凡夫の雄叫び

言ってるお前がどうなんだよとつい言ってしまいたい時。〔#283〕

身から出た錆。



魔とは、正覚への求道の心を悩乱させようとする煩悩の働きである。

それは、世俗的な欲望への執着となって生じることもあれば、

肉体的な飢えや眠気となって現れることもある。

あるいは、不安や恐怖、疑惑となって、心をさいなむこともある。

そして、人間はその魔に惑わされる時には、必ず
自己の挫折を、なんらかのかたちで正当化しているものである。

しかも、それこそが、理に適ったことのように思えてしまう


Demons or devils represent the workings of earthly desires and illusions attempting to unsettle the mind of those who seek the way to true enlightenment. Sometimes devils arise in the form of our attachments to worldly desires, or appear as the physical cravings of hunger or sleepiness. At other times, they torture the mind in the form of anxiety, fear and doubt.

Whenever people are led astray by such devilish functions, they invariably justify their failing in some way. Furthermore, they convince themselves that their justification is perfectly reasonable and natural.


魔は「親の想《おもい》を生《な》す」(御書917㌻)といわれるが、
往々にして魔は、自分の弱さや感情を肯定する常識論に、
すがる気持ちを起こさせるものだ。

devilish functions cause people to clutch at some seemingly reasonable conclusion that vindicates their weaknesses and emotional needs. Nichiren warns of this, citing the words, “The devil will watch over him like a parent” 10 (“The Actions of the Votary of the Lotus Sutra,” WND-1, 770).


引用元:小説『新・人間革命』第3巻「仏陀」/The New Human Revolution, volume 3, “The Buddha” chapter,



「魔」というもの



魔というものはある意味、自分に一番合った形として現れてくるからこそ、一番見破りにくいということがあるかもしれませんね。

どんなに活動家であろうと、何だろうと関係なくこの魔とは常に背中合わせにあるということを決して忘れてはいけないところです。

そして気をつけなくてはいけないことは、「出来事」に自分の魔の感情がのっかると非常に厄介で、本当に曇って前が見えなくなるということ。

感情がその出来事に色をつけ、自分なりの見解が出来上がり、自分が一番しっくりくるストーリーにしてしまいがちです。

まあいずれにしても何かが起きた時に、自分の中での落としどころを見つけないといけませんので、誰かからどう言われただの、その反論やらなにやらの感情をベースに自分のストーリに組み立てるより、自分が得になるように持っていけれるようにすればいいのではないでしょうか。

つまり、何かに注意されたら、その言われたどこかの部分を自分なりに改善していけば自分はもっとパワーアップするのであれば、どう注意されたかとか、その言われ方にむかつき続ける必要はもうありません。

言ってきた人の配慮がたりていないだとか、言った相手の出来ていない部分など、そこまで気にならなくなるから不思議なもんです。

それをしたら自分にとって得なのかどうか。言われたことの得な部分は何だろうか。自分がもっと凄くなるパーツを見つけることに集中する。

言っているお前がどうなんだよとつい言ってしまいたい時の対処法として便利ですよ。

また、例えばどうしても学会員同士で愚痴ってしまいたいときは、以前書いた#怨嫉の本質〔#107〕という見方も参考になるかもしれません。

あまり何も考えずに雑談するような感じで書いただけですが、反響が凄いのです。笑。


怨嫉って、実は自分の「影」の事なんだ。
自分そのものを指しているんだよ。

この人にあんなこと言われた、
こんなこと言われた、
なんでこの人はこうなんだって、

そう思う真っ当な理由はいくらでも思いついても、
そこにブレてしまう「自分」のこころの「影」だってことに気づく人は少ないの。
        「英語で創価」怨嫉の本質〔#107〕


それでも傷ついちゃって沈んでるあなたへ

それでも傷ついちゃって沈んでいるあなたに、最後にスペシャルな名言をお届けしましょう。


何度も何度も傷つけられたら、
When people hurt you over and over

相手を紙やすりだと思えばいい。
think of them like sand paper.

多少、擦り傷は受けれど、
they may scratch and hurt you a bit

自分はピカピカになり、
相手は使い物にならなくなる。

but in the end,
you end up polished
and they end up useless.

    クリス・コルファー

    Chris Colfer
日本語訳:tabi-labo.com



ピカピカなあなたに、この言葉を捧げます。


どうか素晴らしき人生を!

過去を生きる人。「今」に活かす人。〔#231〕

じーさん再登場


私の地区に、尊敬してやまないハゲたじーちゃんがいるという話を以前していますが、
(→今を生きる人〔#188〕

そのじいさんは、スマートフォンをもっています。

じいさんが携帯電話を持っていることも珍しいですが、スマートフォンをあえて使っているのです。

それは、若者と「話す」ためです。

会合に出てきたり、出てこなかったりしている若者を常に励まし、ご飯に連れて行ったり、コーヒーを飲んだりしています。何となく話かけたくなる風貌と、なんでも話せちゃう雰囲気は、実は長年の訓練のたまものなのかもしれませんね。

あまり会合に来ない若者がひょっこり出てきている陰には、大抵このじいさんのサポートが入っている場合が多いのです。

「今」を戦うために過去があるー彼は今まで受けてきた訓練を「今」に活かす人です。

自分なりの最善を尽くしている人は本当に美しい。

法華経によると地涌の菩薩は金ピカらしいですが、まさしく、じいさんの全身から光が放たれているのがわかります。

自分の今の姿をもって「この信心とは何ぞや」を私たち若者に見せていく。こんな本物の闘士と出会い、共に戦える我が身の幸運をかみしめています。


~『新・人間革命』共戦より~


これから、県長などの幹部にも、草創期を戦い抜かれた皆さんより、十歳も、二十歳も若い人たちが登用されていくでしょう。さらには、三十歳下、四十歳下の人が、各組織の中心者となっていく時代が来るでしょう。それが令法久住の流れです。
“From this point on, those appointed to such posts as prefectural leaders will probably be 10 or 20 years younger than those of you who fought so selflessly in the pioneering stages of our organization. The time will eventually come when the core leaders of various parts of the organization will be 30 or 40 years younger than you. This is how to ensure the eternal perpetuation of the Law. 

若いということは、さまざまな可能性をはらんでいるとともに、当然、未熟な面があります。先輩の皆さんが、そこをつついて、『力がない』とか、『私は、あの年代の時は、もっと頑張ったのに』と言っているようでは駄目です。また、『私に相談がなかった』とか、『聞いていない』などと、へそを曲げるようなことがあってはなりません。批判するためではなく、応援するために、経験豊富な皆さんがいるんです」
“The young have great potential, but they may also be inexperienced. As their seniors, you mustn’t criticize them as incompetent or say, ‘When I was their age, I worked a lot harder.’ Nor should you be resentful and say, ‘Well, they never came to me for advice,’ or ‘This is the first I heard about it.’ 
“Because you have such a wealth of experience, it is crucial that you support and not criticize them.”

先輩が立派であったかどうかは、後輩の姿に表れる。したがって、先輩が後輩の未熟さを嘆くことは、自らの無力さ、無責任さを嘆いていることに等しい。
The measure of a senior’s achievement can be seen in their juniors. When seniors complain about the immaturity or incompetence of their juniors, they are really only demonstrating their own lack of ability and responsibility.

(略)組織の中心者になった後輩が、力を発揮できないとしたら、それは、先輩幹部が悪いんです。先輩が後輩を育てもしなければ、全力で応援もしていないからです。

If your juniors, who have become the core of the organization, are unable to demonstrate their full potential, their senior leaders are to blame. It’s because the seniors haven’t fostered their juniors, and haven’t supported them wholeheartedly. 

(略)草創期に頑張ってこられた皆さんは、先輩たちから、厳しく叱咤激励されてきた経験をおもちの方もいるでしょう。しかし、人材の育成、教育の在り方は、時代とともに異なってきています。自分が受けた訓練を、そのまま後輩に行うべきではありません。
“I’m sure that some of you who were active in our movement in the pioneering days were occasionally scolded by your seniors. But the methods of fostering and educating capable individuals change with the times. We shouldn’t try to train our juniors in exactly the same way that we were trained. 

これからは、賞讃、激励の時代です。努力を的確に評価し、褒め、讃えていく。それが、勇気となり、意欲を育んでいきます。その場合も、一つ一つの事柄を、具体的に讃えていくことが大事です。また、賞讃のタイミングを外さないことです。
“This is an era for praise and encouragement. It’s necessary to accurately assess young people’s efforts and praise and commend them. That will give them courage and foster in them the aspiration to do better. We should praise each of their specific actions concretely. And timing is important, too. 

ともあれ、皆さんは、人材育成の達人になってください。民衆詩人ホイットマンは、「自らが偉大な人を育てる。そして、偉大な人を育てられる人を育てていく……すべては、そこから始まる」と述べている。

“I hope you’ll all become experts at fostering capable individuals.”

As the great poet of the people Walt Whitman (1819–92) wrote, “Produce great persons and the producers of great persons . . . all the rest surely follows.” 

創価学会の未来永劫の流れも、そこから始まるのだ。
The Soka Gakkai’s eternal continuity into the future also begins with such efforts. 




素晴らしき人生を!

回転する感じ。〔#199〕

よいしょ、よいしょ。


広布の組織も、皆さま方お一人お一人に、絶対の幸福をつかんでいただくためにある。
Our organization exists so that each member can attain absolute happiness.

皆さまの幸福が目的であり、他は手段なのである。
Le me reiterate that the objective of this organization is your happiness.

引用元:
(日本語)親愛なるアメリカの友へ P123
(英語)My Dear Friends in America P93

みなさん、こんにちは!

お久しぶりです。

いや~、めっきり寒くなりましたねぇ。

冷たい風が目に染みてきます。

日が暮れるのも早いですし、寒いし、

小雨が降っていたりするとなおさら活動に出るのが億劫な気分になってしまいますねぇ♪(そんなポップに言うな)

もう凡夫ってのは一瞬にしてみみっちい殻にすぐ入っちゃうんですよねぇ。

楽しみにしている会合は、うきうきで支度するのに、会合によっては(笑)、「めんどくさいなぁ」とつぶやく、超凡人の生命状態になる場合もあります。

一念に三千の心の状態が備わっているというのはこんな日々のやりとりで妙に納得できたりしますね。

でも、これだけは実体験として本当にそうだから言えるのですが、

自分が活動しようと思った瞬間から、自分の中のギアが噛み合ってくる感覚があります。

自分が今悩んでいることも、漠然とした不安も、引き連れて回転するスクリューが強くなった感じです。

その場にとどまって停滞している重い悩みは、個人的にはとにかくスクリューで自分と共に回転して動かしてしまった方が結局はうまくいくというのが私の結論です。

川の流れに自分という水車をのせていく感じにもとても似ています。

力強い川の流れに1トン級もある錆びついた重いギアをのせてゆっくり回転し、回転とともに錆が取れていくーそんなイメージでしょうか。

そんな私自身が回転しているかどうかは、日常生活の些細なところですぐわかります。

むちゃくちゃ錆びている割には(笑)、うまいこと回転しているやんけという瞬間の私は、自分自身がしびれるほど大好きな私がいます。笑。

自分の最高が出ている。これが私にとっての幸せな生き方ですね。

宿命転換していこうという自分の命を見ていく生き方も、要はこういうことのような気がします。

自分の思い入れのある錆びから(笑)、意味不明にこびりついている錆びまで自分の命には引っ付いているからです。

その命
を常に回転させることができるキッカケ、場を持てているという意味では、学会は自分のスクリューを存分に回転しまくれるのでありがたいと思っています。活動がめんどくさいなぁと思う時は、こういう発想を持っていると、もうちょっと楽しく参加できるかもしれませんよ。笑。

美味しいものをたべたり、ゆっくりこたつに入ってテレビを見ながらミカンを食べている(結局食べている)時も幸せなのですが、

ただ笑ったり、泣いたり、怒ったり、そんな表面的な感情だけが繰り返されるだけで死に向かっていく生き方は、私にとっては混沌とした霧の中に留まっている感じで、ふとそこに苦しむ時があるだろうなあと思います。私にとってはですよ。笑。

う人生を過ごすかは自由です。

生き方で人生を味わう。生き方は自分で選べます。

素晴らしき人生を!

動かない影。〔#193〕

影が曲がっているということは、
自分の身体が曲がっているからだと気づく人は少ない。

Buddhism is like the body, 
and society like the shadow. 

仏法は体のごとし
世間はかげのごとし


When the body bends, 
so does the shadow. 

体曲れば
影ななめなり





どんなに自分の影を見つめたところで、

あなたがじっとしていれば影もじっと動かない。


あなたが動かないかぎり、自分の影は動いてはいかない。


影を動かすということは、そういうことだ。


御本尊があろうと、その鏡に映るあなた自身がその前に座っていないといけない。


あなたの命に反射し、

あなたの命を動かすために。



一旦自分の命を開けば、いろんな命の状態がドアから飛び出てくるんだ。

かっこいいことを言えている自分、情けない自分、傷ついている自分、穏やかな自分、

どれも、すべて自分。

そしてすべての自分を引き連れて、いっせいに空に上がっていく。

まるで虚空会の儀式のように、すべての自分を浮かび上がらせるように。


南無妙法蓮華経と己(おのれ)が中核となる、その集合体。


法のリズムにのったそんな集合体が、自分の宇宙を形成しているとすれば、

それは、あなたの素のままで、最高のパフォーマンスを出せる自分となる。


自分が本当に分かるために、

あなたに本当にわかってもらうために、

私は何度も伝えよう。


あなたを動かせるのは、あなた自身しかいないということを。


素晴らしき人生を!

自分だけのメロディー 〔#189〕

自分だけのメロディー



自分が、

これは本当だと実感していることを

言葉にするだけで、

自分だけが出せるメロディーとなって

他のどんな綺麗な言葉よりも深い価値がうまれるんだ。



なぜなら、

これは本当だと実感している感覚は、

実は一番大切で、

この法が、

自分の命の中で動いていることの証明になるからだ。


だから、

自分がこれは本当だと実感していることを

法が自分の命に確かに作用していることを


どんなに荒削りでも、

言葉が足りなくても、

確かに伝えていく。


この積み重ねをしていけば、

誰かが何かを受け取ってくれるかもしれない。


自分だけが出せるメロディーにのせて。



追伸)
画像のインパクトが強すぎて、内容が入ってこなかったらすみません。

今を生きる人 〔#189〕



大聖人は、
Nichiren Daishonin writes:

「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外《ほか》の遊楽なきなり経に云く『衆生所遊楽』云云」(御書1143㌻)切の衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱えるより外に、遊楽はないのである。(法華経の寿量品)には「衆生の遊楽する所」(創価学会版法華経491㌻)と仰せである。

“There is no true happiness for human beings other than chanting Nam-myoho-renge-kyo. The [Lotus Sutra] reads, ‘. . . where living beings enjoy themselves at ease’ ” (“Happiness in This World,” WND-1, 681). 

あえて分ければ、
“Enjoy themselves at ease” here means  

「遊」とは、人生を自在に生きていくこと、
being freely able to live the kind of life one desires

「楽」とは、人生を心から楽しむこと、といえるかもしれない。
and wholeheartedly enjoying that life.

引用元:「幸福と平和を創る智慧」/ The Wisdom for Creating Happiness and Peace

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私の支部に、

つるっぱげのおじいちゃんがいます。

ハゲているかどうかは別にどうでもいいのですが、

私はこのおじいちゃんを本当に、心の底から尊敬しています。



今も、この瞬間も、仏法対話ができる人がいないか。

今、この瞬間の戦いをしています。


そう、「今を生きている人」なのです。


私は常に、彼の一挙手一投足、その生き様を、

神々しいうしろ姿を、じっと見ています。


私はどうしてもまだ若く、軟弱で、

ちょっとした事でとても苦しく感じることがあります。


自分のキャパは自然には広がっていきません。


自分の狭い狭い心を、

辛くてもグーっとグーっと押し広げていくしか方法はないのです。


このおじいちゃんは長年の役職を次の世代に渡し、

プロボクサー並みのフットワークで駆け回っています。たまに杖をつきながら。。


やっぱり、本当の意味で鍛えた人は動きが違うのです。

若い時に死のうとしていたことなんて、想像もできない今の姿。


長年の役職がその人を鍛えに鍛え、

どんな会合に参加してもそれ以上のことができるキャパがあるから、

どんな会合でも、どんな人が集まってても、

いつでも自然体で、

本当に楽しそうに、心が躍っているのがすぐわかります。

自由自在。

最近、

ああこういう姿が人生、最高に楽しんでいる姿なんだなあと思うのです。 


今を生きている人。

だから私も、

今まで何をしてきたかより、

今、何をしているのかを語れる人でありたい。

「過去の自分」が「今の自分」をつくりだしたのなら、

自分が望む「未来の自分」は「今の自分」からしかつくりだすことはできない。


こんなのさんざん言われていることだけれど、

これを本気で実行できる人は、結構少ない。


苦しみを苦しみのまま吸い込む感覚。〔#179〕

ラオウより
BY ラオウ


(戸田)先生は、
「ぼくだって、夜も眠れぬほど、
悩み、考えているよ」と


笑いながら、こう答えてくださった。


He laughed and said,
“Rest assured that I have problems 
and worries that keep me up at night.” 


「それは、牢獄のなかで、

自分の使命を知ったからだね。

“It’s because I realized what my mission was 
when I was in prison.


生涯を捧げて悔いない道を

見つけたということだ。

I found the path 
I could dedicate my life to without regret.


そうなれば人間は強いぞ。

That makes a person strong. 


恐れも、不安もなくなる」と。

All fear and uncertainty disappear.” 

大白蓮華2018年8月号巻頭言より


この間、座談会で読んだ巻頭言。

何か心にぐっと入ってきましたねぇ。

ぽーっとしていると、いろんなことが起こります。

私に似たような風貌の子に、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と言われそうです。笑。

たまに自分の中にあるフィルターを掃除しておかないと、苦しみを苦しみとしてそのまま吸い込んでしまうような感覚に陥るんです。

ですから、たまにこういう心にグッとくるものを入れておかないと、自分の中から湧き上がってくるネガティブな感情に簡単に持っていかれそうになってしまいます。(怨嫉の本質〔#107〕

自分の生涯を捧げて悔いのない道。

そういう思いが自分の中でONになっている時、怒りや、苦しみを、浄化された違った感情として出すことができる。

信心って、きっとこのフィルターの話をしているような気がするんです。

『あたし、拠点にしたいの』の巻 〔#145〕

学会の拠点
学会の拠点


地区で座談会などをするときには、個人のお宅が会場になるのですが、

そのお宅のことを、「拠点」って私たちは呼んでいます。


以前ブログでも取り上げていますが

私たちがメインでやっている地区の単位での活動は、

こういった「拠点」で繰り広げられているのです。


私のアパートは拠点となれるような住居環境ではないのですが、

ずっと密かに温めている野望(?)がありまして、

それが、

「住居を『すんごい拠点』にしたいぞぉぉ!」ってやつなのです。


・・・はい。


私の祈りには必ずこれが含まれています。

夢は膨らむ一方です。笑。


階段を登らないといけないと、じーちゃんばーちゃんがきついだろうし、

仏壇が隅っこにあると、

角度的に御本尊様が視界に入る人は少数で、御本尊様を見ているのか、仏壇そのものを見てるのか、おっさんの頭をみてるのか(笑)、何に祈っているのか分からなくなって、ちょっと笑けてくるし、

玄関をあけてすぐ会場になっている方が、初めて入る人には抵抗が少ないだろうし、

と、このように何だかんだいろいろ理想が膨らんでいくのです。


そういう意味では、拠点って難しいんですよね。



そういえば、新聞や大白蓮華などに載っている、「座談会の写真」って見てるとおもしろいですね。

日本の座談会だと中心者の話でみんな爆笑している姿を撮られている率が高いですが、

海外の座談会の写真をみると、みんなで円陣を組んで、割と真顔で話しあっている姿を撮られている率が高いです。

だから何だって話ですが(笑)、

イメージだと、海外で爆笑していて、日本で真剣にやっている感じがしますが、結構逆なんですよね。日本人って意外と人を笑かそうとするところを真剣にやります。役職があればあるほど、笑える話など、ちょっとした小話をいくつも隠し持っています。

どっちの座談会もいい。



そんなこんなで、拠点の話に戻りますが、

最近は自分の中でちょっと「心境の変化」といいますか、

ちょっとだけ意識が変わりつつあるんです。


もちろん今でも、みんなが集まって来やすい、ででーんとした拠点をつくりたいという祈りはあります。

だけれど、

このせせこましい、おんぼろなところでも、

拠点の要請があれば、喜んでどんどん提供するようにしたのです。



ここは、確かに自分の思い描いている、提供したいと思っている場所ではないけれども、

拠点で使ってもらおうと。


テーブルやソファーを移動すればみんなが座れるし、

仏壇もちっちゃいけど、みんなが見やすい位置にすればいいんだし、

工夫すればちゃんと拠点にもなる(笑)。

大丈夫、大丈夫。



「いつかこうしよう」と思う気持ちはとても大切なんだけど、

それが強すぎると、じゃあ「今の自分」は、それまでどこにいるんだって思うんですよね。

「いつか」にたどり着くまでの過程でしかないんだろうか。



確かに、

「いつか」そうなるために活動したり、題目をあげたりします。

それを目指す、叶えるために、妙法がある。

これは、ごく自然な捉え方で、何も問題はありません。



最近、よく考えるんですけど、

今自分が死んでしまうなら、その自分は不幸なんだろうか。

「いつか」という目指すものにたどり着けないで終わることは、不幸なんだろうか。

願いを叶えるために妙法があると、そこばかり見てしまうと、

たどり着けない「今の自分」を苦しみ、

完成される「いつか」の自分に思いをはせ、今の自分をただ不完全だと思い、今自分が途絶えることを恐れてしまう。




でも、たぶんそいういうことではないと思うんです。

今の、この瞬間の自分も、等しく完成されているはずなんです。



なぜなら、もともと私たちは完成された妙のリズム、「仏」が中にあって、

本当の目的というのは、自分の中にある「仏」を出していくことだったはず。


ということは、人生において「不完全」っていうのは、

目的が達成されていないこと、というわけではなくて、

この「仏」を全開に出せているのかどうかということになるはずだからです。


つまり、

目標や、叶えたいもの、そして、どんな人生になるのかさえも、

それが到達点ではなくて、

「仏」を全開にさせるための一つの手段になるってことなんです。



このようにとらえれば、

今どんな状態でも、自分の仏性が開いているかどうかというところに本質があって、

いつ死んでも、人生を閉じた切り口が、「金太郎飴」をカットしたように、

最高の仏が開いた状態で終えることができる。


今の自分が最高の存在になる。


これって、実はすべてに共通するんじゃないかと思うんです。



活動できるようになってから活動する。

折伏できるようになってから折伏する。

いつか幸せになる。


こんないつかの最高の自分より、今の最高を出していくってこと。


「臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人」
one who summons up one’s faith and chants Nam-myoho-renge-kyo with the profound insight that now is the last moment of one’s life


どの瞬間をカットされても、微笑んだ金太郎がキレイに見えている生き方をしていきたい。

そう思う今日この頃です。

では!