2018年 7月 の投稿一覧

もう何でもアリですな

この前話し合った婦人部壮年部の人に
「なんで創価学会をやめたの」との問いに
「学会は2014年の11月8日に
戒壇の大御本尊様を受持の対象にしないと聖教新聞で宣言しましたよね。」
そこにいた全員が失笑して半笑いして
壮年部の人「オレら学会はもうおそんなものにはこだわってないのよ」
婦人部の人「私は(戒壇の大御本尊様を)信じているよ」
信じているの?それともこだわっていないの?もうバラバラでんなあ。
ちなみにオレの母親は創価学会が大御本尊様を受持の対象から外したことを知らないし
オレが何度も証拠を見せようとしてもみようとしない。
酷いのはもう一人母親の友人で圏婦人部長をしている人は
学会宅に配布されているあの日寛書写本尊、
いわゆるニセ本尊こそ戒壇の大御本尊だと言い切った。
「じゃあ何よ、破門前に行っていたことは全部間違いか」と問うと
婦人部の人は躊躇しながらも「うんそう、間違い」とまでいいよった。
もうむちゃくちゃ、何が何でも創価学会が正しいと思えたらそれでええんかいや。
そう、彼らはとにかく「創価学会は素晴らしい」
「自分たちには一切間違いがない」と思うことができれば何でもいいんだよ。

何せキリスト教信者の某作家におだて上げられて喜んじゃってんだからな。
正直処置なしだよ。よくもこんないい加減な学会なんか信じれるわ、逆に感心するぜ。

話しは変わるが俺が学会を脱会したのは
なぜかあの除名3人組にたぶらかされたからだと思われていた。
ということはあの3人組ももしかして「日顕宗」の手の者と思い込んでいるかもしれん。
あ~あ、完全に洗脳されてしまっているよな。
毒気深入失本心故、ほとんど無理ゲーとお思いつつもそれでもあきらめきれず
いかにこの悩乱しきった人たちの頑迷な謗法根性を打ち砕くか悩ましや。




中華大学池田先生に名誉教授称号

7/31
今日の一面

台湾 科学技術都市・新竹
最先端の総合学府 中華大学
池田先生に第1号の名誉教授称号
劉学長が来日し 創価大学で授与式
授与の辞
生命尊厳の哲学と人道精神で
平和への道を示す功績を讃え

池田大作という人物は、
学問的に素晴らしい研究材料なんではないか、と思う。

その生い立ちや、
カネ集めの妙、人心掌握術、
名誉何とか号の取得方法など、

奥ゆかしさゆえ、謙遜されて、
書いてる様な今までの自伝的なやつではなく、

真実に沿った、ハウトゥ本などが、
出版されれば、きっと、
真のベストセラーになると思う...。


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小説「新・人間革命」 誓願 106

小説「新・人間革命」  誓願 106 法悟空  内田健一郎 画 (6436) 1974年(昭和49年)、山本伸一は、ブラジルを訪問する予定であった。しかし、学会に対する誤解(ごかい)などがもとでビザが発給されず、...

わが友に贈る

2018年7月31日「心の師とは・なるとも 心を師とせざれ」 我らは揺れ動く心を律し 幸福へとリードできる。 これが信心の醍醐味だ!

『本迹体一抄』を読む(3) 1裏①

― (2) からつづく ―

〔1裏1行8字~9行11字まで〕
記云 虚空理也 本迹事也 事有本迹1理無
早晩惑者迷┌迹化菩薩理而暗本迹1 故犱2シテ近迹12遠本1
迹尚迷ヘリ不思┌題目議一ヲヤ本之弟子┌本化菩薩2虚空1 本地
之师2タリ虚空1 今之师弟┌垂迹2虚空1久空今空下空
上空雖2即体一1也ト弟子ヨリ2近迹1今之弟子
猶迷2遠本1云々 久空今空下空上空雖即体一尊上行
知見也云々 一 サラ沙羅四見皆機見不同也 寿量品
云一身即是 脱字 三身ニシテ一不當知一佛身即具2諸身壽命
功徳12感見1長短不同云々

先には『法華文句』を挙げ、次いで、湛然『文句記』を挙げる。長い引用だが、ここから相伝とするのは「久空今空下空上空雖即体一」に就き「尊上行知見也」ばかりであるが、ここは重要である。

法華の会座で六万恒沙の菩薩が出現すると、弥勒菩薩は「不識一人」という。

当抄12紙の記述になるが、「仏意内証本地五八」とある。今般印度応誕の五時八教の説法は、久遠本地の実は垂迹であるという。つまり、法華経の説法は久遠にもあったとするが、その時ですら「不識一人」であることが暗示される。

日蓮の教学として五重相対が言われる。四重興廃に基づくが、その五は教観相対である。この教は昔(爾前)と法華を併せて言うが、教観相対の主意は、法華の、本迹と観心の相対である。

日蓮教学は天台学に対しては本門立てといちおうは言われるが、実は観心にこそ本義がある。故に『観心本尊抄』を著す。この観心を立てることから日蓮は恵心流の系譜と知られる。

四重興廃島地大等が『日本仏教教学史』で「檀那流では本迹二門の外に更にこれより勝れた法門はなしとするのに反し、惠心流では更に一流の超過の法門ありとなす。謂はゆる觀心の重である。檀那流の解釋によれば、本迹二門の教相さながらに主觀に體驗することを觀心と云ふので、觀心は即ち直感するものであるが本迹二門は之を抽象した結果に過ぎぬ。即ち客觀的に表現するか主觀的に體驗するかの區別に過ぎないからして、本迹二門の教理以上に別に觀心なるものあることなしと主張するのである。然るに惠心流では、本迹二門は畢竟教用に過ぎぬ、隨つて此の二門を超えて觀心の境地なかる可からず、此の境地が謂はゆる天眞獨朗の觀法である」という。つまり、日蓮門下でいう教観相対とは、日蓮教学ではなく恵心流の教学なのだ。

では、日蓮は、といえば、この観心を不思議一を題目と見、妙法蓮華経五字を五重玄で配当し、久遠法華本迹の説法でも「不識一人」とされる地涌菩薩の教化は題目にありとし、久遠法華説法より已前とする。つまりは久遠法華本迹をも迹とし、久遠五百塵点劫の顕本に、五大五字覚知の仏陀と初発心弟子との知見をいう。

初歩的な話になるが、『観心本尊抄』の文の説明に引かれる経釈は当てずっぽうではない。
日蓮が『観心本尊抄』の底意を教示するにあたり示した経釈であり、それを基に、さらに日蓮独歩の解釈を相伝した、と見るべきである。受けたのは日朗である。
そして、その相伝を日印に日蓮七回忌を期し、相伝して、筆を取らせたのが、この『本迹体一抄』である。

なお、日朗から日印への密教相伝は最末、署名花押を認める直前に記されてある。
この連載の最後に記すこととしよう。
― つづく ―




・翻刻『本迹体一抄』(異体字・現代表記 合本)の匿名での購入⇒ CLICK

『本迹体一抄』を読む(3) 1裏①

― (2) からつづく ―

〔1裏1行8字~9行11字まで〕
記云 虚空理也 本迹事也 事有本迹1理無
早晩惑者迷┌迹化菩薩理而暗本迹1 故犱2シテ近迹12遠本1
迹尚迷ヘリ不思┌題目議一ヲヤ本之弟子┌本化菩薩2虚空1 本地
之师2タリ虚空1 今之师弟┌垂迹2虚空1久空今空下空
上空雖2即体一1也ト弟子ヨリ2近迹1今之弟子
猶迷2遠本1云々 久空今空下空上空雖即体一尊上行
知見也云々 一 サラ沙羅四見皆機見不同也 寿量品
云一身即是 脱字 三身ニシテ一不當知一佛身即具2諸身壽命
功徳12感見1長短不同云々

先には『法華文句』を挙げ、次いで、湛然『文句記』を挙げる。長い引用だが、ここから相伝とするのは「久空今空下空上空雖即体一」に就き「尊上行知見也」ばかりであるが、ここは重要である。

法華の会座で六万恒沙の菩薩が出現すると、弥勒菩薩は「不識一人」という。

当抄12紙の記述になるが、「仏意内証本地五八」とある。今般印度応誕の五時八教の説法は、久遠本地の実は垂迹であるという。つまり、法華経の説法は久遠にもあったとするが、その時ですら「不識一人」であることが暗示される。

日蓮の教学として五重相対が言われる。四重興廃に基づくが、その五は教観相対である。この教は昔(爾前)と法華を併せて言うが、教観相対の主意は、法華の、本迹と観心の相対である。

日蓮教学は天台学に対しては本門立てといちおうは言われるが、実は観心にこそ本義がある。故に『観心本尊抄』を著す。この観心を立てることから日蓮は恵心流の系譜と知られる。

四重興廃島地大等が『日本仏教教学史』で「檀那流では本迹二門の外に更にこれより勝れた法門はなしとするのに反し、惠心流では更に一流の超過の法門ありとなす。謂はゆる觀心の重である。檀那流の解釋によれば、本迹二門の教相さながらに主觀に體驗することを觀心と云ふので、觀心は即ち直感するものであるが本迹二門は之を抽象した結果に過ぎぬ。即ち客觀的に表現するか主觀的に體驗するかの區別に過ぎないからして、本迹二門の教理以上に別に觀心なるものあることなしと主張するのである。然るに惠心流では、本迹二門は畢竟教用に過ぎぬ、隨つて此の二門を超えて觀心の境地なかる可からず、此の境地が謂はゆる天眞獨朗の觀法である」という。つまり、日蓮門下でいう教観相対とは、日蓮教学ではなく恵心流の教学なのだ。

では、日蓮は、といえば、この観心を不思議一を題目と見、妙法蓮華経五字を五重玄で配当し、久遠法華本迹の説法でも「不識一人」とされる地涌菩薩の教化は題目にありとし、久遠法華説法より已前とする。つまりは久遠法華本迹をも迹とし、久遠五百塵点劫の顕本に、五大五字覚知の仏陀と初発心弟子との知見をいう。

初歩的な話になるが、『観心本尊抄』の文の説明に引かれる経釈は当てずっぽうではない。
日蓮が『観心本尊抄』の底意を教示するにあたり示した経釈であり、それを基に、さらに日蓮独歩の解釈を相伝した、と見るべきである。受けたのは日朗である。
そして、その相伝を日印に日蓮七回忌を期し、相伝して、筆を取らせたのが、この『本迹体一抄』である。

なお、日朗から日印への密教相伝は最末、署名花押を認める直前に記されてある。
この連載の最後に記すこととしよう。
― つづく ―




・翻刻『本迹体一抄』(異体字・現代表記 合本)の匿名での購入⇒ CLICK

『本迹体一抄』を読む(3) 夫始寂滅道場…②



― (2) からつづく ―

〔1裏1行8字~9行11字まで〕
記云 虚空理也 本迹事也 事有本迹1理無
早晩惑者迷┌迹化菩薩理而暗本迹1 故犱2シテ近迹12遠本1
迹尚迷ヘリ不思┌題目議一ヲヤ本之┌本化菩薩2虚空1 本地
之师2タリ虚空1 今之┌垂迹2虚空1久空今空下空
上空雖2即体一1也トヨリ2近迹1今之
猶迷2遠本1云々 久空今空下空上空雖体一尊上行
知見也云々 一 サラ沙羅四見皆機見不同也 寿量品
云一身即是 脱字 三身ニシテ一不當知一佛身即具2諸身壽命
功徳12感見1長短不同云々

先には『法華文句』を挙げ、次いで、湛然『文句記』を挙げる。長い引用だが、ここから相伝とするのは「久空今空下空上空雖即体一」に就き「尊上行知見也」ばかりであるが、ここは重要である。

法華の会座で六万恒沙の菩薩が出現すると、弥勒菩薩は「不識一人」という。

当抄12紙の記述になるが、「仏意内証本地五八」とある。今般印度応誕の五時八教の説法は、久遠本地の実は垂迹であるという。つまり、法華経の説法は久遠にもあったとするが、その時ですら「不識一人」であることが暗示される。

日蓮の教学として五重相対が言われる。四重興廃に基づくが、その五は教観相対である。この教は昔(爾前)と法華を併せて言うが、教観相対の主意は、法華の、本迹と観心の相対である。

日蓮教学は天台学に対しては本門立てといちおうは言われるが、実は観心にこそ本義がある。故に『観心本尊抄』を著す。この観心を立てることから日蓮は恵心流の系譜と知られる。

四重興廃島地大等が『日本仏教教学史』で「檀那流では本迹二門の外に更にこれより勝れた法門はなしとするのに反し、惠心流では更に一流の超過の法門ありとなす。謂はゆる觀心の重である。檀那流の解釋によれば、本迹二門の教相さながらに主觀に體驗することを觀心と云ふので、觀心は即ち直感するものであるが本迹二門は之を抽象した結果に過ぎぬ。即ち客觀的に表現するか主觀的に體驗するかの區別に過ぎないからして、本迹二門の教理以上に別に觀心なるものあることなしと主張するのである。然るに惠心流では、本迹二門は畢竟教用に過ぎぬ、隨つて此の二門を超えて觀心の境地なかる可からず、此の境地が謂はゆる天眞獨朗の觀法である」という。つまり、日蓮門下でいう教観相対とは、日蓮教学ではなく恵心流の教学なのだ。

では、日蓮は、といえば、この観心を不思議一を題目と見、妙法蓮華経五字を五重玄で配当し、久遠法華本迹の説法でも「不識一人」とされる地涌菩薩の教化は題目にありとし、久遠法華説法より已前とする。つまりは久遠法華本迹をも迹とし、久遠五百塵点劫の顕本に、五大五字覚知の仏陀と初発心弟子との知見をいう。この遠本・不思議一の知見こそ、観心である。

初歩的な話になるが、『観心本尊抄』の文の説明に引かれる経釈は当てずっぽうではない。
日蓮が『観心本尊抄』の底意を教示するにあたり示した経釈であり、それを基に、さらに日蓮独歩の解釈を相伝した、と見るべきである。受けたのは日朗である。
そして、その相伝を日印に日蓮七回忌を期し、相伝して、筆を取らせたのが、この『本迹体一抄』である。

なお、日朗から日印への密教相伝は最末、署名花押を認める直前に記されてある。
この連載の最後に記すこととしよう。
― (4) につづく ―




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戦いの準備が完了しました

☆8月に勝利します! 実家に送ったダンボール箱の写真を以下に添付します。 写真解説「リフォーム工具・資材を詰めたダンボール箱が玄関に置かれている写真です」 正月に帰郷して網戸修理をした記事を以下に添付します。 sokafree.exblog.jp/27930298/ いよいよ夏も盛り、8月がやってきます。 8月の夏休み、かねてより計画していた実家のリフォームを実行します。 ダンボール...