人生について」
「本当の愛国者とは」
「天皇について」
国家が混乱するときにあって、哲学や思想の混沌と枯渇は過渡期とはいえ青年に失望を与えるものです。真の指導者に出会う幸運は滅多にないことですが、妙法は運命的ストーリーに満ちていることは言うまでもありません。入信は昭和22年のことですので、ちょうど二年前の8月は、日本国民全体が初の原子爆弾や終戦の体験をしていました。国土は焼け野原になり、多くの青年や男子が兵士として戦い亡くなりました。そのようななかで、上記のような質問に的確に答えられる人物に出会うことはほとんど稀なことと言わなければなりません。
わたしも含めて現在の会員は、当時のことを思い描くことは困難ですが、その後の創価では、戦闘的な折伏が行われていたことが伝えられています。「折伏大行進」などという言葉に表現されるように、急激な会員増加は社会のいたるところで敵対や摩擦、確執を生みました。当時の会員が精神的な飢餓状態にあったこと、経済的な不遇にあったことは会員だけの問題ではなく、国民全体が精神的にも物質的にも貧しかったのではないでしょうか。
軍事国家の強制から解放されたのに、創価の組織形態は軍隊式を応用したことは、とても奇異に感じます。「折伏大行進」は統制された性格を持ち、軍隊式行進と言えば言い過ぎでしょうか。目的は正しくても手段の選択に妙法的寛容心が感じられませんが、現世利益を求めるあまり、折伏を強行した貧しさは、それだけ生活も窮迫した苦しみがあり、火急の願いがあったのでしょう。この当時の一人一人の思いを正確に知ることは困難です。

軍隊式は学会歌にも反映されています。歩調を合わせるように2拍子の学会歌は、手拍子も取りやすく、気持ちも前向きになる規則的なリズムです。
特に草創から愛されてきた学会歌に「威風堂々の歌」があります。創価のホームページに紹介されている通り、京都の一会員が作ったものですが、その曲は軍歌を借用したと思われます。指揮を取るときの先生の独特の舞いは、昭和40年ごろから始まったと思われますが、適当にダンスしていることは言うまでもありません。その体操のような舞いもコミカルに見えるから面白い。それにビデオでは、自分を威風堂々と「先生」と呼ぶなんて、なんという配慮に欠ける遠慮のなさでしょう。
威風堂々の歌」は、軍歌「愛馬とともに」によく似ています。(ニコニコ動画で再生できますが、音質は最悪です)現在のように著作権など思いもよらない時代でしたので、京都の一会員が、勢いに任せて借用したものと思います。その旨を注意書きしておけばよかったのではないかと考えますが、そのような用心深さや心配りがあるくらいなら、折伏も進まなかったのかもしれません。あるいは軍歌であることに後ろめたさがあったのかもしれません。手段の強引さは、ほとんど共産思想と同じです。中国と仲が良いのはそのせいかもしれませんね。
現在、日中国交正常化提言50周年記念の一連の聖教キャンペーンのなかに、中国の非人道と宗教弾圧に関する言及は一言もありません。法華経の精神は虐げられる者、弱者への配慮だと考えますが、政治的思惑から菩薩の心を抹殺している。真の日中友好の力に成り得るのか疑問です。このような盲目的とも言える賛辞で飾る意図は、過去に畏まっていただいた多くの名誉に由来するのでしょうか。唯物国家が信奉する物量作戦に、まんまと引っかかっていると見えるのはわたしだけ?
以前SGI提言(「第28回」2003年)で、善の沈黙は悪を助長するとして言語人(ホモ・ロクエンス)の面目にかけて、言論のつぶてを放ち続けると述べていましたが、忘れてしまったのでしょう。また「人間の安全保障」に触れ、その委員会の討議をまとめて、次のように訴えております。
①日常の不安を中心に置くこと
②最も弱いものを中心に置くこと
③多様性を大切にすること
④相互性を大切にすること
自身の年来の主張とも重なるとして強く賛同していますが、すべてに違背している中国の人種政策を、人権侵害の脅威として、なぜ注意を喚起しないのでしょうか。誉めるだけの単なるオブザーバーに徹して黙認する意味は何なのでしょうか。
それにその聖教キャンペーンでは、竹入元委員長の名前はきれいにデレ―トされておりますが、外交文書のなかでも、その功績が認められているのに、歴史の隠蔽とはまさにこのようなことをいうのでしょう。池田先生の嫉妬は激しいものと感じますが、称賛の影に憎悪やいやらしい妬みがあるのは、人間なら当然のこと。人格者であっても怒り狂うときもあるのが人間の本性というものです。仏だって、餓鬼や畜生の命が充満し支配されるときがあるのですから。




ついでに学会歌を検索していたら、いろいろとヒットしましたが、今まであまりにも無知だったことを後悔しました。「同志の歌」は与謝野鉄幹作の「人を恋うる歌」と同じと思いましたが、さらにその原歌は「旧制第三高等学校寮歌」。このような使い回しは頻繁にあったのでしょうか。


 


学会健児とは創価兵士のことです。折伏とは戦闘的行為であり、悲壮感を漂わせて決意するその姿は兵士に似ています。戸田先生が生死の境を生きてきたからといって、妙法流布もそのようにしなければならないというのであれば、そのための訓示をしなければならないのですが、まさか軍歌が使用されるとは、仏法が求める精神的気品も威厳もあったものでありません。それにも増して、祖国を亡ぼしたうえ師の命を奪った元凶であるミリタリズムの象徴「戦陣訓」とは、戸田先生の仏法理解も限界があったのでしょうか。


 


歌詞は巧妙に原歌を援用しており、戦陣訓という非人間的な戦争体験をさらに強いているようです。どこに人間主義や法華経主義の生命尊重の思想が反映されているのか、はなはだ疑わしい。
都合よく変えた歌詞を比較してみると、いかにその場しのぎであるかよくわかります。
1957年(昭和32年)「大坂事件」で池田先生が逮捕されたとき、連日、拘置所の周辺では室長の無事を祈る姿があり、夜にはこの「日本男子の歌」を歌ったとの報道があったそうです。軍歌に等しい歌を熱狂的に歌う姿はときには狂気じみて、社会に恐怖を与えるくらい激しい。
戦時中も国家主義という熱狂に支配されましたが、師弟不二も同じ熱狂の産物なのでしょうか。悠々たる沈着さこそ必要です。
戦陣訓とは、ウィキペディアで概略が説明されています。軍人・兵士の行動規範であり、国家のために死も厭わないという忠誠を誓わせた東條英機陸軍大臣の訓令。内容は「軍人勅諭」をさらに解説したもの。その戦陣訓を徹底するために親しみやすい軍歌を作り啓蒙したと思われます。創価も、命懸けで何かを成し遂げるという好戦的な強制力を、化他行のなかに漂わせ、菩薩の闘争心を開放し会員増加をはかりました。選択肢がない手段を強行すること、ほとんど軍隊の行動力学と同じです。
今月の本幹でも歌われましたが、創価の愛唱歌の一つに「大楠公」があります。哀調に満ちたこの歌も軍国教育のなかで尊皇と忠義の精神として強調されました。信仰と儒教的道徳心、現在で言えば、モラハラやパワハラが、なぜ美徳として重ねあわされようとするのか理解できません。
学徒出陣のノンフィクションを図書館から借りて読んでいたら、次のような文章がありました。(「学徒兵の青春」学徒出陣五〇年目の答案:奥村芳太郎編、角川書店)
『兵隊たちは、天皇陛下のために死ぬことを承知して入営するが、入隊する前の思想的基盤になっているのは「教育勅語」である。そのなかに「一旦緩急アレバ義勇公二奉ジ……」とあり、戦争の場合は、天皇のために自己を犠牲にして戦えと教えている。
「軍人勅諭」は明治一五年(一八八二)の発布で、「教育勅語」より八年ほど早い。「教育勅語」が「軍人勅諭」の影響を受けていたことは、その内容から考えても容易に納得できる。この二つが学校と軍隊に浸透して、自発的に戦う国民をつくりあげたことになる。この二つを無視して戦前、戦中の日本人を語れない。昭和一八年(一九四三)になると、現場軍隊の天皇直属意識がさらに高揚され、服従を第二の天性として盲従するように要求されたのである。
日本国軍は神格化された天皇を頂点として一大ピラミッドが形作られている。国法を超えるものといえば天皇の大権しかなく、「建軍の本義」は天皇を大元帥として直接に服従することである。統帥権の所在はしばしば「天皇陛下の命により……」という常套句によって強調され、上意下達を支えるのは厳正というより峻烈な軍紀である。軍学校出身の職業軍人たちは、いささかの疑いもなくこの言葉を使用した。
学徒兵は従順な一般兵隊と天皇親率にこり固まった士官学校、兵学校出の将校や、野蛮な下士官の間にあって、どちらに対しても距離を置いて見るという習性を持っていた。だから、わずかな軍隊生活のなかで、その大きな組織を、表からも裏からも見ることができた。
軍隊生活に順応する第一歩は、「軍人勅諭」を真っ正直に受け入れることである。一般の兵隊たちは、「上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」を守り、理不尽な上官の命令も天皇陛下の命令として服従する。自分で考えて行動し、自分に責任を持つ発想は許されないから、道徳的責任を負うこともないのである。無批判を習性とする部下は、上官にとっては便利な存在で、人格や人権があっては困るのである。それ故に良質な指揮官が望まれるのである。だが、戦闘中も安閑として後方で、将棋の駒のように、命令を乱発して、軍隊を動かしておれば済むと考えていた高級職業軍人たちは、学徒兵を含めた市民兵たちをどう見ていたのであろうか』

『撤退の際は「病兵は銃殺せよ」という私に対する上官からの命令を察知して「天皇陛下万歳」と遺書を残して自決した兵士がいました。その遺書には家族のことについて何一つ書いてありませんでした。彼は死ぬ最後の最後まで、本音をいわず建前だけの人生を送ったのです。私はこうした兵士たちに接するたびに「なぜ、なぜ、天皇のために死ななければならないのだ」と心の中で叫んでいました。
ルソン島のジャングルのなかで、食糧もなく援軍もなく、「天皇のため、国家のために戦え」と部下たちを叱咤していた最高司令官たちはいち早く内地に逃避し、残された司令官や参謀たちは、安全な奥地に食糧を確保し、自分のベッドまで運ばせ隠れていました。前線に送られた私たちは、毎日、熱帯病と飢えで多くの戦友を失い、友軍同士がわずかな食糧を巡って、撃ちあい殺しあい、明日はわが身と予感しながら、何のために戦っているのか、という疑問にとりつかれていました。
守るつもりの、そのために戦おうとする家族たちは遠い内地にあり、ジャングルのなかにいる私たちにはなすべき方法がありません。それでも、そのために戦わなければならない「国家」とは何か。国家の前には一人の生命など問題にならないということを、私は戦争体験を通じて知ることができました』


体験した者の言葉は重い。わたしは天皇制への嫌悪はありませんが、自衛権を認めない現在の憲法への改正の必要性を強く感じております。
「戦争ほど悲惨なものはない」そんなことを言う前に、その戦争で使われた常套句や戦争歌を、なぜまた使用するのか。弘教する自らの姿を、戦う兵士の姿へ同化させている。
わたしはもう学会歌を歌うことはないと思うので、無知だったことを恥じてはっきり言いますが、「威風堂々の歌」にひそむ戦争犯罪者を思わせる戦意高揚の欺瞞性を、わたしの身体のなかから永久に除外する。会員はあまりにも不感症過ぎます。

あゝ紅の血は燃ゆる


「紅の歌」があるのですから、歌詞を書き変えて「創価版・あゝ紅の血は燃ゆる」があってもおかしくありませんが、「戦陣訓の歌」と同じように、この歌によってどれほどの学徒兵が死地に赴いたか、気楽な会員は思いもよらないのではないでしょうか。
そのことを少しでも考え、過去を悔いたなら、軍歌血筋の学会歌を歌うことはできません。
著しく会員登録も減っているのに、創価は平和団体などと大きな顔して恥ずかしくないですか?


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太陽の仏法 4

人間って、ときには悪的要素が必要なのではないかと考えたりしますが、善良でばかりいることはあまり面白い人生ではないのじゃないかと、法律うんぬんとかの問題ではなくて、ワルのポテンシャルがときには現状打破のエネルギーになるかもしれないと、このうえなく純情なわたしは、時々考えるときもあるんですよ。もちろん悪を容認しているわけではありません。世のなか複雑すぎて、擦り切れるように気持ちも萎えていきます。持続性に課題ありですね。毎日は容赦なく続いていくわけですから、自己エンジンのメンテナンスも欠かさずに、向上への意欲をフォローアップしていきたい。
決まったエクササイズはしていませんが、柔軟体操とベッドでヨガ的集中姿勢の堅持で、気持ちを整理するのがデイリー・ルーティン。つまり、心身ともにリフレッシュして、次の戦いに備えようとの善き心掛け。ハッピーラインはまだまだ遠い!

異常な暑さが続き、日本列島全体が大きなフライパンのうえで熱せられているようです。死者も増えているこの殺人的暑さは、総罰のせいで、魔神が神社で暴れている結果なのでしょうか。この異常気象は世界的で、各地で被害をもたらしているようです。地球が灼熱地獄と化していますが、気象庁も警告を発するぐらいなら、創価に頼んで、神仏の加護を祈ってください。
また、総罰を主張することで、オカルトまがいの超自然の力を畏怖するイメージが思い起こされます。このようなスピリチュアルで霊的な神秘性は、理性的な論理を大切にする宗教が、もっとも嫌悪する現象です。創価の一部の人間の主張は、宗教の非科学性を強調しており残念でなりません。
会員の師である池田先生は、ずっと科学的であり、理性的ですが、弟子は不勉強のうえオカルト好きに加え、非人間的な断定を下して平気。仮面を被っているような冷酷さです。その冷酷さに追い打ちをかけるように、台風まで上陸してきました。もしかしたら、大御本尊に唾をかけた創価が、不吉な魔になっているのではないでしょうね。

産業革命以来、科学技術の発達と経済のグローバル化は、人類にその恩恵をもたらしました。その反面、温暖化という人類に壊滅的な結果が想定される気候変動の脅威も増加しました。
第43回(2018年1月26日)SGI提言で
『SDGsでは、貧困や飢餓や教育をはじめ17分野にわたる目標が掲げられていますが、この中で近年、国際協力の枠組みづくりが進んできたのは、気候変動の分野です。
昨年11月、地球温暖化を防止するためのパリ協定に、唯一の未参加国だったシリアが批准しました。脱退の意向を示しているアメリカの今後の動向が課題として残るものの、世界のすべての国が温室効果ガスの削減に共同して取り組む体制が整ったのです近年、異常気象が各地で相次いでいますが、その脅威と無縁であり続けることができる場所は、地球上のどこにもありません。
干ばつと洪水による被害や海面上昇の影響などで住み慣れた場所を追われる「気候変動難民」の数も増加しています。温暖化に歯止めがかからなければ、最悪の場合、2050年までに10億人が移住を強いられるとの予測もあります。  
パリ協定は、そうした深刻な脅威から多くの人々の生活と尊厳を守る命綱となるだけでなく、将来の世代のために持続可能な社会を築く土台となるものです。  
発効から4年以内(2020年11月まで)は、どの国も脱退できない仕組みとなっており、アメリカがこのままパリ協定の枠組みにとどまって、各国と共に目標の達成に向けて行動することが強く望まれます』

解決に向けて努力する、世界の科学技術者や政治家や人道的活動家などをあざ笑うかのような、魔神のせいだの、日天のせいだと考える会員が未だにいることが驚きです。師は各国の誠実な協調と問題意識の共有を訴えていますが、弟子は諸天が怒っているせいだと、まるで狂信者のようです。末法の因習深い終末思想は命深く染みついています。いったい創価の宗教教育はいかなるものなのでしょうか。賢明な会員を育てるために役立っているのでしょうか。


◇◇◇


太陽の仏法」という比喩は、池田先生がスピーチや文章によく用いる表現です。万人に平等に恩恵を贈る優れた妙法を顕し、日蓮の御名前にも通じてイメージしやすい言葉です。悩める人に希望を与え、信じることの崇高さで、社会全体の変革をも可能にする妙法は、公平でフェアな中道思想です。人間は平等であることで、本来具わっている生きる強さを発揮できるようです。ポジティヴな自分自身を発見し、また自分以外の不安や苦痛に対して、同苦する思いやりや慈悲心を、積極的に涵養する人間的大きさにも通じます。あらゆるものが「太陽」という万人が認める喜びに凝縮することでしょう。太陽の光は、万物を育むと同時に、自分の胸のなかにも輝いている命のきらめきです。また太陽は御本尊そのものであり、信仰の根本です。


平成3年12月15日
川崎文化音楽祭/広宣の舞台で戦う人は皆美しい
『血脈の本義について、少々述べておきたい。
日有上人は、「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其ノ筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、(中略)高祖已来の信心を違へざる時は我レ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此ノ信心が違ふ時は我レ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中八億四千の念あり、念々中の所作皆是レ三途の業因と」(「化儀抄」富要一巻)
(信といい、血脈といい、法水ということは、同じことなのである。信心が動かなければ、その筋目は違うことはないのである。筋目が違わなければ、血脈・法水は違わない(正しい)のである。(中略)大聖人以来の信心を違えない時は、われらの色心は妙法蓮華経の色心である。この信心が違う時は、われらの色心は凡夫の色心なのであり、凡夫であるゆえに、即身成仏の血脈ではないのである。一人が一日に八億四千の念々を起こす。その念々の所作が皆、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の原因となるのである)とお示しになっている。
つまり、「信心」と「血脈」と「法水」とは"同じこと"であると――。むずかしいことは何もない。信心が動揺することなく、「正しい信心」を貫くところに、血脈が誤りなく流れるのである。
大聖人以来の信心を少しも違えずに実践する時に、われわれの色心は、仏の血脈が流れる妙法の当体となって、その身そのままで成仏できる、と。反対に、大聖人の仰せに背き、信心が狂った場合には、すべての行為が三悪道に堕する悪業になるのである』
『さらに、この御文について、日亨上人の註解を参照しておきたい。
「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・撹乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし」(「有師化儀抄註解」富要一巻)
要するに「正しき信心」をつらぬきゆく時、御本仏日蓮大聖人から信徒の生命へと法水が流れ通う。それを信心の「血脈相承」というのである、と。(中略)
ご指南は明快である。大聖人、日興上人以来の信心・実践を少しも踏みあやまたない時に、われら凡夫の色心が妙法の当体となるのである。
反対に、仏意に背いて邪信、迷信となった場合には、血脈の流れる通路がふさがってしまうため、血脈を継ぐ「資格」が「消滅」して、堕地獄の道をたどることになる。破仏法の人間は、だれであれ、事実のうえで、即身成仏の血脈を受ける資格を喪失しているのである。
仏法の根本は、どこまでも「信」である。地位でも、権威でもない。「信心」の二字にこそ、御本仏からの血脈は通い、生き生きと脈打つのである。
もしも信心を失い、信心が狂った場合には、立場が高いほど、むしろ厳しく「法」によって裁かれることは間違いない。「信心の血脈が切れる」などと脅しているほうが、じつは血脈が切れているのである。絶対にだまされてはならない。
創価学会の「信心」は何ひとつ変わっていない。動いていない。変わったのは宗門のほうである。大聖人以来の成仏の血脈は、私どもに脈々と流れていることをいよいよ確信し、悪僧たちを見おろしながら、朗らかに、堂々と、前進してまいりたい』


日亨上人は別の文章で、「薄信」「臆病」の信心で法難を招かないような門下は、「非日蓮的」であり、大聖人の御本意から遠い卑怯者であり、門下でもない、と厳しく断言されている。正本堂、大客殿をはじめ信徒の真心をことごとく裏切った宗門は、日蓮の正統を名のっていても、大聖人の門下ではありません。
上記の長い引用は、血脈について、あるいは法水について、当然と考えていることを当然のように、スピーチされたものです。信仰であるかぎり、僧であれ在家であれ、信に重きを置き、信が中心にあるのは、誰が考えても当たり前のこと。その信の流れに堰を作り、石をならべて障害を作り、素直で直情的、ありのままの信を遮断するように、人為的にせき止めているのは、僧がもったいぶった儀式中心の形式主義者であるからです。いかにも苦労しているポーズを装い、何も言わない御本尊すら騙そうとしている。
日蓮が信徒に寄せるかぎりない優しさと、激しい革命精神を持った僧は、宗門のシステムのなかでは育たないでしょう。師が秀れていれば弟子も秀れているとはかぎらない。師が凡庸であれば弟子は凡庸であること、ほとんど不可避です。絶えざる向上の源泉として御本尊と信仰を保つこと、少しでも日蓮の御心境を考え、そこから学ぼうするなら、教義に対しいい加減な姿勢では、正しい信仰者とは言えないでしょう。
池田先生は、「創価の信心は何ひとつ変わっていない」とスピーチされています。大御本尊に対し、御本仏に対し、動揺することなく、変化することなく、信仰に対する態度は、今までどおりにこれからも、変わらないと言っているのですよ。このようなメッセージを、過去のものとする会員の便利な言い訳は、教義について、ほとんど何も考えていない証拠でもありますが、池田先生も自分の言動に責任を持たないいい加減さの証拠でもあります。真面目な会員を偽っている。
「動いていない、変わったのは宗門のほうである」池田先生のご指導を無にする弟子が、動揺したあとで、師弟不二を主張するのですから、もはや何をか言わんやです。自分の矛盾する過去の言動を恥ずかしく思わない厚かましさに、創価の根本的な問題があります。はたして血脈が流れているのか、大いに疑問ですが、大御本尊への信受を否定したところから、創価の迷走は始まりました。道理に適わない信仰は、瞬く間に不幸とともに邪宗に転落します。そのように三代の永遠の指導者が、永遠に変わらないと確信を込めながら、ご指導されてきたのではありませんか。
血脈について、これ以上のことは言うべきことを知りません。血脈とは、正しい御本尊への強情な信仰ということなのです。それ以外に血脈はありませんが、御本尊とは、一閻浮提総与の大御本尊より他にありません。


平成3年12月23日
荒川・立川文化音楽祭/広宣の聖火を偉大な庶民の都から
寺院での御授戒の経緯について詳細を述べたあと
『戸田先生は昭和二十九年(1954年)七月の本部幹部会で、その実態の一端を述べておられる。
「地方に、一軒の正宗の寺があった。学会の地方折伏の趣旨を話したが、『勝手にやりなさい』となんら助けてくれない。しかたがないので、(聖教)新聞とチラシをもって、一軒一軒まわった」と。
ほとんどの僧侶は、学会の折伏・弘教の活動に対して無理解であり、むしろ批判的でさえあった。その後、学会による折伏・弘教の進展とともに、全国の寺院でも御授戒が行われるようになっていった。
同じ牧口門下生の柏原参議会副議長は「なかには、やり方をよく知らない僧侶もいて、学会の幹部が教えてあげたこともある」と述べている。
また、"謗法払い"も、学会が厳格に実践し、定着させた。総本山内の謗法払いまで、学会の力でやったのである。
「宗門がどんなに威張っても、全部、学会が教えてやったんじゃないか」と、牧口門下生は皆、語っていた。
これが、正宗で「御授戒」が行われるようになった経緯である。信仰の"けじめ"の意義で御授戒の儀式は行われていたのである。本来、その形式自体が絶対に必要というものではなかった。
大聖人の仏法の「受持即持戒」という本義からいうならば、御本尊を受持した時、または、最初に御本尊への信を起こした発心の時が、末法の戒を受けた時といえるのではないだろうか。
さらにいえば、本来、戒とは"授けられる"ものというよりも、自身の決意で主体的に"持(たも)つ"ことに眼目がある。発心を持続することが、戒を持つことになるのである』

宗門のだらしなさは、僧の傲慢に起因しています。信への傲慢さであり、行の傲慢さであり、学への傲慢さです。修行者としての必要な堅実さを放棄し、始めから終わりまでのトータル的な過程での傲慢さです。信徒の健気さをバカにし、あってはならない信仰の慣れから安易に結果を予想して、妙法の功徳を矮小化し卑下するものです。キャラクターに不釣り合いな権威や権力を手にすると、なにを勘違いするのか、尊大さだけが身に付くようです。僧は不必要であるけれど、出家としての純粋さを維持できるなら、求道者として尊敬を集めるなら、広布のリーダーとして認められるでしょう。
まず、在家の供養を当てにしないで自給自足を心掛けるべきです。シンプルで、ストイックな生活にこそ、求道者の真実があります。信仰態度は生活態度に反映されます。出家者の真剣さに、在家は心打たれることでしょう。
御授戒の由来を語っておりますが、化儀として定まったものがなかったのかもしれません。あったとしても一般的でなかったために、僧自身も知らなかったということでしょうか。
宗門は勤行ひとつとっても、五座三座を主張しますが、時代にそぐわないことは明白です。そもそも勤行は儀式形式の最たるものです。個人的な意見ですが、勤行は個人の裁量に任すべきです。主要な勤めは唱題です。より簡易な修行方法にこそ妙法の醍醐味があり、大乗の精神があるでしょう。
化儀は妙法の本質ですが、十分な理由のもとで変化することもあるでしょう。日有上人は、化儀抄で御指南されておりますが、偏狭に解釈すべきではありません。
『貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか』
差別なく同等であるとご指南されておりますが、「上下の節」「其の位」「礼儀」とも言われております。僧俗の組織上における互いの役割としての「上下」であり、その理解と尊敬は、御本尊崇敬への気持ちから発揮されます。一般的、社会的「上下」であり、宗門にのみ通用するような「上下」ではありません。人間としての礼節としての「上下」です。法は常識外にあるのではありません。法が尊貴であるがゆえに、その法の実行者への賛美と尊重であり、「人の振る舞い」の表れです。広布はそれぞれがその役割を果たすことが必要であり、労苦への菩薩としての礼節です。御本仏が願い望んだ理想の組織は、平等な理念と尊敬が溢れている組織です。
「礼」は仏法の真髄にも通じています。他者の存在に礼を持って敬意を払うこと。異なる他者、文化を尊重することは、平和的共存の基本です。日蓮は、立正安国とともに、社会の安寧を求めました。その社会の基本原則は他者への懐疑ではなく、他者を尊重することへの信頼です。
妙法が世界宗教へと飛躍するためには不平等思想は禁忌のなかに禁忌です。そのような社会習慣と差別意識を克服するための妙法ですが、宗門の古臭さは、伝統を重んじるあまり、法の柔軟性を放棄、順応性もありません。宗門の僧が、イスラム圏やキリスト教地域で、弘教する姿を想像できません。日蓮は日本から世界へと流布する世界宗教を望んだのであり、各分野で活躍する在家の実行力が問われる時代であることを、宗門の石頭も知るべきです。僧の無力さは自覚なき無力さです。無惨としか言いようがありません。早い話、大御本尊と三大秘法が不変ならば、他は臨機応変に変化しても一向にかまいません。円教(法華経)の大いなる肯定主義は、妙法的ヒューマニズムということ。他者の理念と信条への尊厳と肯定こそ、世界平和へのキーワードです。

『大御本尊は「一閻浮提総与」であられる。全民衆の幸福のための御本尊であられる。その大御本尊が書写された、会館や皆さまのご家庭の御本尊も、御本尊としての御力に、何の違いもない。
また、仮に御本尊を拝せない場合も、強盛な信心の唱題は、大御本尊に必ず通じていく。妙法は全宇宙に遍き大法なのである』

妙法の信仰者としてこれ以上の何を付け加えることがありましょうか。このために受持したのであり、無二の信心を貫くことを誓ったのです。わたしはその信念を変えることはありません。創価の、池田先生の身勝手さに左右されることはありません。


平成3年12月26日
沼津文化会館を初訪問/学会の「宗教革命」の正しさ確信
『正本堂が完成する前、本門戒壇の大御本尊が御安置されていたのは奉安殿である。これは、学会によって建立寄進された最初の建造物であった。
昭和三十年(1955年)十一月二十三日、奉安殿落慶の折、戸田先生は、挨拶のなかで、こう語られている。
「学会は、日蓮大聖人の時代に還れ、大聖人の弟子檀那に還れというのが、私の主張であり、信念であります」(「戸田城聖全集」第四巻)と。
学会は「日蓮大聖人の弟子」である――これが大御本尊の御前での、戸田先生の宣言である。
奉安殿ができる以前、大御本尊の御開扉は御宝蔵で行われ、お目通りできる人数も限られていた。奉安殿への大御本尊のお出まし――それは、学会の前進とともに大聖人の仏法が、いよいよ広宣流布へと向かう一大転機であったといえよう。
日昇上人は、奉安殿の落慶にさいして、次のようにお述べである。
「今亦ここに戒旦本尊奉安殿を建立寄進し以て本宗究竟の帰趨たる本門戒旦本尊をして永久に安穏ならしむ其の功大なる」(戸田先生への賞状)と。
すなわち日昇上人は、学会によって、本門戒壇の大御本尊が、永久に安穏となられゆくことを心から喜ばれた。そして、仏法上「その功は大きい」と、心からたたえられたのである。
また、日淳上人(当時、重役)も、奉安殿を御覧になり、「戒壇の大御本尊が御宝蔵から宝輦(宝で飾られた輿)にお乗りになってお出ましになった」と喜ばれた。
さらに、日達上人(当時、庶務部長)は、落慶式の閉会の辞の中で、奉安殿建設に協力した寄付者名簿(百数十冊に及ぶ)を指されながら、「これ(名簿)は(大御本尊御安置の)須彌台に向って正面の右側が庫になってをりますから、この中に秘蔵致し、この奉安殿と共に永久に保管されます」と、学会員一人一人の真心に応えて述べられた。
私どもの真心の「真実」は消えない。広布の歴史に永遠である。その福徳も永遠にちがいない』

貧しかった多くの会員の真心……自分の家より大御本尊のお住まいを……が、結局どうなったのか。永久に保管されると約束しても、僧の憎しみの対象になり、破壊されたのではないでしょうか。創価も一貫性に問題がありますが、宗門はそれ以上に本末究竟等していない。日蓮の継承者とはとても思えません。仏教という井戸のなかで生息してきた蛙の一種で、仏法即世法と説きながら世間知らずという奇怪な有様です。

『大御本尊は「一閻浮提総与」の御本尊であられる。全世界の民衆のために与えられた御本尊であられる。
ゆえに「全世界への道」を開きに開いていくことが、大御本尊を真に奉じゆく実践となる。現実に「道」が開かれてこそ、大御本尊と世界の民衆が結ばれる。日蓮大聖人の「一閻浮提総与」との御心を実現しゆくことになる。
この「世界への道」を開いたのは創価学会である。
「道を開く」と、ひと口に言っても、なみたいていの苦労ではない。歴史的に仏教と無縁の国もあれば、敵視している地域もある。文字通り、命がけで開いてきたのである』

情けないほど臆病な僧が、敵視している国々に、これから弘教していくのでしょうか。700年の間、日本から出ることがなかった御本尊も、創価の名もなき人々の篤実な行動と使命によって、少しでも開かれてきましたが、宗門は、創価を破門してから27年、敵視している地域に、その一歩となる牙城を築くことができたのでしょうか。御本仏もなぜ、後世をこのような憐れな人々に託さなければならないのか、その御真意が計りしれません。
上記のスピーチは、ブーメランのように、全部自分に返ってきます。信徒を大御本尊から引き離した宗門も、その罪から逃れることはできません。正しくても栄えることはありません。民衆仏法であることを忘れています。池田先生も、創価の皆さまも、日蓮大聖人の時代に還れと叫ばれた、戸田先生の御精神を思い出すべきです。大御本尊を離れて信仰の本道はないでしょう。


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太陽の仏法 3

創価学会には昔々、「折伏教典」というカルト的テキストがありました。今はもちろん絶版になっておりますが、グリーンの布を被せた表装の希少な書物は、草創期の会員の方々は必ずお世話になっており、使いやすさを主眼にしたハンドブックです。入会したら購入しなければならない必読書。
このテキストは何度も版を重ね出版されました。創価の歴史的教科書というべきものですが、おそらく初級の宗教哲学の内容を含むものとしては希有とまではいかなくても、大衆受けする低俗雑誌級の人気があったと思う。例えば、各論の対話を重視した問答想定は、独善的な強引さを感じさせるものの、一応の理屈で統一されており、十分に活用可能な内容です。宗教的知識に乏しい会員には新鮮だったかもしれません。このような内容で人生を突然に変えていったのですから、信仰とは基本的に、無条件心酔なのですね。またこのような盲信をただ見ていただけの宗門も、はじめから問題意識もなく、低レベルな信仰指導だったと解釈してもよいのかもしれません。教典は任用試験の範囲だったとお聞きしましたが、わたしが見た昭和40年出版の第4版は、池田先生監修で、価値論はすでに本論の最後に置かれ、価値論で強調された反価値としての罰論も、肩身の狭い扱い。わたしの感覚からすると、罰とは信仰者をいじめて人格を冒涜するもの。同じ大衆を相手でも、面白半分のエンターテインメントじゃあるまいし、誰が罰ゲームに加わりたいと思うのでしょうか。

最近、西日本豪雨を時代錯誤もかまわずに、総罰と表現したブログがありました。以前も読んだことがあるブログでしたが、平均的会員像を知っても参考になるようなものはほとんどありません。総罰という名の妖怪が、鎌倉時代の、災害に対する無防備な社会から非科学的な認識として蘇ったのかと思いました。科学技術の発達で、自然災害に対する見識が変わっていくのは当然のこと。日蓮遺文も、その解釈指標や判断尺度が変化するのも当たり前のことです。
宗教的行為の最良の認識、ポジティヴな現状肯定こそ宗教の命と考えるのですが、ネガティヴに、しかもパッシヴに、独立的な自我の確立からはるかに遠い災害に対する信仰者の認識は、不幸の予備的温床です。罰論は議論の対象外にしなければならないでしょう。原始的、根本的な人間的行為・信じることによって被る不利益は、信じないことによって被る不利益よりも大きいというのでしょうか。信仰は教義の正邪の証明問題ですが、亡くなられた多くの方々の伴侶や親や子どもに、罰の結果と納得できる証明をできるのでしょうか。750年以上経って、数えきれない災害がありましたが、その一つでも証明できたのでしょうか。
罰論は日蓮仏法の悪しき側面ですが、牧口先生の価値論では、反価値としてさらに強調されるようになりました。わたしはそれが特に悪いと言っているわけではありません。戦争前の暗い時代を考えると、牧口先生が置かれた立場は、とても限られた不自由なものだったでしょう。負荷で息づまるような時代に、罰論で宗教心が刺激されるなら、切羽詰まった社会のなかで有効だったかもしれません。
逆に、罰論の反対価値としての現世利益が大きな比重を占めていたことがわかります。その現世利益が池田先生の「仏法は勝負」論に必然的に進化しました。損得勘定は商売人でなくても敏感ですが、アドレナリンが沸騰するような、聖的な感情を含む宗教まで昇華する創価の教義は、会員を夢中にさせる魅力がありました。
そもそも日蓮の教義が現世的です。現証を何より尊び、過去や未来でなく、現在に妙法の実証を求めました。煩悩即菩提、即身成仏はその典型です。因果は時間的に離れているのが普通ですが、即論は現世的利益を早急に求める信者の願望を理論的に叶えております。一念三千の当然の帰結です。

折伏教典では、キリスト教を破折する章で、また各論でも、長崎へ原爆が投下されたことをキリスト教を根拠にする説を展開しております。キリスト教繁栄地が犠牲になったという客観的資料があるのでしょうか。地獄のような戦闘が行われ、多くの人が犠牲になった沖縄は、どのような宗教的理由があるのでしょうか。無差別爆撃により一面焦土と化して、10万人の死者という大量虐殺が行われた東京大空襲は、いったいどのような宗教が原因なのでしょうか。
アメリカは、敬虔なキリスト教のピューリタンが建国し、信教の自由を求めた国民。キリスト教信仰者がキリスト教信者を犠牲に選ぶというのは、特別な理由があったのでしょうか。
またドイツはプロテスタントの発祥地、イタリアはバチカンがあるカトリックの中心地。キリスト教を代表する国が、欧米のキリスト教国と戦争をして、多くの戦死者とともに国土が焼け野原になったのも、キリスト教が原因なのでしょうか。創価がまだ誕生していなかった明治時代、日露戦争で勝利したのは、天照大神が神社の神札にまだ生き残っていたからですか。
第二次世界大戦は宗教に関係ありません。戦争の結末も、宗教の教義や因果関係になんら関係ありません。キリスト教を外道と蔑む仏教徒の習慣が反映しています。他者の尊厳を訴える普遍的な妙法にふさわしくないですね。他者が信奉する信仰も尊厳の対象なのです。わたしは、独善的な教条主義をカルトと定義しますが、創価の狂信は会員に浸透しているようです。

また折伏教典では、日本が太平洋戦争に敗北したのは、法華経を用いなかったことを理由しております。法華経を用いれば勝利したと言わんばかりですが、その論旨は戸田先生の考えを元にしたものと思います。戸田先生の戦争に対しての思想は、妙法的絶対平和主義とはほど遠いものと思いますが、その考えの一端が折伏教典にも垣間見れます。初版ならどんな表現だったのか興味があります。
「原水爆禁止宣言」も核実験に危機感を持った、時勢の影響のもとでの宣言です。永久的な宣言であるなら、広島・長崎の惨状を知ったときに、たとえ弱小教団であったとしても、宗門の700年の歴史のうえに設立された創価ですので、日蓮の非暴力主義を訴えるべきでしょう。長崎への原爆投下がキリスト教が原因であるという前に、原爆そのものを否定すべきです。このような科学的確定もできない、宗教的な原因を指摘するところに、純粋な戦争反対の思想の欠如があります。

折伏教典の日本神道の記述で
『日本の神は氏神が中心である。氏神は氏(部族)の上(長)であって、一族を守るものであり、天照大神は民族全体の長であり、日本全土を守るものである。そのことは、天照大神のみことのりたる神勅に明らかに示されている。
ところが、今度の戦争で、日本は全国民あげて天照大神を奉じ、西欧哲学を奉ずるアメリカと戦った。その結果は、無残な敗戦だった。天照大神は、日本の氏神の大将なのに、どうして日本を守らなかったのであろうか。
ひと口に結論を言うと、天照大神は日本にいなかったのである』

天照大神がいれば戦争に勝利できたと解釈できるニュアンスを含んでいる。
『すなわち、天照大神は法華の守護神であり、謗法の国には住まないのである。いま、天照大神はじめ諸天善神は、みな法味を味わわないので日本を去りたもうたのである。したがって、神社や神札には神はおいでにならないで、かえって人を不幸にする悪鬼魔神が住むのである。だからこそ、日本は未曽有の大敗戦を経験しなければならなかったのである』
天照大神も諸天善神も、かつて見た人がいないのに、立派に擬人化されている。神社に住む先住民のような趣きを呈し、本来であれば働きとしての作用と機能であるはずなのに、神社の住民のような人格性を感じさせる。この神は日本を覆い尽くすほどの巨人かと思えば、神札におさまるほどの文字付き紙の一片でしかない。そして750年前も、50年前も、現在も、謗法への見解が変化していないこと、とても驚異的です。日本が謗法の国なら、日本以外の、外道の国と弾劾する諸外国は、さらに謗法の国になるのでしょうか。こういう考えが、会則変更の際の「謗法の地」という表現……純粋を求めながら不寛容という大乗思想とは正反対の結論に至るわけですね。極論にはついていけません。
戦争勝利の第一の要件は、国力と戦備です。さらにリーダーの資質です。そんなこと、平和的女子であるわたしにだって分かるというのに、神や魔神のせいにするなんて、なんて無器量無才気なのでしょうか。宗教家は決して将軍にはなれません。
折伏教典は、創価にとって消し去りたい過去の一つかもしれません。人権意識が乏しかった時代とはいえ、人権団体を標榜する創価が、尊厳を感じさせない教典を持つことに恥ずかしさがあるでしょう。しかも三代の会長が執筆したと思われるテキストを用いているのですから、否定したくても否定できません。はたして、創価大学図書館に所蔵されているかしら。

コメント欄も閉じ、対話を拒否していると思われるブログの総罰の主張は、政治や特に安倍首相を悪の元凶のように述べておりますが、それにしては論証が雑過ぎて稚拙。龍王だなんて、コミック世界のキャラクターでしょうか。標準的な創価の会員のお粗末なイメージが浮かびます。その与党の一角が、自分が強く支持している公明党であることを忘れているかのようです。総罰というのなら、その責任は自分にもあるということです。そこまで原因を洞察する予知能力のようなものがあるのなら、災害を事前に防御できなかったのでしょうか。妙法に関係すると、不幸の原因にもなるというのでしょうか。不吉な結果を招く反妙法ですね。民主主義国家にあって国の主権者は国民全体です。まるで封建時代に遡ったかのような安易な断定は、創価の宗教教育の貧しさを表わしています。

ドイツ軍も神に祈り、イタリア軍も神に祈り、イギリスやフランスも同じ神に戦勝と守護を祈りました。同じキリスト教同士で、なぜ憎み合い殺し合うのか。不思議な思いもしますが、「社会と宗教」のなかで池田先生が同じ質問をしております。創価も平和を祈り、会員は誰も信じませんが(このような否定的、抗戦的な宗教教育はとても行き届いている)、宗門も平和を祈っているのです。平和を祈っているもの同士が平和的になれないというのは、おかしな話ですね。
ssty-01.jpg『宗教界の分裂には激しさが付き物であるといわれますが、同じ宗派からの分裂時や、セクトの誕生時には、その相手を打倒するために特に激しい抗争が行われます。セクトが分かれるときは、異常なまでの憎悪を生じ、その対立の激しさは、異教徒の場合以上であることが多いようです。これはなぜなのか――よく近親憎悪という言葉が使われますが、なぜそうした激しい憎悪が生じるのでしょうか』
(第四部 歴史からの展望「セクト間の分裂と憎悪」)
ウイルソン教授は、体験したように詳細に語りますが、創価と宗門、会員とアンチの間の互いの憎しみ合い、罵りあいにも通じます。
『宗教上の分裂は、実際、通例として激しい敵意がその特徴をなしています。ご指摘のように、同一宗派の分裂によって生じた憎しみは、たがいになんら共通姓をもたない二つのまったく異なる宗教同士が感ずるよりも、強烈なものがあります。しかもこれは、対立反目する分派同士が、一、二の特定の項目を除いて、ほとんどすべての点で表面上は合意できたという場合でも、いえることです。そうした特定の相違点は、往々にして極端に些細な事柄に関するものなのです。(中略)
そうした憎悪が明らかに激しいものとなるのは、分裂が生じたときの当事者たちが、たがいに相手方を自分たちが判断を下す際の重要なレファレンス・グループ(準拠集団)とみなしているためです。(中略)
これに付け加えなければならないのは、人間の強い前向きの感情は、後ろ向きの感情に変質しやすいという、より一般的な事実です。愛情・温情・友情といった感情は、たんに中立的な感情に変質するよりも、むしろ敵意・憎悪・嫌悪感情へと変質しやすいものです。ある人々に対する自分の感情が中立の域を出ないという場合には、愛や憎悪は、さほど容易には掻き立てられないものです。ところが、愛情の対象であった人々に対しては、突然に背かれると、ただちに正反対の強い感情が生じます。
一つのセクト内の緊張が、当事者すべての強い関心を集めるようになると、その最終的な帰結として、必ず強度の感情が掻き立てられます。分裂が全面的に回避された場合には、蘇った強い感情が、そして、分裂が生じた場合には、強烈な敵愾心が生じるのです』

近親憎悪は愛情が深いがゆえに激しい。キリスト教やイスラム教は、仏教からすれば別世界のこと。分裂しようと争いを繰り返そうと、むしろ中立的立場で評価できるという冷静さがありますが、同じ宗派の分裂となると何から何まで憎しみがつのります。創価新報では、未だに、宗門の週刊誌なみのゴシップ記事が掲載されています。会員が検証したくてもできない記事ですが、近親憎悪の怨念がやがて会員に乗り移り、創価自身を滅ぼす呪いになるでしょう。
戦争の大義と同じ、正義というの名のもとで行われる日顕宗学は、もう分離したらどうなのでしょうか。かつて、反逆者を拝み殺すとして仏壇にご祈念を掲げた見苦しい執念は、憎悪の心に妙法が同調している証拠です。これこそ自分で自分に強制する、自傷のような罰です。自他ともに、生命を傷つける菩薩は、似て非なる菩薩です。


◇◇◇


平成3年12月8日
第四十九回本部幹部会/創価の栄光城は妙法と共に永遠
『(正本堂完工式の席上)私は大御本尊に御報告申し上げる心で、内外に向けて、次のように宣言した。
「まず、この正本堂は八百余万人の人達が心からこれをつくりたい、という念願に燃えて出来上がったものであり、端的にいって、宗教的権威を象徴する殿堂ではなく、民衆のための施設であるという点でございます」
"宗教的権威"の殿堂にしてはならない――今日を見すえて明言したつもりである。
(中略)
「古今東西を問わず、ふつう参拝者は聖職者から祈願を受けて帰るのでありますが、ここ正本堂は、民衆が猊下とともに祈願して帰るのであります。真に民衆のための施設であることは、この一点をもっても、ご理解いただけるのではないかと存じます。
この点において、正本堂は開放された未来の世界宗教にふさわしい殿堂である、と私は信じるのであります。聖職者から祈念を受けて帰るべきであるとするならば、それより私は、無教会主義のほうがより進歩的であり、かつ正しいと考えるものであります。また宗教そのものは建物や形相的荘厳とは違うものであり、したがって、民衆が仏と一体関係下において、能動者として祈願するものでなければ、殿堂は不要である。無殿堂主義のほうが、私はさらに進歩、そしてまた、より正しいと考えるのであります」と。
"聖職者中心"なら"無教会""聖職者なし"のほうがましであると――学会の正義の主張は、まったく変わっていない。予言的だとさえ言う人もいる』


正本堂は宗門が宗教的権威で破壊した。
在家・信徒の真心もいっしょに破棄した。
広布への深い献身も見棄てた。
広布の兆しが見えたとき、最悪の僧が法主の地位に着いたことは、不幸としか表現できないでしょう。法主の地位は個人的なものでなく、歴史的蓄積のインフルエンスの象徴。法主に権威があるなんて、なんという錯覚でしょうか。御本仏の御一生は、権力に抵抗し、権威否定のための人生だったのに、凡庸さだけの法主は、無能力であるがゆえに自らを飾って権威と化し、権威と戦うことなど思いもよらない。権威は真の宗教から最も縁遠いものです。

『もとより、大聖人の仏法に、聖職者と信徒の差別などない。あらゆる人々が、皆、大御本尊のもとに平等である。もしも、現在の宗門のように民衆の殿堂を私物化し、"差別の殿堂"にしてしまうのならば、それは大聖人の御心に背くことになる。ゆえに私は、この時、正本堂の意義を明快に語っておいた。
どこまでも「人間のための宗教」である。そして「民衆のための殿堂」である』
『「一閻浮提広宣流布」に進んでいるのは学会である。ゆえに、学会の「信心」こそが「一閻浮提総与の大御本尊」に深く通じ、大功徳を頂戴してきた。その「信心」あるかぎり、だれ人も大御本尊と私どもの間を"切る"ことなど、できるはずがない。
電波は宇宙を駆ける。月とも交信できる現代である。いわんや信心の「一念」は「法界に遍し」で全宇宙に通じていく。正本堂は、すぐそこにある。
ともあれ、ある人が言っていた。大御本尊の光が世界に広がることを妨げる者は、大聖人を破門する者ではないか、と。その報いは必然であろう』
『わが創価学会、SGIの同志の皆さまこそ、永遠に大御本尊をお守りしゆく「使命の仏使」であられる。その皆さまに、大御本尊の加護は絶対と確信していただきたい。信心とは、道理のうえに立った「確信」であり、その確信が一生成仏の因となる』


信濃町の大病院の前の創価村に宗教を商売にする職員の方々は、聖職者とは言わないのでしょうか。創価の会則を決定する人々は、聖職者と呼ばないのでしょうか。勤行のご祈念で、全活動家から永遠の仏のように祈られる池田先生は、聖職者ではないのでしょうか。聖職者であれば、人間性が豊かな模範となる人格者でなければならないでしょう。
リクルートの際、どのように分類されるのか分かりませんが、僧とはつまり専門職。僧も在家も平等なのだから、宗教専門職はすべて聖職者と考えても無理はありません。宗門のように「聖職者なし、殿堂なし」と言われないように、気をつけましょうね。

創価の信心が大御本尊に深く通じていき、大御本尊と会員の間を誰人も切ることはできないと御指導されています。また、大御本尊への一念は電波のように通じていくとも言われております。全世界を照らす大御本尊の光を妨げる者は、大聖人を破門する者であると、先生は宣言されていますが、大聖人から破門された者は、創価の方だったのではないでしょうか。宗門の聖職者から信濃町の聖職者に交代して、根本の御本尊まで変化し更新されるとは、言ってることとやってることが違い過ぎませんか。一貫性も整合性もなく、肯定したことを否定し、饒舌なスピーチが突然無口になり、正しいことだとあれほど言い切ってきたことを都合が悪いからと言って知らん振りしている。謗法の地も一閻浮提のなかの一角であり、法界のなかの一隅です。
道理のうえに立った確信が信心であると御指導されておりますが、「道理のうえに立った確信」とは大御本尊のことではないでしょうか。一生成仏の因はどこかに行ってしまったのでしょうか。

なお、宗教組織の発展過程を、分かりやすく解説したウイルソン教授の「社会と宗教」での回答がありますが、長くなりますので【+ Read More(追記)】に引用しておきます。読みたい方は読んでください。飛ばし読みしたい方は飛ばし読みをしてください。


平成3年12月14日
第二十回婦人部幹部会/ついに来た! 創価の友の「自由」は満開
江戸川・葛飾・足立文化音楽祭を開催した。そのスピーチのなかでブラジルの人権活動家・アタイデ氏を紹介している。
『アタイデ氏は、"宗教の権威"を、人間の敵として、厳しく弾劾しておられる。
「聖職者という宗教的権力者は、宗教のドグマ性(たとえ事実に反しても教義を押し通すこと)によって、人間を精神的に逮捕したい、また奴隷にしたいと考えている。そしてドグマの道から離れようとすると"異端"だと決めつける」
今でいえば、誤りを指摘する人に対し、"謗法だ"とか、"地獄に落ちるぞ""破門だぞ"などと脅迫することであろうか。
「ドグマに従うことは人生の視野を狭くするだけである。独善や権威は、無限であるはずの、人間の知性に、有限の黒い壁をつくってしまう。要するに、人間の創造的知性を全部、打ち砕いてしまうのである。
それはなぜか。「宗教的権威の盲従」は、人間の堕落であり、惰性であり、怠け根性である。狂信的に従うことは、自分の意見を失い、ついには人間でなくなってしまうことだからだ」(中略)
またアタイデ氏は、「破門」について、次のように語っておられる。
「宗教のドグマに反対したために追放されたとしても、なんら恐れることはない。
私は「破門」という言葉ほど嫌いなものはない。破門と聞くと、怒りが込み上げてくる。破門は一つの価値も生むことはない。
もし、神の名を利用して"地獄に堕ちる"と言うなら、その宗教は、もはや正しい宗教ではない。神に人を救う力があるなら、神は人を助けるはずだ。決して地獄に堕としたりはしない。仏に慈悲があるなら、人を救うはずではないか。
仏の名を借り、私物化するものがいるとすれば、それはもはや正しい宗教ではなくなってしまった証拠ではないか」と』

人権を抑圧する権威と、生涯戦ってきたのがアタイデ氏です。「世界人権宣言」は普遍的な権利の宣言でもありますが、このような無辜の人々の強い意志によって、人間の尊厳が守られていくことを、あらためて思います。聖職者は謙虚でなければならない。同時に奉仕者でなければならない。人権の擁護者でなければならない。最近、創価の周辺でも、除名や査問といった言葉が聞かれるようになりました。それは「破門」と同じ過程を踏んでいるのではないでしょうか。宗門に代わって、創価が弾圧組織にならないことを祈るばかりですが、なにより会員の皆さまが賢明になる必要があるでしょう。組織はいつまでもどこまでも清浄と考えないことです。組織は人間が運営するものであるかぎり、必ず腐敗する。
翌日の12月15日、川崎文化音楽祭でも、アタイデ氏の言葉を紹介しておりますが、切りがないので省略します。過去のスピーチを読み返してください。いろいろな発見があるでしょう。わたしは全集から引用しておりますが、収録されているスピーチ自体、多くの推敲と編集が行われているものと思います。会合の内容は、テープやビデオで録音録画されたものから一言一句書き起こしたと思われますが、そのまま文章に書き下ろすと都合の悪い場面が必ずあるはずで、書き直しされているところもあるでしょう。
この池田大作全集は、牧口、戸田先生の全集と同じく将来、絶版になる可能性が大きい。再版されたとしても大幅に書き直しされるでしょう。「小説・人間革命」と同じ運命です。書き換えは、初期の広布の歩みを書き換えることでもありますので、自らの出自を隠蔽することでもありますから、歴史改竄と同じです。特に問題なのは、「大御本尊」に関係する記述であり、大御本尊を連想させる文章の必要最小限を残し、削除ならびに書き換えが行われることは明白です。つまり、「大御本尊」から「大」を取ればいいわけで、隠蔽や秘匿、修正の修正、改正の正当化は消極的抑圧と同じです。会員の皆さまはそんなことはどうでもよいでしょう。功徳さえいただければ、御本尊の相貌や血脈も大して問題でないのですから、現世利益を求める実証偏重の害毒は、命に深く浸透しているのではないでしょうか。収益性が高くなるように、利益率の改善に常に心掛けることが、組織から推奨される会員のスタンスです。スポーツのメダル報奨金、対価としての手当がコスパのバランスがとれているのかどうか。こういうふうに表現すると、宗教は営業次第ということになりますが、信仰者の現世利益は営業利益のように見えてくるから不思議。アタイデ氏が独善や権威を非難し、創価を支持するほど、組織も会員も、明瞭な宗教心を受持し持続しているわけではありません。



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太陽の仏法 2

7月10日の朝、御本尊に悲しみと哀悼の祈りを捧げました。
犠牲者や被災者のなかに、真面目に信仰に励む会員もおられたことでしょう。
その人のために祈ります。その人の家族や親族、友人のために祈ります。

西日本を中心にした7月豪雨は、近年にない未曾有の災害になりました。
近畿、中国、四国、九州の広範な地域に特別警報が発せられ、重大災害警告の危険な状況のなかで、8日、福岡で本部幹部会が開かれたことが、10日の聖教に報道されておりました。勤行を終えてから、聖教を見て、その鈍感さにビックリしましたが、これはいつものことと思い直しました。
「妙とは蘇生の義」と冒頭に掲げていますが、グロテスクなジョークでしょうか。「先駆のスクラム」って、泥にまみれた無残な街で、どうやって走るのだろうか。そういう街は対象にしていないのでしょうか。師弟ともに非常識ですね。

自然災害と死について
会員は、その純真な信仰のおかげで善き生を全うすることを約束された人々ですが、その会員の死を考えると、死の瞬間の悲しみと苦しみ、断末魔を思うと、妙法は本当に宿命転換の力がある法なのかと疑ってしまいます。そもそも宿命がいかなるものなのか、その実体はほとんど理解不能です。科学的に言えば遺伝子ということになるかもしれませんが、そこに災害遭遇の運命遺伝子も含まれているのか、考えれば考えるほどわからなくなります。
遺伝子の進化は固定的でなく、とても柔軟性に富んでおり、創造的です。善も悪もはっきりとした概念で遺伝子を構成するわけではないように思う。十界互具はとても科学的。日蓮が自ら正法誹謗の罪を認めたのは優れているし、革新的なことだと考えられます。しかし其罪畢已という終局の設定は、進化の歴史を考慮すると科学的ではないように思う。心の戝とはまさに遺伝子のこと。宿業論は遺伝子の科学的研究と証明との間で矛盾してはならない。
宿業は人間の身体全体に付加されている生命情報の設計図のようなもの。人間の身体から離れたどこかにあるわけではない。肉眼で確認は難しいけれど、心を込め強い意思で反復する祈りは、生命浄化の確実な方法であることは間違いないでしょう。蘇生は祈りであるとも言えますが、その祈りの対象を正しく認識することが先決です。会員の皆さまは、何を目指し、どこへいこうとしているのか、自分が何を拝んでいるのか、知っているというのでしょうか?
突然変異や再編成、修正しながらつなぎあわせ、新しいピースを生み、切り刻んで結合し、変化し再生産していくダイナミックさ。遺伝子は、全生物の過去の記憶と情報のDNAという物質の集合体。この組み合わせ無限大の進化の歴史を、宿命と名づけることを発明したのが、そもそもの宗教のはじまりなのかもしれません。また対立しやすい自己と環境の関係を、依正不二と画期的理論で説きながら、いつまでも悪性の依報を克服できないでいるのも人間です。浄土といっても、穢土といっても、自分の胸のなかにあるのですから、災害がもたらす不幸を必ず克服できる妙法ですが、未だに自然災害も戦争といった社会的災いも解決できていません。完成した人格として経典に説かれるほど、人間はいつの時代でも完璧ではなく、善と悪の区別もつかない。
死から逃げた人がいましたが、どこに逃げても自分の影のようにつきまといますので、死からは逃げられません。一歩を踏み出すごとに、いつも善悪の判断を迫られる人間が、善悪がない世界に逃亡できないのと同じです。わたしは信仰を通して、いつも死の意味を考えるようになりました。冷静に自分の内面を見つめると、死は未知のものであり恐怖があります。そして他者の理不尽な死に出会ったとき、それが自然がもたらした予測不可能な災害が原因であっても、法の無力さを感じて失望してしまいます。完璧な仏、完璧な法であっても、苦しみの死を回避できず、苦の宿命も転換できない。妙法の救済とはなんなのでしょう。仏の慈悲とはどのようなものなのでしょう。多くの犠牲者は善き死を望んでも実現できません。仏界の地獄界は情け容赦がない。妙とは蘇生の義というのなら、死者を蘇生させてください。最近の予測不能な自然災害は、その悲惨さとともに人間の命の無常さが、わたしを打ちのめすほど強く迫ってきます。いくら涙を流して悲しんでも足りません。死者のことを深く考えずにいられません。
妙法的生き方であるより善き生を、仏は信仰者に求めます。信仰者は、より善き死を仏に求めます。しかし仏はいずれも、ただ模範を示すだけでその答えを与えてくれません。自分で問い自分で解答する、自分の胸に存在する仏に問い続ける行為……それが妙法と日蓮は説くのですから、絶えず自分を疑い、自分を信じて、生きるしかありませんね。悲しみに負けないように強くなるしかありません。


◇◇◇


平成3年10月27日
全国青年部幹部会/「自由なる精神」の人間復興運動
『最後に、ハーバード大学で行った私の講演(1991年9月26日、テーマ「ソフト・パワーの時代と哲学――新たな日米関係を築くために」)に出席された同大学の教授の声を、聖教新聞のロサンゼルス特派員が伝えてきてくれたので、紹介しておきます。
アメリカ宗教学会の第一人者、ハービー・コックス教授は、次のように語っておられる。
「今から百五十年前、エマーソンは、このハーバード大学で有名な講演を行っている。それは、伝統と権威を重んずる学問に対する警鐘を趣旨としたものであった。
真の学問、知識とは、人間一人一人の内面から、そして実生活の体験から、ほとばしるものでなくてはならない。権威によってあたえられたり、また権威によって支配されるべきものではない。
池田SGI会長の講演は"内なる精神"の意義を現代に蘇生させようとされたものであり、エマーソンの講演の真義をほうふつさせるものであった」と。
エマーソンは、ご存じのように、ハーバード大学出身の、十九世紀アメリカを代表する詩人、思想家である。
またコックス教授は、仏教をはじめ高等宗教の本来のあり方に言及されている。
「精神について、"伝統性"と個人の"内面性"を対比すれば、一般に、宗教の指導者は権威をもって教えをたれ、その権威に民衆を隷属させようとする傾向がある。しかし釈尊をはじめ高等宗教の始祖たちは、決して精神性の押しつけなどしてこなかったはずである。釈尊は"みずからの体験をとおして学べ、体験を深く内面化させよ"と弟子たちに説いたのではなかったか。そこには、精神の権威の行使など毛頭なかったはずである」と。
「その後の宗教の権威者たちが、精神の権威をもって民衆を支配しようとするのは、まさに【ハード・パワー】の行使であり、始祖の精神とまったく逆行するものといえよう」と』



平成3年11月4日
第二東京記念文化音楽祭・総会/民衆の声に応えるのが真の宗教
『今回の宗門の問題について、幾人かの著名な学者の声を紹介したい。さすがに見識ある方々は、ことの本質を冷静に公平にとらえておられる。皆さまにも参考になる話であると思うので、本日は、それらの要点を紹介させていただく。
ある教授は、社会学者の立場から、こう述べておられる。
「宗門と学会の諸問題が、両者の対立という形で報道されているようだが、これは正しい見方とはいえない。世界的な民主化の潮流が押し寄せる九十年代にあって、むしろ、避けては通れない"関門"ととらえるべきであろう。いわば、九十年代という歴史的転換点において、宗教の本来あるべき姿が問われているのである。
そこでは、教団運営の民主化、国際化時代での布教のあり方、ボーダーレス(=国境なき)時代での宗教の普遍性等々がクローズアップされる。これは健全なことである。
学会は、日蓮(大聖人)の古典的価値体系を、現代に普遍化するという重要な歴史的役割を果たしてきた。一方、宗門は、伝統的価値にしがみつくことによって、何とか存続してきた。その差は歴然である」
「ソ連、東欧をはじめとする劇的な変化の底流には、民主化への、大衆の飽くなき欲求があった。結果として、その精神的パワーが、ベルリンの壁の崩壊へ、ソ連のクーデターに対する民衆の勝利へという流れを形成していった。つまり、そうした力が、地球的規模での『情報化』と相まって、社会主義圏にも『自由化』の芽をはぐくみ、急速に『民主化』の流れをつくったといえる」
「ここで見落としてはならないのは、一連の民主化への流れが、じつは『聖』と『俗』との関係性の根本的な見直しという哲学的課題を背負っているということである」』


ある中国哲学の著名な学者が語られたとして引用している。
『葬式が大切というなら、「生まれること」も大切である。なぜ「生きること」について、宗門はかかわろうとしないのか』
『これからの仏教は、本来のあり方、その本質を問い直さねばならない。たとえば"僧のあり方"。僧を僧として尊敬できるのは、信徒を越える「行い」をしていることによる』
『信徒の信心の模範となるべきなのが僧であって、そういう僧であれば、敬意は"自然に"出てくる』
『僧のほうから「私を敬いなさい」では、まったくだめである』
『日本の寺院は、江戸時代、一種の"役所"として、お上の権力をバックに信徒に君臨していた。みずからの宗教的な努力によって権威を保っていたのではない。日蓮正宗は、学会が出てきた以前の"村の檀那寺"という意識のままである。それが今回の問題の本質であると私は思う。昔の"村の役人"根性である』
『学会の組織は、信仰で結ばれた組織であり、"精神の絆"をもった「近代的組織」である。それを宗門のほうは、地縁、血縁による非近代的共同体のようにしか思っていない。とんでもない錯覚である。昔からの意識を変革できない、正宗僧侶の"悲劇"である。
「近代」とは何か、「民主主義」とは何かという、教義以前のことが分からない人が、「近代的組織」の上に君臨しようとするのだから"悲劇"になる』


一人で君臨できるわけはなく、組織が君臨を認めるのであるから、偉いと思うその心は、十分に僭聖増上慢の素質があります。僧は法を独占し、僧でなければ正しく解釈できないという理由をつけて、僧の優位性を強調し特殊化します。反対に、在家は必ず特殊な法を分かりやすいように一般化します。「聖」と「俗」の哲学的課題は特殊化と一般化の問題です。現在まで培われてきた哲学の、伝統と歴史のなかで定着した言葉で、宗教的な特殊な真理を表現しなおすことが大事ですが、誰にも受け入れられる分かりやすさで語ることは、菩薩の使命といっても言い過ぎではないでしょう。創価が、その役目を果たしてきたことは、今更言うまでもないことです。
信じる行為は、年齢や性別、社会的環境に関係なく人間性を証明する平等な特性です。僧であろうと在家であろうと、人間であるかぎり信じる強さと深さは同じです。僧は差別を作ってはならないし、本尊を身勝手に独占してはならない。宗門の硬直化は破滅的です。


宗教と権威主義について
B・ウィルソン教授との対談「社会と宗教」のなかで、宗教と権威主義について、先生が問題提起されています。
会員の方々はあまり認識されておりませんが、教義の真実性を不動のものと信じているがゆえに、超越的権威が潜在的に包含されるという問題を解決しなければなりません。これは宗教史から学ぶ教訓なのですが、あらゆる宗教の根本的問題として、民主的組織運営を誓っていても避けることができない問題です。

先生は次のように言われております。
『宗教はその教義に関して権威を主張することから、その組織のあり方も、権威主義に陥りやすい傾向をもっています。そして、そのため、多くの宗教において、個人の救済を目的としながら、実際は、権威主義的組織の中に個人は埋没し、圧殺される場合が数多くあったように思われます。この宗教組織のもつ権威主義的傾向というものを解決する方法としては、どのようなことが考えられるのか、それについてお聞きしたいと思います』
と、教授の意見を求め、また次のように言われています。

『権威主義を生み出し、支えているのは、大多数の人々の中にある秩序正しさへの欲求や、服従への欲求等であるといえます。そうした人々にとっては、権威は好ましいものであって、否定される必要はないでしょう。しかし、権威を保持した人間は、たんに、そのような支持者に対してばかりでなく、権威を嫌う人に対しても、権威への服従を求め、その力を行使しようとします。そこに非人間的な圧迫がしばしば生じます。
そればかりでなく、自己の権威を守るために、自由な論議や、創造的な思想や行動に対しても、これを抑圧しようとします。その結果は、その教義の硬直化を招き、自由な、自発的な信仰心が生み出す、宗教の活力ある生命を奪い去ってしまうことになります。
その意味から、私は「人々が権威を求め、それに服従することに喜びを感じているなら、そのことを非難したり、改めようとしたりする必要はないではないか」という考え方は、誤りであると思います。権威主義的傾向に陥りやすい宗教団体にあっては、それに陥らないよう、絶え間ない自戒と、人々の意識の啓発、また組織機構の改善が行われるべきであり、それが、生きた宗教としての躍動力を保っていく鍵であると、私は考えるのです。
その点で、私自身、組織を率いてきた経験からも、いま教授が挙げられた、責任を分散し、人々に参画と相互作用を促すこと、それによって、個人の経験や個性的能力を、全会員のために役立たせるようにすることは、きわめて、大事であると思っています。
また、それ以外に、会員のもつ力を有効に組織化していく道はないというのが、経験上の結論でもあります』


先生が「結論」と述べられていることに注目しなければならないでしょう。
詳しくは実際に本にあたってください。
これに対するウィルソン教授のコメントは、大変示唆に富むものです。

『宗教運動にあっては、権威主義的な傾向を取り除くことは、他の場合よりも困難です。批判的精神を培うことは、たとえば純粋に知的な状況の中では、明らかに奨励されうるものですが、しかし、それは宗教運動においては、調和を妨げかねません。宗教運動では、一心同体であること、同一の目的に献身することがそれ自体、貴重なこととされているのです。
宗教において、権威主義を防止するためには、たぶん運動内の各レベルの指導者が、自分に直属する輩下の人々に参画を求め、即応的な相互作用を促すべきことに、気付かなければならないでしょう。責任の分散は、それ自体、権威主義的な傾向の助長を阻む、一つの方法です。命令された仕事の中でだけでなく、より積極的な率先行動が要求される場面においても、各個人が果たすべき独自の貢献の道があるという考え方は、活動の分化を促進しますが、これは、すでにそれだけで、権威主義の特徴的パターン――統一的な支配と人々の紋切り型の反応――が形成されるのを防ぐものです』


25年以上前の対談ですが、問題の重要性はますますクローズアップされていくことでしょう。
わたしは、遠い将来のことを心配しているわけではありません。先生がご高齢であることを思うと、直近の未来に両者が指摘した権威主義への対処が必要になってくるということです。きっと原理主義者がはびこるでしょう。釈尊滅後もそうでした。大聖人滅後も、天台宗という母胎に帰ろうとした原理主義者たちがいました。法を体現し、実践面で信仰者の手本となる、一人の稀有な指導者がいなくなると、権威をかさにきた原理主義が横行し、それに対抗する勢力もまた生まれるということです。
このような対立を防ぐために、ウィルソン教授が指摘しているように、各個人の独自の貢献をまず認めなければなりません。現在の選挙支援活動にも見られるように、「紋切り型の反応」に価値を置かないこと、信仰活動は多様であることを認めること、貢献の仕方は個人の考え方、裁量の範囲で適切に判断し、対応しなければならないこと、それが権威主義への対抗措置であることに気づかなければならないのです。創価ルネサンスと喜びながら再出発しましたが、まだその始まりを駈け出したにすぎないのです。
過去をさかのぼり、歴史のなかから良き手本を探すことも必要でしょう。しかしそれだけではいきづまり、現在進行の人間の行動から、信仰者の正しいあり方を示す指導者が不可欠。人間革命集団と定義される創価にあって、一人一人の英知と実戦力が試されるのです。
先生が数十年前からたいへん危惧されている問題を、無垢で素直な会員の皆さまはどのようにお考えなのか。わたしは師弟不二ってなんだろうと思うのです。不二という強い人間関係でありながら、弟子は何も考えていないのです。楽観主義を勘違いされているのではないでしょうか。

創価系ブログはいっぱいありますが、読んでみると「紋切り型の反応」記事が多いことに気づきます。それでも必要性が認められるからなのでしょうが、自分の言葉で語らない悲しさが、わたしには憐れに映ります。つまり信仰は創造的行為。信仰の奴隷は、自力信仰を目指しながら他力になっている自己なのですよ。
当然のことですが、信仰は自己責任であること。自由意思から選択した行動は、すべての責任を自分が負わなければならないことはあらためて言うまでもありません。したがって、一様な型を作り、流し込むことではありません。行為の責任を負いながら、自分の力で、悩める自己を救済していくという自力性、言い方を変えれば、自己変革は、自立した自己完成でなければならないということです。

創価に対して、よく批判的に、あるいは過大に問題を指摘する人がいます。わたしもその一人と見られているかもしれません。信仰は強制でできるものではありませんから、わたしの批判的行為は純粋さにより近づこうとする、わたしなりの努力であることをご理解ください。先生が言われる自戒なのです。わたしは創価を否定しているわけではありませんし、ただ、一般会員の方々のような反応はしないというだけです。
「権威をかさにきた原理主義」――会則変更に見られる幹部の独断が、まさにピッタリあてはまります。何かと言えば先生を引っ張りだして、先生という権威を振りまわすのです。「先生」という原理主義です。


宗教のシミとコミニュケーション
宗教の虚偽と戦う人間は、いつも権威から破門される。
創価は虚偽で満たされようとしているけれど、それは尊敬に浮かぶシミのようなもの。純粋さが失われていく一つの過程です。宗教は全部、同じ過程をたどり腐敗する。
なんども訴えますが、はじめから宗教に権威などないのですから、権能などという言葉で誤魔化す宗教は、真の民衆仏法ではありません。もちろん、法主の権威をふりかざす宗門も、伝統の埃が積もりに積もり、その礎の色までわからなくなりました。どんなにやわらかい言葉で繕おうと、権威にはいつも嘘が混じっているのです。わたしは権能という言葉を見た瞬間、その虚偽を見抜いた。低レベルの権教であればあるほど権威を主張するものです。模倣品を高価そうに飾るのと同じ。
創価も低レベルの人間に相応しい宗教に宗旨を替えました。
宗教は一人一人の人間のためにあることを、しっかり考えるのも信仰者の責務です。その人間を大事にしない組織は、やがて滅亡する。正しい法であっても、民衆に受け入れられなくなれば滅亡する。宗教の五綱を、深く知る必要がありますね。五綱のなかで注意していただきたいのは、【国】です。グローバル・レリジョン、地域限定から開放された世界宗教の【国】は全世界です。かの地が謗法の地だからという理由が、世界を志向する妙法にいかに相応しくないか分かります。民族や習慣、言語や国家に限定された地域宗教の偏狭な言い分とは、もう縁を切ったと思ったのですが、創価の石頭は外見ばかり気にして、内実は世界宗教という意味も理解できない。だから、根拠もなく権威を強調する。口では実教を唱えながら、心は権教の迷妄。

いろいろな考え方があって健全ですが、否定的意見には否定的に対応するのが、普通の人間が選ぶ対応だと思います。宗教組織にとって共感共有の感情は欠くことができません。創価は、教義とその目的の純粋性から、会員に感動を与え、日々の生活から宗教活動にいたるまで、善になるための努力をしてまいりました。また、信仰の喜びを社会に還元し、社会に有為な人材になるための自覚をつねに保持しながら、中傷も恐れずに対話を続けてまいりました。会員はコミュニケーション能力に優れていると考えますが、昨今のストレス社会を反映しているのか、会員同士でも不寛容の場面がときどき見られるようになりました。

特に、会則変更という大切な教義上の問題について、先生の過去のご指導を判断基準として引用しても、会員には全く通用しないという恐ろしい現象が起きているのです。正しいことを理路整然と訴えても、それもまた一つの見解、個人的意見として軽視される傾向があることに、わたしはビックリし深く失望しました。わたしは何度も、わたしが正しいと思うことを会合でお話しました。その結果はどうだったでしょう?
都合が悪いものは見ない聞かない、会員に知らせないという創価の体質であることも承知しております。もともと宗教とはそのようなものですが、C作戦のように大御本尊をカットして、権能という言葉で当然の権利を行使するだけだと主張しながら、つまりは権威を強調するあたりは、腐れた宗門にそっくりと言わなければなりません。宗教にははじめから権能や権威といったものは存在しないのです。人を縛るのが権威。信仰は自由を実現するための意志表示であることをよく考えてみるべきです。法主が会長に変わっただけです。その会長も先生からご指導されて大御本尊をカットしたのでしょう。うそつきもいいところ。

教義の根幹を変更しても十分な説明もない創価の姿勢は、はなはだ傲慢といってもかまわないでしょう。創価のコミュニケーション能力の衰えも、先生の老衰と関係があるでしょう。
競争や対立を前提としたコミュニケーションではなく、助けあう人間関係の必要性を考えると、脳の神経回路は協調するための潜在能力を秘めているのではないでしょうか。
最近の社会情勢、事件の数々を考えると、排他的エゴイズムの虚無が、蔓延しているように思えるのですが、殺伐とした人間関係からは、平和や幸福といった人間本来の普遍的な価値の享受は程遠いように感じられます。遺伝子に具わる共感性は、自分らしい個性を輝かせ、人間関係の希薄化に対し、心が通う信頼を築くベースになることを示唆しているようですね。
創造的言語は、コミュニケーションで培われてきた人間関係を円滑にする知恵、あるいは礼儀、秩序としての社会での道徳、心根を美しく表現する言葉というものかもしれません。聞くに堪えない汚い言葉が溢れている現在、人間としての徳目のなかに相手を思いやる行為・思いやる言葉を大切にしていくことが必要と心掛けていますが、言うは易し行いは難しですね。

人間と人間を隔てている壁を取り払う言葉は、歴史のなかで人間とともに磨かれてきた美しい財産です。やわらかな音感、響きとともに、優しいネットワークを築くキーワード、(励ましと調和)を大切にしていきたい。
妙法の正しい言葉こそ、自他を律する創造的言語ですが、創価も会員も失本心故。本来の意義を失った御本尊をいくら拝んでも、過去世に約束された本当の自分自身を取り戻すことはできません。
「大聖人直結」「魂の独立」などと、恥かしくなくよく言えますね。同じ言葉でも、裏付けがない、中身がない風船のように、ただふくらんだだけの言葉です。

太陽の仏法 1

6月30日の聖教に、李克強首相の返礼の書が贈られたことが紹介されていました。来日の際に贈られた池田先生の漢詩が優れているのかどうか、わたしにはさっぱりわかりませんが、普通、中国の慣例から言えば、詩に対しては詩で応えるという教養に尊敬を集めるのではないでしょうか。特別達筆とは思えない書と、オーソドックスと言えば良いのか、ベタな文章を見ると、李首相は何を言いたいのか、一国の首相ともなれば、なんでもありがたがるとでも考えているのだろうか。
毛沢東は晩年、大躍進政策や文化大革命で、多くの国民を犠牲にし死に追いやりましたが、それでも尊敬を集めているのは詩人だからです。また古典に通じ、中国伝統の教養人でもあったからです。
それとも別の見方もできます。権力志向が強い習近平体制のなかで、生き残る術を心得ており、書の凡庸さが示すようにかえって平凡な処世術と性格が、これから訪れるかもしれない亡国の危機に力を発揮するかもしれない。仮定の問題だから好き勝手なことが言えますが、国が滅ぶときは乱世の英雄が現れるときでもあります。使命は基本的に自覚するものですが、ときには天から降ってくるように必然的に与えられるときもあります。克強とは波乱を予想させる名前ですね。
中国の社会問題は多岐にわたり、いずれも緊急性があります。その根本をたどれば共産党の独裁体制に行きつく。政治家と官僚の汚職と腐敗、賄賂、環境破壊、都市部と農村部の経済格差、人権抑圧、少数民族に対する弾圧、宗教と信仰の否定など、あげればきりがない。社会問題を網羅している中国の矛盾した体制は、民主主義国家へ転換しないかぎり改革は不可能ですが、共産党が権力を手放すはずもない。共産党の選択肢は限られています。権力を維持するために力で反抗勢力を抑圧し弾圧するという道より残っていませんが、わずかに「中国化」という範囲内で、社会主義と国家に貢献するためなら許される。自由という価値の蹂躙は多くの悲劇を作りました。災難と隣り合わせの不安定な政権に近づき、繰り返し賞賛を望む仏教指導者。創価は危険地帯に足を踏み入れている。
「風格は永久に不滅」と人類の師のように尊敬を集めているのですから、中国で行った多くの講演で、ひとつでも民主主義について講義してもらいたかったと思いますが、表彰というボーナスがなくなる恐れもあるので、そんな勇気もないのかもしれません。お世辞は、相手を一時的に心地よくさせる点で偽りの化城であることから方便に似ていますが、仏法ではありません。

無教会主義の反戦
無教会主義者では、南原繁、矢内原忠雄といった知識人が著名ですが、戦中戦後の学術・思想界をリードしました。また、反戦活動も、日本の良心として評価され、かろうじて宗教界のステータスを保ったと言っても良いでしょう。内村鑑三が果たした役割は大きいと思います。
仏教は優れた教えですが、傑出した指導者が不在なため、非戦を高唱しながら、物陰に隠れるような見苦しい人間ばかりで、脅されると信念も教義も放棄するという不誠実さ。揺るぎがないなどと自慢しながら、常に揺れているのが僧侶の姿です。そもそも信仰の初歩的段階で無垢な信者の善意とお金を天秤にかけるような不届き者。言い過ぎかしら?
やはり、内村の弟子で、山形県に基督教独立学園高等学校(ウィキペディア)を作った鈴木弼美は、軍人でありながら治安維持法で逮捕されました。純粋な反戦活動は知られていませんが、戦争が次第に悲惨さを増していくにつれ、良心的な兵役拒否にいたったと考えております。無教会主義と言ってもそれぞれ独立的な志向が強く、絶対的反戦、あるいは苦しみながら戦時へと参加していった反戦主義者もおり、個人の意志の範囲内で判断していったのではないかと思います。無教会主義はその意味で、キリスト教を基礎としながら、広範な思想を内包していたと考えております。特に、リベラルな思想と結びつくとき、政治的勢力として一定の役割を担う。
わたしはどうしても牧口先生と対比してしまうのですが、仏教における寛容性の問題は、悪の改心を信じて容認するという善性を重んじる心の大きさを感じますが、その一方で取り返しがつかない事態になりかねないという緊急性に劣るところがあるのではないかと思います。銃を構える人がいたら、強く制止しなければ犠牲者がでて、善良な人々に危害が及ぶという、やり直しがきかない事態になることが想像できます。仏教的アプローチは時間と手間がかかり、漸進的改革も世代的な継承を続けながら、その志を継続していかなければなりません。もう2000年以上も非戦への意義づけを繰り返してきたのですが、戦争は激しくなるばかりです。
創価は主要な理論展開のフレームを三代で基礎づけましたが、これで完成したわけではありません。現実の難問題は、何一つ解決していないと認識してもよいでしょう。縁起の思想で、他者への関与を基礎とする仏教は、釈尊の時代から平和や人類的課題に挑戦してきましたが、科学技術の進歩により、応酬とレスポンスを越えそうな問題解決のプロセスは、複雑になるばかりです。人間という生物は、もともと争うことに喜びを見出しているのかもしれません。
会員皆さまは、人間主義を万能の思想のように勘違いしておりますが、強情な宗教原理主義者を改心させるほどの力がはたしてあるのか。それ以前に、日蓮の独一法門も改宗不可能な原理主義の様相を帯びております。対立を軸とする思想の小競り合いはあとをたちませんが、必ず暴力的な争いに発展し、根深い確執と悪意が生まれることです。政治的にも絶対平和主義へシフトすべきです。
公明党の政治的思想の独立を願わずにいられませんが、リーダーには必ず必要な先見性に劣るように思います。与党であることをあまりにも優先するために、自民党に折好いタイミングで取り込まれ、かえって国民を苦しめるという現実は、もう黙認できないほどのせっぱつまった状態です。先生と執行部の政治好きは、会員に取り返しのつかない後悔をもたらすかもしれません。
中国、近畿地方を中心に、大水害が発生しました。多くの犠牲者や被災者にお悔やみ申し上げ、一日も早い復興をお祈りいたします。国土保全は政治の基礎と言っても過言ではありません。その主だった政策を管轄する国交省の大臣が公明党出身であること。現在の石井大臣は太田大臣から引き継ぎましたが、2012年から公明党が独占しており、国土計画、社会資本の整備や調整等に具体的なビジョンを持っているのか。また膨大な予算とともに利権も集中しやすいことから、公平で清潔な政治家の人柄が求められますが、災害が多発する昨今、その手腕の卓越性に注目が集まります。国民政党とは言い難い、創価に偏重する公明党の意思決定を持ちこまないようにしていただきたいと思います。

「新・人間革命」の終章
「新・人間革命」の連載も終わりに近づき、宗門と創価の間の熾烈な争いを総括しております。同じ御本尊を信じていても、なぜ罵りあい、虚しい不毛な対立があるのか。中立的立場に立ってジャッジしても意味はありませんが、僧の世界の異常さは、在家には理解不可能な気がします。僧への尊敬は失われておりますので、日蓮の魂からほど遠い宗門が、腐敗し滅びても、もう創価に関係はありません。信者から絶縁された聖職者とはどういう存在なのか。宗派が違っても、これほど値打ちがなく、社会にとって無価値な存在はないでしょう。
むしろ新しい家を建てるときは更地にすることを考えると、宗門も滅びて一から出直せば少しは救いがあるかもしれません。したがって法主を頂点とするヒエラルキーを解体し、民主的な組織を再生しなければ生き残れないでしょう。未来には大御本尊を残し、大石寺ももぬけの殻になる可能性もなきにしもあらず。広布を忘れると使命も見失い、つまるところ住所も寂れ、次第に荒地獄になります。
破門通告というギャグに等しいバカバカしいことを、まともなことと考える僧の幼稚さは、日蓮の宗教改革と広布という遺言をないがしろにしてきた結果です。一部の聖職者が、特権的に支配する教団は、大乗仏法ではありません。大御本尊を守っているように見せながら、実はその真理に背反し、御本仏に屈辱の言葉を投げつけているのと同じです。自己流で自分に都合よく自己弁護する僧ほど醜い姿はありません。日蓮の法に殉じる純粋な自己犠牲、あるいは弱者という末法の悩める凡夫のための憐れみと同情を持つことが、御本仏が期待する僧の姿です。御書からうかがえる同苦する人間的な姿が、僧が理想とする姿にほかなりません。
「新・人間革命」も第2版が出版になり、都合の悪い部分は書き換えられるようです。先生が直接書き換え作業をしているわけではないでしょうから、将来、さらに第3版が出て改変されるころには、誰が書いたか分からないような不統一性が顕著になるでしょう。はじめからフィクションと思えばよいのかもしれません。フィクションも時間が経つと真実性を帯びたように会員の信仰にインプットされます。虚構が信仰心を啓発するときがくるかもしれない。創価が拠り所とする歴史と教義の客観性に問題ありと指摘されれば、創価もアイデンティティーを失うことになるでしょう。歴史を甘く見下すと、却って歴史から反逆されます。

宗門から破門された平成3年前後の、池田先生のスピーチをまとめておくのも、問題意識がある人にはそれなりの意味があるでしょう。「大御本尊」とそれに関係した事項をキーワードに、スピーチを引用しますが、すべて先生御自身に還ってくる内容です。「普遍的」あるいは「永遠」といった仏法的に重要な語句が、死語にならないように、会員の皆さまは賢明な判断をしなければならないでしょう。「永遠」はどこまでいっても「永遠」です。だから「永遠」と定義づけるのではないですか。
たとえ宗門から破門されようと、創価が離脱の拍手をしようと、言葉の意味は変わらない。「生命が永遠」であるなら、時代の変化にかかわらず、「生命は永遠」なのです。千年前も千年後も「永遠」です。「永遠」は証明できないからこそ信じる対象に収まっているのですよ。
三代会長が何度もご指導されたように、大御本尊は永遠に変わりません。大御本尊のおかげで、創価は、本来の大乗仏法の姿を実現し、在家の広布の組織として発展しました。会員の皆さまも、不可解で謎に満ちた人生を、アグレッシヴに挑戦できたのではないでしょうか。その究極的な良心を否定し、なぜ捨ててしまうのでしょうか?




平成3年10月16日
第13回関西総会太陽の仏法は全人類に「平等」
『日蓮大聖人の仏法は、「太陽の仏法」であられる。
太陽は全世界を照らす。その光は、一部の人々、一部の地域だけのものではない。まして、一部の悪人たちだけを照らす太陽などあるはずがない。
太陽には、「差別」がない。「太陽の仏法」もまた、どこまでも「平等」である。
この仏法を信仰しているように見せかけながら、自分勝手な「差別」を持ちこむのは、「太陽の仏法」を殺す魔の働きであると断ぜざるをえない。
いわんや悪人と陰で手を組み、正法破壊の陰湿な策謀をめぐらせるのは、「太陽の仏法」の信仰者とはいえないと私どもは思う』



平成3年10月17日
関西最高協議会・三烈士の精神は学会の中に
『きょうは十月十七日。弘安二年(1279年)十月十五日に「熱原の三烈士」が殉教し、その報が大聖人にもたらされたのが十七日である。大聖人の出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立される機縁となった、この法難について、少々、語っておきたい。
熱原法難は、無名の民衆が、強大な権威・権力による弾圧に対して、身命を惜しまずに戦った、誉れの"先駆の歴史"である。また、今、法難の経過をふり返った時、そこから数々の教訓を汲み取ることができる。
なお、熱原法難の史実を初めて詳らかにされたのは、日亨上人である。上人の「熱原法難史」、私が願主となって発刊された「富士日興上人詳伝」など、そのご研究の成果を基本としてお話ししたい』
『僧侶は、本来、民衆を救うために、正法に導き、成仏への道を教え、信仰を励ますなど、信徒の幸福に尽くすのがその使命のはずである。僧侶の権威をかざして信徒を抑圧し、従属を強いて、信徒に奉仕させるというのは、本末転倒である。そのような者は、もはや仏弟子ではなく、僧侶ともいえないであろう。
(中略)
いつの時代であれ、仏教の「平等」の精神に反して、僧侶が権威をふりかざし、信徒に従順と尊敬を強要するようになった時に、教団は腐敗し、僧侶は堕落している。信徒の側は、僧侶の権威にひれ伏した時に、本来の信仰心は失われ、僧に仕え、依存するのみの形式的な信仰となり、真の功徳はなくなる。
御本仏日蓮大聖人、すなわち大御本尊に信伏随従し、仕えることは正しいが、その根本から外れて、僧侶に仕えることは、仏法の本義に背く誤りであることを知らなければならない』
『表面の姿だけを見れば、三烈士は処刑され、敗北したように見えるかもしれない。しかし彼らは、"信仰者としての誉れ"を、"人間としての勝利"を勝ち取ったのである。そして、民衆の間に、確固たる信心が、深く根ざしたことを身をもって実証した。
この法難を契機に、大聖人は、出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立される。ここに、三烈士の名は永久に残され、永遠に輝き続けているのである。
(中略)
熱原の三烈士が示した不惜身命の精神、いかなる権威、権力にも屈しない正義の行動は、初代・二代会長以来、創価学会の中に、厳然と生き続けている。脈動している』

出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立とご指導されていますが、現在の創価は、三大秘法を出世の本懐と変更しました。三大秘法は一大秘法に収まりますが、その一大秘法は否定しています。つまり、根源を否定し、派生した真理を根源と変更しました。植物に例えるなら、根を拒んで、そこから生じる茎や葉だけを植物だと言い張っている。根がなければ茎も葉も育たないというのに、宗教の普遍妥当性は常識外にあるというのでしょうか。
さらに機縁となった熱原法難を、結果的に、機縁ではなかったと無理やり繋がりを否定し、三烈士が果たした殉教まで否定している。先生はスピーチでこのあと、熱原法難を詳細にたどりますが、今となっては御本仏の思いまで否定している。熱原の三烈士の殉教は、日蓮にとっても宗門にとっても、最大の歴史的出来事ですが、能動的に、自律的に、他随ではなく随自意の大御本尊を認めることになった機縁(動機)を否定している。最も旺盛な生命状態、御本仏が出世の本懐をあらわされたそのときこそ、仏の境涯であられたことを否定している。
創価の大御本尊否定は多くの問題を孕んでいることを、会員の皆さまは信仰の根本として熟慮しなければならないでしょう。創価のオフィシャルな見解は、将来変更される可能性は大いにありますが、そのときまだ先生はお元気でいらっしゃるのでしょうか。永遠の生命を実行してください。100歳でも、200歳でも生き続けて、大御本尊を否定した創価の行く末を見届けてください。


平成3年10月21日
第14回SGI総会/第47回本部幹部会・「民衆主体の宗教」が興隆
『(敦煌の興亡の歴史にふれながら)しかし、繁栄は永遠に続くことはなかった。人々は万代の繁栄を願い、望んだであろう。だが、歴史の審判は厳しかった。敦煌に花開いた仏教も、八世紀ごろ(唐の時代)、滅亡の兆しが始まる。もちろん、そこには、さまざまな要因が重なっていることも事実である。(中略)
たとえば、①航海技術の発達により、交易ルートとして、南海路(海のシルクロード)の重要性が高まり、相対的に陸路(オアシス・ロード)の必要性が低下した(経済的繁栄のかげり)②民族意識の高まりにより、諸民族融合の象徴であったシルクロードが分断された(社会の変化)③イスラム教徒の侵入があった(外敵の侵略)などが考えられる。
それはそれとして、敦煌の仏教滅亡の最大の要因は何であったか――。前述の教授(北海道教育大学教授)は、仏教内部の「腐敗」と「堕落」であったと指摘しておられる。
"内部から崩れた"と。内側が腐敗してしまった。堕落してしまった。万有流転といおうか、"興亡"の歴史の方程式は、昔も、そして今も同じである。
当時の僧侶も、民衆を抑圧し、蔑視した。限りなく搾取した。僧は"悪の代名詞"にさえ堕してしまっていた。
彼らは、貪欲に、名利の追求に狂奔した。頭の中は"仏道"ではなく、"金儲け"のことばかりになってしまった。「法の正邪」に対する厳しさは薄れ、都合のいいように書き換えられた偽の経典が流行した。その経典にかこつけて、民衆をおどかし、だまして、金品を巻き上げた。「法」の純粋性を守り、後世に伝えゆく使命など、いつしか完全に放棄してしまった。それが、僧侶の嘆かわしい実態であった。許されざる「仏法利用」「信仰利用」である。
さらに、寺院への隷属を強いるため、「寺戸(じこ)」と呼ばれる特殊な制度をも作る。「寺戸」は寺の周囲に住まわされ、移転の自由も、地域住民との結婚の自由もない。寺のために一生、強制労働に従事させられたといわれる。
しかも、年をとり、使いものにならなくなる(働けなくなる)と、他のオアシスに追い払われた。役に立つうちは利用しつくし、用がすめば、とたんに切り捨てる――この無慈悲、残酷、非道。これが聖職者のすることであろうか。
「歴史」は、ありありと、"現在"の本質を映し、私どもが進むべき"未来"を照らしてくれている』

偽の経典は、過去のことではありません。偽の創価の歴史、偽の人間革命。「小説・人間革命」は、現代の御書と、かつてF副会長が発言して宗門との間で問題になりましたが、現在の会員は改めることもなく、現代の御書と発言して平気です。はっきり言えば、F副会長と同じレベルの問題意識で、反省などさらさらない。「現在、主師親の三徳を具備しているのは池田先生」という発言もありましたが、現在も会員はそう思っているのですから、あのF副会長の言うことは、会員の気持ちを適切に代弁していたということですね。こうなると、なにが正しくて、なにが時期に似合った発言なのか、分からなくなってきます。信仰心が理性を失い、過剰な表現に行き着いてしまうと、ドグマの蜘蛛の巣に捕われた昆虫同然に身動きができなくなるような危険性があります。過剰な表現と信仰心の深さは関係ありませんが、知性のない人ほど過剰になるようです。騒々しく怒鳴るのは、恫喝し威圧する力自慢と同じで、宗教の健全さや清廉さとは無縁です。
寺戸(じこ)制度は寺請制度と同じですね。日本ではやがて檀家制度に発展しましたが、移転手続きには寺請証文が必要でした。寺を中心に自由が拘束されていたと考えることもできます。釈尊や大乗の精神がまったく失われ、自由を制限する道具に使われたこと。権力に迎合し、権力者を背景にして、自ら代理権力者のような地位を築き、底辺にある農民を支配し苦しめたこと。そこには餓鬼道のような僧の姿がありますが、その堕落の根底の精神を引き継いでいるのが、太平洋戦争時の怖気づいた宗門の姿に顕著に見ることができるでしょう。「立正安国」なんて、夢の夢の絵空事の物語です。



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万人にすべてを説く

日常のなかで、喜びを見出すことは簡単なようで難しいものです。わたしの場合、後悔にさいなまれる日が圧倒的に多いし(over?)、情けないと泣きたくなる日も多いから、自分にカツを入れて毎日決意の連続です。今まで安定と保守こそ敵だ、と勇ましい言葉を吐いてきた手前、簡単にあきらめるわけにはいかないのですね。そうそう敵がまた増えました。変身した創価も宗門も敵だ! わたしに何枚もアンチのレッテルを貼りつけて、憎々しげな眼差しでにらみつけてくるからです。不軽の悲しみも少しは理解できるというものですね。逆に、ありがとうと言わなければならないでしょうか。

創価は大御本尊を受持の対象にしないと宣言しました。教義上の厳格さにこだわるのなら、決して起きない問題だったように思うのですが、教義なんて時代とともに変化すると、まるで賢者のような顔で息巻くものだから、なにも考えない無知な会員、活動はするけれど学ばない会員は、そんなものかと思ってしまうのですね。
宗門も宗門で、時代錯誤も甚だしく、在家蔑視の伝統的気性に囚われ、自らの可能性を束縛しているようです。出家の原点に立ち返らなければ、日蓮の真の志を、いつまでも理解できないでしょう。
大御本尊不受持に関して、創価でも先生のご指導は一言も紹介されていませんが、わたしのような平会員では、先生がなにを考えていらっしゃるのか、皆目見当がつきません。このような重要事項に、はっきりしない指導者も珍しいことです。
御本尊は人法一箇、日蓮大聖人の御命が妙法そのものです。信仰者は法を擬人化しやすいものですが、日蓮は信仰主体者である人間を代表しています。上行菩薩は地湧の菩薩の上首ですが、単にリーダーというだけでなく、妙法のシンボルであり、全菩薩の人格も代表しているのです。その一体の姿を大御本尊として表現されています。つまり、大御本尊は日蓮大聖人そのままの御姿なのです。信仰者全員が仏性を覚知できるのも、大御本尊の慈悲の反映です。御本仏自体であるという大御本尊は、たとえどの地にあろうと大聖人そのものです。わたしやあなたが、どの地にあろうと、わたしやあなた自身であるという事実となんら変わりありません。どの地にあるかというようなことには、まったく関係がなく、だからこそ、普遍的真理と断言できるのです。
5月19日の聖教に、「創価学会常住御本尊記念日」という記事がありました。5月12日に請願し、19日に書写されたと記事にはありますが、戸田先生が誰に請願し、誰が書写されたのか、主語が抜け落ちています。また護法の功徳力によって75万世帯の弘教を成就されたのではないですか。日蓮が「報恩抄」まで著されて強調した御本尊への恩の大切さをすっかり忘れている。根本尊敬の御本尊を物扱いする、あってはならない過失が創価にはあります。尊敬心は絶対的尊敬心であって、自分の都合により、また置かれた状況等によって変化するものではないのです。普遍的ということを、戸田先生をはじめ池田先生も繰り返しご指導されてきたのではありませんか。なぜ、根本的信仰対象を卑しめるのですか。御本尊はファッションではないのですよ。

ウィルソン教授との対談「社会と宗教」を残してくれたことを、とても感謝ですが、創価内ではあまり重要視されていないようです。
池田先生は次のような質問をします。
『宗教の教義は、厳格であるとともに、普遍性をもっているということが必要であり、これは、世界宗教であるための、また時代の変遷を超えて長命であるための、必要な条件ともいえます。厳格なものでなければならないということは、時代によって、また社会によって容易に変えられるようでは、宗教の持つ尊厳性が失われてしまうからです。
しかし、この厳しさが、ときには衝突を引き起こしたり、柔軟さを欠く結果となって、人々に受け入れられなくなってくることも事実です。教授は、宗教の教義は厳格かつ不変であるべきであって、時代とともに様相を変えていくなどということは、宗教の堕落だとお考えになりますか。(中略)』
(第一部 人間と宗教「普遍性と特殊性」)

人格神と法の関係を論じたあと、宗教の中心をなす普遍性に話題を移しています。ウィルソン教授の答えは大変有益かつ必然的なものですが、法華経がなぜ万人向けかということのヒントもまた、答えのなかに含まれています。教授の知識はとても広く深い。御本尊に迷っている今こそ、じっくり読むべきですが、わたしは、婦人部のあいだで面倒な哲学の軽視傾向があることを悲しむものです。妙法から哲学をとったら何が残るというのでしょう。人間主義から不要なものとして思想を削除したら、何が残るというのでしょうか。宗教は祈りをともなう哲学であり、実践のための思想です。

ウィルソン教授の対話は常に明快でくもりがありません。学究者でありながら信仰者の気持ちもよく理解しているようです。
『純粋な形の仏教の教義は、その発生の当初から、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の教義よりも、普遍性がありました。それは、ユダヤ教などの三宗教の場合は、仏教よりもはるかに文化的・歴史的に特殊な状況の中に、その起源をもっているからです。仏陀の思想が抽象的・形而上的な性格のものだったこと、神についての神人同形的な概念がそこになかったことは、仏教の教義が普遍的な性格をもつのに寄与しました』

すでに多くが論じられていることですが、こういう基本的事項はよく承知しておかなければならないでしょう。しかし、キリスト教・イスラム教はすでに世界宗教ですが、流布過程において多くの困難があったことに思いを寄せなければなりません。
以前ビデオで、ブルース・ウィルス主演のアメリカ海軍特殊部隊(シールズ)の戦闘を描いた「ティアーズ・オブ・ザ・サン(Tears of the Sun)」を見ました。絶望的な戦地で、献身的に難民に尽くすキリスト教宣教師の姿がありましたが、このような命がけの布教で、世界宗教に発展したものと思います。映画では戦闘に巻き込まれ冷酷に虐殺されますが、キリスト教のその純粋な自己犠牲は、特に聖職者に求められました。どちらかというと、内面に閉じこもりがちになり、功利的判断を優先する仏教徒には考えられない崇高な姿です。暴力の前で無力でありながら、無抵抗の命をかけた使命ほど尊いものはありません。絶対的平和主義とは、命を害する力の脅威である攻撃性の全否定なのです。世界を威圧的に動かそうとする力への信仰が、どれほどの不幸を作り続けてきたのでしょうか。十分過ぎるほどに経験してきたのではありませんか。

『もし仏教の教義が十分柔軟性に富んでいて、対象となる心的態度が黙想的・神秘的なものであれ、合理主義的なものであれ、また、現実主義的であれ、それらをすべて受容できるというのであれば、この三つの異なる態度のいずれに対しても、仏教自体は、常に不変であるということなのでしょうか。
それとも、仏教も、種々に異なった文化や気質に合わせるために、教義を変えないまでも、強調点を変えるといった内的な変化を、ある程度経ているのでしょうか。
仏教も、その歴史と布教の長い過程において、かなりの内的な多様化を経てきたことは明白です。
そうした順応は、仏教がすべてを受けいれる受容力を示すものと受け取ることもできましょう。しかし、反面、普遍的に有効な倫理という概念を脅かす状況への妥協であったと見ることも、同じくらい可能なことでしょう。普遍的な効力をもつ思想や教えを有効に説くためには、宗教は、内的な統一性・一貫性を示さなければならないのでしょうか。(中略)
(仏教は)土着の宗教的伝統と寛大に妥協を行う中で、その中心的な関心事をさまざまな形で放棄し、その結果"万人にすべてを説く"ようになったといえるでしょう』


日蓮があらわした曼荼羅には、仏教の歴史が凝縮していると考えてもよいでしょう。いわば、万人性の象徴ですが、問題がないわけではありません。土着の宗教や民間信仰と融合を繰り返してきたのが、仏教史ですが、大乗仏教が日本に伝わったとき、天照大神や八幡神は、仏教の守護神として取り入れられました。神仏習合、本地垂迹など仏教と神道の習合は、万人性を獲得するための折衷案でもありましたが、これには仏教の中道思想がうってつけだったのかもしれません。天照大神や八幡神は皇祖神でもありますので、創価の初代会長が獄中死したことも考え合わせると、天皇制への複雑な思いもあります。
カトリックと創価で、以前、有意義な対話が行われ、その成果が出版されています(「カトリックと創価学会」:信仰・制度・社会的実践/第三文明社)。日本有数の南山宗教文化研究所との間で努めて冷静なシンポジュームが開かれ、自由なデスカッションがありました。問題は多岐にわたりますので一口に総括できませんが、宗門問題も大きく取り上げられております。95年のことであり、創価はすでに宗門から破門を言いわたされ、晴れて自由の身になった喜びがあります。それに比べて、宗門の古色蒼然の暗然たる陰鬱さは、これが日蓮の系統の宗教とは思えない凋落ぶりです。
そのなかで、世界宗教の条件と課題として、「寛容と宗教的真理」のバランスについて考えさせられる個所がありました。これは創価だけでなく、その先駆者として、キリスト教が絶えず直面してきた問題です。言い換えるならば、世界宗教として必要な万人性とは仏の寛容性の問題でもあるのです。
この論考を提出しているのは、J・ヴァン・ブラスト博士(南山大学名誉教授・カトリック司祭)。創価や宗門問題について知識も豊富であり、議論の焦点にズレが生じることはありません。
『創価学会とSGIは比較的新しい運動でありながら、古い伝統をもつ日蓮宗、そして仏教全般の中で発展してきた運動である。(中略)
今まで日蓮宗は世界宗教に発展してこなかったかもしれないが、仏教そのものは昔から世界宗教として認められてきた。SGI―日蓮宗―仏教という三角形のさまざまな側面の間の関係は、どのように考えられるだろうか。あるいは、もっと直接的に問うとすれば、皆さまはSGIの世界宗教への発展を日蓮宗や仏教の枠内で考えるか、それともそれから独立して考えるかということである。後者の場合は、キリスト教が「母胎」であったユダヤ教から分離して世界宗教になったことと類似したパターンになるのである。
仏教内部での発展をめざす場合には、次のようなことが考えられるだろう。仏教が世界宗教であることは間違いないが、長い間世界宗教としてあまり機能してこなかったことも事実である。なぜかというと、必要とされる教義と組織の統一を失ってきたからである。その代わり、いろいろな国別の仏教、宗派別の仏教になった。それは、ある部分は、さまざまな民族にかなり徹底的に土着化したということによるのである。そうした点から見ると、SGIの革命は仏教の再統一を主要な目的の一つとすべきように思われる。すべての仏教者を法華経のもとに集わせることが、日蓮聖人の夢ではなかっただろうか。オリジナルな普遍的な理念へ回帰することによって、仏教を縛っているさまざまな民族宗教から、仏教を解き放つことができるのではないだろうか。
他方、もしSGIが現在の仏教の状況はあまりにも複雑で改革し難いものと考えて、始めから再出発した方が簡単であると判断したら、よく理解できることだろう。しかし、この場合には次の二点が重要になってくると思う。一つは、これは多くの既成の世界宗教の他にもう一つの宗教が発展することを意味する。もちろんそれでよいだろうが、それは、すでに存在する宗教間の緊張を悪化させない限りにおいてである。世界平和が達成されるために、このグローバルな地球の村では、宗教間のある統一と相互協力が最大の重要性をもつことはたしかだろう』


未来の世界宗教のあるべき姿を検討しています。とても重要なので詳述すると、
『あるいは、この問題を異なった形で表現するならば、未来の世界宗教は今日の既成宗教とどのように相違すべきかということである。もちろん、これは非常に大きな問題だけれども、いくらか希望的に考えて、次の諸点を指摘することが出来ると思う。
第一に、私は、今日の創価学会でよく強調されるところの、「未来の宗教は在家の宗教であるべきだ」という点を否定するものではない。(中略)
第二に、宗教は従来、もっぱらといってもいいぐらい個人の救済(ほとんどは死後の)を目指すものと考えられてきた。未来においては、宗教の社会的責任がさらに中心的なものにならなければならないと思われる。キリスト教の中には、初めから「神の国」という形で社会的な側面が入っていたといえる。(中略)
同じく仏教にも、少し似た考え方として「仏国土」の思想があったが、私が知る限りでは、それは来世のものとして考えられてきたのではないかと思う。仏教においては、宗教の社会的責任がもっとも強調されたのは、日蓮聖人の「立正安国論」の中であったかもしれない。
未来の世界宗教が示すべき第三の特徴は、他の宗教を宗教的に認めることができることだと思う。「宗教的に」という言葉が意味するのは、本質的に市民的寛容といったもの以上のものである。すなわち、自らの宗教性から出る、自らの宗教教義に基づく他の宗教の評価ということである。これは難しい要求であり、私たちにある種の「改心」を要求し、私たちの個々の伝統の徹底的な再検討を要求するものである。キリスト教においては、こうした作業のうちの知的な部分は、現在「諸宗教の神学」として知られる学問において行われつつある。おそらくこうした作業は、日蓮仏教にとって、したがって創価学会にとって、キリスト教に比べてよりたやすいというわけではないだろう』


その他の問題点を三つあげている。
第一に、従来の世界宗教は非常に家父長的なもので、「男性ショービニスト(排外主義)」だったこと。将来の宗教においてはいっそうの男女平等の原理が求められること。
第二に、科学技術の進歩はめざましいことから、科学に適応するための妥当性が必要であること。
第三に、未来の宗教は人間主義的であること。しかし他方、人間中心的になってはいけない。
さらに、寛容の問題について
『現在、非常に異なるそれぞれの真理を代表する多くの宗教が、「宇宙船地球号」に同乗しているのである。こうした共存の性質によって、諸宗教が世界平和を脅かすか、あるいはそれに貢献するかということは決定されるであろう。したがって、次のような実存的な問いが中心的なものになると思う。自分自身の宗教を広布したいという熱望は、自らの「真理」のために他の諸宗教の「真理」を打ち負かしたいという願望を含むのかどうかと』
『キリスト教の伝統的な考え方はむしろ日蓮仏教のそれに似ているのではないかと、わたしには見えるのである。間違っていたら教えいただきたいと思うが、それは大まかに次のようなものである。つまり、「私たちのもっている真理は絶対的である。他のどの真理も、人々を救ったり真の幸福に導いたりすることはできない。我々の真理に反する者をすべて廃するということが、人類の真の善に導くものとして必要である」というような考え方である。一見したところでは、これはまったく動かし難い立場に見えるので、それをどの方向で「再検討」できるのだろうか』


キリスト教も最近まで、異教の他者を廃し、布教の対象にしてきましたが、対話の重要性を強調するように変化しました。宗教戦争や文化の破壊に見られる排他的態度は、イエスの愛に背くものとして反省され、他者をありのままに認める愛の再認識に至ったのです。そして、この鋭敏なキリスト教徒は、「日蓮聖人のメッセージを正しく理解してきたのだろうか」と、SGIと創価に迫っているのです。一神教と一仏教は東西のような開きがありますが、どちらもともに、人間を超えた普遍的実在への過程を説いたものです。その過程に至るために愛があり慈悲があるのではないでしょうか。わたしたち人間は、この崇高な行為の一部分でも実現できているのでしょうか。釈尊生誕から2500年。その仏教の歴史は、内も外も争いの歴史でした。釈尊が第一に説いた共存共栄を可能にする菩薩の心は、歴史の狭間にまだ埋もれたままなのではないでしょうか。
宗教的真理と寛容の境目で賢明な検討と実践を行わなければならないだろう。寛容とはつまり慈悲ということでしょう。今までいつも宗教的真理を優先し、他者の信仰を排除してきたこと、そのために常に争いが絶えなかったことを、寛容という徳目の真の力用とともに学ぶべきです。さまざまな価値観を持つ人々が共生する社会に、自由な精神を実現すること、それが宗教の最終的使命と思います。このような世界について、問題提起もなく、現在の宗門が対応できないのは当然と言えば当然です。生命尊重の思想を体現した日蓮の、本当の心を理解できないほど硬直化し、信者の苦しみに同苦できないほど形骸化している。


Decimator (Extended)
  Two Steps From Hell


   



宗門問題(小説・人間革命の結末)について
宗門問題をあらためて考えると、日本仏教界全般に認められる歴史的な背景があるように考えます。江戸時代の寺請制度から始まった檀家制度は、信者の自律的、積極的な信仰心からの檀家ではなく、代々の世襲として受け継がれてきた家の宗教という伝統です。明治になり、廃仏毀釈により教団存続の危機を迎えましたが、宗教本来の独立と刷新のチャンスを逃し、保身と教団経営に腐心する体質を一層強化するだけでした。日蓮正宗にも改革者は現れず、世俗化し、妻帯し、布教への情熱を失い続けました。表面的には厳格な宗旨の護持を強調しますが、檀家の信仰心はまったく謗法にまみれていたのです。僧には信徒を教育する力も意識もありませんでした。法主を頂点とするヒエラルキーは、権威と権力の象徴となり、在家信徒はただ従属するという上下関係が頑なに維持されたのです。
この保身と保守の俗化した宗門組織は、創価学会という改革意識が旺盛な在家組織が現れると、その宗教本来の布教精神に圧倒されます。保身と改革、保守と革新が対立するのは当然のこと。ゾンビのように死んでいる組織が、生き生きと活動し僧にプレッシャーをかける在家に、悪意に満ちた確執が生まれるのも自然の流れなのかもしれません。宗門問題は起こるべくして起きた歴史的問題でもあるのです。
「新・人間革命」(「誓願」五十七・6月1日聖教)では、1991(平成3年)年の宗門の「お尋ね」文書に関連して、宗門の僧俗観の一端が紹介されています。
『本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは、大きな慢心の表われであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するもの』
それまでの形骸化した既存仏教に対し、日蓮がどのような革新的教義と行動で臨んだか、750年前の清新の息吹は影も形も失われている。僧俗和合の破壊の原因は、行動をともなわず知識とプライドばかり高い、宗門のその古びた感覚にあるのです。究極的な平等論を展開する法華経の精神は、日蓮時代から著しく退化し劣化している。
末法は、在家中心に布教運動を前進させ、それぞれの信仰者の人生の節目において必要不可欠な葬儀法要といったセレモニーを、僧は補佐する役目があるのです。また信仰者の模範として人格的にも少欲知足でなければならず、強い護法への決意も必要です。僧が偉いわけでなく、また在家が偉いわけでもない。単なる役割分担に過ぎないのです。十界論も僧俗に区別があるわけではない。御本尊の前では、僧であれ在家であれ、成仏を願う一人の信仰者なのです。
創価内でも同じです。会長もブロック長も 白ゆり長も一つの役割として機能し、一人に焦点を当てるために、一人の成仏と人生改革が最も大切であり、基本であることを認識しなければならないでしょう。万人のための成仏の法は、一人のための成仏法に収斂します。会長の貢献度もB長の貢献度も、人間一人に対する貢献度は同じであり、その平等と公平さのなかに妙法の正しさがあるのです。地位や身分、職業、経済的富や資産に左右されないのです。妙法に対する心の財は、信仰者の当然の心構えとして、今更強調する必要もないですね。
妙法流布は在家が主体です。創価は拡大と献身に自信があるのでしょうか。宗教の根本を変更することに躊躇がありません。創価は信仰心が篤いと自己評価に等しいのですが、こういう信仰者を教育してきたのは宗門ではないのでしょうか。僧俗平等思想を実現してきた創価に、僧俗不平等を伝統にしてきた宗門が、我慢ならずに首を切ったということです。
誤解を承知で極言すれば、僧のために在家があるのではなく、在家のために僧があるのです。仏教は一切衆生のために説かれたものであり、その流布の系譜に立って、日蓮も三大秘法を顕しました。一部の特権僧に血脈が付属し、同時に帰依の対象になるなど言語道断。法主絶対論は日蓮仏法ではありません。
僧の位置づけは、布教の可能性を考えるうえでも、とても重要課題です。創価内ではほとんど、僧の必要性が感じられないからです。宗教に付随する儀式的なことは、在家にとって重要な事柄ではありません。儀式はあくまでも儀式であり、形式であり、宗教を荘厳するために必要悪のようなものです。プラグマティックな進化を遂げている世界にあって、実質の宗教本体に帰依する価値があるかどうかという根本的な問題こそ重要です。
仏教の伝統的な三宝論は、どのようにして確立されたのでしょうか。その歴史的経過を十分に検証しなければなりませんが、わたしはこのようなことを僧自身によって研究チェックしていただきたいということ。日蓮は三宝論の弊害を克服するために、三大秘法をあらわし、御本尊を書き認められたのではないでしょうか。三宝は御本尊という曼荼羅に包括的に内包されていること、三宝という伝統を打ち破る革新性を妙法に求めたのではないでしょうか。三宝論の伝統を克服すること、それが妙法の革新性を際立たせることなると考えます。
信徒の実践の基本は唱題です。他者教化という行としての折伏です。そのような個人の修行のなかに僧が立ち入る余地はありません。つまり、御本尊と信仰者という、その間より仏法はないのです。
御本尊は権威や権力で拝むものではありません。血脈などという厄介なものは、わたしに言わせれば、正統の権威づけの一部に過ぎません。御本尊と信仰者、そのシンプルさのなかにすべてが収まるのです。

わたしは僧俗和合を願っております。そのためには宗門のなかで聡明なリーダーの出現が待ち望まれますが、簡単ではありません。また創価もドグマの嵐に襲われ、対立のもとになる寛容心の涵養を忘れたようです。唯一絶対正しいなどと誇大妄想に等しい異常な自我肥大は、エゴのかたまりであり、常に争いの元凶です。老齢の池田先生にその指導性を求めるのは、もう無理なことなのでしょうか。老い衰えても正常な判断が可能な状態にあるのでしょうか。
問題意識を怜悧に持ち、聡明なインテリジェントを結集しない限り、無秩序と混迷が渦巻く世界に、創価の旗を立ち上げることはできないでしょう。


   
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