指導集

汲めども尽きぬ希望の源泉 -指導集(24)

 

 

勝利の経典「御書」に学ぶ 第7巻 曾谷殿御返事(輪陀王御書)より抜粋

 

唱題にあたって大事なことは、「ありのままの心」「素直な心」で祈っていくことです。悩んでいる時もある。苦しい時、悲しい時もある。そんな時は、子どもが母親の胸に飛び込むように、御本尊にそのままの命でぶつかっていけばいいのです。よく戸田先生は、「形式ではない」と言われた。先生は「御本尊への本当の心でぶつかっていくのです」とも語られていました。唱題行は、大聖人の生命をわが身に現していく修行であるとして、「大聖人の御生命のこもった題目を」と指導されたこともあります。

 

たとえ悔やまれることがあっても、二度と繰り返さぬ決意をして、未来へ向かって新しい出発の唱題を、勝負を決する時は、断じて勝つと勇気凛々の力強い唱題を。三障四魔との戦いの時は、魔を断固、打ち破る師子王の如き唱題を。宿命転換の時は、断じて負けないとの不退の唱題を。喜びの時は、深い感謝の題目を――。

 

御書に仰せの通り、「苦楽共に思い合わせて」、ただひたすら、題目を唱え抜いていくことです。わが生命を磨くには、唱題行しかありません。「題目第一」の人は、無明に曇った生命も磨き抜かれ、必ず法性の明鏡の生命となることができます。題目は生命練磨の作業です。ゆえに、「心こそ大切」なのです。

 

したがって、題目の功徳は、何遍唱えたかという数量で決まるものでは絶対にありません。「心ゆくまで唱える」ことこそが大事なのです。御書には、これだけの題目を唱えよなどと、唱えるべき量を定めた仰せはありません。祈りは、「心の固さ」であり、「信心の厚薄」であり、「志ざし」「一念」で決まります。

 

ただし、本人が心から決意して数の目標を定めることも信心の現れです。自分が決意した分だけ唱題する。そして、絶えず決意を深めていく。「日夜朝暮に懈(おこた)らず磨くべし」と仰せのように、たゆまず、唱題行を持続した人が勝利することは間違いありません。

 

自身の生命変革を忘れ、決定した一念のない〝おすがり〟や、逃避や臆病から、現実生活の努力や挑戦を放棄して、〝棚からぼた餅〟を望むような信仰は、仏法の本義から逸脱しています。唱題行は、わが生命を変革しゆく「人間革命」の修行です。どこまでも自身の一念を深め、諸天善神をも動かし、絶対勝利を実現する「誓願の題目」であってこそ、大聖人の仏法の唱題行となります。

 

 

 

「5・3」記念中部の各賞合同授賞式 1986.5.7「広布と人生を語る」第8巻

 

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と仰せである。(中略)釈尊が仏に成るまでの無数の厳しき修行も、仏としての功徳も、すべて「妙法五字」すなわち三大秘法の「南無妙法蓮華経」に具足していると仰せである。

 

ゆえに私どもが御本尊を受持し、題目を唱えゆくとき、釈尊の、菩薩としてのたいへんな仏道修行、難行苦行も、仏にそなわる無量無辺の福徳と歓喜と幸福も、いっさいが自身のものとなり、今世において一生成仏していけるのである。これほど簡潔にしてすばらしき成仏への原理、ありがたき法理はない。

 

「教・弥(いよいよ)実なれば位・弥(いよいよ)下れり」とあるように、受持する法が偉大であればあるほど、横根が低く難行に耐えられない衆生をも広く救っていくことができる。大聖人の三大秘法の大法が無上道の法であるがゆえに、唱題行というもっとも簡単にして肝要の修行によって、一切衆生を成仏させゆく力があるのである。

 

この唱題行が、だれびとにも可能で、あまりにも簡単であるがゆえに、その深さがわからず、大聖人の仏法を軽蔑し、侮辱していく人がいる。また退転していく人がいる。まことにもったいないことであり、大いなる過ちである。どうかいっさいの悩みは、病気であれ、生活苦であれ、人間関係であれ、また苦悩の人々を社会の最前線で救っていく弘教のうえでの悩みであれ、すべてが御本尊への唱題の行によって歓喜の因となっていくことを確信していただきたい。

 

妙法の力用によって、苦しみ悩みを、永遠にわたる歓喜と幸福の原因としていけるのである。ここに信心によって得られた、本有常住の生命の位があり、大我に染めぬかれた実像の幸福があるのである。

 

【ひと言感想】 題目を唱えられる我が身の福運に感謝するとともに、いま一度、初心・原点に帰り、新たな前進を開始していきます。

 

 

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退転・反逆者の本質 -指導集(23)

 

『人間革命 第1巻』から読み直してきて今、『新・人間革命 第16巻』に入ってきました。トータルで12冊+16冊=計28冊目に差し掛かったことになります。

 

当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(御書1339㌻)とある通りです。退転の輩が知ったかぶりの狡賢き小才でいかに学会を貶めようとも、結局は「還著於本人」の原理により、口から出たゴミ(=悪口)は当人の身に厳罰となって返っていくのです。

 

第16巻の「入魂」の章から備忘的意味を込めて特に印象に残った部分を抜粋します。

 

 

伸一は、「最後に皆で御書を研鑽したい」と言って、朗々たる声で、御書を拝読していった。それは「佐渡御書」の一節であった。

 

「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がか(斯)くなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等(びゃくにんら)が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便(こと・ふびん)とも申す計りなし」(御書960㌻)

 

(中略)
烈々たる山本伸一の声が響いた。(中略)「あたかも日蓮大聖人を信じ、どこまでも随順していくかのようでありながら、ひとたび大聖人が大難にあわれると、疑いを起こし、法華経を捨てた臆病な弟子たちがいた。しかも、彼らは、大聖人を悪口し、教訓して、自分たちの方が賢いと思っている。自分の臆病さを正当化し、大難を逃れ、尊大ぶって師を批判する。臆病と慢心とは表裏一体なんです。

 

弟子であった者が、退転し、最終的に広宣流布を破壊していく。釈尊在世の提婆達多も、また、大聖人の時代の三位房らもそうです。これこそ、『師子身中の虫』であり、師匠への最も卑劣な裏切りです。戸田先生が亡くなる少し前に、ある人物が、これからの学会の敵は何かと質問した。その時、先生は、言下に『敵は内部だよ』と答えられた。『師子身中の虫』が仏法を破るのだと、大聖人も結論されている。ゆえに、広宣流布の道は『師子身中の虫』との戦いであるということを、生命に刻んでいただきたい」

 

(中略)
伸一は、さらに力をこめて訴えた。「大聖人は、弟子でありながら退転・違背していった、心の歪んだ”僻人(びゃくにん)”たちは、仏法の法理に照らして、念仏者よりも、長く阿鼻地獄に堕ちて、苦しみ抜くのだと、御断言になっている。そして、そのことを思うと、不憫(ふびん)で、かわいそうでならないと言われているんです。

 

大聖人は、常に弟子たちを厳しく戒められていますが、それは、断じて門下を守り抜こうとする大慈悲からです。惰弱でずる賢い姿勢が見られたり、不正がある者がいたら、見て見ぬふりをするのではなく、厳格に指摘し、諫めていくことが慈悲です。それが相手を救うことになるんです

 

 

伸一は、さらに御書を拝した。(中略)「日蓮御房は師匠にておはせども余にこは(剛)し我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべしと云んは螢火(ほたるび)が日月をわらひ蟻塚(ありづか)が華山(かざん)を下し井江(せいこう)が河海(かかい)をあなづり烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべしわらふなるべし」(御書961㌻)

 

彼は講義を続けた。(中略)「大聖人門下で退転していった者たちは、こう批判した。『日蓮御房は自分たちの師匠ではあるけれど、弘教の方法が、あまりにも強すぎる』つまり、弘教の方法が間違っていたから、大聖人は難にあうのだと言う。これは、とんでもない言いがかりです。

 

末法の弘教は折伏と定められている。当然、強く叫び抜かなければならない。また、難があるのは、経文通りに正しく実践しているからです。しかし、退転者たちは『我等は柔らかに法華経を弘めよう』と言う。彼らの本質は臆病であり、保身です。名聞名利なんです。ところが、いかにも利口げに、自分が正しいかのように詭弁(きべん)を弄(ろう)する。しかも、正義の人に濡れ衣を着せたり、巧みに問題をすり替えたりして、大善の人を大悪人にしていく。そして、人びとを誑(たぶら)かし、退転させていくのが、反逆者の常套手段です」

 

伸一の言葉が、皆の胸に、鋭く突き刺さっていった。誰もが、神経を研ぎ澄ますように、耳を傾けていた。「その退転者の姿や言い分は、はかない螢の光が、太陽や月の明かりを笑い、蟻塚が中国の名山である華山を見下し、井戸や小川が大河や大海を軽蔑し、小さな鵲(かささぎ)が、鳳凰(ほうおう)などの鳥の王者を笑うように、極めて愚かなことである――。大聖人は、そう仰せになっているんです」

 

参加者は皆、山本伸一の講義を全身で受け止めるかのように、身じろぎ一つしなかった。「大切なことは、退転し、反逆していく者の嘘を見破り、その悪を暴き出し、徹底して打ち砕いていくことです。釈尊の弟子である提婆達多が、阿闍世王(あじゃせおう)という政治権力とつながり、釈尊の命をもつけ狙う大怨敵となったように、現代にあっても、反逆者が学会を、広宣流布を破壊する元凶になります。

 

だから、あらゆる力を尽くして、悪の根を断ち切っていくまで、戦って、戦って、戦い抜くことです。私どもがいかに正義であっても、中途半端な戦いであったならば、敗れてしまう。断じて追撃の手を緩めてはならない。これは、大学会の諸君に託す私の遺言です。いいですね!」

 

「はい!」
メンバーの目には、邪悪を許さず、断固として戦い、倒しゆかんとする決意が燃えていた。最後に、伸一は、こう話を結んだ。「創価学会こそ、日蓮大聖人の仰せ通りに、広宣流布という未聞の大思想運動を展開している唯一無二の団体です。それゆえに、仏法の法理に照らして、さまざまな中傷や迫害、困難があるのは当然です。しかし、尊き学会と運命を共にしゆく決意で、一生涯、崇高なるわが使命を果たし抜いていただきたい。そして、”行動の哲学者”として民衆のなかに入り、民衆に尽くし、民衆のために縦横無尽に戦い抜いていただきたい。それが、大学という最高学府に学んだ者の義務であり、使命です。

 

大学会の諸君、二十一世紀を頼むよ。その時こそ、勝負だよ。二十一世紀に学会がどうなっているか。広宣流布の永遠の基盤がつくれるかどうか――それは、すべて諸君の責任です。勝とうよ。勝って、みんなで肩を叩き台い、喜び、讃え合おう。共に立とう! 共に戦おう!」

 

 

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かっこ悪くたっていいじゃないか -指導集(22)

 

●新・人間革命 第26巻「厚田」の章

(1977年(昭和52年))10月2日の午後、山本伸一は、戸田講堂の食堂で行われた、「北海道未来会」第4期の結成式に出席した。中等部、高等部の代表26人からなる人材育成グループである。伸一が姿を現すと、皆の笑顔が弾けた。伸一も、微笑を浮かべた。しかし、話を始めた彼の顔からは、笑みは消えていた。”この一人ひとりが、広宣流布の大事な大事な後継者である。だからこそ、将来のために、厳しい話もしておかなければならない”と思ったのである。

 

「今日は、君たちの人生において、極めて大切なことを、簡潔に語っておきます」
力のこもった語調であった。皆、居住まいを正した。

 

人間にとって大事なことの一つは、”粘り”ということなんです。ある意味で、人生は、絶望との戦いであるといえるかもしれません。テストの結果もよくない。家庭環境も大変である。経済的にも厳しい。理想と自分の現実との間に、大きな隔たりがある――など、悩みの連続が人生であり、特に青春時代です。そして、ともすれば、”自分はダメな人間なんだ” ”なんの力もないんだ”と考え、卑屈になり、絶望的な思いをいだいてしまう。

 

しかし、そうではありません。”みんなが、尊い使命をもって生まれてきている。必ず自分らしく輝くことができる”と教えているのが仏法なんです。では、どうすれば、自分を輝かせていくことができるのか――それは”粘り”です。思うような結果がでない。失敗する。挫折する。時には、生きる気力さえなくなってしまうかもしれない。それでもまた、立ち上がり、自分の目標に向かって進んでいく。その粘り強さこそが大事なんです。

 

”力がなくてもいいじゃないか。かっこ悪くたっていいじゃないか。でも、自分は負けないぞ!”と、心の炎を燃やすことです

 

山本伸一は、未来会のメンバ――人ひとりに、じっと視線を注ぎながら言葉をついだ。
順風満帆に生きて、苦労もせずに、成功を収めた人などいません。失敗も、挫折もなく、人生の勝利者になった人もいません。泣く思いで苦労に耐え、何度も絶望の淵に立ちながら、粘り強く、前へ、前へと進んでいった人が、人生の勝利者になっているんです。

 

たとえ、失敗や敗北はあっても、絶対に腐ってはならない。いじけて、自らを卑しめることこそが敗北なんです。忍耐強い人が、最後に勝つ人なんです。その粘り強さを身につけていくための唱題であり、仏道修行であることを忘れないでください。

 

人生の勝利の栄冠は、信心を根本に、執念に執念を尽くし、粘って粘って粘り抜き、自分の決めた道を歩んでいった人の頭上に輝くことを宣言しておきます」

 

 

【ひと言感想】
一つのことに徹すること、すなわち、この指導で言われている「執念」や「粘り」ということは、信心に限らず万般に通じることだと思う。次元は違うが、自分は自営業をしてもうそれなりに長い。商売や経営においても、何があってもへこたれず、とにかく「続ける」ということは非常に重要である。

 

人様を教訓できるような実績は自分は何ら無いが、仕事や商売においても「執念」「粘り」ということの大切さは痛感している。何よりも、困難を前にして呻吟(しんぎん)し乗り越えた無数の経験が、職業人としても人間としても自分を鍛えてくれ、簡単に他人には真似出来ない技術やノウハウが蓄積されていく。

 

一つの道に徹すれば徹するほど、顧客満足度を高め、競争優位に立てる「強み」が磨かれるのである。(注意:実際の経営においては、事業の継続だけが唯一の選択ではない。特定の事業領域からの撤退障壁を踏まえたうえで、撤退するという選択もあり得る)

 

「経営の神様」と言われた松下幸之助氏は、不況のため赤字経営に陥いり、批判と不満ばかりを訴える、松下系列の販売会社の社長200人を前にこう言ったそうだ。

 

「あなたは血の小便をしたことがあるか。それぐらい熱心にやらないと、そう簡単に成功するものではない」と。

 

松下氏自身、9歳で小学校を中退し丁稚奉公から始め、ゼロから叩き上げ、日本一の電器メーカーを築き上げた、真正の苦労の人であった。何も自ら進んで体を壊す必要はないのは当然だ。例え絶望の淵にあったとしても忍耐強く戦い抜く人が、最後に勝つ人であると肝に銘じて、前進していきたい。

 

 

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命ある限り題目を唱え、広布に向かっていくのだ -指導集(21)

如説修行抄p504

一期を過ぐる事程(こと・ほど)も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、縦(たと)ひ頸(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切り・どう(胴)をばひしほこ(稜鉾)を以て・つつき・足にはほだしを打つてきり(錐)を以てもむとも、

命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死(しぬ)るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山(りょうぜん)へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女(じゅうらせつにょ)は受持の者を擁護(ようご)し諸天善神は天蓋(てんがい)を指し旛(はた)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光の宝刹(ほうせつ)へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。

 

 

「広布と人生を語る」第5巻 1983年12月8日

「いかに強敵重なるとも」と――この決心なくして信心のリーダーとはいえない。「ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」と。とうぜん、正法には難がつきものである。とともに、いかなる権力によって脅し迫害されたとしても、ゆめゆめ退転するな、恐れるな、との厳しき響きを忘れることができない。

また「縦ひ頸をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこを以て・つつき・足にはほだしを打ってきりを以てもむとも」――これほどまでの残虐なことをされたとしても、けっして一歩も退かない信心でなければならない。そして「命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死しぬる」ことが、信心の真髄なのである、と私は徹底して戸田先生より鋭く指導されてきた。この決心が私の信心の骨髄となったがゆえに、私はなにも恐れるものはない。これからもこの決心で、私は皆さま方とともに前進する決意である。

 

戸田第2代会長の指導


広宣流布へ向かっていくのだ

われわれ自身が南無妙法蓮華経である。ゆえに叩かれようが、罵られようが、ひとたび題目を唱えた以上は、水をのみ、草の根をかんでも、命のあるかぎり、南無妙法蓮華経と唱え抜いて、広宣流布へ向かっていくのだ。これが信心だ!

悩みがあるなら真剣に祈りなさい
 真剣に御本尊様に願い切るんだな。この簡単な原理がみんなわからない。これが一番遠いようで確実な早道になっていく――いつもこう指導されて、理屈ではわかっているが、いざ日常生活の中ではさっぱりわかってないようだ(なかなか確信できない)。

 

 

【ひと言感想】

究極の信心の覚悟を打ち込まれた御書です。民主主義であり信教の自由が保障された現代においては、折伏したからといって投獄されたりすることは到底、起こり得ません。何百万世帯以上も折伏した三代の会長以外には、無実による投獄は誰もありませんでした。刑罰あるいは拷問を受けたりするなども聞いたことがありません。その意味では、現代はずいぶんと広宣流布しやすい時代になったと言うことができると思います。

しかし、そうは言っても創価の仏法が最高に正しいがゆえに、広宣流布に障魔や迫害は避けて通れません。信心したことにより、家族や親類に反対をされたり、職場などで苦境に立たされたりは、ありがちなことかもしれません。意外と、最も自分に理解を示し味方だったような人が、豹変して、信心に大反対することがあります。

それは、この信心が正しいからあり、絶対に間違いがないからであり、必ず幸福になれるからこそ、現れてくる障害なのです。信心を捨てさせようとの第六天の魔王の働きと見抜かなければならない。難が起きた時こそ、絶対に負けてはならない、大事な大事な正念場なのです。

如説修行抄で、大聖人がこれほどの残虐な仕打ちを具体的に描写しながら、「迫害を恐れるな! 退転してはならない!」とご指南されているのは、不退転の本物の信心を烈々と打ち込まれているのです。改めて御文を心肝に染めて、勇気ある実践に挑んでまいります。

 

 

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”わが広布の砦”を守り抜く人が真の功労者 -指導集(20)

1989年初夏にフランスの(故)ミッテラン大統領と会見された池田先生が、「青年に勧めたい本」についても尋ねました。その答えとして大統領が挙げた2冊のうちの1冊、小説『タタール人の砂漠』の主人公ドローゴの人生を通して、先生がご指導されます。

 

●1989年「11・18」記念合同幹部会のスピーチから抜粋

ともあれ、人生は、はじめから何もかも思いどおりになるものではない。さまざまな理由から、不本意な場所で、長く過ごさねばならない場合も多々ある。その時にどう生きるか。どう自分らしい「満足」と「勝利」の人生を開いていくか。ここに課題がある。自分の不運を嘆き、環境と他人を恨みながら、一生を終えてしまう。そういう人は世界中に無数にいる。また栄誉栄達と他人の称讃を願い、それのみを人生の目的とするかぎり、そうした不満とあせりは、何らかの形で、永遠に消えないかもしれない。

(中略)
いわゆる世間的に「偉くなりたい」と願う人は多い。しかし、人間として「偉大になろう」と心を定める人は少ない。人の称讃と注目を浴びたいと願う人は多い。しかし、「死」の瞬間にも色あせぬ「三世の幸」を、自分自身の生命に築こうとする人は少ない。「死」――それは人生の総決算の時である。名声も富も地位も学識も、それのみでは何の役にも立たない。虚飾をはぎとって裸になった「生命それ自体」の戦いである。厳粛にして、公正な勝負の時である。この戦いの勝者こそ、真の勝者なのである。御書には、妙法を持ちきった人の臨終について「千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」――千人の仏までが迎えに来て、手をとってくださることを思うと、歓喜の感涙を抑えられない――と。

 

学会においても役職等は、ある意味で仮の姿である。その人の偉さと幸福を決めるのは、当人の生命の「力」であり、広宣流布への「信心」である。何の栄誉も、脚光も求めず、黙々と”わが広布の砦”を守って生きぬいてきた人々が、全国、全世界に、たくさんいらっしゃる。有名でもない、大幹部でもない、華々しい活躍の姿もないかもしれない。ただ法のため、友のため、地域のために、光のあたらぬ場所で、くる日もくる日も、心をくだき、足を運び、”砦”の守り手として生きてきた。愚直なまでの私心なき信心の姿である。そういう人々の力で、今日の世界的な学会がある。大聖人の正法の興隆がある。このことを、だれ人も永遠に忘れてはならない。

 

指導部をはじめとする、こうした方々こそ、真の「功労者」なのである。私は、ある面では、会長、副会長以上に大切に思い、「仏の使い」として尊敬している。ましてや、社会的地位など私は眼中にない。私は仏法者である。仏法者は何より、その人の生命の実相を見る。

 

ドローゴの場合は、長年つとめたあげく、いざ”栄光の時”を迎えたとたん、苦労知らずの連中に放り出されてしまった。わが創価の世界には、そうした不当な、無慈悲の振る舞いは、片鱗だにもあってはならない。私も絶対に許さない。陰の苦労もなく、若くしてトントン拍子で幹部になりながら、そうした真の仏子を下に見るような言動は、学会の精神に反する。道理にも反する。人間としても卑しい。むしろ「苦労してきた人ほど報われ、顕彰される」――わが学会は、そうしたうるわしい世界でなくてはならない。ともあれ、いかなる立場にあろうとも、その”使命の砦”を守りぬきながら、わが生命を鍛え、磨き、社会の勝利者に、そして三世にわたる「凱旋将軍」の自身となっていただきたい。とくに青年諸君に対する、これが私の念願である。

(1989年11月12日。池田大作全集第73巻)

 

 

 

 

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組織を攪乱する者は必ず行き詰まる -役職について(4)

草創期、支部婦人部長の人事に不満を持ち、組織をかく乱した先輩会員が出たことに対する、池田先生のご指導の抜粋を紹介します。全文は、『新・人間革命 第2巻』聖教ワイド文庫の、p181-6行目からp189-2行目までをお読みください。

 

――信心によって病を克服した体験を持つ婦人が、なぜ、周囲をも巻き込み、団結を破壊しようとするのか。名聞名利と慢心に蝕(むしば)まれていることは確かだが、どうして、それに気がつかないのか。その一念の狂いは、何ゆえ生じたのか。日蓮大聖人は「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書383ページ)と仰せである。

 

(中略)
組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。問題は、そこで自分がどうするかだ。批判して終わるのか、助け、補うのかである。中心者を、陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。そして、どこまでも御聖訓に照らして自己を見つめ、昨日の自分より今日の自分を、今日の自分より明日の自分を、一歩でも磨き高めようと、挑戦していくなかに、人間革命の道があるのだ。そこにのみ無量の功徳があり、福運を積みゆくことが出来るのだ。

 

この婦人は、これまで一生懸命に信心に励んでいたように見えても、結論するに、仏法の基本が確立されていなかったのである――。

 

(中略)
彼が最も心配していたのは、支部の婦人部長としてこれから戦わねばならぬ石山照代のことであった。石山にとって支部婦人部長の就任は、予想もしないことだった。彼女は任命を受けたものの、自分が果たしてその責任を全うできるのか不安をいだいていた。その矢先に「幹部としての経験も浅く、たいした信心もないのに、よく婦人部長になったものだ」という批判の声を耳にした。しかも、支部結成大会の準備を呼び掛けても、冷淡な反応を示す人が少なくなかった。彼女は完全に自信を失い、悩み抜いた末に、婦人部長の交代を、山本会長に申し出ようと思っていたのである。

 

 

伸一は、じっと石山に視線を注ぐと、強い語調で語った。「わかっている。全部、わかっています。誰があなたの悪口を言っているかも知っています。しかし、広宣流布の使命に生きようとする人が、そんなだらしないことで、どうするのですか。批判するものには、させておけばよい。私があなたを守っていきます!」

 

石山は、驚いたように、伸一の顔を見つめた。「ひとたび任命されたからには、あなたには、支部婦人部長として皆を幸福にしていく使命がある。決して偶然ではない。信心も、自身の人間革命も、広宣流布の使命を自覚し、戦いを起こすことから始まります。したがって、今はどんなに大変であっても、退くようなことがあっては絶対にならない。

 

仏法は勝負です。常に障魔との戦いです。魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、巧妙に学会の団結を乱そうとします。魔は、戦おうという人の生命力を奪い、やる気をなくさせようとします。時には、今回のように、同志の嫉妬となって現れることもある。あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともある。

 

こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強盛な信心の一念しかありません。あなたも、今こそ唱題で自分の境涯を大きく開き、本当の広布の戦いを開始する時です。そして、真剣な心で困難に挑み、温かく皆を包みながら、すべてを笑い飛ばして、明るく、はつらつと、悠々と突き進んでいくことです。

 

今、学会は大前進を開始した。飛行機でも、飛び立つ時には、揺れもするし、抵抗もある。千葉も、今、新しい出発を遂げようとしている。いろいろと問題があるのは当然です。しかし、あなたが支部の婦人部長として見事な戦いを成し遂げ、多くの人から信頼を勝ち取っていけば、つまらない批判なんか、すぐに消えてなくなります。飛行機も上昇し、安定飛行に入れば、ほとんど揺れなくなるようなものです。そして、あなたを排斥しようとしたり、仏意仏勅の組織を撹乱しようとした人は、必ず行き詰まっていきます。仏法の因果の理法は実に厳しい。深く後悔せざるをえない日がきます。

 

広宣流布のための苦労というのは、すべて自分の輝かしい財産になります。だから学会の組織のなかで、うんと苦労することです。辛いな、苦しいなと感じたら、”これで一つ宿業が転換できた” ”また一つ罪障が消滅できた” と、喜々として進んでいくんです。最も大変な組織を盤石にすることができれば、三世永遠にわたる大福運を積むことができる。来世は何不自由ない、女王のような境涯になるでしょう」

 

石山照代は、心に立ち込めていた霧が、瞬く間に晴れていく思いがした。彼女の頬に、いつの間にか赤みが差していた。この時、組織を撹乱した婦人は、先輩の指導によって、幹部として活動した時期もあったが、後に夫妻で退転、反逆し、自ら学会を去っていった。邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、学会の正義と清らかさの証明がある。

 

 

役職について・アーカイブ

 

 

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同志からの怨嫉として魔が現れる時 -役職について(4)

草創期、支部婦人部長の人事に不満を持ち、組織をかく乱した先輩会員が出たことに対する、池田先生のご指導の抜粋を紹介します。全文は、『新・人間革命 第2巻』聖教ワイド文庫の、p181-6行目からp189-2行目までをお読みください。

 

――信心によって病を克服した体験を持つ婦人が、なぜ、周囲をも巻き込み、団結を破壊しようとするのか。名聞名利と慢心に蝕(むしば)まれていることは確かだが、どうして、それに気がつかないのか。その一念の狂いは、何ゆえ生じたのか。日蓮大聖人は「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書383ページ)と仰せである。

 

(中略)
組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。問題は、そこで自分がどうするかだ。批判して終わるのか、助け、補うのかである。中心者を、陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。そして、どこまでも御聖訓に照らして自己を見つめ、昨日の自分より今日の自分を、今日の自分より明日の自分を、一歩でも磨き高めようと、挑戦していくなかに、人間革命の道があるのだ。そこにのみ無量の功徳があり、福運を積みゆくことが出来るのだ。

 

この婦人は、これまで一生懸命に信心に励んでいたように見えても、結論するに、仏法の基本が確立されていなかったのである――。

 

(中略)
彼が最も心配していたのは、支部の婦人部長としてこれから戦わねばならぬ石山照代のことであった。石山にとって支部婦人部長の就任は、予想もしないことだった。彼女は任命を受けたものの、自分が果たしてその責任を全うできるのか不安をいだいていた。その矢先に「幹部としての経験も浅く、たいした信心もないのに、よく婦人部長になったものだ」という批判の声を耳にした。しかも、支部結成大会の準備を呼び掛けても、冷淡な反応を示す人が少なくなかった。彼女は完全に自信を失い、悩み抜いた末に、婦人部長の交代を、山本会長に申し出ようと思っていたのである。

 

 

伸一は、じっと石山に視線を注ぐと、強い語調で語った。「わかっている。全部、わかっています。誰があなたの悪口を言っているかも知っています。しかし、広宣流布の使命に生きようとする人が、そんなだらしないことで、どうするのですか。批判するものには、させておけばよい。私があなたを守っていきます!」

 

石山は、驚いたように、伸一の顔を見つめた。「ひとたび任命されたからには、あなたには、支部婦人部長として皆を幸福にしていく使命がある。決して偶然ではない。信心も、自身の人間革命も、広宣流布の使命を自覚し、戦いを起こすことから始まります。したがって、今はどんなに大変であっても、退くようなことがあっては絶対にならない。

 

仏法は勝負です。常に障魔との戦いです。魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、巧妙に学会の団結を乱そうとします。魔は、戦おうという人の生命力を奪い、やる気をなくさせようとします。時には、今回のように、同志の嫉妬となって現れることもある。あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともある。

 

こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強盛な信心の一念しかありません。あなたも、今こそ唱題で自分の境涯を大きく開き、本当の広布の戦いを開始する時です。そして、真剣な心で困難に挑み、温かく皆を包みながら、すべてを笑い飛ばして、明るく、はつらつと、悠々と突き進んでいくことです。

 

今、学会は大前進を開始した。飛行機でも、飛び立つ時には、揺れもするし、抵抗もある。千葉も、今、新しい出発を遂げようとしている。いろいろと問題があるのは当然です。しかし、あなたが支部の婦人部長として見事な戦いを成し遂げ、多くの人から信頼を勝ち取っていけば、つまらない批判なんか、すぐに消えてなくなります。飛行機も上昇し、安定飛行に入れば、ほとんど揺れなくなるようなものです。そして、あなたを排斥しようとしたり、仏意仏勅の組織を撹乱しようとした人は、必ず行き詰まっていきます。仏法の因果の理法は実に厳しい。深く後悔せざるをえない日がきます。

 

広宣流布のための苦労というのは、すべて自分の輝かしい財産になります。だから学会の組織のなかで、うんと苦労することです。辛いな、苦しいなと感じたら、”これで一つ宿業が転換できた” ”また一つ罪障が消滅できた” と、喜々として進んでいくんです。最も大変な組織を盤石にすることができれば、三世永遠にわたる大福運を積むことができる。来世は何不自由ない、女王のような境涯になるでしょう」

 

石山照代は、心に立ち込めていた霧が、瞬く間に晴れていく思いがした。彼女の頬に、いつの間にか赤みが差していた。この時、組織を撹乱した婦人は、先輩の指導によって、幹部として活動した時期もあったが、後に夫妻で退転、反逆し、自ら学会を去っていった。邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、学会の正義と清らかさの証明がある。

修行の枝をきられ、曲げられん事疑なかるべし

 

●『御書の世界(上)』(池田大作全集第32巻)

火にたきぎ(薪)を加える時はさかんなり、大風吹けば求羅(ぐら)は倍増するなり、松は万年のよはひ(齢)を持つ故に枝を・まげらる、法華経の行者は火と求羅(ぐら)との如し薪(たきぎ)と風とは大難の如し、法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし、此れより後は此経難持(しきょうなんじ)の四字を暫時(ざんじ)もわすれず案じ給うべし
(四条金吾殿御返事p1136)

 

[通解] 火に薪(たきぎ)を加える時は火は盛んになる。大風が吹けば求羅(ぐら)という虫はますます大きくなる。松は万年の樹齢をもつものであるから、枝を曲げられる。法華経の行者は、火と求羅とのようなものである。薪と風とは、大難のようなものである。法華経の行者は、久遠長寿の如来である。修行の枝を切られたり、曲げられたりすることは、疑いない。これより後は、(宝塔品に説かれる)「此経難持(しきょうなんじ=この経は持ちがたい)」の四字を暫くたりとも忘れず心に留めていきなさい。

 

[池田先生の講義]
池田SGI会長 この手紙をいただいた当時、四条金吾が主君から勘当を受けて苦境に陥っていた。そして、”信心していても現世安穏にはならない”と、つい、グチを漏らしてしまった。そのことを大聖人が伝え聞き、心配して叱咤・激励されたお手紙です。

法華経の実践に難は必然だ。しかし、難に耐え、難を乗り越えていく人は、我が生命本来の「久遠長寿の如来」を現していけるのである。その意味で、難こそ自身を最も深い意味で鍛え磨くための成長の糧である。そう教えられています。困難から逃げ、鍛えを避けるところには、決して向上も成長もない。これは、まさに大聖人の御自身の体験に基づく大確信であり、成仏の修行の永遠の真実です。

私と友情の絆を結ぶ世界の指導者たちの中には、獄中1万日の、南アフリカのマンデラ前大統領はじめ、投獄を経験された方が数多くおられます。その方々は、投獄の体験をむしろ喜びとしておられた。誇りとしておられた。

(中略)
斉藤教学部長(当時) だからこそ、三代にわたる会長が投獄に屈しなかった創価学会を深く強く信頼されていますね。

池田SGI会長 異口同音に「投獄されたことによって、自分自身の信念を鍛え上げることができた」と語られていた。経験していない人間には、想像もできないかもしれないが、私には、よくわかります。例えば、(ノーベル文学賞を受けた)ショインカ氏はこう言っています。「失ったものは『時間』です。得たものは『信念』です。投獄以前よりも、私の信念は強くなりました」

(中略)
エスキベル博士も言われていた。「牢獄で私は学びました。極限状態にあっても生き抜く力、抵抗する力を。その力とは、精神の力であり、魂の力です。牢の中では、体の自由はききません。しかし、心は自由なのです。心は縛られないのです」

 

[ひと言感想]
修行の枝をきられ、曲げられるような、いかなる難や圧迫があろうとも、「難こそ自身を最も深い意味で鍛え磨くための成長の糧である」 「試練を越えてこそ、永遠に崩れぬ仏の大境涯をいよいよ強く築ける」とのご指導の通り、強盛な信心で立ち向かっていきます。創立90周年の11・18まで残り12日間、悔いなく戦いきります!

 

 

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苦悩に泣く民衆を救うことにこそ、仏法の精神がある -指導集(19)

●新・人間革命第8巻 「宝剣」の章から

さらに彼は、たまたま学会員が引き起こした事件などを、あたかも創価学会の問題であるかのように取り上げ、学会批判を重ねるマスコミの報道について、言及していった。
「これまでも、精神の病で苦しんでいた人が入会をし、その後、事件を起こしてしまったこともありました。あるいは前科があり、誰からも相手にされなかった人が学会に入り、また犯罪に関与してしまったこともありました。そのつど、新聞や週刊誌は、創価学会自体が罪を犯したかのように書き立て、私どもは、非難されてまいりました。

しかし、本来は、そうした人たちが人間らしく生きられるにはどうしたらよいかを、政治家や国家などが責任をもって考え、面倒をみていくべきであります。だが、それを切り捨て、誰も、何もしようとはしない。不幸な境遇の人を見て見ぬふりをしているのが、今の多くの政治家であり、高級官僚といわれる役人ではないですか。日本の指導者層は、あまりにも利己主義であり、無責任です。

それに対して、私たち学会員は、この世から不幸をなくそうと、苦しんでいる人を見れば、人間には等しく幸福になる権利があるのだと、信心を教えてきた。創価学会には、いっさい差別はないからです。そして、なんとか幸せになってほしいと、皆さんは真心を込めて、あれこれと面倒をみてこられた。社会的な体裁(ていさい)を繕(つくろ)い、自分のことだけしか考えない人たちには、決してできないことです。

さまざまな悩み、複雑な問題をもつ人を、数多く抱きかかえていけば、なかには、事件を起こしてしまう人が出ることもあるでしょう。しかし、そうなることを恐れて、人間を切り捨てていくことと、どちらが正しい道なのか」

伸一の言葉には、強い確信が脈打っていた。
つまり、社会が見捨てた人をも、真心で包み、ともに幸福の道をめざしてきた最も尊い教団が、わが創価学会であります。心ある指導者ならば、学会の在り方を見て、称賛するのが本来の姿です。たとえば、社会的な地位が高く、財力があり、身体(しんたい)も健康である等、さまざまな条件を設けて、学会が入会を制限していれば、”貧乏人と病人の団体”などと言われることもなかったでしょうし、問題はほとんど起きなかったでしょう。しかし、それでは、苦悩に泣く民衆を救うという、宗教の、なかんずく、仏法の精神を捨てることになってしまいます

メンバーは、学会員が事件を起こしたと報道されるたびに、自分の周囲の人びとに、どう説明してよいかわからず、悔しい思いをしてきた。伸一は、その問題を取り上げ、事の本質を明らかにしたのである。彼は、会員が、いかなる問題で苦しみ、いかなる批判に戸惑っているのかについて、レーダー網を張り巡らすかのように、常に心を配っていた。そして、それが何かをつかむと、真っ先に対応し、論破すべきものは、明快に論破していった。その迅速な対応こそが、言論戦の要締といえるからだ。

 

【ひと言感想】
自分は病を患った一人として、学会のお陰により、そして先生の慈愛に包まれて、これまでどれだけ生きる力を頂いてきたか計り知れません。好き好んで病になったり、或いは人生につまずく人もいないと思います。要は、多少の病に苦しんでいるとしても、広布のために生き抜く人の方が、100%健康であっても、その健康を世間の浅きことに浪費している人より、はるかに優れているのです。私はその大事なことを先生と学会に教えて頂きました。これからも、人生蘇生の我が体験を語りきって、不幸のどん底に喘ぐ人々を励まし救っていきます!

 

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難はまやかしの信仰者を淘汰し、獅子をつくる -指導集(18)

座談会の再開、本当によかったですね。まだ感染対策に気を抜けませんが、地区の同志の皆さんに会うことができ喜びで一杯になりました。90周年の下半期大勝利していきます!

先日、新人間革命第7巻を読了しましたので、巻末の方の心に刻みたい部分を、備忘録を兼ねて紹介します。

●新・人間革命 第7巻「操舵」の章から

戸田はそれから、強い口調で言った。
今回のこと(=大阪事件での不当逮捕)は、君の人生にとっては、予行演習のようなものだ。やがて将来、権力は魔性の牙をむいて、本格的に襲いかかってくるにちがいない。弾圧は、決して戦時中の昔の話ではないよ。確かに、戦後、日本は民主主義の国家になった。私や牧口先生を逮捕するのに使った、不敬罪や治安維持法もなくなった。そして、信教の自由も保障されるようになった。しかし、権力のもつ、魔性の本質は何も変わっていない。それだけに、より巧妙な手口で、弾圧することになる。それが、いつ起こるかはわからないが、学会がもっと社会的にも力をつけ、飛躍的に発展した時が危ないぞ。権力にとっても、存亡をかけた攻防戦だけに、学会を封じ込めるために、なりふり構わず、卑劣な攻撃を仕掛けてくるだろう。その時は、君が狙われることになる。覚悟しておくことだ。

(中略)
私が政界に弟子たちを送り出したのは、この日本にあっては、政治を民衆の手に取り戻さなければ、人びとの幸福の実現も難しいと考えたからだ。現実に社会の建設に立ち上がれば、弾圧が始まることはよくわかっていた。水面に石を投げれば、波が立つようなものだ。しかし、社会の不幸に目をつぶり、宗教の世界に閉じこもり、安穏として、ただ題目を唱えているだけだとしたら、大聖人の立正安国の御精神に反する。この世の悲惨をなくし、不幸をなくし、人権を、人間の尊厳を守り、平和な社会を築いていくなかにこそ仏法の実践がある。

それを断行するならば、当然、難が競い起こる。しかし、そんなことを恐れていたのでは、仏法者の本当の使命を果たすことはできない。それに、われわれが宿業を転換し、一生成仏していくためには、法難にあい、障魔と戦って勝つしかないのだ。だから私は、社会の建設に向かって舵を取った。障魔を、三類の強敵を呼び出したのだ。日蓮大聖人は『今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり』(御書917㌻)と仰せだ。広宣流布を破壊しようとする大悪人と、また、魔性の権力と戦い、勝てば、成仏することができる。ゆえに大聖人は、方人、つまり味方よりも、強敵が人をよくすると言われているのだ。大難の時に、勇気を奮い起こして戦えば、人は強くなる。獅子になる!」 

(中略)
そして、戸田は、伸一の眼を、じっと見すえて言った。
「仏法者として、人類の平和と幸福のために行動を起こせば、必ず障魔が競い起こる。大難が起こる。しかし、伸一、勇気をもって進め。生涯、あえて、難を呼び起こし続けていくのだ。君が先頭となり、大難と戦うことで、君だけでなく、本末究竟して、みんなの一生成仏の道が開かれることになる。また、難が起これば、人間の真価がわかるし、一人ひとりの信心の真偽も明らかになる。そして、学会を利用しようとしていた者や、臆病者は去っていく。難はまやかしの信仰者を淘汰し、獅子をつくる。それでよいのだ

(中略)
戸田城聖の祥月命日である4月2日、東京・品川区の聖教新聞社別館で、六回忌法要が行われた。戸田逝いて5年、学会は既に会員330万世帯に達していた。それは、ただひたすら師の構想を実現せんとする伸一とともに、同志が心を一つにして戦い抜いた、師弟の精神の結晶といえる。伸一は、毎年この日に、戸田に”勝利”の報告をすることを、自らの義務としていた。いかに苦戦を強いられようとも、必ずなんらかの勝利の実証をもって、法要の席に馳せ参じることが、弟子の道であると、彼は決めていたのである。

戸田は、口先だけの決意の人間を、絶対に信用しなかった。最も厳しく弾呵した。「ハッタリ屋」「ペテン師」「イカサマ師」と言って憚らなかった。たとえ、草の根を噛み、岩盤に爪を立てても、前へ進み、勝って、誓いを果たし抜いてこそ、”獅子”であるというのが、戸田の指導であった。それは広宣流布の責任の重さを、弟子たちに教えようとする、師の慈愛でもあった。伸一は、法要の読経・唱題のなか、来年の七回忌には、さらに広宣流布の流れを広げ、再び大前進の「証」をもって、戸田のもとに集う決意を強く固めていた。

(中略)
「なに、(台湾 台北支部は)解散させられることになったのか! かわいそうだ……」

伸一は、こう言って絶句した。しかし、しばらくすると、強い決意のこもった口調で語り始めた。「これは、仏法の目から見れば、台湾のメンバーの信心が本物になった証拠といえる。御書には『行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る』(916ページ)と仰せじゃないか。難があるからこそ正法なんだ。難を受けるからこそ一生成仏ができるんだ。法律は法律として従わなくてはならないから、組織は解散するにしても、絶対に、信心までも失ってはならない。台湾でも、信教の自由は認められているのだから、いくらでも信心は貫ける。

大聖人は、『王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず』(御書287ページ)と言われている。王の支配する国に生まれたから、身は従えられているようであるが、心まで従えられているのではないぞという、精神の自由の大宣言だよ。台湾の同志も、この心意気でいくんだ。どんな力をもってしても、本来、人間の信仰を奪うことなんかできない。自分の心を支配しているのは自分自身だからだ。したがって、退転する人は、外圧によって退転していくというより、外圧を恐れて臆病になり、自ら信心を捨ててしまっているといえる

(中略)
(その後、台湾では)「信心をするなら牢獄にぶち込むぞ!」と、脅された人もいた。また、信心をしていることがわかると、会社では昇進することはなかったし、左遷されたり、解雇されることさえあった。個人の信仰の自由は認められていたが、解散後は、事実上、それさえも奪われたに等しかった。この試練は、それぞれの信仰が、ホンモノなのか、ニセモノなのかを明らかにしていった。名聞名利の心をいだいて信心をしていた者は、迫害を恐れて、次々と退転していったのである。しかし、台北支部長であった朱千尋をはじめとする真正の同志は、苦難を誉れとして、獅子となって立ち上がった。

 

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