覚書

『法華玄義』観心「佛如衆生如一如無二如」の国訳

『玄義』を読んでいたら、本十妙・十重の観心の段に「佛如衆生如一如無二如」と如が羅列する記述、面白いと思った。

この文は観心の重。参禅して、文を心に凝らし、何度も繰り返し想う。
すると「佛如、衆生如」「ああ、一如か。二如でなない…」と、すとんと腑に落ちた。

「佛如・衆生如、一如、無‐二如」
「佛如も衆生如も一如、二如では無い」

静慮するに、文は簡潔、短文がよい。
初心には、長い文書は覚えきれないし、思い出すのに苦慮すれば静慮を妨げる。

ならば、国訳はどうなっているのか、俄かに興味が湧いた。
しかし、手元にない。ネットで検索すると、近隣の図書館に蔵書があった。散歩がてら、閲覧に行った。

書庫から出していただいた書には〔貸出禁〕のシール。古書特有の香りがした。
換気され、席の間を取る閲覧室は「30分以内」の張り紙。座り込んで頁を捲る。

佛如衆生如一如無二如は、そのあとには、我如如佛如、願我如速如佛如と“如”が続く。
含めて国訳を覧る。

ほとけにょと衆生のにょとは、一如いちにょにしてにょければなり…我如わがにょ佛如ぶつにょにょす…ねがはくは我如わがにょすみやかにほとけにょにょせん」

文章は長くなり、文字数も多い。読むのに時間がかかる。古き良き日本語として美文だとは思う。しかし、もはや、原文の類推は困難だ。

原文が、わからなければSATや、天台電子佛典も使えない。
しかし、かつて国訳を使っていた人々は、十分に漢原文も頭に入っていたはずだ。国訳だけ、読む人はいなかったろう。それがいまでは現代語しか読まない人もいる。唖然。

例えば「我本行菩薩道」とあれば、法華経寿量品の文だと想起できる。白文で読経してきた功徳である。

漢訳大蔵経は1千年以上に亘る不朽のアジアのデータベースなのだ。まさに至宝である。
この句は法華経のみならず、SATでは73カ所でヒット、
法華六大部でいえば、玄義に5カ所、釋籤に1カ所、文句記に2カ所、弘決に1カ所の用例と、即座に検索ができる。
しかし、これが訓読や現代語になっていれば、もはやどこにあるのか検索のしようもない。

もちろん、その漢訳もまたサンスクリットやパーリ原典の適訳か、という問題は抱えている。
しかし、これはまた別の課題であるが、いま措て置くこととしたい。

§


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「本因下種」とはなんぞや

FBを閲覧していると「本因下種」という用句が使用されていた。
そういえば、まだ大石寺にいたころ、そんな言葉を自分も頻繁に使っていたと思い出した。

しかし、天台電子佛典CD3レベルで検索しても、この用例はなく、『伝教大師全集』にもない。天台本覚論と言われる文献のテキストデータは、あまり持ち合わせておらず、『一帖抄』『八帖抄』『漢光類聚』『本理大綱集』ほか僅か。その限りだが、用例はない。
ネットで検索すると、法華宗、本門佛立宗、大石寺、創価学会がヒットした。
法華宗、佛立宗のデータベースは持っていないが、『富士宗学要集』では67、主に日寛、日隠、日亨が使用していた。

法華宗の祖・日隆は1385年生・1464年没、大石寺の日寛は1665年生・1726年没だから、日隆が300年早い。日隆の著述から「本因下種」の用例は確認していないが、法華宗が先行し、大石寺が影響を受けた時系列なのだと思える。
近年では、主に大石寺の影響を受け、創価学会も使用してきた。

「本因」とは、『玄義』釋名本十妙の1本因妙を略して「本因」というのだろう。『法華経』本門に説かれる久遠五百塵点における釈尊の菩薩道を指す。

では「下種」はといえば、法華三大部に用例はなく、妙楽湛然の『文句記』『止觀弘決』にはある。因みに大石寺・創価学会ではお馴染みの「脱益」は六大部に用例はなく、しかしながら、「熟益」は『止觀弘決』に1回ある。

さて、“種”が妙法蓮華経五字であるとは、『観心本尊抄』における日蓮説に拠るのだろう。

「以本門論之一向以末法之初為正機 所謂一往見之時(大通)以久種為下種 大通前四味迹門為熟 至本門令登等妙 再往見之不似迹門 本門序正流通倶以末法之始為詮 在世本門末法之初一同純円也 但彼脱此種也 」

法華経における下種とは、三千塵点における大通智勝仏に係り、一往は『法華経』本門に等妙に登り脱とする。そして、再往は妙法蓮華経五字は末法の衆生の種という。

整理すれば、
“脱”は法華経本門の大通智勝仏の講説
“種”は末法における地涌菩薩による妙法蓮華経五字の受授

「彼脱此種也 彼一品二半此但題目五字」

“脱”でいう下種は大通仏の法華経、“種”でいう下種は地涌菩薩の妙法蓮華経五字で、言葉は同じ“種”でも異なる。

「像法中末観音薬王示現南岳天台等出現以迹門為面以本門為裏百界千如一念三千尽其義但論理具事行南無妙法蓮華経五字 並本門本尊未広行之 所詮有円機無円時故也…此時地涌菩薩始出現世但以妙法蓮華経五字令服幼稚」

やや横道であるが、日蓮は、他書に一念三千によって皆仏になったと説明するが、末法に地涌菩薩が下す種は「但以妙法蓮華経五字令服幼稚」という。そして結論として「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」といい、ここに一念三千観法を完全に消沈させている。

詳細は繁きなるのでこれくらいとするが、以上の次第であるから、仏陀釈尊の五百塵点の菩薩道である“本因”と、いま末法の下種は、そもそも時機も内容も全く異なる。それにも関らず本因と下種を括り「本因下種」と、何ゆえ四字熟語を結ぶのか。

いずれにせよ、天台学説、日蓮説とも関係のないと結論できそうである。

悲母逝て15年

本日は母の祥月命日
冥福を祈ると共に
葬儀を執行下さった
楠山泰道上人
貫名英舜上人ほか
ご厚情を賜った
大埜慈誠上人
池田英邦上人ほか
各聖に
復弔問下さった皆様に
甚深の御礼を申し上げます


蹲踞敬礼


梵字アンの漢字表記か②



梵字アン字アン の漢字表記と思しき文字を挙げた。(図一番右)
こんな漢字があるのだろうか。
諸橋大漢和辞典や、康煕字典で調べてみたが、見当たらない。

梵字アン字の表記文字は、梵字‘あ’ 字の、漢字で言えば偏(左側)を不、旁(右側)を丄、ン音を亠という似通った字画で形象したものだろうと思え、漢字・国字というより、記号に分類されるのかもしれない。

文章で書くとわかりづらい。
図式化してみたのが、上図である。
元の梵字 梵字アン字アン と見比べると、デフォルメされた形象であることが、よくわかる。

どうやら、漢字というよりは、記号と呼んだほうがよさそうである。
わたしは、他の梵字につき、こうした作例を知らないのだが、他の梵字にもあるのだろうか。
諸賢のご教示を願いたい。


梵字アンの漢字表記か①

あんYouTubeで「蘇る仁王」という作品を観ていたら快慶の名である「梵字アン字アン 阿弥陀佛」の 梵字アン字 の漢字表記らしき文字が出てきた。現行“安”が当てられたりするのだが、右図であった。不勉強にして知らなかった。

かつて梵ぼろん字ボロン の漢字表記が「勃魯奄」であることを苦労して探したものだが、まったく意図せず、動画を鑑賞して知識を拾えるというのは、実に興奮するものだ。

現行、最澄と書かれるのが「㝡澄」であったり、空海の海が毎に水を上下に重ねた字であったり、鬼の古字は角がなかったり(参:角なし “鬼” の鬼子母神伝説のウソ)、近代の代替字で廃れたしまった真字を知ることは、まことに価値がある。

いまは中断している『日蓮墨筆を読む』でも学んできた、編集改竄される以前の日蓮文書は、まさに宝の山のような輝きを持っている。

こうした発見は現代表記に改められたテキスト・データばかりを参照にしていると、けっして得られないのである。

につづく ―

梵字アンの漢字表記

あんYouTubeで「蘇る仁王」という作品を観ていたら快慶の名である「梵字アン字アン 阿弥陀佛」の 梵字アン字 の漢字表記が出てきた。現行“安”が当てられているするのだが、右図の字であった。
不勉強にして知らなかった。

かつて梵ぼろん字ボロン の漢字表記が「勃魯奄」であることを苦労して探したものだが、まったく意図せず、動画を鑑賞して知識を拾えるというのは、実に興奮するものだ。

現行、最長と書かれるのが「㝡澄」であったり、空海の海が毎に水を上下に重ねた字であったり、鬼の古字は角がなかったり(参:角なし “鬼” の鬼子母神伝説のウソ)、近代の愚にもつかない代替字で廃れたしまった真字を知ることは、まことに価値がある。

いまは中断している『日蓮墨筆を読む』でも学んできた、編集改竄される以前の日蓮文書は、まさに宝の山のような輝きを持っている。

こうした発見は現代表記に改められたテキスト・データばかりを参照にしていると、けっして得られないのである。

梵字アンの漢字表記か

あんYouTubeで「蘇る仁王」という作品を観ていたら快慶の名である「梵字アン字アン 阿弥陀佛」の 梵字アン字 の漢字表記らしき文字が出てきた。現行“安”が当てられたりするのだが、右図であった。不勉強にして知らなかった。

かつて梵ぼろん字ボロン の漢字表記が「勃魯奄」であることを苦労して探したものだが、まったく意図せず、動画を鑑賞して知識を拾えるというのは、実に興奮するものだ。

現行、最澄と書かれるのが「㝡澄」であったり、空海の海が毎に水を上下に重ねた字であったり、鬼の古字は角がなかったり(参:角なし “鬼” の鬼子母神伝説のウソ)、近代の愚にもつかない代替字で廃れたしまった真字を知ることは、まことに価値がある。

いまは中断している『日蓮墨筆を読む』でも学んできた、編集改竄される以前の日蓮文書は、まさに宝の山のような輝きを持っている。

こうした発見は現代表記に改められたテキスト・データばかりを参照にしていると、けっして得られないのである。

犀の角のように独り歩くプラ・アキラ・アマローのこと

タイjpg知人が「最後に犀角独歩が出てきますよ」と、勧められて読んだ YAHOO!ニュース『我欲と放蕩の果てにたどり着いた異国――直木賞の栄光からタイで出家、コロナ禍の日本を見つめる男

プラ・アキラ・アマロー。第101回直木賞受賞者である笹倉明はタイに渡り、出家し、修行しているという。
この方の生き方は、わたしが憧れていた形なのかもしれない。

備忘録。最後の結論。

<犀の角のように、ただ独り歩め>

群れではなく単独行動で生き抜くインドサイの、その雄々しい一本角に仏陀は孤高の強さを見た。

「自分というものを持って、まわりに流されず、信じるものを実践していく。そんな意味かな。それに、仏教には『自灯明、法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)』という言葉もある」

自分自身を灯火、道しるべとすべし、そして仏法を拠り所とすべし、という考え方だ。個の強さを持つことも、仏教は教えている。他者とのコミュニケーションに飢えているコロナ禍のいま、そんな教えは明かりになるのではないか。

「仏教は人が幸福に生きることや、人の救済を徹底して追求している。こういうご時世になると、本当に底力があると感じます。日本も仏教国であることをもう一度、根本から考える必要があると思います」

そして仏教では、こうも説いている。

<この世のものはすべて、消え去るものである>

すべてはいつか滅していくのだ。

「なにもかもは、常ならざるもの、移り変わっていくもの。『無常』なんです。コロナウイルスもやがては消え去っていく。いつまでもこんな世の中じゃないでしょう。人の叡智や科学だって、僕は信じていますよ」

私注:かつて『スッタニパータ「犀の角」という訳語について』と記して書いたことがある。

着けたり外したり大石寺山門の鶴丸大提灯

大石寺では三門を改修。この建物はなかなか立派だと思う。
いまは銅葺であるが、昭和初期までは桧皮葺であったという。わたし個人としては、日本特有の桧皮葺のほうがよいと思うが、近代の流行に合わせたのだろうか。
いま、ここに三門の詳細を囲うとは思わないのだが、ある人から問われて「はて?」と思ったことがあった。

三門左右の空間に、以前、鶴丸が凝らされた大提灯が下がっていたという。
たしかに、そんな記憶がある。しかし、なかったように思える。さて、どちらであろうと三門写真の載る本を何冊か開いてみた。

手元にあるものを順番に書けば

①明治44(1911)年 『日蓮上人』熊田葦城(報知社)
②昭和36(1961)年 『日蓮正宗』(聖教新聞社)
③昭和45(1970)年 『日蓮正宗大石寺』(篠原善太郎)

いちばん古い①『日蓮上人』は、版が悪く左右の空間が確認できない。
②『日蓮正宗』は、創価学会の登山会の様子を写すその後ろの三門。赤い枠で括った空間。何もない。
ところが③『日蓮正宗大石寺』では、大きな提灯が下がっている。

つまり、三門大提灯は昭和30年代にはなかったが、昭和40年代にはあった。
大石寺の『富士年表』を捲ると昭和44(1969)年に「5.4 大石寺三門広場完成(大日蓮208)という記載がある。折りしも、正本堂建造最中のこと。10月には定礎式が執行された(大日蓮285)記述も載り、当時、大石寺全体の整備が進められていたことが窺がわれる。三門広場が出来たときに、併せて大提灯も下げたのだろうか。

しかし、いつの間にか大提灯はなくなっていた。
つまり、提灯があった・なかった、其の両方の記憶ともに合っていたことになる。

ところで三門の左右に、何故空間があるのだろう。
造形から見て、この空間は、どうにも間が抜けている。だからこそ、提灯も下げたのだろうが、建造当初から単なる空間であったのだろうか。案外、一対の仁王像が置かれていたのではないだろうか。その後、大石寺は造仏を否定することになるから、いつの頃か、仁王像は撤廃された。そんな想像を逞しくした。

桧皮葺の大屋根の朱塗りの門。その左右に仁王像が鎮護する様は、なかなか見事ではないか。莞爾




日蓮「出世の本懐」とは何か:Twitterでの質問に答える

Twitterで、世界の片隅で生きてます(仮)さんから「聖人御難事の「仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり」「余は二十七年なり」と仰せられた出世の本懐とは、どのようにお考えでしょうか。独歩さんの個人的な所感をお教えいただけますでしょうか。」というご質問を受けた。

Twitter上で回答しようと思ったが、文字数の制約があるので、Blog でとした。
本日、夜までにお答えすると言った手前の走り書き。
追って推敲し、完成度を高めたいと思っているが、取り敢えずの回答としたい。

〇以下、回答

日蓮の「出世の本懐」について、『聖人御難事』を読む限りでは、27年に及ぶ度重なる法難を指して言っているとしか取れませんが、いまは想像を逞しくし管見を述べさせていただきます。

『聖人御難事』を著される直前の9月26日、日興と諸人に宛て「此の事はすでに、梵天・帝釈・日月等に申し入れて候ぞ。あへてたがえさせ給ふべからず。各々天の御はからいとをぼすべし」といい、またその4ヶ月前には「あながちに申させ給へ。日蓮が身のうへの一大事なり」とも記しています。
それぞれ断片のようで “このこと” “一大事” が何を指すのかわかりませんが、日蓮と弟子檀那に重大な出来事が起きていたことは想像できます。それは前年より続く熱原の弾圧か。しかし、それをもって「出世の本懐」というのは、どうも腑に落ちません。

日蓮の思弁を大まかに整理すれば
・法華経を信仰しない日本は自界叛逆と他国侵逼により滅ぶ
・防ぐためには国王が法華経を信仰することだ
・信仰する具体的な意味は受戒である
・本門戒壇を建立し国王を授戒する
・本門戒壇における戒師は本化上行菩薩である
・日蓮本人が上行菩薩か
・二難を払い、立正安国を実現する

弘安2年には国家的大事件が起きました。7月29日、幕府、元使を博多に斬ったのです。このことによって蒙古の再来は決定付けられたと思えます。
日蓮がこの事件を知っていたかどうか、これまた憶測の限りですが、知っていたとすれば、日蓮の半生において、文永の役に次ぐ、大事件の予兆であったと判断しただろうと思います。

本門本尊たる四菩薩像を副えた寿量仏像の意義については『観心本尊抄』で述べ、本門の題目を授与するための漫荼羅も図示も始めた。残るは国王に授戒するための本門戒壇の建立のみである。国家を救う道は、国王の法華経信仰、そのために国王を授戒する本門戒壇を建立し、自らが戒師となり国王に授戒することと考えていたと、わたしは考えます。

本門本尊(四菩薩像を副えた寿量仏像)、本門題目の授与(漫荼羅)については『観心本尊抄』で十分に勘案していましたが、残る本門戒壇の着想は何から得たのか。
日蓮が学んだ三井・園城寺は正嘉元(1257)年に戒壇建立を朝廷にはたらきかけ、文応元(1260)年、いったん三摩耶戒壇が成るも山門の攻撃にあい、時頼・後嵯峨は後退し戒壇勅許の官符を返上。文永(1264)年には、山徒園城寺戒壇を焼きはらったわけですが、こうした事件から日蓮は本門戒壇を勘案したのではないかと、思えます。なにより『立正安国論』で促した国王の法華経信仰を実現する具体的な方途としての信仰の証である授戒には戒壇と戒師が必要です。戒師とは具体的に上行菩薩でしょう。

日蓮自身が上行菩薩であることは、『立正安国論』の予言は的中、三類の強敵に耐え法華経の行者とし、公場対決に臨み勝利することによって証されます。蒙古襲来によって予言は的中。三十年近くに及ぶ法難の連続。
残る公場対決にいて、弘安元(1278)年3月21日、『諸人御返事』で、実現できると日蓮は喜んでいる様子が窺がえるます。

「…宛如符契 所詮 召合眞言禪宗 等謗法諸人等令 決是非 日本國一 同爲日蓮弟子檀那 我弟子等出家爲 主上上皇師 在家 烈左右臣下 將又 一閻浮提皆仰此 法門 幸甚々々
 弘安元年
 三月廿一日 戌時
日蓮花押
諸人御返事」

4ヵ月後の7月に図された安49から漫荼羅の花押は、鑁字から勃魯奄字に変更します。
勃魯奄字は一字金輪を意味し、王に授戒する梵字です。
本門本尊(四菩薩像を副えた寿量仏像)、本門題目授与の法具漫荼羅も準備できた。
後は戒壇を建立し、国王に授戒をし日本を法華信仰の国として立正安国を実現する。

この成就が建長5(1253)年より27年目に当たる弘安2年できるという確信が『聖人御難事』にいう「出世の本懐」だったのはないのか、というのがわたしの類推です。

取り急ぎ書きましたので雑駁ではありますが、以上のごとく考えております。