日蓮仏法入門

池田先生「家計を軽んじるなかれ」

こころに響くことばより

国家でも会社でも財政が乱脈であれば、必ず崩壊してしまう。

家計の整理と計画が無いようでは、生活の向上を願っても無駄である。




祈っていれば勝手にビットコインが値上がりし、経済革命できるなどということはありえません笑

仏法は、おまじないではないのです。

収入以上に浪費すれば、お金が貯まらないのが道理です。

一攫千金の祈りは、それ自体が法華経に背いているので、かなうことはありません。

あなたの使命は、ビットコインの売買をすることではないはずです。

ベンジャミン・フランクリンがいうように、節約と勤勉以外、経済革命の道はないのです。

池田先生「悪なくして善なし」

人生の座標より

悪なくして善はなく、善なくして悪なし

悪も、対応のいかんによっては善に転じ得るのだという点では、可変的実在なのである。




蓮祖は日本を侵略してきた蒙古国を「隣国の聖人」「天の御使」と呼ばれています。

もちろん侵略戦争は世法の次元では「大悪」です。しかし、仏法の次元では蓮祖を弾圧する日本国を罰するので、「極善」に転じるのです。

健康な人を間違って手術したら大悪ですが、命を救ったら大善です。

ゆえに、小悪小善にとらわれることなく、常に「法華誹謗」という極悪と戦うことに集中しなければならないのです。







善と悪とは無始より左右の法なり

治病大小権実違目





池田先生「苦難と戦うことが幸福」

人生の座標より

人生の目的は何か。勝利者になること、幸福になることだ。

では幸福とは何か。「充実」です。

充実とは何か。「苦難」と戦うことです。

苦難が無ければ充実はない。充実が無ければ幸福ではない、

何の苦労もない幸福など、どこにもない。





夜になると眠くなる。これは苦難、ストレスです。

眠ると、眠気というストレスが解消され、幸福感を得られます。

もし、眠気を感じなかったら、眠ることは苦痛でしかありません。

お腹がすく。これはストレスです。

食べると、空腹というストレスが解消され、幸福感を得られます。

空腹でもないのに食べるのは、苦痛にしかなりません。

何のストレスもない世界だったら、幸福はありえないのです。








池田先生「芸術が地上を楽土にする」







人生の座標より

文化とか芸術というものは、人間が人間として最高の人生を飾り、エンジョイしていくために必要なことであり、動物にはないことです。

地上に楽園を作ろうという「善」の心を引き出す作業です。

芸術こそが人間を人間らしくするのです。






小乗経には芸術否定の戒律もありますが、我ら末法の衆生には高潔すぎます(笑)

確かに、芸術などなくても生きていかれますが、それを言い出したらお酒もたばこもスイーツもテレビもYoutubeも恋愛も結婚も家族も生きる上で必要ないわけで、ずいぶん不毛な人生になってしまいます。

明らかに、小乗の戒律でがんじがらめの人生では、幸せになることはできません。

成仏と言っても、要はみんなで幸せに生きることです。堅苦しく考える必要はありません。






池田先生「介護は聖業」

人生の座標より

どんな人にも、人間らしい最終章を飾る権利があります。

介護はその人生のフィナーレを演出する貴い仕事です。

介護は「人生の聖業」と言えるでしょう。






高齢者や障碍者の介護が充実していることは、仏国土の絶対条件です。

介護を必要とするのは、一見、社会にとっては「必要ない」「負担にしかならない」人々に見えます。

勤労や納税など、社会人としての義務を果たさず、権利ばかりを行使しているように見えます。

しかし、「社会にとって負担になる人間はいらない」という思想は、全体主義そのものです。

社会に貢献できる健康な人だけが賞賛され、そうでない人が低く見られるのは、暗黒社会なのです。

畜生は決して介護しません。自力で生きられなくなった個体は、実の親であろうと見捨てられ、天敵のエサにされるに任せます。

要介護者の存在こそが、人間を人間足らしめているのです。

人間社会はプロスポーツのチームではないので、役立つ人だけに生きる権利があるわけではありません。

人は誰でも、無条件に生きる権利があります。愛される権利があります。幸せになる権利があります。

社会はそのための手段に過ぎず、決して社会のために人間がいるわけではないのです。

社会への貢献度で人命の軽重を決めることがあってはなりません。



牧口先生も、自ら寝たきりの義母を介護されていました。

介護とは、仏法の体現そのものなのです。




「役に立たない人間」こそが必要







「社会の役に立たない、迷惑をかけるだけの人間は、生きている意味がない」

「社会の役に立つ人間ほど価値が高い」

これは、時代や場所を問わず、人間社会に根強く偏在する価値観です。

しかしこれは「全体のために個人が存在する」という考え方であり、まさに全体主義です。戦前の滅私奉公、さらにはナチズムやファシズムに通じてしまいます。

全体のための個人であれば、全体に貢献しない個人は全員ガス室に送っていいことになってしまいます。

特に今日では、新自由主義によって、生産性の高い人間ほど価値が高く、それ以外の人間を見下す風潮がありますが、彼らは自由主義者のようでいて、結局は全体主義者なのです。

全体に生命が存在するわけではありません。生命はあくまで個人です。

したがって仏法上は、尊厳の主体はあくまで個人であり、全体は手段です。国家はもちろん、宇宙そのものですら手段です。ここを絶対に勘違いしてはいけません。

仮に、全く社会に貢献しない人がいたとしても、彼ひとりの生存権を社会全体で保証することこそが「個人の尊厳」のために必要なのです。

凡夫の目に見えないだけで、実際には、無用な人間など誰もいません。無用だったら最初から生まれてこないし、すでに死んでいるはずです。

自分が社会に貢献しているかどうかなど、結果論であり、本来、全く気にする必要はありません。あなたの存在そのものが無限の尊厳なのです。






本尊とは法華経の行者の一身の当体なり

御義口伝(御書760頁)




もしもあなたが存在しなかったら






「自分ひとりいなくなっても、世の中何も変わらない」

あなたはそう思っているかもしれません。

仏法では、全てが縁起で生じると説かれています。

なので、あなたがいない場合、あなたとの縁によって生じる一切も、また生じないことになります。

つまり、宇宙そのものが存在しないことになります。

もし、あなたが宇宙に必要ない存在であるならば、とっくに消去されているはずです。今、生きていることが、宇宙に必要不可欠である、何よりの証です。

主観としても、あなたの誕生によって宇宙が始まり、死を以て宇宙の歴史が終わります。

仮に、あなたが存在しない宇宙があったとしても、それは最初から無いに等しいので、全く気にする必要はありません。

1人に無限大の尊厳を見出すのが、この仏法なのです。






宿業を借金に譬えると

法華経に帰依すると、過去世から積もってきた宿業という負債の返済が、ただちに免除されます。

これが、いわゆる罪障消滅です。

ただし、返済がなくなっても、生活費は当然かかります。宿業がなくなっても、魔が競うことは避けられないのです。

入信後に起こる所難は、過去世の宿業によるのではなく、全て魔の働きと考えていいでしょう。

魔が「宿業のふりをして現れ」あなたに不信を抱かせようとしているのです。

紛らわしさこそ、魔の特徴です。

この魔を破ることで、三世に渡り崩れぬ福運を築くことができます。

なお、宿業は冥伏しているだけで、消えるわけではありません。

したがって信心を失うと、ただちに「返済義務」が復活します。

ゆえに、生涯不退転の信心を貫く必要があるのです。

流罪は事実上の極刑だった

御在世当時の刑法では、笞刑、杖刑、徒刑(懲役)、流刑、死刑の順に重刑とされていましたが、死刑は平安時代にほとんど形骸化しており、特に出家の死罪は避けられたので、流罪は事実上の極刑でした。

すなわち蓮祖は、冤罪によって国家権力から2度も極刑を宣告されながら、それを乗り越えて法体の広宣流布を成し遂げられたのです。

この信心は「難を乗り越える信心」です。「難を避ける」信心ではありません。

難が起こらなければ、宿命転換もできず、法華経の修行ではありません。


特に今は、コロナに感染したり、生活苦に直面されている同志が大勢いるでしょう。それも、信心しているが故の難であると受け止めるべきです。

広布のリーダーは、第六天魔王から狙い撃ちにされます。人一倍警戒していても感染してしまうケースが多いはずです。

南無妙法蓮華経を唱えればコロナにかからないとか、収入が減らないなどということはありません。

むしろ、コロナにかかってもそれを乗り越えて以前より健康になれる、失業しても以前より高収入になれるのが、この信心なのです。

池田先生「宿業と成仏は無関係」

「開目抄」講義より



今を決定づけたのは過去世の因ですが、同時に、未来を決定づけるのは今この瞬間です。

過去の業因が未来をも規定するものではありません。

大聖人が宿業を説くのは、あくまでも宿業は必ず転換できることを示すためです。



通常の罪障消滅観は(中略)過去の悪業の果報を現世でひとつひとつ受けて消していくという受動的な因果の考え方です。

これを大聖人は「常の因果」と表現されました。

大聖人の仏法における宿命転換は、この「常の因果」によるのではありません。

不信・謗法を打ち破る修行を因とし、妙法の太陽が胸中に現れて仏界が湧現することを果とする因果、つまり「成仏の因果」なのです。







法華経に帰依した瞬間、常の因果による過去世の宿業は消滅しています。

日の出によって、くず星の光が一瞬で消え失せるようなものです。

南無妙法蓮華経を信じ唱えるあなたにとって、過去の罪業などもはや何の関係もない話です。

ただしこれは、一念に狂いがあると、再び過去世の宿業が現れることを意味しています。

遠山清彦元議員も、若いころには真剣に信心に励み、政治活動に打ち込んでいたでしょう。

しかし近年は、日本会議の会合に出席するなど、信心より票集めを優先しているとしか思えないような行動が見られました。

この厳しい現証は、やはり、彼自身の一念の狂いから生じたと見るほかないでしょう。

一生成仏には、生涯信心を貫く以外の道は存在しないのです。









法華経の心は当意即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり

御書1373頁