2017年 1月 の投稿一覧

法華経に阿弥陀仏って。




日蓮正宗とか創価学会の方はあまり認めない、というか目を背けていることなのですが、法華経には阿弥陀如来が出てきます。



一つは法華経化城喩品第7です。
実は化城喩品というのは深い内容を語っていて、もっと読まれるべき章節であると私は思っています。そのうちこのブログでも化城喩品についてはきちんと何か書きたいですね。
大通智勝仏の16人の王子たちは如来のもとに赴いて教えを請うのですが、法華経を説いてこの16人を悟りに導いたんですね。で、この16人のうち9番目に現れるのが阿弥陀如来で、最後の16人目が釈迦如来なんです。





もう一つは薬王菩薩本事品第23です。
この品はある意味、読むのに気をつけたい章節ではあります。というのは身を犠牲にして尽くすということが説かれている品だからです。
五体に火をつけて燃やして供養するなんてことが書いてあります。
で、薬王菩薩本事品では法華経を供養する女性は涅槃の後に「阿弥陀仏の安楽世界に直行」すると説かれています。
法華経の功徳がここでは「阿弥陀の安楽世界」なんですね。



ちなみにこの阿弥陀仏の安楽が説かれた薬王菩薩本事品ですが、創価学会としても重要な経文がたくさん出てきますので、この品は無視できない位置にあります。「広宣流布」という語はここで出てきます。広宣流布という語の由来はこの薬王品です。
中山法華経寺の荒業で火の上を歩くというのがありますが、あれはこの薬王品の「火によって焼くことも能わず」という経文を文字通りにやってしまっているわけですね(笑)。ある意味、純粋といえば純粋なのですが、ややファンダメンタルな香りがしてきます。



日蓮が念仏を批判したことは周知のことです。しかしこの化城喩品と薬王品における阿弥陀仏の位置について、きちんと教義的に説明する責任が教団としてはあると思うのですが、そのような誠実さを日蓮正宗創価学会もあまり持ち合わせてはいないようです。




追記:
ところで「広宣流布」の文が出てくるのは薬王品なんですけど、この「広宣流布」は上行菩薩に託されてはいません。ここで広宣流布を託されたのは上行菩薩ではなく、宿王華菩薩です。
ですから、法華経を後に誰が伝えていくのかという問題も、実は日蓮の中できちんと一貫していないんですよ(笑)。
日蓮正宗にせよ創価学会にせよ、とりわけ日蓮系教団はこのような日蓮の思想の限界をきちんと見ようとしません。
しかしながら限界を見定めて初めて本来の日蓮の思想の有効性もわかるのではないのでしょうか。
そもそも最澄を弘教の先駆とする日蓮は、どうしても五時八教が思想的束縛になっていました。その点についてきちんと指摘して、その思想的な限界を指摘する声は日蓮教団からはほとんど出てきません。つまり日蓮を崇め奉るあまりに全てが盲信になってしまっているのです。それこそまさに「日蓮をあしくうやまう」姿だと思うのですけどね。





富木常忍と文書の管理体制。





日蓮系教団に伝わる遺文や典籍を見ると、全体として分散的でなく一部の限られた寺院に集中して保管されているという特徴があります。

その代表的な寺院が中山法華経寺です。



中山法華経寺の初代貫主は常修院日常といい、出家する前の名前は富木常忍として知られています。
彼は下総国の守護を勤める千葉介頼胤の被官であり、典籍や文書の保存管理の知識を持っていたと言われています。中尾尭氏の研究によれば、鎌倉時代から南北朝時代にかけて東国では寺院に限らず武家社会において文書の管理体制が思いの外よく整っていたようです。つまり鎌倉幕府の行政そのものが文書というものを重要視しており、文書の保管ということは武家社会自体の要請であったと考えられます。


文永9年の『立正安国論送状』(立正安国論別状)には「立正安国論の正文、富木殿に候、かきて給ひ候はん。ときとのか、又」と記されています。
つまりここから判断すると、富木常忍のところに『立正安国論』の写本の一本があずけてあったということです。法難もあり、大切な文書が失われてしまうことを回避するために日蓮は写本を富木氏のもとで保管していたわけですね。



中山日常は日蓮真蹟の文書保管とその護持を寺の中心的な任務と考えていまして、永仁7年(1298年)には『日常置文』と『常修院本尊聖教事』を残して84歳で亡くなっています。
当然のことながら、文書の管理体制に関しては日常が亡くなる前に急ごしらえでできたものではなく、実際には当時すでに管理運営されていて、それらを彼が亡くなる前に恒久的な体制として成文化したという判断が正しい理解かと考えられます。



『日常置文』を見ると、遺文の厳格な管理保存を続けていた様子がわかります。
当時は日蓮の法の継承を巡って日蓮門流間の抗争と対立が激化しており、このため日蓮の真蹟遺文や書写本尊の争奪が行われたことは記録に残っています。




つまり重要な書物の保管について、中山日常は厳格に指示を残しており、それらの文書保管の方針については『立正安国論別状』を見る限り、日蓮本人と共通するものだったと考えられます。




翻って考えるに、日蓮正宗大石寺はどうなのかということです。
相伝書の類いは真蹟が全く存在しない。伝えられる写本はほとんどが他山のもので、文書をまともに保管してきたという形跡すら疑われるほどです。
邪推になるやもしれませんが、結局、大石寺の教学というのは、保田妙本寺や京都要法寺に伝わる写本と教義、そして中古天台の口伝を剽窃し、さも日蓮相伝が自山にあると偽装したものであるとしか考えられません。


重要な書物について、日蓮自身は日常に預け、その散逸を回避したわけです。そしてその管理体制は中山法華経寺3世の日祐らに引き継がれ、今日まで多くの真蹟が現存しているという動かし難い事実があります。



私は現在の中山法華経寺の宗義に別に共感しているわけでもありません。しかしながら富士大石寺に何か特別で大切な相伝書が伝わっているとするなら、当然日蓮自身が文書の保管について腐心したであろうことは容易に推察できます。
けれども結果として、相伝書の真蹟が大石寺に何ら存在していないという事実は、大石寺には特別な相伝など存在しないということを雄弁に物語っていると言えるでしょう。



参考文献:
中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』吉川弘文館、2002年。