コメントへのご回答

御書研鑽(元創価班20期さんへの回答として)

元創価班20期さんから御書研鑽のテキストについて質問があったのでソレについて書きます。元創価班20期さんが正宗版御書を購入とのこと。私も法華講に移籍してすぐに正宗版御書を買いましたが以前書いたように正宗版御書は編年体になっているのがいいですね。編年体だと佐前・佐後がすぐわかるし、何かの御書を読むときに同時期に認められた御書も読めるので研鑽対象の御書がより一層深く読めます。そしてなにより最初から読んでいくと大聖人の化導の次第がよくわかります。また正宗版は創価板には掲載されていない御書も数篇掲載されています。前置きはこの辺にして、

>そこで良ければお勧めの教学本などありましたら2〜3お教え下さい!

とのご質問の件ですが、1篇つづ細かく学ぶのであれば昔の創価が発刊した御書講義録でしょう。破門前の書籍で現在は新品は入手できませんが、メルカリやヤフオクで出品されていることが多々あるので古書になりますがテキストとして購入するのがいいと思います。まづは五大部の講義録から入手するといいと思います。まとめて出品されていることもありますが、1冊ずつならば一番最初は「立正安国論講義」がいいと思います。御書のどれから研鑽したらいいか?という問いに私はいつも「立正安国論」を最初に学ぶことを勧めています。大聖人の仏法は「立正安国論に始まって立正安国論に終わる」と言われているように、「立正安国論」には大聖人仏法の全てのエッセンスが詰まっています。立正安国論を研鑽し理解が深まればそれだけで折伏・弘教はもちろんのこと他宗の破折もできます。創価や顕正会程度であれば立正安国論だけあれば十分に破折可能でおつりがくるくらいですね。
それと大聖人仏法を学ぶために欠かせないのが日寛上人の「六巻抄」と「文段」です。昔は創価でも「六巻抄」の研鑽とかもしてましたが今では日寛上人の教学を創価は学びません。御書解釈等で日寛上人の解釈を多様していますが肝心な部分を採用しないので創価は己義・我見のデタラメ教学になるのです。「六巻抄」と「文段」は大日蓮出版から販売されていますので簡単に入手できますが先ずは「六巻抄」ですね。「文段」はどちらかといえば御書の解説・会通ですが、「六巻抄」はまさに大聖人仏法の基本中の基本であり最も重要なことが書かれている教学を学ぶのに重要な書物です。むしろ御書を研鑽する前に「六巻抄」を研鑽した方がいいと私は思っています。まづ最初に大聖人仏法の基本をしっかり学びその後に御書を研鑽する方がより御書に対しする深い理解を得られると思います。なので「六巻抄」そして「文段」はいずれ近いうちに入手して欲しいと思います。それと御書講義録で研鑽すると各章ごとの研鑽になるのでややもするとブツ切れ研鑽になりがちですから対象御書の全体的な流れも押さえつつ研鑽をすすめるといいです(これは私の体験による所感です)
さて、最後になりますが教学力というのは一朝一夕で身につくものではありません。日々の勤行・唱題と全く同じで毎日の積み重ねが5年・10年と経って身につくわけです。また教学に完成形はありません。どんなに学んでも「これでいい」「もう理解した」などということはありません。なので毎日一節でも一行でも一文一句でもいいので御書を開いて読むということを心がけてください。常に手に取れる場所に御書を置いておくといいと思います。私も仏壇の近くに御書を置いていて朝夕の勤行後にほぼ毎日開いて読んでいます。最初は理解なんてできなくていいというか理解できなくて当たり前です。でも読んでいるうちに分かるようになります。私もそうでした。ぜひ御書を読むことを日課とし行学備えた日興門下を代表する論客になれるようお互いに精進しましょう。


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ポリ銀さんのご質問への回答

先日書いた記事▼
ついでに経本などについて。

の内容についてポリ銀さんより下記の質問がありましたたので回答します。
○最近、創価学会から口語訳御書全集が出ていることを知りました。勉強のため購入しようかどうしようか迷っていたところ、丁度この記事を拝見しました。創価の御書全集は、日蓮正宗でも使用禁止されていないようですが、口語訳の方は、やはり謗法の書に該当してしまうのでしょうか?

私の記事中に化儀抄の以下の御文を引用しましたが
◇日蓮聖人の御書を披見申す事、他門となどの御書をも書写しこい取りつつなどして見るべからず、本寺の免許を蒙るべし、其の故は当宗は信の上の智解なるが故なり云云
少々私の説明不足だった点もあり補足します。結論からいうとポリ銀さんが勉強の為に創価発行の「語訳御書全集」を購入することは謗法ではありません。化儀抄の上記の御文で言わんとしているのは、他門流が書写した御書等はその宗派が自宗の都合に合わせ御文を削除したり加筆したりしている可能性も多分にあるのでそれによって大聖人仏法の法門法義を誤って習ってしまう恐れがあるからです。現在の創価の「御書講義」などの書籍はまさにその典型であり創価の都合に合わせて書かれているのでそのような書籍で学んではいけないということです。創価の「語訳御書全集」についてはどのような書籍か知りませんが御書の現代語訳というようなものだと思います。現代語訳であれば削除や加筆するできる部分はないでしょうし、仮にそういうことがあったとしてもすぐに間違いに気づきますから問題ありません。なによりもポリ銀さんにおいては大聖人仏法の法門法義をしっかり理解されていてその上で習学の補助として使用すのですから謗法にあたりません。さらに言えば、破折のために創価の御書講義や大作スピーチを学ぶことも謗法ではなくむしろ大切なことです。大商人様は、
◆此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし(曾谷入道殿許御書)
とご指南されています。他宗(八宗)を破折するためには他宗の教義を知らなければ破折することはできません。むしろ他宗の教義を習学することは折伏・弘教をする上で重要なファクターです。ただし初信の人や浅信・弱信の人がそれをやるとミイラ取りがミイラになる恐れがありので初信の信者はまずは御書を正しく学び大聖人仏法の法門法義を理解する必要があります。そのことは日興上人の遺誡置文の次下の条項に書いてある通りです。
◆義道の落居無くして天台の学文す可からざる事
いずれにせよポリ銀さんが、創価の「語訳御書全集」を購入するのは謗法でないでしょう。モチロンその他の創価書籍も創価破折を目的に購入するのもアリですが、そんな本をお金出してまで買う必要はないですけど(笑)
それとここから先は私の個人的な意見ですが、御書の現代語訳の書籍をわざわざ創価から購入する必要はないと思います。私もそうですがポリ銀さんも現代訳が分からないのは御書のごく一部だと思います。ならば分からない箇所に出会ったらその都度調べれば十分ではないと思います。今の時代PCやスマホで簡単に調べられますから私もそうしています。なので創価板の現代語訳を購入するなら正宗の他の書籍を購入した方がいいとは思います。ポリ銀さんがどのような目的で創価板のその書籍の購入を検討しているか事情も知りませんのでこれはあくまでの個人的な見解です。どちらにせよ創価板の「語訳御書全集」を購入するのは化儀抄に違ったものではなく謗法とはなりません。あとはそれが「謗施」に当たりかどうかとなると申し訳ありませんが私では判断しかねますのでご住職にお尋ねください。


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寝言丸さんコメント(9月27日)への回答。

今日は寝言丸さんの質問への回答を書きたいと思います。前回コメント(9月27日)にはいくつかの質問が有ったので私なりに質問の趣旨をまとまると①一切衆生が自分の父母かどうか?(一切衆生が父母だから報恩の為に折伏をするのか)②末法の凡夫は本未有善なので大聖人仏法に縁がないのか?③創価学会員(謗法者)は眷属になるのか?の3点になるかと思います。

①一切衆生が自分の父母かどうか?(一切衆生が父母だから報恩の為に折伏をするのか)
まず引用された「法蓮抄」の当該部分は仏の修行時代の話ですね。「一切衆生を自分の父母」として仏は修行した。ということで、学会幹部からいわれた「自分が出会う一切衆生は過去の父母である、故に自分が出会う人達は父母であり、親孝行の爲にも折伏してあげるのだ。」という趣旨の指導はちょっと違いますね。ただし
◆いかにいわうや仏教をならはん者父母師匠国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智 者とならで叶うべきか
と言われているように折伏の意義のひとつとして報恩という行為であることは間違いありません。
そして報恩すべき相手は「四恩抄」には、一には一切衆生の恩、二 には父母の恩、三に は国王の恩、四には三宝の恩、の4つを挙げています。因みに「報恩抄」では、一には父母の恩、二には師匠の恩、三には三宝 の恩、四には国王の恩と書かれています。なので折伏の意義としては「父母の恩」限定ではなくあくまでも「四恩」への報恩になります。創価の場合は三宝への報恩が全くなくむしろ三宝を足蹴にしてますけどね。

②末法の凡夫は本未有善なので大聖人仏法に縁がないのか?
本未有善ですから「下種」を受けていないという意味でいえば久遠元初においては「縁がなかった」といえますが、日寛上人のご指南に
◇末法今時は全く是れ久遠元初なり(中略)久遠は今に在り今は則ち久遠なり
とあるように、この末法は全く久遠元初と同じですから、むしろ久遠元初自受報身如来である日蓮大聖人に有縁の衆生です。逆に我々末法の衆生は釈迦如来に無縁なんですね。末法即久遠というのはいくつも共通点があるのですが今回の質問に即していれば久遠元初にご本仏が久遠の衆生にこの本因の妙法を下種する以前は全ての衆生は全て「本未有善の衆生」だったわけです。その後久遠に下種を受けた衆生は、法華文句によると4種類に分かれました。1番目は南無妙法蓮華経の教えを下種されその功徳を聞いて一度は信じたものの以後退転した。これらの衆生は、南無妙法蓮華経を誹謗しないが、不信謗法となり長い年月にわたり何度も釈尊のような垂迹仏に出会い徐々に、根本の仏種(南無妙法蓮華経)を調熟させた。2番目は久遠元初に仏から折伏されて南無妙法蓮華経の下種を受けそのまま素直に信心してすぐに成仏しその後、常に本仏の化導を助けるため、いつでも、どこででも一心に南無妙法蓮華経の仏法を受持し続けていく衆生。 これがいわゆる「地涌の菩薩」です。3番目は久遠元初に仏から下種を受けたがその時ですら信じることがでず本仏や本法を誹謗し四悪趣に堕ち永遠の時を経て謗法罪を少しづつ消滅させ三千塵点劫に大通智勝仏と出会い、その仏によって再び法華経を聞かされて成仏した人。釈尊の弟子とかです。4番目は久遠元初でも仏の言葉を信じることなく、以後垂迹仏に出会っても信仰心を持つこともなく、インドに釈尊の法華経に接し、仏法に多少の興味を持ったけど釈尊の在世では成仏はできなかった。正法・像法時代に方便の諸経を縁として仏種を調熟しながら徐々に成仏していった人です。(これを四節三益といいます)さて末法の今は久遠同様本未有善の衆生にご本仏たる大聖人が下種を開始した時代ですから当然久遠と同様に下種を受けた衆生も4種の衆生に分かれます。そのなかで大御本尊を信じ大聖人仏法を行じる我等日興門流は上記の「第2類」の衆生ですから「地涌の菩薩」となるわけです。「縁がない」どころか我々こそが久遠からの大聖人の直弟子なのです。自信をもっていきましょう。

③創価学会員(謗法者)は眷属になるのか?
何をもって眷属というかでしょうね。総じていえば我等末法の衆生は本未有善の衆生ですからそうした意味では「眷属」でしょう。
また別していえば「地涌の菩薩」は本仏の眷属であり、創価のごとき謗法者は「魔の眷属」ですから「眷属」ではありません。しかし
◆たとひ明師並に実経に値い奉りて正法をへたる人なれども生死をいで仏にならむとする時にはかならず影の身にそうがごとく雨に雲のあるがごとく三障四魔と申して七の大事出現す(三沢抄)
とあるように「魔の眷属」はつねに「本仏の眷属」に付きまとっているストーカーみたいなものですから(まさに創価みたいですね)
◆法華宗の心は一念三千性悪性善妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり(治病大小権実違目)
とあもあるようにそもそもが「仏の眷属」と「魔の眷属」は一体ですから創価のごとき謗法者も「眷属」であると捉えていいかと思います。創価のごとき謗法者であってもいつ「仏の眷属」に変わるかもしれません。私だってまた創価から正宗に移籍した方々も「魔の眷属」から「仏の眷属」になったわけですから「謗法」は「謗法」として破折すべきですが、「謗法者」と忌み嫌うのは地涌の菩薩としは間違っていると思います。広宣流布は「オセロゲーム」みたいなものです。「白(仏)」チームは「黒(魔)チーム」をひっくり返すわけです。白で白を挟んでも意味がないと思います。黒をひっくり返すように、また自分が黒にひっくり返されないように自戒したいですね。

今回の回答の相変わらずつらつらと思っている事だけ書いてしまい分かりずらいかもしれませんが、このようなことに疑問を持ち自分で学び吸収することによって教学が強くなり信心が強くなります。私も教学を真剣にやり始めたのは顕正会や身延そして当時の法華講員と法論したことがきっかけです。味方より敵が善知識なんですね。そいうった事も考えると謗法者とはいえ眷属ではないかと思う次第です。


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非公開さんへの質問への回答。

昨日、非公開コメントにて質問いただきましたので今日はそれについて回答します。
質問の内容は以下の通りです。(太字がコメントの内容)

ます、例の創価インチキ教学を学んいる婦人部のラン氏のブログより以下の内容を引用。
悪には対しては根に持っていかなければならない

広宣流布においては、日蓮大聖人を裏切り、同志を裏切った悪人を、徹底的に追及しなければならない。日本的な「水に流す」とか「みそぎ」とかいう慣習は、一見、寛容のようであって、じつは「悪への怒りがなく、けじめがない」だけである。「もう、この辺でいいだろう」は精神の敗北である。日蓮大聖人も、日興上人も、どんな小さな悪も許されなかった。仏法は、「人情論」ではない。「正義の大闘争」である。日興上人も、「五老僧」とその一味を、最後まで許しておられない。「五人所破抄」を弟子に書かせたのは、身延離山から数えて、なんと四十年後である。ご入滅の直前の「日興遺誡置文」でも、厳しく「五老僧たちの立てた宗義は、ひとつひとつ、すべて師匠である日蓮大聖人のご化導と違っている」と破折しておられる。最後の最後まで、追撃の手をゆるめておられない。

まぁこれは別にラン氏の意見ではなく、大作センセイの「輝きの人間世紀へ御書とその心より」からの抜粋のようだが、このラン氏の記事を引用してから次の質問がありました(青字)

「日蓮大聖人の教えをベースにした創価の教え」であり、
日蓮正宗の教義とは全く違うものであると認識しておりますが
上記のように、「根にもつ」と言うことが日蓮正宗の教義にあるのでしょうか。


さて結論から先に書きますが日蓮正宗において「根に持つ」などという教義はありません。
日蓮大聖人のご聖訓には、

◆但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり摂受折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず(富木殿御返事)

との教えがあります。日蓮大聖人はご自身を迫害した人々に対して「遺恨はない」と言われたうえで、むしろ自分を迫害した人々こそ自分を成仏に導いてくれる人達であると言われています。日蓮大聖人の仏法の弘教方法は「折伏」といって相手の間違った「宗教観」を正す方法ですから時には相手の宗教観を否定することはありますが、上記のご聖訓にあるように「私曲」つまり自分の勝手な意見ではなくあくまでも経典を基にした意見です。そうした教義ですから「根に持つ」などという私怨で相手を非難することなどありません。「折伏」は一見強引に思える弘教方法だと思いますがその根本は「慈悲」です。慈悲を根本としていれば「根に持つたねければいけない」などという指導は出てきません。また例えば仏法に敵対した人間にたしてジャッジするのは大聖人仏法においては「信徒」でも「僧侶」でもなく、ご本仏です。一在家の信徒が「許す」「許さない」などと烏滸がましく口にすること自体日蓮正宗の教義においてはあり得ない話です。創価では退会者を悪人の如く罵倒しますが、日蓮正宗信徒をやめた人を法華講員は別に罵倒したりしたりしません。最後にジャッジを下すのはご本仏ですから別に我々が宗旨変えをした人になんだかんだ言う必要もないのです。日蓮正宗に池田創価のような「根に持つ」という教義がないことは私のような一時日蓮正宗や法主を口汚く罵っていた人間であってもこうして日蓮正宗に戻れたことを見れば明らかですし、ネットの世界を見ても創価から正宗に戻った人達の発言は「創価に対する恨み辛み」を感じさせるような発言はあまり見当たりません。むしろ創価をやめて無宗教でアンチになった人達の方が「恨み辛み」を感じさせる発言が多い気がします。本人達は「覚醒」と自賛していますがあまり創価と変わらないなぁと思っています。

さて、非公開さんは「日蓮大聖人の教えをベースにした創価の教え」と言われていますが、正確に言うと「日蓮大聖人の教えを悪用している」のが「創価の教え」なのです。ラン氏が引用した池田氏の言葉は「輝きの人間世紀へ御書とその心より」とい書籍から抜粋のようですが、この池田氏の「根に持て」などという教えは「御書の心」すなわちご本仏・日蓮大聖人の心からかけ離れた単なる池田氏の自分勝手な意見にすぎません。それをあくまでも「日蓮大聖人」も同じであるがごとく見せる為に「御書の心」などと言って日蓮大聖人を悪用しているのです。また角度を変えて論じれば池田氏はご本仏である日蓮大聖人を自分と同じ立場に引きずり降ろしているとも言えます。創価の会員達に「大聖人と自分達には差別がない」とか「自分の中に本尊が在る」とか教え込んでいるのは正しく「会員=日蓮大聖人」そして、その会員達の師匠=自分(池田)という構図となり最終的には、池田>日蓮大聖人という図式するのが池田の指導の目的で、現実に生身の大聖人である戒壇大御本尊を捨て池田氏を師匠などと言っている学会員にとって、池田>日蓮大聖人の思想がしっかり根付いています。このように今の創価が言っていることは日蓮大聖人を本仏とする日蓮正宗の教義とは全く無関係な池田創価の教義でしかありません。
しかし非公開さんを始めとする多くの一般の人達や元創価の人までもいまだに「創価」と「正宗」の教義が同じであるとか「創価」が日蓮大聖人の仏法の教義を信仰しているかの如く誤解している方々が多くいます。これは日蓮正宗信徒としては非常に迷惑な話です。そして何よりも「日蓮大聖人」を悪用する、日蓮詐欺集団の創価に対して一人の大聖人仏法の信徒としてそれを見逃すことはできません。それ故に私はこのブログを書いているし、リアルでも学会員を破折したり折伏したりしているのです。それは全く「恨み辛み」などではありません。そもそも創価に対して何の「恨み辛み」もありませんし「根に持つ」ような出来事もありません。また、大聖人に詐欺の片棒を担がせるような創価は絶対に許しませんが、そうした学会員さんを「絶対に許さない」「追い詰める」なんて思っていません。もちろん私が「救ってあげる」などという事も思っていません。ただ早く気づいて欲しいと思っているだけです。そのことは本ブログの過去の記事を読んでいただければご理解いただけると思います。
長々となりましたが本稿をもちましてご質問の回答とさせていただきます。
また何かあればコメントしてください。教義的なご質問はできれば多くの読者さんにも分かるように公開でコメントいただけると幸いです。


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寝言丸さんのコメントを読んで。

寝言丸さんからコメントを読みました。無冠の友をずっと続けてきたお母様に対する創価組織の仕打ちに涙がでそうな気持ちになるのと同時に創価に対する怒りがフツフツと湧いてきましたね。以前書いたと思いますが私の嫁も昔「無冠の友」を5年くらいやってました。
なかなか集金できない人。配達が遅いと文句を言う人。変な啓蒙をして外部の人に新聞なんて取ってないと怒鳴られたりなどなど「無冠の友」(聖教新聞配達員)の苦労を間近で見てきた。クレームや嫌な思いは外部の人ではなく内部の会員が引き起こしているという現状を知った時には驚いた。集金できないのも配達遅いと文句をいうのも外部じゃなくて圧倒的に内部。それも支部内・地区内の内部ですからね。コイツの神経を疑ったもんです。

そんな嫁の「無冠の友」時代にはこうした精神的ストレス以外に外的な危険もありました。車に轢かれそうになったことは数知らずです。夏場は配達時間はもう周囲も明るいからいいげど、冬場なんて真っ暗な中にで配達してるからそれは危険と背中合わせです。そんな嫁が一度新聞配達の途中で自宅に帰った来たことがあります。寝ていた私をたたき起こしたので何があったのか?と聞いたところ所謂「変質者」らしき男に追いかけられで自宅に逃げ帰ってきたとのこと。心配なので残りの配達は私の車に嫁を乗せて二人で配達しました。その日の婦人部の会合で嫁が幹部に朝起きた事件を早速報告したところその幹部からの回答は「配達前に30分題目を上げてから配達するように」だったらしい。(勿論、私も無事故を祈るからと取って付けの言葉もあったらしいが)その話を嫁から聞いたときは流石に「配達やめたら?」と言ったけど結局誰も代わりがいなくてそこから2年やったけど、変質者事件から1週間ほどは車に嫁を乗せて一緒に配達しましたよ。その時思ったのがこういうことがあったのならしばらくは交代で嫁ともう一人つけて二人で配達するとか何か方策をとるんじゃないかと。いや何か考えてくれるだろうと思っていた。が帰ってきた答えが「警察に相談しろ」と「30分唱題してから配達にでろ」って・・ただでさえ配達のために5時起きの嫁は4時半に起きて唱題してたけどそんな話じゃないよね。いつもは「題目は魔法じゃない」とか言っておきながらね。そして何よりも驚いたのが嫁がそんな怖い目に遭っているのに組織的には大したことじゃないという扱い。たまたま事件にならなかっただけで家族としては大きな問題なんだけどね。

寝言丸さんのお母様だってご高齢の中配達していて自損事故に逢われたわけです。そうなる前に誰もそうなることを予想も心配もしてなかったわけでしょ。自分の母親が早朝の暗い夜道を自転車で新聞配達していたり、自分の嫁が配達中に変質者に追いかけられたらどう思うか?って話でしょ。創価罵活動家はこういう話を言われると「作り話」だとか「ウチの組織内では聞かない」とか抗弁するのだろうが、多分新聞配達中の事故や事件は全国でたくさんあるだろうし、「未遂」だったら毎朝日本のどこかで起こっている話だろう。
こんな危険な新聞配達を会員に無償と言っていい金額でやらすのかって話でしょ。しかも「無冠の友」の大多数は婦人部を中心とする女性なんですよ。こんな宗教団体なんてあるの?宗教以前に法人としても人としてもダメでしょ。創価だけじゃないよ。聖教新聞と一緒に公明新聞を配達させている公明党。政党の新聞を学会員に配達させてふざけんなよって話です。

寝言丸さんのコメントによれば配達中に怪我をしたお母様の創価からのお見舞いは大作センセの手紙(どうせ代筆)と5000円の見舞金。もう完全に舐めてるね。普通の新聞店の配達員なら労災ですよ。こんなの訴えられていいレベル。クソみたいな金額で会員に聖教新聞の配達させておいて万一の事故や事件の時の準備もしていない。配達中に不幸な事故や事件に遭遇しても自己責任ってもうやってることが非道でしょ。しかもだよ聖教新聞の配達なんて大聖人の仏法に無関係なに「信心」とか「功徳」とかの言葉で騙して配達員に仕立てるんだからどうしようもない。いづれにして創価は多少なりとも配達員に報酬を支払っているのだから「信心」云々以前に雇用関係なんだよ。雇用するかrには使用者責任ってもんがあるわけだ。つまり聖教新聞の配達中に事故や事件に遭遇したら創価・公明党に損害賠償を求めることも可能なわけ。もちろんそんなことをしない会員を人選して配達員にしているのだろうが、だったら尚更、配達員さんに万一のことがあったら十分な補償をする規定を作っておかなければならいだろう。もっとも前述したように「こんな危険な作業(配達)」を一会員に丸投げしている時点で創価という組織の本性が知れるというもんだろ。正規の料金を払って外部委託すればいい話なんだよ。一般紙の新聞店と提携すればいいだけ。新聞店も喜ぶだろうし、聖教新聞を配達するのは功徳が大きいならば未入会の新聞店の配達員さんに功徳を積ませることもできるってもんだろ。「無冠の友」もみなさんは配達以外の学会活動で功徳を積んでるんだから配達なんかしなくても大丈夫なんじゃないの?

ともあれこの「無冠の友」システムは一刻も早く中止すべき。継続するなら「無冠の友」の方たちが安心して配達できる体制を整備しなければいけない。。公明新聞も議員がテメーで届けろや。そして学会員さん、何があっても「無冠の友」だけはやってはいけないし、いま「無冠の友」をやっている人は一日も早く何か起こる前に配達員をやめるべき。いやいやその前にこんな非人道的な事を「信心」と称して会員に押し付けるような団体からは早く逃げ去ることです。冗談抜きで殺されても文句の言えない組織なんですよ。創価学会は。


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「同帰寂光」の意義について。

先日、ポリ銀さんより

>本山の講習会で、御僧侶が、「みなさんがお亡くなりになったあと、戒壇の御本尊様の中に帰ってこられるんですよ」とお話くださったのですが、五座の観念文の最後に、「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」とある、「同帰寂光」が成仏ということの意味なのでしょうか?

とのご質問をいただいたので今日はこのご質問について少し触れたいと思う。「死後の生命」についての有無については折伏の時の対話にありがちなテーマで無宗教の人達は「死後の生命などない」という主張が大半な感じがするがその件についてはまた別の機会に書くとして今日は一応「死後の生命がある」「生命は永遠である」ということを前提に話を進めたいと思う。さて死後人間の生命はどうなるか?創価民を含め一応日蓮大聖人の仏法を学んだ者であれば「宇宙の生命に自身の生命が冥伏する」という見解で大方一致すると思う。「冥伏」とは宇宙に溶け込むとか宇宙と一体となるとかそういった意味である。知っているとは思うが「宇宙」という文言は御書には書いていない。御書に照らして言えば「宇宙」とは「法界」ことだ。さてではこの法界とは具体的には何かと言うと

◆法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし(草木成仏口決)

との御文でも明らかのように仏身そのものを法界という。御書には「釈迦如来の御身」と書かれているが当然釈迦ではなくご本仏久遠元初自受用報身如来の一身がそのまま「法界」の全てである。そこから考えられることは人は死ぬと全員もれなく大御本尊(ご本仏)へ戻り大御本尊へ同帰すると思う。この件については昔色々と思索を凝らしてこのような結論を出した。こう書くと大作センセやそれに追従する創価民も大御本尊へ同帰するのか?と不審に思う人もいるかもしれないが「然り」である。ただ大御本尊(ご本仏)のどこに同帰するかが問題となる。法界というのは正確に言うと十法界である。「界」というのは「差別」「区別」の意味で、「十」といのは皆さんご存知の「地獄界」から「仏界」の「十界」のことである。大御本尊は「仏界」であるが同時に一念三千の当体であるから当然大御本尊にも「地獄界」の存在すれば「仏界」も存在する。そのうちの何処に同帰するかが信心にかかっている。創価民は死んだら無間地獄というこの無間地獄も大御本尊(ご本仏)と別の場所に存在するのではなく「仏界所具の地獄界」が無間地獄だと思う。「仏界所具」だからなんとなく優しい感じがするかもしれないがなんのなんの人界の地獄なんて比べ物ならないくらい仏界所具地獄界は恐ろしい。ともあれ創価のごとき謗法者は大御本尊の中の地獄界である通称無間地獄に同帰するわけだ。死後自力でそこから抜け出すことは出来ないが、子孫の正しい回向によって寂光に同帰することが可能になるのは大御本尊と無関係な別な場所ではなく大御本尊中の地獄界に存在しているからである。ここに法統相続や塔婆供養の重要性があると思う。
さて「同帰寂光」だが、これは言葉通り。「寂光」とは仏界であるから大御本への純粋な信心を貫けば死後その生命は大御本尊(仏界)の中の仏界、つまり「仏界所具仏界」へ冥伏することになる。ゆえに「同帰寂光」こそが「死の仏」であり「死後成仏」であると言える。今世で死を迎えた後は必ず十法界=大御本尊(ご本仏)の十界のうちのどこかに冥伏する。その中の「仏界」に冥伏するか「地獄界」に冥伏するでは次生において大きく違って来る。そのことが分からない創価民たちは本当に不幸である。今世で大御本尊と出会いながら捨ててしまっても死後は必ず大御本尊の元に戻るであるが残念なことに無間地獄という名の「地獄界」が彼らの帰る先である。実に痛ましい。なので彼らが今世でいきているうちに「寂光」たる大御本尊に許に「同帰」するように願ってやまない。「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」とは回向のご観念文ではあるが同時に現世の全ての人が大御本尊の許に同帰できるようにという願いの一面もあると思う。一人でも多くの創価民が大御本尊の許へ戻り大御本尊とお目通りをし「同帰寂光」の成仏を遂げて欲しいと思う。


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唱題オシの創価指導は間違い。

では、今日は蘭房さんのリクエストにお応えして「唱題」について書いてみる。
創価幹部の指導はなんだかんだ能書き垂れても最後は「お題目だよ」となる。
「お題目には力がある」なんて堂々と言っている幹部、ブログに書いている創価民は大勢いるが、
ハッキリ言おう。「唱題そのもには何の力もない」
題目あげると守られる。題目あげると力がわく。題目あげると智慧が出る。などと創価民は言いたいこと言っているが、
それが全て間違っているとはいわないが、「唱題そのものに力がある」と思っているならばそれは大きな間違いだ。
「本門の本尊」について日寛上人は「文底秘沈抄」で次のようにご指南されている。

◇夫れ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり
◇本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり

と。つまり「題目をあげる」というのは、「信行具備の修行」だ。四力でいえば「唱題」とは信力・行力だ。実際に我々に功徳をもたらすのは仏力・法力であって、その体は体は上記ご指南の通り「本門本尊」でありその法体を受持するための「修行」が「本門題目」ということになる。

◆釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

この御文の意は、「釈尊の因行果徳の二法」である仏力・法力は、「妙法蓮華経の五字」である本門本尊(就中大御本尊)に備わっている力である。「五字を受持すれば」これを信じて題目をあげればその仏力・法力を与えれる。ということである。
このように仏力・法力とは「本尊」に備わっている「力」であり題目はそれを得るための手段(修行)なので「唱題」単体には何の力も有さないのである。「本尊」を無視して題目を上げたところでそれにはなんの「力」もないわけだ。さて全ての本門本尊を束ねているのが一大秘法たる戒壇の大御本尊で、その大御本尊を受持しないと言っているのが創価民である。創価の唱題は本門本尊を受持しないで上げている題目だ。「題目」とは本来は受持の修行であるにもかかわず、その対象を「受持しない」といって題目を上げているのだからこんなに矛盾した話はない。受持の対象を捨てておいて一体何を受持する修行をしているのか?そんな修行をしたりさせたりして一体どこからどんな「題目の力」とやらがわいてくるのか。「文底秘沈抄」に曰く、

◇仮令修行有りと雖も若し信心無くんば不可なり

「唱題」(修行)をいくらやったところで「信心」がなければ「不可」なのである。
なぜならば、その修行(唱題)そのものには、「仏力・法力」が備わっていないからだ。
大御本尊を対境として、大御本尊に「信心」を取る時に初めてその「唱題」に力が備わるのである。
故に、創価幹部や創価民の言う所の「題目に力がある」なんていうは嘘八百である。
創価民のあげるお題目には何の力もない。真言の陀羅尼(呪文)と同じである。

とはいえ、大聖人は立宗宣言からこの方「題目」を流布していたのだから「題目こそ大聖人の正意である」という創価民にも一言付しておく。
立宗宣言された時に大聖人の唱えれらた題目とは、外用においては上行菩薩へ附属された結要附属を末法に説くためで、内証では当然ながらご本仏の御境涯の上から唱えられたいわば「能詮」の題目である。「能詮の題目」とは大聖人に色心二法に備わる題目であり、四力一体の題目である。それに対し我らが唱える題目は所詮の題目であり四力冥合のための題目なのだ。

◆日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや(諸法実相抄)

この御文に書いてあるように、「地涌の菩薩」でなければ唱えない題目を、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へし」まず一番最初に大聖人が唱えた。のであるから大聖人の最初の題目は「地涌の菩薩」の棟梁たる上行のお振舞なのである。そしてこの最初の題目から次第に増えていくのであるから、大聖人の最初の題目は「能詮」であり二人目以降は「所詮」なのである。(もちろん大聖人の題目は法体と一体であり我らの題目はその法体に対する修行という意味も踏まえての能所の違いだが)
最後に大聖人ご在世の人々は何故「題目だけ」でも成仏可能だったのか?だが、
これは言うまでもないが「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることが即日蓮大聖人に「信心」を取っている事であり、
それは即「人法一体のご本仏」を受持する修行になっているからだ。
「大聖人は題目だけ唱えれば成仏すると御書に書いてある」などという創価民はそこが分かっていない。
現代だって大御本尊に信心を取っていれば究極は「題目だけ唱えれば一生成仏が可能」である。

色々とまとまりのない文章になってしまい、蘭房さんご期待に応えられなかったかなぁと思いつつ、
創価の皆さんには再度言っておく。
本門の本尊である大御本尊を受持しないで上げる題目は、
どんなに真剣に祈っても、強く祈っても、長時間祈っても、死ぬ気で祈っても、
力も智慧も出ない。功徳もなければ福運もつかない。仏界も涌現しないし、諸天にも聞こえない。
重要なのは「自分の祈り」の程度は無く、「正しい本尊(仏様)に祈る」ということだ。
大作センセやそこらのバ患部に呼吸なんて合わせてたら窒息死するぞ(笑)


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学会員H君の枝葉の主張についても一応回答してみた。

学会員H君との対論は、H君が私のメインの質問である、「法主本仏論」なる日顕上人のご指南の有無の提示を拒んでいるので現在膠着状態。肝心な部分の回答を保留しながら枝葉の話だけを雄弁に語っているのだが今日はH君の雄弁に語っている枝葉の部分についても一応書いて置くことにする。H君はこちらではなくメインの質問への回答を優先するように予め言っておく。今回はオマケのような記事なので軽く読み流す程度で結構だ。

さてH君には日寛上人の御文等を引用して歴代聖人に南無(帰命)するのは日興門流の古来からの教義であることを教えた。日寛上人のご指南に曰く。

◇南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々。(当家三衣抄)

◇「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや」(文底秘沈抄)

この日寛上人の御文を文証としたことに対し彼は
▼代代の法主までもが尊信の対象としての僧宝であるとの文証は示せますか。当然日寛の書は用いられません。
などと言っているが、俺が日寛上人の御文を挙げたのは最初に書いたように「歴代法主に南無(帰命)するとは日興門流の古来からの教義であるつまりは日顕上人が勝手に言い出したことではない。ということを証明する為に日寛上人の御文を挙げたのである。上記の六巻抄の御文と能化文書に書かれている内容は全く同じであることを証明するための文証だ。能化文書と同じことを日蓮正宗の御歴代の日寛上人もご指南されているのだから「歴代上人に南無(帰命)すること」は当然日興門流の古来からの教義であるということだ。今回の彼からの疑難とは「現在の宗門(日顕上人以降)が法主本仏論という己義を構えた」という内容であるから、そうではない事を日寛上人の御文を挙げて説明したのである。なので創価のH君が日寛上人の御文を用いるとか用いないとか関係ないのである。そもそもH君とやらは対論といいながら「御書以外は用いない」「後加文は用いない」などと、「自分のルール」を勝手に押し付けていて最初から公平性に欠けている。まぁ彼の一方的に決めた文証のルールは彼が自分が有利になると思ってそうしているのだろうけど「そうでもない」事はこの先話が進むようであれば追々わかるだろう。ただどっちにしても御歴代に南無するのも唯受一人血脈も「日顕上人の己義ではない」ということは日寛上人のご指南からも明白だということは読者の方にも分かってもらえたと思う。それにしても創価本尊を拝んでいるはずの創価民が自分の本尊を書写した上人を「日寛」と呼び捨てにするとは俺にはちょっと理解しがたい。日寛上人がいなければそH君の家には本尊はない。それを「日寛」呼ばわりとはそこに「信仰心」があるのか疑問だ。大作センセはいつも「報恩」を強調するがH君にはその心があるのだろうか?身口意の三業ではないか。

次に彼(創価)は、

▼二箇相承で法を付属されたのは日興上人ただお一人です。代々の法主まで法を付属されたのではありません。
▼日目上人に法を付属するなどとは日蓮大聖人も日興上人も仰せになっていません。

などと言っているが日興上人は、「日興跡條條事 」で

◇一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と爲し、日本國乃至 一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子分として管領せし むべし。殘るところの半分は自餘の大衆等之を領掌すべし。
一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を 相傳す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤 行致して廣宣流布を待つべきなり。  
 右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以來七十三歳の老體に至るも敢えて違失の義無し。十七の歳、日蓮聖人の所に詣で<甲 洲/身延山>御在生七年の間常隨給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依つて此くの如く書き置く所なり。仍つて後の爲證状件の如し。


と明確に唯受一人相伝を言われている。「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」が「法」でなけば「何?」っていう世界だ。これがウソならば日興上人は謗法ということになってしまう。またこの御文を否定すればH君は自信が「僧宝」否定の謗法となる。さていかがなもんか?どっちにせよこんな基礎教学もできないうちから「日目上人に法を付属するなどとは日蓮大聖人も日興上人も仰せになっていません」と断言してしまうあたりでもう彼の教学力は知れてしまう。まぁ今後の精進を期待はするが日興門流に「対論」を申し込むにはまだ時期尚早な感は否めない。

最後に彼は、

>>【あなたは「御書に全部書いてある」と言っているのに一体大聖人様は日興上人に何を付属したんですか?つまり「法体」については御書に書いていないということです。】
>法を付属するのと御書をしたためるのは全く別の次元の話です。法を付属するのは日蓮大聖人と同様に法を所持しており帰命する対象であるというです。御書をしたためるのは単に法門を伝えることです。


と発言しているが、上記の俺の発言にもあるが散々俺は「法体については御書に書いていない」と言っても「御書に書いてあることだけが全て」と言い張っていたはずなのに、「法を付属するのと御書をしたためるのは全く別の次元の話です。」
と俺の言っていた「法体については御書に書いていない」ということを追認している(笑)そうだよH君、御書に書いてあるのは「法門」であって「法体」な何かは書いていないのだよ。二箇相承にも書いていない。でも君は日興上人は大聖人と「同じ法(体)」を所持しているという。(正確に言えば法体とはご本仏(大聖人)しか所持していないけど)では御書にも二箇相承にも書いていないキミのいうところの「南無妙法蓮華経の法」とはどのようにして大聖人から日興上人へ伝わったのか?どうして日興上人が大聖人と「同じ法を所持している」と分かるのか?
な?御書読んでもわからんだろ?(笑)まさにそれこそが「唯受一人血脈相承」で唯仏与仏の御境涯なのだよ。
俺やましてや宗門から破門された創価民の門外漢がはかり知ることができないのだよ。

◆問う一心三観に勝れたる法とは何なる法ぞや、答う此の事誠に一大事の法門なり唯仏与仏の境界なるが故に我等が言説に出す可からざるが故に是を申す可らざるなり、(中略)天台己証の法とは是なり、当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり故に相構え相構えて秘す可く秘す可き法門なり、然りと雖も汝が志神妙なれば其の名を出すなり一言の法是なり伝教大師の一心三観一言に伝うと書き給う是なり、問う未だ其の法体を聞かず如何、答う所詮一言とは妙法是なり(立正観抄)

まぁH君の今回の「対論」における枝葉の部分についての説明はこんな感じある。他にも日興遺誡置文の件など細かいツッコミどころはあるが、とにかくこういった枝葉の部分を力説していたづらにコメントを長文にしテーマを細分化し拡散する必要もないしお互い時間の無駄だ。今回これを書いたのはH君の力説へ敬意を払い誠実に対応せんがためである。なので冒頭に書いたようにこの記事に対するH君の回答は不要である。どうしても「反論」したいのであれば、まづ先にメインの質問に回答をしてからだ。メインの質問に回答するまではこの記事に関するH君の反論について語り合うつもりはないのでH君においてはその趣旨を理解してもらえれば幸いである。
(メインの質問については御書の引用も不要なほど簡単な質問なので早めに回答貰えればありがたい。回答に時間がかかると飽きてしまうのでよろしく頼む)


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創価学会員のHさんへ。

こんばんは。以前コメントをいただき「質問」をされた方だと思いますが、
Hさんの質問については当ブログに何度も書いてあるのでそちらをお読みくださいと返信させていただいたと思います。
ただ、今回のコメントでは「質問」ではなく「対論」をお望みとのことなので、
もう何度も書いていますが改めて貴方の疑難への回答をいたします。
枝葉の細かい話は議論が拡散するので省略して、Hさんの今回のメインの疑難である「法主絶対論」について回答します。

まず結論からいうと、正宗に「法主絶対論」などという教義はありません。
その上であなたは(以下太字はHさんのコメント)
「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします
という所謂能化文書を引用していますが、あなたはこの能化文書の内容を知っているのですか?
この文書の内容とは
「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の2つに対する信心は、絶対でなければなりません」
こうです。よく読んでください。この文書のポイントは「具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です」
というこの部分です。法主のご指南を学び御本尊受持の信行に励む。これのどこが法主絶対論・法主信仰なのですか?もりこれを法主絶対論というならば大作センセの指導に従うのは「大作絶対論」となります。ご指南に随従することと帰命の対象にすることが同義であれば、大作指導に随従することは大作に帰命することななるんですか?違うでしょ。
また「どんな僧侶でも相承を受けた以上は生身の釈迦日蓮であり誹謗すると地獄に堕ちる」
との文章を引用していますが、この日顕上人の言葉は、平成9年の教師講習会で、法詔寺・日感師が信徒に宛てた書状を日顕上人が紹介し読んだものであり日顕上人自身の発言でないし、また同じ講習会で日顕上人は、「私はけっして日顕が、日蓮大聖人様だなんて、一遍も言ったことはない」と言われているのをあなたは知っているのですか?創価発表の切文だけで批判しているとしたら実に勉強不足としかい言いようがありません。

次に、「日蓮大聖人の内証と代々の法主の内証が等しい」と主張しておられます。日蓮大聖人の内証は久遠元初の自受用身ですが、代々の法主の内証が日蓮大聖人と等しいということは「代々の法主は本仏である」と主張するのと同じですがいかがですか。それとも内証は久遠元初の自受用身であっても外用は久遠元初の自受用身ではないから本仏ではないと主張するのですか。
コレですが、色々とツッコミどころがありますけど、簡潔にいいます。Hさんは「三宝」の立て分けを知りませんね。三宝には「一体三宝」「別体三宝」「伝持三宝」という立て分けがあります。「一体三宝」とは「内証」において三宝が一体であるということで、「別体三宝」とは外用による立て分けで創価の立てる三宝はこの別体三宝です。そして「伝持三宝」とは化導における立て分けで
文底下種三宝の令法久住と、末法万年の衆生救済の意義から拝する三宝で、ご歴代の上人は「僧宝」と立てるのが古来より日興門流の教義なのです。日寛上人は次のようにご指南されています。

◇ 「問う、三宝に勝劣有りや。「答う、此れ須く分別すべし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。 所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に円仏と名づくと云うなり。 亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。 若し外相に約さば任運勝劣あり。 所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故也。」(三宝抄)

◇「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次に仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、 此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、 何ぞ末代の我等三十二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、 当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ、」(抜書雑々集・左京日教師の「類聚翰集私」より引用)

◇「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや」(文底秘沈抄)

いまここで日寛上人の文証を引用したのは、「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体」であるということは、平成になって日顕上人が言いだしたのではなく、それが古来からの日興門流の教義であるということを言わんがためです。つまり、牧口・戸田・池田の三代会長が入信した時から正宗の教義は、「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体」なのですよ。それが法主絶対論といならば三代会長はそれを知っていて自分たちも入信し多くの学会員を折伏したということになります。

また法華講の三座のご観念文は、
南無本因妙の教主、一身即三身、三身即一身、三世常恒の御利益、主師親三徳、大慈大悲、宗祖日蓮大聖人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に。
南無法水瀉瓶、唯我輿我、本門弘通の大導師、第二祖白蓮阿闍梨日興上人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に。
南無一閻浮堤の御座主、第三祖新田卿阿闍梨日目上人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に。南無日道上人、日行上人等御歴代の御正師、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に

となっています。大聖人と日興上人そして日目上人以下は明らかに違いますね。大聖人はご本仏・日興上人は大導師・日目上人以下のご歴代は座主です。法主本仏論があるならばこのご観念文は変でしょう。このご観念文を朝夕読んでいる法華講員が歴代法主がご本仏であると思う訳ありません。ちゃんと立て分けられているのですから。
対する創価はご祈念と称する中には、
創価学会初代会長 牧口常三郎先生、第二代会長 戸田城聖先生、第三代会長 池田大作先生を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます。
などと書いてありますが、Hさんのいうところの御書のなかに、「創価学会の三代会長を広宣流布の永遠の指導者である」と述べられている文証がありますか?ないですよね。ではこれは「創価の邪義」というとですね。自分たちが邪義を構えておいて日興門流の教義を邪義呼ばわりするとは一体どういう神経なのか私にはわかりませんね。

いづれにしても、正宗の教義にない「法主絶対論」が存在するというのであれば、日顕上人のご指南のなかで「法主絶対論」や「法主本仏論」を唱えたご指南があるはずでしょうから、それを「文証」として提示してください。能化文書の切文と日感師が信徒に宛てた書状を読み上げた部分だけでは何とも作為と悪意しか感じません。。因みに戸田・池田両会長の昔の指導や著書には、歴代法主に随従せよとの文言は腐る程あります。ならば当然「法主絶対論」のご指南も腐る程あるはずです。是非そのような文証を提示してください。それが提示できなければあなたの言う「法主絶対論」の存在は間違っているということになります。またHさんが創価に騙されているいう証拠にもなります。(日顕上人の法主絶対論のご指南に関しては「ある」なら提示する。ないなら「無い」とハッキリ明言してください。それ以外の回答は不要です)

では、最後に「対論」というからには私からも質問させてもらいます。
創価学会は「戒壇大御本尊を始めとする真筆・書写本尊は全て等しく本門の本尊である」と言っていますが、
「本門の本尊」であるはずの戒壇大御本尊を受持しないという教義の正当性を回答してください。
ではよろしくお願いします。


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久々に腹が立つコメントを読みました。

非公開でいただいたコメントを読んで非常に腹が立ったので記事に書く。
コメントをしてくれた方は創価を退会して正宗に移籍された方です。
詳しい事は書けませんが、その元創価の方に「良くない事」があったようです。
そしたら創価の活動家がどこかでそれを聞きつけて、その法華講の方に次のようなメールを送り付けたきたそうです。(以下太字が創価のメールの内容)

さて、聖人御難事に曰く
「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、日蓮又かくのごとし、始めはしるしなきやうなれども今二十七年が間、法華経守護の梵釈・日月・四天等さのみ守護せずば仏前の御誓むなしくて無間大城に堕つべしと・おそろしく想う間今は各各はげむらむ、大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり」と。
また、法華経の行者を軽賤した現証があらわれる時期について、種種御振舞御書では
「梵天帝釈日月四天の御とがめありて遠流死罪の後百日一年三年七年が内に」と仰せになられました。


つまり、元創価の人に「良くない事」が起きたのは「現罰」であると言っているわけです。
というのも「良くない事」が起きたのは、その方が創価批判をしてから1年後だから御書に照らして「現罰」というわけです。
これを読んで本当にこの創価の活動家に怒り心頭である。
まづ人の不幸を嘲笑うかのような言動は、信心以前に人間として最低な行為だろう。
そしてメールは偽名を使っているのも本当に姑息で卑怯。
その上で御書を利用して、自分の最低な言動をあたかも大聖人様が言っているように見せかけている。
つくづく創価の信心をすると人間のクズになるという事が分かるような創価活動家の見本だなコレは。

この御書の引用は全くフザケタ切文であることは読めばすぐに分かる。
本人も書いているように、聖人御難事と種々御振舞御書という全く別な御書を関連付けているところが最大の騙しだ。
聖人御難事に書かれている罰の話と種々御振舞御書に書かれている「百日一年・・・云々」の御文とは全く関連性がない。
そもそも御振舞御書の当該引用部分は大聖人が平左衛門尉との対面時にこのように言った。と述べている部分で、信徒に対して現罰は「百日一年三年七年が内に」出る。というな話ではないのである。こんなことは種々御振舞御書を読めば明白なのだが、こぼクズ創価員はこの二つの関連のない御書をつなげ、「百日一年三年七年」が現罰の出る「時期」だと抜かしてるわけである。
つまり現罰の定義は「7年以内」という事を言っているわけだ。ほん莫迦である。
現罰とは今世で出る受ける罰のことだ。「現罰7年時効説」とは一体どんな邪義だ(嗤)
ちなみに平左衛門尉の一族が滅亡したのは、熱原法難から数えたって14年後だがそれはどう説明するんだ?
平左衛門尉に7年で現罰が出なかったという事だけ見ても大聖人が現罰が出る期間を7年以内と言っていないことは分かるだろう。クズ創価員は大聖人をウソつきだというのか?それとも平左衛門尉には現罰がなかったというのか?本当にバカバカしい。
こんなのは「破折」でもなんでもない単なる嫌がらせだ。嫌がらせをする為に大聖人の御書を利用すなよ。
このように大聖人の御書を悪用して他人の不幸を嘲笑う材料とするとは、この創価民方こそ種々御振舞御書に書かている

◆かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし

のご聖訓のままやがて滅びることを恐れよ。
法華経の行者の当体である大御本尊をすてたコイツこそ

◆過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず

なのである。無間地獄でせいぜい嘆く事だ。それが大聖人様の教えである。
しかし、何度も書くが創価莫迦ツドウカってのは本当にクズ人間ばかりだな。
これが噂の「人間革命」というヤツなのか(嗤)
もっとも、こんな腹が立つ嫌がらせメールをされた法華講員の方は意にも介さず大御本尊への信仰を貫いておられるので
この莫迦ツドウカのやったことは、創価の莫迦さ加減と創価の非常識さを世間にアピールすることになっただけだが。
俺も創価を追放されてこのかた、様々な「良くない事」に遭遇しその都度創価の連中から「罰が出た」と陰口言われてきたが、
その全てが変毒為薬され、ヤツラが言ってたようにはひとつも成らなかった。
悪口罵詈されればされるほど功徳が出るのが大聖人仏法です。

◆されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり(四条金吾殿御返事)

との御文の通りです。大御本尊は「賞罰」を正しく下す。間違いありません。

さて、今回このどこの馬のか分からない創価の莫迦ツドウカを取り上げましたが、
このような事は他山の石ではありません。
我々法華講員もともすれば、やってしまいがちな事です。
「私たちは法華講員は創価と違って同じことを言っても間違えていない」と思うかもしれません。
確かに間違っていないかも知れませんが、だからと言って非常識な言動を安易にしなように気を付けたいものです。
創価と同じような言動をすれば、宗内では理解を得られても世間では創価と同じと思われますからね。


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