2019年 4月 の投稿一覧

平成最後!昔からの顕正会員からすればこんなはずではなかったはず!

ブログ更新が止まっているにも関わらず、いつもたくさんの方の訪問、
有り難く思います!


平成最後のブログ更新です!

ちなみに明日は御登山させて頂く予定ですので手短に。(手短に終わるかな(^_^;))



私の平成の思い出といえば、18年間の顕正会時代がやはり強烈です。


顕正会に入ったことで、人生の目的とか、やりがいは見つかったと思います!


ただし!
顕正会時代は夢やロマンを追いかけ過ぎました!


タイトルにも書きましたが、私と同じ平成初期頃とか、せいぜい平成12年~13年くらいまでに顕正会に入られた方は、


「もっと世の中が変わっているはずだった」


と思っているのではないでしょうか?



私のいた組織では、逆縁で落ち込む人に対して、


「すぐに皆わかるよ。みんな仏法やらなきゃならない時代がすぐ来るから。みんな謝ってくるから。」


なんてことを言い合っていました。
それを夢見ておりました(>_<)


平成6年には、

「あと20年で他国侵逼」
「あと20年で広宣流布」

と浅井会長から言われ、組織の仲間はみんなそれを固く信じました。


平成11年の合宿頃には、

「今後の15年は幕末よりもすごい変化が日本に起きる」

と確か言われましたね。


平成13年頃には、

「二大氷山」

として、

「大地震と経済崩壊が5年以内に起こる」 
(顕正新聞平成13年12月5日号だったか) 

と確か言われました。



それらも基本的には信じました。
夢を見すぎましたね。。。



そして顕正会にいた頃は、そのような大災害や大混乱の時代になったとき、
みんなが信心に目覚めると本気で思っていましたが、


そもそも今思えば、そのようなことが起きて、
たとえ顕正会員だけが本当に守られたとしても、

だからといって大衆が、
顕正会員を頼る保証は、無かったんですよね。


東日本大震災のときが良い例ではないでしょうか?


災害や混乱が起きてくれるだけでなく、

事実の上で顕正会員が、
家庭の中で、社会の中で、一目置かれるくらいでなければ、

そういうときに顕正会員を頼ることはないでしょう。

現実はどうでしょうか??




さて、最後に。


現在の顕正会員も、

「もう間もなく大混乱の時代が来る」
「時間がない」

と本気で思っている人は多いです。


しかし、浅井会長が発言してきたペースでは、日本の混乱は進んでいません!


常々書いていることですが、

顕正会員さんにはどうか、

家庭や仕事、将来の自分、今の自分と、大事にすべきことを大事にしてほしいです!

盲目にはならないでほしいです!

心に余裕を持ってほしいです!



私は令和も、顕正会員さんを救うため、ブログを頑張ります!!



ご相談・ご質問はお気軽にこちらまで!
09067099368
no_sleep502goal@yahoo.co.jp

〈御書と歩むⅡ――池田先生が贈る指針〉68 妙音と共に平和の大行進を

()(しょ)(あゆ)むⅡ――池田先生が贈る指針〉68
2019年4月30日

 

(みょう)(おん)(とも)に平和の大行進を

 

御 文


 (おと)(あい)(らく)(もっ)て国の(せい)(すい)を知る
 ((ねん)(ぶつ)(しゃ)(つい)(ほう)(せん)()(のこと)、88ページ)

 

通 解


 (おと)(あい)(らく)で国の(せい)(すい)を知ることができる。

 

同志への指針


 (おと)にも(じっ)(かい)(きょう)(がい)があり、(みょう)(おん)には生命を()(せい)させゆく(ちから)がある。
 わが(おん)(がく)(たい)()(てき)(たい)(かな)でる(おん)(りつ)は、(みな)に勇気と希望を送り、心を(ゆた)かに()()してくれる。()()(きょう)の世界さながらの(えん)(そう)もパレードも、本当にありがとう!
 (ほま)れの青年と(おと)()が高らかに()()らす新時代の(ぎょう)(しょう)とともに、平和と文化の大行進をいよいよ明るく(にぎ)やかに!

 

(2019年4月30日 聖教新聞 https://www.seikyoonline.com/)より

池田先生「難は出家が受けるべき」

池田大作全集77 315頁より

妙法を正しく行ずれば、必ず諸難がある。在家の身でそれに耐えられるはずがないと大聖人は思われていたというのである。

いわば、難は本来、当然、出家が受けるべきとされていたと拝される。

にもかかわらず、金吾は立派に大聖人の大難にお供し、自身の難にも揺るがなかった。






戸田先生は、戦時中の弾圧で退転した当時の最高幹部が、戦後に復帰することを許されました。

これを「甘いのではないか」という声もあったようですが、一度退転したからといって見捨てるのは、仏法の精神に反します。

戦時中の牢獄は、健康な若者でも餓死してしまうほど過酷な環境でした。

戸田先生も投獄中に体重が半分近くまで落ちてしまいました。

まして、家族が待っているとなれば、退転した同志をどうして責められるでしょうか。

学会員は在家の身であり、信心の定まらない会員がいても、どこまでも忍耐強く包容していくことが肝心です。

とはいえ、彼らが青年たちの模範にならないことは明白ですから、復帰後もあくまで裏方に徹し、戸田先生と池田先生を陰で支え続けました。



蓮祖は、法難でやむなく退転した在家信徒たちを、決して罵ったりはしませんでした。

「法難は我ら出家が代表して一身に受けるべき」というお心だったのです。

また、だからこそ興師は、天台沙門を名乗って弾圧を逃れた五老僧を、蓮祖の弟子とは認めなかったのです。



池田先生は

「学会から誰1人殉教者を出したくない。最悪でも私1人でいい」

そのように語られています。

決して、無理をさせてはいけません。

たとえば、職場で学会宣言したことで不利益を受ける恐れがあるならば、あえて伏せるように指導することも必要な場合があります。

また当然、メンバー以外の第三者がいる場所で、むやみに学会の話をすることは避けるべきです。周囲の人に告げたくない場合もあるからです。

誰がどんな信仰を持っているかは「個人情報」であり、公表するか否かは完全に当人の自由です。

学会宣言させることについても、決して無理強いしてはならず、個別に慎重な指導が必要なのです。



仏教にある正しい師弟(ブッダ最期の旅――第二章)



 仏教にある正しい師弟観とはこれである。
 師とは「法」であり、その法――つまりブッダが説いた教え=法にそって自己を観察し、自己を制御することが正しい仏教の師弟である。
 その法を説いたブッダへの感謝と讃嘆の気持ちは大切だが、だからといってブッダを神格化したり本仏にして信仰の対象にするのは間違った仏教観である。そもそも、この『マハーバリニッパーナスッタンタ』の動画の箇所は、そのようにブッダ自身が考えていたことが記されているわけだ。

 なによりも、仏教はバラモン教にあった師弟不二観や密教的要素という権威を嫌って起こった哲学なのだから、某宗教団体で言われている師弟観を仏教に持ち込むなど、もってのほかである。
 この経典にもはっきりと「教師の握り拳はない」とあるし、「わたくしたちの法」とあるくらい、誰もが知ろうと思えば知れることを説いた法(教え=縁起=諸行無常)を説いたのが本来の仏教である。
 わたしはウパニシャッドの抄訳に目を通して、彼の哲学が某宗教団体で言われる師弟観に近かったことを確認している。
 
 また、念じるとは、考えることである。精神集中とは、禅定のことである。智慧とは精神統一して己を観察し、己の感官に何が起こっているかを知り、それに対処する最善の方法を「推知」することである。

 わたしは不幸にもこの世は「常楽我浄」だと教わってきたが、原始仏教の経典で教えていることは、この真逆である。
 すなわち、不浄・不楽・無我・無常である。

 四念処という概念があるが、これは身・受・心・法がそれぞれ不浄・不楽・無我・無常であると見ろという教えである。
 不浄とはいい換えるなら、肉体は永続的なものでなく、かつ固定的なものではないと知ることで、肉体への執着を捨てろということだ。そうすれば病気になっても嘆き悲しむことがないからだ。
 不楽とは、感官が感じて受けているものは、快楽ではないと知れということだ。快楽であるなどと思うと、それを求め執着し決して得られない快楽を貪り求めることで、苦悩が生じるからだ。
 無我とは、固定された自我というよりも、自我そのものが幻であると知れということだ。自分と他人があるという自我によって境界を引くから、自分はあいつより不幸だと嘆き、自分はあいつより幸福だと高慢になり人を見下す、あるいは自分が不幸だという妬みから相手を嫌い、相手を引きずり降ろそうといった感情が起こり、様々な苦悩を背負うということだ。
 無常とは、感官が受けているあらゆる事象は変化するものであると知れということだ。100万円を払って買った大切な宝石であろうと、3000万円を払って買った高級車であろうが、すべてのものはやがて朽ちる。だから執着すると失うことを嘆き悲しむことで苦しむ。

 すなわち、この世は不浄・不楽・無我・無常であると見よ、というのが仏教の教えである。
 これを正しい四念処(四つの観点に立って、観察し考えろ)というのである。
 四念処はまた、四念住ともいうのだから、四つの観点に立ちつづけて考えろということでもある。



 この「旅に出る」にある、ブッダとサーリプッタ(舎利弗)との問答も素晴らしい。
 カントの言った、すべては主観であるから、他人のことはあくまでも「推知」でしかないことを、説いているからだ。このような点から、智慧というものが、徹底考察と徹底観察のあとに残る、そう言わざるをえない(ほぼ必然といえる)「推知」であるといえるわけだ。
 己自身に対してもこれは言えることだ。なぜかなら、自己を観察し、ブッダが説いた「法」すなわち正しい教えに添っているか否かを徹底思考し、徹底観察し、「推知」することに他ならないからである。

 こうした点から、アリストテレスが芸術作品をつくるにあたって最も重要なのは、ミメーシス(必然、あるいは蓋然の道理にもとづいた因果関係における模倣、再現)が重要であり、偶然性をなるだけ排除しろといったことが、いかに優れた「生の哲学」であるかは、理解できるであろう。
 偶然のことがらを眺めて、これはこうである!(かならず因果関係がる! 自業自得である!) などと「推知」できることなど、無意味だからだ。いなむしろそんな推知は人間を苦しめるだけである。
 芸術に運命論や宿命論を持ち込むことほど、くだらないことはないのである。それはもはや、芸術ではなく、デモーニッシュなものといえるのだろう。

当ブログに関して簡単なルールを設けました

最近の当ブログ内での一連の論争?の流れで相当険悪な状況になってしまったので
当ブログの管理人として少々やばくなってきたなと感じております。
そこで当ブログに関して簡単な決まり事(というほどではございませんが)を設けました。
純粋な論争であれば全く構いませんが
個々人の人格攻撃になるとこのブログの管理人としては看過できません。
このブログでお金を取って商売しているわけではない個人が運営しているブログなので
企業が運営しているように厳密に線を引くことは出来かねます。
よって私管理人の責任の下独断と偏見で
コメント等に人格攻撃と思しき記述があれば容赦なく削除させていただきます。
ただし一応これまでのコメントはあえて残しておきます。


・・・まあわかりますよ、熱くなるのは。
私も某サイトのコメント欄で論争になった時
こちらが丁寧に論理で返しているのに人格攻撃してくる輩がいたら
ブチぎれてそれ相応のことを私も書き込んだりしますからね。
(ただし絶対にこちらからは先制攻撃はしない)
そうなれば論争というより感情が先走って道理云々より
とにかく論破されたくないからとにかく相手を打ち負かしたいとなるだけですから。
気持ちとしては理解できますがやっぱりそれはいけませんよね。
あとこの一連の論争ももうよろしいでしょう。
傍で見ていてもどうもお二方とも信じるものが違うようですからね。
では、あと数時間で平成も終わり令和の時代になります。
皆さんも気持ち一新、気持ちよく新時代を迎えましょう。
では



マイクル・クライトン『北人伝説』

北人伝説
マイクル クライトン
早川書房
2014-10-30



 彼は答えた。「オーディンへだ。それからフロイ、そしてトール、そしてウィドル、その他おまえの旅の安全を左右する神々だ」これらは“北人”たちの神々の名前である。
 私は答えていった。「私は慈悲にあふれあわれみ深きアラー、一つなる神を信じている」
「おれはそのことなら知っておる」ヘルーゲルがいった。「おそらくおまえの国では神は一つあれば充分なのであろう。それでわれわれはその神々のすべてにお前のことを祈るのだ」私はそこで感謝した。というのは非回教的信徒の祈りもそれが誠実であれば同じように結構であって、私はヘルゲールの誠実さを疑わない。


 これが人間愛であろう。宗教が違うことでいがみあい殺しあう。実に馬鹿げたことだと思う。
 もっとも、ヘルゲールとイブンが、このような関係に到れたのには理由があって、人種、民族、慣習、文化の違いを抱えたまま、一つの目的のためにともに旅をし、ともに命懸けで戦ったという絆があるからなのだが……。最近話題の映画でいうならば、『グリーンブック』もそのようなロードムービーだが、同じ場に身をおいて共通の出来事にであっていくなかで、共感し感染しあうことによってしか、人間は差異を乗りこえられないということを『北人伝説』は、1976年に述べているのである。

 ともあれ本作の凄いところは、最後の最後まで、互いが互いの信仰を変える気など毛頭もないのだが、互いに人間同士という強い絆が結ばれて、気重な別れをするという、リアリズムにあるといえよう。
 安易に、己が信仰を捨ててまで媚びたりせず、無理に相手を改宗させようともせず、ありのままの二人の間に友情が実ったという描き方に、クライトンの思いを、わたしは見るのだ。


 物理学者ゲアハード・ロビンズはこう述べている――厳密にいうと、仮説とか理論とかいうものは、決して証明できるものではない。ただ反証をあげることはできる。われわれがありうる理論を信じているというのは、実はその理論がまちがっていることを明らかにし得ないことを意味しているのであり、疑念の余地なくその理論は正しいと表明できることを意味しているのではない。

 理論理屈を信奉するのか、そこにいる人物の何らかを信ずるのか。難しい問題だが、最後はそこ、あるいは今目の前にいる人を信ずることのほうが、遥かに重要であろう。
 もっとも、その人の行なっていることを見て、どうあっても信じられない人もいるのだが。
 ちなみに、ここで語られている物理学者ゲアハード・ロビンズというのが実在したかどうかは不明だ。こういうところがクライトンの小説(戯作)の上手さだと思うのである。

 ともあれ、かつてわたしは、ある友人に向かってこう言ったことがある。
「とにかく君の幸福を祈るよ。真剣にね」と。
 そのとき、その友人はこう答えた。
「気持ちが悪いので止めてください。わたしの信じていない神だとか仏だとかに勝手に祈られるのは、気持ちが悪いので」と。

 ショックだった。今でも鮮明に憶えているくらいショックなことだった。
 誠意が通じない相手がいることも事実だが、わたしは宗派が異なろうが、相手が「君の幸福を祈るよ」と言ってくれたなら、素直に今でも感謝できるし、今後もそういう人間でありたいと思っている。


 これは映画のラストシーンの少し前の場面だ。
 アラブ人のイブンは最後の命懸けの戦いを前に、己の神に祈る。そして仲間たちを戦いのなかに失い、自身も傷ついている、イブンを含む11人を率いてきた北人のブリウィフもまた己が神に祈る。祈りの形式や言葉は異なれど、その祈りにこめられた思いに変わりはないだろう。そういう美しさを描いた場面だ。
 戦う相手である敵は「食人族」という設定、つまり人間が人間を喰らうという設定にして、敵は人間以下なのだとしているあたりにも、クライトンの工夫があるといえるだろう。