大石寺法主の「唯授一人血脈相承」は大石寺9世日有の偽作だ

血脈相承は9世日有の偽作だ(56)~「堂参御経次第」「大坊棟札」は江戸時代以前の大石寺で丑寅勤行が行われていた証明ではない

■検証56・日興在世当時の大石寺では丑寅勤行は行われていなかった5

 

□大石寺12世日鎮「堂参御経次第」の朝勤行は丑寅勤行が大石寺で行われていた証明ではない

 

大石寺の「丑寅勤行」が、江戸時代以前の上古の時代に、本当に行われていたのかどうか、という論争になった時、日蓮正宗側が必ず出してくるのが、大石寺12世日鎮が大永3(1523)51日に執筆した「堂参御経次第」を出してくる。この「堂参御経次第」は原本を、日蓮正宗が2002年の立宗750年に刊行した写真集「宗旨建立と750年の法灯」に載せており、読み下し文を「歴代法主全書」2巻に載せている。「堂参御経次第」とはこんなことが書かれた文書である。

「大永三年癸未五月一日 夜

本堂へ 十如是寿量品一巻 題目百返

天御経へ十如是寿量品一巻 題目百返

御影堂へ十如是寿量品一巻 題目百返

又其後寿量品三巻 題目三百返

二日 朝

御影堂にて 十如是寿量品三巻 題目三百返

天御経へ参りて十如是寿量品一巻 題目百返 祈念申候

大堂へ参りて 十如是寿量品一巻 題目一百返 奉祈願候

御影堂へ参りて十如是寿量品一巻 題目百返 祈念申候

以上 十二巻千二百返

日鎮 花押」

 

1523.5.1堂参御経次第1(立宗750年写真集)


1523.5.1堂参御経次第2(立宗750年写真集)
 

(写真集「宗旨建立と750年の法灯」に載っている「堂参御経次第」)

1971529日の大石寺大講堂・寺族同心会大会で大石寺66世細井日達法主が、この「堂参御経次第」について指南をしている。細井日達法主は「これを見ると、今の五座の勤行の本の原形というものがわかります」「二日の朝も、同じく御堂においてお経をあげるのは三師の供養、天御経は天拝、それから大堂(本堂)でお経をあげたのは本尊供養、最後に再びお堂に参って広宣流布のお経である」(「日達全集」第2輯第とは言っているが、これを「丑寅の時刻の勤行」だとは一言も言っていない。また、「堂参御経次第」の中には、朝の勤行については、単に「二日の朝」としか書いておらず、どこにも深夜の丑寅の時刻に勤行したとは書いていない。もちろん一夜番の僧侶が居たなどとも、全く書いていない。単に朝の勤行をしたという記述だけなのである。

そもそも大石寺12世日鎮の時代には、日本に機械時計はまだ伝来しておらず、人々は日ノ出と共に起き、日没とともに就寝していた時代。したがって、大石寺12世日鎮の書「堂参御経次第」は、丑寅勤行とは全く無関係の文献であり、江戸時代以前の室町時代に大石寺で丑寅勤行が行われていた証明にはならないのである。

 

354-355客殿創建・日鎮お経次第


356-357五座勤行・武田兵火・大講堂工事古銭
 

(1971529日の大石寺大講堂・寺族同心会大会で大石寺66世細井日達法主指南・「日達全集」第2輯第5p355356)

 

 

 

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血脈相承は9世日有の偽作だ(55)~大石寺に一夜番僧侶がいても機械時計がなければ絶対に「丑寅の時刻」を知ることが出来ない

■検証55・日興在世当時の大石寺では丑寅勤行は行われていなかった4

 

□不定時法の時代は夜明け前の勤行を丑寅勤行と称していたことを認めた大石寺66世日達

 

日蓮正宗大石寺66世法主細井日達は、1977(昭和52)526日の大石寺大講堂で行われた寺族同心会の席上で、「不定時法」の時代の丑寅勤行について、次のように言っている。

「『勤行を致し』、これは今は丑寅の勤行を云っております。それじゃ丑寅と書いてない。どこを丑寅と言うかと非難するでしょう。昔は電気もランプもなかった時代には、夜、日が暮れると寝て、朝、日が出る前に、薄明るくなった時に起きて勤行する。これは習慣であります。」

 

446-447墓所・御堂・灰骨・丑寅勤行・寝起き習慣
 

(1977526日大石寺大講堂・寺族同心会・日達指南「日達全集」第2輯第5p447)

「『勤行を致し』、ここでは丑寅勤行とは申しておりませんが、この時分の勤行というのは必ず早朝であります。夜明けのまだ太陽が昇る前、朝になりかかった時、お経をあげるのであります。夜、日が落ちれば休み、もう太陽が出る前には起きるということは、昔からの習慣で当然であります」

 

350-351丑寅勤行時刻・譲座本尊
 

(1971529日・大石寺大講堂・寺族同心会大会・日達指南「日達全集」第2輯第5p350)

この細井日達の説法は、「不定時法」の時代においては、世間の風習に則って、夜明け前くらいに行っていた勤行を丑寅勤行と称していたことを認めたものである。しかし大石寺が江戸時代以前において、不定時法を採用していたと認めるならば、1549年の機械時計伝来以前において、今の深夜2時から4時にかけて行われている丑寅勤行は、行われていなかったと認めるべきである。

不定時法の時代から、日蓮宗をはじめとする仏教各宗派の寺院では「三時の勤行」と言って、朝・昼・晩と13回の勤行をしていた。身延山久遠寺などでは今でもこの「三時の勤行」を行っている。時刻は朝がだいたい5時半。昼が正午。晩が午後4時半ころである。大石寺も昔はこの「三時の勤行」を行っていた。それを近代に入って、朝・夕の12回の勤行にして、朝の勤行を「丑寅勤行」などと称するようになったのである。

もちろん、大石寺客殿の丑寅勤行を今の深夜2時から4時にかけて行うようになったのは、機械時計が伝来した1551年以降、不定時法の和時計が日本に広まった江戸時代以降のことである。それ以前の大石寺客殿の勤行は、日蓮宗・身延山久遠寺をはじめとする仏教各宗派の寺院で行われている「三時の勤行」の朝の勤行と同じ時刻に行われていた。つまり夏至で午前3時半くらい、冬至で6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいに朝の勤行を行っていた。これを後になってから「丑寅勤行」と称するようになっただけのことである。

よって「日興跡条条事」第三条の文

「一、大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

にある「勤行」とは、今の「丑寅勤行」のことではない。不定時法の時代に行われていた「朝の勤行」と、今の深夜・丑寅の刻に行われている「丑寅勤行」とは、別個の勤行である。

 

 

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血脈相承は9世日有の偽作だ(54)~1551年の機械時計伝来以前に深夜の丑寅勤行を行うことは物理的に不可能である

■検証54・日興在世当時の大石寺では丑寅勤行は行われていなかった3

 

□深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うには機械時計を持っていないと絶対に無理である

 

大石寺二祖日興在世の時代から、大石寺で毎朝深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行っていたとするならば、大石寺では日興在世の時代から定時法を採用していないと無理である。

又、同時に日時計や水時計、砂時計の類では絶対に深夜の正確な時刻を計ることは不可能なので、大石寺に機械時計がないと無理である。江戸時代においては、定時法の時計があったことはあった。しかしそんな時計を持っていたのは、将軍や大名、幕府の旗本など一部の特権階級のみだったはず。そんな時代に、大石寺が定時法の時計や機械時計を持っていたのか。ましてや鎌倉時代後期の日興在世の時代に、大石寺が定時法の時計や機械時計を持っていたのか。定時法を実際に採用などしていたのか。こういった調査を踏まえて、機械時計のことを調べようと赴いた所が、東京・谷中にある大名時計博物館である。大名時計というのは、一口に言って、昔の和時計のこと。江戸時代の機械時計のことを、和時計とか大名時計とか呼んでいた。江戸時代に機械時計を持っていたのは、大名ぐらいのものだったから、大名時計と言われるようになった、という説もある。その大名時計をいろいろと格蔵・陳列している博物館が、大名時計博物館。

大石寺がもし日興在世の時代から定時法を採用していたならば、日興在世の時代の大石寺に機械時計がなくてはならなくなる。そうしないと毎朝深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことが出来ない。では、日本で最初に機械時計ができたのは、いつなのか。

その謎を解くカギは、まさに大名時計博物館にあった。

大名時計博物館とは、陶芸家、上口愚朗が生涯にわたり収集した江戸時代の貴重な文化遺産・大名時計を長く保存するために、昭和26年3月「財団法人上口和時計保存協会」を勝山藩の下屋敷跡に設立。上口愚朗が初代理事長になる。

昭和45年10月上口愚朗没後、二代目上口等が昭和49年4月「大名時計博物館」を開館。親子二代にわたり設立した博物館である。

 

大名時計博3
 

(東京・谷中の大名時計博物館)

 

 

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血脈相承は9世日有の偽作だ(53)~江戸時代以前に深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことは物理的に不可能だった

■検証53・江戸時代以前の大石寺では深夜の丑寅勤行は行われていなかった2

 

□江戸時代以前に深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことは物理的に不可能だった

 

井沢元彦氏の説では、定時法が導入される前の不定時法では、「日の出」の時刻はすべて、「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかただった。しかし不定時法で時刻を決めてしまうと、北海道と九州では日の出の時刻がちがうし、夏か冬かという季節によっても日の出の時刻は違っている。それをすべて日の出の時刻を基準にして昼夜をそれぞれ六等分するのだから、一刻=二時間とは言えなくなる。昼夜の長さの等しい「春分」「秋分」では、そう言えるが、夜の一番長い「冬至」の日では、夜の一刻は二時間よりはるかに長く、昼の一刻は二時間よりも短いということになる。

こういう不定時法のほうが、昔の人にとっては都合がよかった。昔はTV中継もなければ電話、無線もないし、コンビニもなければ車もない。人間が夜間に活動できる場所も余裕もなかった。今のような照明もなく、灯といえば貴重な油を使った贅沢品だった。つまり昔は、「日の出とともに起きて、日没とともに寝る」ということが常識だった。そういう世の中では、起きる時刻を「寅の刻」と決めておいたほうが便利である。ただし、「寅の刻」とはだいたい「二時間前後の早朝を中心とした時間帯」を指すので、漫然としている。そこで今でいう「午前六時」や「午前七時」にあたる言い方もあった。それが「五ツ」とか「六ツ」である。室町時代ごろから日の出と日の入(または夜明けと日暮れ)の間をそれぞれ6等分する不定時法が用いられるようになったが、天文や暦法で使う時法は一貫して定時法であった。なお江戸時代には、その不定時法に時間表示を合わせた和時計も作られた。-------

東京・谷中にある大名時計博物館にある史料「大名時計博物館報NO3」の中に、不定時法について書いてある資料があるが、内容はほとんど井沢元彦氏の説と同一である。「大名時計博物館報NO3」の中に、不定時法の時刻と現代時刻の比較表が載っていて、これが実にわかやすい。

 

3-4不定時法


5-6不定時法時刻と現代時間


7-8江戸時代時刻


 

(大名時計博物館にある「大名時計博物館報NO3)

 

 

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血脈相承は9世日有の偽作だ(52)~江戸時代以前に深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことは物理的に不可能だった

■検証52・江戸時代以前の大石寺では深夜の丑寅勤行は行われていなかった1

 

□江戸時代以前に深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことは物理的に不可能だった

 

大石寺法主の「唯授一人血脈相承」の相伝文書のひとつである「日興跡条条事」を検証していくと、まさに矛盾だらけの文書であることが判明してくる。「日興跡条条事」第三条の文

「一、大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

 

 16-17日興跡条条事

18-19日興跡条条事


1883日興跡条条事

この「日興跡条条事」第三条の文によると、日興は日目に大石寺の「御堂」と「墓所」を管領し、修理を加え、日々勤行をして、広宣流布を待つように命じているということになるが、日蓮正宗に言わせると、大石寺の「勤行」とは、毎朝丑寅の時刻に客殿で行われている丑寅勤行のことだと言う。日蓮正宗は、日興の大石寺開創以来、毎朝欠かさず丑寅勤行を行ってきた、などと言っており、この「日興跡条条事」第三条の「日目之を管領し修理を加え、勤行を致し」の「勤行」が、日興在世当時の大石寺で行われていた丑寅勤行のことだと、無理矢理にこじつける。

しかし、これは全くのウソ。日興在世の時代に、大石寺には客殿も本堂も根本本尊もなく、毎朝の丑寅勤行など全く行われていなかった。もっと言うと、日興在世の時代に、否、日興在世の時代のみならず、ヨーロッパから機械時計が伝来した江戸時代以前の時代に、毎朝深夜2時から4時の時刻に勤行を行うことは、物理的に不可能だったのである。どうしてそう言えるのか。

1 毎日深夜2時から4時の正確な時刻に、勤行を行おうとすれば、機械時計が存在していないと絶対に無理である。日時計や水時計、砂時計の類では絶対に無理。これらの時計では、日没後の深夜の時間帯の正確な時刻を測定できない。

2現在の時刻の「定時法」が採用されたのは、1873年(明治6年)11日、太陽暦の導入と同時に西洋式の時法が導入されたのであり、軍隊内部では、午前・午後の間違いを防ぐために24時制が使用されていた。1942年(昭和17年)1011日、鉄道に24時制が移入され、一般人の間にも24時制が普及することとなったのである。

3深夜2時から4時の時刻の勤行など、どこの寺院でも行われていない。

日蓮正宗は、丑寅の時刻に勤行を行う縁由について、釈迦如来が菩提樹下で悟りを開いた時刻が丑寅の時刻だったから、あるいは日蓮遺文の文を挙げるが、それならば仏教各宗派の寺院でも丑寅勤行が行われていても不思議はない。しかしどこの寺院でも、深夜2時から4時の時刻に勤行など行っていない。身延山久遠寺や池上本門寺の朝の勤行は、日の出まもない午前5時ないし5時半である。

 

252-253十二支時刻1
 

(「逆説の日本史」に載っている和時計)

 

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血脈相承は9世日有の偽作だ(51)~「五人所破抄見聞」の筆者は富士妙蓮寺日眼ではなく戦国時代以降の文書である

■検証51・「五人所破抄見聞」の筆者は富士妙蓮寺日眼ではなく戦国時代以降の文書である

 

□「五人所破抄見聞」は大石寺9世日有以前に「二箇相承」が存在した証明ではない

 

二つめの文献は、1380(康暦2)年に富士門流の本山寺院・富士妙蓮寺(現・日蓮正宗本山妙蓮寺)5代貫首・日眼が書いたと伝えられる「五人所破抄見聞」という書物で、この中に

「日蓮聖人之御附嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』4p8ページより)

 

4-8.9末代の法主の処に帰り集る処の法華経なれば法頭
 

との文を挙げて、日蓮正宗が「古来から二箇相承が存在していた証拠だ」と言うのである。

しかし、この「五人所破抄見聞」なる文書は、富士妙蓮寺5代貫首・日眼の著書ではなく、もっと後世の室町時代の大石寺9世日有の代以降に成立した文書である。

まず松岡幹夫氏の研究によれば、「五人所破抄見聞」なる文書は、妙蓮寺五代貫首・日眼の真筆文書は存在せず、『富士宗学要集』4巻に「五人所破抄見聞」を編纂・収録した大石寺59世堀日亨の意見によると、古来から伝わっている写本と称するものには、通読しがたいほどの錯誤や誤りが多数あり、現行の『富士宗学要集』に収録されている「五人所破抄見聞」は、堀日亨が大胆に編集・編纂したものであるという。

宮崎英修氏は「五人所破抄見聞の価値」と題する論文の中で

「年号、年数、干支、年月日という書き方は、戦国時代の末ごろから稀に見られ始め、江戸期に入って間もなく一般的になるものであって、鎌倉時代、室町時代の通格は康暦二庚申六月四日と記して、決して康暦二庚申年六月四日とは書かない」(『棲神』p160)

と書いている。これはどういうことかというと、「五人所破抄見聞」の末尾の文にこう書かれている。

「伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼 在御判」 (「富士宗学要集」第4p26)

 

4-26康暦二庚申年六月四日書畢 本化日眼
 

この「康暦二」と「年」の間に「庚申」という干支を書き入れるような用法は、戦国時代から江戸時代にかけて一般的に定着していく、というのが宮崎英修氏をはじめとする説であり、それからすると1380(康暦2)年に、「康暦二庚申年六月四日」といった書き方はされない。したがって、この「五人所破抄見聞」の末文は、1384(至徳1)年に遷化している富士妙蓮寺五代貫首・日眼の筆ではなく、後世の時代の人の筆ということになる。

 

 

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血脈相承は9世日有の偽作だ(50)~日頂の書とされる「本尊抄得意抄添書」は後世の偽作文書

■検証50・日頂の書とされる「本尊抄得意抄添書」は後世の偽作文書

 

□歴史上はじめて「二箇相承」の全文を引用した人物は本是院日叶(左京阿闍梨日教)である

 

二箇相承書の全文を載せた最古の文献は、1480(文明12)  本是院日叶(左京阿闍梨日教)が「百五十箇条」で「二箇相承」の全文を引用しているものが最初と言われている。「百五十箇条」で引用されている「二箇相承」の全文は以下の文である。

「身延相承書 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師為るべきなり、国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ・事の戒法と謂ふは是なり、中ん就く我門弟等此状を守るべきなり

    弘安五年壬午九月十三日、血脈の次第・日蓮・日興、甲斐国波木井山中に於て之を写す」

「池上相承 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当為るべし、背く在家出家共の輩は非法の衆為るべきなり

    弘安五年壬午十月十三日、日蓮御判、武州池上」

(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2p183184)

 

2-182.183二箇相承初出1百六箇抄文本因妙教主某
 

さらにつづいて長享2年(1488年)6月に大石寺僧侶・左京阿闍梨日教の著書「類聚翰集私」、延徳元年(1489年)11月の左京阿闍梨日教の著書「六人立義破立抄私記」である。本是院日叶(左京阿闍梨日教)が「二箇相承」の全文を引用する以前においては、「二箇相承」の全文は、いずれの文献にも登場して来ないという一般的な通説である。

1960(昭和35)4月号「大白蓮華」に掲載されている大橋慈譲氏の論考「富士宗学要集の解説」によれば、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は

「二箇相承を引用したのは、左京(阿闍梨日教)がはじめである。妙蓮寺日眼があるが、これは弘安五年月日云々あるのみである。(二箇相承の)文章を書いてあるのは、左京日教がはじめである」と語っていたという。(1960(昭和35)4月号「大白蓮華」p80)したがって、堀日亨も「二箇相承」の全文を載せた最古の文献は、左京阿闍梨日教の文献であるという見解を認めている。

それに対して、日蓮正宗はそれこそ血眼になって古文書を探し、最近、次の二つの文献を示して「これが『二箇相承』が古来から存在していた証拠だ」などと言ってきている。

ひとつが、1308(徳治3)928日に六老僧の一人である日頂が書いたとされる「本尊抄得意抄添書」である。その中に、次の記述がある。

「興上、一期弘法の附嘱をうけ日蓮日興と次第日興は無辺行の再来として末法本門の教主日蓮が本意之法門直受たり、熟脱を捨て下種を取るべき時節なり」(日蓮宗宗学全書1)

 

 

 

 

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血脈相承は9世日有の偽作だ(49)~日朗の富士来訪、日頂の重須帰伏は「二箇相承」「唯授一人血脈相承」とは全く関係なし

■検証49・日朗の富士来訪、日頂の重須帰伏は「血脈相承」とは全く関係なし

 

□日頂が重須に帰伏したのは養父・富木常忍に勘当され弘法寺から擯出された故である

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(日蓮正宗の妄説)

他門では"六老僧は平等"などと主張しているようであるが、その平等であるはずの日頂師が、最後の最後になって日興上人に帰依した事実は、重大である。このことは、師自身、法門に対する信解は拙なかったにせよ、日興上人が大聖人の付弟であるという客観的事実は無視できなかったということを示しているのではないか。

日興上人在延中は"地頭が不法だから"という理由で、久遠寺を訪ねることがなかった日朗であるが、身延離山後の日興上人を2度も訪ねている。同師は、身延の日向をはじめ他の本弟子を訪ねているのだろうか?日朗は日頂師と異なり、"心は・をちねども身はをち"たようである。

(日蓮正宗信者が日蓮正宗系掲示板に書いた書き込み)

 

日蓮正宗は、「二箇相承」「唯授一人血脈相承」とは何の関係もないこと、ありとあらゆることを、何がなんでも「二箇相承」「唯授一人血脈相承」実在に、こじつけようとしているようで、日朗来参、日頂帰伏の件を持ち出しているのも、そのうちのひとつである。

日頂は、もともとは駿河国の南条家の出身であり、後に、日蓮の有力な檀越である下総国八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍(日常)の養子となった人である。日蓮の没後、身延山では本圀院山本坊を創り日蓮の墓所の輪番に参加。下総国真間(現在の千葉県市川市真間)の弘法寺を拠点として布教につとめたが、晩年に、故郷駿河国の日興のもとに赴き、重須本門寺の学頭となったのは、「二箇相承」「唯授一人血脈相承」があったからではなく、1293年(永仁元年)に養父・富木常忍と対立し、弘法寺を擯出されてしまったからである。駿河国重須(北山)本門寺の日興のもとへ来たのも、もともとが駿河国の南条家の出身であり、南条家の外護のもとにあった日興のもとへ来ただけのことで、「二箇相承」があったからでもなければ、日興を「本門弘通の大導師」と認めたからでもない。そもそも義父に勘当されて寺院から擯出されてしまったら、どこに行くのかというと、実家の里親のもとに帰るしかないではないか。

 

北山本門寺40仁王門
 

(今の北山本門寺)

 

 

 

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血脈相承は9世日有の偽作だ(48)~大石寺門流にはじめて「本堂」「客殿」を京都・奈良から輸入した大石寺9世日有

■検証48・日蓮正宗大石寺格蔵の「日興跡条条事・日興真筆」の真っ赤な大ウソ11

 

□大石寺門流にはじめて「本堂」「客殿」を京都・奈良から輸入した大石寺9世日有

 

日蓮正宗大石寺9世法主日有がイメージした「本堂」とは、大石寺9世日有が偽作した文書「百六箇抄」に書いている「富士山本門寺本堂」であり、そこには大石寺9世日有が「日蓮真筆」を詐称して偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀ることを想定している。つまり大石寺9世日有が偽作した「百六箇抄」では

「下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり…五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」(『富士宗学要集』1p18p21)

 

百六箇抄6(富士山本門寺本堂)


百六箇抄7(日興嫡嫡相承本堂正本尊)
 

と書いており、同じく大石寺9世日有が偽作した「日興跡条条事」第二条には

「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」

と書いている。「日興跡条条事」で「弘安二年の大御本尊」を本門寺に懸け奉る場所とは、「百六箇抄」で言う、「富士山本門寺本堂」であり、大石寺9世日有が偽作した「弘安二年の大御本尊」を「富士山本門寺本堂」の正本尊として祀るという意味である。そして大石寺9世日有は、

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」

(『新池抄聞書』/日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝・下」p84)

294-295新池抄聞書1
 

と、「戒壇の大本尊」を祀る堂宇・本堂こそが「事の戒壇」であると言った。「戒壇の大本尊」を祀る堂宇・「事の戒壇」がある大石寺こそが、日蓮一門の総本山であると言ったのである。

そして、これはどういうことになったかというと、日蓮正宗大石寺の末寺の曼荼羅本尊、大石寺法主が書写して末寺に下附する曼荼羅本尊は、板本尊だろうが紙幅の本尊だろうが、全てが大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊の分身ということになった。

つまり「本門寺の本堂に懸け奉る『戒壇の大本尊』なる板本尊の分身」を祀るということが、日蓮正宗大石寺の末寺に本堂が勃興する起源になったのである。

これは末寺の場合だが、大石寺には大石寺12世日鎮がはじめて御影堂を造立し、大石寺17世日精が現在の御影堂を再建しているが、「本堂」と称する堂宇はなかった。大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」は大石寺宝蔵の中に深く格蔵され、昭和の創価学会折伏大進撃の信者激増によって、ようやく宝蔵から奉安殿、そして正本堂へと祀られた。

大石寺ではじめて「本堂」と称する堂宇は、1972(昭和47)10月に落慶した正本堂だが、これも1998(平成10)年に取り壊され、わずか26年で消滅している。

 

正本堂115(連合会写真集)
 

(1972年から1998年まで大石寺にあった正本堂「大石寺写真集」より)

 

 

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血脈相承は9世日有の偽作だ(47)~大石寺には創建当初から「本堂」「御堂」「客殿」と呼ばれる堂宇はなかった2

■検証47・日蓮正宗大石寺格蔵の「日興跡条条事・日興真筆」の真っ赤な大ウソ10

 

□大石寺には創建当初から「本堂」「御堂」「客殿」と呼ばれる堂宇はなかった2

 

それでは「本堂」という堂宇は、そもそもどういう堂宇・伽藍なのだろうか。

日本に仏教が伝来した当初の飛鳥・奈良時代の寺院の金堂(仏殿)は、その寺院の中心本尊・根本本尊を祀るための堂宇であったので、金堂(仏殿)の建物の内部は、仏像本尊を安置する壇(須弥壇)がほとんどのスペースを占めている。

これは飛鳥・奈良・平安時代においては、仏教を信仰していたのは、天皇・皇族・貴族・公家ほんの一部の上流階級・支配階級のみであり、この当時の寺院も、ほとんどが天皇・皇族・貴族・公家の財力・経済力で建てられた官寺であった。

この時代において、仏教を信仰していたのは、僧侶と皇族・公家・貴族といった上流階級のみであり、まだ仏教は一般庶民まで広く流布していなかった。金堂(仏殿)の建物に、たくさんの人を収容するスペースは不要だったのである。

これは、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた東大寺、唐招提寺、興福寺、薬師寺の金堂、法隆寺の金堂、夢殿、平等院鳳凰堂の中は、皆そのようになっている。

東大寺の大仏殿(金堂)も、中に祀られている大仏は巨大であるが、大仏殿の前に参詣者が入るスペースはほとんどない。平安時代の堂宇がそのまま今日に遺っている平等院鳳凰堂も同じ。平等院鳳凰堂の中も、ほとんどが本尊・阿弥陀如来像が祀られているスペースになっていて、僧侶や参拝者が座るスペースがほとんどない。

何とも不便な堂宇を造ったものだと思いがちだが、藤原頼通が創建した当時は、こういう造りのほうが都合が良かったということである。この平等院も江戸時代までは、ほとんど藤原氏丸抱えのような寺院で、ほとんど藤原氏の供養のみによって成り立っていたのであり、一般庶民とはほとんど無縁だったのである。

これが鎌倉時代に入って、鎌倉仏教が興出して仏教が武家から農民、職人、商人、一般庶民まで幅広く流布され、寺院にも参詣者が増えるようになった。そうなってくると、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた寺院の金堂のように、参詣者が入るスペースがほとんどない建物では、参詣者を建物の中に収容しきれない、ということになる。

そこで、金堂(仏殿)の前に、参詣者を収容して仏像本尊を礼拝する建物である礼堂が建てられるようになる。さらに時代が下って金堂(仏殿)と礼堂が一つの建物として建てられるようになった。

つまり金堂(仏殿)の須弥壇の廻りの部分が内陣になり、礼堂の部分が外陣と呼ぶようになった。これが今の本堂の原型である。

 

 

 

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