2019年 1月 の投稿一覧

〈座談会 創立90周年を勝ち開く!〉13 1・26「SGIの日」記念提言を発表

〈座談会 創立90周年を勝ち開く!〉13
1・26「SGIの日」記念ていげんを発表
人間革命のてつがくを人類のどうひょう

世界が待望する「創価の人間革命の宗教」。各国で実施される「教学研修会」では、「太陽の仏法」の確信に触れ、皆が清新な決意で出発!(今月、インドでの集い)

 

2月3・4日は教学の日 御書こんぽんの前進を
〈出席者〉
原田会長
長谷川理事長
永石婦人部長
竹岡青年部長
大串女子部長

 

 大串 このたび、関西創価小学校のアンジェリック・ブラスバンドが、「こども音楽コンクール」の全国大会でごと、「文部科学大臣賞」にかがやきました!

 竹岡 “日本一”に相当するえいです。本当に、おめでとうございます!(一同、はくしゅ

 永石 関西創価小は昨年度も、別の大会で、“日本一”となる「文部科学大臣賞」を受賞しています。これで、同校初の2年連続でのかいきょとなります。

 長谷川 同部のしんは、創立者である池田先生からおくられた「基本は力 持続は力」です。毎日の基本的なことのかさねの重要性が示されています。

 永石 この指針から、児童たちは「ゼロゼロ作戦」(練習ゼロの日をゼロに)を実行しているそうですね。個人練習などのふうもしながら、ねばづよく努力を重ねていると聞きました。

 長谷川 さらに、“音を変えたければ、自分を変えよう!”と、あいさつ、マナー、勉強など、「全てで日本一」を目指したちょうせんを重ねてきたそうです。そうした「自分の弱い心に負けたらあかん!」との勇気が、今回の栄光につながったのだと思います。

 原田 らしい話です。若さには、無限の力があります。私たちも一日一日の目標を明確にし、自身の「人間革命」にいどみながら、栄光の歴史を勝ち取っていきましょう。

 

“あきらめ”とたい


 大串 池田先生は本年も、1・26「SGIの日」を記念して、「平和とぐんしゅくの新しき世紀を」と題する提言を発表してくださいました。

 長谷川 ここでは、ぐんしゅくのための三つの足場(①「平和な社会のビジョン」の共有、②「人間中心の多国間主義」のすいしん、③「青年によるかん」の主流化)と、五つの具体的な提案が示されています。

 竹岡 その一つが、かく兵器禁止条約への各国の参加のうんを高めるため、有志国によるグループを結成することです。先生は、日本が、そのグループに加わり、かく保有国と非保有国の対話の場のかくつとめることを提案。また、AI兵器を禁止する条約のこうしょう会議を早期に立ち上げることなどもうったえられています。

 長谷川 各マスコミでもそくに報道され、その注目度の高さがうかがえます。

 永石 提言では、仏法のを通し、「人間革命」の思想の重要性が示されていました。

 原田 思えば、小説『新・人間革命』第30かんの「あとがき」で先生は、社会も国家も世界も、全ては人間の一念いちねんから生まれるものであり、「人間革命」なくして、自身の幸福も、社会のはんえいも、世界のこうきゅう平和もないと断言されました。

 大串 そして、仏法を根幹こんかんとした「人間革命」のてつがくは、「第三の千年」のスタートを切った人類の新しきどうひょうとなろう、とけつろんされたのです。

 原田 その言葉のままに、提言では、日蓮大聖人が、「りっしょうあんこくろん」で、社会に巣くう“あきらめ”の心とたいされたことにげんきゅうされています。

 竹岡 当時、さいがいせんらんあいぐ中で、多くのみんしゅうが生きる気力をなくしていました。また、自分の力でこんなんえることをあきらめてしまう思想や、の心のへいおんだけをたもつことにせんねんするようなふうちょうが社会をおおっていました。

 原田 そうした思想やふうちょうは、全ての人間に内在ないざいする可能性をどこまでも信じ、そのくんぱつと開花を通じて、万人ばんにんそんげんかがやく社会を築くことをく法華経とは、たいきょくにあるものでした。ゆえに大聖人は、「かずばんしゅせんよりはいっきょうを禁ぜんには」(御書24ページ)と仰せになり、“あきらめ”の心が巣くう社会のびょうこんきびしくてきされたのです。

 竹岡 社会のこんめいが深いからといって、あきらめるのではない。人間のうちなる力を引き出して、時代へんかくの波を共に起こす――これこそ、大聖人の思想の根幹であり、創価の三代会長に脈打つ精神です。

 原田 たとえば、池田先生は、冷戦対立がげきした1974年、ソ連と中国をはつほうもんされました。また、冷戦終結後にアメリカとのきびしい対立関係にあったキューバや、テロ問題に直面していたコロンビアをおとずれています。それは、“宗教者や民間人だからこそ、できることは必ずあるはずだ!”という強い信念と決意からの平和行動でした。

 長谷川 “このようにすれば必ず成功する”という万能ばんのう解決かいけつさくなどない中、先生は対話と交流を重ね、平和ときょうそんの道を開いてこられたのです。

 原田 ひるがえって私たちも、身近で起きている、あらゆるこんなんな出来事に対し、あきらめることなく、ちょうせんを重ねていきたい。自身の周囲に、地域に、友好のを広げていく。みずからの人間革命を通し、現実を変えていく――池田先生が示してくださった、この思想をじっせんする一人一人を目指していきましょう。

 

「師弟のきずな」の強さ


 永石 2月3・4日の「教学の日」を中心に、各地で「御書講義」がかいさいされます。今回は、「しょう一大事けつみゃくしょう」の「『ざいざいしょぶつじょうしょう』よも虚事そらごとそうらはじ」(同1338ページ)等をはいします。

 大串 「いたるところの仏国土に、師と弟子が常に共に生まれ、仏法を行じる」という、「師弟のきずな」の強さが示された一節ですね。

 原田 弟子にとって、常に師と共に生まれ合わせ、行動できることほど、うれしいことはありません。このもんを身をもって実感できる私たちだからこそ、いっそうの喜びをむねに、広布の大道を歩んでいきたい。

 

(2019年1月31日 聖教新聞 https://www.seikyoonline.com/)より

〈勇気の旗高く〉 池田先生と静岡

2007年11月12日、池田先生は関西指導を終え、東京に向かう新幹線の車窓から、夕映えの富士にカメラを向けた(静岡市内で撮影)。かつて池田先生は「富士山のある静岡は“世界の静岡”」「皆で、この地に広布の理想的な国土を築いていただきたい」と呼び掛けた

 

1991年10月13日、第1回静岡合唱友好祭に出席した池田先生は「静岡は断然、勝ちました」と、友の奮闘を心からたたえた(浜松市の浜松アリーナで)。友好祭に参加した当時の青年部メンバーは今、静岡広布の中核となって活躍している

 

昨年11月に開催された総静岡の第2回太陽総会。各部一体で「世帯増」を成し遂げ、喜び集った(静岡文化会館で)

 

勝負をけっするのは「声のちから

 池田先生が各地の友にせたスピーチやしんなどを紹介する「勇気のはた高く」。今回は静岡県をけいさいする。

 

太陽のごと


 2016年(平成28年)11月、静岡の新あいしょうが発表された。それは「太陽の静岡」。学会がじゃしゅうもんけつべつした“たましいの独立”から25周年の折であった。池田先生は、よく17年に発刊された指導集『太陽の静岡』にばんかんの思いを寄せた。
  
 太陽は、希望のこうげんである。
 太陽は、あいねつげんである。
 太陽は、正義のエネルギーげんである。
 われらの静岡こそ、太陽のみんしゅう仏法が、もっとも明るく、最も温かく、最も強く、世界へ未来へ、かがやわたる天地なのだ。
 ほんぶつ・日蓮大聖人はげんぜんおおせになられた。
 「おのおのおうの心を取りいだして・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王はひゃくじゅうにをぢず・師子の子・またかくのごとし、かれかんのほうるなり日蓮が一門は師子のほうるなり」(御書1190ページ)
 この通りに、「師子王の心を取りいだして」、命におよはくがいにもだんじてくっしなかったのは、じゅんきょうあつはらさんれっを中心とする静岡の農民門下であった。ここに、世界のじんけんとうそうをもらしゆく、みんしゅう仏法のがいきょくじつのぼったのである。
 その「しゃくしんみょう」「しんほう」のたいこうを、時をえてぎ、かっかくはなちゆくのが、牧口常三郎先生と戸田城聖先生をそうりつあおぐ、われら創価学会である。
  
 世界広布新時代の今この時、民衆仏法の原点の天地たる静岡の太陽の前進を、全世界の同志が見つめている。
 大聖人は、「あつわらのものどものおんこころざしたいどうしんなればばんじょうじ」(御書1463ページ)とせんげんなされた。
 われら太陽の静岡家族は、いやまして異体同心の団結を深め広げながら、愛するきょうに、広宣流布の「永遠のみやこ」を断じてきずきゆこうではないか!
 いずこにもましてらくを分かち合ってきた静岡の同志と、私の心はどこまでも、いつまでもいっしょである。

 

ぜんけん大使に


 池田先生はわかき日から富士をこよなくあいしてきた。先生は1988年(昭和63年)9月、静岡の友におくった長編詩「富士ひかさちほう」で広宣流布に生きる使命をつづった。
  
 富士郡・じま(編集部注=現在の静岡県富士市)の
 高橋にゅうどうあたえられた御書に
 「の国の仏法はへん
 まかせたてまつりそうろうぞ」と
 その地域の広宣流布は
 そこにみし人の使命である
 自身につらなる人のきずな
 だれも 取ってわれはしない
 君こそ あなたこそが 
 わがきょじゅうの世界の広布を
 ほんぶつよりたくされた
 たった一人のかいたく者なのだ
 責任者なのだ
 ぜんけん大使なのだ
  
 広宣流布のために
 自分はなにをすべきか――
 つね
 そのいかけをわすれまい
 そして 人をたのむな
 そこにこう退たいいんはある
 どんなにおおぜいでも
 それにあんじゅうしてはならない
 それぞれが
 それぞれの
 使命をたさずしては
 だいがんじょうじゅ
 決してないからだ
  
 ゆえに君よ
 創価学会のなかの自分ではない
 自分のなかに
 創価学会はあることをわすれまい
  
 さあ 友よ
 きんきずな
 心と心をむすびし君たちよ
 かんはたをなびかせながら
 富士と語りつつ
 さんかおるこの道を
 かたみ ともどもに行こう!

 

退たいの精神


 池田先生は、折々の場面で静岡の青年部にはげましを送ってきた。85年(同60年)7月22日、静岡・白糸研修道場(当時)に開設された「白糸記念青年じゅく」の開塾記念勤行会では、“信心をつらぬとおす人が最もとうとい人”と後継の友に強調した。
  
 さまざまなきょう、スポーツにあっても、ちゅうでやめほうすることほどみじめなことはない。なにごとにあっても、最後まで、退たいの精神で貫き通していくことだ。
 勝っても負けても、がんりぬくことがとうとい。そこに人生の生きかたしんずいがあるといえよう。ましてや、信心を貫き通した人、広布のじんれつさんじて、最後までつらなっていく人はもっとも尊いのである。その人を御本尊はお見通しになり、しょてんさんたんすることはまちがいない。
 ゆえに、みずからが決めた道を、さいごくの法にのっとったわが人生の道を、歩み通していく――この一点を、たがいにちかいあっていただきたい。
  
 未来への永続的なはってんは、青年がどのように成長し、ちからをつけ、ざんしんにしてしんせんな生命力でたくましくびていけるかにある。そこに今後のはってんのいっさいのカギがある。
  
 さらに90年(平成2年)1月21日、静岡県青年会議(富士宮国際文化会館〈当時〉)では、友情の大切さをうったえている。
  
 小さな自分のカラにじこもった生命――そこには、やくどうがない。しんそうぞうも喜びもない。ゆえに生きた知性の深まりも、価値ある行動の広がりもないであろう。
 ところが一歩、人間への行動を起こす。友と会い、語る。いっしょなやみ、考える。するとしんちゅうには、限りないいつくしみとがわく。それが思いきったじっせんとなっていく。いつしか生命は、ダイナミックに回転を始める。「友情」が、生命にみずみずしいしょくはつをあたえているのだ。
 友へのちがたいねつじょう。会って確かめあうしんらいちかい。苦しみを分かちあう心の強さ、いさぎよさ。「友情」は、心を強くし、人生の行きまりをやぶり、えていく大いなるちからとなる。

 

正義のいきお


 91年(同3年)10月13日、浜松アリーナでかいさいされた第1回静岡合唱友好祭。静岡文化会館や清水文化会館、富士文化会館をはじめ23会場がちゅうけいで結ばれた。
 前年の12月に第2次しゅうもん事件がぼっぱつし、しゅうもんとのこうぼうっただ中だった。祭典では、“創価勝利”を告げる「かんの歌」や「人間革命の歌」などの大合唱がとどろいた。
 池田先生はその熱唱をたたえつつ、どくさい者・ヒトラーと戦った人民のえいゆうたちの温かき同志愛をしょうかい。「不屈の歌声」が「みんしゅうの勝利」を約束することを語った。
  
 「勝負」をけっしたのは「声」であった。「歌」であった。
 私も十数年前、どす黒いさくぼうあらしの中で、みなさまのことを思い、次々と「歌」を作った。そして信心を根本に歌った。こうして勝利へのリズムを、こんしんちからで、ひとりげんぜんとつくってきた。(編集部注=池田先生が78年〈昭和53年〉にけた学会歌は30曲におよんだ)
 「ともに歌おう!」「かたみ、歌おう!」。そのスクラム自体が、すでに“われらは勝ちたり!”とのしょうちょうである。また無限に広がりゆく希望のあかしである。ゆえに、私は歌う。みなさまとともに歌い続ける。
  
 わが友に「くつの歌声」があるかぎり、「めつの同志愛」があるかぎり、学会は、また学会員は、けんけんりょくをふりかざすどくさい者のしんりゃくにも、絶対に負けることはない。ゆうゆうと、正義のとうそうに打ち勝ち、広布の栄光の歴史を、そして自身の栄光の人生をかざりゆくことができる。
  
 さらに先生は2004年(平成16年)5月の随筆で、正義に生きる静岡に限りない期待を寄せた。
  
 静岡が勝つことが、日本中に、勝利のぶきを、そして正義のいきおいを、太陽のごとのぼらせていくのだ!
 「日蓮がいちるいたいどうしんなればひとびとすくなくそうらへどもだいじょうじて・いちじょうきょうひろまりなんとおぼそうろうあくおおけれどもいちぜんにかつ事なし」(御書1463ページ)
 静岡のけなざいの門下におくられた、有名なせいくんである。わがとうとき静岡のだいな同志よ、東海の王者として、天下にその名をとどろかせ、創価完勝の決定打を打ってくれたまえ!
  
 「声のちから」で「仏法は勝負」のげんぜんたる実証をまんてんに示してきた静岡の友。今、世界が見つめる静岡から、“創価勝利の太陽”はのぼる。

 

(2019年1月31日 聖教新聞 https://www.seikyoonline.com/)より

〈現代と仏法 学術者はこう見る〉第10回 スポーツ心理学と唱題行

題目こそ生命錬磨の源――その音声は世界のあの地この地にも(写真は18、19の両日にドイツで行われた欧州SGI教学研修会から)

 

成城大学教授 妹尾せのお江里子さん
地道な祈りこそ勝利を開くみなもと

 

 人間には調子が良い時も悪い時もありますが、スポーツ選手は高いレベルで安定したちからはっしたいと考えています。私が研究するスポーツ心理学には、メンタルトレーニングというものがありますが、その手法と私たちの祈りには、人間の力を引き出す多くの共通点があると感じています。
 まずメンタルトレーニングでは、心から体に働きけるイメージを大事にします。例えば成功した時のかくはもちろん、肉体的な感覚やあいらくの感情もリアルにおもかべます。のうのミラーニューロンには他人の動きを見て、それをまねる働きがありますが、それは想像するだけでも働き、大舞台でも自然と体が動くようになるからです。
 池田先生も祈りについて、「ばくぜんとした一念であっては、『まと』を見ないで『矢』をはなつようなもの」と語られていますが、やはり祈りの内容もしょうさいにイメージする方が良いのだと思います。
 次に、選手に助言しているのは自分で自分に掛ける言葉の大切さです。これはセルフトークと言い、「私を主語にする」「こうてい的で断定的な表現を用いる」ことを習慣化することです。具体的には、大事な場面で「失敗しませんように」ではなく「私は絶対に成功する」と思考をコントロールするのです。ごろから肯定的な思考をする人は、想定外の事態に直面してもえが早く、自分の力で打開できることが心理学的にも証明されています。私たちも御本尊に向かう際、さまざまな感情があふれ出す中で自らと対話することがありますが、それこそセルフトークであり、その中で日蓮大聖人が「湿しめれる木より火をいだかわける土より水をもうけんがごとごうじょうに申すなり」(御書1132ページ)とおおせの通り、最終的には、「必ずこうしてみせる」とのちかいの祈りに変えています。これもスポーツ心理学と共鳴する点だと考えます。
 しかし、いくらがんろうと思っても、気持ちが乗らない時もあります。それは選手も同じで、そんな中でも練習をこなさなければなりません。
 では、どうするのか。仏法ではしきしん、つまり肉体(色)と精神(心)は一体不二であると説きますが、気持ちが乗らない時は、体を動かすことで心をやる気にさせるのです。これは作業こうふんと言い、ストレッチなどを行っているうちに脳が動きだし、心も前向きに変わっていくのです。
 御書には「をば苦とさとりらくをば楽とひらき苦楽ともに思いあわせて」(1143ページ)とありますが、いかなる時も、まずは御本尊の前にすわることで、心も前向きになるのではないでしょうか。その上で、自分自身で座ろうと決めることが大事であることは言うまでもありません。最近、コーチングでも指導者が教えむより、選手が主体的に決めることが大事と言われます。自分で決めたことはモチベーションが高まり、持続できる可能性も高くなるからです。
 このほか、選手は重圧などを感じる場面でガムをかんだり、きゅうを整えたりします。このようなリズミカルな運動によって、脳から幸せを感じるセロトニンというホルモンがぶんぴつされ、不安を軽減し、集中力を高めることが分かっているからです。それは歩く、ジョギングするといった日常的な動きでも分泌され、私たちのリズム正しい唱題でも分泌されていると考えられます。また一点を見つめ、せんを定めるというこうは、集中力を高め、心を落ち着かせることに有効であり、私たちが御本尊に向かう姿せいにも通じると思います。
 大舞台での試合の折、「きんちょうの中でも体が自然と動いた」と言う選手がいますが、これはメンタルトレーニングの成果はもちろん、日頃から地道に練習を重ねてきたからこその結果であると思います。私たちもまた、地道に、そして主体的に祈り、人生勝利の王道を歩んでいきたいものです。
 (東京副学術部長)

 

(2019年1月31日 聖教新聞 https://www.seikyoonline.com/)より

〈名字の言〉 2019年1月31日 “『樹木希林 120の遺言』(宝島社)を読み”

 「心にとどく言葉」とは、どんな言葉だろう? 先日、出版された『りん 120のゆいごん』(宝島社)を読み、あらためて考えさせられた▼本書は、“ありのままの自分”をつらぬいた樹木さんからの「贈る言葉」。「幸せというのは『常にあるもの』ではなくて『自分で見つけるもの』」「マイナスのごとふくめて、自分の栄養かな」。たれびとけることができない「生」「老」「病」「死」をはじめ、「人」「きずな」「家」「つとめ」のテーマで紹介されている▼「がんがなかったら、私自身がつまらなく生きて、つまらなく死んでいったでしょう。そこそこの人生で終わった」とは、とうびょう生活について語った言葉。「やっぱり世の家族がほうかいしないのは、女のねばり強さですよ。女が台となって“始”って漢字になる。すべての始まりの土台を作るのが女だからね」▼文は人なり。一言一言の中に樹木さんの生き方がぎょうしゅくしている。仏法は「さんじん」とく。つくろわず、ありのままの自分で生きる大切さを教える。人は結局、自分自身にふさわしい人生を生きるもの。ならば、自分自身に正直に生き抜きたい▼「正直は――どこででも通用するゆいいつへいである」(北御門二郎訳)。ロシアのぶんごうトルストイが書きとどめた中国のことわざである。(側)

 

(2019年1月31日 聖教新聞 https://www.seikyoonline.com/)より

祈りと道理

まだ創価学会の信心というものにつよく傾倒していた頃のことである。
唱題しながら辿りついた答えがあった。
それは、道理に見合ったことは祈ってもしかたないのではないかということだ。

あるいはまた、他人の幸福を祈るといっても、結局それはこちらの主観で見た、自分勝手な他人の幸福であって、その人自身が願う幸福、またはその人自身にとっての幸福であるとは限らないのではないか、と。
例をあげるなら、他人の病気が治ることを祈るのは当たりまえだということは、違うと思ったということだ。
病気になったことでしか知りえない、気づき得ないこともあるからだ。
誰かの無病息災を祈ることは善いことという気持ちはわからなくもないが、それが本当にその人にとっての幸福かどうかを決めるのは私ではなく、その人自身ではないかと確信したということだ。

いい換えるなら、自分の思うエゴイスティックな幸福を他人に押しつけるるような祈りなど、祈りでも何でもないと気づいたということだ。
だとしたら、他の存在にたいして祈れるのは、「生きとしいけるものが幸福でありますように」くらいのものだと気づいたということだ。

また、先のものを換言するなら、努力して実現しそうなことを祈ることには意味がないということであり、叶う叶わないは別としても、現実の努力で実現できることは、むしろ祈るのではなく、それが実現される道理を隅々まで考えぬいて実践することではないかと思えたのだ。
しかし、そうした祈りと道理について、その後より深めていくような思索をしたことがなかった。また、そういう機会にも恵まれてこなかったようだ。

そして今回、梨木香歩『雪と珊瑚と』を読んでいて、衝撃的な文章に出会ったわけだ。

「フランシスコは、野の草や鳥、森羅万象あらゆることに対して、慈しむ気持ちを持っていらした。弟子に対してすら、『服従する心』を持っていらした。けれど、彼が自分に対することで一貫して弟子たちに禁じていたことがあったの。それは自分が祈っているとき、覗き見をしたらいけないということ」(中略)
「祈りだけは、他者と共有できない。祈りは、個人が個人であることの根本にあるもの」
これは彼女がさっき、「信仰のことは人には言わない」と言ったことの、くららなりの補足なのだと珊瑚は感じた。


フランシスコというのは、むろんアッシジの聖フランシシコのことだ。
しかし、大事なのはもちろんそこではなく、祈りの本質について梨木が語っている部分だ。

そして昨夜から読みはじめた、宮城谷昌光『会社人間上昇学』という、中国古典をとおして、いわゆる帝王学を語っている本にも、似たような記述を見出したのだ。
余談だが、宮城谷さんの文章の巧緻さも感じとって欲しい。
此処ぞというところ以外には漢字を使わない。漢字だけ拾い読みすればおおよその意味が掴める文体になっているのだ。ある人にそのように苦言を呈されたのだと語っていましたけどね。
わたしもそういうことを意識してタイプしているのだが、まだまだのようだ。

筆者は、中国に文字が生まれたころと、それから人間のことばのかかありあいについて、つくづく考えたことがある。そして、こんなことを想い定めるようになった。
一、祈りについて――、祈りは、祈る姿もその内容も、けっして他人に知られてはならない。もし知られたら、その祈りは無に帰すだろう。


また、併読している、ナタリー・ゴールドバーグ『クリエイティブ・ライティング<自己発見>の文章術』にもそのような趣旨のことが書かれていた。

自分の思いをノートに書く。そうしていくことで、自己の内面にある本当にやりたいこと、自己の本当の気持ちに気づけるのだ、と。だから、ノートに書いたものを人に見せてはいけない、と。


自分が芯から求めるものに、短い期間に連続的に出会うという不思議は何度も体験してきたことだが、今回のものはちょっと次元が違った。

考えてみれば、西洋中世ファンタジーの世界などでも、悪魔の名であるとか、神の名を決して声に出してはいけないとかあったわけだし、中国という国では、古代から本名は家族内でしか口にせず、字を用いてきたとか、祈りの本質に似た禁忌というのは、世界中いたるところで目にできるものだと気づいたわけだ。
日本であるならば、『鶴の恩返し』などもそうだろう。

調べてみたところ、こうした禁忌は、「見るなのタブー」と呼ばれ、世界各国の神話や昔噺にあることがわかった。
そしてまた、聖書にもあったのだ。


あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
(マタイ6章6節)



ではなぜ、祈りと祈りの内容を人に見られたり、知られてはいけないのか?
考えてみれば、当たりまえのことだろう。
祈りの内容を他人に知られたなら、それはもはや祈りでもなんでもないからだ。
祈りではなく願いになるであろうし、他人に知られるということは、自分はこうしたい、こうなりたいという意志表示――悪くいうならば、自己認証欲求にすぎないし、自己顕示欲でもある――に落ちぶれるし、他人に自分の願っていることが実現するように頼んでいるのと変わりがないからだ。
そういうことになるなら、道理を尽くして説明し、協力を請えばいいのであって、祈る必要性はどこにもないということだ。

宗教、信仰、そして祈りに関して、自分がいかに世間一般の常識とやらに染まっていたのかに気づいたというわけだ。
換言するなら、宗教団体の利益のためにつくられた祈りかたを祈りだと思いこんでいたことに気づいたわけだ。

大体においておかしいではないか。
創価時代の自分を思い出しただけで、それはすぐにわかった。
拠点の仏壇に地区の目標であるとか、境涯革命5原則だとか、日顕宗撲滅だとか、公明大勝利だとか書いて、皆でそれを祈るとか、おかしいわけだ。
そういうものは、全て道理にしたがって努力すれば叶うものだからだ。

選挙に勝つために祈る? 馬鹿らしい。
選挙に勝ちたければ、勝てる道理をとことん追求して、それを実践すればいいのだ。実際創価はそういうことをしているから、宗教団体ではなく、政治団体であるともいえるわけだ。
境涯を変えたいなら、変えられるような道理を追求して、個々人で努力すればいいのだ。
日顕宗を撲滅したいなら、実際にそういう行動を起こせばいいだけだ。

世界平和だの広宣流布も同じだろう。
そうなるように道理を追求し、実際に努力すればいいだけだ。例えば、世界平和であるなら、カントの著した『永遠平和のために』のように、道理を尽くし、理性的に考え、それを実践しようとすればいいだけであり、そこには祈る必要性はないのだ。
こうした欺瞞に気づいてしまうと、宗教団体というのが、いかに偽善であるかに気づけるのだろう。
信者と書いて儲かるというのが心底納得できるのだ。


そのように考えれば、そもそも祈りというものが、現実を変えるための神仏へのお縋りなどではなく、超自然であるとか、神秘であるとか奇蹟であるとかを望むものであるということがわかるはずだ。

犬が飼いたいなら、犬を手に入れればいい。
彼氏・彼女が欲しいなら、作る努力をすればいい。
裕福になりたければ、働けばいい。
世界平和を願うなら、絶対平和主義者になればいい。
努力すれば出来ると考えられることを祈ることに何の意味があるのだというのか。

この信心が正しいことは、いつかは科学によって証明される云々。
だったら、信仰なんていらないであろう。科学で証明されるなら、科学的な対処をすればいいだけだからだ。
科学で祈りが叶うことが証明されるなら、祈る必要はない。科学を用いればいいだけだなのだから。

であるなら、祈りとは、努力しても叶わないと思えることを祈りと言うのではないだろうか。
例えば、天候の不順による穀物の不作だとか、そういものだ。

もっとわかりやすく言うならば、結局のところ祈りとは、自己の中にある創造性、――未来を切り開く自己の中に眠っている力を湧きおこらせる為のものといえるだろう。
だから、祈りは他人に見られたり、知られてはならないのだろう。

他人に知られ、見られてしまうことで、自己の中にある創造性が外部に零れでてしまい、その力を失うからだ。
何というか、こんな当たりまえのことさえ、歪曲され、隠されているという事実は恐ろしいことだ。

いや、それ以上に、自分の思ったこと、自分の中に宿った想いを、ここで舌を回して語ってきたことが、いかに馬鹿げたことであったのかに気づけたことは、まことに大きな収穫だと気づいたというわけだ。

想いや祈りは語らない。語るなら道理を、といったところか。


模倣することは過去をつかみとることであり、創造することは未来をつかみとることである。
しかし、いくら先が見えていても成功はそこにない。成功とは自分自身にあるからである。つまり、模倣する自己、または創造する自己が、はっきりみえる人間こそ成功者である。(中略)
「おのれを知る」のは至難のことである。むしろ人の一生は自分自身をたずねつづける旅であるといってよいかもしれない。

(宮城谷昌光)



天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。
(小林秀雄『モオツァルト』)



つまることろ祈りとは、誰にも知らせずに黙って行為する表現の異称だといえよう。
誰かに祈りや想いの内容を言ってしまった瞬間、それは欲得になり損得になり、利害になり、打算になるということだ。




まあ、そういうことだよねー。


中島岳志が信仰の必要性を痛感したときの挿話が興味深い。
自身、阪神淡路大震災で被災したとき、ある倒壊家屋で出会った人を見て、彼はこう思ったのだそうだ。
「きっと生活のために必要な通帳とか印鑑を探しているのだろう」
そのように思って声をかけたのだそうだ。
そのとき、その人はこう答えたのだそうだ。
「決まってるじゃないか、お位牌を探してるんだよ」
中島は絶句して、自分の愚かさに気づいたのだと。
人間が生きるためには、金とか物とかよりももっと根源的なものが必要なのだと。

梨木香歩『雪と珊瑚と』のなかでも、同じような挿話が紹介されている。
アッシジの聖フランシスコ礼拝堂が、地震で崩れた。
生き埋めになった人、住処を奪われた人がいるなかで、フランシスコに篤信な気持ちをもつ人々が、崩れたフレスコ画の破片をひとつひとつ集め、数年かかって修復したという挿話だ。

むしろ他にやらなければならないことが山積みになっていた状況で、彼らが、なぜそこまで必死になったのか。自分の家がガラガラと音と立てて崩れ去るっていうのは、大変なことよ。それにも増して、幼い頃から敬い親しんできた聖人たちの像が崩れ去るっていうのは、自分たちを形づくってきた何かの瓦解にも等しいこと。聖人たちの像を繋ぎ合わせようとする試みは、被災でバラバラになった自分自身を繋ぎ合わせる作業の始まりでもあったのだ、と。

被災して大事なのは、とりあえずの衣食住。それも確かだ。しかしそうした衣食住いぜんに自分という存在が崩壊してしまったら、衣食住など意味をなさないのだ。
信仰や祈りとはそういうものだろう。
そうした思いに立てないなら、信仰も祈りも捨てて、唯物論者とか拝金主義に生きる方がまだましかもしれない。
折伏何世帯決めましたとか、本流何世帯できましたとか、今年で何千万遍に到達しましたとか、そんなことを誇るのが信仰ではないということだ。誰かに認めて欲しいという顕示欲の提示を信仰と呼ぶなかれということだ。
そんなことをするのは、むしろ信仰の道から外れていくことなのだから。

このあとにつづく梨木さんの語りこそ真実だとわたしは思った。
信仰はそのように個人的なもの。であるから他人の信仰にあれこれいったり、教義を振りまわして、他人の信仰を云々すべきではない。ある意味では哲学や観念を振りまわすこともそれと同義。
結局のところ、われわれに出来る支えあいというのは、そうした信仰心に踏み込むことなく、被災した人に温かい食事を手渡してあげることとか、住居を失い、服も擦り切れたまま寒さに震えている人に、毛布をかけてあげるといった、物理的なことしか出来ないのだと語っているのだ。

中島さんも、体験でそういうことを知ったからこそ、真の宗教や信仰の大切さを語っているのだろう。
信仰とは結局、自分を自分たらしめているものだといって過言はないのだ。

だからこそ、自己の信仰を見つめ直す作業は困難だし、また他者の信仰を批判することは無慈悲でもあるのだろう。

『本迹体一抄』を読む(39)法華玄論


― (38) よりつづく ―

〔16裏8行18字~14行12字〕
08 御引証
09来化仏當知此意口傳アリ 天台云 集仏即付属 々々付属
10召下方此是大事之由云々 又云 明玄付属云々 章
11安云 蓋序王者叙經玄意1 々々玄意述於文心 々々文心莫過
12迹本云々 御書云 妙法蓮ヶ經五字文非義一意耳云々
13即當知此意上行付属要法名故二门不二□行也云々
14是上行付属也云々

16裏8行「御引証」とは、つまり『観心本尊抄』12表2行に「宝塔品云令法久住乃至所来化仏当知此意等」を指すが、この「乃至」以下は『宝塔品』ではない。吉蔵『法華玄論』に載るところである。

看過しがちであるから、当論の問答を挙げる。
「問。但明現塔證所説不虚。唯應如光宅所明。云何用此開於本迹。
 答。下偈云多寶如來及與我身。所集化佛當知此意者。夫聖人言近而意遠不可齊事。而求之佛恐尋言失旨。故唱當知此意以驚悟之耳。若意唯存受持弘宣者。則已顯之於言。豈曰此意難知。復何煩唱言當知此意也。又若現塔但爲證前説者。何煩放光集佛開塔並坐。意在何耶。故知皆爲開本迹耳。」
開塔、釈迦多宝の並坐、本迹を開かんのみと。小躍りもしたい一節ではないか。

10行終わりから、章安灌頂というが、もちろん『法華玄義
12行「御書」とは言うまでもなく『四信五品抄』である。
この部分は当抄の脈絡では玄に続き、引用される『法華玄義釋籤』の「出法華文心辦諸教所以」が略されるが、特に深い意味はないだろう。

― (40) につづく ―




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