2019年 6月 の投稿一覧

〈社説〉 自転車の運転に注意

〈社説〉 自転車の運転に注意
2019年6月30日

 

基本を(げん)(しゅ)し絶対無事故の日々を

 あすから7月。本格的な夏の(とう)(らい)が待ち遠しいが、平年、全国で梅雨が明けるのは7月(ちゅう)(じゅん)()(こう)。雨の日は、路面がぬれ、(すべ)りやすい上に、()(かい)も悪くなる。交通事故には、くれぐれも気を付けていきたい。
 特に注意を(はら)いたいのが自転車の運転だ。雨天時に、やむを得ず使用する際も(かさ)()し運転は(げん)(きん)。片手がふさがり不安定になる上、ブレーキも片側しか使えず、重大な事故につながりかねない。道路交通法()(はん)(しょ)(ばつ)対象となることを(にん)(しき)し、(げん)(つつし)んでいこう。
 自転車の運転には(めん)(きょ)(しょう)が必要なく(ねん)(れい)(せい)(げん)もない。手軽で便利な交通(しゅ)(だん)だが道交法上は軽車両、つまり“車の仲間”である。利用者は交通ルールの正しい理解と(じゅん)(しゅ)が求められる。
 (けい)(さつ)(ちょう)によれば、自転車関連の()(ぼう)(じゅう)(しょう)事故では、自転車運転者の約7割に何らかの法令違反があるという。「夜間はライトを点灯」「交差点での一時停止と安全(かく)(にん)」「『(へい)(しん)()』の標識のある場所以外では、並進禁止」「スマートフォンを(そう)()しながらの運転の禁止」など、基本的なことを決しておろそかにしてはならない。
 また、近年、利用者が増えているのが「電動アシスト自転車」だ。(うん)(てん)(めん)(きょ)(しょう)(へん)(のう)()の交通手段として(こう)(れい)(しゃ)にも人気があるという。容易にスピードが出せる半面、思った以上にスピードが出て(せい)(ぎょ)しにくいといったデメリットも。さらに、車体が重く、止まるまでの(きょ)()が長くなることや急ハンドルが切れなくなることも想定される。特に高齢者は「よけられると思った」など、感覚と実際のズレによる事故も起きやすいという。身体能力の低下を自覚するとともに(いっ)(そう)の注意を(こころ)()けたい。
 その上で、いくら交通ルールを守っても、事故を起こしてしまう可能性はある。その際、自転車事故でも民事責任として、()(がい)(しゃ)に数千万円の(ばい)(しょう)(きん)()(はら)いを命じられることもある。警察庁は家族全員で損害賠償責任保険等に加入することを(しょう)(れい)している。万が一の場合に備えることも必要だろう。
 池田先生はつづっている。「信心しているからこそ、油断しないで、絶対に事故を起こすまいと(けん)(めい)に努力し、工夫していってこそ本当の信心です」
 自分自身が「絶対に事故を起こさない」「事故に()()まれない」と(しん)(けん)に祈るのと同時に、周囲の人たちへも注意を()()けていきたい。日々の工夫と努力、そして(ごう)(じょう)な祈りで絶対無事故を勝ち取っていこう。

 

(2019年6月30日付 聖教新聞 https://www.seikyoonline.com/)より

〈現代と仏法 学術者はこう見る〉第15回 運動学の視座に思う指導者論

〈現代と仏法 学術者はこう見る〉第15回 運動学の視座に思う指導者論
2019年6月30日

 

大阪体育大学大学院教授 曽根純也さん
慈悲の哲学こそ人材育成の要

 

 私は以前、プロリーグの下部組織などで監督を務め、青少年にサッカーを教えていました。そうした経験を踏まえ、現在は大学で運動学の視点から「運動指導のあり方」を研究しています。
 高い水準を目指す選手や指導者にとって、どんな動きが得点につながったのかなどのデータ分析が重要であることは言うまでもありませんが、運動学は、そうしたデータに表れない人間の感情の機微を捉えながら、個々人の技能向上に結び付けようとする学問です。選手によって、同じ言葉や同じ場面に触れても捉え方は異なります。だからこそ、個々人の内実に迫る作業が必要なのです。
 この感情の捉え方は、精神医学や看護の世界などで重視される現象学の手法が用いられます。医師が患者を診る際、患者の痛みという内的な体験を正確に理解できなければ、適切な処方はできません。医師には、表情や目の動きといった微妙な体の変化を踏まえつつ、患者の不安な心に寄り添う努力が必要です。同じように、選手の振る舞いや発せられる言葉から、指導者は選手の感覚世界を読み取り、どういう声掛けや教え方が適切かを考えていくのです。
 その第一歩として、指導者側が心掛けなければならないのは、選手の志向や運動感覚などを熟知することです。例えば、サッカーの試合で相手にボールを奪われてしまった選手がいたとします。そうした局面をビデオなどで確認し、選手の動作や周囲の状況を調べるのと同時に、選手の主観的感覚を認識するために、その時、選手には何が視覚として捉えられ、何を思い浮かべていたのかを聞くのです。その上で、耳を傾ける際には指導者側のうなずきといったしぐさや表情も大切です。これはペーシングと呼ばれ、選手の側に立とうとする態度によって内的感覚を引き出す技法です。
 そして次の段階では、選手の能力に応じた適切な目標像から逆算し、具体的な道しるべとなる方法を提案していきます。
 知識を与えただけではできるようになりませんし、分かっていてもできないということがあります。だからこそ基本を丁寧に教えることは大切ですが、その際、単に反復練習をさせるだけでは、むしろ悪い運動を習得させてしまうため、質的な改善は保証されないのが一般的です。また指導者が指示を与え過ぎると、選手に依存心が芽生え、変化に対応できなくなってしまうことも研究で明らかにされています。
 より大事な点は、磨いた技能を選手が自らの内省力で検証し、転用できるように助言することです。もちろん選手が考え出したものの中には、最初はうまくいかないこともあります。しかし、その考えを受け止め、いいアイデアについては「その方向でいい」と、潜在性を信じた励ましを送るのです。そうした触発を重ねることで、選手も自信を持って力を発揮し、プレーできるのです。
 さて私は、こうした選手の心を知り、適切に背中を押すといった育成の要諦は、仏法の慈悲の精神に通じると思えてなりません。「大智度論」では慈悲について、「慈」とは一切衆生に楽を与えること(与楽)、「悲」とは一切衆生の苦を抜くこと(抜苦)とされています。“苦を抜く”には、相手の心の声に耳を傾け、苦悩を分かち合おうとする努力が必要であり、“楽を与える”には、徹底した励ましや喜びを共有しようとする姿勢が不可欠と考えるからです。
 思えば学会は、この慈悲の心で世界に広がってきました。かつては“貧乏人と病人の集まり”と嘲笑されましたが、これは学会が世間から見放された人々の苦悩と真正面から向き合い、励ましを送り、蘇生させてきた証しではないでしょうか。
 もちろん、その蘇生の背景には、不可能を可能にする祈りなどがあることも承知していますが、どんな人をも成長させる仏法の哲理と実践は、理想の指導を探究する私にとって触発を与えてくれるものであり、運動学的に見ても理にかなったものだと感じるのです。
 (関西学術部員)

 

(2019年6月30日付 聖教新聞 https://www.seikyoonline.com/)より

〈名字の言〉 2019年6月30日 “「音の匠」玉井和雄”

わが友に贈る


(ごく)(らく)(ひゃく)(ねん)(しゅ)(ぎょう)()()
(いち)(にち)()(どく)(およ)ばず」
(こう)()()くし()(ひと)
()(りょう)()(どく)(げん)(ぜん)
(しょ)(てん)(しょ)(ぶつ)(だい)(さん)(たん)

                         御書P329

 

〈名字の言〉


 戦艦大和ファンの間で以前、“(しゅ)(ほう)の貴重な(はっ)(しゃ)(おん)”と話題になった録音がある。だがそれは、ラジオ局の(おん)(きょう)担当者がドラマ番組のために制作したものだった。グランドピアノの(そこ)をたたくなどして作られた音は、本物かと()(ちが)われるほど完成度が高かった▼()()けたのは「音の(たくみ)」として表彰もされた玉井和雄氏。1954年に文化放送に入社して以来、引退までの59年間で約6万種もの音を生み出した▼氏が音響を担当した一つが小説『新・人間革命』の(ろう)(どく)ラジオ番組だった。(たずさ)わってきた数々の番組の中でも『新・人間革命』の収録は気を抜けなかったという。「この作品は、言葉の重みが違うからです。特に、学会員さんと会長・山本伸一のやりとりは、実に奥が深い」▼氏は小説の世界が()()に伝わるよう、音の(さい)()に徹底してこだわった。会合の拍手一つにしても、参加者の人数によって()(みょう)に変えた。伸一が海外の平和旅で乗った飛行機についても、機種まで調べ上げ、実際のエンジン音に近づけた▼再開された小説『新・人間革命』の朗読ラジオ番組が好評だ。氏の音作りの情熱は、今も番組制作に受け継がれる。小説を聴く人も、読む人も、作品に込められた人間の「心」をかみ()め、平和と希望の共鳴音を(かな)でていきたい。(芯)

 

〈寸鉄〉


 学生部結成記念日。戦う
 知性の(さけ)びで(しょ)(みん)を守り
 抜け!(せん)()(ほこ)り赤々と
      ◇
 愛知が総決起。火の玉と
 なって語り(まく)れ。(けん)(るい)
 (たましい)で歴史に(かがや)く金星(つか)
      ◇
 茨城、群馬、栃木よ(かん)(ぜん)
 と進め。北関東が動けば
 時代は変わる。勝利開け
      ◇
 (いっ)(しゅん)一瞬の積み重ねが広
 布の(ちから)。出会い一つ、電話
 一本も心()め。今を全力
      ◇
 気象庁、()(しゃ)災害の()(けん)
 (せい)を5段階で示す地図を
 公表。地域や家庭で(かく)(にん)

 

(2019年6月30日付 聖教新聞 https://www.seikyoonline.com/)より

世界広布と新入会の友 ブラジル 師匠をもつ人生は幸福

​​世界広布と新入会の友 ブラジル師匠をもつ人生は幸福 ブラジルに人材の城は堂々と!──青年部の友が、サンパウロ市のブラジル池田文化会館の前で朗らかに 世界の新会員を紹介する本企画。今回は、南米ブラジル...

戸田先生「仕事に不熱心なのは謗法」






方便品壽量品講義より

折伏をいくらやりましても、商売が不熱心でありますと罰を受けます。

「法華を̪識る者は施法を得可きか」ということは、信心をするものは、こうやったら商売が良くなるとか、こうやったら病気が治るとかいうことが、分かってこなければいけないのであります。

いつまでも、世間的にも馬鹿ではなくなるのであります。





昭和30年21月1日「生活に学会人としての襟度を持て」より

もし職業に不熱心な者があるとすれば、これ謗法なりと吾人は断ずる。

わが職業に歓喜を覚えぬようなものは、信心に歓喜無き者と同様であって、いかに題目を唱えようとも、社会人としての成功はありえようがない。




第8回総会スピーチより

ある人が商売をほったらかして座談会に出ていると聞いて、身の切られるほどつらい思いをした。

商売も法華経である。

生活を良くするための信仰ではないか。

逆にする人が、どうして私の指導を受けているといわれようか。

ここを取り違えずに、信心中心に考えていくということです。




池田大作全集69 177頁より

商売もしないで、南無妙法蓮華経ばかり唱えたって駄目なのです。

店を閉めておいて、買いに来てといってもダメです。

いろいろと研究し、努力しなければならない。

それがなければ、せっかく仏様の方で助けてやろうと言われているのに「いらない」「いらない」と自分で言っているようなものだ。

「助けてください、助けてください」とお願いしておきながら、助けに行けば「いやだ」というのと同じでしょう。








学会活動だけ熱心にやっていても、法華経の行者とは言えません。それはただの「宗教屋」です。

今の仕事がどうしても好きになれないのであれば、転職も考えるべきです。

現代においては、特に男性の場合、仕事で成功することが成仏の証です。

学会の役職が上がっているのに、職場の役職が上がらないというのでは、かえって法を下げています。

人の3倍工夫し、努力し、社会のリーダーに育ってこそ、久遠の使命を果たせるのです。



御書講義について

 「日蓮大聖人の仏法を唯一正統に受け継ぐ団体」を自称しているだけあって、創価学会
は日蓮遺文――創価学会では「御書」と呼ぶ――の学習に力を入れている。

 創価学会では、年1回、教学試験を実施しており、合格した者には「教授」等の肩書が
与えられる(これも創価学会の中だけでしか通用しない肩書である)。
 そうした肩書を持つ各地域の幹部が講師となって、御書講義が行われている。

 日蓮遺文にはかなり長文のものもあるが、創価学会の御書講義では、1つの文書を最初
から最後まで読み通すのではなく、一部の引用とその説明だけで済ますことが多いようで
ある。

 以下、御書講義の教材用として出版されている『御書をひもとく 要文123選』(創価学
会 男子部教学室 編)を参照し、その問題点を論じる。

 本書は、日蓮遺文からの数行程度の引用と、その解説で構成されている。どの解説にも、
必ず池田大作の言葉が引用されている。

 また、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』に依拠しているため、その瑕疵も引き継いで
いる。つまり、偽書と判明している文書からの引用も含まれている。例を挙げる。


>  師とは師匠授くる所の妙法 子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所
> の音声なり 作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり
>                            (御義口伝、748ページ)

>  日蓮大聖人は、身延で法華経の要文を講義された。その内容を日興上人が綴り残さ
> れ、大聖人の御許可を得て「御義口伝」が完成したと伝えられている。
 (中略)
>  師匠がえ、そして弟子が吼える。師と弟子が共に吼えてこそ、「師子吼」となる
> ことを教えられている。「どこまでも師匠と共に」「どこまでも師匠のために」と、
> 弟子が決然と立ち上がり、広宣流布への闘争を貫くところに、師弟は脈打つのである。
 (中略)
>  池田先生は、「師匠は吼えている。あとは、弟子が吼えるかどうかです。それを師
> 匠はじっと見つめて待っている」と語られている。
>  広宣流布の未来を決めるのは、弟子の戦いである。師匠と同じ心で師子吼し、勝利
> の結果を残すことが、真の弟子の証なのである。

 ※ 「748ページ」は、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』の該当ページ。


 引用にもあるとおり『御義口伝』は、「日蓮による法華経講義を弟子の日興が筆記し、
それを日蓮が閲して印可したもの」ということになっている。

 それが史実であるならば、日蓮の思想を論じる上で極めて重要な意義を持つ文書という
ことになるが、結論から言うと偽書である。

 立正大学の教授を務め、日蓮宗の僧侶でもあった執行海秀氏の論文「日蓮教学上に於け
る御義口伝の地位」に、以下の記述がある。


>  ところで本書は古来より真偽の論がある。聖人門下初期の古記録を初めとして、聖
> 人滅後百二・三十年の頃編輯された録内遺文にも漏れて居り、また聖人滅後百八十年
> の頃に出来た八品日隆の本門弘経抄にも周知せられてないものであつて、その後、や
> ゝ降つて聖人滅後二百十年頃完成された円明日澄の法華啓運鈔に至つて初めて引用せ
> られてゐるところである。古写本には聖人滅後二百五十七年の天文八年(一五三九年)
> の奥書を有する隆門の日経本があるに過ぎない。かやうに本書の伝承については根拠
> が明瞭でない憾みがある。
>  のみならず本書には、日蓮聖人滅後十三年、元の元貞元年に成立した徐氏の科註が
> 引用されてゐるが如き、また本書の口伝形態や文体が、南北朝の頃出来た等海口伝等
> に類似する点から見て本書の成立は聖人滅後のものと思はれる。
 (執行海秀著『御義口伝の研究』)

 ※ この論文の初出は、昭和29年(1954年)発行の『印度学仏教学研究』三巻一号。


 『御義口伝』には、日蓮没後、13年経って元代の中国で著わされた法華経の注釈書『科
註』が引用されているというのである。偽書であると断定するには、これだけで十分であ
ろう。

 そして『御書をひもとく』において、最も多く引用されているのが、この『御義口伝』
なのである(真蹟遺文からの引用もある)。

 創価学会は、偽書と判明している文書から都合のいい箇所を抜き出し、それを池田大作
への個人崇拝を正当化するために利用しているのだ。

 『御書をひもとく』には、他にも問題のある記述が多くある。もう一例を示す。


>  第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同
> 居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・を
> こして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし
>                        (辧殿尼御前御書、1224ページ)

>  文永10年(1273年)9月19日、佐渡の一谷から辧殿(日昭)及び、辧殿に縁のある
> 門下の尼御前に与えられた御手紙。
 (中略)
>  仏道修行は、常に「仏」と「魔」との闘争である。
 (中略)
>  こうした「仏と魔との大闘争」は、生命の内面で常に起きている。成仏のためには、
> 「内なる悪」に勝たねばならない。これを観念のみではなく具体的に実践するには、
> 「外なる悪」と戦い、勝つことだ。
>  悪との闘争が、わが生命を鍛え、浄め、成仏の大道を開く。極悪と戦ってこそ極善
> になるのだ。
 (中略)
>  池田先生は指導された。「広宣流布」は『公転』です。人間革命は『自転』です。
> 両者は一体です。学会は『仏の軍勢』です。ゆえに魔が襲うのは当然だ。『仏と提婆
> とは身と影とのごとし生生にはなれず』(開目抄、230ページ)です。魔は、狩り出
> し、叩き出し、打ち破るものです。折伏精神です」
> 「日蓮一度もしりぞく心なし」との御本仏の仰せを現実のものとしたのが、創価三代
> の師弟の歴史である。強靭な一念を貫く「退く心なき挑戦」こそ、真の仏弟子の道で
> ある。

 ※ 『辧殿尼御前御書』には、日蓮真蹟が現存している(中山法華経寺蔵)。


 仏教でいう「魔」とは、本来は自身の煩悩のことを指す。ところが、創価学会では「外
なる悪」と戦い、勝つことが「真の仏弟子の道」だと教えているのである。

 創価学会の言う「魔」「極悪」とは、彼らの反社会行為を批判したり、池田大作のスキ
ャンダルを暴いたりした、外部のジャーナリストや脱会して批判者に転じた元学会員のこ
とである。

 池田大作は、自分にとって不都合な存在を「魔」と決めつけ、「狩り出し、叩き出し、
打ち破る」べきだと指導したのだ。

 そして、創価学会員たちは、この池田の言葉に従うことが「成仏の大道」だと信じてい
るのである。これがカルトでなくて、何であろうか。


 日蓮はかなりの量の文書を遺しており、その中には「真言はいみじかりけり」と述べて
いるものや、念仏を唱えることを容認しているものまである(補足2 参照)。

 そうした遺文に依拠して、他の宗教と宥和的な教義を構築することも可能だったはずだ
が、創価学会は、それとまったく逆のことを行ってきた。

 日蓮遺文を真摯に学ぶのであれば、それ自体は何ら批判されるべきことではないと思う。
 だが、創価学会は「御書の学習」と称し、偽書を根本として、池田大作への個人崇拝や
自分たちとは意見を異にする人びとへの敵愾心を、信者に植え付けている。

 このような反社会思想を繰り返し学習し、「唯一絶対に正しい教え」と信じ込んでいる
のが、創価学会員という連中である。彼らが問題のある行動をとるのは、当然のことと言
えよう。


補足1 御義口伝について

 本文で引用した執行海秀著『御義口伝の研究』の第四章は、「本書の文献学的考察」と
題されており、『科註』引用についてより詳しい説明がなされている。以下に引用する。

>  宝塔品の御義第十条の「如却関鑰開大城門」を釈する下「科註四云」として、『科
> 註』の文が引用せられている。『科註』には新古両本があって、古本は訶山守倫の
> 『科註』であり、新本は平磵必昇の『科註』である。
>  而してこの『御義口伝』に引用せられてゐる『科註』の文は、新本の必昇の『科註』
> である。このことは新古両本の文を対照することによつて明らかである。
 (中略)
>  さて必昇『科註』の修正校訂年月については其の序に、
>   元貞改元乙未弥勒生辰書之
> とあるのである。ところでこの年号は我朝の永仁三年に当たり、聖滅後十三年のこと
> で、『御義口伝』講述年代と伝へられてゐる弘安元年よりは十九年後にあたるのであ
> る。
>  そこでこの必昇の『科註』が我が国に伝来したのは、恐らく足利初期ではなからう
> かと思はれる。而してかやうに聖滅後数十年の後伝来した『科註』の文が、『御義口
> 伝』に引用せられてゐることは年代上の矛盾である。

 日蓮は弘安5年(1282年)に没している。その13年後の永仁3年(1295年)、元代の
中国で執筆され、日本への伝来は室町時代と推測される『科註』が引用されているのだか
ら、『御義口伝』は後世の偽作としか考えられない。

 日蓮正宗では『御義口伝』を教義上、極めて重視してきた。創価学会も破門されたとは
いえ、現在でも日蓮正宗の教義の多くを継承している。

 問題の『科註』からの引用は、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』では、741ページに
記されている。

> 第十如却関鑰開大城門の事 補註の四に云く此の開塔見仏は蓋し所表有るなり、何と
>  なれば即ち開塔は即開権なり見仏は即顕実なり是れ亦前を証し復将さに後を起さん
>  とするのみ、如却関鑰とは却は除なり障除こり機動くことを表す謂く法身の大士惑
>  を破し理を顕し道を増し生を損ずるなりと。

 ※ 創価学会版御書では『補註』となっているが、これは誤りで『科註』が正。


補足2 念仏を容認している日蓮遺文について

>  南無妙法蓮華経と一日に六万・十万・千万等も唱えて後に暇あらば時時阿弥陀等の
> 諸仏の名号をも口ずさみ・なるやうに申し給はんこそ法華経を信ずる女人にてはある
> べき
 (『法華題目抄』真蹟断片 水戸久唱寺 外11ヶ所)

 ※ 創価学会版『日蓮大聖人御書全集』948ページ

 あくまでも南無妙法蓮華経を唱えることを優先すべきだが、時々は「阿弥陀等の諸仏の
名号」を口ずさんでよいと、日蓮は述べている。

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