学会活動と活動家

かたくなに不都合な事実を認めない創価民。

前回、「財務」という名の創価の功徳詐欺の記事を書いたが、少し前にSNSで創価民と「財務」や「聖教新聞の複数部購読」の話をした。その創価民は最初は聖教新聞の複数部購読なんて聞いたことがないと惚けていたが俺が「MY聖教」推進してるだろう?と問い詰めると家族分は購読しているがそれ以上は購読していないと言い出した。「それを複数部購読というんだよ。同じ新聞を家族分取るのが異常行動なんだよ」と更に指摘すると別に強制されたわけじゃないと言い訳をしだした。その必死な発言は本当に滑稽だった。そもそも創価組織や学会活動に携わった人間ならば、聖教新聞は最低家族分。へたすると贈呈分で購読。多い人は十部以上購買してるとか、書籍や民音チケットが各支部・各地区に割り当てられていて捌けなかったら民音・書籍の担当者が自腹で購入するとかそういうことは創価の組織内で日常的に当たり前のように行われていることを皆知っている。なのに頑なに「そんな事実はない」とネット上で言い張る創価民て一体誰に何をアピっているのか分からない。まぁおそらくネットをみるだろう未活動・非活動の会員とか外部向けに創価の「不動合な事実」を隠したいという一心でウソを言ってるか、或いはたいして活動もしてない一会員だろうが大して活動もしていない一会員が創価の不都合な事実を隠す為にムキになることなどないだろうから、「不都合な事実」を隠すためにウソを言っているだろう。
聖教新聞だけじゃない。選挙だって「自由」といいながら公明党への投票活動を促す。財務だって「自由」といいながら広布部員になるように説得して回る。件のSNS創価民君は「別に強制もしていないし同調圧力なんてない」とこれまた必死で抗弁していたが、「強制も同調圧力もない」と感じるのはそれは自分自身が「強制する側の会員」であり「圧力賭ける側の会員」だからだ。確かに活動家さん達には「強制」や「圧力」をかけたなどという意識はないだろうが受け止める側がそう感じたらそれは「ある」という事なのである。現に選挙にしても財務にしても「信心」に事寄せて日頃から何度も推進・啓蒙をしているのは事実だろう。それが学会活動なんだから「そんなことをしていない」なら学会活動をしていないということなる。そのような推進・啓蒙こそが「強制」であり「圧力」と感じる部分なのである。そうした「圧」を与えておいて「嫌なら断ればいい」なんて平気で言うからさらに腹が立つわけである。
因みに創価は宗門・法華講に対して「供養地獄」とか「登山地獄」なんていうけど創価のそうした「圧力」から比べたら法華講なんて可愛いものである。確かに特別なご供養のある時や支部登山がある時などはお講終了後に「ご供養あります」「登山あります」と言われるし仲のいい法華講員から「支部登山いきませんか」と言われることはあるが、わざわざ自宅にやってきて「供養しろ。登山しろ」なんて言われることはまずない。以前から書いているようにそもそも法華講は創価みたいなコテコテの人間関係なんて構築しないので誰かに何かをいわれても「圧」にもならない。まぁ法華講員の中には創価みたいな活動家もいるかもしれないしそれを「強制」されたと受け止める講員もいるだろうがそれにしても創価のような「財務」の啓蒙や「選挙行動」の推進なんてないから気楽なものである。そもそも法華講員は「ご供養」の意味を創価民より分かってる。「ご供養」の他に「講費」もあるが「講費」に「功徳がある」なんて言って回る人はいなしそんな風に思っている人もいない。何より「ご供養」は期間も決まっていなければ「金額」の設定もない。そして「これだけ多額のご供養をしましたぁ~」(拍手)みたいなシチュエーションもない。
ともあれ創価組織で少しでも活動に参加したことがあれば誰もが体験した、聖教複数部購買・チケット書籍の割り当て販売・財務の推進・公明党への投票指示という創価のやっていることを全力で否定する創価民には本当にあきれるばかりだ。それを避退するのはそれらは全て「事実」であり新入会員や外部の人達に知られたくなくい「不都合な事実」であることを白状しているようなものである。これから創価の勧誘に遭遇する方々にはハッキリ言っておきますが、創価に入会し活動家になったらば「聖教新聞は家族分の購買」さらに「公明新聞」や子供さんには「子供新聞」大作センセの人間革命も全巻購入。たまにつまらないコンサートのチケットを買い年末には家族一人につき最低1万円の財務の振り込み。そして選挙は何が何でも公明党へ投票。となるのは間違いありません。ええ、もちろん「強制」でも「同調圧力」でもありません。「それが信心」「そこに功徳が出る」と貴方が自分で思ってすることです。そしてやがて貴方が「圧」をかける存在になり周囲の人々に嫌な思いをさせて自分だけ「幸福」を感じて生きていくわけです。
それが創価学会員としての生き様ですからよく考えて入会しましょうね。


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今年も創価による年末の大聖人詐欺が始まります。

11月28日から創価の財務だそうです。なんでも今年は「希望者多数」の為広布部員の2次募集をしたとかしないとか?きっと広布部員も減っているんでしょうね。要は財務する会員を増やせよって話ですね。誰が好き好んで創価に金を払いたいというんですかね(笑)まぁ払いたい人は最初から広布部員になってますから2次募集というのはある意味無理くり広布部員にするということです。で新規の広布部員を増やすために使う手が「功徳話」です。毎年この時期に書くのでもう聞き飽きたという読者の方もいるとは思いますが、毎年が大聖人の御書を悪用して詐欺を働いているのでオレとしても毎年書かざるをえないんですよね。いつも言っているように創価が運営費を集金する事を悪いと言っているわけではありません。これだけ金が有り余っているのに毎年運営費を徴収ししかも使途不明にも関わらず財務する創価民はバカだなぁとは思いますがお金の使い途は十人十色だし、財務をしている創価民はオレの家族でも友人でもないので別に関係ないわけですが、財務には功徳があるとか宇宙銀行だとかそうのようなウソをついて集金する手口が詐欺だと毎年訴えているわけです。しかも大聖人の御書のご聖訓を利用して集金するなど言語道断です。今回も聖教新聞紙上でダーハラ怪鳥が財務について次のように言ってます。(以下太字は聖教新聞から引用)

いよいよ今月28日からは、財務納金が始まります。御聖訓に「供養し給ういづれも・いづれも功徳に・ならざるはなし」と仰せの通り、総本部が着々と整備され、創立90周年、さらには100周年へと、世界広布が勢いを増す中で、それを支える財務の功徳は計り知れません。

ここで引用されているご聖訓は「兵衛志殿御返事」の冒頭を切文した御文です。この冒頭の御文は以下の通りです。

◆四季にわたりて財を三宝に供養し給ういづれもいづれも功徳にならざるはなし

「財を三宝」に供養すればいずれも功徳にならないものはない。というのがこの御文なのに「財を三宝に」という一番重要な部分を省略しているわけです。もう酷すぎる「切文」です。創価民は御書を読まないからダーハラ怪鳥のイカサマ切文を鵜呑みにして創価の財務に功徳があるように自分も思い他人にもそう言ってしますわけです。創価の総本部を整備することは三宝に対する供養なんかじゃないでしょうよ。そもそも創価に三宝なんて無いんです。口ではなんとでも言えますが現実的には創価に三宝は存在しない。存在するなら具体的に創価の三宝を挙げてその理由を説明して見せろって思いますね。最近よく聞くのは「僧」とは僧伽の略で出家に限らないから「創価」を僧宝扱いする莫迦がいますが、単なる「僧」と「僧宝」は別物。創価も僧である。まぁここまではいいけど、「僧宝」じゃね~だろって事です。三宝は一体なのだから「僧宝」というのは法宝・仏法と一体の僧のことで、創価ごときは僧は僧でも「邪宗の僧等」です。じゃぁ三法一体の体とは具体的には誰かといえば当然日蓮大聖人そのお方であり、現在でいえば大聖人の色心二法の当体(即ち生身の大聖人)である戒壇大御本尊であるというのが、創価が僧宝と認めている日興上人以来の日興門流の教義なのです。その大御本尊に対するご供養は「いづれもいづれも功徳にならざるはなし」なんです。大御本尊を捨てた創価には事実上の三宝は存在してないから創価の活動は広宣流布でもなんでもない単なる創価の活動。その活動を支援したところで「功徳」はない。それにも関わらず「功徳がある」と会長自らウソをついて集金するから「創価は詐欺」だという事です。同新聞には続いて

世間では、架空請求のハガキやSNS・メールが届くなど、年々、詐欺事件が巧妙になっています。改めて確認すれば、振込用紙に記載された振込先が変わることはありませんし、財務を誰かが預かるようなことも決してありません。

とダーハラが言ってますが、言ってる本人が創価詐欺の張本人ですから笑えます。仮に創価民が大聖人様にご供養していると思っていても大聖人は謗法の供養は受けませんので残念ながら功徳は出ません。いやむしろ謗法団体の創価に財務することは百害あって一利なしです。毎年同じ話で恐縮ですが「功徳はない悪業を積むだけの創価の財務」はボイコットしてくださいね。ダメですよ振り込んじゃ。バリカツや幹部に騙されないようにしてくださいね。


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2020年は「前進・人材の年」だそうです。

創価の来年のテーマが聖教新聞に載ってました。「前進・人材の年」だそうです。まぁ毎回テンプレを取り替えているだけのテーマなので創価民さん達も「ああ、はい。はい。」という所だと思いますが、確かに今の創価の停滞・・いや衰退ぶりや、質量ともに圧倒的に不足している会員の状況をみたら、「前進」もしたいだろうし「人材」も欲しいというのは切実な思いなんだろうなぁってダーハラ怪鳥達執行部の心中を察したりします。もっとも組織ってのはトップの器以上大きくなりませんから「前進・人材」を謳い文句にしたのならいっそのことダーハラ怪鳥を更迭して新会長を選出すればよかったかもしれませんが、谷〇や〇藤ではダーハラと変わりません。やはり人材不足は深刻ですなぁ。
で、具体的に何をするのかというと「折伏・弘教」だそうです(大笑)創価民が一番出来ないヤツじゃん。またペンダント型創価お守りでも配りますか?それとも家庭内分世帯しちゃいますか?MY聖教ならぬMY本尊。一人に一幅、いや一部屋一幅つづカラコピ掛け軸かけちゃいます?まぁどっちにしろ「折伏・弘教」なんて無理ですよね(笑)それが出来てりゃダーハラ怪鳥も苦労しませんよね。でも創価の折伏・弘教の戦いって考えようによっては一番気楽なんですよ。だれも出来ないから出来なくても恥ずかしくないし、そもそも折伏・弘教をしているかどうかなんて入決や本流がないとわからないからいくらでも「エア折伏」をすることが出来るわけですから。がそこは創価本部も会員に楽はさせません。折伏・弘教と一緒に聖教新聞の啓蒙もやれという事らしいです。実にはた迷惑です。また任用試験を会友さんに受験させる運動もするみたいです。また間違えだらけの仏教もどきを勉強し世間で恥かく人が増えるんですね。そして折伏・弘教の方法として、モバイルSTB」視聴運動や「SOKAnet」「インスタグラム」の学会公式チャンネルの活用し学会理解を広げるらしいですけど、アレで理解が広まると思っているのがイタイというかアフォというか。まぁ創価民や創価に勧誘されている人がネットを見るのは悪くないですけどね。ネット見れば創価が「いかにインチキ宗教団体」であるかといういい意味での「学会理解」が広がるからオレもこうしてブログを続けている甲斐があるというもんです。
そう笑っちゃうのは聖教の記事中に書かれている「近隣・地域・職場に友好と信頼を広げ、“10人の本当の友人づくり”目指そう」というクダリです。いやこれって大人の読む新聞で大人向けに書かれているんですよね?「10人の本当の友達作り」って(大笑)いや無理でしょ。今更創価民が外で「本当の友達」なって作れるわけないじゃん。いままで選挙や新聞でどんだけ敬遠されてきたと思ってるの?そうやって昔の友人を失ってきた人たちが「新しい」しかも「本当の」友達10人とか無理。まぁ「本当の友達」の定義が聖教新聞取ってくれるとか公明党に投票してくれるっていうなら可能かもしれないけど、それって相手は「友達」なんて思ってないから(笑)いやぶっちゃけ言っちゃうけど創価民は「本当の友達がいない」から創価民なわけで、地域や職場や近隣に「本当の友達」がいたら創価の活動なんてやってないでしょ。う~んちょっと来年も「前進」は難しいかなぁ(笑)
そして「人材」(育成)は最初に「人間革命」の熟読・研鑽だそうでまぁどうでもいいけど、その後は御書根本にして教宣活動を着実に進めるらしい。教宣活動なんてまだやってたんだね。教宣部なんて対論から逃げまくりでとっくに教宣活動は放棄したのかと思ってたよ。てことはアレか。来年は当ブログにも「御書根本」で教宣活動をしてくれる創価民のコメントが来るかも知れなし、リアルでもちゃんと対論に応じる教宣部とか創価活動家に出会えるかもしれないね。だったら少し楽しみだなぁ。来年は例年より多くの創価莫迦教学が聞けるといいなぁ(笑)


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大嘗祭参加の公明党にはお咎めなし。

せんじつ行わなわれた「大嘗祭」へ国会は公明党が「党」として参加したことは知っていると思う。前回の平成2年の時は不参加でその理由が「神道色の濃い大嘗祭への公費支出が憲法にそぐわない」ということと当時は野党だったということで、今回参加したのは政権与党という立場に加え政教分離についての裁判で合憲という判決が出たかららしい。まぁ公明党が「大嘗祭」に参加することや「大嘗祭」そのものの皇室行事については別にとやかく言うつもりはない。しかしだ。常日頃から宗門が戦時中に神札を受け取ったのは謗法だぁ~とか法華講員が地元の神社の行事に参加しているのは謗法だぁ~と新報やフェイクを使って大騒ぎしているくせに、自分たちが支持している公明党が「大嘗祭」に参加することについては何の異論も唱えないというのは何故なんだと思う。そういえば例の靖国御霊祭の献灯事件も警察に告訴したという記事を1回聖教新聞で発表しただけでその後どうなったのか全く発表がない(笑)犯人を厳しく処罰するなんて言っておきながら何の進展もない。犯人が見つからないなら警察の怠慢を追求すべきだろうがそんな雰囲気もない。結局告訴なんて受理されなかった。いや告訴すらしていないと思う方が妥当である。
そして今回は「与党」と「合憲」がキーワードとなり「大嘗祭」への公明党の参加である。創価民自慢の牧口先生を獄死しさせたのはまさに「国家神道」そのものではないのか?その「神道」の儀式に参加するような政党を支持するのかお前らは?と思うわけだ。自分の親を殺した犯人と仲良しな人の面倒を見る。というような精神構造が理解不能だ。どこまでお人好しのバカなんだって思う。
それはさて置き、創価民基準では「憲法で合憲ならば謗法ではない」ということでいいのか?それとも政権与党は謗法免除という特別ルールがあるのか?もしも「合憲ならば謗法ではない」ならば、戦時中宗門が神札受け取ろうと、法華講員が神社の行事に参加しても謗法にならないわけだから、オマエ等は「新報」や「フェイク」で言ってきたことは全て誹謗中傷だ。聖教新聞紙上でちゃんと謝罪しなさい。またこれらの創価創価記事で宗門をネット上で誹謗中傷した創価民も謝罪しなさい。といっても「絶対謝らない」のが大作と師弟不二の創価民たちである。まぁ謝らなくても別にいい。だけど大聖人仏法を語っているのであれば他宗である宗門を謗法だなんだとヌカす前に自分たちの謗法を諌め戒めるのが先だろう。俺の知り合いの公明市議なんて毎年地元の神社の行事に参加して酒飲んではしゃでいるぞ。しかも四人の市議全員参加。勿論、そいつらも学会員。謗法より選挙の一票の方が重要なんだろうね。こんなことしていて「選挙は政治の世界の広宣流布」とか笑っちゃうよ。もっとも大御本尊捨てた創価民は何か「謗法」なんだか全く分かっちゃいないし、大御本尊捨てた大謗法を犯しているいるからもう怖いものなし(笑)それ以上の謗法は存在しないからやりたい放題でも体制に影響ないけどね。そんな連中に大聖人の仏法なんて語って欲しくないね。


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先師否定の五老僧の末裔。

先月、寝言丸さんの勧誡式に参詣したときに寝言丸さんから戸田会長のレコードの音声データをいただいた。この手の昔の指導や書籍は俺のような平成入会の人間は持っていないので非常に嬉しい。俺の友人の創価2世の家にも昔の書籍がたくさんありそいつも家族も創価を辞めるつもりがないようなので買取させてくれといってるのだが何故だか手放そうとしない。手放なさないということはまだ多少は大御本尊の許へ戻る可能性があるのだろうと会うたびに話をしている。戸田会長の指導のレコードは昔これまた創価2世の地区リーダーが録音したものを聞いたことがある。確か「三沢抄」の講義だったと記憶している。いまこうして改めて寝言丸さんからいただいた戸田会長の指導を聞いてみると日蓮正宗の教義から全く逸脱していなく大聖人仏法の教義をキチンと会員に教えていることが分かる。因みにいただいた音声データには大作センセの指導?スピーチ?も入っていたがこちらも聞けば聞くほどなんでこんな若造が戸田会長の後を継いで3代会長になったのか分からないが俺が男子部時代の青年部長の谷川・男子部長の佐藤も同じように中身のない話を勢いだけで話していたからこれは大作センセからの伝統なんだろうなぁって思う。
さてそんな戸田会長の指導だかどんどんと創価内では抹消されている。戸田城聖全集は廃刊となり久しい。俺はたまたま戸田城聖全集は無料で手に入れることが出来たが今や古本で買う以外にない。やがてそれも市場に無くなるだろう。戸田会長の書籍だけではない。昔の創価が発刊した「御書講義」の書籍も今やヤフオクかメルカリ頼りだ。俺の御書研鑽のテキストだった御書講義本もわが家にが十冊程度となった。「六巻抄講義」も多分廃刊になっていると思われる。昔の大作指導やニンカクなどの大作本も改竄に次ぐ改竄だ。「時代に合わなくなった」という理由を創価民は口にするが仏法の道理が時代によって変わることはないし、ニンカクだって創価の歴史なのだからそれを時代を理由に改竄するのはまんま創価の歴史の改竄である。要は「時代」というよりも今の自分達の都合に合わなくなったという事だろう。つまり「変節」したのは宗門ではなく「創価」と「池田」の方だという証左でもある。
しかし、自分達の都合に合わせて戸田会長などの先師の書籍を廃刊にする行為は全く五老僧にそっくりである。ご存知の通り五老僧は大聖人御書を燃やしたりスキカエシにしたりして消失させた。いまの創価のやっている事はまったくこれと同じだ。

◇是れ先師の恥辱を顕す云々、故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。(富士一跡門徒存知の事)


「永遠の指導者」であるならばその指導も永遠であるはずだし、師匠というのならば師匠の言葉を正確に残し後世に伝えるのが弟子としての務めではないか。それを無かったことにするなんて到底弟子とは思えない所業だ。昔と違い今はいくら廃刊にしようともネットでいくらでも創価の昔の指導を読めるが廃刊・改竄する行為に「師弟不二」などという精神の欠片も見えないのである。元々は大作が戸田会長の指導に背いたのだが今はその大作が戸田会長を利用したように現執行部に利用されているだから因果律というものは不思議なものである。日興上人は「富士一跡門徒存知の事」の上記の言葉に続いて、

◇ 此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。

と綴っている。五老僧の大聖人の「跡」を破壊する所業を日興上人が明らかにして後代へ残すと。残念ながら創価の中には日興上人のごとき正義の人はいない。大作の己義を正して戸田会長を顕彰する人間がいない。もちろんそれは大作がそのような人間を組織から排除したからなのだがやがてそのツケが回って来るだろうと思う。
いま戸田会長の正義を主張し戸田会長の跡を破壊する者どもを破折し後代に残そうとしているのは現役の学会員ではなく正宗の僧俗なのである。五老僧の末裔だけになった創価がやがて消滅しても戸田会長の功績は正宗僧俗の中で生き続けるだろう。なんとも皮肉なことだ。


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正宗の行儀と創価のイベント。

先日お会式の御逮夜へ参詣した。昨年に続き2度目のお会式だが厳粛な雰囲気の中に歓喜があり清浄とした気分になった。

昨年の記事⇒ お会式のお逮夜に参加した

正宗では古来「1年365日お寺に参詣してもお会式に参詣しなければなんにもならない」と言われているらしい。少し前に創価民のピンクレモンさんが「この指導はおかしい」というコメントをくれたが俺はまったく「おかしい」とは思わない。むしろ「納得」の指導だと思う。この指導を「おかしい」と思うのは、創価民が日蓮大聖人のご入滅の日を世間で言うところの「単なる命日」としか捉えていないからだろう。昨年のブログにも書いたが、大聖人のご入滅は「非滅の滅」を示し寿量品の「常住此説法」のお姿を顕しご本仏としてお出ましになられた時なのである。それは我ら末法の荒凡夫にとっては非常に有難いことであり喜ぶべきなことなのだ。なので正宗では慶事として行うのである。その大切な儀式がお会式だ。ただの凡夫の大作が生まれたとか、大作が入信したとか、大作の選挙違反容疑が無罪になったとか創価のそんなチンケな記念日などとはワケが違う。大聖人をご本仏と仰ぎその功徳に感謝する信徒であれば年に1度のお会式に参詣しようと思うのは当然のことだ。もちろんお会式に行かなければ全てが無駄になるとか罰が出るとかの話ではない。「お会式に参詣しなければなんにもならない」というのはお会式の意義の大切さと大聖人門下としての信心のあり方を指導しているのである。「いくら祈っても師匠と呼吸が合わなければ何にもならない」などという創価大作指導の方がまったく無根拠の「おかしい」指導だと思うぞ。

ピンクレモンさんのコメントで御授戒のことも書いてあった。曰く創価の入会Gは多くの創価民が集まってお祝いしてくれるが正宗の御授戒は創価のようにみんなでお祝いをしてくれないから法華講は冷たいという非難だ(笑)「温かい」とか「冷たい」なんていうのは個人の主観的感想であって仏法の正邪には関係ないしそもそも論を言えば自身の信心に組織なんて関係ない。学生がこのクラスなら勉強するけど別のクラスになったら勉強しないと言っているようなもので幼稚すぎる。その上で言うが創価の入会Gと正宗の御授戒は比べるモノではない。創価の入会Gは凡夫の団体に入会するためのイベントだが御授戒とはご本仏と自分自身が相対して行ういうならば「唯仏与仏」の儀式である。
◆是れ即ち与仏と云うは法華経の行者男女の事なり(御講聞書)
その厳粛な儀式の席にガヤが大勢集まって騒ぐのはむしろ非常識というものである。先日の天皇陛下の「即位礼正殿の儀」で騒いでいる人間などいないだろう。正宗の御授戒の儀式と創価の入会のイベントを比べるのは、「即位礼の儀」と「ハロウィンパーティー」を比べて「ハロウィンの方が盛り上がって楽しい」と言っているようなものである(笑)
しかし、ピンクレモンさんと同じような事をいう創価民は数多く存在する。これはひとえに創価大作の化儀を軽視する創価教の教えが大きく影響している。新興宗教団体の創価には他に誇れる伝統も儀式もないから宗門に嫉妬しているのかもしれんが「時代」を口実に化儀を軽視あるいは不要と会員たちを洗脳した結果がピンクレモンさんのような創価民を生んだのだろう。
そもそも化儀について日有上人は「化儀抄」において、
◇行体行儀の所は信心なり、妙法蓮華経なりとご指南され、
日亨上人も「有師化儀抄註解」で
◇行体行儀は是れ信心の表現なりと解説している。

「行体」とは身口意三業の我らの信心。「行儀」が「化儀」のことでここに「お会式」や「御授戒」といった儀式も含まれる。これらの行体行儀の化儀は全て妙法蓮華経の上に立てたれ妙法を表現したものである。「信心」と言っても目には見えない。「法体」と言ってもピンと来ない。だから妙法の上に化儀を立てその化儀を広めることによって法体を広める。これを「化義の広宣流布」というのである。「化儀即仏法」「化儀即法体」なのである。故に化儀を軽視することは法体を軽視することであり、化儀を凡夫が改竄することは「法体」を改竄するということなである。日寛上人が「当流行事抄」で

◇諸流は名を蓮師に借ると雖も実には蓮祖聖人の門弟に非ず。只是れ自己所立の新義なり。故に蓮師の古風を仰がずして専ら各自の所好に随うなり

と指摘されいるとおり、今の創価は「日蓮大聖人」の名を騙りながら、自分たちで「新義」を作り大聖人も仰がず自分たちの勝手気ままにイベントを行っている団体なのである。そんな創価が大聖人の門弟であるはずもなかろう。
「1年365日お寺に参詣してもお会式に参詣しなければなんにもならない」これ大聖人門弟の行体行儀の明鏡である。
創価の凡夫が企画した軽薄なイベントと宗門の妙法の上に立てた厳粛な行儀は次元が全く違うのである。商業主義のイベント屋の創価ごときが我ら大聖人門下の行儀にクチバシを挟むなどと笑止千万である。


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SGIが伸びている?それもまた結構。

蘭房さんから聖教新聞のコメントを貰って思い出したが、1週間ほど前に「インド創価学会はなぜ伸びるのか 」という記事が聖教新聞に掲載されていた。読み方によっては「インド以外の創価学会は大して伸びていない」とも読めるし、インドの創価学会が何故伸びるか?よりも日本創価学会が何故凋落しているのか?という方が切実とは思うのだが、停滞している組織や凋落している組織を取り上げたところで記事にならないから仕方ない。創価の連中の自慢話はここ十数年は自分達の組織がこんなに拡大した話どころか日本創価学会がこんなに拡大した話は全然なくて世界中に広がったとかSGIのどこぞの国は盛り上がっている系の話ばかりで肝心な「テメーの組織の話」ってあまり聞かないよね。ごく稀に眉唾な話をする創価活動民もいるけど全国的には「話題」がないのだろう。もしもあれば「インドの創価学会」が「何故」伸びるのか?なんて話題にならないでしょ。記事を読み返したけど別にインドの創価民が何か特別な事をしてるわけじゃないんだよな。まぁ単純に人口も多いしこれ位の結果は出るのかな?って感想だった。とはいえインドの学会員が頑張って「創価の教え」を広めたことは事実なんだろうと思う。
以前は、「創価の教え」が世界中に広まるのことにかなりの不快感・嫌悪感をもっていたのだが最近はあまりそうしたことは気にならなくなった。「SGIが増える?それもまた結構」みたいな気持ちでいる。もちろん創価の教えが謗法であり邪教であるというのは分かっているけどまぁそれもまた大聖人仏法流布の過程においては仕方がないというか必然なんだろうなって最近は思う。「教法流布の前後」ってヤツなんだろうか?と思う次第である。例えばインドを例に挙げればそもそもインドは釈迦仏法の国だから創価によってまずは南無妙法蓮華経の題目が流布されている。キリスト教圏でも同じ。キリスト教→仏教→南無妙法蓮華経の題目。そんな順番で流布されているのではないかと思っている。もちろん創価の流布しているところの「南無妙法蓮華経」は、文底秘沈の題目ではないし下種家の題目ではない。つまり日蓮大聖人の題目とは全く別の「謗法」の題目ではあるが、それでもとりあえず「南無妙法蓮華経」が流布しているという事は必ずしも悪い事ばかりではないと思うんだよね。

◆教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり (教機時国抄)

との御文にもあるように「南無妙法蓮華経」を聞いたことのない国の人に「南無妙法蓮華経」を聞かせるのだからそれはそれで意味もあるのではないかな。本当は大聖人の正しい仏法が流布することが一番いいのだけどある意味SGIが伸びるという事は大聖人の正しい仏法が広まる瑞相でもあると捉えている。

◆大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずともまいをもまいぬべし、舎利弗にあらねども立つてをどりぬべし(大悪大善御書)

とのご聖訓によれば創価によって世界中に「謗法の題目」という大謗法が広まっているというのは、今後大聖人の正しい仏法が広まる瑞相なんじゃないかと思っている。だからSGIが伸びていることを「嘆く」必要は全くない。むしろこれから創価に騙された世界中の人達が大聖人の正しい仏法に目覚める時が必ず来るのだか喜ぶべきなのかもしれない。無論、その創価の大謗法を打ち砕く力を我等日興門流がつけなければならないのだけど

◆悪は多けれども一善にかつ事なし(高橋入道殿御返事)

である。謗法団体である創価が日興門流の正義に勝利することはない。それはご本仏の言葉だから間違いないだろう。いずれにせよ創価が世界中で謗法を振りまけば振りまくほど逆に大聖人の正しい仏法が広まっていくのではないかと個人的には思うわけで、「SGIが伸びている?そりゃ結構な事で」と最近では思うようになった。まぁ今のうち浮かれていなさいね。という感じである。ともあれ、こちとら地道に日本の創価民や顕正民にひとりづつ確実に真実の大聖人仏法を説いて聞かせていきましょう。その間に創価の大謗法は広がるかもしれないがそれもまた末法弘教の方軌として受け入れながら。


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学会の組織を守るって?

学会の活動家は特に男子部が典型的だけどとかく何かを守ることが好きだ。「正義を守る」「地域を守る」「師匠を守る」などなどともかく何かを守ることが自分の責務だと思っている。(自衛隊か)なかでも幹部が好んで守りたがるのが「学会の組織」というやつである。ことあるごとに「組織を守るため」に奮闘しているのが創価幹部だ(アルソックか)しかしいまだに良くわからないのは「守る守る」と言ってはいるが一体何からどうやって「守る」のか?とうことである。普通は「守る」というと「敵から守る」と思うのが一般的だと思うが創価の敵っていったい何なのだろうと思う。広宣部をやっていた時は分かりやすくて、顕正会や法華講に学会員が退会させられないように法論とかして学会員を守っていた感があったけど今はそんな様子はあまりない。実際本ブログのようなアンチブログを読んで退会する会員は多いと思うのだが別にそれに対抗しているわけでもなく、リアルでも昔なら法華講員や顕正会員が学会員宅に来たならば法論のひとつもして対峙したものだが今はそんな元気のいい学会員もいないようである。だとしたら一体何から組織を守っているのか?そもそも組織って何?組織の何を守るの?って感じだった。
実は俺たちが組織を追放された時に追放した幹部連中が組織内の会員さんに俺たちを追放した理由は「創価学会の組織を守るため」と説明してたのを思い出した。別に俺たちは「創価学会」や「池田センセ」を批判・非難なんてしていない。ただあまりにもバカらしい幹部の指導とかは無視。あまりにもくだらない会合は不参加。していただけ。もちろん「バカらしい」とか「クダラナイ」の基準は各個人が決めていいわけだから、あの幹部の話は無視しろとかあの会合にはいくなとかいったような縛りはない。それが「団結を乱した」というのであればそうかもしれないけど、信仰っていちいち「団結しましょう」といって「団結」するようなモンではないでしょう。大聖人に対する信心があれば自然と団結するっていうのが俺たちの考え方だった。それが「創価学会の組織を破壊する」する行為だとは思わないんだけどね。
俺は「創価を守る事」というのは「一人ひとりの会員を守る事」だと思っていた。具体的に言うと「一人の会員の信心を謗法から守る」それが「創価学会の組織を守る事」とずっと思っていた。「組織」といったって結局は「一人の会員」以外にどこにも組織なんてない。その一人の会員を謗法から守るために、折伏をして勤行をして教学を研鑽する。そういう日々の中で一人の会員が謗法に負けない自立した信仰者になりまた他の会員を守っていく。それが「組織を守る事」であってそのために会合を開催するわけだよ。「選挙活動」や「選挙活動のための会合」なんてメインじゃないし、選挙の話しかしない幹部なんて不要なわけだよ。がそんなこと言ってると追放されちゃう(笑)
その時思ったんだけど、アイツらの言っている組織を守るって言うのは「組織の秩序やヒエラルキーを守る」ってことなんだなと。それは言い変えれば「幹部としての自分の立場を守る」ってことになんだよな。「自分が長でいる組織は自分の指示に従わなければ組織が崩壊する」ということなんだろう。もちろんそんな幹部はその上の幹部の言う事を聞く。結局最終的には創価本部そして大作センセへとつながるわけだ。つまり「組織を守る」ってのは「大作の言う事を聞け」ってことでそこには一会員の事を思う気持ちなんて微塵もないわけだ。そんなつながりを「師弟」なんていう言葉で美化しているだけなんだと思う。それでも俺たちが追放された四半世紀前は「非公式」の追放だったけど、いまじゃ創価本部が公式に「除名」とか「活動停止」とかの処分を下しているのだから池田時代よりも恐ろしい組織になったよね。多分末端の会員は処分を受けた会員に対して「組織を攪乱した」とか「組織を守るため」に処分したとか俺たちの時と同じようなことを言ってるんだろうね。「組織を守るためにその組織の会員を処分する」って本末転倒してると思うけどね。退会しても昔ほど引止めないみたいだし要はもう「票」と「金」だけを守る組織になちゃっているってことだろう。
でも本来は信仰者の集いというのはさっきもかいたけど一人ひとりの修行を助け合うためのものでしょう。その為の教団。それでなければ集まって組織を形成する意味はない。一人の会員の信心を守っていくことこそ大切なのではないかと思うが、いまの創価の幹部にはそれはできない。だって自分が謗法してるんだから会員さんを謗法から守ることは不可能。やれることがあるとすれば謗法者である自分が会員さんに近寄らないってことくらいだ(笑)
まぁ何はともあれ一般会員さんは幹部のいう「組織を守る」なんていう言葉に騙されないように気を付けて欲しい。そして騙されないためには自分が良く学び自立した信仰者と生きていく方向に進むことですね。まぁそうなれば自然と創価なんてやめちゃうっていうか辞めざるを得ないけどね。それが怖くてちゃんと学ばない学会んさんが多いんだよなぁ~。


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濃そうで薄い創価の人間関係。

創価活動は面倒だが創価から離れられない要因のひとつとして「創価内の人間関係」っていうものがある。創価の場合一度活動を始めてしまうと活動中心の生活になる。のべつまくなく創価の活動をしていると自ずとそれまでも創価外の付き合いは減ってきて創価内の人間関係が濃くなっていく。追い討ちをかけるように外部の人達には毎回毎回選挙や聖教新聞購読のお願いばかりになって自分から嫌われる行動をとるようになり益々創価内の人間関係に依存するようになる。そうした創価内の人間関係が切れてしまうのが怖くて創価活動を止められなかったり創価の組織から離れられなくなったりしてしまう。確かに創価内の人間関係は「濃い」といえなくもないが本当は実に「薄っぺら」な関係でしかない。実に多くの元創価の人たちが口を揃えていうようにいざ退会するとなると、見事なまでにそれまでのフレンドリーな態度が一変する。俺の母親も「創価から離れたら一人ぼっちで死んでいく」と俺の目の前で言われて逆に退会の気持ちが固まったのだが、実に失礼極まりない言い草だろう。身寄りのない独居老人ならまだしも、俺を含め3人の子供と9人の孫がいる俺の母親がどうしたら「一人ぼっちで死んでいく」という末路を辿るというのか?少なくても俺たち家族が見送るので一人なんてことはない。そもそも論を言えば「人間は生まれる時と死ぬとき」は集団自殺でもしない限り一人である。誰かが死んだら創価幹部から一人生贄になって一緒に死んでくれるわけじゃあるまい。そんな失礼な創価幹部じゃなくても昨日までは普通に仲良く談笑していたのに創価を退会したとなったら電話にも出ないしメールの返しもないというのが創価民の一般的なパターンである。なぁ~にが同志だよ。な~にが麗しい学会家族だよって感じだ。まぁ俺の場合は退会するずっと前から組織から非公式追放されてたし退会も俺じゃない誰かが退会届を出していただけだしそもそも別に創価の組織の人間関係に依存していたわけではないので別に誰から無視されようが何されようが特になんとも思わなかったが。創価で出会って本当に仲良くなったヤツとは相手がまだ創価であろうとなかろうといまでも普通にたまに会って遊びに行ったり飲みに行ったりしている。疎遠になってしまった連中とは「それまでの関係」だったということで、そんな連中と縁が切れたのはむしろいいことだろう。余計な人間関係がない方が幸せだと思う。俺は会社を経営しているが一番ストレスを感じるのは、金がないとか時間がないとか仕事がないとかじゃなくて「人間」である社員・顧客・取引先etc・・こうした人間関係が一番のストレスの元であり悩みの元である。これはまだ仕事だから我慢もするしなんとかしようと努力もするが、創価内の人間関係なんてそこまでする必要はまったくない。信心に関係があることならまだしも創価内での人間関係に我慢や努力を払う必要は全くない。そもそもが俺的には創価民の大半と気が合わないというか創価の組織以外の場所で会っていたら絶対に友達にならないタイプの人間が多かった。傲慢なやつ、卑屈なやつ、偏屈なやつ、ただのバカ。最初に会合に行った時点でいままであったことのないタイプばかりで途方に暮れた経験を持つ創価体験者は多いと思う。そして活動すればするほど役職が上がれば上がるほどストレスが溜まる。そうした連中と退会すれば会わずに済むのだから精神衛生上こんなにいいことはない。創価から離れるのと同時に離れていく創価民は全員自分の人生の中で不要な人々なのである。本当にお互いが必要だと思える人は創価と退会者でもちゃんと付き合えるわけだ。
いままで創価にいて退会し創価の人間から無視されると村八分になった気持ちになるのはわかるが、そもそもが創価自体が世間から村八分にされた人達の集まりだということを知っておくといい。それでも退会者を村八分的に扱うのは彼等は心のどこかで退会した人が羨ましいのだと思う。自分たちがスポイルされた世間様が創価より楽しいはずがないと思い込みたいだけなんじゃないかと最近は思うようになってきた。創価を辞めたいけど友達がいなくると怯えている学会員さん。全然そんなことないですよ。そもそも創価内の友情なんてほとんどありません。創価内で本当に友情で結ばれた人がいるならばその人はあなたが創価を辞めても友人ままでいてくれます。だから恐ることなく創価を辞めて創価内の「嫌な人間関係」を精算してみてください。スッキリしますよ。何よりも貴方たちが恐るべきは創価の人間関係を壊すことではなく、創価の謗法に加担しているということなのです。
とりとめのない話になってしまいましたが最後に、台風19号が接近があすに迫っています。進路に当たっているところにお住みの方々は十分に気をつけてください。私の住む関東もどうなることやら心配です。皆様の無事を先ほどご祈念いたしました。


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学会の幹部なんて「無責任職」だよ。

聖教新聞の今週の言葉に、

学会の役職は
尊き広布の責任職なり。
「法華経に名をたて
身をまかせ給うべし」
励ましと拡大の新風を!


と書いてあった。そういえば創価の秋の人事は今頃だったなぁ。役職が上の方から段々決まっていって今頃から新しい体制になるんだよな。俺は学会の人事は部長くらいまでは毎回断っていたなぁ。最後の方は断っても無駄だし断るだけ時間の無駄ってわかったかから断らなかったけど俺はこんな感じだけど人の上に立つのも人の下に立つのも嫌いだし、「指導」とかいう傲慢ちきな言葉も嫌いだから一会員で自由にしてたかったんだよね。それにさ、こっちから幹部になりたいと希望しているわけじゃないのに面接受けるとかもおかしい話だよね。面接といえば心に残っているは部長面接の時に面接官(分県幹部)がSもGもやっていなった俺に何故やってないのか?と聞いてきたのでやってないとダメなんですか?と聞き返したところ、SやGで薫陶受けないと信心の確信が持てない。みたいなことを言われたことかな。で、俺は「信心の確信があるからここで面接受けているのだけど。それでダメなら別に部長とかならなくていいです」といって帰りかけたことかな(笑)結局そのまま部長になったけど、あまりにその時にムカついたのでとうとう最後までSもGもやらなかったね。これだけは最後まで「やらない」と一言でオシマイにしていた。
さて、学会の役職は「責任職」って昔から言われたよね。責任職とかいいながら大作センセは【名誉】会長(笑)センセだけ思い切り名誉職なんですけど。というツッコミはさて置き一般の役職は「責任」職らしい。普通は責任には権限も伴わないとおかしいんだけどね。だって権限がないと責任の範囲がわからないでしょ?でもまぁ権限はないけど「責任職」なのである。で一体何に対して責任を持つのかみんなよくわからないんだよね。学会の組織運営に対してなのか?大作を師匠と思わせる責任なのか?なんだかよくわからない。だから幹部がその役職の責務を果たしているかも分からない。もっとも責務を果たしていなくても別に何か困ることもないんだけどね。まぁ俺が活動家幹部時代は「責任」とは自分の組織の部員さんを大御本尊・大聖人につなげること。当時は「つなげる」というよりも部員さんの大御本尊・大聖人への思いを「断ち切らない」ことを念頭に活動してかなぁ。そりゃ広宣部もやってから正宗や日顕上人への罵詈雑言はいってました(ゴメンナサイ)だけど、大御本尊と唯授一人血脈は否定したことはなかったなぁ。会合もほぼ毎回御書講義で大作センセのスピーチや人間革命を教材にしたことはなかった。勿論大作センセの言葉を教材に学ぶことは否定しなかったが「御書が分からなければ池田先生の言ってることはわからないよ」とかなんとかいって御書ばかりやってた。ぶっちゃけると大作スピートとかよりも御書の方が心に刺さるからなんだけどね(笑)今週の言葉にかかれている「法華経に名をたて 身をまかせる」というのはそういうことなんじゃないかと思う。「大御本尊を否定したり」「唯授一人血脈を否定したり」する創価幹部が後を絶たないけど、ヤツラの論拠は脆弱で我見と詭弁に塗れていてとてもじゃないが大聖人仏法と呼べる代物じゃないんだよな。ヤツラは本当に学会の役職が責任職であることを自覚しているのかね?我見と詭弁で会員を騙して「無責任」極まりない。で最後は「自己責任」なんていうなら役職なんて受けんじゃないよって思うよ。一般の学会員さんに知ってほしいのは、創価の幹部は「信心も責任感もない」ってこと。だから自分で学んで欲しいんだよな。そうすればすぐに創価の信仰は大聖人仏法ではないことがわかるはずだから。


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