2016年 10月 の投稿一覧

現証だけで判断するのはどうかと。

現証だけで見るのはどうかと思うんです

でも学会員さんって
そういう視点で他を評価しがちですよね。



例えば
日顕宗に行ったら不幸の連続」とか
「反逆者は顔の如是相に出るのね」とか
邪宗門に入ると不幸な死に方ばかり」とか
なんかすごいことも現場では言います。


日蓮正宗の方にも自分の生活があるわけで
思想の違いだと思うので、
それはそれで認めていくことが大切かと。
いつまでも口汚く罵ってるから
創価学会って評価されないんだと思います。


まあ、それはともかくとして
現証で宗教の正邪を判断するって
どうなんですかね?



要するに
「病気が治った」とか
「経済苦から解放された」とか
「お金が入るようになった」とか
好転するのが正しい宗教で、



「病気になった」とか
「借金を背負った」とか
「お金がどんどん逃げていく」とか
悪化しているのが間違った教えだと
創価学会は考えているようです。




でもね、
長い人生、病気になることもあります
経済苦で悩むこともあります
表面的な一経過を見ただけで、
その方が本当に幸せなのかなんて
判断できないはずですよね




「利根と通力とにはよるべからず」と
唱法華題目抄にあるように
ただのまじないとか
そんなものによってはいけないと
言われていますよね。


四条金吾殿御返事」には以下の
有名な一節がありますね
 

 「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき
苦楽ともに思い合せて
南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、
これあに自受法楽にあらずや」
(学会版御書、1143ページ)


苦しいことも楽しいことも
ともに合わせて題目を唱えていきなさいという
そういう指導ですよね
人生には苦楽が両方ともあるもので、
それを表面的な相から見て
どちらが幸せな人生かなんて
容易に判断なんてつくはずがないです。




日蓮正宗の方でもきっと幸せな生活を
送ってる方はいらっしゃると思いますし、
創価学会の方でも
宿命と戦って
病気で悩んでいる方もいるでしょう
思想の違いはあれど
お互いに幸せになってもらいたいと願うのが
本来の仏教者の精神ではないですかね。



「頼基陳状」という御書の中で
次のような一節があります。
日蓮極楽寺良観について述べた部分です。


「いかがして彼が誑惑の大慢心をたをして
無間地獄の大苦をたすけむと」
(学会版御書、1157ページ)



"なんとかして良観房の慢心を破って
無間の苦しみから彼を救っていきたい"
これが日蓮の心なんじゃないですかね。


自分を否定し、敵対した極楽寺良観房に対し
怨恨の感情など微塵もない
そうではなく、
どうやってこの人を救っていくのかという
慈悲にあふれているではありませんか



創価学会を脱会した方や
日蓮正宗の方が
病気で悩んでいたり
経済苦で苦しんでいたりするのを見て
それを
「仏罰だ」とか「当然の報い」だとか
平気で言える創価学会員さんは
果たしてこの日蓮の心をいかに読むのか
ただしてみたいところです。



そんなことをしていたら
今度は自分が現証から批判されますよ
自分が病気になった時に
自分が苦しんだ時に
本当の苦しみの意味が
わかるんじゃないんですかね



こういう方は創価学会だけでなく
日蓮正宗法華講の方にもいます
お互いにお互いを罵り合って
創価新報と慧妙でやりあって
確執と怨恨が残るだけですよね
そんなのやめましょうよ


創価学会の考える幸福観って
目に見えて健康でお金がある、豊かである
そんな表面的なことなんですかね?
本当の幸せって何なんですかね?
よくそんな質問を学会員さんにすると
「池田先生の弟子として戦える幸せが
最高の幸福だ!」なんて
議論を活動家の方向へと
すり替えられてしまうんですが、


そうではなくて
どういうことが本当の幸せなんですかね
組織の一員として戦うことが幸せですか?
公明党の票を稼ぐことが幸せですか?
では幸せって何ですか?



真摯に敬虔の念を持って
日々祈りを致し
小さな日常に感謝できる
そういう人間になれたことが
私の今の幸せです
この私の幸せは誰も壊すことができません
私の心の中に築いたものですからね



どんな幸せであっても別に構わないんです
でもそれが本当の幸せかって
考えたことがあるかなぁってことです
他の宗教の方が
悩んだり苦しんだりする姿を見て
「現証だ」「仏罰だ」などと罵る人は
果たして本当に幸せな生活を送っていると
言えるのでしょうか
果たしてその人は
「頼基陳状」にあるような
日蓮の心を身に帯した信仰者と
呼ばれるでしょうかね。











本当の一念三千とは。

私が今後書きたいことの
ごく一部を
覚え書き風に書いておきます。
ほとんどの人はよくわからないと思うので
以下から読まないでおくことを推奨します。






さて

一念三千とはソシュール記号論だと思う。

だって
一念に三千があるわけでもないし
三千に一念があるわけでもないんでしょ
どちらが先にあるわけでもない


つまり一念を三千で分析することが
一念三千ではないわけで
三千という数字が大事なわけですらない


これはソシュール記号論でしょう
だって言語記号の内容と記号表示は
どちらが先とは言えず
共起的に起こるんですから。


ソシュールが言った
「言語には
積極的な事項を持たない差異しかない」
との言葉は
非常に一念三千の考えに近いと思います。



そしてソシュールの「差異」という概念は
ナーガールジュナの言う「縁起」でしょうね。
これはソシュール研究家の丸山圭三郎氏が
指摘していたことですけど。



私たちの思想は
常に言語的記号に支配されていて
その中で意味というものを認識するわけです。
意味は最初から存在するものではなく、
言語記号と同時に起こるものですね。
ソシュールシーニュの概念ですけど、
これって天台智顗の一念三千、止観の概念と
非常に近いです。



ソシュールパロール概念について
パロール1とパロール2に分けました。
これは記号の惰性的な使用パロール1と
それを乗り越える創造的な働きパロール2との
二つの側面が言語の使用にあることを
明かしたものです。



私たちの生活は人間の生活であり、
人間の生活である以上、それらは
記号に囲まれ、記号的な意味として
世界を構成しています。
ハイデガー風に言えば
私たちは
常に現生する世界内存在としてでしか
生きられない存在であり、
その世界を捨てることが基本できない。
世界を捨てると
仮面ライダーアマゾンになっちゃいます(笑)
自分の世界を持ってるわけでね。



これらの記号的な世界をそのままに認識し
私たちの世界が記号的な実践の結果に過ぎない
そのことを感じていくのが
「理の一念三千」ですね。


ここに気づいたことから
積極的に記号的な創造活動に入る
このことをパロール2と言いまして
「事の一念三千」とは
このことを包含する理論だと私は考えたい




題目を唱えることは日蓮によれば
末法時における止観の真の修行とされています



仏教が乱れていた鎌倉時代の世にあっては
何が仏の本当の教えであるかわからない
自分たちの生活が所詮意味の集積であり、
その実は縁起の集積でしかない
その実態は空であり、
空とは縁起であり、
関係と記号の差異によって
私たちは意味を感じ取る。
幸福や不幸ですら意味概念であり
その脱却を考えた時に
果たして座禅を組んで禅定に入り
その中で止観を悟ることが
末法衆生にできるのか
そのことに疑問を呈し
新たな修行法を確立したことが
日蓮の意義だったんだと思うんですね。



「愚者多き世となれば止観を先とせず」
とあるように
題目の朗唱によって、記号を空洞化させ
意味の根源に帰る
その根源こそが日蓮にあっては
法華経の法だったのではないかと
私はそう考えています。



総勘文抄、当体義抄は実は
そのような記号的な文脈で読まないと
真意が掴めない御書と考えています。
誰も本当の意味を掴みかねていると思います。
私はそれをやりたいんですね。



結果、うまくいくかもしれないし、
挫折するかもしれません。
でもそれらの言語の迷宮に入り、
言語の持つ記号性を蘇らせる
そのことでしか
日蓮の思想の現代における可能性は
もはや他にはないと考えています。




このことについては
公表をすべきかどうかは
実は決めていません。
見に余る難事業ですから
うまくいかないかもしれないし
誰もわからないかもしれないし
結局やってみて、
やっぱり
自分の間違いに気づくのかもしれません
でもやってみて、それで違ったら
その時は自分の信仰を振り返って
捨てるなり何なりしてみればいい
少なくとも今の創価学会日蓮の教えはないし
今の日蓮正宗にも真の日蓮の教えはない。
だから自分の試みが
自身の信仰を試す機会だと考えています。



なおこの試み、
時間がかかりそうですし、
成功しても公表は躊躇われます
誰もわからなければ公表する意味はないし
私が自分の信仰を
確認する意味でやってるだけですから
間違いだったことに気づいたらなおのこと
公表は躊躇われます
その時はきれいサッパリ
日蓮を捨てないといけないでしょう
でも少なくともやってみて
自分で納得した上でなら
信仰を変えることができるでしょうから。



私の同志たちにいろいろ教わりながら
けれど基本的には私一人で
論文を書いていきたいと考えています。



題目を唱えることは
単に願いを叶えるおまじないではない
「どんな願いも叶うと」とか
わけのわからないことを言っている人を
私は信じません。
題目を唱えることは止観の修行です。
自身のこころに帰り、真の原理に帰る。
そして世界内存在でありながらも
世界との関わり方を見つめ直し
結果として世界を変えていく
そのことこそが本当の
「事の一念三千」なんだと思っています。

























王城会という組織がある

王城会という組織がある。

壮年部員による牙城会みたいなもの。


創価学会の会館の警備とセコムセットのため
会館に着任するのが牙城会、
駐車場整理の警備員が創価班なんだけど、
この牙城会も創価班も男子部が担っている。
けれど昨今の青年部激減により
会館警備が男子部で回せなくなってきた。



まあそこで、健康で時間もある壮年部員で
会館警備の役をできないかと
立ち上げられたのが王城会。
地域によってないところもあったりします
基本、会館警備ですが、
牙城会よりはるかにゆる〜い感じで
着任できる日に着任できる人がついてる
そんな感じ。



まあ思うんですけど、
男子部だけで会館警備を回せないなら
そろそろ創価学会の会館も閉館すべきかと



どうせ維持費もかかってきますし
全ての維持費を賄うのは
そろそろ無理が出てきますよね





「テナント募集」とか貼り紙出しても
お店とか入りたいっていう希望があるかなぁ
たぶんないと思うんですけどね。




会員の集まらない会館から
順次閉館しましょう。
早めにやらないと10年後、20年後
本当に困ることになりますよ
どうせ財務なんて減ってくんですから
学会総体の収入なんていくらか知らないけど
絶対減りますよ
組織に発破かけたって
大して増えませんから
早めに縮小整理の段取りをつけておかないと
信濃町さんとしてはやばいんじゃないっすか?



壮年部員の王城会なんて
ゆる〜いグループでして
自分たちの着任できる都合の良い日に
着任が集中していて
慢性的に着任者不足になってますよ




私はそんなもの、もうやる気はありませんし
散々牙城会でご奉仕させて頂きましたから
表彰もされたのでもう充分です(笑)
私のところだけは
王城会は誘いに来ないでくださいね(笑)
誘われてもやらないけど。















活動家の中の非活動予備軍

◯ネット上の学会批判に対し、何の反論もできない創価学会に苛立ちを覚えるが、自分自身も何も言えない。



◯現在の公明党に不満を持っており支援をしたくないが、組織内で何も言えず、何かを言うと反逆者扱いされるという現実がある。


◯活動家で頑張ってきたのに、活動家になればなるほど、書籍の販売や新聞啓蒙の部数のノルマが重なり、何のための信心なのかわからなくなる。


◯そんな悩みを地域幹部に言うこともできず、結局ネットやSNS等で悩みを告白。結果的にTwitter等のSNSに未活動家、果ては不満を抱える活動家までが集まる結果になっている。



◯池田名誉会長の健康状態を公表しない創価学会に、会員自体が少しずつ懐疑の目を向け出している。同時に教義の改正など、密室政治的な信濃町の決定に疑問を会員が抱き始めている。



……とまあ、そんなわけで
未活動家も増えまして
で、もっと憂慮すべきは
バリバリの活動家の中にも
組織や信濃町に疑問を抱きつつ
組織活動に挺身している人が
少なからずいるということです



つまり活動家の中に
未活動家の予備軍が存在している
けれど未活動家の中には
活動家の予備軍はほとんどいない
それでは組織の未来も希望もない。
一刻も早くこのチキンレースから抜け出す
そのことを考えた方が得策だという
そんな活動家がだんだん出てきました。



要するに
「この選挙終わったら白ゆり長辞めよう」
「次の人事で言われても上には上がらない」
「地区部長だけで手がいっぱい」
「もう支部長やめたい」
「新聞啓蒙に追われたくないし」
「守る会で掃除するのはいいけどさ」
「わざわざノルマとか言われたくない」
そんなことを思いながらやってる人が
たくさんいるってことです。



創価学会の罪深さはそういった悩みを
組織の責任と考えずに
「あなたの心の中にある魔なんです」とか
「三障四魔ですね」とか言って
会員自体の心の問題にすり替えるところです。
これでは純粋な学会員さんは悩みます。
純粋であればあるほど
その方の心が傷つくという結果になる。




青年部が増えれば楽になる
だから「青年拡大」だって?
そんなこと、
もう何年前からやってるのさ?
結局、青年部なんて増えてないじゃない?
大勝利でも何でもない
若年層の会員の獲得に失敗し続け
大敗北し続けていることに
信濃町は総括をしないといけないはずです




なのに創価学会
反省も総括も振り返りもせず、
会員に発破をかけて
年明けの選挙戦に入るんでしょうね




今の創価学会の活動家が減っているのも
青年部が減っているのも
創価学会に魅力がないからです



創価学会に魅力がないのは
信濃町に責任があります。
中央の方針に責任があります
いつまでも何も総括をせず
各地区で工夫しましょうなんて
言ってないで
「私たち学会幹部がいけなかった」って
なぜ言えない?




「私たち学会幹部にこそ責任があります」って
どうして言わないのさ?
それを言うだけだって
地域幹部で純粋に頑張ってる方々には
溜飲の下がる思いがするでしょうに。




何も言わないで
ただ大勝利だ〜大勝利だ〜って
言い続けてきて
その結果、今の組織の疲弊があるんでしょ。
信濃町は本当に地区の幹部とかに
感謝の気持ちを持ってるんですかね?
嘘じゃないんですか
ポーズじゃないんですか




純粋な学会員さんほど
「自分の責任で会員が増えない」とか
「自分の力不足で新聞啓蒙ができない」とか
そう思ってますよ
純粋な学会員さんほど
自分の責任と捉えてますよ
じゃあ、信濃町はどうなんですかね
自分たちに責任はないんですかね
活動家が減ってしまったことも
青年部が減ってしまったことも
新聞啓蒙が大変なことも
ただ「ご苦労様です」の一言だけで
片付けてしまうんですか?



自分たちに責任があったって
公式に言うべきです
それができないなら信濃町に未来はない
ただの職業僧侶、
広布基金に群がる宗教貴族に過ぎない
誰のお金で給料とボーナスもらって
ご飯食べてるのか
思いを致すべきです
そんなのみんな要りませんよ
みんなカットしてリストラして
幹部さんの信心で
新しい就職先を開拓してもらい
財務制度は廃止しましょう。




立正安国論日蓮が言われたのは
他宗に対して、その布施を止めるということ
じゃあ、財務なんてしなくていいでしょ












話を聞けない創価学会

自分と違う世界を見ようとしない。

自分と違う思想を聞かない
創価学会の方って多くはそうですよね
「そっか、そういう考え方もあるのか」って
そういう風にはならないんですよ



例えば日蓮のこの思想は
こういう風にも考えられますよとか
池田名誉会長の法華経の考え方なら
こうもとれますよねとか
そんなことを言おうとすると
多くの学会員は耳を塞ぎます
「今、大切なことは
今の池田先生の指導なんだ」とか
「だから選挙戦一緒に頑張ろう!」とか
「闘う心があって初めて御書なんだ」とか
違う問題にすり替えてしまうんですね




こういう風潮って困ったもんですね
学会員さんって
自分たちの考えるようには考えない人を
拒む、異端視する、邪教扱いする
「忘恩の徒」とか「反逆者」とか
レッテル貼りも好きですよね
もちろんそうでない学会員さんもいますが、
ほとんどは少数派で活動家ではない
学会幹部の多くは
自分たちの考える解釈でしか
教学を受け付けないし
全てを池田先生にすり替えてしまうんです




何を言っても効果がないと思えば
こちらもあまり本当のことは言いたくなくなる
そういうもんです




それで非活動家が増えているんです
活動家が減ってるんです
「ああ、この人たち、言っても無駄だ」って
学会員はそう思われてるんですよ。
それって決して創価学会の教勢拡大に
マイナスにはなってもプラスにはならない
でもそんなことさえわからないんだよね
学会員さんって。






私が本当に主張したいことって
日蓮本仏論の見直しではありません
御本尊問題でもありません
今の創価学会の組織の問題でさえもない
本当は別のこと、
新しい日蓮の思想の可能性を探りたいんです
多くの方が日蓮の思想には
もはや未来の可能性を見出していない
けどそれをやりたいんです、私は。




具体的には総勘文抄、当体義抄
立正観抄の再解釈から
新しい日蓮の像を提示したいんです
これ以上はここのブログでは書けませんが、
今その論文を少しずつ書いてます。
だけど一人でできるなんて思わないんです
いろんな人の意見を聴きつつ、
最も普遍性のある解釈を
提示してみたいんです



創価学会の将来のためにと書いてるんですが、
けれど異端視され、危険思想扱いされて
創価学会の皆さんに見向きもされず、
かえって罵倒され、悪口言われるだけなら
学会員さんに教える必要もないし
何もそんなここのブログで書く必要もないし
自分と真の仲間たちだけがわかっていれば
それでいいって話になります




つまりそういうことが
今の創価学会にはできない
議論の下地さえ形成できない
誰か一人くらい地域に話聞ける人が
いるんじゃないかなって思ったんですが
地元組織には誰もいない
創価学会員さんは話を聞きませんね。





別に日蓮本仏論の見直しなら
宮田さんとかいろんな人がやってるわけです
私は私のやりたいことがあって
今、そのための準備をしているんです。
本仏論について書いてるのは
教義の根幹ですから触れてるだけで、
本当の意図は別のところにあります







で、創価学会が早晩倒れるでしょうから
その時にでも私の持論を
提出すればいいのかしら
でも今の学会幹部で私の論を
まともに受け取る人って誰もいません



まあ時を待つしかないのかなと思います。
それにその「時」がやってこないのなら
所詮私のやったことなんて
大したことではなかったってことでしょうから




私のように考える人、
また私のように考えない人、
いろんな人がいて
いろんな解釈を提示できると思うんですが、
その多くの考えを受け入れることができない
地域組織の会員・幹部でさえも
新しい解釈を提示しただけで、
異端視されたり、拒否されたりする
そんな組織に未来なんてないと私は思います。



私の考えだけではなく
いろんなことを考えてる
非活動家の中にたくさん埋もれています
それを掘り起こすには
「聞く」ことが大事ですけど
今の学会員さんは「聞く」ことができない
経文の冒頭は常に
「如是我聞」で始まるのにね



その意味で
信濃町は多くの人材、多くの思想の鉱脈を
自ら失っていると思います。



















日蓮本仏論について




日蓮本仏論について。



1、はじめに


創価学会は基本、日蓮本仏論を採用してきた。この教義は日蓮正宗の教義であり、この教義の完成者は大石寺26世法主・堅樹院日寛である。


ところで、創価学会員にはにわかに信じがたい事実であるが、日蓮本仏論は日寛により天台宗の恵心流の口伝法門をほぼ盗用して作られた教義である。これは多くの研究者が指摘しているように、天台宗・俊範の流れを汲む仙波談林の口伝、天台本仏論をそのまま日蓮本仏論に置き換えただけもの。後述するように、そもそも日蓮、日興には日蓮を本仏とする思想は存在しない。


ではなぜ日寛がそのようなことを行なったのか。これは左京日教、また日寛以前の北山系法主の影響があると考えられる。
当時大石寺には体系づけられた教義らしい教義は存在しなかった。確かに日蓮本仏思想に近いものは大石寺9世日有のいくつかの文章に見られるが、体系化されたものではない。17世日精は両巻血脈抄において日興、日代、日尊、日順に相伝がなされたとしており、この頃にはすでに血脈抄は"偽作"されていた可能性が高いが、日精本人はまだ釈迦仏造立を認めており、やはり日蓮本仏論が明確だったとは考えにくい。
そこへ堅樹日寛が現れた。26世日寛は教義が明確でなかった大石寺を立て直した中興の祖とされる。体系化された教義が未だなかった大石寺に明確な日蓮本仏論、本門戒壇本尊論を確立させた彼は、強い信仰心からこれらの教義確立を行なったと考えられる。


だが例え日寛の教義の体系化が強い信仰心に基づくものだったとしても、日興の遺文中にも思想にもこの日蓮本仏論の思想は見られず、日目にもこれらに関する言及は見られない。
創価学会では「五老僧は日蓮大聖人が本仏であることを知らない」等と言うが、そもそも日蓮が本仏であるとする日興の遺文は存在しないのである。後述するが、日興本人でさえ日蓮を本仏と見なしてはいない。「久成の釈迦仏」と表現もしている。
日寛に先行して日蓮本仏論の萌芽が現れるのは、富士大石寺日有、それ以降は保田妙本寺日我等になる。しかしまだ体系化されたものではない。
日蓮本仏論をそのまま弘安2年の戒壇本尊と結びつける教義の完成は、まさに大石寺堅樹院日寛の出現を待たねばならない。まさに彼によって大石寺の教義は天台口伝を剽窃することで偽作され、それにより同寺のアイデンティティとして確立されることとなる。


創価学会日蓮正宗から独立し、別教団となった以上、このような創作の教義、根本の日蓮大聖人とは何も関係がない日蓮本仏論のような教義とは決別することが必要であると筆者は考える。



2、天台宗恵心流の口伝と日寛教学の形成


そもそも比叡山に入山される折、蓮祖聖人は俊範に師事している。
俊範は天台宗山門派の恵心流の流れを汲んでいた。


天台宗は当時、山門派と寺門派の争いの渦中にあり、そのような混迷の中、日蓮比叡山に入った。山門派もまた源信の恵心流と覚運の檀那流の二つの流れが存在し、その流れもまた様々に別れていた。
ここで簡単に言うと、恵心流は本覚思想で仏の境涯から一切衆生の仏性を見ようとし、檀那流は始覚法門であり、凡夫が修行の後に仏になれるという立場をとっていた。



創価学会の会員の方にわかりやすく言えば、檀那流が法華経の文上の立場に立っており、恵心流が法華経文底の立場に立っているという感じである。
そもそもこのような説明は日寛教学による恵心流の盗用なのであって、この説明が学会員にとって理解しやすいという事実は、日寛が恵心流をまさに盗用して自らの法門を体系化したその逆証明とも言い得る。
したがって創価学会の教学は、会員が信じると信じないに関わらず、日寛教学に影響されており、日寛教学抜きには創価学会の思想が成立しないほどのものである。


比叡山における日蓮の師匠、俊範法師は弟子の中に檀那流もいたことから、恵心流と檀那流の両方の流れを修めていた。俊範の立場としては念仏、禅、真言法華経に劣るという立場であり、ここから日蓮の思想形成はあと一歩といったところである。つまり日蓮は俊範法師のもとで、高度な天台教学を学びつつ、法華第一の自身の思想を確立していったということである。


堅樹院日寛は日蓮本仏を「久遠元初自受用報身如来」と表現する。しかしこの表現は蓮祖の遺文中にも日興や日有の文献にも見ることができない。

実はこの「久遠元初自受用報身如来」という表現のオリジナルはこの恵心流口伝法門の中に見られる。以下、早坂鳳城氏の日蓮本仏論の構造の研究に依拠して引用しつつ、論を進める。

すなわち俊範の『一帖抄』によれば


「自受用報身如来以顕本為正意也」


とあり、また『二帖抄』には


「以来報身自受用為顕本正意相伝也」


とある。すなわち「自受用報身如来」という表現はどこが由来かと言えば、それは天台恵心流口伝法門から来ているのである。


また「等海口伝抄」によれば


「当流住前習智一心三観故。本因妙有住習也。而約菩薩界論本因本果。約仏果論本因本果不同可習分也。」

「俊範御義云。釈尊本因行者。不軽菩薩也。此菩薩教導本来有善者方化他也。有界内穢土修行止観方自行也。是名本仏行因也。本因行時能化仏者。止観本尊也。実相也。一心三観也。阿弥陀也。無作三身也。能化本仏無作三身也。本果仏云成此仏也。無作三身者。別無名仏也。故経釈不出其名也。」


ここでは「本因行の時の能化の仏」はそのまま「止観の本尊」と同義であり、同時に「無作三身」であることが説かれている。この本因の仏は本果の仏と同じものであるとされている。
つまり「本化地涌の菩薩」である日蓮が「本因妙の教主」であり、そのまま「本仏」であるとする思想は、これらの口伝をもとにして創作されたものと容易に察することができる。


大石寺に伝わるとされる「御本尊七箇相承」では、唯授一人の口伝として七箇の相伝を強調するが、もとはと言えば「七箇の相承」という用語も天台口伝法門に用いられる言葉である。


早坂鳳城氏の研究によれば、恵心流・中古天台の口伝法門と大石寺教学とは用語の関連上、以下のような対応が見られる。


中古天台(恵心流)    →    大石寺教学(日寛)

止観勝法華    →    文底勝文上
寿量品の内証    →    寿量品の文底
自受用報身(天台)    →    自受用報身(日蓮
七箇の大事    →    七箇の大事
切紙相承    →    切紙相承
本因行の能化    →    本因妙の教主
嫡流一人秘すべし    →    唯授一人秘すべし
五百塵点最初    →    五百塵点当初


つまり中古天台口伝法門では、天台を本仏と捉え、釈迦は仮の仏と考える。同じように法華経は仮の教えであり、その内実は止観であると考える。まさにこれを置き換えると創価学会および日蓮正宗の現在の教義になるのである。この内実は実は日寛によって作られたものであり、天台口伝法門を用語で言い換えたものに過ぎないのである。



3、蓮祖、日興他の遺文から


日蓮の御書には日蓮本仏論はどのように説かれているか。古来、日蓮正宗創価学会は「開目抄」の「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」を主・師・親と読み、ここからこれを主師親の三徳を持つ本仏としての宣言としてきた。
だが、仮にこの「しうし父母」を「主師親」と読むのが正しいとしても、ここから主師親の三徳を持つものがそのまま釈迦を越えた本仏であるとする論理を日蓮が述べたことはないし、そのような解釈もまた論理の飛躍である。その証拠に「撰時抄」には次のようにある。


「此の事一定ならば闘諍堅固の時・日本国の王臣と並びに万民等が仏の御使として南無妙法蓮華経を流布せんとするを或は罵詈し或は悪口し或は流罪し或は打擲し弟子眷属等を種種の難にあわする人人いかでか安穏にては候べき(中略)されば日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」
日蓮「撰時抄」『日蓮大聖人御書全集』創価学会版、265ページ)


ここでは引用部の末文が「主師親の三徳」を持つ宣言となっているが、日蓮はここではあくまで「仏の使い」を自認している。この引用部からは自身が三徳を持つものとしながらも、久成の釈迦の御使として法華経を弘めているとの自覚を読み取ることができる。どう読んでも日蓮自身が釈迦を越えた本仏であるという文脈は出てこない。


また日興の遺文中ではどうか。


「今日蓮聖人は共に本化垂迹の師檀となって迹門を破して本門を立てて末法を利益し国土を治む可き之を図す。
本門の寺  付属の弟子  上行菩薩  日蓮聖人。」
(日興「三時弘教次第」堀日亨編『富士宗学要集』第1巻49ページ、創価学会


とあり、日興もまた日蓮を本仏として考えてはいない。
また「原殿御返事」には以下のような一文がある。これは身延を離れる時に身延の釈迦像造立について述べられた部分である。


「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を、御用途も候はずに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は、責めて故聖人安置の仏にて候はばさも候なん。それも其の仏は上行等の脇士も無く、始成の仏にて候いき。其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき。御力契い給わずんば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」
(日興「原殿御返事」『編年体日蓮大聖人御書』1732〜1733ページ、創価学会版)


日朗が日蓮滅後に一体仏の像を安置したのを見て、波木井の原氏もまた釈迦像を造立しようとした。日興はこれに対し、一体仏の造立は始成の釈迦仏ゆえに不可とし、四菩薩を伴った仏像の造立ができるまでは、日蓮御筆の紙幅の曼荼羅を以って仏像の代わりにしてもなんら問題はないと述べている。
つまりここでの日興の思想は仏像を否定するものではない。むしろそれが始成の仏でなく四菩薩の脇士を伴う久成仏であれば、それは曼荼羅の代わりとできるということである。
「報恩抄」における「本門の教主釈尊」とはまさにこのことを述べているのであり、それゆえ日蓮系教団では紙幅の曼荼羅とともに仏像の造立形式を認めているのである。



では日蓮正宗において、日蓮が自身を「自受用報身如来」の本仏として述べた御書として認められているものは何か。それこそまさに『本因妙抄』である。「本因妙抄」「百六箇抄」以外に明確にこの日蓮本仏論を述べた御書は存在しない。


まず「本因妙抄」は偽作説がほぼ確定している。この書は伝教大師最澄の「三大章疏七面相承弘決」を基にして書かれたものであり、内容はほぼ盗用と言ってよい。そしてこの伝教の弘決そのものさえも偽書の疑いが濃厚なものなのである。


前述したように大石寺17世・日精は両巻血脈抄をもって日興、日代、日尊、日順に相伝がなされたとしており、この頃にすでに血脈抄が創作され、存在していたと考えられる(日精によれば日蓮からの血脈相承はこの4名に為されており、すでにこの時点で唯授一人とは言えず、唯授一人という教義も後代の創作であろうと推察される)。
この「本因妙抄」には大石寺6世日時の古写本が存在する。しかしこれはその筆致から日時筆を疑問視されており、後世の作の疑いもある。


この写本を真蹟と仮定して、日時による"本因妙抄創作"説も存在する。というのも日時は仙波談林で台家を修学しており、仙波に伝わる恵心流口伝法門を学んでいたことは間違いない。そこからこの「本因妙抄」の創作が起こったとの仮説も成り立つことは多く指摘されている。



内容からも偽書の疑いは強い。
例えば本書では六老僧への言及があるが、六老僧の選定は弘安5年10月8日であり、弘安5年7月執筆の本抄に六老僧への言及があるのは時間軸として矛盾がある。



さて「本因妙抄」には以下のような記述が見られる。


「予が外用の師伝教大師生歳四十二歳の御時、仏立寺の大和尚に値ひ奉り、義道を落居し生死一大事の秘法を決し給ふ。曰く、大唐貞元二十一年太歳乙酉五月三日、三大章疏を伝へ各七面七重の口決を以って治定し給えり。」
(「本因妙抄」『日蓮大聖人御書全集』創価学会版、807ページ)


「大唐貞元二十一年」は西暦805年であるが、これは本文の改竄である。


実際の日時写本は「大唐貞元二十四年」となっており(堀日亨編『富士宗学要集』第1巻口絵参照)、また『三大章疏七面相承弘決』でも伝教は「大唐貞元二十四年」(西暦808年)に唐で相伝を受けたことになっている。


筆者は創価学会版御書で「貞元二十一年」とあるのが誤植ではないかと一瞬驚いたのだが、この「二十一年」の記述は『富士宗学要集』第1巻所収の「本因妙抄」本文でも同様「二十一年」となっている。つまり口絵の写真に見られる「二十四年」から日蓮正宗では「二十一年」に「本因妙抄」本文が改竄されているのである。


なぜこのような改竄が行われたのか。それは実際の史実と記述が異なってしまうからである。
日蓮の「報恩抄」には


延暦二十三年七月御入唐西明寺の道邃和尚仏滝寺の行満等に値い奉りて止観円頓の大戒を伝受し霊感寺の順暁和尚に値い奉りて真言相伝し同延暦二十四年六月に帰朝して」
(同304ページ)


延暦23〜24年は西暦804〜805年に相当する。
日蓮の「報恩抄」の記述によれば、伝教は西暦805年に日本に帰ってきていることになる。これは「伝教大師伝」の記述とも一致する。
そうであれば「808年に唐で相伝を受けた」とする「本因妙抄」の記述は矛盾になってしまうのである。そのため、富士門流ではこの記述をあえて改竄したと考えられる。
これが改竄である証拠は明快である。上述の日時の写本では「二十四年」と書いてあるのは事実であり、富士宗学要集第1巻の口絵写真からも明白に「廿四年」と読み取れる。
しかも、これがもし仮に「大唐貞元二十一年」であるとするなら伝教大師の年齢は「四十二歳」ではなく「三十九歳」でなければならず、干支も「乙酉」ではなく「壬午」でなければならないはずである。それがそのままになっており、「本因妙抄」の記述ですでに史実との矛盾が生じているのである。


以上のことから「本因妙抄」は偽書説が確定される。同時に日興の著作とされている「本因妙抄弘決」も後世の創作であり、偽書であることは明白である。
伝教の著作としては偽書である『三大章疏七面相承弘決』の記述をそのまま写して「本因妙抄」が創作されたのは誠に不名誉な日蓮正宗の歴史と言うほかない。



4、結語として、今後の創価学会の課題


このように、後世に創作された日蓮正宗の教義を果たして創価学会が今後も維持して良いのかという問題になる。つまり日蓮の法門でないものが広宣流布されたとして、それは本当の意味で広宣流布なのかということになってしまう。


では、日寛が富士門流の教義を創作したことは間違いであったのだろうか。
私個人の私見に過ぎないが、そこには悪意と言うより日寛本人の強い使命感があったものと考えている。
日寛はそもそも教学を持たなかった大石寺門流に初めて独自の教学を確立させることに成功した。そこには富士門流管長としての、また日興門流としての強い使命感があったのだろうと考えられる。


だが、それにしてはあまりにも文書の改竄が過ぎる。当然ながら日蓮本来の思想でないものを折伏によって弘めても、それが広宣流布とはならない。
最新の学問の成果、史学的な研究の成果を取り入れ、矛盾しないものへと、創価学会も改革を果たさなければいけない。そのためには個々人の教学を深めることにより、大きな教学の流れを生み出さなければなるまい。






追記1
ここではあまりに煩瑣に渡るため『百六箇抄』や『御義口伝』『産湯相承事』等の偽書説の問題に立ち入らなかったが、それについては別稿を期したい。ただ御義口伝といい、百六箇抄といい、最古の写本が他山流であることが堀日亨氏の富士宗学要集からわかっている。唯授一人の大石寺の血脈のはずが、保田妙本寺に伝わっていたり、最古の写本が八品派の写本でしかも蓮祖滅後数百年後のものであったりすれば、それでは文献の正当性を対外的に主張できないことを日蓮正宗創価学会も自覚すべきである。そのことが日蓮正宗、就中創価学会日蓮系教団から孤立させ、国内における宗教間対話を困難なものとしていることを自覚すべきであるとは筆者は考える。
なお天台口伝法門について述べる際、上記の論中では『一帖抄』については俊範の著作としているが、これは花野充道氏の論文「日蓮と四重興廃」(『印度学仏教学研究』第51巻第1号)に依拠している。花野氏の説によれば『二帖抄』は心賀談、尊海相伝となるが、ここではあえて断定を避けた。大方の御叱正、御批判を賜れば幸いである。


追記2
私の論は日蓮本仏論を否定し、日蓮正宗の教学とりわけ日寛教学から離れようというものだが、多くの異論があってよいと考えている。大切なことは学会員が各自で自身の教学を鍛え、多くの教学の人材を学会より出すことだと考えている。その意味では今の創価学会本部が教学運動を推進しているとは到底思えないし、現在の創価学会の教学力は崩壊しているとさえ思える。
ただ感情的な否定ではなく、きちんと文証を挙げ、学問的な研究の成果を否定しない反論であれば私は大いに歓迎したい。むしろこのような論を筆者がここで挙げたのは、創価学会会員、幹部たちのどうしようもない教学力の低下という事態を痛感していることにある。








参考文献
◯堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』創価学会
創価学会編『編年体日蓮大聖人御書』創価学会
◯堀日亨編『富士宗学要宗』全10巻、聖教新聞社
◯早坂鳳城「日蓮本仏論の構造と問題点(一)ー恵心流口伝法門との関係を視点としてー」『日蓮宗現代宗教研究所所報』日蓮宗現代宗教研究所
◯執行海秀『日蓮宗教学史』平楽寺書店
◯執行海秀「初期の興門教学に於ける本尊意識の展開」『清水龍山先生古希記念論文集』
◯執行海秀「中古天台教学より日蓮聖人教学への思想的展開」『大崎学報』100号
◯水谷進良「堅樹院日寛教学の一考察」『立正大学大学院年報』
◯花野充道氏「日蓮と四重興廃」『印度学仏教学研究』第51巻第1号









今後の公明党は



安保関連法案の問題は

学会本部が関連法案に反対する会員を
結局無視したり
場合によっては
役職を解任したりしました。
そういう制裁措置が複数あったわけで
学会組織のそういった矛盾点が
もはや隠しきれなくなってしまったってこと
それが象徴的に示されているのが
例の3人組の登場だと思います。



ただ件の3人組の問題点は
未だ池田名誉会長を信じて
「池田先生の心に帰れ」とか
そういうことを主張しているんですね。



そういう「池田先生信仰」が
現在の創価学会の問題を惹起していることに
彼らは気づけないんです。
あまりに内面に深く入り込んでしまっていて
客観化できなくなっている。
池田先生、池田先生って言う時点で
彼らはもう思考停止してしまっています



安保関連法案について
私は反対でも賛成でもありません。
今は立場を明確にしていません
恐らく日本政府は
アメリカの意志を無視できないはずですし
こと問題は沖縄の問題や
日本の領海の問題、また
東アジアの安全保障の問題とも
リンクしているでしょう
安易に反対とか賛成とか
言って解決する問題でもないかと思います。




ただ創価学会本部は
多様な価値観を組織が持つことについて
例えば公明党を支援できないとか
安保関連法案に反対とか
そういった会員に対して
何らかの発言の自由を与えないと
もはややっていけないでしょう。
組織が乱れるという名目で
会員を例えば除名したり
役職を解任したりしてきましたが、
それらがだんだん
抑えられなくなってきています




加えて創価学会内部には
沈黙して何も言わない非活動家が増えました
余計なことを言わず
組織を荒立てず
静かに創価学会から離れている
そういう人たちです
彼らは非常に冷静に創価学会を見ています。
少しずつ彼らは
なりつつあります




いくら家庭訪問を強化しても
そういった学会員の非活動家は
出てきません。
思想の自由や発言の自由が
地域組織で許されずに
彼らは閉塞感を組織に感じるからです




ですから
公明党の選挙支援は
もう今後やらないよというくらいの
思い切った措置をとらないと
そういった人たちは組織に返ってきません



自分たちの感じること、考えること
本音を話せない組織なんて
居ようと思わないじゃないですか
安保関連法案だって
どういう点で問題で
どういう点で賛成なのかとか
反対なのかとか
そういった疑問に答えてくれる
地域幹部もいないんです
幹部はみんな口を揃えたように
「今、公明党を支援することが
池田先生の呼吸に合った闘いなのです」
そんなことしか言わないんです


 なんで公明党を支援するのか
安保関連法案になぜ賛成したのか
それらの素朴な疑問にも答えないで
反対意見を言うと無視されたり
スルーされたり
場合によっては役職を解任されたり
除名されたりしたら
会員は沈黙しますよね
黙って組織から離れる方が得策です






公明党の問題点って何なのでしょう
良いこともたくさんして
法案も成立させてきました
でも公明党というだけで
結局信用されないところがある。





それは立党の原点から考えることが
必要かと思うんですね。


公明党は当時は創価学会の文化部として
地方選挙や参議院
学会の会員を立候補させて
政治の場に送るということが目的でした。


当初、創価学会
「総体革命」とか
王仏冥合」とか
唱えていました。
どういうことかというと
社会のあらゆる場に
創価の信仰を持った人がたくさん出れば
真の平和社会が実現される
そういう考え方です。



ここで勘違いしないでほしいのが
創価学会は政治の世界だけで
総体革命を考えていたわけではありません
創価学会が主であって
その下に例えば
公明党とか、
民音とか、
創価大学とか、
戸田記念国際平和研究所とか、
いろんな分野に進出し
もって総体革命として
平和社会を現出していく
そんなことを考えていたんです。



王仏冥合」の「王」という文字は
ですから政治だけのことではないんですね
創価学会では政治だけでなく
いろんな分野に創価の信仰を持った人材を
送るべきだと考えていました。
ただ創価学会の一部の会員が
王仏冥合」の「王」とは
公明党そのものだと勘違いしてしまった
そういった問題点もありました。
言葉的に会員からも外からも
そういう風に誤解されかねない
ですから
あの政教分離宣言があったわけですね




この頃の思考法から
現在に至るまで
創価学会のメンタリティは
実は変わってないんだと思います。



つまり
今でも創価学会本部や熱心な会員は
要するに創価の信仰を持った人が
社会に多く進出すれば
それこそが広宣流布であり
それによって
平和な社会が現出されると
今でもそう考えているんだと
私は思うんですね





社会が公明党に考えている不信感の
最大の原因は
その学会員の考え方が
基本的に昭和40年代から
全く変わっていない
そのことにあると思うんです。
信心をしている人が
たくさん国政に出れば
それだけで社会が変わると
ずっと創価学会は考えているんです。




その考え方、そろそろやめませんか?
なぜ公明党が必要なのか
そういったことを具体的に考えないと
いけない時代に入っていると思います。
本当に公明党が国会で多数派を握り
国民の大多数が創価学会の信徒になったら
本当に平和社会って実現するんですかね




私は違うと思います。
創価学会の思想で、
公明党という政党が必要であれば
それが何を目指して
具体的にどうすることが大事なのかと
考え直さないといけませんね。




たとえば日本共産党
綱領で最終目標にしている
国民連合政権とか
民族民主統一戦線とか
本当にそれは正しいのかと
考え直すこともできると思うんですね
綱領は変えないのか
それとも変えるのかと議論しても
いいとは思うんです





じゃあ、振り返って
公明党の哲学って何なのか
ただ創価学会の信徒を
たくさん政治の場に送れば
それだけでいいのかと



だからいつまでたっても
公明党創価学会と一体であると
(まあ実際一体なんですが・笑)
思われるし、
公明党創価学会のための政党だと
思われるし、
私たちも創価学会に入らされるんじゃないかと
思われてしまうわけです。




では公明党はどうするのかと
例えば牧口初代会長の
創価教育学体系を引っ張って
半日学校制度を作るとか
その思想の奥に何があるのか
どんな日本社会を構築するのか
どういう国にしたいのか




自由民主党の悲願は
自主憲法制定でしょう
今の自民党の主体は森派ですし
竹下派民進党等に
バラバラになってしまいましたから
ちなみに公明党は昔から
田中派と関係が深かったわけですよね
竹入さんの時代なんかそうですね
市川市と小沢氏の関係もそうでした
ずいぶん恩義があると思いますけどね
まあここではあまり書けませんが。



一つの方法として
現在の公明党の立場で
与党を形成するなら
もう自民党と合流しても
いいんじゃないかと思いますけどね(笑)
要するに旧竹下派の思想をついで
自民党内の唯一のハト派として
公明派、
あるいは山口会派を結成すると(笑)
自民党からの脅しも
ずいぶんなくなると思いますが、
その代わり
草川さんとか市川さんみたいな
老獪な議員が公明派内に必要になるでしょう
下手すると飼い慣らされて
終わりになりそうですから
まあ高木さんなんかが交渉役ではいいのかな
足元をすくわれないように
気をつけてほしいですが






それは極端な案として



本当は公明党には
衆議院から撤退してほしいです
小選挙区は大変という事情もあるけど



それ以上に
公明党は政治の監視役というのが
本来の原点なんじゃないかと思うんです。
「心して政治を監視せよ」というのが
戸田会長の言葉だったんじゃないかな



国会のチェック機能というのは
本来、参議院なんですよね
衆議院の暴走を止めて
本来の目的に立ち帰らせる
そういうものが参議院の存在意義でしょう
だからこそ参議院は「良識の府」と
されるわけですから。





ちょうど現在の公明党代表
タイミング的にも
ちょうどいいんじゃないかな(笑)
ここで衆議院から撤退しても






方法論を考えるだけでなく
実際に公明党は今後
日本社会をどうしたいのか
その明確なメッセージを
出さないといけないでしょうね。
そうでないと
いつまでたっても
創価学会の信徒が増えることが
平和社会の実現だと思われて
いつまでたっても
信用されません



ただ創価学会の信徒が増えても
平和社会なんて実現されませんって
昭和35年から半世紀以上経て
創価学会の信徒数は800万世帯を越えました
では平和社会が実現されたんでしょうか
社会はより素晴らしい社会になったのか
創価学会の力で?



その切実な反省の上で
創価学会公明党も再出発しないと
いけないでしょう。
それらの過去の総括、
その上での再出発、
そういったものが
今の創価学会にも公明党にも
重石のようにどっかりと
乗っかってしまっています



信徒が増えれば
それだけでよかったんですかね?
御本尊がたくさん授与されれば
それだけでよかったんですかね?
公明党の議員がたくさん当選すれば
それだけでよかったんですかね?
それが広宣流布なんですかね?


何か考え直す必要が
ありませんか?
私はそう思います。


























御書を読むことについて

初代から三代の会長を

永遠の指導者としました。


でも根本は日蓮ですよね?
まさか宗祖日蓮の遺文より
池田名誉会長の指導の方が
優先されるってことはないですよね?


ところが、今の創価学会員さんは
実質的に日蓮の御書よりも
池田名誉会長の指導を
優先しています
御書なんて持ち歩きません。



私、覚えてますけど、
昭和50年代後半くらいまで
学会員ってよく御書を読んでました。
私の父も母もよく読んでました。
会合には御書を持参するのが普通でした。




本当に今、学会の皆さん、
御書を読まれません。
御書なんて持って歩きません。
会合に御書を持ち歩かない方が普通です。
御書講義なんて大白蓮華を読んで
池田名誉会長の指導を引用して
それで終わりです。
御書の中にどういう思想があって
現代ではどのような意味を持つのか
語り合っていた、昔の創価学会
どこかにいってしまいました。



実質的に池田名誉会長の指導が
日蓮の遺文より優先されているなら
それは日蓮仏法ではないですよね。



そして日蓮の御書を読む際に
日寛教学が前提とされているなら
それは実質的に日蓮正宗の教義ですよね




要するに日蓮遺文を読んで
こう思うとか、どう思うとか
そういうのが今の創価学会にはない。
戸田会長の言う「剣豪の如き修行」がない



だから妙観講さんになんか言われても
何も言えないんです。
対論どころか対話にさえならない
法論とか対論というものに
私はあまり肯定的な意味を
見出さないのですが、
それどころか、普通の対話にさえならない
要するに学会員さんが日蓮を知らない
日蓮の御書を知らないし
日蓮がどういう思想なのかを
ほとんど考えてないんです。


こういう実情をまさか信濃町
知らないとか言うんでしょうかね
今こそ教学運動に
取り組むべきじゃないでしょうか
選挙支援とか財務の申し込みとか
そんなことをやってる場合じゃない


むしろ
御書を読んでないというよりも
創価学会の皆さんは
いろんな情報を
広く受け入れることがないんです
そういう情報を受け取らず
多くの方は免疫がない状態なんです。
せいぜい聖教新聞大白蓮華だけ読んで
あとは何もない。



日蓮本仏論の見直しを」とか
公明党はおかしい」とか言うと
全然わからなくてポカーンとするか、
過剰に反応して「敵は内部にあり」なんて
言い出して攻撃する
どちらかしかないんです
つまり客観的な目を養っていないので
スルーするか、拒否するかしかできない



で、創価学会の中にも
意識的に考える人たちも出てきて
いろんなことを言う人たちも出てきました。
でも、その人たちの思考回路も似ていて
結局自分たちと違う思想が出ると
スルーするか
過剰に反応して攻撃するか
どちらかしかないんです。



私は今の創価学会公明党支援は
見直すべきかと思いますが、
公明党が安保法制に賛成していることに
私は明確な反対の意思表示はしていません
例えばそんなことを言うと
アンチ公明党の人たちは
私を攻撃し出すかもしれない(笑)



自分と違う思想を受け入れられない
客観的な立場に立って
相手の土俵に立てないんです
無菌状態で育って来たので
違うものを受け取れない



池田先生が絶対と思っているから
昭和52年路線の池田会長の過ちを糺すと
過剰に反応して聞く耳すら持てないんです
池田先生は絶対ではありません
私は多くの過ちを犯してきたと考えています
少なくとも昭和52年路線は過ちであり
池田名誉会長の責任を明確にする
その必要性を感じています。




このブログを読んでいる人の中の多くも
私が池田先生の批判をし出すと
たぶん過剰に反応して
読むのをやめてしまうか
攻撃したくなる人が
たくさんいると思います。
でもそれって
無菌状態で育った
今の創価学会員の姿なんです
自分と違う思想を受け取れないんです
離れられないんです。
なぜか
自分の信仰が揺らいでしまうからです
御書を読んでいれば
信仰は揺らぎなんてしないのに




私は池田先生の仏法を
信奉しているのではありません。
日蓮仏法を信奉しているんですから




師匠が間違っていれば
師匠を糺す、諌めることも
弟子として必要なことです
多くの幹部は
池田名誉会長に進言もしています
原島嵩氏は実際に諌めもしました
結果的に池田会長は
原島氏を拒否してしまいましたが
強い進言は受け入れられないのでしょう





池田名誉会長の著作のほとんどが
ゴーストライターによる代作であったことも
きちんと公表して反省すべきだと思います
私たちはそれを信心で受け止めてきました
けどやっぱり
正しくなかったんじゃないでしょうか





『人間革命』は篠原善太郎氏に執筆して頂き
トインビー対談は最初の雑談だけ録音して
あとは代筆グループによる交換書簡
桐村さん、原島さん、上田さん、
そういった面々が代筆をされました。




激励の書籍の押印だって
第一庶務の会員奉仕局の方が
胸中で唱題しつつ代わりに押していて
池田名誉会長は印鑑さえ押していません






会合に届けられる
池田名誉会長のメッセージも
みんな第一庶務が書いたものです
池田先生は書いていません



本部幹部会のスピーチ原稿だって
ご自身で書かれてなくて
代筆で書かれたものを
本幹で読んでたわけです。
だから途中で時間がなくなった時に
「あとは聖教新聞に載せるから」とか
本幹で言われてたわけです
実際にご自身で書いていませんから
聖教新聞に原稿持ってった方が
話が早いわけです。



現在の『人間革命』も代筆ですが、
どうも複数の方による執筆のようなので
たまにストーリー展開が流れとして
おかしいところがあるんですね



幹部のT氏の発言によると
現在の池田名誉会長の健康状態は
きちんと意思表示はできるとのこと
その判断力は有しているそうです
執筆は実際難しいようですが、
意思表示ができるのであれば
実際の代筆とか
そのような実態をもうそろそろ公表して
過去を清算して
反省すべきは反省すべきです




それが未来の創価学会にとって大切で
どこまでが池田名誉会長の思想で
どこからが違うのかということを
明確にしないと
後世に過ちを残します
『御義口伝講義』なんて
原島嵩氏が書いたものじゃないですか。
どこまでが池田名誉会長の思想なのか
実際のところ、本当にわかんないんですよ



その実態をちゃんと反省の上で
公表すること
ところが、創価学会の皆さんは
そういうことを言うと
頑なに拒否することしかできないんです
耳塞いじゃうんですよ



「池田先生は正しい」
「池田先生は間違っていない」
「週刊誌の情報を信じてはいけない」
「ネットは嘘だらけだ」



そんなことばかりです。学会員さんって。
だから本当のことを
話せなくなっちゃうんです




そう信じたい方は信じるのも自由です
その自由を侵害する権利は私にはないです
だから私の言ってることが
全部嘘だと言って拒否しても
それでも構いませんが、





情報の無菌室みたいな
創価学会の庭で育つと
いろんな多様な情報でも
拒否することしかできない
本当に私も
今の創価学会を変革する難しさを
その辺りに感じています




多くの疑いを自身の信仰に持ちつつも
その疑いを一つ一つ検証して晴らしていく
その中で教学の研鑽があり、
その中で自身の信仰が深められていく
信仰とか教学とかって
そういうものです。
はなから拒否したりするものではありません。
それではただの盲信です。
無義曰信って言うじゃないですか
無義曰信は不義曰信とは違うんでしょ?




若い頃、創価班、牙城会の
広宣部、言論企画部で
顕正会妙観講と対論対策を
勉強していたことがあります
多くの対論もしました
多くの妙観講さんと対論をし
回答不能まで追い詰めてしまった
そんなことがたくさんありました




でも途中で気づいたんですよね
対論って何も生み出さないんです
破折して相手を木っ端微塵に粉砕しても
相手が傷つくだけで
そこに慈悲があったのかって
今は自分のしていたことを
強く反省しています




ただ
私は日蓮正宗の教義には
全く共感していません
御本尊の問題、本仏の問題
とりわけ日寛の教義の問題
全く共感しません




その理由とかをこのブログで
書いてもいいんですが
あまり詳しくは書けません。
教義の問題については
恐らく論文みたいになってしまって
たぶん学会員さん、読まないと思う(笑)
御書も読まないのに
論文なんて読みますかね
読まないですよね




ですから、私は言いたいことを
だいぶ抑えてここに書いています。
本当は持ってる資料も全部曝け出して
情報開示しちゃえばいいんですが、
学会員さん、たぶん読まないし
読んでも拒否しかできない





あの頃、妙観講さんと対論をしてた頃
自分は正しいことをしていると信じてました
確かにあの勉強会で多くを学んだことも
疑いのない事実です
でも本当は学んだことを活かして
対論ではなくて対話をすべきだった
今になってそう思います。
でもそれが当時はできなかった
それは、私もまた当時は創価学会であり
自分の信仰が揺らぐのが怖かったんです
対論で相手を言い負かして
自身の信仰が揺らがないように
維持しておきたかった
ただそれだけだったんです
なんて浅はかな信仰だったのかと
今になって反省しています。



今の創価学会
いろんな情報を遮断して
情報の無菌室のような状態にあります
だから創価学会員は
自分の先入観と違う情報があると
スルーするか拒否するかしかできません



創価学会の内部のメンバーでも
学会本部に対して
批判的な人たちもいます。
しかしその会員たちでさえ
自分たちの先入観と違う情報が来ると
強烈に拒否して攻撃する人がいます
創価学会の無菌室状態の裏返しにすぎません


真の改革とは破折ではありません
相手を言い負かして正義を証明するなんて
その発想自体がおかしいです
事実を見つめて、
一つ一つ疑いを晴らしていくことなんです
そして根本にすべきものこそ
日蓮の遺文であり、御書なんだと思います。
夫れ賢人は安きに居て危きを歎き
佞人は危きに居て安きを歎く」
とありますものね。












































例えば聞法下種とか

日蓮正宗第26世・日寛法主

創価学会の教学への影響って
大変なものがあります。
ほぼ日寛教学と言っていいです
日寛の教学で、
今の創価学会に残っているものを
思いつくままにあげてみると……





2、五重の相対
3、三重秘伝
4、受持即観心
5、聞法下種、発心下種
6、弘安2年の大御本尊
7、正行、助行(当流行事抄)
8、人法一箇(文底秘沈抄)
9、依義判文(依義判文抄)
10、本門戒壇
11、六大秘法



……他にも山ほどありますね。
そもそも相伝書と呼ばれる
「百六箇抄」とか「本因妙抄」とかを
自由自在に引用していたのも彼ですから
それ以外にも山ほど
日寛の影響があります






まずこれら全てを日蓮の遺文から
再構成する作業が
今後、崩壊する創価学会には必要です
いっぺん最後の最後まで
壊れてみないと
自分たちの前提を振り返ることさえ
できないんですよね






そもそも「聞法下種」とか
日寛の「観心本尊抄文段」に
出てくる言葉です。
本当にそれで正しいのか
ちゃんと私たちは御書、遺文から
検討した方が良さそうです。
だって「聞法下種」という言葉は
昭和40年代とかに
強引な折伏創価学会がしていた頃
ほぼ理論的な下地になっていた
教学じゃないですか。
要するに相手が
発心するかどうかは関係ない
とりあえずこちらの仏法の話を
聴かせればいいんだという
理屈になってきたわけです。



果たして日蓮遺文から見て
聞法下種という考え方は正しかったのかと
もう一度、創価学会員たちは
再検討が必要なのではないでしょうか。
今後も「聞法下種」の理論を基にして
相手が聞こうが聞くまいが
とりあえず説き聞かせる折伏
やってっても良いのかどうかということ。





こういうことの一つ一つの検証が
全くなされていないんです。
学会総体としても、
学会員個人でも
御書に照らしてどうなのかなんて
考えようとしないんです。
会員も学会幹部も
みーんな
池田先生がこう言っているから
正しいとか正しくないとか
そんなことばっかりなんです。




今の創価学会
自分たちの教義を
開祖の日蓮の遺文から
語ることができないという
致命的な思考停止状態です。
その状態をなんとかしないといけません。
本当にあんたがた、日蓮門下なのって
言われても何も言えませんって。






地区の婦人部も、地区部長も
昔の日寛教学しか知らないんです。
今の創価学会
例えば「聞法下種」という教理の
論拠と文証を質問しても
自分たちの力で
御書を読んだり、考えたりすることが
できなくなっていて
何も答えられないし
何も出てこないんです。



で、口に詰まると
「池田先生の指導では〜」
「池田先生はこう語られている」
とかしか言えなくなってるんです。




学会のみなさんはどう思いますか?
相手が聞こうが聞くまいが、
こちらの仏教の話を
説き聞かせることは
下種だからこそ
正しいと
今でもそう思いますか?
その論拠は何ですか?
ちゃんと自分の言葉で考えて
日蓮の遺文からの文証はどれですか?


















公明党への支援活動って功徳あるんですか?

いつから創価学会って

選挙の支援活動に功徳があるなんて
言い出したんでしょうか
御書にそんなこと書いてあるのかな
それをわかった上で
幹部とか会員さんとか言ってるのかな





なんでみんな考えないんだろうね
自分たちがやってることが
日蓮仏法の中で
どーゆー意味を持ってるのかとか
そーゆーことをなんで考えないのかね
考えないならただの盲信じゃないですか







創価学会って昭和50年前後まで
王仏冥合とか言ってたことを
反省したんでしょ?




個人的には選挙の支援活動は
別に誰であろうと自由だとは思いますが



少なくとも
政治活動と宗教活動とは
いちおう分離したんですよね。




公明党への投票支援の活動に
宗教的にも功徳があると
学会が組織で指導しているという事実は
その反省をなし崩し的に
やめにするってことじゃないですかね
しかも教学的な裏付けも何もなしに。





しかも創価学会本部、すなわち信濃町
この件については何も発言してない
ってことは
全て現場が勝手にやってるってことにして
何か問題が起こっても
信濃町は知らぬ存ぜぬで行くってこと?






もう何もかも
教学的な裏付けもなしでいくと
考えない
思考停止






本当は
公明党への支援活動って
宗教活動だとか
やると功徳があるだとか
幹部は本来言っちゃいけないんです
二つは別のものですから
中央の一部幹部はそのことは
なんとなくわかってて
幹部指導でよく聞くと
「政治活動に功徳がある」とか
そういう表現は微妙に避けてる
幹部もいることはいる




でもさ
現場では
「選挙の戦いをして福運をつけよう」とか
公明党への投票が広宣流布だ」とか
信仰と選挙活動を結びつけるような
そんな幹部指導が
地元組織では普通になってる
その現状について
信濃町が何も言わないということは
現状の容認に等しい
そのことを信濃町の皆様は
わかってるんですかね。





もうどーでもいいんですかね。
創価学会は宗教団体でなくてもいいのかな
王仏冥合という言葉を再解釈する
必要性も私は感じてるけど
少なくとも無反省に
選挙活動が信仰活動の一環だなんて
考えちゃいけないし
それに近い発言は慎むべきでしょう




それが今、やりたい放題、勝手放題
思考停止で、好き放題やってる
日蓮仏法の裏付けなんて
誰も考えようとしてない
誰も責任を取ろうとしてないのかね
地域の幹部も
中央の幹部も