2018年 9月 の投稿一覧

「希望の源泉」(27)(結合は善・分断は悪)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 27 回は、悪は 「善の炎」 のための薪となる であります。 池田 SGI 会長の 『法華経の智慧』 をめぐる語らい、「提婆達多品」 の章の続きです。 (第三文明・2018/10月・53P)

 悪を 「善知識」 として活かしていく
 「提婆達多品」 には、釈尊が成仏したのは 「皆な提婆達多の善知識に因(よ)るが故なり」(法華経・424P) と説かれています。 すなわち、反面教師として提婆達多がいなければ、釈尊も仏にはなれなかったと言うことです。 (反面教師 … 悪い見本として、反省や戒めの材料となる人物や事柄)

 佐藤 優  はい。 善悪を固定的に捉えず、究極的には 「善悪不二」 なのだと捉える法華経らしい視座ですね。 ただし、提婆達多的な悪が 「善知識」(人々を成仏の道に導いてくれる人) として活かされるためには、その悪と戦い抜くことが前提条件となる、と池田会長は言われていますね。
 「釈尊が提婆達多に勝ったからこそ、提婆の 『悪』 が釈尊の 『善』 を証明することになった。 悪に負けてしまえば、提婆が善知識であったとは、とても言えない。……
 悪もまた善を顕す働きをするのであれば、悪の全体がそのまま善になります。 まさに善悪不二です。 しかし、自然のままに放置していて、悪が善になるのではない。 悪と戦い、完膚なきまで打ち勝って、初めて善悪不二となるのです。
 その意味で、提婆品の 『悪人成仏』 とは、釈尊による 『善の勝利』 の偉大な証明です。 勝利宣言です。 その 『勝者』 の境涯の高みに立って初めて、提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれたのだと言えるのです」
 (法華経の智慧3巻・101~102P)
 まさに、深い次元において提婆達多は反面教師であったわけですね。 そして、古代インドにおいてこれほど深遠な 「善と悪の哲学」 が生まれていたことに、あらためて驚かされます。

 しかも、“提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれた” と、すなわち過去世においては、釈尊の師匠であったと、また 「本地は文殊なり」(744P) と初めて聞いたときの拙は、驚きばかりであった。

 池田先生は、提婆達多も、生命の真実の姿においては、善悪不二です。 無明と法性が一体の妙法の当体です。 釈尊が師とした過去世の提婆達多とは、じつは、妙法そのものだったと言えるのです。
 ゆえに大聖人は 「提婆は妙法蓮華経の別名なり 過去の時に阿私仙人なり 阿私仙人とは妙法の異名なり」(744P) と仰せです。 釈尊も根源の妙法を師として成仏しました。 そのことを提婆品では、釈尊が過去世に阿私仙人を師匠として修業し、成仏したという表現で示したと考えられます。………
 悪知識をも善知識に変えるのが妙法の力であり、苦悩をも喜びに変え、追い風に変えるのが信心の一念の力です。 提婆品は、このことを教えているのです、
と指導されています。 (同書3巻・102~103P)

 ――  日蓮大聖人も、自らを迫害した極楽寺良観(忍性)や平左衛門尉らのことを 「日蓮が仏にならん第一のかたうど(方人)」(917P) つまり 「味方(方人)」 であり 「善知識」 であったと述べています。

 佐藤  それもまた、日蓮大聖人が迫害者に勝利されたからこそそう言えるわけです。 そのことについて池田会長は、次のように語られています。
 「御本仏を迫害した 『悪』 の存在をも 『善』 に変えてしまわれた。 実際、大聖人や釈尊のそういう戦いの模範があったからこそ、後世の私どもは 『正道』 がどこにあるか分かる。 その意味で、提婆も平左衛門尉たちも、反面教師として、後世に 『善の道』 を示してくれている、と言えるでしょう。
 創価学会も、ありとあらゆる迫害・弾圧・策謀に全部、打ち勝ってきました。 その戦いによって、皆の信心が深まり、強くなった。 難もなく、簡単に広宣流布ができたら、鍛えの場がなく、成仏する修行の場がなくなってしまう。 ……  一切の悪を、善の炎がいや増して燃えさかるための薪(たきぎ)としていくのです」
 (同書3巻・104P)
 「悪を 『善の炎』 のための薪としていく」 とは、含蓄深い言葉ですね。 実際、池田会長は自らを迫害した日蓮正宗宗門を 「薪」 とし、勝利することによって、創価学会の世界宗教化に向けて飛翔(ひしょう)されたのだと思います。

 第二次宗門事件が発生した時、“破門されたし、もう関係ないのですだから、放っておけばいいじゃないか” という声も一部にはあったようだが、悪とは徹底的に戦わなければならないのである。
 そのことを牧口先生は、例えば “電車のレールの上に石を置く。 これは悪です。 一方、それを見ながら放置した人がいるとする。 この人は、悪いことはしていないが、善いこともしなかった。 その結果、電車が転覆したならば、悪いことをしたのと同じである” と。 すなわち、「善いことをしないのは、悪いことをするのと同じ」 「悪と戦わないのは、悪をなすのと同じ」 だと、強く指導されています。

 人々を結合させる 「善の力」
 善と悪を見分ける基準について、池田会長が結論的に述べた次のようなくだりがあります。
 「善と悪については古今東西、さまざまな哲学的議論がある。 それをたどることは今はしないが、ともかく 『生命こそ目的であり、生命を手段にしてはいけない』。
 これが大前提です。 その尊極の生命をより豊かにし、より輝かせるのが善。 生命を委縮させ、手段にするのが悪と言えるでしょう。
 また、『結合は善』 『分断は悪』 です。
 ゆえに最高善は、人々の仏界を開くことであり、人々の善意を結びつけることです。 仏法を基調とした平和・文化・教育の運動、すなわち広宣流布の運動こそ最高善なのです。 この行動を持続するためには、悪をも善の一部にしていく 『善悪不二』 のダイナミックな実践が必要なのです」
 (同書3巻・111~112P)

 「結合は善」 「分断は悪」 という言葉を、創価学会/SGI は、異なる世界、異なる立場の人々を、信仰の力によって 「結合」 させる役割を果たしてきました。
 例えば、アメリカは多民族国家であるが、いまだ人種差別問題は解決できていません。その様ななかでも、創価学会の座談会等では、白人と黒人の メンバーが和気あいあいと会合に集ってきています。 創価学会の世界では、時代に先駆けて人種の壁が崩され、「結合は善」 の姿がすでに出現できています。
 来年は、地方統一選と参院選があります。 公明党の 「軽減税率」 の政策について、佐藤氏が述べていますので、ご参照ください。 

 佐藤  また、創価学会が支持母体である公明党の政策にも、「社会の分断を避け、結合に向かわしめる」 という志向性が、常に感じられます。
 一例を挙げれば、消費税が10%になると同時の導入が決定している 「軽減税率」 です。 公明党の強い主張で決定されたものですが、他の政党や有識者の中には、現金給付と所得税などとの還付を組み合わせた 「給付付き税額控除」 のほうがいい、と主張する人たちがいました。
 それに対し、公明党は断固として軽減税率導入を推し進めたわけです。 その理由の一つは、「還付金にしてしまうと社会の分断を招くから」 だと私は考えます。 「所得いくら以下の世帯には還付金を出す」 という形だと、もらう世帯ともらわない世帯の間に分断が生じてしまうのです。 一方、軽減税率ならすべての世帯が対象になるので、分断を招かないわけです。
 そのように、公明党の政策にも、「結合は善、分断は悪」 という池田思想が反映されているのです。 それは同時に、先ほどの引用の前段部分、「生命こそ目的であり、生命を手段にしてはならない」 という池田思想を、公明党も根底に据えているからでもあります。

沖縄県の新知事は玉城氏に決定。公明創価にとっては色々と敗北ですな。

沖縄県知事選の結果が出た。どうやらデニー玉城氏が当確のようだ。

沖縄知事に玉城氏が当選確実

小泉進次郎や小池百合子の人気者の応援も虚しく
自公、維新・希望が推薦した佐喜真氏は落選となった。
数千人といわれた県外の学会員の干渉も
沖縄県民の民意はやはり「辺野古反対」を選択したということだろう。
政府はそれでも裁判したり振興予算を減らしたりしてくるだろうが
民意を軽視するならば大きなしっぺ返しを喰らうことだろう。

さて、「世界平和」「民衆主義」などといいつつ
今回の県知事選に干渉した創価にとってこの敗北は大きな痛手だと思う。
創価型選挙は最早現代では通用しないということ。
このままいけば、早晩公明党も自民党から見限られることだだろう。
自民党にとって欲しいのは「学会員票」であって「公明党」ではない。
むしろ「公明党」なんて邪魔なだけだろう。

また今回創価本部の支持を無視して玉城氏に投票した学会員さんも多かったろう。
佐喜真氏が勝っていればそうでもないと思っていたけど
玉城氏の勝利はそうした学会員さん達を組織は益々「反逆者」扱いすだろう。
「お前たちが裏切ったから負けた」そんな雰囲気になるのは必然だと思う。
除名者や退会者も現れるのではないだろうか。
「分断は悪」「組織を破壊すすのは敵」そんな考えの患部は、
玉城氏を応援した会員さんを組織内で追い込むようなことをしてくる。
たかが「選挙」で創価の組織も分断されるわけである。
その姿はまさしく「権力」という第六天魔に魅入られた増上慢の姿であり
謗法国土の創価学会に起きた自界叛逆難の現証である。
これが戒壇大御本尊を捨てた創価の姿である。
これが創価ルネッサンスの成れの果てある。

◆かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし(種種御振舞御書)

沖縄県の学会員さんを始めとする全国の心ある学会員さんには
はやく創価の今の姿を見破り真実の大聖人仏法への信仰を取り戻して欲しいと願う。

少なくても、もう公明党にかかわらない方がいい。
選挙は断じて「信心」なんかではない。
誰かに頼まれて投票するのでない自分の意思で投票するものだ。
そんな当たり前のことに気づいて欲しいわけだ。
ただ、今回創価の決定に従わず自分の意思で投票された学会員さんはいたことは
驚きとともに心から称賛する。
俺は沖縄県のことは正直何がいいのか分からないが
創価本部という自分のいる組織に反抗してまで
投票した学会員さんが指示した候補が勝利したことは
ある意味で信用できるし嬉しくも思う。それが民意だったと素直に思える。


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梵我一如様への返信

まず初めにこの記事に書かれていることは
私の個人的に感じたことで何の根拠もございません。
あくまで私個人が感じたことにすぎません。
よって妄想と一蹴されても当然でしょう。
しかし私がこのように感じたことは事実です。

さて、昨日梵我一如様から頂いた質問コメントは
実をいうと一度記事にしようと思っていたことなんです。
なぜなら私自身が池田大作の「魔力」というものを
学会員だった間常に感じていました。
本当に何も根拠がありませんが
常に心の奥底から池田創価学会に支配されている、そういう感じです。
何度か記事にも書きましたが、物心がついた時から信仰の部分ではなく
創価学会や池田大作に対して何かはわかりませんが違和感を覚えておりました。
以前にも書きましたが、恐らくは聖教新聞の影響でしょう。
あの新聞の悪口は、いまから思えば創価学会に対して
生理的嫌悪感を抱くのに十分でしたね。
そればかりではなくやたら「報恩」やら「子弟」やらを強調する。
「組織から離れると功徳がない」云々、
それを聖教新聞紙上では非常に偉そうに上から目線で攻撃的な口調で載せていましたので。
いかにも池田大作が「オレ(池田大作)と創価学会に逆らうと不幸になるぞ」と
学会員や池田創価学会に批判的な人に対して
恫喝しているような印象を聖教新聞紙上に載っている言葉の奥に感じました。
そう、池田創価学会が口にする「報恩感謝」や「師弟不二」「平和主義」「人道主義」など
その他諸々の美辞麗句の奥に狂気というか何か別の意図、それも悪い意図を感じ取りましたね。
少なくとも池田センセが言う言葉を額面通り受け取ることはありませんでした。
美辞麗句で表の顔は塗り固めてはいるが他者からの批判を徹底的に封じ込め
あまつさえ激しい攻撃を加える、そんな池田創価学会の口から出てくる美辞麗句なんか
誰が信じれますか。表面上はきれいごと言っていても
己の行状の悪さを反省できない人間なんか悪い意図が仮になくとも信用できないですよ。
しかも私が子供のころ、そして活動家時代は創価学会の勢いはすごく
少なくとも実際はどうあれ創価学会は確かに発展していて勢力も拡大一辺倒に見えた時代です。
自民党と連立を組み小さいながらも創価学会の組織票とキャスティングボードを握っている立場を
巧妙に使い与党自民党を手玉に取って創価学会の悪事を闇から闇へと葬り去ろうとしている・・・
創価学会員や世間という表に対しては善良な顔をしつつ
裏では我々が想像もつかないような恐ろしいことをしているのではないか
また公明党が政権第一党になればすなわち自分たちが権力を握って
他者よりも優位な立場になれば手のひらを返して危険極まりない本性を露わにするのではないかと
常に強い懸念を抱いておりました。
「学会を批判する週刊誌は信用するな」「あんな品のない週刊誌は嘘だ」
「学会を批判すれば週刊誌が売れる、金儲けのために嘘八百を書き連ねて学会を貶めている」
そのように池田創価学会は会員に情報操作をしているのは御存じでしょう。
私は二割が学会の言うことを信じておりましたが
八割以上は週刊誌は実をいうと本当のことを書いているのではないかと
勿論週刊誌のすべてを信じていたわけではありませんが
週刊誌の学会批判の九割以上は正しいのではないのかと考えておりました。
そんな週刊誌の記事になるような黒い意図を
そんな公明党の勢いもちょうどピークのころでした。
ヒトラーやスターリン、毛沢東というかそれら有名独裁者の政権下に生きたわけじゃないので
あまり比喩としては適切かどうかはわかりませんが
池田創価学会と公明党が権力を握ることに対する不安は
ヒトラーやスターリン毛沢東よりももっと根源的な心の奥底から恐怖を感じましたね。
勿論直接的には幹部から脅迫されたとかそんなものはないですよ。
しかし創価公明党に感じた異常とも思える恐怖はつまるところ池田大作への恐怖でした。
そしてその恐怖は「池田大作に心の奥底まで支配されている」ような感じからくるものでした。
常に心の奥底まで監視され行動を制限されているような感じ、勿論根拠はございませんけどね。
学生部のころは「こんな創価学会で活動して大丈夫だろうか」
「何か自分は恐ろしいことに手を貸してしまっているのではないであろうか」
「日蓮大聖人様は正しい、それを正しく実践している創価学会での信心も正しい
しかし・・・創価学会はその正しさを悪用して学会員を自由自在に操っているだけではないのか」
と一分一秒が自問自答の日々でした。
「大聖人仏法を正しく行じたい、しかし大聖人仏法を正しく行ずることは
即創価学会を大きくすることに等しく
そしてその創価学会をほんの少しでも大きくすることに手を貸してしまえば
後々に日本という国に非常に大きな禍根を残してしまうのではないか」と。
また創価学会は社会的な評判が悪かったので友人を学会に入会させてしまえば
大聖人仏法で幸せになってほしいと願う反面友人を不幸にしてしまうのではないかと。
大聖人仏法の折伏行は正しい、
でも池田創価学会に搾取される人間を一人でも増やしたくはない・・・
学会の活動家ながら創価学会を大きくしたくない、むしろ滅んでほしい。
しかし創価学会が滅べば大聖人の仏法も滅んでしまう。
以前にもほんの少し書きましたがそんな思いで非常にジレンマに苛まれましたね。
学生部を卒業し、男子部となり活動から身を引きましたが
学会に対する懸念は消えませんでした。
創価学会という宗教団体が国政に影響力を行使することへの反発。
その他もろもろの創価学会に対する嫌悪感、
特に池田大作に対する嫌悪感は半端なかったです。
しかしある時そんな「池田大作に支配されている」感が
ふと小さくなっている自分に気づきました。
なぜか、自分でも自問自答しましたがその答えは簡単に見つかりました。
その直前に池田センセが本幹に姿を見せなくなったのです。
池田センセが出てこない本幹を見て疑問に思いました。
学会幹部は「池田先生は創価学会の全てを弟子の我々に託された」と言いましたが
ピンときたものがあって池田センセの身に何かが起こったんだと。
それからですかね、創価学会というものを徐々に冷静に見ることができだした。
そして後々学会を冷静に見ることができたのは
池田爺が公の場から姿を消したことによって池田大作の魔力が弱まったんだと。
やっぱり創価学会で一番悪い奴は池田だったんだと。
その他の執行部は池田に脅されて、いた仕方がなく従っていただけなんだと。
のちにその執行部もおかしいことが判明したのですがね。
まっ、こうして徐々に池田創価学会の魔力の低下で
池田大作や創価学会を批判する記事を徐々に
「あれ(週刊誌の記事や脱会者の証言)はやっぱり正しかったんだ
やっぱり池田大作は会員の見えないところで悪いことをしていたんだ」ということを
受け入れつつあった時に学会に対する疑問をインターネットで調べるうちに
創価学会が会則を変更したことを知り、そしてその会則変更が
以前学会が日蓮正宗総本山、大石寺の奉安堂にご安置されている
日蓮大聖人出世の本懐として本門戒壇の大御本尊様を信じていたこと
そして半年前にそれを受持の対象にしないことを合わせて知り
創価学会という団体が完全に間違いだったことを確信して
私は脱会いたしました。

このように思い、経緯で脱会し今は日蓮正宗へ帰依したので
池田大作の魔力は徐々に弱まり脱会者が増えるだろうと私は考えております。
以前慧妙にも同様のことが書いてありましたが
あれは本当にその通りだと思わず強く相槌を打ったものです。
池田センセがこの世から去ることによって
多くの学会員たちが目を覚ましていただけるとありがたいでしょうが
それでも洗脳が解けない人もいるでしょう。
恐らく創価学会が小さくなることはあってもなくなることはないでしょうね。
戦前の国柱会も全く影響力はないとはいえいまだ存在しますからね。
オウムに至っては息を吹き返しつつあるようです。
なのでこちらが一人でも正しい三宝様に
帰依できるように折伏していかなければいけませんね。
これが梵我一如様の質問コメントに対する私なりの回答です。
駄文、乱文失礼しました。



玉城デニー氏の当選への素直な個人的感想(消す記事)

☆勝利者のいない沖縄. 玉城デニ―氏が当選確実となった。 この玉城氏の勝利は、戦前の予測の通りです。 しかしこれが沖縄の勝利とは私は思いません。 玉城氏の政策実現はできないでしょう。 辺野古移転は阻止できるかもしれないが、普天間の問題は解決されない。 それが沖縄の主張であるなら、それが今の県民の判断です。 ただし、日本全体の判断は違う。だから平行線になります。 この沖縄の与党の敗戦は、...

日蓮仏法は因果応報を否定している

一般的には、仏教は因果応報を説くと考えられています。

これは、今世の幸不幸は過去世の宿業で決まっているという考え方です。

しかし日蓮仏法では「宿命転換」といって、この一般的な因果論を否定しています。



因果論の最大の欠点は、

「不幸な人は過去世の行いが悪かったのだから、自業自得であり、助ける必要などない」

という結論に落ち着いてしまうことです。



因果論では、過去世の罪を償うには今世で苦しむしかないと考えます。

だから、不幸な人を「助けてはいけない」のです。

苦しまなければ、いつまでたっても宿業が消えないからです。



病気も貧困も差別も、全て本人の責任であり、同情の余地は一切ありません。

もちろん福祉は全廃しなくてはいけません。

目の前で死にかけている人がいても、それは運命なのだから、助けてはいけません。

因果論とは、究極の自己責任主義なのです。



…しかし、生まれながらにハンディを負っていたり、災害で突然財産を失ったりすることは、どう考えても、本人の落ち度ではありませんよね?

社会的弱者の大半は、本人の努力ではどうにもならない要因によって、弱者に追いやられています。

今回のコロナ不況や豪雨被害でも、それは明白です。

つまり、いつ誰が同じ立場になっても、不思議ではありません。

「万一のために保険に入っていなかったのだから自己責任」

という考え方もありますが、そもそもいまどきのワーキングプアに十分な保険をかける余裕などありません。

因果論を基盤とした社会は、徹底した弱者切り捨て・格差推進主義になってしまいます。

「因果応報は、危険思想」なのです。



日蓮大聖人は、あくまで「破折のために」因果応報を説かれています。

本因妙抄では、方便権教は「因果異性(いしょう)の宗」、法華文底は「因果一念の宗」と明確に区別され、因果異性があくまで迹の教えにすぎないことが強調されています。

法華文底の因果一念、すなわち宿命転換の極理に達したなら、宿命の奴隷である爾前経の因果論はもはや用済みであり、捨てなくてはいけません。

しかし、学会員の中にも、これを正しく理解していない人が多いことは残念です。

因果論では、不幸は全て自己責任ですから、激励など一切不要になってしまいます。

指導が全て「説教」になってしまうのも、「罪深い」同志を心の中で見下しているからです。

因果論に縛られていれば、口で法華経を唱えても、実際には爾前を行じていることになり、かえって堕地獄の因になります。

信心に励むことで、かえって傲慢で冷酷な人間になってしまうのです。



仏法には「願兼於業」という思想があります。衆生を救済するため、菩薩があえて宿業を背負い、不幸な身の上に生まれてくるという考え方です。

すなわち、一切の宿業は「仮の宿業」なのです。それを「思い出す」ことこそが、宿命転換なのです。

あなたには、何の罪もありません。

何の罪もないあなたや同志が、理不尽に苦しまなければならない理由など、本来、どこにもありません!

だからこそ、同志はどこまでも温かく支え合っていくべきなのです。

あなたや同志を苦しめる天魔に対しては、どこまでも怒りを燃やしていくのです。また、あなたたちを守ろうとしない梵天帝釈にも、厳しく雷を落としていくのです。



牧口先生は、子供の幸福のために人生を捧げ尽くした結果、牢獄で飢え死にさせられました。…それも、自己責任なのでしょうか?

これほどの理不尽に怒りを覚えなかったら、もはや人間ではないでしょう。

御本尊には、提婆達多すら記されています。一閻浮提第一の悪人でさえ憐み、最後まで見捨てないのが、法華経の精神です。

三千大千世界に、不幸になって当然の衆生など、1人も存在しないのです。








一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし

御義口伝


『本迹体一抄』を読む(24)悉随他易:二ヶの得意①/其教門難信難解


― (23) よりつづく ―

〔10裏2行1字~末〕
02十九帋又迹門菩薩○悉随他意易行易解云々 此重又二ヶ
03得意アリニハ在世教観難易 二ニハ像末相対難易也 初
04者此[尺/日]云 其教门難信難解者於一仏所説尓前諸經ニハ
05二乗闡提未来永不成仏 教主尊始成正覚2シテ1
06法ヶ經迹本二门壊レリ2彼二説1云々 随他意随情丿同心
07尓前ニハ随機情2不説二ヶ骨髄迹门ニテ二乗不成仏人情ヤフリ
08本门始成近情ヤフレハ無失1本迹二门レタルハ二種倶実トモ
09畢竟住一乗純円トモ丿也 十法界抄丿 迹门二乗未断見思
10迹門菩薩未断2無明1○迷ヘリ2於寿量品久遠円仏非長非短
〔11表1行1字~3行10字〕
01不二之義1○是以至2本門1則於尓前迹门加随他意
02又摂天人修1云々 随他意寿量品如来誠
03語三語スルサシ玉ヘル
(筆字原文翻刻責在犀角独歩)

先(23)に4本門の三証の③本門寿量の本尊正体を談じるが、特に断りなく、「迹門菩薩」と迹門に戻り、『観心本尊抄』11裏3行「悉随他意易信易解」に充てる。この前文は「迹門並前四味無量義経涅槃経等三説」であるが殊に「迹門」を採る。

ここで「二ヶの得意あり」として
①在世の教観の難易
②像末相対の難易
といい、10裏3行「初の義とは」は①在世の教観の難易を談ず。

ここで「此書初」即ち『観心本尊抄』2表15行から2裏1行「其教門難信難解者於一仏所説爾前諸経二乗闡提未来永不成仏」さらに続く「教主釈尊始成正覚 来至法華経迹本二門壊彼二説」を引く。

二乗不成仏の人情、始成の近情を壊れば、「畢竟住一乗の純円」と談じる。

次に『十法界抄』(十法界事)を引き、次に「随他意の釈、寿量品の疏に如来誠諦之語の語字に付て三語を釈する処をさし給へるなり」と談じる。

― (25) につづく ―




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