2017年 7月 の投稿一覧

日蓮正宗の拾い話〜小僧さんの体験談〜

http://www.2monkeys.jp/archives/43099972.html


日蓮正宗で検索していると、2chまとめの俺がお坊さんだった頃の話書く」という記事がヒットしたので読みました。
日蓮正宗の本山、大石寺の小僧さんだった方の体験談のようです。
それはそれは恐ろしい体験談で、読みながら恐怖で震えがくるほどでした。
ネット上の話ですから、もちろん真偽の程は分かりませんが、数々のエピソードから信憑性は高いのではと感じました。

日蓮正宗では、子々孫々に信仰を受け継ぐ事が非常に重要な事とされています。
結婚する前、または子供を考える前に、相手の宗教をよく調べないと後から後悔することになります。
私も日蓮正宗がこれほどまで生活や健康、精神までも蝕み、人一人の人生を破壊する恐ろしい宗教だと知っていれば、
結婚については考え直したかもしれません。
ただ子供達はとても可愛いので、それを思うと間違ってはいなかったと納得する事が出来ますが。。

まだ幼い子供のうちは「親は絶対の存在」だと思います。
親に歯向かえば衣食住に影響がある場合もあり得ますよね。
この方のようにお母様に強制的に入信させられて、小僧になる事を無理強いさせられた場合に子供の意思で逃げる事は難しいと思います。
もちろん私が日蓮正宗に傾倒していませんので我が家の子供達はそうはならないですが、
時々冗談交じりに「大きくなったら小僧さんにしたら」等と軽々と言われる事があります。
まだ自分の意思や意見を言う事もおぼつかない子供にそんな押し付けをするのは気味が悪く、ゾッとします。。キョロキョロ

日蓮正宗の拾い話〜小僧さんの体験談〜

http://www.2monkeys.jp/archives/43099972.html

日蓮正宗で検索していると、2chまとめの俺がお坊さんだった頃の話書く」という記事がヒットしたので読みました。
日蓮正宗の本山、大石寺の小僧さんだった方の体験談のようです。
それはそれは恐ろしい体験談で、読みながら恐怖で震えがくるほどでした。
ネット上の話ですから、もちろん真偽の程は分かりませんが、数々のエピソードから信憑性は高いのではと感じました。

日蓮正宗では、子々孫々に信仰を受け継ぐ事が非常に重要な事とされています。
結婚する前、または子供を考える前に、相手の宗教をよく調べないと後から後悔することになります。
私も日蓮正宗がこれほどまで生活や健康、精神までも蝕み、人一人の人生を破壊する恐ろしい宗教だと知っていれば、
結婚については考え直したかもしれません。
ただ子供達はとても可愛いので、それを思うと間違ってはいなかったと納得する事が出来ますが。。

まだ幼い子供のうちは「親は絶対の存在」だと思います。
親に歯向かえば衣食住に影響がある場合もあり得ますよね。
この方のようにお母様に強制的に入信させられて、小僧になる事を無理強いさせられた場合に子供の意思で逃げる事は難しいと思います。
もちろん私が日蓮正宗に傾倒していませんので我が家の子供達はそうはならないですが、
時々冗談交じりに「大きくなったら小僧さんにしたら」等と軽々と言われる事があります。
まだ自分の意思や意見を言う事もおぼつかない子供にそんな押し付けをするのは気味が悪く、ゾッとします。。キョロキョロ

印象操作?取り巻きの力を借りるち◯氏

創価ブログ村において、大変に興味深い記事があったので、考察してみたい。

 

先ずは本記事の構成をシンプルに示してみよう。

 

http://tomotiyoo.exblog.jp/28011683

 

第1部 あべひ氏の[四季の励まし]に関する記事の批判

①印象操作の定義を示す

②あべひ氏の記事が、その定義に当てはまることを示す

③印象操作を行うような人間を批判することが正しいことを、他人のブログと戸田会長の引用を元に主張する

④自身の記事に対する賛同をブログ村バナーへのクリックという形で要求

 

第2部 あべひ氏のアメーバなうでの投稿に対する批判

①あべひ氏のコメントの引用

②そのコメントにおける[たくさんの方との議論]に対して反論

③その[たくさんの方]が、創価学会員の中で極一部の創価学会員を虐める方である事を示す

④その極一部の創価学会員のアメーバなうのリンクを貼り付け

 

これは非常に興味深かった。

 

とはいえ、勿論、論の進め方が知的であったからという理由に基づくわけではない。該当記事を読んだ方ならわかると思うが、主張と論拠の関係が不透明であり、おそらく小学校課程における作文指導もあまり受けておられないのだろう( 受けておられたら申し訳ないが、アウトプットはその水準 )

 

ただ、[該当記事執筆者が何が自らの主張の権威づけに役立つと認識しているか]、それが記事からわかるのが興味深いのだ。

 

自らの主張を述べる際、ただ「私はこう思う、それは正しい、なぜなら私がそう思うからだ!」と言っても説得力はない。自らの主張が正しいと理由づけるためには、他人の言を引用するなどして、自らの主張の正当性を高めることが求められる。

 

該当記事執筆者の場合、その引用元は下記だ。

 

①印象操作という心理学的概念

②他人のブログ

③戸田会長の言葉

創価ブログ村における支持

 

順不同になるが、見てみよう。

 

①については、学術的な概念を自らの論に引用するのは、決して非難されるべきではない。過去の膨大な学術的蓄積を参照することにより、眼前の現象を考察することは、洗練された意見を述べるための賢明な方法だ。

また、自分の主張に正当性を付与するためにも、学術的蓄積に依拠することは、有効であるといえよう。

だが、該当記事執筆者は、本当にこの心理学的概念を理解しているのだろうか?

まず、リンクを貼られている参照記事がNAVERまとめである。せめて、心理学の入門書くらいは読んだ上で主張しなければ、むしろ執筆者の不勉強を露呈することになるのではないか?印象操作とは、かなり扱いの厄介な概念であり、容易に他人の主張を印象操作と判ずることは困難だ。それを安易に主張する該当記事執筆者は、俗的に心理学的概念を濫用しすぎでは?と思われる。

(もし参考文献が必要ならば示す)

https://www.amazon.co.jp/恥と自己愛の精神分析-対人恐怖から差別論まで-岡野-憲一郎/dp/4753398099/ref=sr_1_7?ie=UTF8&qid=1501418404&sr=8-7&keywords=情動+精神分析

 

③については、戸田会長の言葉を自らの主張の正当性を誇示することに使うことは、創価学会内でよく見られる常套手段だ。

だが、その戸田会長の言葉から、該当記事執筆者が何を主張したいのか、よくわからない。

教義の論争において、三代会長の言葉を使うことは、少なくとも創価学会内部においては有効だ。

だが、あべひ氏の著作権に関するお伺いコメントの批判のために、戸田会長の言葉を使うことによって、該当記事執筆者が何を言いたいのかよくわからない。「該当記事執筆者があべひ氏を非難する記事を上げたことは、戸田会長の思想から見ても正しい。だから私は正しいのだ!」と言いたいのだろうか?

これは、ほんとうにわからない。

 

さて、②と④については、該当記事執筆者がネット上のコミュニティに大きく依拠していることを示すものだ。

まずは知り合いのブログの引用により、自らの主張に賛同するものが自分だけでないことを示そうとする。

さらに、ランキングバナーを記事上に上げることによって、自らの主張の正しさを数の論理によって示そうとする。

 

つまり、自分と仲のいい人物に自らの主張が正しいと示してもらうことによって、自分は正しいと主張しようとしているのだ。

 

これは該当記事執筆者がよく使う手法だ。

 

自分の論に自信がないのか?直ぐに自分と仲の良い人物に依拠しようとする。それを基に、その時々で自分と対立した人物を非難する。

 

私は該当記事執筆者に反発を覚えている。

それは、該当記事執筆者が大して論理的考察力がないにもかかわらず、自らのコミュニティ動員力で自分に正当性を付与し、場合によっては対立した他人を攻撃することだ。

 

別に他人を非難したいのなら、堂々とやればいい。複数の他者を介することが卑怯なのだ。


その思索過程を、これから徹底的に明らかにしよう。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

 

あべひ先生の弟子としての闘争の再開

先ずは、あべひ先生のブログ執筆のご再開を寿ぎたい。

”だれが創価カテをダメにしたか”

当たり前ではあるが、あべひ先生の舌鋒の鋭さはブランクを一切感じさせなかった。
そして拙もまた、創価系ブログに対するあべひ先生の思いに心を揺さぶられ、戦いの決意を新たにした。

ところで、最近創価ブログ村に大きな変化があった事は、既に多くの方によって指摘されている。
創価学会に否定的な見解を述べるブログ、いわゆる”アンチブログ”が突如現れた「創価学会・批判・告発」カテゴリに有無を言わさず移転させられたのだ。
これを暴挙と非難する声もあるようだが、一定の合理性はあるだろう。あるカテゴリ内があまりに多様性を孕んでしまい、それを細分化するより良い分化方法がある場合、それを分割することは妥当であるともいえる。

しかし、拙が怒りを覚えたのは、拙のブログまでもが「創価学会・批判・告発」カテゴリに移転させられたことだ。

拙のブログがなぜ「創価学会・批判・告発」カテゴリに相応しいとみなされればならないのか?

思うに拙のブログの内容は、以下の2点に大分されていた。

①あべひ先生への賛辞
②ネットを食い物にする学会員への非難

この2点に共通することは、いずれもあべひ先生の弟子としての、拙の精一杯の行動だったということだ。

仮に①が「反・創価」に当たるものだったとしよう。
果たして、あべひ先生を賛嘆することが、なぜ「反・創価」に通ずるのか?そんなことは断じてない。
これまで何度も述べてきているとおり、あべひ先生は、自らの心を憤怒の涙に濡らしながら、創価のために言論闘争を繰り広げてこられた。その行為を称えることが、「反・創価」に通ずることなど絶対にありえない。

また②については、あべひ先生の活動から拙が学んだことだ。
あべひ先生の久々の更新記事「だれが創価カテをダメにしたか」にも書かれているとおり、創価ブログ村をだめにしているのは、アンチブログではない。イベント信仰に熱を燃やし、本末転倒の愚行を続ける創価学会員である。
もしも彼らを弾劾することが「反・創価」だと言うのならば、それは即あべひ先生の否定につながる。拙は弟子として、断じてそんなことはできない。

拙は、ブログを変え、言論闘争を再開することにした。
その場所は勿論、創価ブログ村だ。拙がここから「創価学会・批判・告発」カテゴリに戦いの場を移すことは、あべひ先生の否定につながるからだ。そして、あべひ先生の久々の記事を拝読し、創価ブログ村の改革に闘志を燃やすことを再決意したからだ。

勿論、拙はまだまだ未熟である。
しかし拙は、師を定める眼力だけは自信がある。
ここに、あべひ先生の弟子としての戦いの開始を、高らかに宣言したい。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

 

 

自身の加担した過去の反省。






いつもみなさん、ありがとうございます。





さて創価学会を批判するブログを見て回ると、一つの傾向が感じられます。
それは

「私は創価学会の被害者であり犠牲者だ」
創価学会は加害者だ」
「だから創価学会は非難されて然るべきだ」

という論調です。


どんなことを論じても自由ですけど、私自身はもともと創価学会のバリバリの活動家でした。
ですから私はかつて加害者だったのです。そして私自身は創価学会の組織に則って散々に他宗を非難して口汚く罵ってきました。
私自身が創価学会の偽善を見抜くことができず、大石寺教学の欺瞞にも気づくことができませんでした。
私のブログの記事は、自身がそれらに加担してしまった、創価学会大石寺のような欺瞞の多い教義に加担してしまった、その反省の上から総括の意味で書かれています。



自分が絶対的に正しくて、悪いのは全て他者であるという考え方は、子どもの議論とさして変わらないと私は思います。
私はそのような一部の創価学会大石寺信徒の持つ、一種稚拙な精神構造に与したくないのです。
かつて自身がそうであったことを私は否定しません。だからこそそういった精神構造であったことを痛烈に反省し、自身を総括していきたいのです。


このブログをお読みの方の一人でも多くの方が、誰かを悪者にして自分が犠牲者であると主張する、そういう姿勢から脱却されることを強く願っています。
創価学会大石寺を悪者にして単に非難するだけなら、精神構造的には他宗を悪者扱いする創価学会大石寺の独善的な姿勢となんら変わるところはないと思います。



『立正観抄』の真偽について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は最蓮房宛の書状について、考えてみたいと思います。


ご存知の通り、最蓮房宛の書状には真蹟が現存しません。例えば最蓮房宛と考えられる遺文について書き出してみましょう。



1、『生死一大事血脈抄』(文永9年2月11日)
2、『草木成仏口決』(文永9年2月20日)
3、『最蓮房御返事』(文永9年4月13日)
4、『得受職人功徳法門抄』(文永9年4月15日)
5、『祈禱経送状』(文永10年1月28日)
6、『諸法実相抄』(文永10年5月17日)
7、『当体義抄』(文永10年)
8、『当体義抄送状』(文永10年)
9、『立正観抄』(文永11年)
10、『立正観抄送状』(文永12年2月28日)
11、『当体蓮華抄』(弘安3年8月1日)
12、『十八円満抄』(弘安3年11月3日)



とても不思議なことなのですが、この12編の最蓮房宛とされる書状は真蹟が全く存在しません。曾存もないのです。ここから最蓮房という人物は実在しないという説もありましたが、現在では最蓮房は実在した人物であると一般には考えられています。
その根拠として考えられるのは、わずかに『祈禱経送状』に日像の写本が存在することと、『立正観抄』と『同送状』に久遠寺3世日進の写本が存在することです(正中2年3月)。
ここから考えて、最蓮房宛の一連の書状の中でも『立正観抄』と『祈禱経送状』は比較的信頼性が高い遺文だと言えるでしょう。



ところでこの写本から日蓮滅後44年後に日進が最蓮房の所持本から書写したであろうということが推察できるのですが、いくつか疑問点が浮かび上がってきます。



それはこの身延山久遠寺3世日進と、中山法華経寺3世日祐とが親密な関係にあったことなんですね。
ご存知の通り中山3世の日祐は、中山日常(富木常忍)の命を受け、『本尊聖教録』を遺して日蓮の遺文の整理に勤めた人物ですが、この『本尊聖教録』に記載がないことが大きな疑問点です。



中山日祐は正和3年から毎年のように身延山に参拝しています。また日祐自身は日進に対して「唱導の師」と仰いで、年齢差を越えた親密な間柄を結んでいます。
そのような特別な関係にあった日進が、なぜ日祐に『立正観抄』の写本を見せなかったのか、いささか不可解な部分が残ります。



この部分をクリアすることで、『立正観抄』は日蓮の思想として再評価できる可能性を有しているのですが、その理由がわからないことが私の中では一つのネックになっています。





参考文献:
中條暁秀『最蓮房あて御書の一考察』印度仏教学研究第29号、1980年。







文献を読むということ。








いつもみなさん、ありがとうございます。



さて「なぜ創価学会の会館に図書室がないのか」という疑問を呈していた方がTwitterにありました。
もっともなことで、本来教学の研鑽をしたいなら、組織として文献を揃えて会員に提供するのとは至極当たり前のことかと思います。


まあ大石寺もそうですけど、基本、信徒の方にあまり勉強をさせない、都合の悪いことは知らないでいてもらいたい、そんな感じをどうしても受けてしまいます。


私はこのブログで記事を定期的に投稿していますが、別段無理をしているわけではなく、単に私が知りたいと思っていることについて文献を探しては読み、読んではまた探し、その繰り返しの過程の中でブログを書くということをしているだけなのです。


最近は私へのメールが増えてきたので、私がいつも手元に置いておいて、参考にしている文献類を参考のために書いておきましょう(とはいえ入手困難な文献を集めているわけではありません。文庫版等、比較的容易に入手できるものばかりです・笑)。
私のブログを読んで頂いて本当に感謝をしていますが、同時に様々な文献を読んで思索できる人たちがもっともっと増えたら素晴らしいなぁと私は考えています。



◯堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』創価学会版。
◯堀日亨編『富士宗学要集』全10巻、聖教新聞社
岩本裕・坂本幸男訳注『法華経』(全3分冊)岩波文庫、1962年〜1967年。
創価学会教学部編『妙法蓮華経並開結』創価学会、2002年。
◯西山茂他『本門戒壇論の展開』本化ネットワークセンター、2015年。
◯中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』吉川弘文館、2002年。
◯柳沢宏道『石山本尊の研究(増補版)』はちす文庫、2013年。
中村元『龍樹』講談社学術文庫、2002年。
中村元『原始仏典』ちくま学芸文庫、2011年。
中村元訳『ブッダのことば』(スッタニパータ)岩波文庫1984年。
中村元訳『ブッダ最後の旅』(大パリニッバーナ経)岩波文庫、1980年。
奈良康明釈尊との対話』NHKブックス、1988年。
◯細川巌『龍樹の仏教ちくま学芸文庫、2011年。
◯小谷信千代『真宗の往生論』法蔵館、2015年。
◯西嶋和夫訳『中論』金沢文庫、2006年。
◯小林正博『日蓮大聖人の「御書」を読む(上)法門編』第三文明社、1996年。
◯河合一『日蓮大聖人の「御書」を読む(下)御消息編』第三文明社、1996年。
◯溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年。
宮坂宥勝編『空海コレクション1 』ちくま学芸文庫、2004年。
宮坂宥勝編『空海コレクション2』ちくま学芸文庫、2004年。



…………他にもいろいろありますが、とりあえずこのくらいにしておきます。
何かを書くということは、それなりの文献を読むということであって、私のブログが浅はかであるとするなら、まだまだ読みが足りないということかと思います。
教学を研鑽するということは過去の先人の研究から真摯に学ぶということであって、それを単に真摯にやっていきたいと思っているだけというのが偽らざる自身の心境であります。



逆にそうではなく、文献を読むことを軽視して、自分たちの教団の教義を一方的に強要するような創価学会大石寺信徒の姿勢は、忌むべきものかと私には思えます。